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彦島八幡宮

mac_011-2.jpg (56702 バイト)

 下の写真は毎年行われる「サイ上がり神事」です。これは彦島の開祖河野通次が海中から御神体(鏡)を引き上げた故事に由来するものです。1157年(保元2年)漁に出ていた通次が海中に沈んだ鏡を引き上げたところ「八幡尊像」と刻まれており、このとき「我らの守り本尊、さあ上がらせ給う」と喜んだことから、「さあ上がらせ」→「サイ上がり」と呼ばれる神事となりました。

サイ上がり神事
写真は彦島ふるさとまちづくりを考える協議会発行「彦島夢ある街づくり」より引用

 平治元年(1159)10月15日。彦島を開拓した最初の人たちのうちの一人、河野通次の指示で島に住んでいたある男が、海中から明鏡を引き上げた。その明鏡の裏面には八幡尊像が彫られていた。河野通次は近くの小島にお堂を作ってこの明鏡をまつり、「光格殿」と名付けた。これが彦島八幡宮の起こりと言われており、現在の地に移されたのはそれから200年近くのちの正和2年のことといわれる。

2000年10月23日付読売新聞下関版より

サァ上がった!!
 下関市の無形民俗文化財に指定されている「サイ上がり神事」が22日、同市彦島迫町の彦島八幡宮で行われた。多くの地元住民が見守る中、「サア上がった」の声が響き渡った。
 保元の乱(1156)に敗れ、彦島にたどり着いた河野通次(こうのみちつぐ)が海で同宮ご神体の鏡を広い、「光格殿」を造って、祭ったことに由来する。「サイ上がり」は鏡を見つけたとき、通次が「さあ上がらせ給う」と発した言葉がなまったとされる。
 太鼓や御輿などをかついで約100人が約1キロ離れた岸壁まで行列。神職が海水で心身を清め、再び同宮へもどって本番に入った。
 榊を建てた盛り土のまわりをトビウオ役の子供が三回飛び跳ねたあと、通次役を約40年間している鎧甲姿の和田晃さん(76)が身体に見立てた榊を弓で差し上げ「サア上がった」と発した。

2000.10.22


宮野原遺跡

 彦島に人間が住み始めたのはいつからかという点について現在遺跡から証明されているのは縄文時代前期前半(紀元前7000年〜紀元前6000年頃)といわれています。その遺跡はここ彦島八幡宮のある丘陵一帯(老の山山麓から現在の西山海水浴場付近も含め、中心部は彦島八幡宮付近)に存在し、この付近の地名から宮野原遺跡と呼ばれています。

 宮野原遺跡は昭和34年に山口大学の小野博士によって発掘が開始されました。宮野原遺跡についての詳細は本サイトの「ふるさと彦島の歴史を学ぶ集い」において下関教育委員会大濱氏が解説しておられますので是非ご参照ください。

 富田義弘氏の著書「彦島あれこれ」にも宮野原遺跡についての記述があります。すなわち、宮野原遺跡の特徴は、当時この住居地では何度か地盤沈下が繰り返され、そのたびに新しい文化が、礫層、海成砂層、風成層、地表などの上に根付いたことで、小野博士はこれを大きく二分し、「宮野原下層式土器」と「上層式土器」とそれぞれ命名しました。大濱氏の解説にもあるように、縄文早期の末頃は礫浜であったものが、前期の前半には砂が堆積して老の山の西麓には九州の曽畑式土器を携えた民族が住み着きました。その後海水準上昇により住居は水没しましたが、やがて再度海退して以前よりも大きな砂地ができあがり、中期後半の人々が住み着き、狩りや漁業を営みました。

 ところがまた、後期前半の頃、再び海面が上昇し住居は水没しました。このようなことが数回繰り返されて現在の迫、西山地区が形成されたのですが、この付近で姫島産の黒曜石(ガラス質の火山岩。黒色または暗灰色、時に赤褐色。割れ目は貝殻状を示す。流紋岩質や安山岩質のマグマが冷えて固まったもの。先史時代には石器に使用された。近年は焼いて粉末にし、断熱材に利用する。)による石器の破片が135点も発見され、さらに、伊万里産と推定される破片も若干ながら出土している点が特筆されます。


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