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青海のあをさんからのコメント(2015年05月27日 15時00分17秒 ) パスワード
これまで古河から江戸へは1日足らずで到着することができたのですが、飯田からは早くても4日は要するので、予てから江戸に屋敷を普請しようと考えていました。するとこの度、徳川秀忠様から和田倉御門の内(皇居外苑)に上屋敷を与えられることになり、屋敷を建造していきました。この頃になると、小笠原家は秀忠様から親藩並みの扱いを受けるようになり、何かと厚遇を受けるようになりました。一方で時折、飯田の領内整備を行うために帰国しました。天気の良い日には鷹狩りをしたりして過ごし、羽広山観音堂(伊那市)を建立するなどしました。翌慶長8年(1603)には、上屋敷が手狭なので家臣達を詰めさせるのに難儀し、下屋敷として本郷追分(東京都祢津神社の北隣)に土地を手に入れて屋敷を造りました。この時、秀忠様に呼び出されて「あそこは原野のような所で、上屋敷より遠くて不便だろう。代わりに近くに土地を与えるからそこに屋敷を普請するように」と申してくれました。しかし私が「この辺りもしだいに繁昌して家が軒を連ねてきたので、いずれは町の中核となるでしょう」と答えると、秀忠様は御満悦の様子でした。またこの年、飯田城下に松寿山光久寺を建立し、阿闍梨良運を住職としました。この寺はこれまで松本にあって小笠原家累代の祈願所でした。しかし祖父が信濃国を去ってから衰退して荒れ果てていましたが、その後に父が松本に復帰したので修造して小笠原家の昌隆を祈らせていました。古河に移ってからも何度か呼び寄せて祈祷をさせましたが、この度は飯田へ移封となったので、松本から飯田へ移築させました。
慶長10年(1605)2月、徳川秀忠様が将軍宣下のために上洛することになりました。私も上洛を命じられ、隊列の4番組となり、保科正光殿、諏訪頼忠殿と一緒に兵を進めました。秀忠様は一先ず二条城に入り、4月26日に御所へ入ることになりました。当日、私は束帯を着用して、7番騎馬諸大夫の後方に松平安房守信吉殿と並んで参内しました。この頃になると秀忠様直属の配下として常に呼ばれるようになり、私を信頼してくれてのことで誠に名誉でした。
慶長11年(1606)正月、私は年賀の挨拶に伺う際に、将軍秀忠様から息子2人を連れて登城するように命じられ、幸松丸と春松丸を伴いました。そして幸松丸は叔父である秀忠様の1字を頂戴して「忠脩(ただなり)」と名付けられて従5位下信濃守を賜り、春松丸は「忠政(ただまさ)」と名付けられて大学頭を賜りました。これにより私は息子が信濃守を名乗ることになったので、さっそく小笠原兵部太輔秀政と名乗ることにしました。
慶長12年(1607)、大御所家康様の孫にもなり、私にとってもかけがえのない妻が、看病の甲斐なく疱瘡で死亡しました。享年31歳。葬送の時に寂誉上人呑宿和尚を導師とし、飯田城下にあった『慶林寺』を修繕して『峯高寺』と改名して手厚く弔いました。私は落胆のあまり剃髪し、息子の忠脩に家督を譲りました。領地の2万石を自分のものとし、残りを忠脩に与えて家老の犬甘久知と小笠原政直を始めとした諸家臣を忠脩の附属としました。私の家老は二木政成、春日道次、小笠原政信としました。家督相続の件は幕府へ正式に届け出ていないので、他所の者は知らぬことでした。その後、9歳になった3男の虎松丸が将軍秀忠様に呼ばれ、真に名誉ながら幼年の家光様に付けられることになりました。この年、妻の叔父として関ヶ原以来親しい間柄の越前国藩主(福井県)の結城中納言秀康様から秘蔵の太刀(伝 長谷部国重作)を頂戴しました。結城秀康様は北ノ庄を福井と改名されたので、私もこれに倣って秘蔵の太刀を『福井江』と名付けて、以後我が家の家宝としました。
慶長14年(1609)2月、将軍秀忠様の命により、私の娘である千代が養女とされ、豊前国の細川内記忠利殿に輿入れすることになりました。細川忠利殿は細川忠興殿の嫡男で豊前国中津城を居城としていました。土井大炊頭利勝殿が総取締りとなり、3月中旬に千代姫は江戸を発って駿府城に入りました。そこで大御所家康様から「そなたの母が存命であれば、どれほど喜んだことであろうな」と話されたと後で聞きました。その後、駿府で5日間逗留してから、東海道を西へ進みました。行列は華美を極め、道中の領主は裃を着用して御迎えし、輿の先に立って領内を通過するまで案内をしました。伏見では松平三河守忠直様の御宅へ逗留し、そこへ豊前国から家老の長岡佐渡守が迎えに来ました。淀川の川舟は豊臣秀頼様から故太閤様の鳳凰丸をお貸しいただき、河口では様々な饗応を頂戴しました。そこから豊前国の迎え舟に乗って4月22日に竹田津に到着しました。ここで細川忠利殿が御迎えに上がり、24日中津城において婚礼が行われました。千代姫には豊後国日田郡に3千石の化粧料を与えられ、誠にありがたいことでした。
その後は飯田と江戸を往来して平穏な生活を過ごし、慶長15年(1610)には将軍の御前で行われた謡始に出席し、松平信吉殿と対座して歌を詠みました。慶長16年(1611)には忠脩に続いて忠政までもが従5位下を賜りました。慶長17年(1612)になると忠脩も17歳となり、そろそろ私と同じように糾方的伝を教えることにしました。糾方的伝は、世々嫡子1人に限るものでしたが、忠脩が「10世以前の小笠原長基公の時に、嫡男長秀公と次男政康公に糾方的伝をした前例がある」と、忠政にも教えるように訴えました。これにより2人に糾方的伝を授けることにしました。政治面では田中城を廃して、そして伊那街道沿いの木下村に陣屋を建て、田中城に詰めていた者達の屋敷割りも新たにして、北地域における政治の中核としました。慶長18年(1613)4月には、島田村(飯田市松尾)の八幡宮(昭和24年に鳩ケ嶺八幡宮と改称)の宝殿を修繕しました。15代以前の小笠原長政公が正嘉元年(1257)に山城国男山八幡宮を勧進して建立し、松田左近大夫清祇を神職にしました。それから源氏である小笠原家は代々この八幡宮を崇敬してきました。
宝殿の修繕が成った数ヶ月後の10月19日、松本城主の石川康長殿が、大久保長安の事件に加担していたとして改易になりました。身柄は豊後国佐伯藩(大分県)の毛利伊勢守高政殿に預けられました。私は松本の様子を良く知っているので、幕府から松本城の受け取りを命じられました。松本城は私が在城していた頃とは全く様相を呈して変わり、見事な黒光りの天守が聳えた巨大な城となっていました。さっそく兵を率いて松本城に入り、見事な本丸と二ノ丸御殿などに眼を見張りましたが、城を無事に引き取りました。そして幕府は飯田の領地を天領として私に預けたままとし、加増して8万石となって松本を与えてくれました。飯田城には光三郎福清を置き、番人、役人定めて光を補佐させました。松本城の本丸には忠脩を入れ、私は隠居しているので二ノ丸の館に入りました。そして開善寺を再び飯田から松本へ移し、住職は蛮宿和尚の弟子である筠州和尚としました。また『峯高寺』と『大隆寺』も松本に移しました。さらに郭外の清水には『向南山臨済寺』を創建しました。
石川殿の治世により、領内は以前とは大きく変わっていたので、差出検地を行って実際の石高を把握し、北国脇街道の整備や宿駅・伝馬制の設置を行いました。そしてこの年、石川康長殿の岳父で下野国佐野(栃木県)の佐野修理大夫信吉殿が大坂に内通していたとの罪で、私に預けられることになりました。既に亡くなっている佐野殿の父上である富田平右衛門知信殿は、豊臣秀吉公の直臣として石川数正殿を豊臣方へ寝返えらせた張本人になります。佐野殿の兄上である宇和島藩主富田信濃守知高殿が前年に改易されたので、佐野殿もいずれは改易になるのではと噂がありました。こうして幕府は、大御所家康様を裏切った過去を持つ石川、富田の血筋を消し去ることに成功しました。私も父上の命とは言え一度は出奔しているので、その一味とされないように注意すべきだとあらためて思いました。佐野殿は3名の家臣を伴って江戸から松本に移り、空いていた本町東にあった石川康長殿の家老であった渡辺金内長次の下屋敷に監禁しました。
慶長19年(1614)2月、松本復帰の祝いとして安原山安楽寺、光久寺に寄進して本堂を修復し、忠脩は浅間郷(松本市浅間温泉)に『大雄山法性寺』を建立し、私の母の延寿院殿は『成道山本立寺』を建立しました。そして今度の松本復帰に配慮していただいた大御所様へ御礼するため、8月に忠脩を伴って駿府城の大御所様に拝謁しました。それから松本に帰城すると、ある母子が私に面会を求めてきました。母が言うには「岡崎の江戸右衛門七の妻です。小笠原様が出奔してから夫が処刑され、あれから食うにも困り生きてきました。その恩をお忘れでなければ息子を御願いします」と言いました。私はもちろん恩を忘れていなかたので、息子を江戸加兵衛と名乗らせて70俵を与えて家臣としました(その後、江戸加兵衛は100石に加増されて富永と改姓します)。
このように関ヶ原以降の14年間、順風穏やかに暮らしてきた私でしたが、この年の冬が迫ろうとした10月から大きく揺さぶられようとしていました。大御所様と豊臣秀頼様が遂に戦を行うことになり、大坂城を攻めることになったのです。大御所様と秀忠様は大坂へ向けて出陣するととになり、私は松本城と中山道の守備を命じられ、忠脩は大坂への出陣を命じられました。忠脩にとっては初陣になります。初陣と雖も歴戦の犬甘久知、小笠原政直などが付いていたので安心していました。そして兵3300を率いて松本を出陣して行きました。忠脩はまず駿府城に入り、その後大坂へ向かい、河内国讃良郡須奈村(四条畷市)に陣を置きました。秀忠様の直属軍に編成され、大坂城を包囲していましたが、一度も実戦せずに10月19日和睦となりました。そのまま忠脩は大坂城の堀の埋め立てが完了するまで在陣を続けました。今回の戦の褒美として5男の虎松丸が従5位下壱岐守に任じられ、高井郡井上村(須坂市)5千石を賜りました。
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[1] 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月03日 03時31分14秒 ) パスワード
全く分かりませんが
高場という名字は地名の高場から出ているのではないでしょうか?
茨城県ひたちなか市の高場じゃないかと想像しています。
その根拠とするのは
一疋鴾毛 江戸の太郎進す 一疋河原毛 下河邊の四郎進す
一疋栗毛 武田の太郎進す 一疋栗毛駮 吾妻の八郎進す
一疋青黒 高場の次郎進す 一疋鴾毛駮 豊田の太郎進す
一疋鹿毛 小栗の十郎進す 一疋葦毛 葛西の三郎進す
一疋白栗毛 河越の太郎進す 一疋黒瓦毛 中村庄司進す
からです。
1番の正攻法鎌倉幕府の御家人のリストを見ることだと思います。
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[18] 空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月16日 14時21分00秒 ) パスワード
鉢田の戦い
戦争:治承・寿永の乱
年月日:治承4年(1180年)10月14日
場所:駿河国鉢田山(現在地不明)
結果:源氏軍の勝利
交戦勢力
指揮官
武田信義・北条時政 vs 橘遠茂・長田入道
鉢田の戦い(はちたのたたかい)とは平安時代末期の内乱である治承・寿永の乱における戦闘の一つ。
武田信義・北条時政と駿河国目代橘遠茂・長田入道との間に起こった戦い。
経過[編集]
治承4年(1180年)8月、石橋山の戦いの直後、甲斐の国境の波志田山において、甲斐源氏の安田義定らと駿河目代橘遠茂らが交戦し甲斐勢が駿河勢を打ち破った(波志田山合戦)。その頃までには甲斐源氏は甲斐一国を占領下においていた(『山槐記』)。
9月10日、武田信義・一条忠頼父子は信濃へ侵攻を期し、諏訪上宮に入った後その近辺の平家方の豪族を打ち平らげた。信濃を制圧した武田父子は9月14日、甲斐へ帰還する(『吾妻鏡』)。一方、石橋山の戦いの後、北条時政・義時父子は甲斐国へ赴き武田信義ら甲斐源氏と合流する。その後土屋宗遠も甲斐へ赴く(『吾妻鏡』『延慶本平家物語』)。
9月24日、甲斐源氏は軍議を開き駿河への侵攻を決定する(『吾妻鏡』)。一方石橋山の戦いで破れた源頼朝が生存していて坂東で勢力を拡大していると知った
平家は9月29日、平維盛を総大将とする追討使を進発させた(『玉葉』)。また、甲斐源氏が軍備を整えているという噂を聞いた駿河国目代橘遠茂は10月1日、駿河・遠江から兵を集めた。
10月13日、武田信義、一条忠頼、安田義定らの甲斐源氏は加藤光員、加藤景廉など石橋山の戦いで敗れた頼朝配下の武将たちのもその軍に加え富士北麓若彦路へ向かった。
同日、橘遠茂と長田入道は甲斐勢力を撃滅すべく富士野を回って甲斐国に攻め込もうとする。
翌14日、駿河勢が鉢田に進軍したところ甲斐勢と遭遇し戦闘が開始される。
山岳地帯の戦闘は甲斐勢が優勢となり、橘遠茂の子息二名、長田入道が討ち取られ、橘遠茂は捕虜となった(『吾妻鏡』)。
都から平家本軍が到着する前に行なわれたこの戦いにおいて、平家方の橘遠茂・長田入道が敗北した結果、駿河は甲斐源氏の手中に落ちた。
これは10月20日の富士川の戦いにおいて平家が敗北することになる要因の一つにもなった。
なお、9月に波志田山合戦の行なわれた波志田山と鉢田山の位置は同一とする説もあるが波志山と鉢田山の位置は現在も特定されていない。
橘遠茂と長田入道の関係から 平家と長上郡の関係が 浮かびません?
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[9] 空の青海のあをさんからのコメント(2018年10月26日 02時14分56秒 ) パスワード
三つ柏さん
>桂昌院については、
>春日の局のいわゆる配下にありましたし、
>また家光の側室として、
>同時にその子・綱吉の実母として、
>比類なき権力的立場にあったと思います。
>天海や公海や道海との関係も特筆に値します。 すごい人物が出て来ましたね
ということで検索して来ました:
1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%B5%B7_ (%E5%83%A7)
公海
(こうかい、慶長12年12月12日(1608年1月29日) - 元禄8年10月16日(1695年11月22日))
江戸時代前期の天台宗の僧。
父は花山院忠長。
母は本願寺教如の娘。
師の天海の没後に日光山貫主を継承する。
略歴
1620年(元和6年)天海僧正の門に入る。
1643年(寛永20年)に天海が没するとその法をついで東叡山寛永寺に住し、
天台宗の総本山である比叡山・徳川家康を祀る東照宮のある日光山を管理下に置いて
天台宗一宗を管領するようになった。
1647年(正保4年)に僧正に任じられ、翌1648年(正保5年)には大僧正に就任した。
後に守澄法親王に三山の管理者の地位を譲った。
天海の遺志をつぎ山科(現在:京都市山科区)毘沙門堂を復興している。
2 a
https://kotobank.jp/word/%E6%BD%AE%E9%9F%B3%E9%81%93%E6%B5%B7-1091529
潮音道海
ちょうおんどうかい (1628―1695)
江戸前期の黄檗(おうばく)宗の僧。
肥前(佐賀県)に生まれ、13歳で慈雲寺泰雲(たいうん)のもとで出家。
その後、医王寺の瑞巌(ずいがん)について修行、18歳のとき京都に上り学習した。
近江(おうみ)(滋賀県)瑞石(ずいせき)山永源寺(えいげんじ)の如雪文巌(じょせつぶんげん)(1601―1671)などに参学した。
1654年(承応3)長崎に行き、黄檗宗の道者超元(1602―1663)について修行し、東明寺にとどまり、
隠元隆(いんげんりゅうき)や木庵性(もくあんしょうとう)に学ぶ。
1661年(寛文1)京都黄檗山万福寺に赴き、ふたたび隠元、木庵に参じた。
1664年、木庵とともに江戸に行き、池田秀峰(いけだしゅうほう)、黒田泰岳(くろだたいがく)に招かれて大慈庵に住し、
上野国館林の藩主徳川綱吉が創建した万徳山広済寺に招かれると、木庵を開山とし、自らは2世となる。
禅僧でありながら神道や真言宗の教義にも通じていた。
元禄年8月24日に68歳で死去。
『摧邪輪(さいじゃりん)』『坐禅(ざぜん)論』『霧海(むかい)南針』など40巻余の著書がある。[廣瀬良弘]
2 b
潮音道海 ちょうおん-どうかい 1628−1695 江戸時代前期の僧。
寛永5年11月10日生まれ。
黄檗(おうばく)宗。
山城(京都府)万福寺に隠元隆・(りゅうき)をたずね,その法嗣木庵性瑫(しょうとう)の弟子となり,のち法をつぐ。
寛文9年上野国館林藩主徳川綱吉にこわれ,広済寺をひらいた。
元禄8年8月24日死去。
68歳。
肥前小城郡(佐賀県)出身。
俗姓は楠田。
号は南牧樵夫。
なるほどね。
やっぱり力のある所で学ばないとね。
そして、その後の運で思わぬ力を持てるのですねぇ。
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[5] 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月03日 04時42分04秒 ) パスワード
土地鑑ゼロの人間が書いてるので御容赦を。
鹿島神宮関係なら元は桓武平氏(坂東平氏)でしょう。
茨城県の南(下総)は坂東平氏の土地ですねえ。
茨城県の北の常陸国は佐竹など源氏だけど治承4年頃は平家の味方をした。
茨城県の教育委員会の歴史編纂課に問い合わせたら「高場の次郎」のことが分かると思いますよ。
今でも引き続き「大日本史」の編纂をなさっていらっしゃるので頭が下がります。
わたくしも先祖のことでは大変お世話になりましたのよ。
大きな図書館に土地の歴史を書いた本があるそうですから、そこでお調べになってみてはいかがでしょう。
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[80] 空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月11日 12時03分53秒 ) パスワード
続き
■参考略系図
・『系図綜覧』所収の佐治氏系図から作成。本文の記事に記した名と違う部分があるが、そのまま掲載した。初代の為綱は伊佐野とあるところから、近江国甲賀郡佐治郷五ケ村のうち伊佐野を領した佐治一族の一人と思われる。
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[7] 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月03日 05時06分34秒 ) パスワード
ちょっと調べてみました。
下河邊氏は藤原秀郷の子孫だけど
あとは
桓武平氏の子孫が多いですねえ。
特に下総国関係者は
良文子孫の吾妻氏と
平貞盛の弟の繁盛の子孫(大ジョウ氏)の子孫の皆さんみたいなんですねえ。
平 江戸の太郎 藤 下河邊の四郎
平 武田の太郎 平 吾妻の八郎
? 高場の次郎 平 豊田の太郎
平 小栗の十郎 平 葛西の三郎
平 河越の太郎 平 中村庄司
武田の次郎さんは甲斐源氏かと思いましたが
大ジョウ氏に武田さんというのがいますから
平氏なんですねえ。
ということで高場さんもひたちなか市の高場さんなら坂東平氏みたいですねえ。
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[26] 空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月21日 10時58分51秒 ) パスワード
本日の「直虎」
嫌われ政次の一生
神回でしたね。
現代に存続する小野一族にとっても、幸せな回になりましたね。
「白黒を つけむと君を ひとり待つ あまつたう日ぞ 楽しからずや」
へったくそな時世の句だと思ったけど、ものすごいラブレターでしたね。
碁を2人で打つ時が政次にとって直虎と二人きりになれる至福の時間
だったのですねぇ。
この時間を持てただけでも政次には充分幸せだったし
井伊のため=つまり=直虎のために自分の命を捧げることが出来て
これが彼の本懐だった
ものすごい愛でしたね。
直虎と政次の磔シーン
ああいう逆バージョンのカタチで(近藤には疑われないように)
必ず政次の遺言をカタチにする
と直虎は約束したのですね。
そして直虎が政次の命を終わらせることで直虎は政次の愛に応えたのですねぇ。
脚本家が時世の句をラブレターにしたその苦労
呻吟の思いが伝わりました。
あまつたう=天伝う=政次には直虎は天女だったのかな?=尼が来る=直虎が来てくれる
これは政次には天にも昇る心地、
羽が生えて、大空をはしゃぎながら飛び回るほどの幸せな気分、こんな楽しいことはなかったよ、おとわ、ありがとう。心からありがとう。
いつも冷静沈着で冷徹な心の持ち主のような男に見えたかも知れないけど
実は
直虎と一緒にいられる時が嬉しくて楽しくて
でも必死に顔や態度には出ないようにと隠してたんだよ
つくづくヘッタクソな句だと思うけど
愛の告白がとうとう出来たんだね。
やっぱり 政次は直虎に コクっておきたかった んだね。
直虎と政次の最後のシーンの遣り取りは 愛しながら罵倒し合う 若い男女の遣り取りみたいで微笑ましかった。
でもこういう傷つけ合うような言い回しでしか会話が出来ないシーンにカナシかったです。
近藤一味が監視してるものね。
あの磔シーンでワタシ的には充分でした。
あのラブレター(置き手紙)は必要なかったんじゃないかな〜
脚本家としては視聴者があの磔シーンを正しく理解するようにとダメ出しで?蛇足で?付けたのかな?
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[61] 空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月11日 03時09分51秒 ) パスワード
ということは紀元前3000年以前に日本にも絹は知られていたのでしょうね。
思ってたより古かったです。
レス<49>の情報をここにコピペ:
@呉越同舟の言葉で知られている春秋時代(BC772年〜BC479年)の呉
A前漢時代(BC206年〜AD8年)に漢に対して起した呉楚七国の乱の呉
B後漢が滅びて建国した魏・蜀・呉の三国時代(AD225年〜264年)の呉
ということは 絹自体は呉越同舟の春秋時代の「呉」の時代には日本に既に、とっくに、伝わっていたんでしょうね。
この時代よりずっと前に少量来てたんでしょうね。
絹の光沢に代わるものとして「鳥」の羽が利用されていたのかなと
ハワイの事情から想像しました。
人間の歴史とは、想像を超えます。
先人の生きてきた道とは物凄いものがあるんだなと改めて思いました。
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[50] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年08月20日 16時05分10秒 ) パスワード
空の青海のあを様
明朝6時に出発ですので、書き込みが24時間位とぶと思いますので、
悪しからずよろしくお願いいたします。
麻績については、帰宅後にいろいろご報告をいたしたいと思います。
麻績から見た中秋の名月はブルームーンでしょうね。
ブルームーンというと、プレスリーの「ケンタッキーの青い月」という
歌を思い出します。
今では、お月様を見て、月にウサギがいるなんて言う人はなくなりまし
たが、意外や「月とウサギ」なんてお店は結構あります。現実と科学の間
をつなぐものはロマンなんでしょうね。
月に関する歌・・・「ペーパームーン」「ムーンリバー」(U.S.A.)
「月がとっても青いから」「月の砂漠」「月の法善寺
横丁」(JAPAN)
ところが、この法善寺というのが、麻績にあるんですよ。どうなってるん
でしょう?
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伊豆を大きく見誤っていました。
先ずは水神社です。
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[42] 姫沙羅さんからのコメント(2015年02月09日 01時50分15秒 ) パスワード
丸三柏服部さん
私のイメージだと、継体天皇は出雲系、というかスサノオ系という感じですね。
まあどちらでも一緒なのですが、スサノオは北九州〜出雲がテリトリーなので。
実は私が姫沙羅を名乗っているのも、
我が家の庭に姫沙羅があるからです。(^-^)
まだまだ、うちのは芽吹くところまでいっていませんが。
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[50] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年02月10日 14時13分35秒 ) パスワード
つづき 玄松子さんのブログ
柏紋使用神社 神服神社が載ってない!
柏を図案化した紋である。
柏はブナ科の落葉喬木。
葉は広く、葉肉が厚いので、上古では食物を盛る食器とされていた。
『隋書倭国伝』に「倭人、皿や俎なく槲の葉を以てし、食うに手を用いて餔う」と記されてあるように、これは外国にまで知られていた。
食膳をつかさどる者を、古語で「かしわで」(膳夫)といったことにも関連がある。
食器として神事に使用されてから、柏木を尊重するようになり、「かしは木はもりの神」(『狭衣物語』『枕草子』)として神聖視された。
その後、製陶の技術が進んでも古儀にならい、祭事の神饌を盛るのに用いられたため、瑞祥・信仰的意義から、神職の家が柏葉を家紋とするようになった。
伊勢神宮の久志本氏、熱田神宮の千秋氏、宗像神社の宗像氏、吉田神道のト部氏、備前吉備津宮の大守氏などは、いずれも柏紋を用いた。
−参考文献 日本「家紋由来」総覧−
使用神社の例
(玄松子が参拝し確認したもの)
十日恵比須神社 福岡県福岡市博多区東公園
日御碕神社 島根県出雲市大社町日御碕455
飛鳥坐神社 奈良県高市郡明日香村大字飛鳥字神奈備708
比賣久波神社 奈良県磯城郡川西町大字唐院字教塚743
橿原神宮 奈良県橿原市久米町934 すごい!特別出演!
天健金草神社 島根県隠岐郡隠岐の島町都万砂子谷4245−3
須佐神社 島根県出雲市佐田町須佐
眞氣命神社 島根県隠岐郡西ノ島町宇賀402
神代神社 島根県出雲市斐川町神庭字宇屋谷485
竃山神社 和歌山県和歌山市和田438
西宮えびす神社 兵庫県西宮市社家町1−17
佐久多神社 島根県松江市宍道町上来待551
伊豆田神社 高知県土佐清水市下ノ加江字西高知山
朝椋神社 和歌山県和歌山市鷺の森明神丁22
船路八幡宮 山口県山口市徳地船路2617
総社 高知県南国市国分国分寺境内
天忍穂別神社 高知県香南市香我美町山川字スミガサコ
爾自神社 長崎県壱岐市郷ノ浦町有安触997
殖田神社 高知県南国市植田字東野1267
劔神社 山口県防府市大字高井1154−1
楢本神社 石川県白山市宮丸町1
山内神社 高知県高知市鷹匠町2−4−65
八倉比賣神社 徳島県徳島市国府町矢野531
三谷神社 島根県出雲市大津町下来原3559
倭文神社 群馬県伊勢崎市東上之宮町字明神東380 群馬ですが倭文神社だから
唐松神社 秋田県大仙市境字下台94
栗原神社 岐阜県高山市上宝町宮原350
幡井神社 鳥取県鳥取市青谷町絹見802
鸕宮神社 三重県伊賀市島ケ原4689 伊賀市
宿那彦神像石神社 石川県七尾市黒崎町ヘ28−3
櫟原神社 富山県滑川市神明町1177
多賀大社 滋賀県犬上郡多賀町多賀604
櫟原神社 富山県滑川市柳原1706
事代主神社 徳島県阿波市市場町伊月字宮ノ本100−1
天津神社 島根県邑智郡美郷町吾郷
若宮神社 石川県羽咋郡志賀町小室2−61
和多理神社 鳥取県八頭郡八頭町郡家殿字地主500
那閉神社 静岡県焼津市浜当目3−14−13 焼津市
津門神社 島根県江津市波子町イ1018
建布都神社 徳島県阿波市土成町郡字建布都569
日吉神社 石川県七尾市中島町豊田町ヲ42
賀茂神社 島根県邑智郡邑南町阿須那3
神島神社 岡山県笠岡市神島外浦1706
伊達神社 宮城県加美郡色麻町四竈字町3
伊智神社 兵庫県豊岡市日高町府市場字楮根935
白濱神社 伊古奈比・命神社 静岡県下田市白浜2740 静岡下田市
庭田神社 兵庫県宍粟市一宮町能倉1286
岩根神社 島根県江津市嘉久志町字鑪山2454−1
蛭児神社 京都府京丹後市久美浜町湊宮1662
八幡神社 長野県佐久市蓬田101
鵄栖神社 岐阜県大垣市室本町3−2
阿毘地神社 京都府福知山市興567
足次山神社 岡山県井原市井原町25
山水元神社 長野県下高井郡木島平村大字上木島字向原3131
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[50] 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月03日 07時17分52秒 ) パスワード
U 隠岐国の戸籍から見えてくる海部・服部
@隠岐国居住者の郡・郷別の分布
(加藤謙吉「隠岐の氏族・部民と畿内政権」『原始・古代の日本海文化』より)
[島前]
智夫郡 大領=海部 主帳=服部
宇良郷 壬生
由良郷 津守部 壬生部 阿曇部
大結郷 服部臣
大井郷 各田部
三田郷 石部(3)
郷不詳 海部
海部郡 少領=海部直 主帳=日下部 少領=阿曇部
布施郷 阿曇部
海部郷 壬生部(3) 阿曇部 勝部 三□部 物部首?
三宅郷 日下部(2) 勝部 □部?
佐作郷 海部直(3) 海部(3) 凡海部 阿曇部(6) 勝部(2)
佐吉郷 日下部(3) 阿曇部(2)
[島後]
周吉郡 大領=大私直
上部郷 私部(3) 蝮王部 孔王部 日下部
山部郷 服部(2) 壬生部 物部 檜前部 雀部 宗我部
賀茂郷 雀部 鴨部
新野郷 私部(3) 宗我部 日下部
奄加郷 蝮王部 □部
郷不詳 宗我部
隠地郡 大領=大伴部 少領=磯部(3)
都麻郷 石部
武良郷 私部 勝部 大伴部 三那部
河内郷 鴨部
奈□郷 □棘部
郷不詳 大田部 日下部
郡不詳 服部(臣)(3) 阿曇 阿曇部
《@についての考察ⓐ》 隠岐国の海部と服部
㋑まず目につくのは、島前における海人系の部民が圧倒的に多い点である。
㋺そこに「服部」も存在し、しかも智夫郡では大領=海部・主帳=服部という体制が成立している。
この重なりは、因幡の海部と服部の重層を考えるうえで重要である。
㋺島後では、海部が見当たらないが、服部は二つの郷に存在する。
㋩また宗我部や物部、大伴など畿内有力氏族の進出が注目される。
《@についての考察ⓑ》 海部設置の二つの側面=御贄の貢進と対新羅の防備
@ⓐの考察に関して、加藤謙吉氏は「隠岐の氏族・部民と畿内政権」(『原始・古代の日本海文化』)の中で、次のような見解を示している。
㋑宗我部や物部、大伴など畿内有力氏族の進出から、部民による隠岐国の畿内政権による支配は6世紀にまで遡れる。
㋺隠岐国の木簡から、中央に運ばれた物資は100%海産物である。
特に隠岐のアワビは珍重された。このことは、隠岐国に配置された海人系の人々は、魚介類を贄として貢納する働きを期待されていた。
㋩「しかし『延喜式』によると、隠岐は旬料や節料として御贄を貢進する諸国のなかには含まれておらず、(中略)志麻や若狭・淡路のような近国とは自ずから立地条件が異なる」とし、「隠岐の特殊性は、御贄の貢進体制そのものにあるのではなく、(中略)御贄の貢進自体は二義的なもの……」とする。
㊁その上で、『延喜式』の「陸奥国・出羽国・佐渡国・隠岐国・壱岐国・対馬国を辺要の地」とする記述を重視し、特に隠岐国は「新羅に対する辺要の地」であったことに注目する。したがって、隠岐の海部は日常的には海産物の捕獲に従事しながら、緊急時には軍事的な働きを期待されていたのである。
《@についての考察ⓒ》 隠岐国の部民・氏族構成からの推論
そのような視点で、隠岐国の氏族や部民の構成をまとめると、以下の諸点である。
第1点は、島前では、海部と服部が混在し、特に智夫郡では大領=海部・主帳=服部という体制が成立しているという事実。
第2点は、「臣」姓や「直」姓の服部、「直」姓の海部が存在し、彼らは隠岐国における統括者としての役割が与えられていたと思われる。
第3点は、宗我部や物部などの畿内氏族の進出があったと思われる。
そこで改めて、隠岐国の氏族や部民の構成をみると、海部・服部・津守部・阿曇部・勝部・鴨部・大田部など、多くが摂津国に縁のある氏族・部民であることが注目される。
このことから、私は、海部氏と服部氏は、摂津を中心とする氏族・部民集団の一員として、山陰沿岸から隠岐へと展開していったのではないかと考えている。
それを確かめるには、服部という氏族について、もう少し掘り下げてみる必要がある。
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安曇族祖について見てきました。
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[8] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年08月07日 14時24分56秒 ) パスワード
三つ柏さんへ
窓8になってから思わぬ変換間違いが、アップになってから見つかる、という苦い思いをワタクシもしております。
言い訳・・・汗
しょうがないですね、校正係がいないのですから。
浪合記は是非お読みになってください。
南北朝時代、誰が自分の先祖だったか、分かります。
取り敢えず現代語訳で
http://homepage1.nifty.com/sira/n_index.html
浪合村まで転戦して、結局、尾張に定住することになったワタクシの先祖。
袂を分かって別の場所に落ちて行った昔のお仲間。
明治維新で、当然、浪合記は否定されましたが
でも、おおよその南朝方の動きが分かりますから、先祖の生き様がちょっとは分かります。
>この松島氏の本の内容を理解するのに、
>やはり先日行った飯田、下伊那、上伊那での体験が役立ちます。
本当に、万巻の書を読み、万里の道を旅をしないことには、いけませんね。
先日いらっしゃった飯田、下伊那、上伊那が理解を助けてくれるなんて良かったですね。
松島氏は @南北朝の戦い、A武田の侵略、B徳川の攻略 を経ていましたか。
泣けて来ますね。
250年ほど?
そういう幾星霜を経て現在のご親戚関係が出来上がりました。
なので松島氏を介してきっとご先祖さまに出会えます。
それにしても、大きな収穫がご自分の直接のご先祖さまでないのが、ちょっと残念ですね。
でも、ご自分がこの世に生まれて来た何百年間もの長い過去の道がだんだん見えて来て
何故ご自分が今生きているのか、分かります。
わたくしの場合は今の夫と結婚したからいろいろ分かりました。
最近アメリカの南部で白人の青年が黒人の教会で銃を乱射して9人もの人を殺してしまいました。
それでアメリカの旧南軍の旗が引き摺り降ろされ博物館に収められました。
南軍の旗が下ろされるのは、もの凄く悲しかったです。
サザンベルだった過去生が悲しませたのでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=TFFHMNBiYvM
この曲を初めて聞いた時、滂沱の涙でした。「南軍の少年兵」の歌です。
夫が「恋人が戦死して君の所に戻って来た時にこの曲がきっと演奏されたんだろうね」と言いましたが、余計に泣けました。
今でもこの曲を聞くとやはり涙がいっぱい溢れます。
北軍の歌には興味が無いですし、← 曲も歌詞もかなり共通しているんですけどね
南軍の他の曲にもたいして泣けません。
英語を勉強するのが苦になりませんしね。そうだったのかなあ、とも思います。
「心の旅路」の果てを経て、三つ柏さんにもご先祖さまは必ず現れてくださいますよ「よく見つけたね」と。
いやいや、三つ柏さんのご先祖さまですから「あ〜、とうとう見つかっちゃった」とお茶目におっしゃるかもですね。
にっこり
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[20] 空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月11日 05時33分08秒 ) パスワード
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%8B%9D%E6%88%90
水野勝成
父母
父:水野忠重、母:妙舜尼(本願寺光佐妹)
↑
父忠重の母は華陽院さまです。家康の祖母。お大さまの母上
そうすると家康とは従兄弟?
でも父親と仲が悪くて大変だった話がURLに書かれています。
この人の履歴書に服部半蔵の甥の話が出てきます。
出奔[編集]
天正12年(1584年)の蟹江城合戦では家康の旗本衆と行動を共にする。
このとき服部保英(服部正成の甥)は勝成に属して武功をあげた。
↑
ココ
家康・信雄が秀吉と伊勢桑名で睨み合う陣中において、父・忠重の部下を自らの不行状を報告したとして斬り殺したことから、忠重は激怒し勝成を奉公構(事実上の他家への仕官禁止)として勘当した[19]。その後しばらく家康によってかくまわれ須賀口(清洲)の寺に引きこもっていたが、忠重の追及があり逃れた。美濃、尾張の関係城主を訪ねて、その地に逗留していたが、忠重よりの奉公構に各城主は遠慮して、長居はできず、遂には京都にいく。
以下略
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[9] 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月03日 22時15分37秒 ) パスワード
>保俊の兄(つまり嫡男三十郎)は元和の大坂の役で戦死している。享年27歳
この人が子孫を残している可能性だってありますよね。
27歳だったら子供が数人いてもおかしくありません。
お父さんの 保正の後見人だった 安孫さんの家で子供達が養われた可能性だって有りますし。
三十郎が討ち死にした時の主人 青山伯耆守忠俊 の元に居残ったかも知れないし。
あれれ?
服部平太夫正尚の弟は養子に行って 青山成重 になってますよね。
ということは 服部ー青山ラインで親戚ですね。
青山伯耆守忠俊
青山氏系図
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E6%B0%8F
青山 忠俊(あおやま ただとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。徳川幕府譜代大名。常陸江戸崎藩第2代藩主、武蔵岩槻藩主、上総大多喜藩主。青山家宗家2代。
経歴[編集]
天正6年(1578年)、遠江国浜松(静岡県浜松市)に生まれる。小田原征伐で初陣を飾り、兄・忠次の早世により嫡子となる。父・忠成が徳川家康に仕えていたため、最初は家康に仕え、後に幕府2代将軍・徳川秀忠に仕える。慶長5年(1600年)より伯耆守を称す。慶長8年(1603年)に5,000石を与えられる。慶長12年(1607年)に土井利勝、酒井忠世とともに徳川家光の傅役をつとめる。慶長15年(1610年)、5,000石を加増され1万石を領する独立した大名となる。慶長18年(1613年)には父・忠成の死により、常陸江戸崎藩第2代藩主となった。元和元年(1615年)には本丸老職となる。元和6年(1620年)5万5,000石をもって岩槻城主となる。
しかし、忠俊はしばしば家光に諫言を繰り返したため、元和9年(1623年)10月19日には、老中を免職の上、上総大多喜藩(2万石)に減転封され、その後寛永2年(1625年)に除封され、下総国網戸・相模国溝郷・遠江国小林を経て、相模国今泉で蟄居する。秀忠の死後に再出仕の要請があったが断っている。
寛永20年(1643年)に死去、享年66。
父:青山忠成、母:天方通興女
兄弟
忠次、忠俊、朝比奈泰重、幸成、
天方通直、川口近次室
妻
正室:大久保忠佐女
関係が無いわけじゃないとは分かっていましたが思わぬ閨閥が出ましたね。
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[52] 空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月18日 15時35分32秒 ) パスワード
名古屋の中川区に二女子とか四女子とか五女子とかいう地名があります。
平貞能の妻達とか娘達とかから付けられたとか。
中川区の荒子は前田利家の出身地です。
http://muromachi.movie.coocan.jp/namiai/namiai14.html
浪合記14(終り)
大橋家伝
九州の守護、大橋肥後守平貞能の末葉である。平家の滅亡後、肥後守は肥後国大橋という所に蟄居した。宇津宮に仕えて常陸に赴き、出家して三河国に移り住んだ。その場所を大橋という。その後、尾張国熱田に隠れ住んだ。そこで農家の女二人を妾として、おのおの二人の娘を成した。
頼朝は貞能を捜索した。尾張国の、原の太夫高春が扶助していると耳にして、梶原源太景季に命じて原の城を攻めさせた。貞能は、景季の陣に行って、自ら捕らわれた。景季は貞能を虜にして鎌倉に下り、そこで比企谷の土牢に入れた。
貞能の妻が肥後国で産んだ男子、一妙丸(後の貞経)が、父の生死を知るために鎌倉に下った。鶴ヶ岡八幡宮に毎日毎夜参詣して、法華経を高声に読誦し、父のことを祈ること数カ月に及んだ。その容色は、とてもただ人とは思われなかった。
世間の人々が奇異の思いをなしている事を、頼朝卿の御台所が聞こし召され、事情を聞いて頼朝卿にお告げになった。そこで、頼朝卿は一妙丸を召して、意趣を聞かれた。一妙丸は泣きながら父の事を詳しく言上した。頼朝卿は憐愍を加えられ、貞能の命を助けて所領安堵の下文を賜り、九州に帰された。これが大友の元祖である。
この一妙丸が貞能の家をお継ぎになった。貞能を尾張で扶助していた原の太夫高春は、千葉上総介広常の外甥で、薩摩守平忠度の外舅である。
貞能の子、大橋太郎貞経の後裔は、代々尾張、三河に居住した。貞能が尾張で成した四人の女子(二人の妾が同月同日に二子を産んだ)を、後に頼朝卿が鎌倉に召して、一人を三浦の佐原太郎平景連に下された。これが真野五郎胤連の母である。一人を佐々木三郎兵衛西念に下された。これは小三郎盛季の母である。一人を安芸国羽山介宗頼に下された。そして、一人を大友四郎経家に下された。これは豊前守能直の母である。
その四人の女子の生まれた里は、末代までの験(しるし)として、四女子と名づけられた。その後、四女子の母を祭った社がつくられた。後にこれを、間違えて頼朝の宮と呼んでいるという。
長享二年戌申九月十八日
天文二年癸巳三月五日写之了不可及他見者也 ← こっちはヨソモノには見せるなと言ってるのでしょ?
正徳三年癸巳九月中旬写之者也
平成十年戊寅四月十一日訳之了可及他見者也 ← これ、面白い!他のヒトにも読んでもらえ、って。
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[54] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月09日 16時17分29秒 ) パスワード
空の青海のあを様
本日見た『東方見聞録 浜松市東区の文化誌』という本の中に、たまたま
「安間了願」という人の名前が出ていましたので、調べてみますと―
blog.goo.ne.jp/buzz_and.../e/faf311c44293bbe44842042a469a1edf
遠江街道古跡図会(東海道12)松林禅寺と六所神社由緒
2008-09-12 18:18:02 / 遠江街道古蹟図絵(東海道)
「鶴翁山松林禅寺は、旧東海道北側に沿って立つ臨済宗方廣寺派のお寺です。
ご本尊は地蔵菩薩で行基の作と伝えられています。
山門前の石柱には、「後醍醐天皇皇子圓明(えんみょう)大師古道場 松林
禅寺」と刻まれています。
圓明大師は無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)ともよばれ、後醍醐天皇
の皇子・満良(みつよし)親王であると伝えられています。
無文元選禅師は、浜松市北区(旧引佐町)の奥山方広寺(鎮守の半僧坊も有
名)を開山したことでも有名です。
伝説によれば、南北朝の時代にこのあたりを開拓したのは「安間(阿間)了願
(あんまりょうがん)」と言う豪族で、南朝方の楠木正行の家臣であったそう
です。
了願は屋敷近くに氏神である六所神社(現在の中野町六所神社)を祀り、圓
明大師の道場である「松林禅寺」を建てたといわれています。
(注:安間了願が四条畷で討死したのが正平3年(1348年)、中野町六所神社
勧請が建治2年(1276年)、松林禅寺建立が元中元年(1384年)、これらが全て正
しいとすれば、了願一人でなく安間一族により勧請、建立されたと考えるべき
でしょうか)
《中野町六所神社由緒》
ところで、中野町六所神社の祭神は底・中・表津綿津見神(そこ・なか・
うわつわたつみのかみ)と底・中・表筒之男命(そこ・なか・うわつつのおの
みこと)の六柱です。
綿津見(わたつみ)三神は、すなわち海神(わたつみ)、筒之男命は住吉三
神とよばれる航海の神です。
そして、安間氏は阿間氏(あま)とも呼ばれ、海人・海部(あま)と同じ海
の一族だそうです。」
安間氏の浜松市での世帯数は、5年前の電話帳では185世帯、服部氏に比
べて、約半数です。
次に、金原明善と天竜川の話になりますが、昨日、内山真龍記念館へ行き、
真龍が作成した、「天竜川絵図」の複製を偶然にも購入してきておりました。
その絵図に関する話をしたいと思います。
一旦、切ります。
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[23] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月14日 14時33分09秒 ) パスワード
コピペのコピペ:
尾張氏・・・・・尾張連、伊福部(いふきべ)連、手すき丹比(たすきのたじひ連。すきは糸偏に強)、靱丹比ゆきのたじひ連、津守連、境部連、神服部(かむはとり)連、稚犬養連
物部氏 矢田部造・水取(もいとり)造・刑部造・田井直・殿服部造・采女造・磯城県主・舎人造
神服部さんは尾張氏に入ってますね。http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-8.html 尾張氏考
そして
殿服部さんは物部氏。
この神服部と殿服部 なにか進展がありそうな気もします。
でもアタマが爆発しそうなので寝ます。
殿服部は物部に近い秦氏系じゃないかなと。
いやいや秦氏系はシンプルな織子の服部じゃないかとも思うし。
秦氏の服部は物部の殿服部の下にいたんじゃないかなとか・・・
分かりません
一晩寝て脳味噌をリセットします。
殿服部は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E6%AE%BF%E7%A5%9E%E7%A4%BE
機殿神社につながるのでしょうか? (復習)
神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)・神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)はいずれも三重県松阪市にある神社。元々は同じ場所に鎮座していたが、大垣内町の神服織機殿神社と井口中町の神麻続機殿神社の2社に分かれたと考えられている。いずれも皇大神宮(内宮)所管社で、両社を合わせて両機殿と呼ぶ。両機殿の所在地は旧機殿村で、松阪市立機殿小学校に「機殿」の地名を残している。
『倭姫命世記』では垂仁天皇25年、倭姫命が天照大神を伊勢の百船(ももふね)度会国玉掇(たまひろう)伊蘇国に一時的に祀られたときに建てられた神服部社(はとりのやしろ)がのちの麻績機殿神服社で、内宮が現在地に定まったときに内宮近くに機殿を作り、天棚機姫神(あめのたなはたひめのかみ)の孫の八千々姫命(やちぢひめのみこと)に神の教えに従って和妙を織らせた。倭姫命は翌垂仁天皇26年、飯野高丘宮に機屋を作り、天照大神の服を織らせた。そこに社を建て、服織社(はたとりのやしろ)と名付けた。神麻績氏の住む麻績郷(おみのさと)で荒衣を織らせた。天智天皇7年(668年)8月3日に両機殿が火災で失われたため、この年の9月の神御衣祭のための作業は仮屋で行ない、その後30丈離して両機殿を別々に建てたと記されている。ただし、『倭姫命世記』は鎌倉時代に荒木田氏あるいは度会行忠が記した伝承・説話であり史実ではないとするのが一般的である。
信憑性が高いと考えられている資料では、『神祇令』・『延喜式』・『皇太神宮儀式帳』に神御衣祭が記されており、遅くとも平安時代初頭には御衣の奉織が行なわれていたことは確実である。和妙は服部(はとりべ)が、荒妙は麻績部(おみべ、麻績氏とも)が奉織し、それぞれ封戸22を与えられていた。神宮に仕えたこれらの一族は神服部(かんはとりべ)、神麻績部(かんおみべ)とも呼ばれた。
服部は三河国より赤引の糸(あかびきのいと)と呼ばれる絹糸を入手していた。
麻績部には土師器を調進する一団がいたほか、信濃国などの東国に進出し、機織
などの技術とともに天白信仰を伝えたと考えられている。
白河天皇の承暦3年(1079年)、神麻続機殿は現在地に移された。室町時代には北畠家が室町幕府の意向を無視し、神宮の神領を収奪し勢力を拡大した。北畠家の領地と隣接するこの地は特に早期に支配され、服部部・麻績部ともに姿を消してしまう。両機殿は地元住民らが祠を祀るだけとなり、奉織の行事と祭祀は中絶となった。この時期は定かではないが、神御衣祭は宝徳3年(1451年)を最後に中絶となった記録が残されている。
静岡県浜松市北区の初生衣神社(うぶぎぬじんじゃ)で行なわれる「おんぞ祭」は東方へ移動した神服部が1155年から内宮へ和妙を納めたことに由来するとされる。
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