Web Communication Board http://hikoshima.com/bbs3 Web Communication Board最新記事 令和元年2019年7月 http://hikoshima.com/bbs3/hikoshima_slink/103984_36.html#36 令和元年2019年7月[36]:空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月20日 04時35分05秒 ) ジムのエアコンが止まって3日目。 しょうがないからドアを開けている。 でも廊下のエアコンも止まっているから冷たい風は入って来ない。                          信じられない!                          この南洋の世界でエアコン無しのガラス鉢仕様のマンションでジムするなんて そんな汗だくでワークアウトしているワタシ達に セキュリティのお兄ちゃんが来て「ドアは閉めておけ」って言うのです。      バカかコイツ            みんな無視よね      それどころか今日で3日目だよ            今頃なに言ってるの?コイツ! でも、無視してても、と思って優しい心のわたしは(思わず「野菜の心」って入力しそうになっちゃったよ)ドアに立ってるお兄ちゃんに 「エアコンが止まってるんだよぉ」 と言ったら このお兄ちゃんは何を思ったのか無線で連絡しようとしたから 「ほら、ドアに書いてあるでしょ、エアコンが止まっている、って。今日で3日目だよ」 と教えてあげたので お兄ちゃんは恥をかかずに済みました。 ハワイの仕事場って 横の連絡も縦の連絡も無しなんだね とコッチがビックリしたよ。 2019-07-20T04:35:06+09:00 長上郡の服部氏族CXX?:123:現場100回-4 http://hikoshima.com/bbs3/heike_slink/101674_52.html#52 長上郡の服部氏族CXX?:123:現場100回-4[52]:空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月19日 14時23分54秒 ) 三つ柏さん いよいよ選挙ですね。 終わるまで大変ですね。 暑いでしょうから熱中症にならないように頑張ってくださいね。 >系図というものの信憑性が問題ですが、キーマンとなる人々は――      ?時定(〜保俊)      ?家貞・家長      ?宗清、家清 >でありますね。 >ここの組合せのパターンが、色々な系図に表現されているわけで、 >どれも「当たらずとも遠からず」かも知れませんが、 >そんな様相を呈しております。 まさに!「当たらずとも遠からず」ですね。 いろいろな系図を見てても  一応  平家っぽい名前だから  なるほどと納得します。 時定についてはムカシは  (うそだぁ〜)と思ってましたが   堂上平氏の母から生まれたのかな  と思えば  家長の嫡男だったのかな  と納得です。 本当にムカシの家族関係は「分からない」のヒトコトです。     A.実親なのか養親なのか猶親なのか?     B.親子として血は繋がっているのか?一族として一応繋がっているのか?全く繋がっていないのか? ただしムカシは力があれば子供の数が多かった。     実の子?     取り敢えず実の子として     分からないけど多分自分の子として     多ければ多いほど良いからとにかく希望者は受け入れる        秀吉なんて最たる人だと思いますね          ねねさまに子がいなかったから          信長さまにお願いしてお子さまを貰った          家康さまにお願いしてお子さまを貰った          利家さまにお願いしてお嬢さまを貰った          ねねさまの甥ごさんをもらった          分からないけど京都でねんごろになった女が「アンタの息子や」と言うて転がり込んで来たから受け入れたった             おそらく大野治長の子供達であろうけど  お捨てとお拾いの男の子達2人を自分の子とした             自分には子供がいないし、もともとは信長さまの姪のお茶茶さまの腹だから、ま、いいかっと                   ワタシは秀吉は大野治長とお茶茶の相思相愛を知ってたと思う                      おんなの勘。オバサンはこういうことには鋭いのだ                      大野治長はお茶茶の乳母の子だから、そりゃあ、愛してたと思いますよ。愛さない方が不自然 少なくとも服部家長と平田家継が伊賀を治めていた その後 頼朝の肝入りで宗清が伊賀を押さえることになった            柘植の土地以外での服部一族の反発は大きなものだったと想像します そのずっと後に  千賀地の服部半さんの家と  西湯舟の藤林さん  そして喰代の百地三太夫が  伊賀の覇権争い。        西湯舟あたりは地理的に柘植宗清系かも       喰代は平田家継系かな?       などと勝手に妄想。 平安時代に戻って伊賀を考えると 恐らく平田家継という人物は母が平家の一族の娘だったんじゃないかな?     清盛の家=平家の頭領の家=の家令が家貞・貞能ラインだったのは貞能の母が豪族の宇都宮氏の出だから、貞能は嫡男として扱われた。 それで家継が伊賀(や伊勢)を治める役を果たした。 家長の母も結構良い家の出だったんだろうと思う。 何故なら家長は京都にいたから。    清盛の後妻の時子さんの生んだ知盛さまの養い親になっているから。 だから  伊賀の面倒を実際に見てた人物は  平田家継  だと思う。 そして数多い家長の子供達の内の何人かが伊賀に来てて家継と共に伊賀を治めていたと思う。 だから家長の子が  時定とか家清とか  が  壇の浦の後に系図の上でウロウロしているのだと思う。 とにかく当時は子供の数が多いし 伊勢伊賀京都を支配するのに男子が 大勢必要だった。       実際に壇の浦で平家が滅びた後に伊勢や伊賀で蜂起してますから。       ゲリラ活動するだけでも数は要りますからね。 2019-07-19T14:23:55+09:00 長上郡の服部氏族CXX?:123:現場100回-4 http://hikoshima.com/bbs3/heike_slink/101674_51.html#51 長上郡の服部氏族CXX?:123:現場100回-4[51]:三つ柏服部さんからのコメント(2019年07月19日 09時59分16秒 ) 空の青海のあを様  一番重要な伊賀服部氏の系統についての論究、ありがとうございます。  系図というものの信憑性が問題ですが、キーマンとなる人々は――  ?時定(〜保俊)  ?家貞・家長  ?宗清、家清 でありますね。  ここの組合せのパターンが、色々な系図に表現されているわけで、どれも 「当たらずとも遠からず」かも知れませんが、そんな様相を呈しております。  宗清からの柘植氏の流れについては、柘植氏による柘植氏のための系図と その研究がありますので、その部分についてはかなりの信憑性があります。 但し、その柘植氏系図は服部氏の接点(枝継ぎ部分)については無視に近いの でありまして、これは「柘植氏」のプライドがそうさせてきたのでしょぅか。 そこの歴史的及び地理的背景部分については、一度詳しく分析してみる必要 がありますが、『伊賀市史』を読むとおおよその要因が見えてきます。ここ は少し時間を頂いて分析してみたいと思っております。     いずれにしましても、服部氏と柘植氏は伊賀の平家方の流れをくむ二大 支族であることは間違いありません。  一旦ここで切ります―― 2019-07-19T09:59:16+09:00 令和元年2019年7月 http://hikoshima.com/bbs3/hikoshima_slink/103984_35.html#35 令和元年2019年7月[35]:空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月18日 15時07分24秒 ) ジムの新しいマシンが100%使えるようになったから試してみた。 テレビの使いかたもマスターした。 その後、女性が3人来て、彼女達は全くテレビが使えなかった。 わたし、機械音痴だけど、ワタシより重症の人がいると知ってビックリだった。 3人のうち1人はマシンの止め方も理解出来ないから OFFを押せ と言ってあげて・・・ そうか  OFFボタンに触るのも怖かったのか。 ワタシだったら、コワイからOFFボタンを押すと思うけど。 わたしも近い将来ヲタヲタするんだろうな。 2019-07-18T15:07:24+09:00 令和元年2019年7月 http://hikoshima.com/bbs3/hikoshima_slink/103984_34.html#34 令和元年2019年7月[34]:空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月18日 15時01分06秒 ) 日本の鬱病患者数がすごいことになっているとは聞いていたけど ある人は中学時代に鬱病を発症してたと知ってビックリした。早過ぎない? もう1人は高校生の時。リスカもやってたって。 高校の時に鬱になって という人は 今はおばさんですっごく太ってて ところが若い時の写真は、もう、美しいのなんのって。 で、彼女の家族がすっごい美しい人達だった。 つまり美しく生まれたから、ちょっとズレたのか、と。 中学の時から夜遊びしてて、と言うから、え?オトコと? とビックリした。 そういう道の外し方ってあるんか、とビックリした。 美しく生まれるってそーゆーこともあるのか。 2019-07-18T15:01:06+09:00 平知盛伝説・子孫友森氏 http://hikoshima.com/bbs3/heike_slink/100079_80.html#80 平知盛伝説・子孫友森氏[80]:友森 章さんからのコメント(2019年07月18日 08時13分46秒 ) はじめまして。 自分は友森といいますが 友森総本家には 巻物が有り一度見た事がありますが 壇ノ浦から島根県に逃れ島根半島から自分の住む鳥取県米子市葭津に 落ち着き住み着いたと絵と文字で書かれていました。 2019-07-18T08:13:46+09:00 新潟の今井姓について http://hikoshima.com/bbs3/heike_slink/101104_28.html#28 新潟の今井姓について[28]:よしさんからのコメント(2019年07月18日 06時37分52秒 ) 吉田町今井家、今井吉郎の孫に当たります 祖父は長岡今井本家の出身と聞いています 苗字帯刀を許され、明治当時は財閥の扱いで銀行などを持っていたようです 戦時に祖父は長男では無かった為、福島県喜多方市に疎開しました 現在も吉田町に本家のお墓があります、お墓に階段が有り戦前は屋根の付いた大きなお墓でした 調べたら私の遠縁の方が今井家の資料館などもやっているようです 2019-07-18T06:37:52+09:00 長上郡の服部氏族CXX?:123:現場100回-4 http://hikoshima.com/bbs3/heike_slink/101674_50.html#50 長上郡の服部氏族CXX?:123:現場100回-4[50]:空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月18日 03時51分04秒 ) で、服部公清の「公」に関係ありそうな藤原氏を捜したところ   藤原公教が1番可能性がありそうな人物として浮かびました。         他には藤原公通・藤原公光・藤原公保あたりですが。 結論:「公」のつく藤原家に養女に行った女性なら可能性がありそうですが、上記の藤原公さん達とは関係無いと思う。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%85%AC%E6%95%99 三条 公教(さんじょう きみのり/きんのり)    平安時代後期の公卿。太政大臣・三条実行の子。官位は正二位・内大臣。 母方の祖父・藤原顕季の引き立てで13歳で鳥羽天皇の侍従となった公教は、天皇が寵愛する従兄弟の美福門院(顕季の孫娘)との関係を利用し、31歳で参議として公卿に列した。譲位して院政を開始した鳥羽法皇も公教の質実で勤勉な態度を高く評価して院庁の執事別当として裁判・行政の中枢を任せた。 久寿2年(1155年)、美福門院所生の近衛天皇が急死すると、権大納言であった公教は鳥羽法皇・関白藤原忠通らごく数人と秘密裏に会議を開き、近衛天皇の異母兄雅仁親王(後白河天皇)の即位を決定した。翌年鳥羽法皇の崩御直後に保元の乱が起こると、公教は忠通・信西と共に後白河天皇の傍に近侍した。乱で天皇方が勝利すると、延期されていた鳥羽法皇の葬儀を執り行い、また信西の勧める記録所復興に賛同してその長官に就任した。これらの功績が評価されて保元2年(1157年)に内大臣(前年任ぜられた左大将を兼務)に就任している。 平治元年12月(1159年1月)に勃発した平治の乱においては、一旦は政局を手におさめた藤原信頼に気づかれないように二条天皇を内裏から脱出させて平清盛がいる六波羅に御幸させる工作を行った(『愚管抄』)。これが信頼失脚と藤原経宗らの天皇親政派の勝利を決定づけた。 だが、その翌年に58歳で父・実行よりも先に急逝した。 藤原公保 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%85%AC%E4%BF%9D 徳大寺 公保(とくだいじ きんやす) 平安時代後期の公卿。左大臣・徳大寺実能の三男。官位は正二位・権大納言。 以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。 保延2年(1136年)1月6日、従五位下に叙される[1]。保延5年(1139年)1月24日、侍従に任ぜられる。康治3年(1144年)1月5日、従五位上に昇叙。久安5年(1149年)3月13日、正五位下に昇叙[2]。同年4月15日、右近衛権少将に任ぜられる。久安6年(1150年)1月29日、備中権介を兼ねる。同年3月14日、皇后宮権亮を兼ねる。久安7年(1151年)1月6日、従四位下に昇叙。仁平元年(1151年)2月21日、権亮を辞す。同年7月27日、左近衛権少将に転任。仁平2年(1152年)1月3日、従四位上に昇叙(行幸時の院の賞。統子内親王給。)。久寿2年(1155年)1月6日、正四位下に昇叙[3]。保元元年(1156年)9月17日、右近衛権中将に転任。同年11月28日、皇太后宮権大夫を兼ねる。保元2年(1157年)8月3日、禁色を許される。 保元2年(1157年)10月27日、従三位に叙される[4]。中将を止めるが、皇太后宮権大夫は元の如し。保元3年(1158年)2月3日、太皇太后宮権大夫に転任。同年11月27日、右兵衛督に任ぜられる。同年12月17日、正三位に昇叙[5]。 永暦元年(1160年)2月28日、参議に任ぜられる。太皇太后宮権大夫は元の如し。同日、右兵衛督から左兵衛督に転任。応保元年(1161年)1月23日、伊予権守を兼ねる。応保2年(1162年)10月28日、右衛門督に転任。長寛3年(1165年)1月23日、権中納言に任ぜられる。太皇太后宮権大夫、右衛門督は元の如し。同年4月1日、検非違使別当に補されるが、8月17日には右衛門督と検非違使別当を辞した[6]。永万2年(1166年)7月5日、勅授を許される。同年10月21日、太皇太后宮権大夫から大夫に転任。仁安2年(1167年)1月28日、従二位に昇叙。同年2月11日、権大納言に任ぜられる。太皇太后宮大夫は元の如し。嘉応2年(1170年)1月7日、正二位に昇叙[7]。安元2年(1176年)、権大納言を辞退し8月13日に出家[8]。9月27日、薨去。享年45。 2019-07-18T03:51:04+09:00 長上郡の服部氏族CXX?:123:現場100回-4 http://hikoshima.com/bbs3/heike_slink/101674_49.html#49 長上郡の服部氏族CXX?:123:現場100回-4[49]:空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月18日 03時22分31秒 ) ジムでツラツラ考えた:おおざっぱなハナシです      まず平家という家。      本貫地が伊勢と伊賀。      その後      京都にも進出。 で、平家は伊勢伊賀京都を中心にして 京都には   忠盛  清盛  重盛  の家が居を構え  正妻にはおおまかに藤原氏系からヨメを貰った。        この家の家令には平家貞・貞能一族が占めた。 伊勢はおおまかに盟友の藤原(伊藤)家に任せた。        伊藤も京都で忠盛・清盛・重盛の家の家令を勤めた。 伊賀は平家貞の家に任せた。        この家貞の補佐が(おそらく弟の)平田入道定次で後釜が家長であり家継。             わたし的には北伊賀が家長で東伊賀が家継という感覚           家長は16歳の時点で忠盛のボディガードをして京都にいた。           だから実効支配していたのは家長の兄の家継だったであろう         で、家長の正妻は恐らく清盛の後妻の平時子とその兄の時忠に繋がる家の娘であったろう だから正妻の子だから通字が「時」で、服部時定という人物が家長の子として記録されているのであろう。          1147年に清盛と時子の間に宗盛が生まれているので        家長はアラサーですね。30歳ぐらい。        1152年に清盛と時子さんの間に知盛さまが生まれている。        家長の家が知盛さまの乳兄弟の家と知られている。        なので、この辺りには家長の正妻さんが堂上平氏の家から来ているはず        時定はこのあたりに生まれているのだろう          時保の養子に服部公清の子が入って保俊を名乗り この子孫が  服部宗純や服部半蔵や名張の服部家へ 柘植については宗清が頼朝から柘植を拝領して柘植を名乗るわけですが 宗清の父とされる服部季宗が実の父なのか養父なのか? 一説には家長の子が宗清という系図もあるので養子に出た? どっちにしろ本姓平氏で俗姓服部。で、屋号が頼朝からの拝領の柘植姓。  服部時定の子が時保。  時保の長男の宗保が柘植に養子に入って清正と名乗り子供達が山川・柘植・西川・松尾・北川を名乗る。 時定の孫の宗保は壇の浦の時には恐らく乳飲み子あたりで曾祖父である家長の家が潰れたから柘植宗清の家に貰われていったのだと思う。 服部時定の孫の   つまり  宗保の弟にあたる  保俊の父は 服部公清なので  「公」を通字とする藤原氏出身の母から生まれたのだろうと思う。 公清が家長の子なのかどうかはイマイチ分からないけれど  公清の子の保俊が時定の孫となって服部宗純や半蔵や名張服部になる。 当時の「公」を通字とする人物を見つけたいです。 ジムで以上のことを考えました。 名前が似ててこんがらがる。 2019-07-18T03:22:31+09:00 長上郡の服部氏族CXX?:123:現場100回-4 http://hikoshima.com/bbs3/heike_slink/101674_48.html#48 長上郡の服部氏族CXX?:123:現場100回-4[48]:空の青海のあをさんからのコメント(2019年07月17日 23時10分59秒 ) 三つ柏さん わたしの資料では   宗純は  家長の子の服部時定の子孫です。                             この時定という人の母が堂上平氏の(清盛の後妻さん系平氏)の出身ならスッキリします。 時定の孫の宗保というのが柘植の家に養子に行って後世に観阿弥が生まれています。 で、服部時定   服部家長  服部公清  服部季宗(宗清の父)ということで  このあたりは皆さん  服部姓です。  笑 つまり(北)伊賀を治めていた平家の一族は皆さん俗姓が服部??? つまり伊賀で睨みを利かせていたのが服部家長だったんでしょう。 壇の浦の時に家長は  アラ70  だったから  伊賀は既に家長の子や孫の時代になっていたはずです。 家長の子に3人子がいて   家清  家貞  柘植宗清  になってて  家清から服部時定の家に入ってます。笑 服部時定のの子孫に服部公清が入って  後世  宗純系と家康祖父に仕える系に分かれます。 今からジムに行きます。 2019-07-17T23:10:59+09:00