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狩野 芳崖 (かのほうがい)  

 狩野芳崖(かのほうがい・1828-1888)は、長府藩5万石の御用絵師狩野晴皐(かのうせいこう)の長男として長府印内に生まれた。長府狩野家は狩野本家から狩野の姓を許された家柄で、代々画を業とした。

 芳崖は幼少の頃から父に就いて画技を学ぶ。15歳ころに元服して「延信」と名乗り、号も「松隣」から「皐隣」に改めるが、このころ描かれた作品には、すでに大器の片鱗がうかがえる。19歳の時、父とは別に藩から給禄を与えられ、この年、江戸遊学も許され、木挽町狩野家の画塾に入門する。木挽町狩野家には、曾祖父察信や父晴皐も就学したが、芳崖の時代の当主は勝川院雅信であった。勝川院画塾での修業を通常の門弟よりはるかに早く終えた芳崖は、「勝海」の国号と「雅道」の名を与えられ、郷里長府で本格的に絵師として活動する。その後も芳崖は、長い狩野派の伝統の中から生まれた名作に加え古画の研究も行い、次第に雪舟・雪村の画風に傾倒して自己の画風確立をめざす。「芳崖」の号は、狩野派の法外にでる決意で音を通じさせ名乗るようになったと伝えられる。

 その後、幕末の動乱や明治維新後の社会的混乱によって、困窮生活を余儀なくされ、経済的苦難を打開するため明治10年に上京する。東京でも事態は変わらず、輸出用陶器の下絵描きなどで生計を立て、しばらく不遇の時代は続いた。明治12年に、「犬追物図」制作のため、島津家に月給30円で3年間雇用されてやっと生活の安定を見る。芳崖が世に認められるのは、明治16年アメリカ人教師アーネスト・フェノロサに出会ってからで、日本の再生をめざすフェノロサは東洋画の伝統を継承する芳崖の中に、日本画革新者としての資質を見出し、芳崖を経済的・精神的に支援した。芳崖は、フェノロサの西洋合理主義精神に裏付けられた絵画理論を研究し、日本画研究団体・鑑画会に「仁王捉鬼図」など、次々と実験的作品を発表する。同時に、新時代を担う人材の育成を託され、東京美術学校の開校準備に携わり、いよいよ芳崖の時代が始まろうとした時、絶筆「悲母観音図」を残して永眠した。

 芳崖の革新は、近代円本画が受容しなければならなかった西洋合理主義精神と、自然主義的な日本の心情との融和をはかるものであり、彼の残した意欲的な作品群は、後につづく画家に多人な影響を及ぼしている。

下関市立美術館・館蔵品展解説カードより引用
インターネット彦島は下関市発行物の非営利目的での引用許可を得ています。

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