■■■■■ 「壇の浦の合戦」の戦後処理について
元来が貴族系の平時忠は死刑にならない。また、平重衡は僧兵によって処刑される。このあたりから、当時の「国家」って何だろう?という事を考える端緒が見えてきますよね。
平家の落人伝説が全国で知られていて、平家の関係者は片っ端から処刑されていたようなイメージがありますが、例えば平家第一の家人、平貞能は宇都宮氏を頼って余生を送ったようですし、平信兼(山木兼隆の父)や平田家継も謀反を起こさなかったら、命までは取られなかったでしょう。有名な三日平氏の乱が起こったのは1204年ですしね。
鎌倉幕府は平氏勢力を根こそぎにする意思はなかっただろうし、また、そんなことができるほど強大な勢力を全国に持っていたわけではないのだと思います。
平 貞能が許されたのは宇都宮を東国に帰してあげたお返しございましょうね。平 貞能が一族に従わず東国に走った経緯は「平家物語」に書かれていますが
釈然としません。僧侶になって高野山などに入ったというなら分からぬでもございませんが。
同じ反乱を起こしても、平 信兼 + 平田家継 + 藤原忠清の3人組のうち藤原忠清の罪は明白、ということでございましょう。
藤原忠清といえば、富士川の合戦で逃げ帰った、というのも釈然としません。もともと富士川には行きたくなかったようでございますが、平家第一の武家の忠清ともあろう者が、不思議な行動でございました。
忠清は都落ちに同道せず、のちに反乱に荷担して処刑され、景清は壇ノ浦で姿をくらまし、その後は諸説あってわからん、と。まあ当時の主従なんてのはこんなものなんでしょうねえ。
家人の重層性について、源氏を例にしますと、まず1,棟梁がいて、2,棟梁の直接の血縁者がいて、その周囲に3,源氏一門がいて、それから4,「郎党」と言う呼び方もされるいわゆる豪族的領
主がいます。平治の乱のときでいうと、1が義朝、2が頼朝や義平、3が平賀義信や八島重成、4が千葉常胤や上総広常ですね。
で、乱後に処刑されたのは1と2。2でも頼朝は助かっちゃった。3や4はもちろんおとがめなし。これにあてはめると、平信兼は3ですよね。平貞能や藤原忠清は4。3に近い4かな。だから、昔の栄華よ今一度、ということじゃなければ、命までは取られなかったと思うんですが。
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