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巌流島の決闘390周年

舟島という小島
    
 本州と九州にはさまれて、激流の大河のように横たわる関門海峡。幾多の歴史の転換の舞台となったこの海峡の西端に、巌流島はひっそりと浮かんでいます。
 舟島。それが巌流島の正式な名称です。大正時代に入って埋め立てられる前は、1万7000泳法メートルの小島でした。島の北西部先端に、18メートルくらいの高さの小高い丘があり、真横から見ると後方が平坦でこれに松並木があっていかにも船のようだと名づけられたといわれています。
 その舟島が巌流島と呼ばれるようになったのは、言わずと知れた剣聖・宮本武蔵と巌流・佐々木小次郎の決闘の場所になったことによります。

明治時代末期の巌流島

 小高い丘や生い茂る松、そして民家もいくつか見える。現在の巌流島は地形も変り、広さは約5倍にまでなっています。

武蔵小次郎の決闘

 宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたのは慶長17年、西暦1612年4月13日と言われています。
 この決闘に関する資料は数多くありますが、佐々木小次郎の年齢について17歳であったという説の他、有力な説として70歳をすでに越えていたという説もありますが、この決闘の際に記録された文書が存在しないため、正確なところはナゾです。

 決闘の日の朝、武蔵に指定された時間に小次郎は舟島へ向かいました。弟子達も小次郎のあとを追って船を出したのですが、「一対一の真剣勝負である」と、小次郎は弟子達に付いてこないように告げました。そこで、弟子達は彦島に上陸し、小次郎の勝利を固唾をのんで見守っていました。この場所は現在も「弟子待」という地名として残っています。一時は巨大な各社石油タンクの林立する石油ターミナルでしたが、現在はその多くが撤退し、山肌は住宅地として開発が進んでいます。

 約束の時間になっても、武蔵はいっこうに来る気配はなく、小次郎はいらいらしながら武蔵野到着を待ちましたが、ずいぶん時間が経ってやっと武蔵はのんびりと舟島へやってきました。遅れたことをわびもせず黙って木刀(舟島へ渡る途中で櫂から削り出したという話もある)を構えます。怒り心頭に達した小次郎が刀を抜き、鞘を後ろへ捨て去ったときの武蔵の言葉があの有名な 「小次郎!破れたり!」 でした。勝者は刀を鞘へ戻さなければならないからです。そんなことにはかまわず小次郎は武蔵へ斬りつけました。小次郎の刀は武蔵のはちまきをふたつに切り裂きましたが、その時、武蔵の木刀は小次郎の頭をしっかりとらえていました・・・。
 武蔵はとどめも刺さずにそのまま帰ってしまい、島へ上陸していた武蔵の弟子達によって小次郎はとどめを刺されたという話も残っています。
 当時の人は小次郎に同情的で舟島に墓を建て懇ろに弔いました。

巌流島の記録
    
 巌流島の決闘は、源平の合戦や明治維新のように社会が大きく変化する出来事ではないので、公式な記録があまり残っていません。しかし、当時から大きな関心事でしたから、時を経て語り継がれ、390年経った現在、諸説が存在します。
 その中で、巌流島の決闘を語る際に参考になるのが北九州市小倉北区手向け山の「武蔵の碑」と、巌流島の決闘から110年後に完成する「二天記」、武蔵自身が著した「五輪書」ということになるでしょう。武蔵の碑は、承応3年(1654年)、巌流島の決闘から45年後に、武蔵の養子で小笠原藩家老職の宮本伊織によって建立されたもので、武蔵が二刀流を編み出した工夫、巌流島の佐々木小次郎との決戦までの状況などが書かれ、剣聖・宮本武蔵をたたえています。


絵本二島英雄記より 画:速水春暁斎
左が宮本武蔵、右が佐々木小次郎
巌流島で武蔵が小次郎に闇討ちにあった父のかたきを討とうとしているところ
1本の櫂を真ん中で二つに折って二刀流としている

武蔵は遅刻をしたのか
     
 巌流島の決闘といえば、武蔵の遅刻は周知のことです。しかし、手向山(たむけやま)武蔵の碑を見ると、小次郎と武蔵「両雄同時に」島に渡ったと書かれており、武蔵が遅刻したという話はどこにも出てきません。
 その話が始めて世に出てくるのは巌流島の決闘から110年後のこと。武蔵が晩年を過ごした肥後藩(現在の熊本県)の士・豊田又四郎正剛とその子・彦兵衛正脩、孫の左近右衛門景英ら3代の手を経て、宝暦5年(1755年)に完成した「二天記」の中でのことです。そこには、小説や映画でおなじみの、遅れてくる武蔵にいらだつ小次郎の様子や、「小次郎負けたり。勝者なんぞそのさやを捨てん」と武蔵が大声を発する場面などが登場します。
     
武蔵の二刀流
     
 武蔵は20歳代前半の頃、京都で当時扶桑第一とうたわれた吉岡一門と決闘をしています。手向山(北九州市小倉北区)の「武蔵の碑」には吉岡一門と3度戦い、決着がついたのは有名な「一乗寺下り松」だとあります。
 吉川英治の小説「宮本武蔵」の中ではこの決闘で吉岡一門の多勢を相手にした際、とっさに脇差を抜き両手に刀を握っていたという話も登場します。「一命を捨てるほどの危機に際しては道具をみな役に立てたいものだ。腰に一刀を納めたまま死ぬのは残念なことだ。しかしながら、両手に得物を持つことは難しいものである。だから平素から、片手で得物を使う道を知らなければならない」と、「五輪書」の中で武蔵は語っています。
     
巌流の姿
    
 巌流・佐々木小次郎とはいったいどんな人物だったのでしょうか。小次郎に関する資料は乏しく、はっきりとしたことはわかりませんが、越前国宇坂庄浄教寺村(現在の福井県今立町)の出身だと伝えられています。吉川英治の「宮本武蔵」の中では、山口県民にとってはうれしい岩国市出身となっています。加えて、錦帯橋のほとりにあの柳の枝を相手に秘剣・ツバメ返しを会得するという設定が登場しますが、残念ながら錦帯橋は巌流島の決闘の後の創建で、岩国出身説も錦帯橋での鍛錬も、吉川氏の創作の域を出ません。
 また、小次郎はいつも本身3尺(約90センチ)長刀・備前長光を愛用していました。別名「物干竿」と形容されているものです。


錦絵岸柳鴬敵討
中央が佐々木小次郎、右端の白い顔が宮本武蔵
現在イメージされる佐々木小次郎とはまったく異なる悪党面

秘剣・ツバメ返し
    
 巌流・小次郎の得意技は「ツバメ返し」です。これはどんな技なのでしょうか。
 別名を「虎切り」と言って、この用法が「撃剣叢談」という兵法書に出ています。「大太刀を真っ向に拝み打ちするようにつかつかと進み、敵の鼻先を目付きにして、やにわに平地まで打ち込む。打つなりかがみこみ、打ち下ろした刀を担ぎ上げて勝つ」。はじめの拝み打ちはフェイントで、担ぎ上げる太刀に勝負をかける「返し技」と解すことができます。
 巌流島の決闘では、武蔵はたぶんその秘術を知っていて、小次郎の長太刀のフェイントが来ると同時に飛び上がり、担ぎ上げる勝負太刀を避けて勝ったのではないかと考えられます。

二天記に見る巌流島決闘

 佐々木小次郎が豊前小倉へ現れました。その時期は不詳ですが、巌流島の決闘の1、2年前のことだと思われます。小次郎の名はこのときすでに広く聞こえており、小倉城の城主・細川忠興は評判を聞いて小次郎を留め置くうちに、門弟もでき家中の指南をするようになりました。
 慶長17年 (1612年) 4月、次いで宮本武蔵が小倉へやってきます。彼はまず細川家の家老・長岡佐渡守興長の屋敷を訪ねます。興長が武蔵の父の知人であったからです。そこで「佐々木小次郎と兵法較べをさせてください」と願い出ます。
 興長は応諾し、主君・忠興に2人の立会いの許可を得ます。

 立会いの日時は、4月13日辰の正刻(午前8時、日にちについては諸説があります)、場所は舟島と決まりました。
 武蔵は下関の回船問屋・小林太郎左衛門の所にいました。13日、夜が明け日が高くなっても武蔵は一向に起きてきません。太郎左衛門が心配してもはや辰の刻となるといっても起きません。そこへ小倉から飛脚が来て、約束どおり定刻に小次郎が舟渡りしたことを告げます。
「間もなく参上いたす」と返答し、朝食をとり、かいを太郎左衛門から1本もらい受け、それを木刀に削り始めるのでした。また飛脚が来て、早く島渡りするように催促します。

 武蔵はようやく船に乗り込みました。やがて船が船島に付いた頃にはもう巳の刻(午前10時ごろ)を過ぎていました。すでに島は検使や警備の士で物々しい有様でした。
 かいの木刀引っ提げるや素足で船から降り立つ武蔵。対する小次郎は、はなはだ待ちくたびれていました。武蔵野姿を目にするや憤然として立ち上がります。いつもの猩々緋(しょうじょうひ)の袖なし羽織に染革の裁っ着けばかまにわらじを履き、3尺あまりの大刀を帯びていました。「われ、かくのごとく時刻に先立ちて来ている。しかるにその方の遅滞は何事か。心臆したるや」と言って刀の柄に手をかけました。

 黙っている武蔵に小次郎はさらに苛立ち、刀を抜き放つや、さやを海中に投げ捨てました。武蔵はにっこり笑い、「小次郎敗れたり、勝者なんぞそのさやを捨てん」と言い放ちました。
 怒った小次郎は武蔵が近づくやいなや刀を真っ向から振りたて、打ち下ろしました。同時に武蔵は飛び上がりざま、かいの木刀を打ち下ろしました。その木刀が頭を割り、小次郎は倒れたのでした。
 小次郎の刀は、切っ先が武蔵の巻いていた鉢巻の結び目を切っていたので鉢巻がはらりと落ちていくのでした。
    
市報「みらい」より
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