【 彦島で熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:105361 投稿日:2025年07月13日 14時05分16秒  パスワード
 お名前:雪逹磨式根雨九郎
新、平家物語を熱く語る。(仮)
キーワード:平熱
コメントの種類 :生活  パスワード






 山口県は下関市彦島。とってもローカルな島のとってもローカルなBBSですが、みんなが楽しく過ごしているなんでもないBBSです。彦島関連の情報や雑談はもちろん大歓迎ですが、扱う話題に制限はありません。日記替わりにお気軽にご利用ください。
 使い方や御注意いただきたい事項はこちらに記載しておりますので、はじめてのかたはご一読くださいますようお願いいたします。

[1]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年07月13日 14時09分16秒 ) パスワード


青海のあをさんからのコメント(2016年10月14日 11時52分44秒 ) パスワード

三つ柏さん

残念ながら
                       >青山成重(服部正尚の弟)を秀忠のもり役にすることにより、
                       >秀忠体制の柱とした……
                       >ということになりますね。
いいえ、なりませんでした。



大事なことをお忘れです。
大久保長安事件をお忘れです。



                       青山氏下総飯田藩藩主 (1603年 - 1613年)
                       青山成重1603-1613
­                       大久保長安事件の影響で廃藩


以下コピペ:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E6%88%90%E9%87%8D

青山 成重(あおやま なりしげ)   天文18年(1549年)〜 没 元和元年9月7日(1615年10月19日)

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。江戸幕府老中。
服部正信(平蔵)の次男。


元亀2年(1571年)、母の従兄の青山忠重が戦死し、子がなかったため、主君徳川家康の命で青山氏を継ぐ。

徳川秀忠の後見役となり、天正18年(1590年)の家康関東入封の際に下総国香取郡に3000石を与えられた。
慶長6年(1601年)に2000石を加増、さらに慶長8年(1603年)12月25日に下総内において5000石を加増され、石高が1万石に達したため下総飯田藩を立藩した。

慶長13年(1608年)、老中に就任するが、
大久保長安の子成国を養子にしたことから、
慶長18年(1613年)の大久保長安事件に連座し、罷免、改易される。


                                        ココ



7000石を減知され、飯田の地に蟄居した。
大坂の陣では本多正信に供奉を懇請して武功を挙げて挽回を図ろうとしていたが、結局赦免されることのないまま死去した。



3000石は成重が赦免されず死去したため、収公となったが、改めて嫡男の成次に新知1000石が与えられ、子孫は旗本として存続する。
成次の子成政の代に1200石となり、4代あとの成存は勘定奉行になっている。



大坂の陣
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)
の総称。

江戸幕府が豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした戦いである。
大坂の役(おおさかのえき)とも称する。



青山成重(服部正尚の弟)

父:服部正信、母:青山忠教娘

兄:正尚

妻:正室:常岡当自娘

子:成次、
娘:浅羽幸正室

養子:成国(大久保長安の子)


                        青山成国(あおやま なりくに)
                        天正12年(1584年) - 慶長18年7月9日(1613年8月24日))

                        大久保長安の三男。
                        通称、権之助。
                        長安の子の中で唯一諱がわかっている人物。


                        奉行衆青山成重の婿養子となった。
                        しかし、実父長安が生前に金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財をしていたことが発覚、
                        小田原藩の大久保忠隣のもとに預けられ、切腹した。



つまり秀忠は助けてくれなかった、ということですね。
助けたくても家康の怒りが怖ろしかったでしょう。


長安事件の時、秀忠は当時どんな気持ちだったか知りたいところです。

[2]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年07月14日 13時18分58秒 ) パスワード



[60] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月08日 16時58分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 それでは、久保有政氏の『日本の中のユダヤ文化』から―
 
 「8世紀の墓から出た十字架
  1549年に、ローマ・カトリックの宣教師フランシスコ・ザビエルが
 来日し、キリスト教を伝えた。彼の伝記などを読むと、たいてい、「日本
 に最初にキリスト教を伝えた人」というような肩書きがついている。しか
 し、じつは彼は、日本にキリスト教を伝えた最初の人ではなかった。彼の
 時代よりもはるかに前に、たくさんのキリスト教徒が日本に入っていた。
 そして日本の文化・伝統に決定的ともいえる影響を与えていたのである。
  たとえば、7〜8世紀にかけて生きた「羊太夫」と呼ばれた人物の墓か
 ら、昔「多胡郡」と呼ばれたが、羊太夫は、その多胡郡の統治をまかされ
 た人である。多胡郡には「多胡碑」と呼ばれる古碑がある。711年に建
 てられ、「日本の三古碑」のひとつに数えられる石碑だ。この碑が、羊太
 夫について記している。
  「羊とは変わった人名だな」と思う方もいるかもしれないが、そうでは
 ない。彼は群馬の地に昔実在した人物で、渡来人であった。
  この羊太夫の墓の中から、キリスト教徒の十字架が発見されていたので
 ある。また「INRI」というローマ字の記された銅版もともに発見され
 た。それらは羊太夫のものと思われ、8世紀にすでに日本にキリスト教徒
 がいたことを示している。
  そしてこのキリスト教徒・羊太夫は、その地域のリーダーであっただけ
 でなく、日本全体の文化の発展にも多大な功績を残していた。
  羊太夫の墓から出たという「十字架」は、残念ながら現存していない。
 が、江戸時代後期の大名であり、また学者でもあった松浦(まつら)静山が、
 その十字架に言及している。彼の著『甲子夜話(かっしやわ)』のその部分
 を現代語ら訳すと、こう書かれている。
  「上州多胡郡の碑にある羊(人名)は、遣唐の人であろう。のちに、その
 墓の中から十字架が発見された。そこで上州の代官が長崎屋の旅舎でオラ
 ンダ商人イサク・ティツィングに見せたところ、ティツィングは『こんな
 ものを鑑定しろと命令されるとは、いったいどういうことでしょう?』と
 不思議がった」
  このオランダ人が不思議がったのは、当時はキリシタン禁制の時代であ
 り、十字架は禁制の品だったからである。
  羊太夫は、高度の技術力を持ち、日本最初ともいわれたあの有名な銅銭
 「和銅開珎」(わどうかいちん)を作った技術長官でもある。また羊太夫は、
 土地の人に尊敬され、慕われていた。筆者はその地域を調査したことがあ
 ねが、今も彼のことは人々に語り継がれている。彼らは今も羊太夫を偲び、
 毎年お盆の時に送り火として山で文字焼きをしている。
  十字架が発見されたという羊太夫の墓がどこにあったのか、現在では特
 定できていない。後述するように、その墓は多胡碑のかたわらにあった「
 石槨」(せきかく)であると思われるが、多胡碑自体が戦時中などに何度か
 動かされたため、もとの多胡碑の正確な位置は現在ではわからなくなって
 いるという。
  じつは「多胡」の名も、そこに渡来人が多かったことから付けられた名
 である。「胡」は外国、西域の民族という意味である。羊太夫の家系も、
 渡来人であった。しかも、彼らはキリスト教徒だったようなのだ。
  しかし「十字架が出たちいっても、十字架に似ていただけではないのか」
 と疑問視するかたもいるかもしれない。けれども、高名な学者であった松
 浦静山が「十字架」とはっきりいっているのだ。またティツィングも、そ
 れをキリスト教の品だと思ったからこそ、『こんなものを鑑定しろとはど
 ういうことか』と言ったのである。」

  とりあえず今回はここまで。後5〜6回引用させてもらいたいと思いま
 す。

  仮に中臣羽鳥連の玄孫が藤原不比等だとしたら、不比等と羊太夫は親戚
 になりますので、いわゆる原始キリスト教との関係が何かしら見出される
 はずですが、たぶん知っていたけれど表には出さなかった、隠蔽したので
 はないかと推理します。

[3]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年07月14日 13時29分57秒 ) パスワード


青海のあをさんからのコメント(2015年04月28日 01時46分07秒 ) パスワード

レス3の正光寺さん関係で


http://www.shokoji.net/onkidayori4all.pdf


下の方に 正光寺の略歴が出ています。
>今川氏真や旗本の北条氏や藩主の太田氏や伊奈さんのお名前や
>その後に  羽鳥神社の神主の松島家や
>山下家には勝頼の書状があったり
>など書かれていて


伯父さまが太田家に養子にいらっしゃった・・・

すごいですね。


みんな親戚なんですよね
だって昔は同じ  PEERS で関係を持っていたから
みんな親戚になる

本当に親戚になってますね。


山下佐次兵衛さんが松下家の転府にくっついて行かなかったのは
「もし一緒に行動したら山下家の子孫は松下家の下に置かれたままになる」
と考えたからかも、ですね。

たぶん山下家は松下家よりずっと格が高かったのかも。



もう本当にどんどん鬼籍に入って行かれますね。
今の内にちゃんと調べておかないと未来永劫分からなくなりますね。



ヒバリさんは賢い人なのか
教えた人が賢かったのか

頭の中が整理された人だなと思います。


ワタシなんて   太田氏?  どこかで太田道灌の子孫が遠江で殿様になってたよね?
昨日の書き込みがどこにあったのか覚えていない体たらく。


太田氏について後で調べてみますね。
今から夫の受診にくっついて行きます。

>ヒバリさんの大事な名前思い出しました。


[4]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年07月14日 18時57分41秒 ) パスワード



[80] 空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月03日 02時29分51秒 ) パスワード

http://www.kakeisi.com/survey/survey_siga.html

近江国の名字を見て来ました。


滋賀県のご先祖調べ

令制国の近江国に相当します。
古くは「淡海(あはうみ)」と呼ばれていましたが、京に近いことから「近江」の字があてられました。 ちなみに海とは琵琶湖のことです。
滋賀・栗太(くりた)・甲賀(こうが)・野洲・蒲生・神崎(かんざき)・愛智(えち)・犬上(いぬかみ)・坂田(さかた)・浅井(あさい)・伊香(いか)・高島(たかしま)の12郡で構成されていました。


■戦国期以前の滋賀県
鎌倉時代になると宇多源氏佐々木一族が近江国を支配し、戦国末期まで約400年君臨します。
近江国を湖北、湖南、湖西の三地域に分けてみると、湖北では佐々木一族の京極氏が支配し後に家臣の浅井氏が台頭します。
湖南は守護佐々木六角氏が戦国大名として支配、東南の甲賀地域には国人・土豪の小勢力による地域支配が行われていました。 湖西では佐々木一族の朽木氏が勢力を持ち、比叡山延暦寺も力を持っていました。


■滋賀県の名字
近江国の中心勢力である佐々木一族をみてみます。
近江の佐々木氏は佐々木信綱の四人の息子(大原重綱・高島高信・六角泰綱・京極 氏信)から広がったといわれています。
ではどのような苗字が分出したかみてみましょう。

 大原重綱・・・朝妻・島脇・高山・白井・本江・夫馬・竹谷
 高島高信・・・朽木・永田・市原・横山・田中・原・平井・下坂
 六角泰綱・・・堀部・森川・唐橋・鳥山・佐々・西条・愛智河・山内・鳥羽・上総・
  駒井・藤島・川島

 京極氏信・・・鏡・岩山・松下・長岡・一円・近江・岡田・松田・浜河・高橋・郡馬・
  金吾・尼子・江浪・完道・宇賀野・多田・永谷・高田・倉知・餅田・高屋・岩山・
  鞍智・黒田・大鹿・田中・塩谷・田辺

その他にも、佐々木信綱の弟・馬渕広定・・・長江・堀部・青地
 同弟・佐保時綱・・・山中
 同弟・伊佐行綱・・・大山

 佐々木信綱の 叔父・加地盛綱・・・磯部・小島・高浜・倉田・東郷・中村・野村
 同叔父・吉田厳秀
 同叔父・佐々木義清・・・富田・賀野・山佐・羽田井・高岡・広瀬・別府・塩冶・乙立・
  田原・下山・吉田・福依・高木・阪谷・上郷・坂田・後藤・駒崎・古志・荻原・重栖・
  南浦・湯・佐世・垣・山根


 次に佐々木氏以外の一族も見てみましょう。

清和源氏では、浅井郡山本に起こる山本氏、甲賀郡柏木に起こる柏木氏、坂田郡箕浦に起こる箕浦氏、浅井郡錦織に起こる錦織氏、浅井郡速水に起こる速水(早見)氏があります。これらの氏族は源平合戦の頃には登場しています。
その他に、平井、栗田、小椋、山田、和南(わなみ)、梅林、山上、大町、高岸、御園、岸下、林田、石塔、森、米井(よない)、奥、樋口、柳、河曲(かわわ)の諸氏も清和源氏といわれています。

藤原氏では、神崎郡国領に起こる国領氏、滋賀郡真野に起こる真野氏、愛智郡鯰江に起こる鯰江氏がいます。豪商三井家は鯰江氏と同族といわれています。

紀氏では、織田信長の家臣瀧川一益を出した瀧川氏があります。

古代氏族では、建部(たけべ)君の末裔として建部、日吉氏があり、三上祝の末裔として三上氏、蒲生稲寸の末裔として蒲生氏があります。 戦国大名の蒲生氏郷はこの一族です。


戦国大名でいえば、佐々木一族を押さえ戦国大名に成長した浅井氏がいます。これは三条公綱の末裔ともいわれますが、実ははっきりしていません。

           藤堂氏
            ↓
伊勢国津藩の初代藩主藤堂高虎は犬上郡藤堂に起こる一族、藤原姓とも中原姓ともいわれています。



甲賀郡には伴氏の一族として甲賀、平松、大原、山岡があります。

甲賀といえば忍者ですが、甲賀衆と呼ばれる党を作っていました。
甲賀衆には次の名字があります。

 頓宮(はやみ)、大河原、土山、佐治、大野、神保、隠岐、高峯、和田、上野、竹島、笹山、勝井、山岡、竹林、瀧、飯田、池田、望月、服部、芥川、鵜飼、内記、山中、伴、美濃部、中山、岩根、新城、八田、宇田、儀峨、大原、上野、多喜、池田、鳥居、大久保、大野、土山、平子、鮎川、黒川、饗庭(あえば)、葛城、山上、青木、宮島、針、夏見、杉山、長野、多羅尾、倉地、杉谷、三雲、牧村


 滋賀県の苗字トップ20位をあげると、以下の通りです。

1田中 2山本 3中村 4西村 5山田 6北川 7中川 8木村 9林 10清水

11井上 12小林 13北村 14吉田 15辻 16奥村 17西川 18森 19伊藤 20藤田


滋賀県の名字は、典型的な西日本タイプです。
「田」の付く名字が多く、稲作文化の先進地域の影響がみらます。
また「山」「木」「林」「川」などの自然地名や、集落をしめす「村」の付く苗字も多くみられます。
これも農耕社会を影響を受けている苗字です。

さらに「北」や「西」の方角が付く苗字が目立ちます。



■江戸時代の滋賀県
 江戸時代の近江国は西国の抑えの井伊彦根藩が北部の大部分を占め、その他は膳所藩、水口藩、大溝藩、西大路藩、宮川藩、山上藩、三上藩といった小藩、 交代寄合の最上家の大森陣屋、交代寄合の朽木家の朽木陣屋、さらに他国の諸藩領や天領なども入り交じり、複雑な領地区分となっていました。


廃藩置県時に滋賀県に存在した藩は以下の通りです。

藩名 城下町 主な藩主の変遷
彦根藩 彦根市 井伊氏
膳所藩 大津市 石川氏→本多氏
水口藩 甲賀市 鳥居氏→加藤氏
大溝藩 高島市 分部氏
仁正寺藩 日野町 市橋氏
山上藩 東近江市 安藤氏→稲垣氏
近江宮川藩 長浜市 堀田氏
三上藩 野洲市 遠藤氏


この他に堅田藩(堀田氏)・朽木藩(朽木氏)・大森藩(最上氏)・近江高島藩(佐久間氏)・近江小室藩(小堀氏) がありましたが廃藩となっています。



■滋賀県の家紋
 滋賀県の使用家紋をみてみましょう。
『都道府県別姓氏家紋大事典』によると、滋賀県の家紋トップ10は次の通りです。

1位 片喰 2位 鷹の羽 3位 柏 4位 木瓜 5位 梅鉢
6位 桐 7位 目結 8位 藤 9位 橘 10位 蔦


日本の十大家紋と比べると、茗荷紋と沢潟紋がランク外となり、かわりに目結紋と梅鉢紋がランク入りしています。


このなかで滋賀県の代表する家紋は佐々木氏の定紋目結紋です。
実際、近江を発祥とする佐々木一族の多くは「目結紋」を使用しています。
そのため目結紋使用家はその出自を佐々木氏と判断してしまうほど認知されています。

ちなみに佐々木氏の氏神沙々貴神社の神紋は「平四つ目」といいます。



■滋賀県の寺院
 滋賀県の寺院をみてみましょう。

『全国寺院名鑑』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会)によると、滋賀県の宗派別の割合は以下の通りです。

    湖北・湖東(彦根・近江八幡等) 湖西(高島) 湖南(大津・草津)
天台宗 7%              12%       22%
真言宗 4%               4%        2%
曹洞宗 5%              34%       4%
臨済宗 6%               3%        4%
浄土宗 10%              7%       26%
浄土真宗 63%            40%       36%
日蓮宗 1%               1%        2%
黄檗宗 2%               0%        1%
その他 2%               0%        3%

滋賀県全体を通して浄土真宗の寺院が最も多くあります。北陸地方に次ぐ真宗王国です。

湖南地域は天台宗の本山比叡山の麓、寺門派三井寺もあり、天台宗の寺院が多くあります。 これに対して真言宗寺院が少ないのが特徴的です。 真宗寺院が多いこともあり、古い墓石は多くありません。

■滋賀県の神社
 近江国一之宮は建部大社です。
 主祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。
 日本武尊は熊襲・東夷を平定された武勇の皇子で、32才の若さで伊勢国において崩御されました。 その後、妃の布多遅比売命(ふたじひめのみこと)が神崎郡建部に尊の神霊を奉斎されたのが始まりとされます。
とくに源頼朝が伊豆に流される途次、建部大社で源氏再興を祈願し、ついに平氏討伐・源氏再興の宿願が成ってから、武運来運の神として信仰を集めました。
 建部大社の祭祀は、建部氏(祭神・日本武尊の後裔)があたっています。
[5]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年07月15日 17時46分51秒 ) パスワード




[29] 空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月06日 06時01分20秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%83%B6%E5%B4%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84


金ヶ崎の戦い

1570年
越前国敦賀郡金ヶ崎(まさに南北朝の戦いも金ケ崎で起きました)
織田徳川軍 vs 朝倉浅井軍


金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)

戦国時代の1570年(元亀元年)に起きた、織田信長と朝倉義景との戦闘のひとつ。
金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)または金ヶ崎崩れとも呼ばれ、戦国史上有名な織田信長の撤退戦である。



織田信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻撃したところ、同盟関係にあった妹婿の小谷城(琵琶湖東岸)の浅井家の裏切りにあい、挟撃の危機に瀕したため、木下藤吉郎(豊臣秀吉)と信長の同盟軍の徳川家康が後衛(家康の後衛に疑問をもつ向きもある)となって、信長本隊が信長勢力地まで帰還するのを援護した戦い。

敦賀口における金ヶ崎城(敦賀市)攻略自体はすでに成功していたが、浅井家離反の情報を受けて、おおよそこの地で信長軍の撤退が始まり、木下藤吉郎の殿軍は最初にこの地を拠点にして撤退戦を行った。

[6]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年07月15日 19時50分36秒 ) パスワード


vonvon IQ148

19:45〜48
 
[7]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年07月15日 20時06分05秒 ) パスワード



[52] 空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月05日 03時55分29秒 ) パスワード

>「女城主 直虎」は、出演者のトーン・ハーモニーのバラツキが目立ちます。
>いい役者と未熟な役者の差が目立ちますし、
>ストーリーのはしょりすぎのところも目立ちます。

ですね。
細かいところまで描いてた三谷ワールドの人間の機微を楽しんだ後ですから
アラが目立ちます。

今の言葉で表現すると、視聴者の理解力をもっと忖度してやれよ、です。



今回と前回の、寿桂尼のカシコサを、もうちょっと描いてあげてたら浅丘ルリ子がもっといい女優に見えるのに
と残念です。

政治に長けた京都の公家の娘が
義元亡き後、
いかに今川家を守ろうとしたか

江戸時代に今川家が朝廷との連絡係として存続出来たのも寿桂尼によるからでしょう。


老獪な寿桂尼が小娘の直虎をどうあしらっていくのか
直虎がどう成長していくのか
そこがワタクシ的には面白いのですけど

不特定多数の視聴者向けとしては直虎大好きの小野政次が直虎にピシャリとやられる方が描き易いのかもね。


これからいよいよ面白くなります。


直虎のお経を詠んでる声はステキだなあと見ています。


あ、これから「しの」さんと直虎のオンナの戦いが始まるのかもですね。
松下常慶との結婚がどういう経緯か楽しみです。



瀬戸方久の
いかに財を成したかの説明
    非常に三谷ワールド的で
    分かり易く簡潔で
ヲイヲイ
NHK大河でこの展開はアリ?

と思いましたがスッゴク楽しめました。


ま、ムロツヨシだしね。独壇場でしたっ

[53] 三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月05日 08時21分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスありがとうございます。牛肉と大河ドラマについてのお話、楽しめ
ました。

 新田喜斎(瀬戸方久)と松下常慶については、本日は「芝刈り」のため、
帰宅後に情報を記します――
[8]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年07月16日 11時06分29秒 ) パスワード



[24] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月14日 12時53分13秒 ) パスワード

服部貞信について

http://www.m-network.com/sengoku/ieyasu/sonenji.html

ここ読めますか?



こういう事が書かれているようですが

河内津田〜尊延寺 - M-NETWORK

この服部貞信という人物は『寛政重修諸家譜』によると、伊賀平左衛門家長の末孫すなわち遠縁ではあるが服部半蔵と同族で通称左兵衛、もと伊賀国阿拜(あへ)郡服部村に ...



文字化けして読めません:
š‰Í“à’Óc`‘¸‰„Ž›š
(‘åã•{–‡•ûŽs’Óc`‘¸‰„Ž›)
こんな感じ・・・

[9]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年07月16日 12時49分28秒 ) パスワード


いつか佐里 夷隅に行ければと思っております。
[10]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年07月16日 15時11分06秒 ) パスワード


九戸氏 再記。
[11]雪逹磨式根雨九郎さんからのコメント(2025年07月16日 15時13分28秒 ) パスワード




[20] 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月03日 13時06分44秒 ) パスワード

三つ柏さん

秋鹿家ですか。「あいか」さんですね。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aika_kz.html

名家中の名家、ですね。
殿の馬前で討ち死にするのが当時の最大の武士の花道ですね。


わたくしの分も般若心経をありがとうございました。


 秋鹿氏の祖は橘諸兄といい、二十代の後裔出雲守朝芳が出雲国秋鹿郡に住し、その地名をもって秋鹿を称した。ちなみに、秋鹿氏は「あいか」と読む。
 
朝芳の四代の孫朝慶は、鎌倉将軍頼経に仕え、その一族に列して藤原に改めた。そして、朝慶から六代にあたる左京亮朝治のとき、南北朝の争乱に遭遇し、朝治は足利尊氏に仕え、遠江国羽鳥庄の貴平郷、中泉郷、南郷の地頭に補された。以後、代々中泉に住し、ある時は武将として、ある時は代官として、また府八幡宮の神官として活躍した。


 室町時代になると、遠江守護の今川氏に仕え、地頭職とともに、府八幡宮の神主を勤めた。


 戦国時代、朝兼は今川氏親に仕え、その子の朝延は今川義元に仕えた。朝延が弘治三年に没すると、直朝が家督を継ぎ、天正十八年の「小田原の陣」に随従し、家康が関東に転封されると、常陸国に住した。慶長五年、関ヶ原の合戦ののち、遠江国の旧領を賜り、府八幡宮の神職となり、中泉に住して代官を務めた。以後、子孫は徳川旗本として続いたが、朝就の代より、府八幡宮神主に専従した。


 他方、朝兼の三男政朝は、永禄四年に家康に仕え別家を立てた。天正十一年、家康の女が北条氏直に嫁したとき、付属せられて小田原に至った。十八年に小田原城が落ちると、上総国武射郡に籠居して死去した。あとを継いだ朝矩は徳川家康に仕えて、天正十二年の長久手の役に出陣して討死した。

■府八幡宮(ふはちまんぐう)

 天武天皇の曽孫桜井王が遠江國の国司として赴任された時、庁舎内に祭られたのがこの神社のはじめである。従って、府八幡宮と称し、奈良平安時代の社宝が現存する。また、鎌倉時代には秋鹿氏がこの地に止まり神主となり、江戸時代は代官も兼ねて250石を給せられた。境内には、桜井王と時の天皇の問答歌が刻まれた万葉歌碑がある。
 【 彦島で熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapah.