[彦島を熱く語る!!一覧に戻る] お名前:服部 明子
コメントの種類:歴史 千葉江州氏が11月の終わりに京都を旅行なさいます。 京都は源平時代にも虚々実々の駆け引きの舞台となった場所。 清盛も義仲も義経も後白河上皇には翻弄されました。 直接京都に係わらなかった頼朝は後白河上皇の手には乗りませんでした。 |
私が京都で唯一訪ねようとした平家物語関連の場所は「祇王寺」でしたが
外から見た様子や雰囲気は最高でも(女性好みの建築ですね)
「偽物」って突然思い、入るのは、止めました。
比叡山は京都の東北にあって(鬼門)京に邪悪な災いが入らないように阻止する為に
延暦寺が置かれた、と聞いていますが確かに霊的な凄い<パワー>を感じました。
天皇家との関わりが深く歴史の舞台にしばしば登場する比叡山は歴史的には荒法師の
巣のイメージですが、現在のサラリーマン僧侶達はお札やら土産物を販売する軟弱な
売り子に見えました。
ひょっとすると、昔の比叡山の毎日の生活も現代の僧侶達同様、退屈な日々で、あ
り余るエネルギーを持て余した若い僧達が、何か面白いことはないか、と暴れ回っ
たってことかしら?と思いました。時代が彼らに爆発を許したのかしら?と。
祇王寺も大原の奥にありますが、人造のにおいがしましたか・・・。(ちょっと
眺めてこようかな)
確かに京都の寺社を巡っていてもどうも造り付けのにおいのするところが多いの
は致し方ないのかも知れないですね。ただ、神護寺のような山奥の寺はやはり
雰囲気が残っているように思います。これも何度も京都が戦火にあったために余程
幸運でなければ当時の建物がそのまま残ることがなかったことと現在における
客寄せのための美化(きたない建物には近寄ってもらえないでしょうから)によって
人造物化してしまったんでしょうか。
でも大原付近の寺社は京都の街中から随分離れているので当時の姿を伝えているはず
ですが、それでも美化に勤めてしまうと本来のわびさび感が欠如してしまうんで
しょうかねぇ。ある程度朽ちた土壁が取り巻いて、適度に寂びれた境内となっていた
方が雰囲気を醸し出すのに寄与するのかも知れないですね。
比叡山延暦寺は以前にも書き込みましたように私の家とも関係が深いこともあるの
も一因かも知れませんが、特に霊的なものを感じるよりは親近感の方が強いんです。
確かに、僧侶のサラリーマン化は言い得て妙ですが、それでも千日回向を行われる
阿闍梨は半端じゃありませんよ。絶食や夜中の山中走破などの苦行を積まれていく
のですが、叡山にもこんな崇高な修行僧がいたのかと感動させられること請け合い
なしです。
江州どの:
>千日回向を行われる阿闍梨は半端じゃありませんよ。
>絶食や夜中の山中走破などの苦行を積まれていくのですが、
>叡山にもこんな崇高な修行僧がいたのかと感動させられること請け合いなしです。
あれは凄い修行ですよね。
達成出来なければ「死ね」と。
山の登り道を、腰を板で支えて伴走する若い人も、凄いな、と思いました。
全速力で走って行くんですから。
小京都のことで週刊ダイアモンドにブランド価値の特集の中で取り上げられていました。
日本に点在する本家・小京都は53市町村もあるとのことです。京都が各地の小京都と
称する地域に呼び掛けて全国京都会議を運営しているそうですが、加盟している小京都
の市町村が年額5万円也を払って小京都のお墨付きを京都からもらっているとの内容
です。
小京都の中には千葉氏に関連するところとして、九州佐賀の小城町、三重県伊賀上野市、
岐阜県郡上八幡町そして岡山県高梁市が上がっています。高梁だけはちょっと違って
治世者ではなく作業従事者サイドで助力したところですね。備中松山藩の水谷(みずのや)
家に仕えていました臼井村胤が城下の区画整備などにタッチしていた筈です。
若しかすると私の家もこの臼井氏から出ているのであれば千葉宗仙(年代的には村胤の
一番したの子か、あるいは村胤には孫に当たるのではないかと思うのですが・・・)も
従事していた可能性があるので・・・。そうなれば素晴らしいのですが。
伊賀上野は鎌倉中期から室町初期まで守護であった関係もあり、多少貢献していると
思うのですが、その痕跡は分からないですね。ただ、小城町と郡上八幡は明らかに千葉
系の痕跡が残っておりますので・・・。でも九州千葉や東氏・遠藤氏の功績ですから
素直に私の系統が噛んでいないので誇ることができないのが残念ですね。
それじゃあ本来の発祥地である千葉はどうなんだというと、既に1160年頃には表八千軒
裏八千軒と号するほどの城下町になっていたので、ついぞ小京都の称号を名乗ることが
できなかったんでしょうね。でも日本でも屈指の古さを誇る城下町の一つとして記録に
残ることだと思います。
ある本で源平時代の日本各国の旧国名下での人口を推定したものが載っていたんですが、
その当時で下総の人口は13万人と推計されていましたから、表裏合わせて16000軒で
各軒に少なくとも4人づついたすれば、それだけで6.4万人ですから下総の人口の50%
が城下町千葉に集中していた計算になりますね。(荒っぽい単純計算で済みません)
本人によりコメントは削除されました。 1999年11月11日 12時41分02秒
53ヵ所も「京都」を名乗っているのですか。
でも「5万円」とはどういう内訳なのでしょうね?
上納金のようで嫌ですね。
いかにも「京都」って感じで、嫌だな、と思いました。
山口なんて小京都と呼ばれる代表的な町と思います。
ただし大内氏の作った山口ですね。
高山も小京都でしょう。
津和野もいいですね。
結局、有力者が町を切り開いて栄えたら、それで「都」ということで「京」ということと思います。
千葉氏もいろいろな場所で栄えた、ということで楽しいですね。
人口の50%が千葉に集中ということは、今の関東地方が日本の人口の25%を占めていることに比べたら、ずっとずっと集中していた、ということなのですね。これは意外な発見でした。
飛騨高山、山口、津和野いずれも行ったことがまだないんです。日本にいながらもまま
ならないものですね。まあ小京都という場所に興味がなかったというのが本音かもしれ
ませんが・・・。どちらかというと自然を見るのが好きなものですから、どうしても
北海道や海外の南の島や大自然の方がいいですね。
小城と伊賀上野はなぜかチャンスがあって訪れたのでした。小城では祇園祭が千葉氏に
よって京都から勧請された経緯があることを知り、やっぱり京都趣味があったんだと
妙に納得したりしたものです。
ところで京都の町を歌ったものといえば例の手鞠歌がありましたよね。
「丸竹戎に押御池 姉三六角蛸錦・・・」の歌は今では京都でも聞けないんでしょうか?
こうやって昔の子供は京都の地理を覚えたというんですが、今ぞろはカーナビゲーションが
的確に行く先を指示してくれるのでもはや無用の長物に成り下がってしまったんではつま
らないですね。京都の町屋も気が付けば探すのに苦労するほど数が減ってしまっている
ようですから、昔の情緒を楽しむというのはだんだんと無理になってしまうんでしょうね。
柊屋旅館の直ぐ横に高層のマンションが立つなど日本人て無神経に景観を潰していきます
が、これが財産だったなんて思わないんでしょう。有識者という人達は総じてお金も権力
もない人達の集合体ですから、いくら声高に叫んでも肝心なところには届かない。矛盾した
構図を引き摺って京都の景観は崩れていくしかないのでしょう。
人が京阪神のような開けたところへ集まってくる限りはその棲家を広げざるを得ない。そう
すればもっと効率の良い建物が要求されるのですから景観なんてことは言ってられずに入れ
物をどんどん作っていく。そして京都の盆地が見渡せたのは京都を戦火から保護した連合軍
の配慮だったにもかかわらず、日本人自身が無関心にそれを灰燼に帰してしまう。何時の間
にこんな国民性になってしまったんでしょうね。
アメリカナイズされることが良いこととされる風潮はいまだに継承されています。でも本家
本元のアメリカでも歴史的景観をないがしろにするようなことはしていないはずです。かえって
歴史の浅い国ですから、少しでも歴史的な価値を見出せば徹底的に保護して保存していく
姿勢っていうのは勉強してもらいたいところですよね。
京都は不協和音の中で景観を壊滅していく様はきっと他の国への反面教師として勉強材料に
されることでしょう。箱庭のようなごく断片的な景色しか認識できない日本人って何だか
貧租に見られているんじゃないでしょうか。(何故そんなことを思うかって?アメリカへ行って
見ればきっとカルチャーショックを受けますよ。ダイナミックな自然や広大な町や大地を見る
だけでも「どうしてこんな国と戦争をしたんだろう」と思う反面「そりゃ勝てる訳ないよな」と
妙に納得できてしまいますから。そういう意味でも日本人って貧素になっちゃいますよ)
アメリカは国が若いのでちょっと古いと「歴史的建造物」として残されます。
我が家も結構珍しい建物なので買ってくれる人は同じ形に建て直すかも知れません。
でも、それにはお金がかなり要りますから。。。
ウチは東部の古い家の形なのです。アーリー・アメリカンと呼ばれる18世紀前後
でしょうね。その中でも「ケープ・コッド」式と呼ばれてます。
私と夫にはとても建て直す資力は無いです。
京都も、折角の建物の隣にコンクリートの箱のような建物を並べてしまう愚かさは
矢張り、お金、のせいでしょう。私も京都に行って驚きました。観光対象の場所は
充分その時代にトリップさせてくれますが、その場所を1歩出たら周りはどこにで
もある安っぽい景色なのですから。
ごちゃごちゃになっている、というのも日本人の頭の中と同じなのかな?と思います。
残すのか残さないのか?
残すなら、周りとの景観のバランスも考えて欲しい、と思います。
結局は、土地が無いから、お金が無いから、いずれ「XX跡」という石碑が1つ
ぽつんと残る、という形で消える運命なのでしょうね。
惜しいことです。。。
ケープ・コッドについてはAMEXの会員誌に写真入りで特集が組まれていたのを見た記憶が
あります。やはりアメリカでは人気のある建築構造なのですね。住環境の理想はやはりアメリカ
にあると思っているのは日本人の悲しい性かもしれませんが、アメリカではコンドミニアム程度
のものでもマンションと称してみたり、あちら側から見られれば随分滑稽なことでしょうね。
アメリカの町中を見て感心するのは(ちょっと高級な住宅街だったので、そうだったのかもしれ
ませんが)隣の家との間隔のあることと敷地を隔てるブロック塀のような垣根がないこと、特に
庭の芝生や草木の豊富さには驚かされますよね。しかも州法などによっては庭の芝生や草木には
スプリンクラーを設置して水やりを欠かさずするように決められている、ってな話を聞くにつれ、
町の景観を台無しにさせない工夫が日頃から取られているんですよね。20代初めにちょっとだけ
西海岸の辺りをうろついたのですが、ビバリーヒルズなんか映画に出てくるまんまでしたね。
ロデオドライブにしてもやっぱり違うなあとか思いながらてくてく歩いて感じたものです。
そういうのを見ているので、余計に京都を始めとした日本の町の景観が不統一に作られていく様
は絶望的にさえ思えますね。ようやく汚らしいウォーターフロントが改善されて海上から見た限り
では随分と綺麗に整備されてきたのに、肝心の町中にまで及ばない。愚痴ばっかり出てきてしまい
ますが、どうしようもないですね。
さて、京都に話を戻しましょう。
私の大学の同級生に○小路という名の人物がおりました。ご想像の通り摂関家の遠戚になる
お公家さんの末裔です。やはり古い家だけのことはあり、○小路家も鎌倉期に分家したまま
代々名前になっているところの小路に面して屋敷を受け継いでこられていますね。ただし、
その人の家は更に分家でご自分らの一族の墓を守っておられる住職の家系だということでした。
その人の家の前の小路は今も祇園祭の時には山鉾巡行の経路にあたっています。その山鉾ですが
もう一人大学の先輩の方が京都の河原町にいらっしゃいまして、ちょうど薙刀鉾の町内に当たる
お家でした。そのため、宵宵山時期にはお邪魔して鉾にも乗せていただいたこともありました。
その人のお家も京都の町屋の造りになっていまして、鰻の寝床のように奥へ奥へと廊下が連なり、
中庭もあって十分京都を満喫できたのを覚えています。(でも記憶が随分定かでなくなって
しまっておりまして、実際どうだったのか思い出そうとするのですが、容易に思い出せないですね。
きっとその時に摂取したアルコールが随分脳まで酩酊させていたせいもあるのでしょう。)
でも祇園祭の山鉾巡行を道端で見た経験が無いものですから、全体がどうなっているのか
かえって知らないのはおバカなことですねぇ。祇園祭は7月の期間ずっと続くのですが、鉾山が
立て始められる頃はなんかわくわく感があるのに、巡行が終わってしまった途端何が物悲しい
感じで後始末が延々と続けられるんですよね。反比例して夏は真っ盛りになる。よく京都の
人は耐えて祭を遂行されていることだと感心します。
祇園祭以外では葵祭と時代祭が代表的な京都のお祭ですね。そのうち時代祭は大学生の頃に
京都の悪友に引き摺られて一緒にアルバイトに行きましたよ。その時二人とも体格が良いから
って言われて僧兵の格好をさせられました。その格好で都大路を練り歩き、1日3500円也
くらいだったと記憶してます。下駄を履きなれないものですから案の定足の指の間に下駄緒ズレを
起こして痛い思い出しか残っていないですね。(悪友は柔道部で普段から下駄履きの習慣があって
苦でもなかったようです。)それに10月末とはいっても僧兵は頭にかぶりものをしているので
練り歩いていく過程では結構暑かった覚えがあります。ですので、二度とそのようなアルバイト
に行くことはなかったのでした。
僧兵の頭巾って暑いものなのですか?
冬に便利とは分かりますが夏は太陽の日差しを遮ってくれて「涼しいのかしら?」と
思っていました。
>祇園祭の山鉾巡行を道端で見た経験が無いものですから、全体がどうなっているのか
>かえって知らないのはおバカなことですねぇ。
なるほど。
ドイツ語の諺:木を見て森を見ない
>祇園祭は7月の期間ずっと続くのですが、鉾山が立て始められる頃はなんかわくわく
>感があるのに、巡行が終わってしまった途端何が物悲しい感じで後始末が延々と続
>けられるんですよね。反比例して夏は真っ盛りになる。よく京都の人は耐えて祭を
>遂行されていることだと感心します。
この文章は印象的ですね。
「コンコンチキチン、コンチキチン」のおハヤシは耳に残りますが、物哀しいですね。
そして真夏が訪れる。
ホント印象的ですね。
日本の風物の原点と思い返しました。
美しい文章をありがとうございました。
僧兵の頭巾の件ですが、実は私の体質のせいだと思います。隔世遺伝で本来千葉の持って
いる体躯が出現しておりまして、なおかつ汗っかきときていますから、当然髪を伸ばした
ままの状態で被っていると暑くなるという肉体的な問題だったと思います。当時の僧兵が
髪を剃っていたのか、剃ったままある程度の期間伸ばしていたのか分かりませんが、丸坊
主だったら暑さや寒さの気象条件から保護する機能はあったと思いますね。(ちなみに、
その当時は頭髪を束ねるほど伸ばしていましたから・・・。今はどうかって、ハハハハ
相変わらず床屋に行く間無しで束ねるほど伸びてますよ。 (^_^))
木を見て森を見ないはドイツ語の諺でしたか。
元社長がよく使われていた言葉なんですが、何だか人を小ばかにしたようなことを言って
いるのかなあと思ったものです。現場は枝葉末節を見落とすととんでもないことになるこ
とを理解してくれていなかったとも後から感じましたね。
「コンコンチキチン・コンチキチン」の鐘はとても風情がある音ですよね。
祭にはお囃子が付き物ですが、本番から遡ること数ヶ月前から練習に入るもののようです
ね。徳島の阿波踊りも4月から5月に掛けて一般の連は練習に入っていますよ。(有名連
は年間を通じて各地に招待されて演舞しに行きますので、常に練習は欠かさないようです
が・・・)京都も6月頃から鐘の音が聞こえ始めますので、祭が近づいているなあという
感じがしたものです。
さて現代的な猫こと江州は明日から神戸大阪を経て京都の大原・叡山を見物してきます。
こちらに住んでいるタイなどからいらっしゃってる僧侶は冬の間は「正ちゃん帽」のような
物を被っています。頭が寒いですから。
「木を見て森を見ない」というドイツの諺は実は70年代?にテレビの何かのコマーシャル
に何度も流された物なのです。覚えていらっしゃいませんか?遠い過去の記憶の中に。私は
第2外国語はドイツ語でしたから。。。それでドイツ語の諺だったとしっかり記憶している
のです。日本語では「お前の話し方は枝葉が多い」に近いかしら?と思います。もっとぴっ
たりの諺が思い付きません。
ですから社長さんはきっとあのテレビコマーシャルをご覧になっていらっしゃって強い印象
をお持ちになったのかも知れませんね。
では、お気を付けてお出掛けを!
随分書き込みが遅くなってしまいました。
俗世の仕事が邪魔立てしてまして済みません。
さて、京都の訪問記を書き込むことに致します。
12年ぶりに大原を訪れることになりました。やはりご指摘されていました人造化の波は
こんな辺鄙なところまで及んでいましたね。前回とは似ても似つかぬ風景に変わり果て
ていました。がっかりどころの騒ぎではないですね。
至るところに駐車場があって、どれも平日なのに満車になっている。観光バスは入れ替
わり立ち替わり人の排出吸入を繰り返し、三千院の境内はまるでラッシュアワーの通勤
電車のような混みようでした。以前来た時には想像もつかないほどごった返した感じが
しましたね。
山門内には新しい構造物も多数できていて景観が全く変わってしまっている。紅葉も暖
かい気候が続いてあまり綺麗に色付いていないときている。人は多くてゆっくり見て回る
ことができない。なんか臨場感のないところになってしまったなあというのが正直な感想
ですね。
12年前に訪れた時も使い捨ての写真でもって辺りの景色をパチリパチリと押さえておい
たのですが、その時の写真を行く前に見てから来たものですから、余計に違う境内の中の
風景に思わず拝観料を返せよ、と心の中で叫んでいましたね。人が多くって写真を取るに
もなかなかタイミングが取れず苦労しました。前の時はちょうど同じ頃の勤労感謝の祝日
に来たのですが、その当時は人もそんなに多くなくて心静まる思いで境内を散策できた
ものです。本当に時の移ろいというか、観光地化して俗化してしまうというのは残念な
ことですよ。
おかげで廻りの寂光院にしても道路が観光バスや自家用車で数珠繋ぎとなって近づけず、
諦めざるを得ない。散々な紅葉巡りになってしまいました。
気を取り直して下鴨神社の方へハンドルを切って下っていったのですが、
ここも風情どころか何処かよく見た街中を走っているような感覚しか感じ
なかったですね。以前は神社の森も道路からたくさん見えていたのに、
街路に聳え立つ建物に覆われて全くといっていいほど道路からは見えず、
ようやく神社の入り口にまでいくと街路に沿って木々が見えてくる有様で、
何か固定観念で持っていた京都の絵図が、心象風景の中からがらがらと
崩れてしまったような感じを覚えました。
何だか殺風景な景色が続いていたので、下鴨茶寮のお店が見えてきた時に
は少しほっとしましたね。時間は既に午後2時を超えていたのですが、遅い
昼食をここで摂ることにしたのでした。たまたま空きがあって、2階の座敷に
通されましたが、そこから見える風景も高架道路や鴨川の対岸には車が行き
交い、色付きの悪い紅葉が見えるだけで拍車を掛けるほど失墜感がありました。
でも料理の味付けだけは京都の老舗をじゅうぶん堪能できるもので、少し気分
も回復しましたね。
それでも左京区も北白川辺りまで来ますと、だいぶ昔の雰囲気が残っていて古い
町屋も点在していましたね。実は白川口から山中越えで比叡山に上がっていく
経路を取ったものですから、都市開発があまりなされていない所を通っていく
ことになりました。
一段と俗化した京都ですか。
がっかりですね。
12年も経っていれば景観が変わるのは仕方無いですが京都もどこにでもあるような
町になっていくのですか。
北白川あたりなら「いわゆる」京都らしい町が残ってますか?
次回京都に行く時は、そちらに行くようにします。
京都は日本の歴史の町と自負するのですから国を挙げて雰囲気を守って欲しいですが
現実には人間が住んでいるのですから仕方無いですね。
私は早朝の京都で観光巡りをしようとして失敗したことがあります。
京都の人々の通勤ラッシュにみごとにはまってしまって(あぁ、京都にも<生活>があった)
と思いました。
それで、京都の人には観光客は迷惑の一言なのだろうな、と思いました。
行政にとっては、手が付けられない状態なんだろうな、と。
住んでる人にも不満一杯、観光客にとっても不満だらけのまま、いよいよ混沌として
いくのでしょうね。惜しいことです。
どうも (^_^)
小京都・・・
山口市には6年ほど住んでいましたが、産業も娯楽もないところですが、非常に住みやすいところだと感じました。あれで海があれば家でも建てて暮らしたいところですが、悲しいことに私は海なしでは生きていけない体質なので、生まれ育った彦島に戻ってきているという次第です。
山口市は大内氏があえて京都に似せて作った街ですから、まさに小京都という感じでしょうか。ただ、京都で言うことろの叡山や大原などといった場所に相当する地区がないので、言い方は悪いですがテーマパークを連想させます。
津和野も美しい街ですが、小京都というのとは雰囲気が違うと思います。でも、京都の著しい都市化を考えるとむしろ京都らしいのかもしれません。
大原・・・
最初に行ったのは15、6年前のことでした。下関から山陰線経由の鈍行夜行列車で朝の5時頃京都について、朝一番の大原行きのバスに乗り、時間ははっきり覚えていないですが、小雨が振る中、人のほとんどいない大原を散策して、三千院も私の他には老夫婦が一組だけという感じで見学しました。寂光院も非常に静かで心打たれました。
そうですか、今はそんなに賑わっているのですか。10年くらい前に、北山杉を見ることを目的に行ったときにも一度訪れたのですが、そのときはゴールデンウイークの日中で「こんなものかな」と思うほどには、人が多かったのですが・・・そうですか、今は一大観光地ですか。もう、私は2度と大原には足を踏み入れずに、自分の頭の中の大原をそれとして、生きていく方が幸せですね (^^;)。
15、6年前の大原の写真のページを近いうちに作成しましょう。
雰囲気を楽しみに行って、裏切られて、実際に見らたのは人間の群れ。。。というのは辛いですね。
写真を撮ろうにもシャッター・チャンスが来ない。
各自の「思い入れ」が満たされない古都なんてつまらないですね。
>もう、私は2度と大原には足を踏み入れずに、自分の頭の中の大原をそれとして、生きていく方が幸せですね (^^;)。
はい。
初恋の人には年を経てから逢わない方が良い、というのと同じかも知れませんね。
昔のイメージを心の中に大切にしまっておく方が良さそうですね。
写真の掲載、よろしくお願い致します。
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