■■■■ふるさと彦島の歴史を学ぶ集い

ふるさと彦島の歴史を学ぶ集い

講師:下関市教育委員会 大濱博之氏
1997年8月27日 於塩浜町民館 主催:彦島第五自治連合会


 彦島第五自治連合会の主催で去る8月27日、表題の講演会が開催されました。このような企画ははじめてということで、今後は定例化したいという考えのもと、第一回目の今回は彦島の古代から近世までを概説する講演内容となっていました。
 会場はサンデン交通彦島営業所前の塩浜町民館で、私は開演の5分前に入場したのですが、地元のお年寄りを中心に大勢の方が集まっておられました。若い方の参加がほとんど見られなかったのが残念でした。
 講師の大濱氏は下関市教育委員会文化課所属で文化財専門に研究されており、中世から近世の遺跡の発掘作業に携わっておられます。市内各地で開催されている郷土史の講演会の講師として非常な人気で、お話はジョークを交え、そして、話が一方通行にならないよう、参加者も講師と一緒になって彦島の歴史について考えることができるような気を配ったものでした。また、台湾・フィリピン・ベトナム各地で下関にまつわる歴史、冠婚葬祭を調べておられるとのことで、フィールドがお好きな方らしく真っ黒に日焼けしたお顔が印象的でした。
 今回の講演の内容について、このサイトで紹介することをご快諾いただけましたので、講演内容のほぼ全文に私の撮影した各地の写真を交えて紹介させていただきます。

 タイトル画は明治17年に明治政府が作成した彦島の地図です。


彦島の地名について

 伝説といえば、3年くらい前になりますが、本村(ほんむら)小学校の6年生の授業で「彦島の民話何か知ってる?」て言ったら半分くらい手を挙げました。何の民話だと思いますか? 彦島の民話で有名なの、みなさん何があると思います? 「クジラの願い」というのをご存じの方いらっしゃいますか?これ、子供たちが良く知っていました。


 彦島の漁村に伝わっている、漁師の方の中で伝わっている話なんですが、ある漁師の夢枕にクジラの夫婦が現れまして、「明日、病気の子供を連れて関門海峡を通るから、響灘から瀬戸内海の方へ通るから撃たないでください」とお願いをして消えたわけです。福浦(ふくうら)の方に俯瞰台(ふかんだい)という地名がありますが、大山(おおやま:右写真:参考)、福浦湾の入り口のところに高い山があります。 そこが見張り台となっております。そこにいた見張り番が「おいクジラが来たぞ」ということで、その声で目を覚ましたその漁師が子供のクジラに一番銛を撃ってしまったんです。で、彼は意気揚々として帰るわけです。クジラ漁で一番銛を撃った漁師はクジラの一番良い肉をもらって帰れるわけです。で、意気揚々と持って帰ったら家の前がなんだか騒がしい。家に入ってみますと自分の子供が大熱を出して苦しみもがいて死んだんだそうです。よく考えたら自分が子クジラを撃った時間と自分の子供が死んだ時間がちゃんと符合するわけです。そういうことからこの彦島の漁師の方たちは夫婦、あるいは子連れのクジラを捕らなくなった、というお話なんです。

 これが大変おもしろいのが、同じような話が長府(ちょうふ)の漁村にも残っていると言うことなんです。この意味するところは、響灘から瀬戸内海に入るクジラは捕ってはいけないということが民話として残っていると言うことなんです。これがどういう風にして彦島と長府がつながるかというと、浜浦台のバス停の下にヤスモリという焼き肉屋さんがあります。ここがおもしろいことに鯨場(くじらば)という名前がでます。調べますとここが長府藩のクジラの解体場所なんです。ということで鯨場という小字が付いているんです。ですから彦島にもくじら、今の「鯨」という漢字を空想しないでください。ひらがなから、あるいはヒアリングから「くじら」というのに近い地名が何かないかということを教えていただきたいんです。

 ですから、関連で言いますと、ここに、塩浜町民館のすぐ向こうに今サンデンがありますね、鉄工所があります。これをリンゴ山という風に聞いております(右写真はかつてリンゴ山があった場所の現在の様子)。で、このリンゴ山というのがいつ頃から言われているのかっていうのが疑問なんです。これが江戸時代の地名でもリンゴ山というのだったらこれは大変な日本の学術上の発見なんです。なぜかわかりますか?リンゴというのいつ頃伝わってきたか、ということなんです。これは明治なんです。明治のはじめに伝わってきているんですよね。ですから江戸時代からリンゴ山と呼ぶわけがないんです。ここにですね、ポルトガルじゃダメですね、北欧の国から船が入ってリンゴをそこに置いたら別ですけどそれはちょっと考えられません。ということで「リンゴ」という発音に近いものを私は探しているんです。

 たいへんおもしろいのがあります。福浦湾というのはみなさんご存じのように江戸時代は北前船で大変にぎわったところですよね。そうしますと、各国の船から荷物をここで一度下ろす必要があるわけです。ということで船倉があったはずなんです。そういう倉庫的なものがあったはずなんです。その中でこの北前船でたいへん有名なのが備後方面の船なんですよね。そうしますと、備後の船倉があったところからいつの間にか備後山となり、そのうちに、みなさんの頭の中にはおいしいリンゴのことしかなくリンゴ山と発音が変わったのではないかなという風にも考えられます。ですから、今、備後地方、岡山方面に昔の北前船で活躍していたと資料が残っています。その中で彦島、福浦、備後の倉庫はどこにあったかと調べています。その中で出てくれば大変おもしろいですよね。ですからリンゴ山、ですから、お年寄りの方であそこに本当にリンゴの木があったということを聞いたことがありますか、ないと思いますよ。そういう点でヒアリング上、ですから今はみなさんリンゴ、カタカナでリンゴしか頭にないですが、それに近い発音というのを私たちは追いかけているんです。そういうことでこの地名が出て来るんです。


古代生活の痕跡、遺跡について

 古代生活の痕跡、遺跡についてですが、これもやはり地名と関連があるんです。私たちはすべて字は、たとえばここは塩浜といいます。簡単にどういうことでこの塩浜という地名が付いたのか、それともこの塩という字が今はなめる、食べる塩になっておりますけれど、元々この塩を使ったのかなという風に考えます。

 もう1つその中で古代の生活遺構、遺跡ですけれど縄文時代、最初に縄文時代といいますけど、実を言いますとその前にですね、この彦島は大変有名なものが一つあります。この彦島ができた頃の地形的な大変な特徴が日本にはひとつしかないものがあるんです。この彦島周辺はですね、大変化石層が多いですよね。日本の中でこれだけ表面に化石層が見られるところはほかにないわけなんです。ということで、ここが、今、西山(にしやま)地区だけです。西山地区の一部ですけれど、西山地区の化石層が指定文化財になっています。これはほとんど極端に言えば西山の関門海峡側から六連(むつれ)側にかけて全部指定してもいいくらいなんですが、そうしますといろいろと差し障りがあるかもしれませんから指定はしないんですけれど、この中で大変おもしろいのがですね、西山でも関門海峡側の化石と六連島側の化石とでは全く違うんです。今は同じ海に面していますから、同じものだと思うでしょうけれど、これが違っているんです。関門海峡側の方はですね門司側の方はすべて海の生物、で、今度は六連島とか安岡(やすおか)側が見える方ですね、全部層によって違うわけです。ところによっては淡水系の植物も出てきます。その上に海洋性のものが出てきます。交互に出てきたり、時には淡水系と海水系のものがごっちゃになったり、ごっちゃになったというのは何かといいますとみなさん食べてますよね、カキです、シジミです、そういうものがたくさん層を成して出てきます。

 ですから関門海峡側は全部海洋性、で、六連島側の方には淡水系のものが出る、その端的な例が、ちょうど対岸になりますけど、吉母(よしも)浜が見えますよね、吉母の海岸の岩石層からですね、ここは恐竜の化石が出て来るんです。恐竜というのはですね、海にはいないです。しかもその恐竜の化石が草食恐竜の跡を今度は肉食性の動物が追いかけています。そういう足跡がちゃんと出てきています。なぜかと言いますと、草食性の足跡の上に肉食性の足跡がちょっと被さって付いているので肉食性の恐竜はあとから来たと言うことがわかりますね。そういう足跡が出てきます。六連側は淡水、大きな日本海が淡水だと考えてください。それがいつの間にか大きな陸地の変動、陸地の変動と言うことは六連島が浮かび上がった頃大きな断層ができて関門海峡ができたと言うことです。で、瀬戸内海側から海水が入ったと言うことが西山、小倉門司側の断層からちゃんと海水が流れた跡が残っています。ですから、大変おもしろいのは西山地区でも関門海峡側と日本海側では全く化石層が違う表面に見られる。これは日本にそこしかないということなんです。

 こんどは先ほどの話、縄文時代。縄文時代はなぜか遺跡がないんです。ただ一つだけ今のところ発見されているのは宮野原(みやのはら)遺跡といいます。宮野原ってどこかみなさんご存じですか?彦島八幡宮のところですね。このへんの少し高い台地状のところから若干の縄文時代の遺跡が出ております。

 ただ、これもおもしろいです。今、彦島八幡宮の前に広場がありますね。この辺が少し今よそから土を盛ってきてならしておりますが、3センチ掘りますともう砂とかれき層小さな石が出てくるわけです。それから約50センチ掘りますと、もう縄文時代がぽんと出ちゃうんです。それからその下を掘りますとですね、またその下は完全に海水に隠れた時代が出てきます。ですからこれを海成層と言いますね。海が作った層ですね。それから約2メートル下がりますと、また縄文時代が出てくるわけです。そういう風にここでは縄文時代が上層と下層の2つに分かれるわけです。

 特に下層から出てくる土器類はですね、これはほとんど今で言う長崎方面、あるいは遠くこの瀬戸内方面での今で言う広島方面の土器が出てくるわけです。今度はその上の上層の縄文時代のものを見ますと今度は北九州方面の土器がたくさん出てきます。あるいは山陰、吉母、土井ヶ浜(どいがはま)につながるものが出てくるわけです。こういう風にして同じ縄文時代でも大きく差があるということはその間に一度完全に海水に潜っているわけです。発掘のデータで見ますと、一番海水が高い時代が今よりも約4メートル海水をあげた地形になるわけです。そうしますと彦島の地形は大きくかわっちゃうんです。ですからここで言えば三井東圧あたりが全く大きな入り江になってしまいます。ここは埋め立てですから当然なくなってしまう。それから今で言う荒田、荒田方面も大きく埋め立てられていますので大きく中に入ります。福浦湾は特に奥に入ってしまいます。それから江ノ浦方面も大きく削れてしまいます。

 こういう風な一番高い時代が平均約4メートル、平均で4メートルです。ですから吉母方面の発掘の例で言いますと一番高いところは海水が約5メートルまであがっています。5メートルあがれば今の吉母の水田地帯は全くなくなってしまいます。こういう地形だということを頭においておいてください。で、縄文時代の遺跡はこの砂浜地帯にしか出てきていないんです。あと、この山方面、我々は宅地開発がありますと必ず発掘をしなければならないんです。で、発掘をした地点で何も出てこないことが多いんです。江戸時代からは出てきます。江戸時代からはこのあたりも遺跡が出て来るんです。縄文時代の典型的に言いますと定住遺跡ではないということです。発掘品の土器などを見ましてこれは定住しているかどうかはわかりませんけれど、必ず今で言うゴミ捨て場があるんです。このゴミが捨てられたところを探してそのゴミを1つ1つチェックしますとこれは1年間中住んだ遺跡ではないということがわかるんです。魚とかそういう骨とかをチェックしますと、冬場はここには誰も住んでいないということがわかります。

 そうしますと今度は弥生時代に変わっていきますが、弥生時代、これが全然ここらからは出てきていません。彦島全域から弥生時代のものは出てきません。これ、どういうことだと思います?1つは生活形態、縄文時代と弥生時代の生活形態がまるっきり変わってくる、ということです。どういう風に変わったかと言いますと、簡単に言えば弥生時代は何か食べ物が伝わってきていますよね、南の方から伝わってきていますよね。お米ですよね。お米が伝わってきているんです。お米にはどういうところが地形的に必要ですか?まず水田ですよね。水田って今で言うかっこいい水田ではないですよね。湿地帯です。湿地帯になるにはどういう地形が必要か、まず水が出なければ行けませんよね、それから平坦地でないといけない。逆に海水が入ってきては困るわけです。そういうぎりぎりの地形を探すにはここでどこですか?彦島にはないわけですよね。

 今、彦島には下関市役所で管轄している川は5本あります。みなさん全部いえますか?ここに一つありますよね、塩田川(しおたがわ)今度は福浦のこの奥に1本ありますよね、塩谷川(しおやがわ)、塩谷川は途中で福浦川と別れているんですけれども、塩谷川はまっすぐ入っているんですけれど、福浦川はここから少しこちら(なかにし注:杉田2丁目方面)に入っているんですね。それから、江ノ浦の方になりますが、江向川(えむかいがわ)。それから、この彦島八幡宮のここに昔は大きく湾が入っていますけれど、今はここまで川がずっと流れています。この谷あいに川が流れています。迫川(さこがわ)。もうひとつ、今はここにありますが、南風泊の方に川が1本あります。波高川(はたかがわ)。

福浦川

迫川

波高川

塩田川

塩谷川

 このくらいの川では地形的に水田がないわけなんです。水田が行われるとすればこの付近になるわけです。この塩谷川付近になるはずなんですが、ここはすごく海水があがって来ちゃうんです。米というのは海水が来るとすぐだめになりますので、これは使えない。そういう風にして生活形態が縄文時代は狩猟時代ですから、海に近いところあるいは山の幸がとれるところに移動しますね、ですから当然春夏秋冬にあわせて移動します。弥生時代は今度は稲作文化が伝わってきましたから、時間がかかります、ということは定住遺跡が必要となります。この定住するには彦島は当時は全く向かないと言うことです。水がない、水田地帯、湿地帯がない、大きな山がない。今はこのあたりはタヌキがいると思いますけど、たぬきばかり捕っていてもおいしくないと思いますし、兎がいい、鹿がいい、そういうところでないと生活ができなかったはずです。ということで弥生時代は全く生活形態が変わったから遺跡が出ないのだと思われています。

 それから古墳時代と行きます。まこれ古墳がないんです。ただ、古墳ではないかといわれているところが一つあります。みなさん行かれたことがあると思います。杉田(すぎた)のバス停の上にありますね。大変石におもしろい文様が書いてあります。これも今下関市の文化財に指定しましたけれど、実を言いますとあれは指定したくなかったんです。でも、保存上文化財に指定して保存しなければならないと言う法律があるんです。そういうわけで保存処置としてしてしたんですが、古墳として出すと問題があるわけです。というのは何も古墳の形態が出てこない。その周辺、文様の書いた石を見られた方はいらっしゃると思いますけれど、その周辺を発掘しても何も出てこないんです。古墳時代のものは出てこないんですね。

 大変おもしろいのはその文様が、あるグループは北九州に多い古墳に見られる抽象画ではないかといわれる方もいらっしゃいます。もう一つおもしろいグループはこれ、シュメールの絵文字ではないか、というんですね。シュメールというのは今で言うイラン・イラク方面ですが、ただ私たちはシュメールが、シュメールの文字がなぜ彦島に来たのか、ということは疑問なんです。当然ちょっと難しい。証明はできないです。というのはシュメール、イラン・イラク方面からインド方面を通って今で言うフィリピン、台湾、沖縄、この近海を通って九州南部あるいはその周辺を通ってこちらの方にシュメール文字が展開しておれば証明はできます。でも、何も途中になくてひょこっとイラン・イラク方面からここだけ伝わっているというのはちょっと考えにくいわけです。そういうわけでシュメール文字もちょっと違うんではないかと思います。

 ただ一つ我々が思うのはあの文字の形態、それから石が1つしかない、ということから祭祀遺跡ではないかと思っています。わかりますか、祭祀遺跡。お祭りをする場所であります。何かそういう変わった宗教的なものがあったと思います。そうしますと、祭祀遺跡とみますと証明できるものが近辺にたくさんあります。琉球列島、薩摩列島、あるいはここで言うと山陽方面、角島(つのしま)方面にも同じようなものがあります。そういう風な祭礼的な場所、儀式として使う場所であれば大変おもしろいですね。そういうことを小学校の授業で言いますと、じゃ、石の上で生けにえになったん?といわれましたけれど、そういうものもあったかもしれません。それは石の上をいろんな調査をしてそういうものが出てくればおもしろいですけれど、こういう祭礼的な遺跡としてみれば彦島は大変おもしろい、地形的な場所があると思います。ということで古墳時代のものも一切出てきていないということになります。


有史・古文書に見られるようになった頃の彦島史

 そうしますとこの彦島がいつ頃からいったい見られはじめたのかということで、有史・古文書に見られるようになった頃の彦島史ということなんですが、これがまた大変なことで彦島には何も残っていないんですね。長府藩の記録にもほとんど出ておりません。大内時代の古文書にもほとんど見られません。その中で彦島では必ずこれを話さなければならないんですが、源平合戦の時に平家に付いた落人が住み着いて、12苗祖(びょうそ)とかよく言われますね、そういう方たちが住むようになったと言っておられます。確かに源平の合戦に関わりのあった人がいるのは当然だと思います。その中でよく言う河野水軍、彦島八幡の歴史でよく出てきますけれど、これについて少しふれてみたいと思います。

 これも資料がないので何ともいえないのですが、たとえば彦島八幡宮で今、市の指定文化財になっていますが、お祭りが1つありますね。「さああがらせたまえ」とう「サイ上がり神事」といいますね、このお祭り自体がまたあとからはなしますけれど、このお祭りには極端に言いますと伊予の国から来ました河野通次(こうのみちつぐ)という人が今の彦島八幡宮の地で海中から光るものが見つかり、やりで突き上げたら鏡があがったと言われています。その鏡の後ろに河野八幡と書かれていたからそれを祀ったと言われていますね。その突き上げた歓喜の祭りが今で言うサイ上がり神事だといわれています。

 それを納めたときに踊ったと言うことから舞子島、古い地図で見ると、ちゃんと舞子島というのがあるんですよね。この地図は明治17年に日本政府がはじめて作った日本地図です。時の陸軍省が明治政府の命令で作成した地図です。大変ユニークな地図です。先ほど漢字でもヒアリングで考えますよと言いましたね、ここに竹の子島がありますが、ここに書かれている漢字は食べる筍が書かれていますよね、こういう風にして全部違っているわけなんです。ですから書く方が当時、ヒヤリングで書いた漢字がこういう風になっているんですね。ですから、なかなか難しいですが、この中で先ほど言いました舞子島がちゃんと書いてあります。今は三井東圧の中に完全に埋め立てられてなっています。ここに先ほどの河野通次(こうのみちつぐ)が逃げてきたと言われております。

 ただ、この中で私たちが不思議なのは源平合戦と言うことですけど、河野八幡、彦島八幡の歴史からいくと今度はまた違ってくるわけです。そういう点を突き詰めるのは資料がないの難しいのですが、伝説によって時代判定をするとみんなごっちゃになるんです。たとえば、河野通次、その河野に関する人たちがこちらに逃げてきたのはまだまだ源平合戦以前の話になるわけです。たとえば保元の乱ってあります。1156年にですね、後白河天皇と崇徳上皇讃岐院の2つがけんかするわけですが、この保元の乱には後白河天皇側に付いたのは源義朝ですよね、ですから、源義朝と平清盛が、味方同士で崇徳上皇側にもやはり源氏と平家が付いている。源氏と平家が仲違いして大きな戦争になってしまうんです。

 そのときに平清盛側が勝って負けた側に付いた人たちが大量に西の国に逃げる訳なんです。そのときに逃げてきた中に河野一族もいる訳なんです。ただ、河野通次といいましても、河野家の系図からはどの系図を見ても出てこないんです、。ですから本当にこの男がいたかどうかも疑問になってくると思うんです。ただ、名前が違うかもしれないんです。と言うのはですね、河野家に伝わっている家紋を見ますと、四角菱でなかが「三」がこういう風に波打っています。「四角菱形縮三(しかくひしがたちぢみさん)」という風な言い方をするそうです。この家紋を今の河野家は使っているそうです。しかし享保年間のサイ上がり神事の絵図面を見ますと、やはり河野一族はこれを使っています、。これを使っている河野一族が本家にいるわけです。これは河野水軍の来島(くるしま)、愛媛県に来島がありますが、来島を押さえる河野一族がこれを使うわけです。

 ですから、江戸時代の中頃にもこの家紋を付ける、それ以前にもそういう言い伝えがあるということは、やはり来島の方の一族の流れを汲むのがこちらに来たのではないかと言うことです。俗に言いますと来島の方に住んでいる人はこういう使い方をしますが、来島ではない本島、河野家の方はこういう風に形が違います。これは本家と分家の違いがあると思います。

家紋について、平家物語にお詳しい服部明子スミスさんからコメントをいただきました

 本家と分家といえばここで毛利家の話になりますが、みなさん毛利家の家紋といえばみなさんこういう風に使っていますよね、一文字3つ星でもこういう風に筆頭が付いているはずなんです。打ち込みと止めが付いている訳なんです。ですから、これは両方に筆の勢いと書いて「両筆勢三ツ星(りょうひっせいみつぼし)」といいますが、これが萩本藩の家紋です。彦島方面は萩本藩ですから、この家紋を使ってもいいわけです。お隣に行きますとこれは長府藩ですね。長府藩は一文字三ツ星でも違うわけです。横に1本です。筆頭が付いてないですね、ですからこれを「箱一三ツ星(はこいちみつぼし)」といいます。こういふうにして本家と分家は分かれています。ですから、お寺などを見て、あこれは萩本家だな、分家長府だなということを覚えておいてください。

 そういう風にして河野一族も本家はこれを、来島分家はこれを使っています。この来島一族の家紋を使っている河野の方も彦島にはおられます。ですからこれがいつ頃来たかと言うことは何ともいえません。ある説では源平合戦以前の話ではないか、源平合戦に本当に味方した一族がおられるのではないか、足利尊氏が出てきますね、足利尊氏が出てくる前に北条家がつぶれます。そのときにも大きな戦いがあって、西国方面に逃げてきた一族がいます。そうしますと話が少しずつ話がごっちゃになっていき私たちもどれをとっていいのかわかりません。

 で、これが本当に伊予の国から人たちかな、と思う点を少しはなしたいと思います。先ほど言いましたように民話、伝説を伝える場所を知ると言うことなんです。たとえばこの彦島地区で言葉から聞いてみたいんですが、いろんな言葉の中に伊予の国に伝わる言葉と同じことがああるかと言うことなんですが、伊予、来島海峡の言葉、風俗、習慣、あるいはお祭りと同じことをやっているかと言うことです。伊予の国と同じ習慣があれば大変おもしろいです。私が調べたところ今のところ何もないんです。極端に言えば800年前ですよね800年前以上のことは伝わっているわけです。それからその後の大内時代、毛利時代のことはずっと伝わっているんです。ですから極端に言えばお墓の形態がちょっと違う。あるいは宗教的にたとえば、ずっと彦島に住んでおられる方で遠くの方、来島方面、今治方面にお墓参りにいくことがある、という人がいないんです。

 下関の王司(おうじ)に宇部(うべ)という地区があります。この宇部地区の漁師の方で80くらいの方はこういうことを言います「わたかいにいってくる」。わたかいっってどういう言葉かと言いますと渡る海と書くんです。「渡海に行って来る」といって広島にお墓参りに行かれるんです。ということは今の80の方はちゃんと覚えておらると言うことなんです。

 これはどうい言うことかと言いますと、「渡海」ということばをつかうかたたちは厳島、宮島方面の漁師の方たちが言います。といいますのは宮島にはお墓が1つもないんですよね。神域ですから。作ってはいけないということでお墓は全部対岸の廿日市にあります。ですからお墓参りのことを渡る海、渡海というんですね。それがなぜ王司地区の方々に伝わっているかというと、その方たちは江戸時代に今の宇部地区が干拓されまして、そこに塩田のために向こうから連れてこられた人たちなんです。漁師の方たちは塩の作り方をよく知っていますから、そういう方たちを呼んできて塩田を作り、今度は逆に塩をどういう風に止めたら水田になるか、塩田を止めて少し高くして今度は水田になってしまったわけなんですね。そういう方たちがこのような言葉を使われる。この彦島にもそういう風にして村上水軍とか河野水軍とかいますけれどそういう方の風習が何か絶対残っているはず何ですが今までそういうことを聞いたことがないんです。少しでも残っているものを探したいと思って今歩いてます。

 その後ここは大内時代毛利時代には大変な重要な地区になるわけです。今みなさんが毛利元就というテレビを見られたらその中で大内義隆は特に明との貿易あるいは朝鮮半島との貿易に力を入れるわけですね。そうしますと彦島福浦が最も重要なポイントとなってくるわけです。

 この中で北前船がいかにこの地区を通過するのに危険だったかというのを証明することになる地名が一つあるんです。まず南風泊、なぜ南風泊と付いたかと言うことなんです。当時は帆掛け船ですよね、関門海峡に入ってくるのに問題なのは南風です。南風が吹いたら絶対に入れないんですよね。いくら潮の流れが良くても南風が吹いたら船は入れないんです。ですから南の風が来るときには泊まらないといけないからここが南風泊となったわけです。それから先も簡単にすっと行けると思ったら大間違いです。彦島の南端までは北の風できますよね、ここから今度は南西の風を受けなければならない、そうしないと関門海峡に入れない、そういうことになりますよね。ですからここで一回待たなきゃならないんです。

 一番立派な良港、すっと逃げ込める、いつでも南西の風が吹けばさっと出られるということですね、そのための潮の流れ、風向きを教えるところがこの俯瞰台と言います。この俯瞰台に今はヒヤリング上簡単に「俯瞰」の字を書いていますけど、「風が吹かん」という意味かもしれませんし、それはわからないんです。極端に言えば私はここは日和山とも呼ぶんではないかなと思っています。この辺に漢字で書いて日和山と読める地形があるかということなんです。

 たとえばこちらの金比羅神社がありますね。金比羅という地名が大変おもしろいです。金比羅という地名には必ず灯台があるんです。江戸時代からもちゃんと灯台があります。明治17年の地図にもちゃんと灯台の印が付いてます。明治17年頃にはこの山に灯台があったということです。灯台といっても今で言う電気がきらきら光るのではないんですよ。カンテラです。灯明台ですねそういうものがあったんではないか、と思います。そんな風にして金比羅というものには必ずそういった灯明台があります。(左の写真は当時灯台があった金比羅山)

 もうひとつ、日和山がないかといいましたが、彦島ではまだわかりません。下関の日和山公園は知っていますよね、後二つあるんです。彦島の対岸にも日和山があるんです。小門。この地図では小門観山(おどみやま)とかいてありますが、日和山と清末藩の、ここは清末藩なんですよね、清末藩の地図の中にちゃんと日和山と書いてあります。もう一つ、こういう字で書いてあるところがあります。火の見山と書いてあるところがあります。これも日和山と同じ意味です。というふうに港、古代の港には必ず周辺にこういう地名が必ずあります。金比羅、日和山、潮見山、火の見山。これはなぜかと言いますと、ここですべて潮の流れ風の方向を合図する場所がちゃんとあるんです。でこの日の観山というのはどこかといいますと、綾羅木(あやらぎ)に綾羅木川というのがあります。綾羅木郷台地(あやらぎごうだいち)という遺跡がありますね。この綾羅木川の支流、1本分かれますが、このまま行くと住吉神社があります。昔の国名でここは長門の国と言いますね、海に面した国の古い国名で行きますと、海に面した国で現在これだけ内陸にある一宮はここしかないんです。下関しかないんです。

 博多、福岡の住吉さんみてください。目の前まっすぐに道を付けてですね埋め立ててますけれど、まっすぐに道を付けて海にはいるようになっていますよね。海の神様のお宮がなぜこんな山にはいるかということなんです。これも先ほど言いましたね。この神社ができた頃の伝説、これ古墳時代の頃の後期なんですが、古墳時代の後期はやはり海水が高い頃で住吉神社の近くまで、ここは現在でも標高は9メートルあるんですが、そうしますとこの近くまで海が入っちゃいますよね。そうしますと、ここに、伊倉(いくら)という地名があります。今こういう伊倉を書きますけど、これも古代の地名なんです。大変中央政府が建てた倉があったという証明があります。この伊倉の地と、ここに今は神社があります。豊(ゆたか)神社といいますが、この神社のある山が火の見山というんです。

 で、この山は高さが80メートルくらいしかないんですよ。(なかにし注:上の写真は彦島西山から撮影したものです。背景のごつごつした青く見える山の手前に緑色に見える円錐形の山。左の写真の赤円部分を拡大したのが右の写真)でも、この山は西山からも見えます。竹の子からも当然見えます。北九州からもはっきり見えます。後ろに高い山がたくさんありますがこれだけ単独に見えるんです。ものすごくきれいな円錐形をしています。この山の上からあるものが出てきたんです。方位石と言いまして、その大きな直径50センチくらいの石ですけどその上に立ちますと、真ん中にたちますと、方位が出て来るんです。石に刻んであります。現在これ安岡の方が持っておられますけど。そういう風にしてですね、古代の港の近くには火の見山、その後江戸時代になりますと金比羅という風に変わります。そういうことで、ここの福浦湾がどんどん発展して行くんですけど、北前船が北前船がこの地形が一番きつかった、ですからお願いをするためにですね。付けたような名前が一つあります。

 下関で一番南にある灯台があります何と言いますか??大正9年か7年頃できた灯台がぽつんとあります。なんといいますか?こんな字を書きますよね「金の弦(かねのつる)」(右写真)何でこんな地名が付いたかと言いますと、これは同じような言葉がこういう言葉があります。いい嫁さんを捜すにはなんとかをはいてでも探せと言いますよね、これと同じ意味なんですよ。金の弦をこの端っこに巻いてでもこの端っこ(なかにし注:塩浜4丁目の海岸線)を通って行けと言うんです。でないと、この中にあります、古い地図の中にあります鳴瀬(なるせ)、室町時代に付けられましたよじべえの瀬です。死の瀬といいますが、よじべいが切腹させられてからよじべえの瀬と変わる訳なんです。これも豊臣秀吉の軍船を無理矢理に潮の流れ風の向きを無視して入らされたために少し流されたようで、死の瀬にぶつかり沈没した。そのときの船頭は首をはねられた、その後彦島の方たちが哀れんでよじべえの瀬と名前を付けたと言われています。このようにして大きな岩礁があります。また失敗して今度は門司側に流されますね、そうしますとこの辺は浅瀬になっちゃんです、そうしますと座礁しますね。ですから、彦島側の深いところを素早く通れと言うことなんです。ですから金の弦を引っかけてでもいいからくるっと回れと言う意味でこの地名が付いたようなんです。

 地名というのは何でもなく付いたわけではないんです。そういうわけで私はそういった地名を探しながらこの彦島をもう一度調査すべきではないかな、そう思います。縄文、弥生、古墳時代はどんな地形だったのかな、と思いますし、それから極端に言えばそういう地形をなぜ河野水軍は選んだかと言うことですね、それからこういう地形だからこそ平家が最後の砦としたのかな、ということですね。ですからこの中には空想ですけれど、彦島城があったとか言われています。その彦島城を作るにはどの位置が一番いいか、て言うことなんかも今からの研究テーマだと思います。ですから、そういうものを調査している人たちにここに立ってもらってそういうお話をしてもらえればと思っています。


彦島から山陰方面の民族史

 それから最後に彦島から山陰方面の民族史ことについてですが、これも先ほどと同じです。こちらの方には伊予の国の言葉、風習を伝えているものが何かあるはずです。埋葬形態など何か違いがあればと思っています。

 たとえば埋葬形態ならば、話が飛んで申し訳ないですけど、みなさん、土井ヶ浜遺跡を見られたことがあると思います。たくさんの人骨が今でも眠っています。同じように同じ時代、弥生時代の中期から後期にかけての埋葬遺跡が下関に一つあります。吉母浜なんですね。吉母浜も同じように弥生時代の中期と後期、同じ土器が出ます。吉母と土井ヶ浜、遠いですけど同じ土器が出ます。ということは交流があったと言うことでしょ、でも1つ違うことがあるんです。埋葬形態が違うということです。埋葬形態が違うということは民族が違うということです。でしょ。ですからそういうところを彦島でも何かあるはずなんです。

 伊予に関係のあるものが何かあるはず何です。そういうものが今まで見つかっていないと言うことが大変不思議なことなんです。で、1つテストをします。これ、男性がよく使うんですが、「ちんぐう」これ、男性が悪い言葉で使いますよね。「かばち」かばちたべるとか言いますよね。それとか赤ちゃんを背負うとか言いますけどこの辺はですね、こういう風な発音をすることがありますね。「おぶる」オブると言われたことがあると思います。それから典型的なのが、このへんの秋に稲刈りが終わった後に水田にわら束を高く積み上げますよね。円錐形に高く積み上げます。これ何かわかりますか?「としゃく」ですね。

 それからこないだ火の山海関荘で山口県の役員の方が60名集まった会があったんですけど、その中で私、急に呼び出されて、話をしたときにこの話をしたんです。60名全員に立ってもらいまして、1つずつ出したんです。全部で10個出したんですけどわからない人はどんどん座って、と言ったんです。そうしたら最後まで残ったのは下関から萩にかけての下関市長門市萩市の方でしたね。その方々が全部残りました。おもしろいですよね。いま「としゃく」といいました。これ読める方はたくさんおられると思うのですが、宇部岩国方面の方はとしゃくとは発音しないんです。北九州も全然違うんです。「ちんぐう」はわかりますか?おまえんとこはちんぐうじゃけんのお、とかいいますよね。で、これ、朝鮮半島に行ったらある一部では全部通じちゃうんです。そのままです。

 で、ある地区といいますと朝鮮半島でもこの地区なんです。ここ、プヨといいますよね、行ったことないでしょうね。プヨという国があります。このプヨというのは古代の都市なんですこの国が古代の百済といいます。よく聖徳太子が百済の仏教を取り入れたとか、言いますね、そのころに百済から伝わったと言います。そのころに百済が滅亡しちゃうんです。このプヨの街に一定間の言葉を言ったら全部通じちゃうんですね。おもしろいですね。(なかにし注:百済は四世紀半ば、馬韓(ばかん)北部に成立しました。下関の昔の名前は馬関(ばかん)似ていますね。何か関係があるのかな???)

 そのプヨにはこういうお祭りがあります。村に行きますと村の真ん中に水田があります。はじめての田植えの時未婚の女性が田植えをします。その周囲で既婚の男性と女性が笛、太鼓、かねをならしてはやします、歌を歌います。これどこか下関でやってますよね。住吉神社のお田植え祭ですよね、でもう一つおもしろいのがこの水田のまわりのあぜ道といいますね、この周囲の道で四隅で男性が大きな竹をたてて振り回します。これ下関でもやってますよね。なんていいますか、数方庭(すほうてい)っていいますね。ここでもちゃんと「すほうてい」って言うんです。あるいは「そてい」といいます。

 私が行ったインドネシアのものすごいジャングル地帯でその写真を見せたらお田植え祭は知りませんでした。でも数方庭の写真は「オー、ショテイ、ショテイ」と言ってました。皆つながっちゃうんです。こういうプヨの国のお祭り形態、言葉、あるいは生活、文化がこの彦島・下関・萩方面に伝わっているのが大変おもしろいことなんですね。そういうところも私の研究調査テーマで、ふらりと朝鮮半島にわたってこういう田舎を回って、向こうに行ったときに、なるべく農家に泊めてもらうことにしています、そういう調査をしています。このようにみなさんもハングルを知らないうちに使っている、それもこの地区の方言です。今の言葉を釜山で言ってもどうせわかりはしないです。プヨに行ってこのへんの農家に行きますと、「オーチングゥチングゥ」と大変優遇を受けます。そういういろんな文化がこの彦島にも残っているということで、彦島の歴史について駆け足で話をしました。


質疑応答

Q 昔、小倉戦争か何かで田の首が小倉に取られたということを聞いたことがありますが、何か文献が残っていますか?

A ありますが、小倉戦争は全然関係ありません。というのは、以前は確かに、そうですね、この福浦湾がやはり重要だったんです。当時の航海技術で北前船が直接小倉に入りますと、今度は小倉から出られないんです。というのは小倉に高い山がありますよね、小倉から出ようと思えば南の風を受けなければならないんですが、山が高いから南の風が出てこないんです。そういうわけでこちらが特に重要だったわけです。ですから小舟で小倉に渡しておりました。ということで、この辺が大内時代から毛利の最初の頃このあたりは取りつ取られつになっております。ですから、じゃ、いつ頃までかといわれるとこれも困りますが、毛利時代に九州の大友宗麟と、豊後の国を持っております大友宗麟と、北九州門司と彦島を交換しております。そういう記録はちゃんとあります。毛利元就の時代ですが、ですから馬関戦争下関戦争の頃は全く関わりがありません。むしろ下関戦争でイギリスがここを彦島を全部くれと租借の要求を出したわけですよね。要望を出しておいてそのまま飲んだら下関の彦島はすごいビルが建っていたと思いますね。今の香港と一緒ですね。そういう形になったかもしれません。そういうわけで、毛利元就の頃に九州側との和睦によって彦島と門司を交換したされています。


Q 綾羅木郷台地にあります市立博物館に何度か行きました、入り口が円形のタイルで張った羅針盤のような形をしていますが、あれは何かモチーフをデザインしたものでしょうか

A これは綾羅木郷台地の中央付近に今は川北神社といいますが、この川北神社に上の浜古墳といいますが当時は下関で一番大きな古墳があったわけです。その古墳からでた鏡をモチーフにしております。

Q その鏡は現在考古館にありますか

A ありません。今は東京国立博物館にあります。と言うのはこれが明治の頃発見されておりますので、当時はそういうものは全部東京に集まるわけです。有名なものは全部東京に行きます。ですから現在は模造品が来ております。大変おもしろいのはあの中央にたって大きな声を出してみてください。ちょうど反響が中央の十分に戻ってくるようなデザインになっています。で、綾羅木郷と言いますが、綾羅木という言葉も朝鮮にあるんです。綾羅という国があります。で、朝鮮半島では国という言葉を「き」と発音します。綾羅木の「ぎ」ちゃんとあうんですよね。

Q そのデザインは朝鮮のものと全く同じなんですか

A それは違います。中央の高いところにはですね、鏡を付けるひもを付ける位置がちゃんとあります。


Q 杉田の岩刻画についてですが、アレが意味するところについては定説がないというのが今日のお話だったと思うんですが、あそこに書かれているものが、刻まれているものが古いものであるということは間違いがないんですか?

A それは間違いはありません。と言うのはですね、これは国分先生とおっしゃる、今は梅光女学院大学の名誉教授になっておられる方が、考古学をやられる方ですけれど、この先生の説によりますと、韓国のバンキダイと言うところに同じような、それに近い絵図が書いてあると言われています。それは古墳の中に書いてあります。でもよく見ますとちょっと違うんじゃないかなぁと思いますね。実を言いますともう少し違うグループがいるんですよ。今言われた杉田古墳の絵ですね、ここは彦島城のあとではないかといわれていまして近くに清盛塚がありますよね。平家が財宝を隠した絵図ではないかというグループがあります。ということでなんともいえないです。北九州方面にもたくさんの古墳の絵画がありますが、それらとも全然あわないんです。しかも今言いましたように発掘しましてもその辺から同じようなものが出てこないんです。石一個では古墳ができないですから。(なかにし注:この質問をしたのは実は私ですが、古墳と同じものが書いてあるからあれは古いものだ、というのは説得力に欠けると思います)

Q 大規模な発掘をされたのですか

A あの周辺にトレンチを入れてですね、掘ってやりました。その報告書はちゃんと出てます。でも、何も出てないです。

Q 私が読んだ本ですと、あぁいう石が昔はたくさんあって、社宅ができる頃になくなったとい話を読んだのですが、

A それは違いますね、その石が組んであった石とは考えられないわけです。それから、組んであればその周辺の石があるはずなんですが、それもない。極端な話をすればこの石、下から持ってあがったのではないかという気もします。そうなると何のために持ってあがったのかが問題となりますが。そういう風にして、極端に言えば祭祀遺跡ではないかなと思いまして、いつか機会があればもう一度トレンチを入れて見る予定です。

(なかにし注:トレンチというのは、調査しようとする地面の中のある一定の長方形の部分についてのみ掘り下げて行う調査方法のことです。これで何か発見されればテレビや新聞で写真を見るような大規模な発掘となるわけです。)


服部明子 寄稿

紋の歴史的変遷と格式ということをちょっとだけ書いてみようと思いました。

まず 大三島というか越智氏というか三島氏の紋は菱に適当な波を打ってる素朴な紋でした。それが時代が下だるに従って隅切り折敷で縮み三文字に変化してますよね。これが海の民だった河野氏が大三島から四国に上がって北条市河野を本拠として後に湯築城主と変化して行く河野の紋です。

河野氏でも格が上だと隅切り折敷縮み三文字だけど格が下だとまっすぐの三文字になっていますよね。このことは一遍上人のお寺にも言えて、松山道後の宝厳寺のように権威のあるお寺は縮み三文字で、大分の別府近くの鉄輪温泉にある永福寺になるとまっすぐの三文字です。

徳川家でも松平時代は葵の紋が立ち葵という足が長い素朴な紋でアカ抜けないデザイン。ところが時代がトクガワと改名して下がるに従って足が極端に短くなって葵というよりデザインが抽象的に変化して葵の足がお飾りに退化しています。でも、将軍も人によってすこしずつ葵の紋が違うのだそうです。みる人によってはどれがどの将軍の物か分かるようです。私は言われて、比べて、やっと、エッ?!と気づくタイプでした。

河野通次の名前でも昔は適当に漢字を使用していたので 通 は固定してても次 については 継や嗣 を使ったりし、その上、もしかすると 次 じゃなくてこれに似た漢字の続け文字が書かれていたのかも知れないのです。このことは河野氏の人皇7代孝霊天皇に始まり ヒコサシマノミコトに続く家系書でも彦狭シマのしまが嶋になっていたり鳴という字だったり2つあるのです。鳴るという字がどうして島と読めるのか現代に教育を受けた私には分からないのですが。。。

似てるから、それに昔は文部省の検定っていうのがなかったから、どうでもいいんじゃない?と思うことにしています。でも河野通継だったらあったような気がします。もし私の資料にあったらお知らせします。河野氏も平家についていたのを源氏に鞍替えしているのでいつ、どちら側で彦島に移住することになったのか全く見当がつきません。

では

服部 明子 スミス

  

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 1997/8/27 公開

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