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青海のあをさんからのコメント(2016年10月14日 11時52分44秒 ) パスワード
三つ柏さん
残念ながら
>青山成重(服部正尚の弟)を秀忠のもり役にすることにより、
>秀忠体制の柱とした……
>ということになりますね。
いいえ、なりませんでした。
大事なことをお忘れです。
大久保長安事件をお忘れです。
青山氏下総飯田藩藩主 (1603年 - 1613年)
青山成重1603-1613
大久保長安事件の影響で廃藩
以下コピペ:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E6%88%90%E9%87%8D
青山 成重(あおやま なりしげ) 天文18年(1549年)〜 没 元和元年9月7日(1615年10月19日)
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。江戸幕府老中。
服部正信(平蔵)の次男。
元亀2年(1571年)、母の従兄の青山忠重が戦死し、子がなかったため、主君徳川家康の命で青山氏を継ぐ。
徳川秀忠の後見役となり、天正18年(1590年)の家康関東入封の際に下総国香取郡に3000石を与えられた。
慶長6年(1601年)に2000石を加増、さらに慶長8年(1603年)12月25日に下総内において5000石を加増され、石高が1万石に達したため下総飯田藩を立藩した。
慶長13年(1608年)、老中に就任するが、
大久保長安の子成国を養子にしたことから、
慶長18年(1613年)の大久保長安事件に連座し、罷免、改易される。
ココ
7000石を減知され、飯田の地に蟄居した。
大坂の陣では本多正信に供奉を懇請して武功を挙げて挽回を図ろうとしていたが、結局赦免されることのないまま死去した。
3000石は成重が赦免されず死去したため、収公となったが、改めて嫡男の成次に新知1000石が与えられ、子孫は旗本として存続する。
成次の子成政の代に1200石となり、4代あとの成存は勘定奉行になっている。
大坂の陣
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)
の総称。
江戸幕府が豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした戦いである。
大坂の役(おおさかのえき)とも称する。
青山成重(服部正尚の弟)
父:服部正信、母:青山忠教娘
兄:正尚
妻:正室:常岡当自娘
子:成次、
娘:浅羽幸正室
養子:成国(大久保長安の子)
青山成国(あおやま なりくに)
天正12年(1584年) - 慶長18年7月9日(1613年8月24日))
大久保長安の三男。
通称、権之助。
長安の子の中で唯一諱がわかっている人物。
奉行衆青山成重の婿養子となった。
しかし、実父長安が生前に金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財をしていたことが発覚、
小田原藩の大久保忠隣のもとに預けられ、切腹した。
つまり秀忠は助けてくれなかった、ということですね。
助けたくても家康の怒りが怖ろしかったでしょう。
長安事件の時、秀忠は当時どんな気持ちだったか知りたいところです。
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[60] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月08日 16時58分31秒 ) パスワード
空の青海のあを様
それでは、久保有政氏の『日本の中のユダヤ文化』から―
「8世紀の墓から出た十字架
1549年に、ローマ・カトリックの宣教師フランシスコ・ザビエルが
来日し、キリスト教を伝えた。彼の伝記などを読むと、たいてい、「日本
に最初にキリスト教を伝えた人」というような肩書きがついている。しか
し、じつは彼は、日本にキリスト教を伝えた最初の人ではなかった。彼の
時代よりもはるかに前に、たくさんのキリスト教徒が日本に入っていた。
そして日本の文化・伝統に決定的ともいえる影響を与えていたのである。
たとえば、7〜8世紀にかけて生きた「羊太夫」と呼ばれた人物の墓か
ら、昔「多胡郡」と呼ばれたが、羊太夫は、その多胡郡の統治をまかされ
た人である。多胡郡には「多胡碑」と呼ばれる古碑がある。711年に建
てられ、「日本の三古碑」のひとつに数えられる石碑だ。この碑が、羊太
夫について記している。
「羊とは変わった人名だな」と思う方もいるかもしれないが、そうでは
ない。彼は群馬の地に昔実在した人物で、渡来人であった。
この羊太夫の墓の中から、キリスト教徒の十字架が発見されていたので
ある。また「INRI」というローマ字の記された銅版もともに発見され
た。それらは羊太夫のものと思われ、8世紀にすでに日本にキリスト教徒
がいたことを示している。
そしてこのキリスト教徒・羊太夫は、その地域のリーダーであっただけ
でなく、日本全体の文化の発展にも多大な功績を残していた。
羊太夫の墓から出たという「十字架」は、残念ながら現存していない。
が、江戸時代後期の大名であり、また学者でもあった松浦(まつら)静山が、
その十字架に言及している。彼の著『甲子夜話(かっしやわ)』のその部分
を現代語ら訳すと、こう書かれている。
「上州多胡郡の碑にある羊(人名)は、遣唐の人であろう。のちに、その
墓の中から十字架が発見された。そこで上州の代官が長崎屋の旅舎でオラ
ンダ商人イサク・ティツィングに見せたところ、ティツィングは『こんな
ものを鑑定しろと命令されるとは、いったいどういうことでしょう?』と
不思議がった」
このオランダ人が不思議がったのは、当時はキリシタン禁制の時代であ
り、十字架は禁制の品だったからである。
羊太夫は、高度の技術力を持ち、日本最初ともいわれたあの有名な銅銭
「和銅開珎」(わどうかいちん)を作った技術長官でもある。また羊太夫は、
土地の人に尊敬され、慕われていた。筆者はその地域を調査したことがあ
ねが、今も彼のことは人々に語り継がれている。彼らは今も羊太夫を偲び、
毎年お盆の時に送り火として山で文字焼きをしている。
十字架が発見されたという羊太夫の墓がどこにあったのか、現在では特
定できていない。後述するように、その墓は多胡碑のかたわらにあった「
石槨」(せきかく)であると思われるが、多胡碑自体が戦時中などに何度か
動かされたため、もとの多胡碑の正確な位置は現在ではわからなくなって
いるという。
じつは「多胡」の名も、そこに渡来人が多かったことから付けられた名
である。「胡」は外国、西域の民族という意味である。羊太夫の家系も、
渡来人であった。しかも、彼らはキリスト教徒だったようなのだ。
しかし「十字架が出たちいっても、十字架に似ていただけではないのか」
と疑問視するかたもいるかもしれない。けれども、高名な学者であった松
浦静山が「十字架」とはっきりいっているのだ。またティツィングも、そ
れをキリスト教の品だと思ったからこそ、『こんなものを鑑定しろとはど
ういうことか』と言ったのである。」
とりあえず今回はここまで。後5〜6回引用させてもらいたいと思いま
す。
仮に中臣羽鳥連の玄孫が藤原不比等だとしたら、不比等と羊太夫は親戚
になりますので、いわゆる原始キリスト教との関係が何かしら見出される
はずですが、たぶん知っていたけれど表には出さなかった、隠蔽したので
はないかと推理します。
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青海のあをさんからのコメント(2015年04月28日 01時46分07秒 ) パスワード
レス3の正光寺さん関係で
http://www.shokoji.net/onkidayori4all.pdf
下の方に 正光寺の略歴が出ています。
>今川氏真や旗本の北条氏や藩主の太田氏や伊奈さんのお名前や
>その後に 羽鳥神社の神主の松島家や
>山下家には勝頼の書状があったり
>など書かれていて
伯父さまが太田家に養子にいらっしゃった・・・
すごいですね。
みんな親戚なんですよね
だって昔は同じ PEERS で関係を持っていたから
みんな親戚になる
本当に親戚になってますね。
山下佐次兵衛さんが松下家の転府にくっついて行かなかったのは
「もし一緒に行動したら山下家の子孫は松下家の下に置かれたままになる」
と考えたからかも、ですね。
たぶん山下家は松下家よりずっと格が高かったのかも。
もう本当にどんどん鬼籍に入って行かれますね。
今の内にちゃんと調べておかないと未来永劫分からなくなりますね。
ヒバリさんは賢い人なのか
教えた人が賢かったのか
頭の中が整理された人だなと思います。
ワタシなんて 太田氏? どこかで太田道灌の子孫が遠江で殿様になってたよね?
昨日の書き込みがどこにあったのか覚えていない体たらく。
太田氏について後で調べてみますね。
今から夫の受診にくっついて行きます。
>ヒバリさんの大事な名前思い出しました。
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[80] 空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月03日 02時29分51秒 ) パスワード
http://www.kakeisi.com/survey/survey_siga.html
近江国の名字を見て来ました。
滋賀県のご先祖調べ
令制国の近江国に相当します。
古くは「淡海(あはうみ)」と呼ばれていましたが、京に近いことから「近江」の字があてられました。 ちなみに海とは琵琶湖のことです。
滋賀・栗太(くりた)・甲賀(こうが)・野洲・蒲生・神崎(かんざき)・愛智(えち)・犬上(いぬかみ)・坂田(さかた)・浅井(あさい)・伊香(いか)・高島(たかしま)の12郡で構成されていました。
■戦国期以前の滋賀県
鎌倉時代になると宇多源氏佐々木一族が近江国を支配し、戦国末期まで約400年君臨します。
近江国を湖北、湖南、湖西の三地域に分けてみると、湖北では佐々木一族の京極氏が支配し後に家臣の浅井氏が台頭します。
湖南は守護佐々木六角氏が戦国大名として支配、東南の甲賀地域には国人・土豪の小勢力による地域支配が行われていました。 湖西では佐々木一族の朽木氏が勢力を持ち、比叡山延暦寺も力を持っていました。
■滋賀県の名字
近江国の中心勢力である佐々木一族をみてみます。
近江の佐々木氏は佐々木信綱の四人の息子(大原重綱・高島高信・六角泰綱・京極 氏信)から広がったといわれています。
ではどのような苗字が分出したかみてみましょう。
大原重綱・・・朝妻・島脇・高山・白井・本江・夫馬・竹谷
高島高信・・・朽木・永田・市原・横山・田中・原・平井・下坂
六角泰綱・・・堀部・森川・唐橋・鳥山・佐々・西条・愛智河・山内・鳥羽・上総・
駒井・藤島・川島
京極氏信・・・鏡・岩山・松下・長岡・一円・近江・岡田・松田・浜河・高橋・郡馬・
金吾・尼子・江浪・完道・宇賀野・多田・永谷・高田・倉知・餅田・高屋・岩山・
鞍智・黒田・大鹿・田中・塩谷・田辺
その他にも、佐々木信綱の弟・馬渕広定・・・長江・堀部・青地
同弟・佐保時綱・・・山中
同弟・伊佐行綱・・・大山
佐々木信綱の 叔父・加地盛綱・・・磯部・小島・高浜・倉田・東郷・中村・野村
同叔父・吉田厳秀
同叔父・佐々木義清・・・富田・賀野・山佐・羽田井・高岡・広瀬・別府・塩冶・乙立・
田原・下山・吉田・福依・高木・阪谷・上郷・坂田・後藤・駒崎・古志・荻原・重栖・
南浦・湯・佐世・垣・山根
次に佐々木氏以外の一族も見てみましょう。
清和源氏では、浅井郡山本に起こる山本氏、甲賀郡柏木に起こる柏木氏、坂田郡箕浦に起こる箕浦氏、浅井郡錦織に起こる錦織氏、浅井郡速水に起こる速水(早見)氏があります。これらの氏族は源平合戦の頃には登場しています。
その他に、平井、栗田、小椋、山田、和南(わなみ)、梅林、山上、大町、高岸、御園、岸下、林田、石塔、森、米井(よない)、奥、樋口、柳、河曲(かわわ)の諸氏も清和源氏といわれています。
藤原氏では、神崎郡国領に起こる国領氏、滋賀郡真野に起こる真野氏、愛智郡鯰江に起こる鯰江氏がいます。豪商三井家は鯰江氏と同族といわれています。
紀氏では、織田信長の家臣瀧川一益を出した瀧川氏があります。
古代氏族では、建部(たけべ)君の末裔として建部、日吉氏があり、三上祝の末裔として三上氏、蒲生稲寸の末裔として蒲生氏があります。 戦国大名の蒲生氏郷はこの一族です。
戦国大名でいえば、佐々木一族を押さえ戦国大名に成長した浅井氏がいます。これは三条公綱の末裔ともいわれますが、実ははっきりしていません。
藤堂氏
↓
伊勢国津藩の初代藩主藤堂高虎は犬上郡藤堂に起こる一族、藤原姓とも中原姓ともいわれています。
甲賀郡には伴氏の一族として甲賀、平松、大原、山岡があります。
甲賀といえば忍者ですが、甲賀衆と呼ばれる党を作っていました。
甲賀衆には次の名字があります。
頓宮(はやみ)、大河原、土山、佐治、大野、神保、隠岐、高峯、和田、上野、竹島、笹山、勝井、山岡、竹林、瀧、飯田、池田、望月、服部、芥川、鵜飼、内記、山中、伴、美濃部、中山、岩根、新城、八田、宇田、儀峨、大原、上野、多喜、池田、鳥居、大久保、大野、土山、平子、鮎川、黒川、饗庭(あえば)、葛城、山上、青木、宮島、針、夏見、杉山、長野、多羅尾、倉地、杉谷、三雲、牧村
滋賀県の苗字トップ20位をあげると、以下の通りです。
1田中 2山本 3中村 4西村 5山田 6北川 7中川 8木村 9林 10清水
11井上 12小林 13北村 14吉田 15辻 16奥村 17西川 18森 19伊藤 20藤田
滋賀県の名字は、典型的な西日本タイプです。
「田」の付く名字が多く、稲作文化の先進地域の影響がみらます。
また「山」「木」「林」「川」などの自然地名や、集落をしめす「村」の付く苗字も多くみられます。
これも農耕社会を影響を受けている苗字です。
さらに「北」や「西」の方角が付く苗字が目立ちます。
■江戸時代の滋賀県
江戸時代の近江国は西国の抑えの井伊彦根藩が北部の大部分を占め、その他は膳所藩、水口藩、大溝藩、西大路藩、宮川藩、山上藩、三上藩といった小藩、 交代寄合の最上家の大森陣屋、交代寄合の朽木家の朽木陣屋、さらに他国の諸藩領や天領なども入り交じり、複雑な領地区分となっていました。
廃藩置県時に滋賀県に存在した藩は以下の通りです。
藩名 城下町 主な藩主の変遷
彦根藩 彦根市 井伊氏
膳所藩 大津市 石川氏→本多氏
水口藩 甲賀市 鳥居氏→加藤氏
大溝藩 高島市 分部氏
仁正寺藩 日野町 市橋氏
山上藩 東近江市 安藤氏→稲垣氏
近江宮川藩 長浜市 堀田氏
三上藩 野洲市 遠藤氏
この他に堅田藩(堀田氏)・朽木藩(朽木氏)・大森藩(最上氏)・近江高島藩(佐久間氏)・近江小室藩(小堀氏) がありましたが廃藩となっています。
■滋賀県の家紋
滋賀県の使用家紋をみてみましょう。
『都道府県別姓氏家紋大事典』によると、滋賀県の家紋トップ10は次の通りです。
1位 片喰 2位 鷹の羽 3位 柏 4位 木瓜 5位 梅鉢
6位 桐 7位 目結 8位 藤 9位 橘 10位 蔦
日本の十大家紋と比べると、茗荷紋と沢潟紋がランク外となり、かわりに目結紋と梅鉢紋がランク入りしています。
このなかで滋賀県の代表する家紋は佐々木氏の定紋目結紋です。
実際、近江を発祥とする佐々木一族の多くは「目結紋」を使用しています。
そのため目結紋使用家はその出自を佐々木氏と判断してしまうほど認知されています。
ちなみに佐々木氏の氏神沙々貴神社の神紋は「平四つ目」といいます。
■滋賀県の寺院
滋賀県の寺院をみてみましょう。
『全国寺院名鑑』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会)によると、滋賀県の宗派別の割合は以下の通りです。
湖北・湖東(彦根・近江八幡等) 湖西(高島) 湖南(大津・草津)
天台宗 7% 12% 22%
真言宗 4% 4% 2%
曹洞宗 5% 34% 4%
臨済宗 6% 3% 4%
浄土宗 10% 7% 26%
浄土真宗 63% 40% 36%
日蓮宗 1% 1% 2%
黄檗宗 2% 0% 1%
その他 2% 0% 3%
滋賀県全体を通して浄土真宗の寺院が最も多くあります。北陸地方に次ぐ真宗王国です。
湖南地域は天台宗の本山比叡山の麓、寺門派三井寺もあり、天台宗の寺院が多くあります。 これに対して真言宗寺院が少ないのが特徴的です。 真宗寺院が多いこともあり、古い墓石は多くありません。
■滋賀県の神社
近江国一之宮は建部大社です。
主祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。
日本武尊は熊襲・東夷を平定された武勇の皇子で、32才の若さで伊勢国において崩御されました。 その後、妃の布多遅比売命(ふたじひめのみこと)が神崎郡建部に尊の神霊を奉斎されたのが始まりとされます。
とくに源頼朝が伊豆に流される途次、建部大社で源氏再興を祈願し、ついに平氏討伐・源氏再興の宿願が成ってから、武運来運の神として信仰を集めました。
建部大社の祭祀は、建部氏(祭神・日本武尊の後裔)があたっています。
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[29] 空の青海のあをさんからのコメント(2017年08月06日 06時01分20秒 ) パスワード
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%83%B6%E5%B4%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
金ヶ崎の戦い
1570年
越前国敦賀郡金ヶ崎(まさに南北朝の戦いも金ケ崎で起きました)
織田徳川軍 vs 朝倉浅井軍
金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)
戦国時代の1570年(元亀元年)に起きた、織田信長と朝倉義景との戦闘のひとつ。
金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)または金ヶ崎崩れとも呼ばれ、戦国史上有名な織田信長の撤退戦である。
織田信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻撃したところ、同盟関係にあった妹婿の小谷城(琵琶湖東岸)の浅井家の裏切りにあい、挟撃の危機に瀕したため、木下藤吉郎(豊臣秀吉)と信長の同盟軍の徳川家康が後衛(家康の後衛に疑問をもつ向きもある)となって、信長本隊が信長勢力地まで帰還するのを援護した戦い。
敦賀口における金ヶ崎城(敦賀市)攻略自体はすでに成功していたが、浅井家離反の情報を受けて、おおよそこの地で信長軍の撤退が始まり、木下藤吉郎の殿軍は最初にこの地を拠点にして撤退戦を行った。
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vonvon IQ148
19:45〜48
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[52] 空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月05日 03時55分29秒 ) パスワード
>「女城主 直虎」は、出演者のトーン・ハーモニーのバラツキが目立ちます。
>いい役者と未熟な役者の差が目立ちますし、
>ストーリーのはしょりすぎのところも目立ちます。
ですね。
細かいところまで描いてた三谷ワールドの人間の機微を楽しんだ後ですから
アラが目立ちます。
今の言葉で表現すると、視聴者の理解力をもっと忖度してやれよ、です。
笑
今回と前回の、寿桂尼のカシコサを、もうちょっと描いてあげてたら浅丘ルリ子がもっといい女優に見えるのに
と残念です。
政治に長けた京都の公家の娘が
義元亡き後、
いかに今川家を守ろうとしたか
江戸時代に今川家が朝廷との連絡係として存続出来たのも寿桂尼によるからでしょう。
老獪な寿桂尼が小娘の直虎をどうあしらっていくのか
直虎がどう成長していくのか
そこがワタクシ的には面白いのですけど
不特定多数の視聴者向けとしては直虎大好きの小野政次が直虎にピシャリとやられる方が描き易いのかもね。
これからいよいよ面白くなります。
直虎のお経を詠んでる声はステキだなあと見ています。
あ、これから「しの」さんと直虎のオンナの戦いが始まるのかもですね。
松下常慶との結婚がどういう経緯か楽しみです。
瀬戸方久の
いかに財を成したかの説明
非常に三谷ワールド的で
分かり易く簡潔で
ヲイヲイ
NHK大河でこの展開はアリ?
と思いましたがスッゴク楽しめました。
笑
ま、ムロツヨシだしね。独壇場でしたっ
[53] 三つ柏服部さんからのコメント(2017年04月05日 08時21分05秒 ) パスワード
空の青海のあを様
レスありがとうございます。牛肉と大河ドラマについてのお話、楽しめ
ました。
新田喜斎(瀬戸方久)と松下常慶については、本日は「芝刈り」のため、
帰宅後に情報を記します――
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[24] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月14日 12時53分13秒 ) パスワード
服部貞信について
http://www.m-network.com/sengoku/ieyasu/sonenji.html
ここ読めますか?
こういう事が書かれているようですが
河内津田〜尊延寺 - M-NETWORK
この服部貞信という人物は『寛政重修諸家譜』によると、伊賀平左衛門家長の末孫すなわち遠縁ではあるが服部半蔵と同族で通称左兵衛、もと伊賀国阿拜(あへ)郡服部村に ...
文字化けして読めません:
š‰Í“à’Óc`‘¸‰„Ž›š
(‘åã•{–‡•ûŽs’Óc`‘¸‰„Ž›)
こんな感じ・・・
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いつか佐里 夷隅に行ければと思っております。
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九戸氏 再記。
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[20] 空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月03日 13時06分44秒 ) パスワード
三つ柏さん
秋鹿家ですか。「あいか」さんですね。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aika_kz.html
名家中の名家、ですね。
殿の馬前で討ち死にするのが当時の最大の武士の花道ですね。
わたくしの分も般若心経をありがとうございました。
秋鹿氏の祖は橘諸兄といい、二十代の後裔出雲守朝芳が出雲国秋鹿郡に住し、その地名をもって秋鹿を称した。ちなみに、秋鹿氏は「あいか」と読む。
朝芳の四代の孫朝慶は、鎌倉将軍頼経に仕え、その一族に列して藤原に改めた。そして、朝慶から六代にあたる左京亮朝治のとき、南北朝の争乱に遭遇し、朝治は足利尊氏に仕え、遠江国羽鳥庄の貴平郷、中泉郷、南郷の地頭に補された。以後、代々中泉に住し、ある時は武将として、ある時は代官として、また府八幡宮の神官として活躍した。
室町時代になると、遠江守護の今川氏に仕え、地頭職とともに、府八幡宮の神主を勤めた。
戦国時代、朝兼は今川氏親に仕え、その子の朝延は今川義元に仕えた。朝延が弘治三年に没すると、直朝が家督を継ぎ、天正十八年の「小田原の陣」に随従し、家康が関東に転封されると、常陸国に住した。慶長五年、関ヶ原の合戦ののち、遠江国の旧領を賜り、府八幡宮の神職となり、中泉に住して代官を務めた。以後、子孫は徳川旗本として続いたが、朝就の代より、府八幡宮神主に専従した。
他方、朝兼の三男政朝は、永禄四年に家康に仕え別家を立てた。天正十一年、家康の女が北条氏直に嫁したとき、付属せられて小田原に至った。十八年に小田原城が落ちると、上総国武射郡に籠居して死去した。あとを継いだ朝矩は徳川家康に仕えて、天正十二年の長久手の役に出陣して討死した。
■府八幡宮(ふはちまんぐう)
天武天皇の曽孫桜井王が遠江國の国司として赴任された時、庁舎内に祭られたのがこの神社のはじめである。従って、府八幡宮と称し、奈良平安時代の社宝が現存する。また、鎌倉時代には秋鹿氏がこの地に止まり神主となり、江戸時代は代官も兼ねて250石を給せられた。境内には、桜井王と時の天皇の問答歌が刻まれた万葉歌碑がある。
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[50] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月08日 10時50分21秒 ) パスワード
空の青海のあを様
「神主」による遠州報国隊の話から、いろいろ考えてみました。
その中心になったのが雄踏の賀茂氏。この賀茂氏は楠木氏とつながっている。
楠木氏の祖は橘氏。楠木氏の生れは駿河。
またこの賀茂氏は井伊氏ともつながっている。
井伊氏もまた橘氏とつながっている。
世阿弥系の服部氏も楠木氏とつながっている。
半蔵系服部氏も楠木氏とつながっている。
服部中系は半蔵系と遠くつながる。
そして楠木氏は橘氏。
この賀茂氏は雄踏町宇布見に居住。
服部中一族はというと雄踏町の隣の大久保・山崎・伊佐地・古人見・大人
見・神ヶ谷、・・・とんで上石田・下石田。服部保次は細江町刑部の元領主。
刑部のその前の領主は松下常慶。井伊家と強い関係。
服部半蔵の領地は市野。服部中の上石田・下石田の隣。
その隣に羽鳥庄。秋鹿氏・大草氏の管轄(天領)。
以上をもって、細江〜雄踏〜市野〜羽鳥は、松下(井伊)〜賀茂(楠木)〜
服部中・服部半蔵〜松下〜大草(秋鹿)の「闇のネットワーク」でつながって
いたと推察いたします。
その闇のネットワークとは、「忍者系」であり、そして「神主系」。
神主と諜報・陰謀のネットワークが存在した?・・・そしてその司令塔は
・・・神社本庁?、八咫烏?
徳川家を操った闇のネットワークがあった?
徳川家に入り込んだのは服部氏・・・正尚の子秀忠、服部氏は徳川家のパ
ラサイト・・・もちろんこれは極論で言えばの仮説です。
以後、実は秀忠を中心に徳川家は動いて行く。
では、何のために服部氏は徳川家にパラサイトしてしまったのか?
それは裏の存在が、徳川一系の整合性を取るためには、最期には血族的に
表に出ざるをえなくなってしまったからか?
今後、この仮説を検証して行きたいと考えます。
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[89] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 06時13分21秒 ) パスワード
闇の日本史「数と形」卑弥呼は何処 九州編 - So-net
http://www011.upp.so-net.ne.jp/dhistory/kyus_12.htm
文字化けで読めないです。
Translate this pageつまり対馬は韓国寄りで壱岐は日本寄りの思想をもった島であると考えているのだ。 .... 雪連宅満の父の名を「伊伎連古麿」といい、「伊伎」は「伊岐」「壱岐」であり、後の壱岐 ...
[90] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月12日 06時17分53秒 ) パスワード
伊岐さんの生息地は島根と長野にそれぞれ10人ずつ?
このあたりに 伊岐真利 の謎がある?
http://name.sijisuru.com/Area/map/%E4%BC%8A%E5%B2%90
伊岐さんは全国で82633番目に多い苗字と思われます。伊岐さんは順位がルーツの可能性が高いと思われ、多くいらっしゃるようです。一概に伊岐さんが多くいるところがルーツや発祥の地とは言えませんがもしかしたらそうかもしれません。そして長野県に移り住まわれた方が多いようです。
伊岐さん生息地は
長野県 10人
レス<84>では 島根に10人となっています。
【名字】伊岐
【読み】いき
【全国順位】 47,198位
【全国人数】 およそ40人
伊岐国造、伊岐宿禰、伊岐史などの子孫。
近年、日本列島の西側に多数みられる。
「伊」は伊勢または伊豆を表す。
生息地
島根県 3,079位 およそ10人
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[76] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月16日 05時43分05秒 ) パスワード
三つ柏さん
最近、コピペがうまくできなくて、窓8はよく分かりません。
>「影武者 徳川家康」
有り得ますよね。
>「家康は関ヶ原で死んでいた」
これも有り得ます。
島左近の子孫の島右近氏の作、というのが余計に面白そうですね。
わたくし的には 長曾我部氏が大坂の両陣の戦いで敗れて 子孫が「島」を称した
というのが興味深いです。
島左近もその最期については、
・黒田長政軍の菅正利率いる鉄砲隊に横合いから銃撃され負傷し後、死去した。
・正午過ぎ、小早川秀秋の東軍寝返りを皮切りに西軍は総崩れとなり、左近は死を覚悟して再び出陣。
正面の黒田長政軍及び田中吉政軍に突撃し、奮戦した末に敵の銃撃により討ち死した。
その他、目撃談もあったりして
生きてた可能性、アリ、ですよね。
なんせ頭の良い人だったので自分の最期をどうするかぐらい考えていたでしょう。
だから島右近さんのお話は興味深いものがありますね。
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『坂本神社の話』(永井数馬著)
に載っておりましたので、そのまま記載いたします――
「直勝候霊験記
今を去る三百年程前のことである。
徳川家康公の御小姓となった人で、幼名を伝八郎という人があった。
伝八郎は生来至って愚鈍なため、自殺をさえ思い立つ程であった。
ところがある夜、神のお告げの霊夢を見た。
――遠州の坂本山山王権現に祈願せよ。
そこで伝八郎は、八×八=六十四日の祈願を始めるのであった。する
と、七×七=四十九日目の事であった。一天俄かにかき曇り、闇夜のよ
うに暗くなり、万雷のような轟がして、只ならぬ状況になって来た。
伝八郎は恐ろしさをこらえながら、一心不乱に祈りを続けていた。す
ると、今まで神社の神官と思っていた人が、突然、鬼神の姿に変わって、
――汝よ、我はこの社の守りの鬼神なるぞ。汝の熱心な心願には感じ
いった。よって今ここに、神の代わりとなって汝を訓す。ゆめ疑う
な。汝は、前世に於いて罪深かりし故に、明盲(あきめくら)同然と
なって生まれたのだ。今叡智を欲せんとするならば、汝はこの長短
二振りの剣の内、一振りを呑みて、臓腑の悪血を吐き出せば、新血
生いて更生せん。汝、勇気を出して、大剣を呑むの気ありや、如何
……。
と問われた伝八郎は、恐る恐る、
――私は至って愚鈍の生を受けて、このまま命を全うせんよりは、寧
ろ死を求めた方がと考えた程です。よって大利剣を呑んで、生まれ
代らん事を誓います。
と申し上げた。
すると鬼神は、三種の祓いを唱えながら、大利剣を情ようしゃなく、
伝八郎の口の中に差し込むのだった。伝八郎はあまりの事に、血へどを
吐いて、その場に倒れてしまった。
しばらくして、己を呼ぶ声に、はっと目を覚ました。見れば神官たち
は、前のまま坐っているのだ。伝八郎は不思議に思って、今の事を物語
った。神官たちは感動して、
――かかる故からは、霊験は必ず現れるであろう。
と、天津祝詞を唱え聞かせると、伝八郎は即座に、一言一句の誤りもな
く、あたかも以前から知っていたかのように、暗誦するのであった。一
同もその様を見て、唯々、神明の霊徳の偉大さに感動するばかりだった。
かくして伝八郎は、勉強する毎に知恵と力がついて、やがては徳川家康
の奥小姓に用いられ、永井家の第十三世を継ぎ、従五位右近大夫将監直勝
として、徳川幕府の重要な役につくと共に、世の人々に深く慕われる身と
なったのである。」
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[58] 空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月05日 13時10分12秒 ) パスワード
>宗清の子の家清は三日平氏の戦いで死亡
泣けます。
宗清の子は父を恥じて
平家のプライドをかけて鎌倉に一矢報いたのかなと。
三日平氏の乱(みっかへいしのらん)
1
第一次三日平氏の乱 (平安時代) - 平安時代末期、伊勢・伊賀国での平氏残党平家継が起こした反乱。
わたくしの前世の父です。服部(伊賀)家長の兄。
今でも平静な気持ちでこの事件を考えることができないです。
お仲間は
平信兼(山木兼隆(山木判官代)の父上。・・・・・山木兼隆は北条政子の結婚予定者でした。政子は頼朝を選んだ)
藤原(伊藤・平)忠清・・・・・・清盛の刎頸の友である藤原(古市)景綱の息子で景清の父。
『平家物語』では「三日平氏の乱」と記されているが、
本来3日間で鎮圧され「三日平氏の乱」と称されたのは、この20年後の元久元年(1204年)に発生した事件であって、
この1184年の平氏反乱は長期間にわたり大規模なものであった[1]。
2
第二次三日平氏の乱 (鎌倉時代) - 鎌倉時代初期、伊勢・伊賀国での平氏残党若菜五郎が起こした反乱。
鎌倉時代初期、伊勢国と伊賀国で平家の残党が蜂起した事件。
建仁3年(1203年)12月に伊勢平氏の若菜盛高らが蜂起し、
討伐に向かった鎌倉幕府軍の平賀朝雅が、元久元年(1204年)4月10日から12日の間に反乱軍を鎮圧した事から「三日平氏の乱」と称された。
つくづく思うのは百姓と武士の違い。
百姓は今の日本人同様「何よりも命が一番大事」。
武士は「命よりも大事な守る物がある」と考える人々。そのためには犬死にも辞さない。
泣ける。
[59] 空の青海のあをさんからのコメント(2017年11月05日 13時13分18秒 ) パスワード
書き忘れ:
三日平氏の乱
こちらを参照のこと
http://www.google.com/search?ei=hI_-WcvnAsO2jwPM9q6gDA&q=%E4%B8%89%E6%97%A5%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E3%81%AE%E4%B9%B1%EF%BC%88%E3%81%BF%E3%81%A3%E3%81%8B%E3%81%B8%E3%81%84%E3%81%97%E3%81%AE%E3%82%89%E3%82%93%EF%BC%89%E3%80%80%E3%81%AF&oq=%E4%B8%89%E6%97%A5%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E3%81%AE%E4%B9%B1%EF%BC%88%E3%81%BF%E3%81%A3%E3%81%8B%E3%81%B8%E3%81%84%E3%81%97%E3%81%AE%E3%82%89%E3%82%93%EF%BC%89%E3%80%80%E3%81%AF&gs_l=psy-ab.12...2541.2541.0.4134.1.1.0.0.0.0.192.192.0j1.1.0....0...1..64.psy-ab..0.0.0....0.z95oFUvJeOw
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%97%A5%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E3%81%AE%E4%B9%B1_ (%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3)
[60] 三つ柏服部さんからのコメント(2017年11月06日 17時29分56秒 ) パスワード
空の青海のあを様
さすがに平家、及び服部氏についてお詳しいあを様であります。
宗清についての情報、近々伊賀・甲賀へ一泊二日で行って調べて
来たいと思っています。
伊賀の図書館の郷土資料室で半日位費やせば、何か拾えるものと
思っております。宗清と家長や服部連、服部伊賀守……、どんな
小さな情報でも、あれば行った甲斐ありです。また、伊賀の歴史研
究グループがあるはずなので、それらの資料等も入手したいと思っ
ております――
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[40] 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月17日 04時03分16秒 ) パスワード
前スレに 丸子 なんて静岡ですよね、と書きましたが
こちらでは 武蔵国丸子 だそうです。
まだ
葛西氏について
熊野那智大社文書 6: 総索引に出て来るカサイ氏の件は <3> です。
壱岐三郎時清とか壱岐六郎左衛門に過剰反応しました。市野氏の子孫に壱岐を名乗ってた人物がいたような記憶なので。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/kasai1.htm
いわゆる著名な学究といわれる人の著作にも、誤りが散見していることが分かり、愕然とした事情もあります。
葛西氏の概観をまず記しますと、下総国葛西御厨に起った称平姓秩父一族であり、豊島氏から分かれています。その本宗は、鎌倉後期ごろには陸奥国牡鹿郡の石巻に遷った模様で、戦国後期には寺池(宮城県登米市登米町寺池)に本拠を移しましたが、秀吉軍に敗北するまで陸奥の雄族として栄えました。一般に、源頼朝にその挙兵以降従い源平合戦・奥州征伐に活躍して奥州惣奉行に任ぜられた葛西三郎(右兵衛尉)清重を家祖としますが、秩父武基の弟・武恒を祖とするこの系統は清重の数代前から豊島と並んで葛西の苗字も併用していたことも考えられます。
2 葛西清重は、建保七年(1219)正月までに壱岐守に任じ、承久三年(1221)の承久の変に際しては宿老の「壱岐入道」(清重が出家して壱岐入道定蓮)は上洛を免ぜられて鎌倉におり、貞応三(1224)年閏7月1日、執権職をめぐる確執の中で、北条政子は泰時邸に三浦義村や「壱岐入道」等を招きます。これが『東鑑』の記事としては清重の活動の最後に現れるものとされますが、寛喜二年(1230)正月四日の将軍家供奉に見える壱岐前司は葛西清重のことではないかと私には考えられます。その後、同書の建長二年(1250)三月条には「葛西壱岐入道跡」が見えますから、この頃までには清重は死去しており、暦仁元年(1238)九月十四日に七十七歳で死去したという所伝(「盛岡葛西系図」)は概ね妥当(嘉承三年〔1237〕説もある)なのかも知れません。
清重は「弓箭ノ道」に優れた武者であったとされ(『沙石集』第六巻)、文治五年(1189)七月の奥州合戦のときは、父の豊島権守清光(清元)、弟の葛西十郎(実名は清宣か)とともに従軍し、翌六年(1190)二月の大河兼任の乱に際しても従軍しています。建仁三年(1203)十月条に叡山の堂衆により討ち取られたと見える葛西四郎重元も、清重の弟とみられます。
3 葛西清重の子としては、熊野那智大社所蔵の『米良文書』のうち「笠井系図」に嫡子伯耆前司、二男伊豆守、三男井沢七郎左衛門尉、四男葛西河内守重村があげられており、これらが各々順に清親、朝清、時重、重村(清秀)に当たるものと考えられます。この四名の名は、『続群書類従』所収の「千葉上総系図」にも同じく記されており、桓武平氏の系譜のなかでは比較的信頼性が高いとみられる「桓武平氏諸流系図」(越後の三浦和田氏の惣領家中条氏に伝わるもので、『中条町史』等に所載)にも同じく見られます。ただ、後者の諸流系図には、重光の名も清重の子のなかに入れて長男の位置におきますが、重光は弟(上記の葛西四郎重元にあたることは譜註記事から明らか)であり、その譜註記事も清親の記事との間で混乱があります。
清親は『東鑑』には仁治二年(1241)三月に伯耆前司と見え、宝治元年(1247)十二月に葛西伯耆前司と見えるまで同書に現れますが、途中、寛元二年(1244)八月には伯耆前司清親と見えております(寛元三年八月条の伯耆前司清時はおそらく誤記)。しかし、これは清親が壮年になってからの現れ方で、それ以前に葛西三郎左衛門尉あるいは葛西左衛門尉として安貞二年(1228)二月〜十月に現れる人物が清親にあたるのではないかと考えられます*1。なお、寛元元年(1243)七月十七日条の葛西三郎左衛門尉は清親の息子か伯耆前司との重出ではないかとみられます。
次ぎに、朝清は寛元二年(1244)八月から正嘉二年(1258)三月まで『東鑑』に見え、壱岐六郎左衛門尉あるいは壱岐六郎左衛門尉朝清と記されます。「笠井系図」により、後に伊豆守になったことが知られますし、建治元年(1275)の京都六条八幡宮の造営注文写には「葛西伊豆前司」(年代からみて、「跡」が欠落か)と見えます。『東鑑』には、仁治二年(1241)正月の射的の射手として「葛西六郎」が見えますが、これも朝清とみられます。その二八年も前の建暦三年(1213)の和田合戦のときにも「葛西六郎」が見えますが、御家人制研究会編の『吾妻鏡人名索引』では、この二つの「葛西六郎」を別人として扱っています。これが正しければ、建暦三年のほうは清重の弟に当たりそうですが、この辺は判断材料がありません。
更に時重は、壱岐七郎左衛門尉時重として建長二年(1250)五月〜康元元年(1256)六月まで同書に見え、途中の建長三年(1251)正月には単に葛西七郎時重と見えます。朝清及び時重は、「壱岐」の通称から見て清重の子であり、年代的に見て伯耆前司清親の弟であることは問題ないと思われます。
時重は、陸中磐井郡黒沢邑から起こった黒沢氏の祖と称されますが(「笠井系図」の井沢は伊沢郡に因るものか)、管見に入ったところでは、その子に宮野弾正重国と孫次郎清国(町野氏の祖)が見えます。
『六条八幡宮造営用途注文』(『北区史』資料編古代中世)によれば、建治元(1275)年5月、京都六条八幡宮の新宮用途のため、七十貫を負担している「葛西伯耆前司跡」と記されますから、この時点で清親は既に死去していることが分かり、所領を引き継いだ人物(後記のように三郎左衛門尉時清か)が担当したと思わます。他に、「葛西伊豆前司」「同壱岐七郎左衛門入道跡」「同河内前司跡」「同三郎太郎跡」とありますが、各々朝清、時重、重村、□清(□は欠字。清親の長男)とみられます。
河内守重村の子としては、葛西河内四郎左衛門尉友村があり、その子に平氏女と丸子八郎清友(弘安三年の葛西八郎清基と同人か)があったことは、上記「笠井系図」に見えます(系線では、平氏女と丸子清友は友村の弟妹におくが、記事からは子女とするのが妥当)。武蔵国丸子に清重が領地を賜ったことは、『東鑑』治承四年(1180)の記事に見えます。
*1 『吾妻鏡人名索引』(御家人制研究会編、吉川弘文館刊)では、安貞二年(1228)二月以降に現れる葛西三郎左衛門尉を清重の事績として整理するが、この時点では壱岐前司、壱岐入道となっており、疑問が大きい。太田亮博士『姓氏家系大辞典』の記述のほうが妥当である。この辺の話は後ろでも記述する。
4 清親の子としては、三郎太郎□清、伯耆三郎左衛門尉時清、伯耆四郎左衛門尉光清が考えられます。
三郎太郎□清は、『米良文書』のうち「笠井系図」に「西三郎(ママ。「葛」の脱漏ありか)」の子で、小三郎左衛門平光清の兄と見えます。その子に「又太郎兵衛」を記しますが、これが『東鑑』寛元三年(1245)八月十六日の八幡宮放生会に際して行われた競馬の五番に出場した「葛西又太郎」であろうと推されます。葛西又太郎はその後、正嘉二年(1258)正月、文応元年(1260)十一月にも見えており、文応元年時には葛西又太郎定度(ママ。定広か)と記されます。三郎太郎□清は、清親の長子であったにもかかわらず任官もしないうちに早世して、清親の嗣子としては、その弟の時清があげられたものとみられます。又太郎兵衛の子孫は続き、「笠井系図」にはその子(欠字が多いが、前後の関係から左衛門三郎安重か)の子に彦三郎清安、その子に三郎太郎行貞まであげられています。
次ぎに時清は、当初は壱岐三郎時清と見え(文暦二年〔1235〕六月)、のちに嘉禎三年(1237)六月には「壱岐小三郎左衛門尉時清」と見えますが、父清親が伯耆守になった後の建長四年(1252)四月には伯耆三郎左衛門尉時清と変わり*2、その四年後の建長八年(1256)年六月の放生会供奉人決定の際にも「伯耆三郎左衛門尉」が見えます。上記「笠井系図」には光清の子として新左衛門尉時清があげられますが、これは系線の引誤りではないでしょうか。
その弟の光清は、宝治四年(1248)八月に伯耆四郎左衛門尉光清と見えてから、弘長三年(1263)七月十三日条まで『東鑑』に現れます。その子に清氏がおり、同日条には光清の子息五郎清氏と見え、同年八月にも伯耆左衛門五郎清氏と見えます。上記「笠井系図」には葛西伯耆四郎左衛門五郎清氏、その子彦五郎重勝が正応五年(1292)在判で見えます。
また、建長三年(1251)八月十五日条に見える葛西壱岐新左衛門尉清員は、世代と称号から考えると朝清の子ではないかと推されます*3。その前年の建長二年八月十五日条には葛西新左衛門尉清時と見えるのも、清員の誤字ではないかとみられます。
*2 時清の位置づけについては、「壱岐小三郎左衛門尉」→「伯耆三郎左衛門尉」という呼称の変化から見て、清親の子であり、その嗣子で本宗家督となったことは疑いないが、なぜか清親の弟に置くものが多く、不思議に思っていた。清親の弟とするのは、関東武士研究叢書『葛西氏の研究』(名著出版刊、1998)の編者で同書のなかで「鎌倉時代の葛西氏」を著した入間田宣夫東北大教授の誤解にすぎず、これに依拠したものが多いようだと感じる。
なお、同書所収の今野慶信氏の論考「鎌倉御家人葛西氏について」では、時清について正当な位置づけをされている。『石巻の歴史』第六巻・特別史編の第三章で、葛西氏の系譜をとりあげる石田悦夫氏の見解でも、清親の子で、清経の父におかれている。
*3 清員については、必ず信拠のおける系図ではないが、朝清の子にあげるものも見られる。
5 時清の子としては、清経、清時があげられます*4。
清経は、建長四年(1252)十一月の将軍家御出供奉に伯耆左衛門三郎清経と見えるのを初出に、同八年(1256)八月の放生会供奉人として伯耆新左衛門尉清経が見えており、また『香取文書』には文永八年(1271)十二月十日の香取神社仮殿正神殿遷宮の惣奉行として葛西伯耆前司入道経蓮が見えます。
清時は、建長四年(1252)四月に伯耆左衛門四郎清時と見えます。
*4 清経、清時については誤解が散見する。すなわち、清経を清親の子としたり、清時を時清と混同する例であり、これらは上記の時清の位置づけ同様、当時の武士の呼称、とくに「新」「小」の使い方の誤解に起因している。太田亮博士も、時清と清時とを混同している。
かなりクダクダと書いてしまいましたが、この辺りをきちんと整理しておくことが問題解決のために重要であり、以上で『東鑑』に見える葛西一族を殆ど記したことになります。こうして鎌倉期の葛西一族を見てきただけで、いわゆる「盛岡系」の葛西氏系図が疑問なことが分かります。
6 清経以降の鎌倉期の葛西本宗をみれば、清経の子は葛西系図では宗清(清宗)とされており、その子が南北朝期に南朝方で活躍した清貞とされております。葛西三郎平宗清は、弘安七年(1284)十二月九日に新日吉の小五月会で流鏑馬を披露したと『勘仲記』にあります。正応元年(1288)七月九日付の『中尊寺文書』「関東下知状」の中には「葛西三郎左衛門尉宗清」「惣領宗清代」という名前が見えており、平泉毛越寺・中尊寺と葛西宗清との争論の裁決をした下知状ですので、宗清が「惣領」であったことが分かります。
次ぎに、「香取社造営次第案」(『香取文書』所収)に拠りますと、元徳二年(1330)六月に遷宮を担当したのは、葛西伊豆三郎兵衛尉清貞であり、清貞の父が葛西伊豆入道明蓮であり、親父伊豆入道が相論間、遷宮が延引されたと記されます。「葛西伊豆守清宗入道明蓮」は、香取神宮の文書や京都の寺社造営など他の文献にも現れておりますが、葛西三郎左衛門尉宗清との関係が不明です。両者が同人とみれば、系図上の問題はないのですが、そうは言い切れない事情(次ぎにあげる@A)があり、悩ましいところです。
すなわち、@正応元年(1288)に「惣領」である「葛西三郎左衛門尉宗清」が中尊寺・毛越寺を相手に論争をしていますが、その際、葛西伊豆太郎左衛門尉時員・葛西彦三郎親清も宗清とともに争ったとされるからです。
葛西伊豆太郎左衛門尉時員・葛西彦三郎親清ともに葛西一族の系図には見えませんが、年代と呼称から見て、時員は伊豆守朝清の子孫で、前出の新左衛門尉清員の子(あるいは孫)ではないか、彦三郎親清は前出の彦三郎清安と同人ではないかと私は推しています。
また、A中尊寺蔵の永仁二年(1294)執達状の宛名が「壱岐守殿」となっており、これも葛西三郎左衛門尉宗清を指すものと解されます。
そうすると、時清と清時とが別人であったように、宗清と清宗とは別人であった可能性が大きいものと考えられます。壱岐守宗清と伊豆守清宗とはほぼ同時代人ではないかとみられますが、別人と考えるわけです*5。その場合、伊豆守清宗の位置づけをどう考えるかということになりますが、この頃には葛西本宗家が確立していたのではないかとみられますので、現段階では、伊豆守清宗は伊豆守朝清の子孫ではなく、壱岐守宗清の弟くらいの位置におくほうが比較的自然ではないかと考えています(あるいは、朝清の子孫の伊豆守清宗が本宗の壱岐守宗清の跡を承けたものか。「伊豆」を重視して、こう考えれば、盛岡系の系図の歴代に朝清があげられる事情にもつながるかもしれない)。
*5 宗清と清宗とを別人に考える説は、管見に入ったものでは、ネット上のHP「千葉一族」くらいである。しかし、このHPの記事では、清宗を宗清の次の家督としながら、「葛西六郎左衛門尉朝清の子(ママ)か」と記しており、これは年代的にも疑問が大きい。あるいは「子」というのは「子孫か」とする意であったか。
7 南北朝期の葛西氏については、葛西三郎兵衛尉清貞の活躍が知られます。
早くは葛西三郎兵衛尉が『太平記』巻三の元弘元年(1331)の笠置軍事に北条方として見えますが、鎌倉幕府滅亡後は南朝方として活躍します。『白河結城文書』の延元三年(1338)十一月十一日付け「沙弥宗心書状」のなかに「葛西清貞兄弟以下一族、随分致忠之由令申間、度々被感仰畢」と記されます。それより二年前の延元元年(1336)正月に、北畠顕家軍に従って京都神楽岡で討死し新田義貞と見間違えられた「葛西江判官三郎左衛門」がおります(『梅松論』)。
小林清治氏は、「清宗(また宗清とも)は元弘の乱に幕府軍として上洛し、のち後醍醐天皇方に転じ建武三年〔1336〕京都神楽岡に戦死した」と記述しますが(『国史大辞典』)、『香取神宮文書』には既に元徳二年(1330)六月遷宮の際、葛西伊豆三郎兵衛尉清貞とその親父伊豆入道として見えますので、「葛西江判官三郎左衛門」が清宗のはずがなく、この記述は誤りと考えられます。『梅松論』の記事に疑問があるとも感じられます。江刺郡の江刺氏は葛西氏の配下にあり、葛西の族とも千葉の族ともいわれますから、「江判官」は「江刺判官」(渋江説もある)の誤記ないし誤脱ではないかとも思われます。
葛西清貞は、北畠顕信を助け奥羽各地で戦い多賀国府の奪還に活躍し、興国六年(1345)には和賀・滴石の諸氏とともに斯波郡の北朝方と戦った形跡がありますが、その後の消息は知られません。観応元年(1350)に死去したと伝えます。この頃から葛西氏は北朝方に転じたことが石巻地方に残る板碑の記年号から推されるといいます。
このように史料に現れる葛西清貞ですら、「盛岡系」の葛西氏系図に見えません。鎌倉期の系図については、「仙台系」系図のほうが妥当だとみられます。その後の室町期の葛西本宗については、『余目記録』などの各種史料に照らしてみる必要があります。「仙台系」が良いか「盛岡系」が良いかは難しい面もあるのですが、後者のほうが妥当だという見解もみられますから、「盛岡系」にあげられる歴代もかなり有力であったのでしょう。ただ、「盛岡系」系図には、朝清が清親の先代家督として見えますが、これも上述した朝清の位置づけからみて大きな疑問があります。紫桃正隆氏は、「両系の当主は異名同一人の可能性が強い」と評価しますが、両系統の名前にどこに共通性があるのか極めて疑問です(卒去年月日の酷似はあるので、別途の事情ありか)。
葛西氏は室町・戦国期には石巻と寺池という二系統に分裂していた模様でもあります。あるいは、鎌倉中期の清経・清時兄弟の時に二系統となって、前者の後が宗家で石巻におり、後者の後が分家で寺池にあって、それが最後の当主晴信の祖父晴重の代ころに合一となり、その頃から寺池に本拠を置いたのかもしれません。石巻から寺池に遷ったのが天文五年(1536)という所伝(龍源寺蔵「小野寺系図」)もありますが、これに否定的な説もあり、この辺も難しいところです。
『歴名土代』の従五位下条には坂東葛西三郎晴重があげられ、大永二年(1522)十月に左京大夫となったことが記されています。
最後の当主・葛西晴信は秀吉の小田原攻めに遅参して天正十八年(1590)に所領没収となりますが、その弟※といわれる右衛門尉胤重の子の式部大夫重俊(流斎)の子孫は、伊達氏に仕えて、仙台と宇和島に残りました。
※右衛門尉胤重を晴信の弟とすることに疑問な見解(石田悦夫氏)もあるが、胤重の生年(1532年頃)と命名から、晴胤の子とするのが妥当とみられるが、晴信の兄だったかもしれない。
(04.5.7 掲上、後に若干追補)
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/kasai2.htm に続く
こちらは奥州の葛西氏のお話になって行きます
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[11] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年09月06日 12時31分29秒 ) パスワード
吾道彦(思兼尊)の末裔・阿智神社社家が、
戸隠神社へ移遷した理由は何か?
10世紀 村上天皇の御代、吾道家の社家は戸隠神社へ移遷してしまう。
伊那谷に何があったのか? 中世日本の歴史が見えてくる。
神代皇代大成経事件が、神武朝の正統性を賭けたものだとすれば、阿智神社社家の戸隠移遷は、次なる支配者・藤原朝の覇権の影響にほかならない。
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