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投稿番号:41486 投稿日:1999年11月05日 22時51分39秒  パスワード
お名前:服部 明子
 

梟の城


コメントの種類:その他


10月4日にビバリーヒルズで映画「梟の城」の試写会があったそうです。
「ディレクターズ・ギルド」という映画関係者の建物です。
格の高い場所で、私は昔、「ダウンタウンヒーローズ」という映画や「かぐや姫」を
見ました。今回は知らなかったので招待にありつけませんでした。

ご覧になった方はここに感想などを書いて頂けませんでしょうか?


ACCさんからのコメント(1999年11月07日 00時20分53秒)
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今日は新宿のシアターアプルに観劇に行ってきました。
当然映画館街を通るわけで、「梟の城」やってましたよ。
「観たい〜」と思ったのですが今日は目的が違うので
止む無く我慢でした。(笑)

というわけで、明日はなかにしさんに会いに行きます。(笑)

服部 明子さんからのコメント(1999年11月08日 11時52分08秒)
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メールを頂きました。


「梟の城」をみました。
津村さんの前田玄以がいい味でてました。

ボニさんからのコメント(1999年11月08日 19時14分49秒)
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おびおさんはまだ「梟の城」について書いておられませんね?

服部さん、先にあやまっておきます。ごめんなさい。(意味不明でまたまたごめんなさい)

服部 明子さんからのコメント(1999年11月08日 21時47分10秒)
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ボニさん:

おびおさんは未だ時間的余裕がないでしょう。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月08日 21時51分48秒)
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メールを頂きました。当然、無断転載。

Dear Akiko

「梟の城」はテレビのコマーシャルを見て、とても気になっていました。基本的に忍者モノ
やちゃんばらモノは大好きなのです。
(笑)

でも「梟」の字が最初読めなくて、ウグイスかな?とかカッコウかな?とか想像してました。
(恥)

ところで、なんで「フクロウ」の城なのでしょう?
殿様がフクロウ飼ってたとか?
日本史さっぱり忘れたので、わかりません。
(恥の上塗り)


映画は子供が生まれてからさっぱり行けなくなってしまいました。
映画館で騒ぐとヒンシュクですし、ドライブイン・シアターはアメリカほどありません。
あってもアメリカのと違って、音声をFMで飛ばしているので、ずっとエンジンをかけて
なきゃならないので、環境にもよくないです。

アメリカで行ったドライブイン・シアターは、小さなスピーカー(長いコード付き)を
各車に近づけて音を聞いていました。だからエンジンをかける必要がなかったのです。
これは僕がアメリカに行ったとき(10年前)の話ですから、今はアメリカもFMで
飛ばしてるのかな?場所にもよるのかもしれませんが、スピーカー式の方が、省エネ
及び環境を考えると絶対良いと思います。


話がそれてしまいましたが、おそらく「梟の城」も、もう少したってから、ビデオで見る
ことになるでしょう。


では。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月08日 21時59分26秒)
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メールを頂きました。これも無断転載。(^^;


是非見に行きたいですね。
映画館にも数年行ってないし。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月08日 22時03分11秒)
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メールを頂きました。これも無断転載。(^^;;


「ふくろうの城」には,ちょっと興味があって,見に行こうかな?
なんて考えていたところでした.
是非,見に行こうと思います.

ボニさんからのコメント(1999年11月08日 22時06分59秒)
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おびおさんは、昨日の私との会話について必ずここへ書くと言われていたので恐れていたのですが、
そのことには触れてないみたいですね。ふぅ〜

ACCさんからのコメント(1999年11月08日 22時10分18秒)
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>おびおさんは、昨日の私との会話について必ずここへ書くと言われていたので恐れていたのですが、
 そのことには触れてないみたいですね。ふぅ〜

もしかして、あのこと?
フフフ

服部 明子さんからのコメント(1999年11月08日 22時11分34秒)
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これも無断転載。服部 明子って性格悪いな、って思われてるかも。。。(^^;;;


「時は、天正9年。織田信長が伊賀を攻め、大虐殺を行った。
それから10年。時は太閤秀吉の天下。ある忍者に命じられた大胆な計画があった。

秀吉暗殺・・・・・・。

忍者はフクロウの如き存在。歴史の奥深く、闇に生まれ、闇に死ぬ。時代に行き抜く
忍者たち。

人は彼らを「ふくろう」と呼んだ」


司馬遼太郎作品が映画化されました。

私の会社の上司、伊賀XXX氏は伊賀一族の子孫です、この末裔は戦国、備前に流れ
宇喜田一族と共に彼の地で君臨していました。

私の先祖は瀬戸内海で水軍として渋川の地に城を構え、君臨していたようです。今も
墓石が残っています。


今を生きる私どもとしましては、過去の歴史認識の基で、今を精一杯生きることだと
思っています。

不思議なもので、私たちの先祖の歴史の中で一人でも欠けていたら、今の私は存在し
ないのですから感謝していたい、と思っています。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月08日 22時15分01秒)
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ボニさん+ACCさん:

何だろ?何だろ?

服部 明子さんからのコメント(1999年11月08日 22時20分06秒)
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「性格悪い」ついでに、もっと無断転載。


メールにおいては初めまして。

私の仕事はエンジニア、と言えば聞こえはいいのですが、肉体労働者と言った方が合っています。
「梟の城」も見てみたい気はしますが、仕事の休みが取り辛く、子供も小さいので
なかなか行けそうにないです。

休みがあれば他の事で費やしてしまいます。
勤勉な日本人の一人になってしまったなぁ、などと思う今日この頃です(笑)。

ではこの辺で失礼します。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月08日 22時27分10秒)
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お見舞いも兼ねて無断掲載。


ふくろうの城はCMをTVで見たときから観たいと思っていたのですが
観たい理由が増えました。

でも行けるかどうか・・。

実は先々週にXXでバイクで転倒し、修理代が5万かかったので
今月は早速金欠なのです。

でも行きたいな。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月09日 22時13分34秒)
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メールを頂きました。常に無断掲載。。。ふふふ


今日、「梟の城」観てきました。 大坂の風景が素晴らしかった 。(^^

服部 明子さんからのコメント(1999年11月10日 11時12分56秒)
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映画には関係ないのですが戦国時代のお話が友人のHPで盛り上がりましたので、
こちらにもご紹介します。消えてしまうが惜しいから。


友人:

「何時頃に清正をはじめとする豊臣恩顧の大名たちは家康の本心に気がついたか?」
についてご意見下さい。


私は征夷大将軍の宣下を受けた時点で目端の利く大名は気がついたと思ってます。

いくら清正が家康に心酔していたとしても、武家政治を司る幕府を開く権力
を手にしたときうっすらとは確認したと思ってます。

秀忠に譲位した時点でそれは確信に変わったのではないでしょうか?
豊臣秀頼が関白になれたとしても武家である以上武家政治を行い、武家の権益
を守らねば(保証しなくては)ならない立場があると思います。

関白による武家支配と将軍による幕府は両立しないということは当時の大名たちに
も理解できたのではないでしょうか?
幕府ができてしまった以上あともどり(政権返上)はできないという。
秀頼は幕府の将軍になるつもりだったのでしょうか?関白コースを捨てて。
豊臣家の存続の可能性は、武家としてでなく公家としての道しかなくなって
しまったということではないでしょうか?

幕府による武家政治の根本は、公家政治に取り込まれるのを潔しとしない
武家と公家の階級闘争の側面があると思います。
それさえ加藤らは理解してなかったとお考えですか?

私は、肥後50万石の大名にまでなった清正が秀頼の太刀持ちのよう
な警護を自ら引きうけたのは、家康の本心に気がついたが今となって
はどうしようもなくなってしまったため個人的な忠誠心を最後に発揮
した結果だと考えています。

つまり清正は、秀忠への将軍譲位の時点で家康の本心を確信したと
思ってます。政権を返すつもりはないという。
それに対する清正の最初で最後のささやかな、家康への抵抗だったのでは
ないでしょうか?




私:
石田三成は気の毒な人ですね。
一生懸命守ろうとして報われず敵を作ってしまった。

こういう人っていますよね。
一生懸命やってるけど嫌われる。
自分が、って一人で守ろうとしたからいけないのでしょうね。

ウチの職場でもありますから。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月10日 11時15分57秒)
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友人:

戦国時代〜江戸時代は、石高がその勢力の地位を決めていたらしいですね。

松前藩が、米はとれないが貿易で潤っていたのに、「石高0の貧乏藩」とさげす
まれていたのは有名な話ですし。
(幕府が「推定何万国」を与えるまで続いたそうだ)

薩摩藩も桜島と台風のおかげで常時70万石も収穫出来てるわけではないのに、
見栄のために70万石の藩でありつづけたわけで・・・

そう言った点から考えると、お馬鹿の福島くんはもとより、自分よりも石高の低い
三成の傘下になる事をよしとしない、ちんけなこだわりをもったサムライは多かっ
たと思いますね。

実際、西軍の名目上の大将だった毛利輝元と秀就は「お人好し」だったわけだし、
島津維新さまにいたっては、到着するまでどっちにつくか考えていた始末。
(大谷義継が友情をもって三成に助勢したのがめずらしかった時代だし)

そういった点から考えるに小生は、加藤くんとかは、そのちんけなこだわり等で
状況判断を間違えたのであって、家康の事など関係無く「豊臣家に忠義を尽くす」
つもりでいたのでしょう。
(「石高の低い三成がわが物顔するような豊臣家であってはいかんとでも思ったかな」)

まぁ真実は歴史の闇の中ですが・・・



私:
水戸もそうでしょ?
ご3家ということで見栄張ったクチですね。

そこへいくと愛知県というのは見栄より中身で勝負ってとこがありますね。

尾張62万石とは言ってても実高は180万石以上。
持ってても無い振りして、出す時にドカンとやる。

これもイヤらしいか。。。



上杉さんとこは終身雇用を貫いてリストラをしなかったナカナカの。。。

だんだん話がずれてしまいそう。
ごめんなさい。



友人:


薩摩77万石です。(とりあえずは)
むろん砂糖や密貿易の利益は含んでません。




私:

私は戦国時代では「大谷吉継」が好きです。

友情を感じている石田三成に、命を上げよう、という部分に。
ま、ライ病ということもあったでしょうが。
大谷吉継の最期というか滅び方は美しいと思いますね。


でも大坂方は絶対負けない計画の戦さだったと思います。
兵力も関ヶ原の陣取りも。
だから大谷吉継も三成が負けるとは思っていなかったでしょう。


もし負けるなら「裏切り」だろう、でも、まさか、と思っていたと思います。
裏切りを予測していなかった三成の誤算だったと思います。
裏張り三成には人望が無かったということでしょうね。
この3行は結果論です。



小早川秀秋の心の推移は面白いと思います。
勝って秀頼の下に置かれるのには耐えられなかったのかな?とか
それは何故か?とか。

大谷吉継は好きだけど、小早川秀秋は嫌いだけど、どっちの心理描写を読みたいか、と
聞かれたら小早川秀秋の方です。

関ヶ原後の小早川秀秋の裏切りに対する心の呵責は是非とも聞きたいものです。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月10日 11時19分15秒)
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友人:

秀吉をして「100万の軍勢を与えてみたい」と言わせた大谷義継ですが、
癩のおかげで敦賀8万石でおわったのが小生も残念とおもいますね。

関ヶ原の布陣を観るに、義継か左近のどちらかは、「人望の無い三成の元についている
ヤツがいつ豹変するか」をキーポイントにしていたようなフシはあるように思えます。
実際それでケリついたし。

まぁ毛利方の吉川広家が家康と内通して、毛利軍を動かさないようにしていたって
のもありますし、維新様も長宗我部盛親も、状況判断を思いっきりミスりましたし・・・
(しかし広家は、結果的に毛利家が萩におしこめられると思ってなかったろうな。家康甘く見過ぎ)

小早川秀秋にいたっては、宇喜田秀家が新築した城をもらったのに、狂い死にする始末。
まぁ関ヶ原最高の功労者(!?)なはずなのに城一個しかもらえないような小物だったわけだし・・・

ちなみに小早川秀秋の肖像画は笑えます。「な〜んも考えてないぞ」って顔してる。
私は、その顔が示す通り、関ヶ原でも「なにも考えてなかった」っておもいますよ。
そんなヤツのおかげで希望が潰えた三成の心中はどんなんだったんだろうとはおもいますが。

関ヶ原の西軍しかり、大阪の秀頼軍しかり、真の武士は滅ぶ事に道をみつけるんだろうな・・・



友情の為に死んだ大谷義継や、無敵の島津維新様も好きですが、

前田利益・花房職家・名古屋山三郎等のカブキ者達が大好きです。
(結局、反社会的な人間なのかな。オレって)




私:

あんな男に、という思いは三成にはあったでしょうね。
あんな出来の悪い・カスのような奴に頭脳明晰な俺が出し抜かれたのか?って。

あいつは馬鹿だから何をし出かすか分からない、という警戒心を持たなかったウカツさ。
三成の苦笑が見えるような気がします。

小早川秀秋は秀頼さまの親戚なのだから、まさか裏切るなんて、とは考えてなかったでしょうね。
自分が豊臣家を愛するように、親戚なら秀頼さまに従順だ、と思っていたところに
三成の過信があって、三成っていい人なんだって思います。
嶋左近ほどの人が三成を見捨てられなかった部分も分かります。


石田三成は日本史上の「名君だったけど気の毒な人」の筆頭と思います。




友人:

>(しかし広家は、結果的に毛利家が萩におしこめられると思ってなかったろうな。
家康甘く見過ぎ)
いままであまり疑問に思わなかったけど、毛利は120万石から38万石だっけ!
西軍の総大将だから領地が減るのは仕方ないにしても広家の働きを見れば
毛利が50万石から60万石でも不思議はないですね。



私:

私は逆に家康が厳罰に処さなかったのが不思議です。

積極的に動かなかったから減封で済んだのでしょうか?
安芸を召し上げられたのですから充分厳罰だった?




友人:

広家は動かなくてよかったのです。
彼が動くと本当に西軍の安国寺や長宗我部まで
動いてしまいます。



友人:

石高が一般的になったのは秀吉が太閤検地を全国的に実施してからのことだと思います。
それ以前は貫高が一般的でした。(ただし例外が多い)
伊達藩は江戸時代もしばらく貫高制だったと記憶しています。

水戸藩は御三家ですからやはりそれなりに見栄を張っていたようですね。
他の藩は(例えば鍋島藩などは)表示石高よりは実石高の方が高かったようですが、
水戸藩は正直者と言うよりは見栄はる君のため表高で表示していました。
そのために徳川光圀などは名君と呼ばれていて名高いのですが、
「水戸藩」としてはかなり苛斂誅求だったとのことです。
農民がかなり相馬藩などに逃散しています。

尾張は信長の時代から農業生産性の高い地域でしたね、服部さん。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月10日 11時24分27秒)
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友人:

逆に伊達藩は広大な平野がありながら60万石とは少ない。
後の開拓によってもっと増やしていたのだと思う。
薩摩というと琉球の貿易で懐を暖めていたのでしたよね。
だから実際の石高よりももうけていたのでは?



友人:
薩摩藩というのは、薩摩というのは、参勤交代する藩の中で一番遠いくせに、
77万石の格式を維持した行列をつくらないとプライドが許さないもんだから、
すごい費用かけちゃうし。
(しかも調所広郷が200年かけて返却するとかいって集めた証文焼いちゃうから、
大坂とおれなくなるし)

宝暦の濃尾平野の大治水という、理不尽きわまりない事もさせられて
さらにすげ〜借金重ねて(100億円ぐらい)、砂糖の利益は風の様にとんでくし、
それに密貿易なんて江戸にしれたら、即刻潰されるから、
江戸方に話が通じないように鹿児島弁をつくり(WWIIで、緊急時の暗号になっちゃうし)、
間者を逃がさないような体勢を敷いてたりしてたんですが・・・問題は、

自分よりも年下のおじさんが出来るくらい好色な藩主が続いた時代があったり、
島津重豪の様な豪快な趣味人がいたり、そのツケの回復の為に島津斉興が質素倹約に
つとめても、島津斉彬がつかっちゃう始末。(調所笑左衛門の苦労が水の泡)

といった感じで浪費がはげしいんですね。逆に、密貿易とか砂糖の専売をやらんと
つぶれてた藩ですから。



どめに当時はまだ、シラス台地に根をはるものなんて、ホント、芋しかなったらしいですし。

芋は石高には入らないからね。



関ヶ原以前の毛利家は、中国地方十ヶ国を持つ100万石クラスの大大名だったのが、
広家さえ邪魔しなれければ、勝ったかもしれないのに敗戦したおかげで、
長門一国に減らされたうえ、せっかく新築した広島城は福島正則のものになり
(それの改修工事で潰されるんだけど)
新しく城をたてる許可がでたのが、中州状態の萩、周囲に村すらないようなド田舎だった
らしいところですよ。当時は。
そのうえ、築上における高さ制限に広さ制限までついて・・・ひどい転落のしようですな。
ホント命が残っただけマシって感じで・・・
さすがのお人好しの輝元も怒ったみたいで、毎年正月には、家康への恨みを忘れないために
「自軍の戦力で江戸幕府が倒れるかどうか」って行事をやってたそうですし。

長宗我部盛親が潰されたのは「バカだから」ですむとして、
我が薩摩藩が維新様の隠居ですんだうえに、領地も琉球の占有化の許可をもらって
増えたって言うのは、奇跡なのか。それとも正面退却がすごかったのか・・・



友人:

薩摩が関ヶ原後に減封の憂き目に会わなかったのは、遠国だからというのもあるでしょうが、
おっしゃるように、やっぱり、正面退却でしょう(大した人数もいなかったのに)。
そんなことをするヤツなんて、もう、絶対に喧嘩したくない相手という感じです。
変に突っついて、また九州で大暴れされてしまったら厄介だと、家康も考えたことでしょう。

で、関ヶ原に関する総論的な意見なのですが、東軍が勝った理由は色々あると思いますが、
私が思うには、合戦をやるモチベーションの差が大きな要因の一つだったと思います。例え
ば、家康及びその周辺の諸大名には、関ヶ原後の具体的に政権構想というものがあったこと
でしょう。これに対して、西軍側には、さほどに具体的な政権構想があったとは思えません。
また、少し卑近な事かもしれませんが、東軍に付いた豊臣恩顧の大名達にあった「三成憎し」
の気持ちも侮れないものがあるようにも思えます。

 豊臣家の恩に報いるなんていうのじゃ、当時の気分としては、建前としてはともかく、今
ひとつ大喧嘩する動機にはなりがたいように思えて仕方ありません。だから、多くの軍があ
りながら、実際に戦う者は少なかったりするわけです。西軍に参加した大名達は、西軍が勝
てば、自家がより良い地位に立てる、領置が増える以上のことは考えていなかったような気
がしてなりません。これでは、より具体的な政権構想を持つ東軍勢に勝てるはずはないと思
います。この辺りの事情を察していたからこそ、加藤清正は、豊臣家への忠誠心が十二分に
あっても東軍に身を置かざるを得なかったのではないでしょうか。でも、福島正則あたりは、
「三成憎し」だけで合戦していたのかもしれませんが(^^;






友人:

>長宗我部盛親が潰されたのは「バカだから」
これは、ひど過ぎますね(^^



私:

不思議ですね。

地元では名君・歴史ではX。
吉良上野介・石田三成など。

水戸光圀公は名君として日本史に燦然たる存在ですが。
地元では農民が跳散してたのですか。



>宝暦の濃尾平野の大治水という、理不尽きわまりない事もさせられて

大きな川がいくつもぐちゃぐちゃになってる所ですね。
木曾3川とか言いますね。揖斐川+木曽川+長良川。
あの辺りは更に庄内川や日光川とか川がたくさんあります。←でも良く知りませんが。
皆さん、日本地図見といて下さい。愛知県と三重県と岐阜県の境で、北部になります。

昔から洪水で大変な場所で「輪中」とか言う「家のある所が川より低い」生活形態を
取ってるそうです。
丸く堤防を築いて、その中で生活してるそうです。



あの工事では尾張の人間は島津家に本当に感謝しています。
家老の平田ユキエ?さんがお詫びに自害していて、島津藩には凄い負担を掛けています。
島津内の税の取り立てはとれない所から更に税を掛けて取ったと聞いています。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月10日 11時28分49秒)
           パスワード

友人:

ちなみに、
長宗我部盛親は「バカと言っていいくらいの武者」と言う意味でいつも「バカ」って
いってます。
個人的解釈では「不便者」と同義な感じで。(誉め言葉ですのよ)
(長宗我部元親が、九州征伐で嫡子信親が戦死した時に「長宗我部も終わり」といった事を
つぶやいたのは、未来をみていたのか・・・北条氏康のように)

>服部女史
「家老の平田ユキエ?さん」とは、島津家家老で工事総奉行だった平田靭負正輔のこと
ですかな。
(ちなみに「ひらた・ゆきえ・まさすけ」と読みます)


まぁ結局この工事は、明治時代のオランダ人技師による大改修までのつなぎでしか
なかったんですけどね。







友人:

「三成憎し」は侮れないでしょう。
例えば土壇場で寝返った小早川秀秋も、改易になりそうになったのを
三成のせいだと思っていたようですしね。
加藤清正・福島正則らは、忘恩の輩だという声もあります。
例えば両者、秀吉の死後は豊国大明神に足を運ぶこともなく、
家康のお気に入りになるため三成を追い回したのだとか。
北政所は彼らを嫌っていました。彼女は史実では、西軍支援者です。
徳川政権の時代に「三成=淀」のラインを捏造したのですね。
三成に「打倒徳川」を命じたのは、実は淀様ではなく北政所様でした。




私:

淀どのだけが子供をそれも2回も生んだ、それも男子、というのが怪しいですね。

秀吉は若い時に(長浜時代あたりですが)やはり子供を設けていますが
おねねさんだけでなく他の女性にとっても(ホントに秀吉の子供?)というのは
あったのでは?と思います。

秀吉にすれば「絶対ワシの子」と思っているでしょうが
そこは男の「ヒトの良い所」だったかも。

おねねさんにすれば、どうだか、ホントに秀吉の子なの?との疑いはあるわけで
豊臣家を潰したって、私と秀吉がここまで作った家なんですからね、というのがあったのでは?
と思います。

女は怖い、というのを書いてしまいました。
私は淀どのでもなくおねねさんでもありませんからね。




友人:

北条政子や呂雉は、旦那の家系を滅ぼしちゃうし。
西太后は、息子幽閉しちゃうし。(でも、この人のサクセスストーリーは泣けるんだ
よな)
ジョゼフィーヌは、浮気症なうえに警察長官フーシェにタレコんでたし。
それに多くの傾城の美女達。

こわいね〜ホント。





友人:

まず、秀頼の将軍と会談の時間軸ですが:

>いくら清正が家康に心酔していたとしても、武家政治を司る幕府を開く権力
>を手にしたときうっすらとは確認したと思ってます。
>秀忠に譲位した時点でそれは確信に変わったのではないでしょうか?

ですが、この見解は正しいのだと思います。
征夷大将軍は、昔から武士の頭領という認識がありましたからね。
武士を統括するには、この官職こそふさわしいのであり、
平和な「政権簒奪」ということがいえるでしょう。

>秀頼は幕府の将軍になるつもりだったのでしょうか?関白コースを捨てて。

この可能性はないですね。慶長8年、つまり家康の征夷大将軍の年、
豊臣秀頼が関白になるという噂が流れたといわれています。
関白型公儀が将軍型公儀を呑み込むことは考えられました。
秀吉が関白になったのは天正13年ですが、
室町幕府の将軍足利義昭が将軍職を辞したのは16年です。
いかに名目上とはいえ、武家の統治を関白がやった例があるので、
秀忠が将軍になっても、秀頼としてはなんとも思わなかったのでしょう。
だから、

>幕府による武家政治の根本は、公家政治に取り込まれるのを潔しとしない
>武家と公家の階級闘争の側面があると思います。
>それさえ加藤らは理解してなかったとお考えですか?

家康にはその考えがあっても、他の大名はどうだったのでしょう。
家康と親しい伊達政宗ですら秀頼に政権が戻ると思っていたようですから、
加藤清正にいたってはなおさらだと思います。

いってみれば鎌倉政権初期の幕府と朝廷みたいに、
徳川・豊臣の二重支配の時代だと考えてはいかがでしょうか。
朝廷における地位は、当時はものすごい武器でした。
実力は別としても、秀頼の官位は秀忠を大きく上回っていたので、
家康の寿命が来て秀忠と秀頼が目の前にいた場合、
ほとんどの大名がどちらの味方をするか。おそらく後者でしょう。
地位も上回っているし、また徳川はもともと豊臣の家臣なのですから。
将軍型の公儀は家康の実力支配で、
家康の死か秀頼の関白によって消滅するおそれはあったのです。
幕府の誕生は豊臣家の「朝廷における」政治的失墜を示すものではありません。
だから家康は、躍起になって秀頼を滅ぼそうとしたのですね。

二条城の会見は徳川と豊臣の並立を見せたものかどうかはわかりませんが、
少なくとも徳川の支配下に豊臣が入った、というものではありません。
慶長16年、家康は諸大名に三ヶ条誓詞をださせました。
つまり徳川幕府の支配下にはいるというものです。
毛利・伊達・上杉・前田といった大大名はじめとして
60人以上の大名がこれを出したといいますが、
(もちろん加藤・福島といった豊富恩顧大名も)
豊臣秀頼だけは提出しませんでした。
また江戸、駿府、伏見の大名普請も豊臣は免れています。
豊臣は徳川の支配からはずれていたと見るべきなのでしょう。(続く)





友人:

 私も、大学院に行ってた頃には、それなりに戦国時代を中心として歴史の本を呼んだり
したのですが、細かいことはほとんど忘れてしまいました(^^;
 関ヶ原ではなぜ東軍が勝ったのだろうか、秀吉がポスト信長になれた理由は何かとか、
割とそういった関心から読んでいたので、細部にあまり気にしなかったということもあ
りますが、結局は、あまり記憶力がなかったするのが原因だったりします(^^;

 ところで、さっきの話しを少し補足すると、東軍側に政権構想があったというのは、
東軍が勝てば家康が征夷大将軍になり幕府を開くであろうということを容易に予想で
できるであろうから(家康にはそのための形式的資格がありますしね)、鎌倉幕府・
室町幕府に倣った形の統治体制を予想し、その中での自分の位置付けを、東軍の諸将
は容易に想像できたであろうということです。
 一方、西軍側というと、西軍が勝てば豊臣政権がそのまま存続すると考えていたこ
とでしょう。でも、西軍側に与した大名はそれぞれ、その豊臣政権下でのより優位な
地位を望んで西軍に参加したことは容易に想像できます。でも、その豊臣政権下でよ
り優位に立つであろうと思われるのは、やはり首謀者たる石田三成だったと思います。
西軍の諸将は、この石田三成主導の豊臣政権をどういう形で受け入れるつもりだった
のでしょうか。積極的にそういう政権を作ろうなどとは、思いにくいのです。それと
も、石高の低い石田を差し置いて、自らが主導権を握ろうと思っていたのでしょうか。
毛利、宇喜多あたりは、後者の考えが強かったようにも思えるのですが、どうなんで
しょうか。


 家康が躍起になって秀頼を滅ぼそうとした理由というのは、とても説得的ですね。

 私は、前政権の形式的な相続人が、鉄壁の防御を誇る大阪城に居座っていることは、
江戸からみれば、非常な脅威に写るからなぁ…という程度の認識しかありませんでし
た。
 やはり、主として軍事的脅威であったというよりも、関白の持つ権威、その関白の
地位に着きうる存在というのが、幕府の「権威」を損なう虞の方が、家康にとっては
より脅威だったのかもしれませんね。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月10日 11時31分40秒)
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友人:

まわりが出来過ぎ・・・ 

毛利輝元・・・偉大な祖父と優秀な叔父と器用な父の元で育った、お人好しのおぼっちゃま
だったのは有名らしいですね。
個人的には、お人好しな性格に5大老の一人ってのが多少後押ししたのかなとおもいますが・・・
(実際、前線にはいなかったわけだし)
宇喜田秀家は、一応豊臣一族なので、その責任感があったんでしょう。
(それをいったら小早川秀秋もだけどね。まぁヤツはアホだからしょうがないか・・・)

で、一応、徳川家(というか松平家)は、源氏の系統なので征夷大将軍になれたわけだけど、
日本人に島国根性叩き込んでくれた狸親父にとっては、庶民の出の豊臣家なんて、
「血筋の良いオレ様と同格なんて許せん」とかってお子様な理由なのかもしれなかったり
して・・・ とか思う事もあるけどね。

まぁ実際のトコロ、南光坊天海や以心崇伝みたいなクソ坊主がよくも
「国家安康」と「君臣豊楽」にいちゃもんをつけるの思いついたもんだって思うね。
それをいえば江戸幕府の政策自体、いちゃもんに近いうえに派閥闘争で、庶民を犠牲に
していたんだけどね。

田沼意次なんて改革者としての名声を残せたはずなのに、可哀想だ。

(なんか、話がどんどんそれてる)



大河ドラマなんかの人気投票で徳川家康関係が第1位だったのには驚いたんだよな。
ヤツは、我々に島国根性と保守思想を叩き込んだ悪しき存在の筆頭なのに。

立身出世を果たしたからって尊敬するのは大間違いだ。出世した後がまずいことに気づかなきゃ。
(まさか、松平定信とか鳥居耀蔵とか尊敬してるバカはいないだろうなって思う)

まったく徳川3代なんてやってるうちは受信料●●んぞ。保科正之が主役なら●らうけど。




私:



秀吉って人は血液型B型って感じで、かなり枠に捕われない人のように思うのです。

それで、ひょっとすると、自分には子供は出来ないと分かっていて秀頼をかわいがったの
かな?とずっと思ってます。

おねねさんとラブラブだった時代は子供が欲しかったでしょう。
長浜城主になった時は、京都の女に自分の本物の子供が出来た、と信じていたでしょう。
この辺りまでは自分にも子供が出来ると思っていたと思うのです。
でも秀勝が死んでからは手を出す女に一度も子供が出来なくて「???」と思い
始めたんじゃないか?と私は思うのです。

淀殿に手を出して、彼女が妊娠して、子供が生まれて死んで秀頼が生まれて。。。

淀どのの相手は、大野だの石田だの、噂は耳に入っていたんじゃないか?と思うのですが
ここで秀吉の凄い所は、そうかも知れないけど、淀の生んだ子なら信長の血筋である
から、それで良いではないかと思ったのでは?と私は思うのです。

どうせ信長さまから頂いた天下だ。
その前には信長のお子様を養子に頂いて後継者にしようと思っていた身だ。
自分に子供が出来ないなら自分の名を継がせて跡を継がせたらいいじゃないか。


なぁ〜んかそんな気がするのですがねぇ。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月10日 13時59分43秒)
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友人:

ホトトギスの句で、戦国武将の性格を表した物がありますよね。
「鳴かぬなら 食してしまえ ホトトギス」 
字足らず



友人:

秀頼=石田三成の子供という説は、三成のアリバイからして不可能なのだそうです。
基本的に三成と淀が通じていなかったから、ありえないのですね。
三成と通じていたのは北政所だったとか(笑)



友人:

私は秀頼は自分の子と秀吉は信じていたと思います。
(本当にそうだったかは闇の中ですが)
秀頼誕生後、秀次や秀秋への態度が変わった事から考えると。



友人:

「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
これが信長だといいますが、まあ理解できなくもない。

「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス」
秀吉。ぴったりですねえ。

「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」
果たして家康に、これが当てはまるかどうか。

どう見ても「待つ姿勢」じゃないと思う。
信長、秀吉ら大敵がいなくなるのを待っていたという説も、納得しない。
これだと家康は自分の寿命が長いことと、
秀吉の後には自分に匹敵する人物がいないことを見抜いていなければならない。
だいいち秀吉とあれだけ激闘しているのだし。
関ヶ原の謀略も、待っていたのではないです。




私:

どの子にしろ秀吉の周りの身内の子供達は、みんな足りないのばかりでしたから、
がっかりしてたと思います。

身内ということでしかたなく秀次だの秀秋だのに目を掛けていた、と思います。


不思議ですよね。
周りにロクな子供がいないんですから。


三成は。。。女性の私がこんな事を書くのははばかれますが。。。
秀吉に献上する女性を味見してたと。。。

秀次のことを告げ口してたのは三成だとも聞いてます。
秀吉は初めは秀頼には日本の数ヵ国を分けてやってはくれぬか、という態度でしたよね。
だから自分の後継者は秀次だ、と。

淀+浅井方忠臣にすれば秀次は邪魔。
それで三成が秀吉にざんげん。
秀次は秀吉の姉の子ですから。。。それに。。。
出来の良くない感じのお姉さんですから。。。
秀次は案外?矢張り?姉に似て「そうかもしれんな」と思ったのでは?



友人:

才人の2代目なんて凡人である可能性の方が高いわけだし
(特に太平洋戦争後のぼっちゃまども)、
一代で身を成した秀吉の息子がバカぞろいというのはわからなくもない。
(でも秀頼はそうだとは思わないけど)

武田信玄しかり、北条氏康しかり、竜造寺隆信しかり・・・・みんな後継が滅ぼしてるし。

徳川秀忠も「最大の成果が保科正之を誕生させた事」だって書いてあるのもあったしね。

戦国時代で、親父もすごくて息子もすごいなんて、真田昌幸・信繁とか
毛利元就・3兄弟ぐらいなんじゃないかな。と思う。



友人:

武田勝頼の場合は、ちょっと気の毒な面もありますよ。
彼は実際には相当の武将だったけど、諏訪勝頼つまり一武将としての待遇だったので、
家臣団が無視していたと聞いています。

それに実際は、勝頼の息子信勝が後継者であり、勝頼は後見人に過ぎなかったとも。

それに武田信玄の時代と違い浅井・朝倉といった同盟者がいないから、
勝頼の責任を問うのは少し酷かもしれません。



友人:

秀吉は秀頼誕生後、秀次の養子にして後を継がそうとしたらしいですが、
もちろん秀次は面白くない。そのため関係がわるくなってしまったらしい。

>「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」
> 果たして家康に、これが当てはまるかどうか。
あてはまりません!(笑)。
こんなことをいっていたら天下人になれません。

そこで一句
「鳴かぬのはタヌキがばけたホトドギス」
おそまつ!



友人:

 たしかに、親子2代に渡って"凄い"、というのは少ないようですね。

 でも、強いて例外を探すと、後北条氏の早雲(長氏?)、氏綱、氏康の3代は、
いずれも名将揃いだと思います。氏綱は、早雲、氏康の間に隠れて目立ちませんが、
たしか江戸城、川越城を攻略し、後北条氏の版図を武蔵国まで広げたのは氏綱の代だった
ように思います。

 北条氏といえば、家臣の北条綱成・氏繁(康成)親子は揃って武名の高い武将
だったようですね。
 
そういえば、黒田孝高(官兵衛)・長政親子あたりはどうでしょうか。領地は長政の方
が広かったようですが、やはり、官兵衛に比べると小物の感は否めないかも。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月10日 23時19分33秒)
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友人:

息子も親父もすごかったすごいヤツをわすれてましたわ。
そう立花宗茂。
実父の高橋紹運もすごいし。養父の立花道雪もすごい。
嫁さん(道雪の娘)も強かったらしいし・・・

っても九州の人にしかわからんのだろうけど・・・


ちなみに信長の関東制圧の事を考えると、勝頼および武田家は、「滅ぼすべき」存在に
値するでしょう。信長にとっては。

んで、関東征伐中に名馬・松風にであう所から一夢庵風流記ははじまるのだが(笑)



日本の張子房と呼ばれた男、黒田長政で、小生が記憶しているのは、
荒木村重にとらえられた黒田如水を「裏切った」と思った信長に
命を狙われた長政が竹中半兵衛にかくまわれて命拾いしたので、
その恩に報いる為に、半兵衛亡き後、黒田家が竹中の旗印をひきついだって
エピソードの時ぐらいですね。親父程活躍はしてないでしょう。




友人:

立花宗茂。すごいですね。13万石。戦国の無敵の将で、
関ヶ原で敗戦し改易になりながらも後年11万石をものにした。
徳川としては、彼を大坂の陣で豊臣方に走らせたくなかったのでしょう。
黒田長政って、そんなにひどい方ですか?父親に比べれば小物だけど、
関ケ原で豊臣恩顧大名を東軍につけたり毛利一族を金縛りにしたりと、
謀略家としてはかなりのもののように思えますが・・・・


友人:

三成が秀吉のために女を口説いたという話は、真偽のほどは分かりませんが聞いたことが
あります。
女にしてはいつの間にか二枚目のいい男からさる爺に変わっているのか分からなかった
ということです。
でもこれは徳川期に捏造された話のような気がします。

三成のエピソードとしては「季節はずれの大桃」が一番端的に三成を表しているように
思っています。

ところで、女の話ですがあれは馬の種付けの時も同じ様なことが行われたりします。
当て馬ですね。(笑)


友人:
 たしかに、高橋紹運・立花道雪・立花宗茂は、文句なく名将親子ですね。

 九州の武将というと、ご存じの方もいらっしゃるかと思いますがパソコンのゲームソフトに
「天下統一」というのがあります。作ったのがシステムソフトという会社なのですが、福岡に
ある会社なもんですから、やたらと九州の武将の能力値が高かったことを覚えています。

 それにしても、黒田長政の評判は悪いなぁ(^^;


友人:

黒田長政で知っているのは家臣の後藤又兵衛と喧嘩して又兵衛が浪人になったことぐらい(笑)。



友人:

武田勝頼は、すごすぎる父親にコンプレックスをもっていたんでしょう。
まぁ4男坊だから、周囲との軋轢もあっただろうし。
24将も少なくなったとはいえ、山県三郎兵衛や内藤修理なんかの
信玄の元で育った老将たちになにかにつけ比べられたりとか、
信玄様だったらとか思われてたらやな気分でしょうね。
それが、高坂弾上をして、
「これは武田の家の滅亡が決まった盃だ」
と言った遠江の高天神城攻略、そして、長篠につながったのかな。

勝頼自体は、信長が謙信にあてて
「若輩であるも、信玄の掟を守って、表裏を守るだろうから油断ならない」
と言わせたんだから、実力はあったのかもしれないけど・・・

結局のところ、自身のプライドと、父への反抗が、盲目的であった事がダメだったのかもね。

(真田信綱・真田昌輝・土屋昌次・土屋昌恒なんて若くていきのいいのもいたのにね)

服部 明子さんからのコメント(1999年11月11日 08時47分33秒)
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友人:

信長の関東制圧の事を考えると、勝頼および武田家は、
「滅ぼすべき」存在に値するでしょう。信長にとっては。

んで、関東征伐中に名馬・松風にであう所から一夢庵風流記ははじまるのだが(笑)



友人:

黒田長政で、小生が記憶しているのは、
荒木村重にとらえられた黒田如水を「裏切った」と思った信長に
命を狙われた長政が竹中半兵衛にかくまわれて命拾いしたので、
その恩に報いる為に、半兵衛亡き後、黒田家が竹中の旗印をひきついだって
エピソードの時ぐらいですね。親父程活躍はしてないでしょう。


友人:

武田勝頼は、すごすぎる父親にコンプレックスをもっていたんでしょう。
まぁ4男坊だから、周囲との軋轢もあっただろうし。
24将も少なくなったとはいえ、山県三郎兵衛や内藤修理なんかの
信玄の元で育った老将たちになにかにつけ比べられたりとか、
信玄様だったらとか思われてたらやな気分でしょうね。
それが、高坂弾上をして、
「これは武田の家の滅亡が決まった盃だ」
と言った遠江の高天神城攻略、そして、長篠につながったのかな。

勝頼自体は、信長が謙信にあてて
「若輩であるも、信玄の掟を守って、表裏を守るだろうから油断ならない」
と言わせたんだから、実力はあったのかもしれないけど・・・

結局のところ、自身のプライドと、父への反抗が、盲目的であった事がダメだったのかもね。

(真田信綱・真田昌輝・土屋昌次・土屋昌恒なんて若くていきのいいのもいたのにね)


私:

勝頼は悲劇性充分ですね。母が諏訪氏出身では。

今でも同じで、負けた方の女性はいいようにされますから、
それで生まれた勝頼は信玄直属の武将達には蔑まれていたでしょうね。

正妻に生まれた子供とか幼馴染時からの愛人に生まれた子供なら正式な殿の子供と
認められるでしょうが滅ぼした先の家に生ませた子供など今1つ信用出来ない、と
思われたでしょうね。

武田信玄は父を追い、弟を殺し(でしたよね)、子も殺し。。。
愛した子供は誰なんでしょうね?高遠の五郎(仁科姓でしたっけ?)あたりでしょうか?
可愛がってた弟は「テンキュウ」さんでしょうね。典厩でしたか?

勝頼は居場所が無かったでしょうね。
父の直属の武将達が動いてくれなかったってことがあったでしょうし。
気の毒な人物と思います。



友人:

勝頼はかなりの器量をもった武将だと思います。
信玄も取れなかった高天神城を落としているし、
織田の明智城も落としました。
信長も「勝頼は油断ならぬ男」と書状を謙信に
送っています。

彼の悲劇は生まれと育ちでしょうね。
彼の母親は信玄に殺された諏訪頼重の娘です。
育ったのも諏訪ですし、勝頼の名が示すように
最初は諏訪氏を継ぐ予定だったと思います。

そのため甲斐の武田家臣からみれば
「よそ者」のようなイメージがあり
対立してしまったのでしょう。


私:

信勝は戦国時代の親戚関係というのは良く分からないのですが、
敵の男子は、とにかく殺す、と。
例え甥でも叔父でも。

信長はお市さんの息子(1説に実の子では無かったとも)も殺していますね。
そして武田の信勝=信長の「孫」も殺していますよね。ま、実の娘なのか養女なのか
この時代は政略結婚ですから、一応信長の娘分の生んだ子供も殺している。

信長が武田を攻めた、というのは今1つ分かりません。
三河の背後を窺う「北条+今川+武田」ラインを潰そうということで良いのでしょうかね。

なぁ〜んか納得出来ないんです。


長政はあれは阿呆の方ではなかったですか?

徳川についたから良かったものの暗愚だと思いましたがね。
主人としての器ではなかったような記憶です。


友人:

親子2代、たしかに、親子2代に渡って"凄い"、というのは少ないようですね。

 でも、強いて例外を探すと、後北条氏の早雲(長氏?)、氏綱、氏康の3代は、いずれも
名将揃いだと思います。氏綱は、早雲、氏康の間に隠れて目立ちませんが、たしか江戸城、
川越城を攻略し、後北条氏の版図を武蔵国まで広げたのは氏綱の代だったように思います。
 北条氏といえば、家臣の北条綱成・氏繁(康成)親子は揃って武名の高い武将だったよ
うですね。

 黒田孝高(官兵衛)・長政親子あたりはどうでしょうか。領地は長政の方
が広かったようですが、やはり、官兵衛に比べると小物の感は否めないかも。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月11日 08時57分56秒)
           パスワード

友人:

私のすきなSLG。島津家の強い事強い事。
島津の血縁者と薩摩に出る武将に、十分無敵でしたし。

ちなみに、このゲーム前田利益がはじめてコンピュータゲームに登場した、
記念すべき作品なんですね。
(ちなみに奥村の助さんは「信長の野望・戦国群雄伝」が初出)



友人:

その立花宗茂が関ヶ原の主戦場にあったら、あの戦いは予断を許さないところでしたね。
石田三成としては、毛利秀包ひきいる1万5千が大津あたりで引っかかったことに、
おそらくイライラが募っていたのでしょう。
小野木重勝も若狭田辺城で無駄飯を食っていた・・・・毛利本隊や小早川よりも、
彼ら3万余の軍勢は西軍にとって咽喉から手が出るほど欲しかっただろう



友人:

立花宗茂。すごいですね。13万石。戦国の無敵の将で、
関ヶ原で敗戦し改易になりながらも後年11万石をものにした。
徳川としては、彼を大坂の陣で豊臣方に走らせたくなかったのでしょう。
黒田長政って、そんなにひどい方ですか?父親に比べれば小物だけど、
関ケ原で豊臣恩顧大名を東軍につけたり毛利一族を金縛りにしたりと、
謀略家としてはかなりのもののように思えますが・・・・

服部 明子さんからのコメント(1999年11月11日 22時38分19秒)
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下から上にお読みください:



当然ですね 投稿者:服部 明子

政権を取った側の人間を極刑に処したのですから
勝頼が無能とされるのは当然ですね。


友人:
鳥居強右衛門   投稿日:11月11日(木)11時42分03秒

は武将ではなく足軽ですね。でも長篠城の一件で歴史に名を残しました。
逆に彼を殺した武田勝頼は評価を落とすことに。.....



長政 投稿者:服部 明子  投稿日:11月11日(木)11時08分06秒

後藤又の件で、どうしようもない偏執的な性格だと思いました。


鳥居さん 投稿者:服部 明子  投稿日:11月11日(木)11時04分27秒

三河の代表的名字ですね。



友人:


ちょくちょくツーリングに行く山に、とある侍の碑みたいなものがある。
鳥居強右衛門と言う。彼は徳川配下の武将だ。
長篠の合戦の際、徳川側に援軍を呼びに行って、武田側の捕虜となってしまった。
長篠城に向かって「援軍は来ない」と言えば命を助けると言われた時、
「援軍は間もなく来る」と叫んで殺されたらしい。
もちろん、援軍が来ると分かった長篠城の兵士は、降伏することなく、
持ちこたえた訳です。
うろ覚えの記憶ですが、大まかにはこんなふうに語られています。


友人:

優秀とは思うけど、イメージがつかめない黒田長政について悪いイメージを持っているわけじゃないです。
家康が求めた以上に働いているし、そつのない人物だったとは思います。

でも子供の頃助けられたエピソードなどからでは
竹中半兵衛や父の如水の性格の一端はなんとなく分るけど、
長政の性格となると分かりずらい感じがしてしまうので


投稿者:服部 明子  投稿日:11月11日(木)10時08分39秒

よくある話ですよね。

どこかの国の映画ですが、ハンサムな男が主人または兄に変わって求婚に来て
女が喜んで承諾したら、結婚相手はそのハンサムな男では無かった、というストーリー。

私の仕事場の入国審査所のある男の子が凄くハンサムなんです。
私と2人で航空会社の女性エージェントと男性係官を結婚させよう、ということで
いろいろやってるのですが、紹介してあげるね、という男がこのハンサムじゃなくて
全然別な男性なので、女の子たちが「彼がいい」とみな言い出すんです。

人間って先ず「顔」なんですよ。
ネットは「顔」が見られないから、興味が同じ範囲の人だから、かなり精神的な結び付き
ですが、結局は会ったらやっぱり「顔」でしょうね。

オフで会って。。。げっ、こんな顔だったの。。。とがっかり来たりして。
お互い結婚してる身で。。。良かった。。。と。。。
お互い、好みの顔同士だったら、結婚を乗り越えて。。。ということになるのかしらね?

危ない・危ない。


投稿者:服部 明子  投稿日:11月11日(木)09時11分37秒

人間を語るのに、避けて通れない部分ってありますから、気になさらなくて良いのでは?
でなけりゃ、今頃、人類は消滅していたでしょう。 (^^)


>三成のエピソードとしては「季節はずれの大桃」が一番端的に三成を表しているように
思っています。

この「季節はずれの大桃」のエピソードって何ですか?
お知らせ下さい。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月11日 22時48分14秒)
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下から上にお読み下さい:


投稿者:服部 明子  投稿日:11月11日(木)22時41分24秒

ありがとうございます。
全く知りませんでした。

私は逆に三成は学問をしっかりやって、それで身を立てた人だと思っていました。

私も松嶋菜々子に似てると言われます。(嘘)


友人:

毛利輝元がものすごく大きな桃を秀吉に献上しようとして三成の元に届けてきたそうです。
この大桃を見た三成は「初冬(当然旧暦)の季節に、このような桃は実に珍しい。
しかし、この桃は季節はずれの果実だから秀吉公がこれを召し上がって万が一病気にでも
なられたならばかえって輝元殿も心配なされるだろう」といい、輝元の使いの者に「なる
べく季節の物を献上ありたし」と語ってその桃を返却したということです。

時の人は「三成は学問とてないが、論語の郷党篇の、時にあらざれば食せず、を理解した
人であると誉めたとのことです。(翁草による)

温室栽培もない当時としてはこのような季節はずれの物はありがた迷惑でしかないのでは
ないでしょうか。

心ないお世辞を言うよりも三成のようにはっきりと相手に伝えた方がかえって親切だと
評価されています。

この話は三成が秀吉のことを常に誠心誠意思っている忠節無比の家臣であったことを証明
する逸話です。

ちなみに私は美形の二枚目です!!(大うそ、笑)


訂正(^^; 投稿者:友人  投稿日:11月11日(木)15時43分44秒

 「蔦」ノ巣山砦ではなくて、「鳶」ノ巣山砦です(^^;
 「鳶」の字が上手く出てこなかったので、リストで捜したら間違ってクリックしちゃった。

 ちなみに、砦というか、要するに「陣地」ですよね。おそらくは。


長篠の鉄砲3段撃ち 投稿者:友人  投稿日:11月11日(木)15時31分24秒

先ほど、たまたま本棚の整理をしていたら「信長公記」が出てきたので、長篠合戦の項を
ちょっと引用してみますと…

 「家康、滝川陣取りの前に馬防ぎの為め、柵を付けさせられ…」だとか、
 「一番、山縣三郎兵衛、推し太鼓を打ちて、懸かり来たり候。鉄砲を以て、散々に
  打ち立てられ、引き退く。」
 「関東衆、馬上の巧者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸か
  来たる。人数を備え候。身がくしとして、鉄砲にて待ち請け、うたせられ候えば、
  過半打ち倒され、無人になりて、引き退く。」
  (「巻の八、三州長篠御合戦の事」より)

等々の記述があります。とにかく、ここに書いてあるのは、織田・徳川連合軍が、馬防柵を
準備していたこと、そして、武田軍が鉄砲に散々撃たれて破れたということですよね。
それも、「人数を備え候。身がくしとして、鉄砲にて待ち請け」というのですから、鉄砲の
使い方にかなり工夫があったということです。

その工夫の中に、いわゆる「3段撃ち」がなかっとは言いきれないけど、少なくとも一次資
料たる「信長公記」には、その記述はありません。おそらくは、江戸時代の兵法家(という
か軍記読みの類)が、適当に考えたことなのではないかと思われます。

映画「影武者」等にも見られる描写ですが、馬防柵の向こうに鉄砲隊が構えている陣地に武
田の騎馬隊が突進してくるというのは、蔦ノ山の砦(長篠城の攻囲陣)が奇襲され背後が絶
たれた形になったとはいえ、いくらなんでも無茶が過ぎるので、どうも納得のいかないとこ
ろです。(こういったところから勝頼が猪武者みたいに言われるんですよね)

で、思うのですが、先に引用したところから勝手に想像してみると、織田側は鉄砲の配備を
隠していたのではないでしょうか。穴を掘って陣地を構築し、なおそれを巧みに偽装し、そ
こに鉄砲隊を隠しておいた。だとしたら、鉄砲の「大量」配備に気が付かず突撃するという
のは考えられなくもない。

ただ、相手に突撃を敢行させるには、織田側は他にも色々と手を尽くしたと思いますが。も
ちろん、蔦の山砦の奇襲なんて、その一環でしょうね。さらには、佐久間信盛に偽装の内通
をさせたという説もあるようですが。


訂正 投稿者:服部 明子  投稿日:11月11日(木)14時13分10秒

「政治」なんて政治をおとしめてはいけませんね。

「政治屋」絡みの方が正しい論理ですね。


矢張り教科書は 投稿者:服部 明子  投稿日:11月11日(木)14時12分01秒

政治絡みですね。

家永三郎先生は正しかった、と。


文部省のバカ 投稿者:友人  投稿日:11月11日(木)13時37分02秒

そうだ!
文部省もいいかげんに田沼意次を、「賄賂をせしめた官僚」みたいな脳タリンな表現するな。
「印旛沼の開拓」による景気回復(後に似たような事をアメリカがしてるし)とか、
「保守的な思想の幕政を改革」し、ともすれば「開国」させていたかもしれないって人なの
に、単純な悪人扱いするとはなにごとだ。今の政治家みたく賄賂もらっても金の分働かん奴
とは違うのだ!


長篠というと 投稿者:友人  投稿日:11月11日(木)12時50分02秒

鉄砲の三段打ちが有名ですが、いいかげんにあのお話、消えて欲しいですね。
教科書にどうどうと載っているのをみると、腹が立ってしょうがない。
文部省ももっと歴史を勉強してもらいたい。
ついでにいうと、元寇の文永の役では、神風は吹いていないそうです。
見たわけじゃないからわからないけど。


でも殺さなければ 投稿者:友人  投稿日:11月11日(木)12時10分00秒

武田の軍法は死んだも同然で、
ここがむずかしいところ。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月12日 08時05分10秒)
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下からお読み下さい。


滅びの美学 投稿者:友人  投稿日:11月12日(金)01時27分33秒

まぁ馬防柵につっこんだってのは、連戦連勝で、
「オレは親父よりもすごいだろ」って驕った武田勝頼が命じただろうとは想像出来るけど、
高坂昌信は「滅亡を予言」した状況において、山県昌景や馬場信房、内藤昌豊ら老将に
とっては、「ここが死に時」って思ったのかのしれないかなと考えますわ。

(ちなみに真田信綱と昌輝兄弟は、馬防柵を突破して明智勢と戦闘中に鉄砲で討たれて
戦死したらしいが・・・)

で・・・甘利って甘利虎泰の事?。だったら彼は板垣信方と一緒に、
村上義清と戦った上田原の合戦で戦死してるけど。まだ信玄が晴信の時代に・・・。





投稿者:友人  投稿日:11月12日(金)00時20分22秒

長篠の戦では、武田勢が柵の近くでやられたのは甘利くらいで、
ほかはみんな柵から遠いところ、つまり白兵戦で戦死しているようです。
新田次郎さんの小説「武田勝頼」では、
敗戦をご指摘の佐久間の偽装内通に関連させているほか、穴山の敵前逃亡に原因を求めていますね。

もし無謀な突撃を勝頼が命令したとすれば、その配下の武将たちもただのイノシシ武者で、
武田信玄の指導はこの程度か、ということになってしまい、疑問。







すみません 投稿者:友人  投稿日:11月11日(木)23時19分41秒

服部さん、説明不足でした。(^^;
三成のことを無学としたのはこの作者の誤りであることは明白です。
三成が和漢の学問に詳しく教養が高かったことについては定評があるからです。

三成とは才知、機略に勝れていてかつ、職務に忠実で勤勉であったので秀吉に寵愛されたのではないか
と思っています。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月12日 11時16分49秒)
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やっぱり白兵戦じゃ! 投稿者:友人  投稿日:11月12日(金)10時34分49秒

そうです。やはり、戦国時代の合戦は白兵戦が基本でしょうね。そもそも、織田・徳川連
合軍は、武田方の2倍以上の兵力を動員していたようですしね。
 長篠合戦のトピックは、そういった形が基本だった中で、戦況を大きく左右しうるような
形で、効果的に鉄砲を使用したということだと思います。尾張の兵は弱兵だったそうですか
ら、倍の人数を動員にしてもまだ不安で、それを補う意味での鉄砲の大量導入だったのでし
ょう。
 ただ、やはり、鉄砲隊対策として、騎馬隊による突撃というのは、かなり有効だったよう
ですね。後年の大阪の陣で、真田信繁(幸村)による突撃によって東軍の鉄砲隊はよく蹴散
らされたそうです。

 ところで、甘利さんの件ですが、信長公記にも、「上げし御首」の中に「甘利藤蔵」の名
が見られます。甘利虎泰の息子に晴吉という人がいたそうですが、その人も「藤蔵」と名乗
っていたようです。同一人物の可能性はあると思います。



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