■■■■■ 千葉江州、服部明子対談・伊勢・志摩の街道遊歩
服部 明子 「今日は千葉江州さんに『伊勢・志摩の街道遊歩』と題してお話を伺いましょう」
千葉 江州 「三重県は京阪神の人にとっては近畿地方にありながら何と無く馴染みの薄い県なのは、三重県自体が中京圏の経済流通機構に組み込まれているせいかもしれません。ただ、小学校の修学旅行はお伊勢さんというのが定番であった時代も長く続きました。ですから、関西圏で京阪神に住む人にとっては小学校の修学旅行で行く以外はよほど伊勢志摩という地方へ遊びに行くのが好きな人を除いてあまり訪れないというのが実状ではないでしょうか。」
服部 明子 「ところが愛知県出身の私にとっても馴染みの無い県です。多分、木曽川・長良川・揖斐川によって完全に隔てられているせいと思います。それに三重県は「関西弁」ですから。」
千葉 江州 「年配の人達にとってはお伊勢参りが人生の上でも重要な行事だったように聞きますが、それでも近年は伊勢や志摩のテーマパークが盛んにTVCMを流していますので、京阪神の人もようやく大勢詰め掛けるようにはなっているようです。」
服部 明子 「でも京阪神の特急列車は特急料金が要らないのですが、JRと同様近鉄は特急料金を払うというか座席指定券のようにして購入する必要があるため少し費用は掛かりますね。」
千葉 江州 「以前、徳島県の観光振興課に勤務される高校の先輩のAさんとお話しした時に自然や食べ物の豊富さ、四国八十八箇所などが徳島にはあるので明石海峡大橋が開通すれば随分人もやってきて地元もある程度潤うんじゃないですかと尋ねました。その際に伊勢と条件的にはあまり変わらないのでは、と水を向けたのですが、Aさんはきっぱりと「お伊勢さんがあるのとないのとでは集客力が全然違うよ」と半ば諦め顔で呟いていたのを印象的に覚えています。」
服部 明子 「伊勢の枕言葉は「神」ですから。。。それに皇室が氏子ですから。。。パワーが違いますね。」
千葉 江州 「国道1号線を走って鈴鹿越えをして最初に辿り着くのが関町です。ここで阪奈国道から西名阪自動車道に合流します。」
服部 明子 「ここは平重盛の次男の資盛が子供の頃に事件を起こした後、やられていた田舎ですね。ここで子供を作ったそうで、その子孫だと織田信長が名乗っていますね。」
千葉 江州 「ここからは伊勢自動車道が鳥羽まで延びており1時間ちょっとで着いてしまいます。既に名古屋圏の影響が及んでいるのは大阪との距離から考えても明らかです。伊勢東北部は濃尾平野の裾に掛かるところに位置していまして結構視界が開けています。」
服部 明子 「伊勢東北部の山間部は「関ヶ原」のすぐ近くです。養老の滝にも近いです。
愛知県だけでなく岐阜県(美濃国)にも生活圏として係わっているでしょうね。」
千葉 江州 「日本でも街が拓けたのが屈指の古さを誇る伊勢ですから、どことなく昔の雅やかさが感じられるところですね。」
服部 明子 「太古から?古事記時代から?万葉時代からの旅行先ですね。天皇家の娘が斎宮になって馬の背に揺られて伊勢に向かった、と描写されていますね。」
千葉 江州 「実は伊勢平氏がどの辺りに本拠地を持っていたかよく調べていないのですが、伊勢平氏がここを開発する以前から神官や禰宜に代表される伊勢大宮司に連なる勢力が居着いていましたよね。度会(わたらい)とか荒木田(あらきだ)といった名前を見ればだいたいその頃から延々と伊勢に根付いた人々(伊勢大宮司の神官や禰宜をなされていた家々)の子孫に当たることは間違いないでしょう。」
服部 明子 「そうでしょうね。三重県は先ずお伊勢さんで開けて北の方向に開拓が進んだという感じですね。」
千葉 江州 「平安末期に千葉常胤も相馬御厨の騒動では随分と荒木田家には便宜を図ってもらえるよう懇願した顛末が資料で散見されます。特に、平治の乱前後では常陸の佐竹氏と争うことになった相馬御厨の利権を巡って丁々発止の駆け引きをここで演じています。結局は敗訴して相馬御厨の下司職を失う羽目になってしまいますが、ここに平家討伐を硬く心の中に望んだのは論を待たないでしょう。でも遠く関東の下総からどのようにしてここ伊勢まで足を運んだのでしょう。」
服部 明子 「それで源平時代の佐竹氏の立場がちょっと分かりました。」
千葉 江州 「そう考えると、意外とも思えるのですが、実は現在の東京湾に面したところに勢力を扶植していた豪族達は皆水軍を所有していました。そして海上のネットワークは西日本の平家のものと遜色のないほどの機動性をもっていたかも知れないのです。鎌倉時代の中期になると資料でも明らかになってくるようですが、千葉氏は平家討伐の恩賞で北は奥州から西は肥前までの広域に渡って所領を獲ています。その間を実は海上ルートで繋いでいたらしいのです。果ては朝鮮半島から南宋までの交易ルートも開拓していたようです。となると平家が保有していた海上ルートを鎌倉時代の御家人の中にも受け継いでいた形跡が推測されるのです。」
服部 明子 「「蒙古襲来」によると鎌倉時代伊予の河野氏も大陸と交易をしていたようです。平家に出来たのですから他の家にも当然出来たでしょうね。ただ、当時、平家が独占して利益を独り占めにしていたから反感を買っていたという構図が浮かんできますね。」
千葉 江州 「そしてこの伊勢が関東との中継点になっていて、近江の街道遊歩でも触れていました伊賀の守護領を経由して大物に出て、そこから四国阿波、中国備前、九州豊前に至る海上ルートを経て肥前小城に至るダイナミックな連絡通路を形成していたと考えられています。ただし、南北朝時代で千葉氏も下総と九州肥前の2系統に分かれてしまい、この海上ルートは機能しなくなってしまったと想われますが、享徳合戦(1455年)で内訌を起すまでは下総の当主が高野山の先祖の墓へ参拝に行ったことが記録に出てきますので、伊勢までの海上ルートは使っていたかも知れません。」
服部 明子 「そうでしょうね。徳川家康も織田信長が暗殺されてから伊賀を越え伊勢から三河に逃れていますから十分考えられますね。」
千葉 江州 「松坂というところは今では有名な肉牛の産地として世界に雷名が轟く場所になりましたね。蒲生氏郷も一時この地の領主となりましたが、江戸期を通じて藤堂藩が世襲して幕末に至ったのは言うまでもありません。藤堂藩の祖とも言うべき藤堂高虎は見事に仕える主人を代えていって最終的には高虎の子孫は幕末に朝廷側に立って徳川軍を攻めるに至りますね。これを変節とは謂われずに、潮流のトレンドを読み切った優れた能力と現代では評価される向きに経営者は賛美するでしょう。
藤堂氏だけが当てはまるのではなくて、非常に近いところでは細川藤孝の末裔こと細川護煕氏にさえ適用できる事実ですね。何がそこまでさせるのか分からないのですが、トラップが巧みに用意されている世間の中で危機回避を巧みに実行する遊泳術というか、なかなか真似のできないことですね。
千葉の一族は結構不器用な連中が多いのか、平安末期に中興の祖である常胤が長期間の忍耐の末、一挙に勢力を得ながら後継者達はその基盤を徐々に食潰していって、結局江戸時代にまで残り得たのは相馬と遠藤の二大名だけですからね。また、維新の元勲の一人であった江藤新平胤連にしても彼一代で佐賀の乱の首謀者として斬刑されてしまいましたから。(でもその不器用で執念深いほどの忍耐力の強さと権力者に対する反骨精神の高さだけは受け継ぎたいところではありますね。)
さて松坂に目を戻しましょう。ここには和田金を始めとして有名な牧場を持つ肉料理屋さんが集中して存在しています。とても高価なお品書きが続くメニューを眺めていますと、伊勢の人は随分贅沢なものを食しているのかなあと思ったりします。ひょっとして大昔から伊勢大宮司のあった御蔭で地元の商売も賑わい、平安後期には平家の庇護の下で殷賑を極めたのが血肉として受け継がれて贅沢を忘れることがなかったのではと想像したりもしますね。
数年前に大晦日に松坂辺りをうろついてお昼ご飯にでも肉を食べようと思っていたのですが、何と一軒も店を開けておられず年末年始休業に入られていました。驚いちゃいましたねぇ。世間では書き入れ時という時期に悠々と店を閉めて休みとはよほど普段の時から稼ぎ具合が違うのかなあと感心したりしました。(結局開いていたのは土産用に肉の佃煮を売るお店だけでしたから)
いよいよ伊勢に入るのですが、伊勢神宮に立ち寄ったのは小学生の頃しかなく、何度もその後こちらの方へ来ながら訪れていません。随分記憶も不確かになってしまったのですが、五十鈴川で手を濯いだははっきり覚えていますね。随分冷たかった感覚を手が覚えているのですが、後は神殿造りの建物があったのは微かに覚えているのは言うまでもありません。
伊勢自動車道からは神宮のある方角は何となく分かるのですが、それよりももっと目立つものが見えてくるのです。例のセビリア万博にも出品された例の奇抜な安土城の天守閣が目に入ってきます。その辺りは伊勢戦国時代村になっているのですが、目玉商品である安土城天守閣は小高い山の中にそびえています。やはり水面に映える姿を考えれば琵琶湖のほとりに立っているべきものなのですが、何か違和感のある佇まいを醸していますよ。でも戦国という主題においては欠くべからざる建物ではありますから、忍者や時代装束をまとった従業員達が闊歩しているテーマパークの中ではそれなりに納まりは着いているようです。
伊勢は江戸時代から信仰の対象として全国的に注目され、お伊勢参りと称して大人数の人達が酔狂を凝らして踊り騒ぎながら目指したのはよく映画やドラマなどでも取り上げられますよね。例の「ええじゃないか」の掛け声で乱舞しながら練り歩く様はまるで阿波踊りの変形のようでもあります。一生に一度お伊勢参りをすることが江戸庶民の楽しみであったとされていますから、さながら30年前の日本のように「一生に一度は海外旅行をしたい」に通じるものがあったことでしょうね。
お伊勢参りが絶え間なく続いたということはその参道に至る町々も経済的に恩恵を被ったことでしょうから、ずっといい時代が続いたことの裏返しになるでしょうか。今でも何となく伊勢や志摩というところは穏やかに映るように思えますね。
鳥羽まで来ますと何となくバケーションに来たなあと感じます。更に鵜方の方から大王崎の岬まで行くとちょっとリラックスできますね。太平洋が広がるところまで来るわけですから、精神衛生的に解放されていいですよ。
この辺りは太陽の陽射しが結構眩しいこと、気候が温暖で暖かい印象を受けること、海に面して魚介類が豊富なこと、複雑な海岸模様がちょっと地中海風の雰囲気を持っていると確信されたのか錯覚されたのか、それでスペイン村ということになったのか分かりませんが、休暇を取るにはなかなか良いところです。」
服部 明子 「古代日本では「馬」に乗って奈良や大津?から伊勢神宮に行った、と思っていました。大津の皇子と姉のことで「馬」に乗って伊勢に下だった、との歌が万葉集に書かれていますでしょ?それで伊勢の港の事は全く失念しておりました。
それに伊勢湾での港は「熱田の宮の渡し」しか頭にありませんでした。考えてみれば日本は海に囲まれていますから伊勢の大湊が栄えていたのは古代からだった、と分かりますよね。今日はどうもありがとうございました。」
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