[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年12月08日 02時19分47秒 ) | パスワード |
ぴーひょろろ - 24/12/8(日) 0:50 -
本当にくだらないのですが、長くアメリカで生活している方、「昔はこうだったよね」と語り合う老人会しませんか?w
私は90年代末に留学でアメリカに来たので、その頃の思い出をシェアします。
お金のない学生生活が垣間見れます。
エスニック系の店の隅に置いてある自販機でphone cardを買い、それを使って実家に電話
国際結婚してる方たちが作ったホームページの同盟みたいなもの(国際結婚リンク?)があった
富士山ドットコムでコタツ購入してる人が数名
大学のクラス登録は電話
街中に新聞の自販機(50セントとかで友だちと取り放題w)
取り放題といえば、$5払って一日中映画館に入り浸ってた人がいました
一時帰国(fka里帰り)は安いノースウエスト航空で
大学のキャンパスでのバイトの時給が$5くらい
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年12月08日 02時21分13秒 ) | パスワード |
ぱぱりん - 24/12/8(日) 1:38 -
私が留学で渡米したのはまだベトナム戦争が終わってそう時間が経っていなかった70年代後半で
もう50年近くになりました。
当時は日本人学生も少なく、
大体金持ちのご子息やご令嬢が多かったですね。
私のいた総合大学でも日本人は8人しかいませんでした。
周りにいた古い留学生の中にはベトナム戦争にグリンカードと引き換えに行った人達もいらっしゃいました。
私が大学生の頃は勿論ネットなどは無く、ペーパーを書くには図書館に行ってインデックスカードでトピック探して、マイクロフィッシュで閲覧してました。
バークレーのアパートも安く、駐車場付きで1ベッドルームなら月300ドルもしなかったですね。
知り合いだった某鉄道会社ご子息はランボルギーニに乗ってらっしゃいました。
スーパーマーケットに行っても50ドルもあったらカートに一杯物が買えた時代、懐かしいです。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年12月08日 02時25分03秒 ) | パスワード |
しくしく - 24/12/8(日) 2:09 -
90年代初期に大学入学のため渡米したクチですー。
入国して2日後、
留学生はカウンセラーにひとまとめでバンに詰め込まれ
SSオフィス、銀行、ターゲットツアーに強制連行。
SSNは当日発行、
カードは後日郵送。
銀行口座も当日開設してもらってデビットカードの発行。
新品のチェックブックを握りしめて買い物に蹴り出された留学生、
ターゲットで生活用品をカートいっぱいに詰め込んだお値段は$200強。
スケルトンの電話だーの、お布団セットだーの可愛いサイドランプだーの、当面の文房具その他諸々とトイレタリー系全部買っても$200強。
その後マックに連れて行かれて食べたQPCバリューセットが$2.99。
うん、物価はとっても安かった。
電話はそのままかけたら1分$3とかだったかな?
そのうちコーリングカード使用を覚えて電話できるようになったけど、
その頃にはどうでも良くなって日本とはほぼ音信不通。
電話関係で言ったら、まだ当時は公衆電話が機能していました
(壊されていなかった)。
バスに乗れば運転手さんに子供料金を教えられたので、2年間ほど同級生と一緒に乗車して気づくまでは半額で乗っていました。
確か$0.75くらい。
当時はダイナーやコーヒーショップの美味しくない飲み放題(か、お代わり二杯まで無料)コーヒー$0.75くらいしかなくて、
アイスコーヒー なに それ 美味しいの?
状態なアメリカでした。
あ!sushiは 和食は 台頭していなかったので、近所の魚屋さんでサーモン買ったついでに筋子、トロとあん肝をタダかただ同然(全部入れて5kgくらいあるのを$3とか)で貰ってました。
うちの方の映画館では一本$1の古めの映画上映をしていて、一日中見ていても$4、5。
冬場はそこらの広場に水を撒いて凍らせたスケーティングリンクでただ同然で買った中古のスケート靴($2とか?)で大はしゃぎ。
たまの贅沢は$1.80くらいの超でかいDQのシェイク。
近所の古着屋さんで$3ずつくらいで買ったフルグレインレザーのイタリア製ロングコートに男性用古着のリーバイス501にドクマのブーツ。
楽しかったなー。
長くなったのでやめときます。
ばばぁになると
話が長くなっていけない。
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年12月08日 04時44分56秒 ) | パスワード |
ピーコ - 24/12/8(日) 2:31 -
写真はタブルプリントにして手紙郵送、3,4日後に到着
一応パソコンはあったが実家の親には使いこなせない。
日本の甥っ子の入学式したと口頭で聞くだけだったのに、現代では動画ライブで見れる。
時間も郵便局もいらずに瞬時で、
ちょっと前までは郵送か国際電話は高かった
いまじゃ日米で写真や電話が無料で出来る時代すごいと思う。
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年12月08日 04時45分46秒 ) | パスワード |
レタス - 24/12/8(日) 3:12 -
1990年後半に留学しました。
寮の固定電話から国番号001か0011だったかをダイヤルして日本の家族の固定電話に繋いでもらって話をしていました。
1分30円?100円?
もう思い出せませんが、
割と高額だったので長電話なんてできませんでした。
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年12月08日 04時48分05秒 ) | パスワード |
にんてんどー - 24/12/8(日) 3:18 -
私は80年代に大学留学でアメリカに来ました。
留学に向けて英語勉強するにも、勉強材料が少なくて、紀伊国屋でお高い英語の本・雑誌・新聞を買って読んでいました。
生の英語を聞くにも、FEN(Far East Network)という米軍のラジオを聴くのが一番お手軽で、
American Top 40やNPR番組の合間に「どこそこのLatrineが閉鎖されてます」「どこそこのMess Hallでホリデーパーティーが開かれます」といったアナウンスメントが入っていたのが印象的だった。
ネットや電子メールがまだ一般的ではない時代だったので、日本との連絡は手紙か国際電話。
国際電話も高くて、短い会話でも$20位は覚悟。
日本のニュースも、教授の日本人の奥さんからお流れでいただく2週間遅れの新聞のみ。
大学の最初の1年半はペーパーを手動タイプライターで打ち上げていました。
同級生の一人が最新ワープロを持っていて、それが百科事典サイズの機械に小指サイズのスクリーンが付いているだけで、一文ずつ打ち込む仕組み。
2年生の半ばから、大学にIBM互換のPCが設置され、ワードパーフェクトでペーパーを完成できるようになりました。
5インチのディスクを使っていた。
ネットがないから、調べ物は全部図書館。
簡単なことを調べたり確認するにも、かなりの労力が必要だった。
SUSHIとか まだ普及していなかったから、
「日本人は生の魚を食べるって本当?」
と眉をしかめて質問する人が時々いた。
食膳の上に生の魚がまるままボーンを置いて、日本人はそれを食べるといったイメージを想像をしていたらしい。
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年12月08日 04時49分53秒 ) | パスワード |
若かった - 24/12/8(日) 3:49 -
80年代後半に高校の交換留学で渡米しました。
アイスコーヒー、なかったですよね!
注文したら「なんじゃそりゃ?コーヒーを氷に注いだらいいの?」って聞かれました。
結構な田舎にいたんですが、キッコーマンの醤油が普通にスーパーにあって、ホストファミリーの家にもあったのでびっくりしました。
国際電話はKDDIで繋いでたような記憶が。
日本に手紙を出す切手代は1ドル以下だったと思います。
1年分のお小遣いとして別に$1000トラベラーズチェックで持ってきてました。
追加でクリスマスに親が$500送金してくれましたが最後結構余りました。
学校のスポーツチームの遠征の時に支給される夕食代は一人$5でした。
それで十分食べられた。
大学時代はインターン先で読む読売新聞衛星版が日本語ニュースのソースでした。
大学の途中で電子メールが使えるようになりました。
IRCでローマ字でチャットしてた人いますか?
9-11の前までは飛行機チケット持ってなくても空港のゲートまで行けましたよね?
あと国内便はIDチェックもなかった。
飛行機には喫煙席がありましたね。
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年12月08日 04時51分08秒 ) | パスワード |
ぱぱりん - 24/12/8(日) 4:10 -
70年代、日本にコレクトコールをすると1分3000円でした。
メールも無いし手紙じゃ時間かかるし、仕方なしの電話でした。
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年12月08日 04時52分02秒 ) | パスワード |
な - 24/12/8(日) 4:38 -
70年代後半に渡米、
ちょうど44年前の今頃
小雪舞うダコタハウス前に行って
ろうそくを灯し
みんなで合唱しながら追悼した思い出が一番記憶に残ってます。
当時の地下鉄のトークンは50セントで土日の外出には片道フリーのチケットが
もらえました。
今では考えられないくらい危険で汚く危ないニューヨーク、
でも
もっともニューヨークらしかったです。
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年12月08日 13時01分15秒 ) | パスワード |
思い出しました - 24/12/8(日) 11:51 -
▼若かったさん:
>80年代後半に高校の交換留学で渡米しました。アイスコーヒー、なかったですよね!注文したら「なんじゃそりゃ?コーヒーを氷に注いだらいいの?」って聞かれました。
そうそう、私も普通にiced coffee をダイナーで注文したところ、マグカップが2つでてきて1つがコーヒー、もう片方は氷のみでした。
氷にホットコーヒーをこぼしながら入れて飲みました。
アメリカにはアイスコーヒーがないんだぁと軽くショックを受けました。
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年12月08日 21時53分42秒 ) | パスワード |
よーこ - 24/12/8(日) 13:15 -
90年代後半にNY市に来た時、まだ地下鉄はトークンでした。
地下鉄車両も古い型で、今の日本製車体ではありませんでした。
駅にエレベーターがなかったような。
今もまだ全駅にありませんが、増えては来ました。
JFKへ行くにもエアトレインはありませんでした。
フジサンケイTVがあって、
朝は7時から久下香織子さんのニュース、
毎晩夜10時から日本の番組が見られたのが嬉しかったです。
見ていた方いらっしゃるでしょうか?
市内はまだ沢山の日本人観光客がいました。
コロナ以降、観光客(日本人)見かけなくなりました。
ミツワではなく、まだヤオハンと言う名前のスーパーで、
それはそれは日本人で混んでいました。
今は日本人じゃない客と半々くらいで、フードコート以外は閑散としています。
今ある100店近いラーメン屋さんはなく、いつも同じラーメン屋さんに通っていました。
AOLと言うサイトで、日本人が集まるチャットがあり、ローマ字打ちでチャットしていました。
やっていた方、いらっしゃいますか?
紀伊國屋も日本語の本(日本人向け)が主だった記憶です。
今は英語の本なども多く、日本ファンの非日本人の方も多いです。
ニューヨーク市に住んで早26年になりましたが、これでも街はキレイになった方だと思います。
[12] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年12月08日 21時55分26秒 ) | パスワード |
まっち - 24/12/8(日) 14:52 -
私も同じく90年代後半にアメリカの大学に留学したのがきっかけで、未だに居残ってます。
Phone Card
懐かしい!
ネットが一般的になった頃だったんですが、
ダイアルアップのみだったので、
画像があるホームページが遅く
しかも、
当時は日本語が見れず、
メールも日本にいる家族や友達とはローマ字で通信してました。
語学ラボは日本語対応のマックがあったんですが、
語学以外の事を留学生はするので、すぐに追い出されてしまいました。
インスタやらで流れてくる今の留学生のキラキラした生活が羨ましいです。
私もあんな風に動画を作ってみたかった。
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年12月09日 02時29分36秒 ) | パスワード |
ギバちゃん - 24/12/9(月) 1:14 -
最近TverでNY恋物語(桜田淳子が出てる方)を見たのですが
私が渡米した1990年ころって
あのドラマに影響を受けたのかーーーっていう位NYに日本人が多くてゴロゴロしてましたね
East Village辺りがちょっとした日本人村になってた記憶があります、
国際電話はMCIかAT&Tがいいとか友達と情報交換してました、
OCSニュースが情報源だったな、懐かしい、
携帯電話が無い時代には留守番電話(アンサリングマシーン)は必須。
就職面接の合否の結果とか緊張して待ちました。
時々街で野沢直子さんを見かけました。
当時一緒に居たのはボブさんですね、
今はトラさんと再婚(予定)されて
おめでとうございます。
[14] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年12月09日 11時37分40秒 ) | パスワード |
クロワッサン - 24/12/9(月) 8:44 -
初渡米は1982年でした。
学校や仕事、家の関係で出たり入ったりを繰り返し、アメリカ生活は4回目で通算15年目です。
マイクロフィッシュ、懐かし過ぎる。
タイプライターだと、構成を変えたいとか、もう大変で大変で。。。
20数年後に大学に戻った時にリサーチペーパーが楽で年下クラスメートに「昔はね、」って思わず語っちゃいました。
アイスコーヒー話、20代の甥っ子姪っ子に語ったことあります(笑)
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インターネット以前のホテル予約にAppleみたいな名前のパンフレットがあったのを覚えていませんか?
あれをそもそも日本でどうやって入手したのかも思い出せないのですが。
砂糖なしのアイスコーヒーを頼むと人工甘味料を1つかみ(ちょっと大げさ)渡されるのがデフォで、要らないっていうと「えっ、"UN"(砂糖なし)って言ったじゃない。」と確認されていました。
甘さが不要ということが理解してもらえない時代だった。
渡米前のTOEFL試験、ドル建てチェックを作って郵送で受験申し込みをしなきゃいけなくて、
手間だし時間かかるし、
気軽に受験できる状況ではなかった。
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