■■■■牛肉 神戸牛は彦島牛が由来!?

 彦島を含めた関門地域は古代朝鮮の時代以来対朝貿易が発展していましたが徳川幕府の鎖国政策の一環として対馬の国守宗氏以外の韓国との通商が禁止され関門の朝鮮ぼえキハいったん姿を消しました。その後、明治16年、下関は特定貿易港として朝鮮貿易に限って日本人所有の船舶の貨物の積み卸しが許可され、翌年2月から実施されました。その後、明治38年には下関−釜山間に鉄道連絡船が開航し、現在まで続く下関と韓国との密なつながりとなっています。

 明治43年には日韓併合条約が成立しましたが、経済上の急激な変化を避けるために併合後10年間は勅令により外国貿易のまま取り扱われることになり、韓国との窓口となる港が開港に限られたため、韓国が内地となった後も下関港は繁栄を続け、日本の港の中でも飛び抜けた盛況ぶりでした。

 それら韓国からの輸入品の8割以上は関釜連絡船によるものでしたが、一部帆船によって運ばれている物もありました。それが生きた牛です。牛は帆船で彦島の福浦港に陸揚げされ、陸揚げ後数日彦島で飼育された後全国各地へ輸送されました。有名な神戸牛は国内的には彦島牛であり、その原産地は朝鮮であるという説があります。

 牛肉を食用とするといえば、文明開化・横浜、というイメージがありますが、実は日本における食肉文化の発祥の地が彦島及び、下関地域である可能性があります。

 時代は攘夷戦時代にさかのぼりますが、以下は大正時代の書籍「海峡大観」から引用します。

「攘夷戦の副産物として文化的な面で記念すべき物がある。奇兵隊は維新史に絶対に取り上げられるべき物である。文久3年(1863年)8月、高杉晋作が攘夷の遂行に耐えうる優れた兵を訓練する目的で編成したのである。その精兵は身分にかかわらず、身体が丈夫な兵を募集したもので、藩の氏族兵を正式な兵と見なし、奇兵と命名した。すなわち、奇兵隊は階級は問題にせず、国民的な兵隊を組織したもので、事実において徴兵の先駆者、つまり新分野を切り開いた兵と言わなければならない。この奇兵隊に関連して牛肉を食用としたことである。明治初年、牛肉はいわゆる文明開化、文明の夜明けの象徴の一つといわれたものである。海峡では攘夷戦が引き続いて行われたため、壇ノ浦の漁師は安心して出漁することができず、しばしば食料が欠乏したため、奇兵隊がこれまでの習慣を破って牛肉を食用にする方法を考え出したのである。当時、それを知って牛肉を供給したのは現在の下関市の吉岡義兵衛氏であり、牛肉が案外兵士の口にあったため、攘夷後も続けて牛肉を販売し、この地方の牛肉食用の風習を宣伝したのである。というわけで、牛肉食用の風習が維新前に始まったのは海峡が初めてである。」


  

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