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源 義経  1159-1189 (みなもとのよしつね)

 平安末〜鎌倉初めの武将。義朝の子。母は常盤御前(ときわごぜん)。幼名牛若丸といい,源九郎(くろう)と呼ばれた。平治の乱で捕らえられ,京都の鞍馬(くらま)寺に入った。のがれて陸奥(むつ)の藤原秀衡(ひでひら)のもとで成長。1180年兄源頼朝の挙兵を聞きそのもとに参加。1184年源(木曾)義仲を討ち,一ノ谷の戦で平敦盛(あつもり)・忠度(ただのり)らを殺し,1185年総帥(そうすい)として屋島の戦から壇ノ浦の戦で平氏を滅亡させた。しかし後白河上皇の信任を得ていたことなどから頼朝にきらわれ鎌倉に入ることを許されなかった。再び秀衡を頼ったが,秀衡の没後頼朝に屈した子の泰衡のため衣川(ころもがわ)で殺された。

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 世間一般では「判官贔屓」などといって、兄、頼朝のために命がけで平家を討ったにもかかわらず、報償を受けるどころか、逆に追討される身となり落ちて行く哀れさが共感されている。しかし、実際の義経は、戦には何の関係もない平民の住んでいる街に次々と放火して多くの命を奪ったり、行軍の過程で農村を襲い、農作物などの略奪を行っていた。

 源平最後の決戦の地となった壇ノ浦では、彦島から平家に請われて水主梶取(かこかんどり)として船に乗った彦島の漁師をことごとく射殺した。当時の戦においては、水主梶取は戦に関係のないものの役目であり、矢を射る際にも彼らを射ないように注意を払うのが武士道であったが、義経は血も涙もなく彦島の漁師を射殺して勝利をものにした。平家滅亡後、義経は平家の城のあった彦島に上陸したが、遠征で心身共に疲れ果てた源氏の武将以下は、暴徒と化し、農家を襲って田畑を荒らし、平家の女官といわず、漁師の子女といわず女性に対して陵辱の限りを尽くし、多くの女性が自ら命を絶った。

 平家物語研究家・石母田 正氏はその著書「平家物語(岩波新書)」の中で「かれ(義経)の風貌は『色白うせい小きが、向歯の殊に差出』たるもので、決して美丈夫には書かれていない・・・(中略)・・・これは決して理想的人物を形容する言葉ではないことはたしかである」と平家物語の解釈に立ち返って記述している。すなわち、「源平盛衰記」や「義経記」と時代が下るにつれて、和歌を作る教養人やロマンスの主人公のような、平家を滅ぼした義経とは何の関係もないところの現在知られている人格が形成されていったわけである。

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