[彦島を熱く語る!!一覧に戻る] お名前:服部 明子 |
平家物語の史跡を訪ねて その5 |
コメントの種類:歴史 http://www2s.biglobe.ne.jp/~bame/glight/glight.cgi 上記「千葉さん」のHPの掲示板に畠山一族の動向について大変貴重な解説が ありましたのでご紹介致します。 |
明子様の御推奨をいただきまして、初めて投稿させていただきます。
千葉江州です。坂東八平氏の千葉から出たのは論を待ちませんが、随分回り道をして源平時代の千葉介常胤に辿り着く系譜の一人です。源平拮抗の時代はちょうど千葉氏の勃興の時期にも重なるものですから、幼少の頃から一頻り興味を抱いてきました。
千葉は結局伊勢平氏との接点を持たず、清盛が興隆していく時代はちょうど逼塞を余儀なくされた時期になりますが、源氏への節操を守った氏族として三浦氏とともに屈指だと誇りに思っています。また、清盛と千葉介常胤が同い年生まれであったことはあまり知られてませんね。片や太政大臣の極官を究めた人と片や清濁を分かたぬながら質実剛健で兵馬を養い鎌倉御家人の筆頭となった人と治承四年を境に運命を変えた二人には特別な感慨を持たずにはおれません。
おいおい私の訪れた源平由来の土地のことにも書いて行きたいと思いますので、どうぞよろしく。
本人によりコメントは削除されました。 1999年08月24日 14時02分24秒
千葉江州さま:
いらっしゃいませ。
是非、平家物語の時代の前後も含めまして関東の様子などお書き下さいませね。
知らない場所のお話が拝見出来ると思いますとわくわくして来ます。
千葉氏の気骨のお話など楽しみにしております。
因みに、この掲示板はどんどん下に書き足していく事が出来ますから
ご遠慮無くいろいろなお話を長短拘わらず随時アップなさって下さいませ。
平家物語で美しいとされるのは平家が凋落していっても一門で仲違いをせず滅亡の末路を共にしていったところですね。親子関係で見れば京の平家は仲睦まじく儒教の教えに違わず孝養を旨としていた傾向が多分に感じられます。
関東の草深い房総平氏の傍流であった千葉氏も常重を頂点に常胤とその七人の子達(後に千葉六党/ちばりくとう)も一族の絆が強く、非常に結束が固かったようです。時流に逆らいながらも盛んにアンテナを張り出して来るべき時代はどうなるのかを模索し続けていたのでしょう。
中でも常胤の子千葉六郎胤頼は文覚上人を伝手に遠藤持遠の推挙を受けて上西門院に仕えて"平家に非ずば人に非ず"の時期に堂々と京都に乗り込んでいましたし、何食わぬ顔で源三位頼政と以仁王の宇治川攻めの平家軍の中に居て関東の武士団の温度差を体感していたのでしょう。勿論、対岸に実弟(常胤七男)で園城寺の僧であった律静房日胤が決死の覚悟でいたのにかかわらずです。日胤も頼朝の祈祷僧でありながら園城寺に入り、仏教界から京の動静を頼朝や下総の父へ伝え続けたのでしょう。
この二人が早くから頼朝の元に出入りして京に上っても常に連絡を絶やさず取っていたことが彼らの運命を変え、引いては千葉一族の命運をドラスティックに変えたのですから、末裔であるからこそ余計のめり込んでしまうのは仕方がないことですね。
本日はこの辺で・・・
どんな状況にあっても情報収集はサヴァイバルの基本中の基本なのですねぇ。
その為に子供は沢山いる方が四方八方への駒となってお家の繁栄に寄与。
下総の千葉氏も安穏と領地で暮らしていたわけではなく、東国の武士達の
家もこうして積極的に都の空気を掴もうとしていた、ということが分かってきますね。
千葉氏についてお書き下さると他の豪族達の動向も見当がついてきます。
ありがとうございます。
源平合戦の隠れたキーワード/上西門院
千葉胤頼が大番で上洛していた時に使えていた上西門院のことで最近になって学会の方も注視されているようですが、実は上西門院は対平家戦略上重要な拠点だったのですね。平家物語や源平盛衰記などに登場する60人以上の武人が上西門院と関係を持っていたらしいですよ。(上西門院は後白河法皇の妹に当たられるようです。)
(切っ掛けが分からないのですが)胤頼は文覚上人に師事していたらしく、その線から文覚の実父遠藤持遠の推挙を得て上西門院に仕えることになりました。持遠自身も門院に仕えていた経緯があり、しかも文覚自身も俗世では門院に仕えていたのです。しかも伊豆の頼朝は都に居た際に実は上西門院の蔵人に任じられており、見事にコネクションが成立しているのです。(文覚上人を頼朝に引き合わせたのが胤頼だったとの説が強いのですが、果たして順序はどうだったのでしょうか?少し疑問を覚えますが)
頼朝が胤頼と三浦義澄を門院に送り込んだのは将来を見据えて布石を打つために対平家戦略を二人に託していたのかも知れません。上総介広常の実弟金田頼次も大夫を号していますが、若しかすると同じく上西門院に伺候していたのでしょうか。相模湾に向き合った諸豪が一つの戦略の下に結束して動いていた可能性がありますね。
上西門院ですか?
喰えない兄に喰えない妹?
面白いですね。
あの兄に気の強い妹がいた、ということは確かでしょうし
政治に関心のある女性が裏で糸を引いていた、ということも確かでしょう。
千葉胤頼と上総介広常の関係なども後々お書き下さい。
千葉江州さん、はじめまして。ご挨拶が遅れてすいませんでした。INTERNET彦島のなかにしです。コメントを書けるほどの知識はありませんが、興味深く読ませていただいています。今後とも宜しくお願いします。
なかにしさん、ご丁寧な御挨拶賜りありがとうございます。こちらこそ宜しくお願い致します。明子様からなかにしさんの情報を一部お聞きしておりますが、メールアドレスからもお分かりになられるかと存じますが、お勤めの会社とも古くから関係のある製薬会社に所属しております。江州はハンドル名で同姓同名の人が日本国内に4人はおられますので、私の13代前の先祖が土着地であります近江に因んで使わせていただいております。
私も出が出なものですから、少し偏った情報しか持ち合わせておりませんので、ご趣旨からは少し外れるかも知れませんが、違う切り口から見た源平話ということでお許しいただいて、御覧いただければ幸いです。
さて、明子様からの御題で千葉胤頼と上総介広常の関係ということで少し書き込みたいと思います。
千葉常胤と上総介広常は保元の乱の際には義朝軍の中核として同陣で活躍している中ですから面識も出来ていたでしょうし、お互い認識する存在と認めていた可能性はあります。ただ、彼らの子供達とではどうだったでしょうか?直接面識を持つのは治承四年が初めてだった可能性が高いですね。
それまで上総介の一族とは所領の問題で係争した経緯が多々あるようですから、少しはシコリが残っていたのではないでしょうか?胤頼とて六男の分際では分けてもらえる所領がジリ貧となれば、頼朝を担いで一発大博打を打って運を切り開いてみようかと思い立つのも無理からぬことと思います。そういう意味でも隣り合わせの有力者に対してはあまりいい感情を持っていなかったのではないかと思うのです。
仮定での話ですが、胤頼が直接上総介と面した期間が短かったとすれば、腹心を使って広常を暗殺した際に胤頼も頼朝から直命を受けて上総介一族の捕縛に関わっていたことが考えられますね。長年近侍した頼朝の方にこそ情は深くあっても上総介一族に対しては弁護に回るよりも頼朝の命令に准じて(ひょっとすると所領を分けてやるぞとの示唆があったのかも知れませんが)討伐の方に喜んで荷担したと思いますね。広常の暗殺と同時に彼の兄弟や甥達は全て連座して捕縛されていますから、上総介の一族と面識を持った胤頼などが捕縛の際には面割りのために役立ったのかも知れないですよ。
仮定と断りましたのは、実は義仲攻めで千葉一族も範頼軍に従軍しており、鎌倉に居なかった可能性が高いためです。ただし、そういう暴挙を起すには股肱の臣達を頼朝は駒として使ったと推測されますので、その意味で胤頼も鎌倉に呼び戻されたのではと想像するのです。(というのも後年平家攻めで上洛の途に着いた常胤が政所の吉所初めで土肥実平とともに行軍中から呼び戻された例が吾妻鏡で記録として残っていますから)
8月31日のコメントで大きな訂正があります。
上西門院を後白河法皇の妹とありますのは姉の間違いでした。
うろ覚えで書いてましたので、うっかりミスをしてしまいました。お詫びし訂正させていただきます。
江州どの:
下総と上総との<アツレキ>というのは「隣同士は仲が悪い」という俗言からも
想像は出来ましたが、個人的にどうだったのか、という部分が拝見出来て興味
深かったです。
歴史から人間が生き生きと見えてくるところが非常に面白いですね。
畠山重忠について再度触れておきたいと思います。
鎌倉御家人の畠山重忠という名前からは髭もじゃの厳つい威丈夫を連想させますが、治承4年当時17歳の若さだったんですよね。しかも吾妻鏡や源平盛衰記においても清々しい好男子として喩えられてますから、さしずめ今風の日本的表現で言えば、スタイル抜群で容貌も秀でたジャニーズ系の青年だったんじゃないでしょうか?
彼の腕力の凄さを語る話題としては宇治川合戦の砌の大串某を川から岸へ投げ飛ばして徒歩立ちの一番乗りを果たさせた例やひよどり越えでの逆落としで愛馬を担いで下りていった話などが喧伝されています。確かに人並み外れた力持ちだったのは間違いなさそうですね。
それよりももっと印象的なのは重忠の性格にあります。彼の性格は真竹を縦に割るような爽快さを持っており、頼朝から謀反を問われた時でさえ、「頼朝公に対して誓紙を差し出すような真似はしない」ときっぱり言い放ち、「公然と謀反を起すと謂われるのは武人として本望である」ような発言をして物議を醸したのですが、重忠の身を案じる御家人達が奔走して事無きを得る事も何度かあったようですね。千葉胤正も父の留守中に重忠を預かった際のエピソードでは、重忠は身の潔白を明かすために絶食を続けて憔悴するほどまで徹底して実行した硬骨漢でもありましたから、驚愕した胤正は率先して頼朝へ泣き付いたのは言うまでもありません。
頼朝も終生重忠の生一本さを感じ入り、鎌倉御家人の筆頭として遇したのですが、頼朝が亡くなると彼を庇護する人間が居なくなったわけですから、徐々に立場が悪くなるのは火を見るよりも明らかです。三浦義澄が死に、理解者の一人でもあった叔父の千葉介常胤、従兄弟の胤正が相次いで亡くなり、創業時の一言居士達が櫛が欠けるように亡くなっていくと、とうとう孤立無援になってしまったのでした。
重忠が亡くなったのは厄年に当たる42歳でわずか四半世紀の活躍に過ぎなかったのです。北条時政や重忠自身の一族の讒言で、畠山重忠が鎌倉府に対して謀反を起そうとしているとして鎌倉の大軍を義時に率いさせて討たせてしまいますが、千葉氏も成胤の代に変わり、頼朝股肱の臣東胤頼も自身の存在が千葉一族にとって災いをもたらすと判断して隠棲しまった状況では、縁戚に連なっていた重忠であるにもかかわらず、千葉一族でさえ冷淡にも見殺しにしてしまったのですから。彼の最期も壮絶な戦闘の上での死だったものですから語り草として後世まで伝えらることになりました。よほどその死に臨んだ戦闘の潔さが追討軍の兵士にとっても美しく眩かったのでしょう。
従兄弟の稲毛重成に裏切られて殺されてしまいましたね。
ウチの職場ではたいした力でも無いのに一応権力闘争が時々ありますが
私はいつものようにどちらにもつかずにいたら両方から責められて大変
な思いをしたことが1回ありました。
「長いものには巻かれろ」とか「寄らば大樹」という諺がこの時ほど身
にしみて感じたことがありませんでしたが、命をやりとりする場合での
権力闘争には係わりたく無いとも言ってはおられないんだ、ともよくよ
く分かりました。
>三浦義澄が死に、理解者の一人でもあった叔父の千葉介常胤、従兄弟の胤正
>が相次いで亡くなり、創業時の一言居士達が櫛が欠けるように亡くなって
>いくと、とうとう孤立無援になってしまったのでした。
畠山重忠の孤立感分かりましたよ。
「なんでこうなるの?」
って。
正しい人だけに、正しく生きて来た人だけに、
「どうして自分が?」
と思ったでしょうね。
畠山重忠を殺した側は不条理が自分達にあることが分かっていたから
辛かったでしょうね。でもそうしなければ自分が殺されてしまう。
一緒に死んでいたら美名を共に歴史に残せたのですが残念ながらいない。
凄い事件だったと思います。
一週間のご無沙汰でした。
今回は義経の大坂峠越えで、その大坂峠に因んだお題で綴りたいと思います。
マイカーでの通勤に地元で鳴池線と呼ばれる鳴門と池田を結ぶ県道を毎日利用しているのですが、大坂峠に入る付近も最近自動車専用道路(これが完成しますと徳島県板野から香川県長尾まで直通になります)の板野インターチェンジへのアクセス道路工事が本格的になり随分様子が変わってきました。
徳島と香川の県境は阿讃山地で仕切られており、どうしも峠越えしなければ讃岐には抜けることができなかったのです。だいたい阿波から讃岐へ抜ける道は8つほどあったようです。東から順に
・ 鳴門からぐるりと北東方面の海岸を大回りして引田から讃岐に入る道
・ 大坂峠を越えて引田に入る道
・ 御所から鵜峠を越えて白鳥に入る道
・ 市場町から日開谷を抜けて白鳥に入る道
・ うだつで有名な脇町から相栗峠を越えて直接高松に入る道
・ 三野から真鈴峠を越えて塩江に抜ける道
・ 箸蔵寺から満濃池へ抜ける道
・ 池田から猪ノ鼻峠を越えて善通寺に入る道
があり、義経は大坂峠を越えたと伝えられています。
近藤七が源氏に荷担したことが記録に残されていますが、彼は板野郡の有力な豪族だったようで、ちょうど大坂峠の入り口に当たる辺が勢力範囲に近かったのでしょう。現在でもこのJR板野駅から川端駅に至る地域には坂東さんや近藤さんといった苗字が多く点在していますね。ちなみにテレビでお馴染みの板東英二さんの実家もこの近くにあったようです。(少しややこしいのですが徳島には木偏の板東と土偏の坂東の苗字が混在しているのです)
近藤七が道案内役となって大坂峠を越えると後は山地伝いに行動を秘匿して進めば長尾までは索敵にも掛からずに接近できたで筈です。更に長尾から北へ進路を取ると讃岐平野が広がる平地ですので屋島まで一気呵成に攻め込めたことでしょう。土地に詳しい人間さえ味方に着いていればこそ、そういう芸当ができたんだと思います。
平家も敵が一番楽に来られる鳴門引田ルートか本州からの海上ルートだろうと想定して防衛線を張っていた筈ですから、険しい峠道をわざわざ選んで義経率いる馬群が短期間で攻め寄せてこようとは夢にだに思っていなかったことでしょう。
この大坂峠は幽霊車が後を付けてくる場所としても有名だそうです。サイドミラーやバックミラーに黒っぽい車が写って見えるのですが、くねくねとした峠道を走って見晴らしのよいところで車を止めていて、いつまで経っても後続車が来なくてぞっとしたというような話をまことしやかに喧伝していますね。
高速道路や鉄道が整備されて板野から引田へ抜けるのに利用されるにつれ、やがて大坂峠も誰も通らなくなって朽ちていくことになるでしょうが、それも歴史の顛末のようで何か切ないものがありますね。
上記8通りの道を、地図を見ながら、阿波と讃岐の位置関係を確かめてみました。
引田は<ヒケタ>って読むんですねぇ。
私は以前土讃線で善通寺から池田に行ったのか、と再認識しました。<池田>って
野球で一躍有名になった山の中の小さな町ですが、たいしたものだと感心したの
を久し振りに思い出しました。
維新の時に土佐から回転の志を持った下級武士の青年達が取ったのは池田から
猪ノ鼻峠に出て善通寺に出るコースだったのだろうな、と空想が広がりました。
平家の武士は当然正面から義経の軍がやって来ると思っていたでしょうね。でも
圧倒的な大軍を相手にするには敵の意表を衝くに限るという義経の作戦があった
訳ですね。
なんとなく、劣勢の義経の軍の様子というのが見えた気がしました。
池田高校ですね。野球で勇名を馳せたのはもう17年くらい前のことでしたね。
その池田高校の蔦監督と14年くらい前にお話しした経験があります。「攻め達磨」の異名を持つ監督は池田高校の社会科の先生でもあったのですが、たまたま訪れていた私を卒業生かと間違われて話し掛けてこられたのでした。だみ声ながらとても暖かい人柄でしたよ。
それから幕末の志士達ですが四国の片田舎から京や江戸に飛び出していったのは明子様のご指摘のようだったんじゃないでしょうか。志士達は追手から必死に逃れるために重い足を引き摺りながらもひたすら峠を目指して歩を進めていたのでしょうね。
少し徳島を離れて対岸の本州へ渡って義経の跡を追ってみたいと思います。
私が生まれ育ったのは大阪だったのですが、大阪も西側の兵庫県寄りのところで、阪神電車で数駅いくと大物でした。大物でピンとこられる方はかなり歴史通ですね。
そうです。義経がここから2度出航しているのです。1度目は屋島の平家攻めで四国に渡った時で、2度目は鎌倉の追討軍から逃れるために九州へ渡るための時でしたよね。御存知のように2度目も悪天候下で出航を試みたのですが、直ぐに座礁転覆して再上陸を余儀なくされています。さすがに2度目は天候も味方に回ってくれなかったようですね。
長年の土砂の堆積でこの付近も随分陸地が繋がり、海側へせせり出してきた経緯があるものですから、昔の地形はなかなか想像できないのですが、大阪も上町台地より西側は湿地で点々と洲や島がある寒村との記録が残されています。同じように大物の辺りも随分陸地に入ったところに港があったことでしょう。
地名からも想像されるのですが、付近には酉島、四貫島、出来島、佃(東京の佃島のもとはここです)、千舟、杭瀬、長洲、浜、潮江、築地といった海辺に因んだような名称がごろごろして近在しています。そう言えば小学校の校歌の一節に「葦が茂れる」や「通う千鳥」というような語句が入っており、かつてこの辺は海辺だったんだぞと伝えるような歌詞だったころを思い出しました。
大物の浦は義経らの時代、この辺りでは非常に開けていた場所だったと想像するのですが、ここを過ぎると西へは福原まで行かないと賑やかなところはなかったのかもしれませんね。東を見ても難波辺りの旧都跡まで行かないと人の気配は少なかったことでしょう。(大阪が賑やかになるのはやはり太閤秀吉の時代を待たねばならなかったのですから)
それでも船が難破して岸に辿り着けさえすれば、あとは葦の生い茂る岸辺に身を隠して逃亡すれば鎌倉の追討軍に捕縛されることはなかったのですから。それでも一旦散り散りになってしまうと櫛が抜けるように捕縛されてゆき、奥州落ちも本当にわずかな供回りしか残っていなかったのでしょうね。
義経の時代以降歴史に再び大物が登場するのは南北朝時代を待たねばなりませんが、義経の明暗を分けた土地として私も子供の頃から記憶しています。
江州どの:
池田高校の活躍は17年も昔のことでしたか。
蔦監督は郷土の「偉人」になりましたね。
阿波の山の中の小さな小さな町を日本中に知らしめた「人物」ですから。
さてさて尼崎に「大物」駅があって驚きました。
あぁ、ここから船出しようとしたのか、と。
近くには「和田岬」があって、ここは南北朝の楠木正成関連で知られていますね。
一の谷やらヒヨドリ越え、須磨などもお書きになって下さい。
楽しみにしております。
PS:須磨は平安時代は都から離れた、さびれた海辺の町、という印象ですね。
源氏物語で「だから光源氏が流された」と。
源平時代は、淡路島がすぐ目の前にあって、なかなかの要衝と思いますが。
リクエストにお応えして、それでは大物から西の方へ転じていきましょう。
一の谷合戦関わり(第一話)
鎌倉軍と平家軍の本州での衝突は一の谷の合戦だけというのも意外な感じがします。おそらく中国地方でも局地戦のような衝突があったかもしれませんが、陸上での全面衝突で雌雄を決したのはこの戦闘を置いて他にありませんでしたよね。でもこの一の谷の合戦で総括される戦闘は実は非常に広範囲に渡っていたのには調べてみてびっくりしました。兵庫県の南東部がそっくり戦域になっていたんですね。でもその地に両者が大軍を展開するとなると、当時はその付近が開発されておらず、人はほとんど住んでいなかったということでしょうか?確かに須磨辺りへも流罪として適用される地域だということでしたから、人の気配もないような寂しいところであったことが想像されますよね。言い換えれば、人が住んでいなかったから戦場となっても支障なかったということでしょう。もっとも神戸が開発されるのはずっと後世になって、坂本竜馬が海軍の港の候補地として清盛が開いた神戸を見直すまで待たねばならなかったのですから。
鎌倉軍は範頼を大将として生田川を背水として陣を引き、対する平家軍も福原に後詰めを置いて今の三宮付近に平知盛率いる平家本軍が展開して、おそらく同じ規模の軍勢であったと想像されているようですね。それに御存知のように義経率いる搦め手を攻める別働隊が篠山から迂回して平家軍の背後に出るよう活動していました。もう一つ意外なのが平家も資盛兄弟を大将として鎌倉軍の背後を突くために迂回行軍をしていた事実ですね。
結局三草の戦いと呼称される義経軍と資盛軍の遭遇戦が繰り広げられ、呆気なくも資盛軍が敗走してそのまま屋島まで逃走するという失態を演じてしまいますよね。これで平家一の知将知盛の策略は瓦解してしまい、生田の森付近での正面衝突で鎌倉軍を破るしか他手が無くなってました。ただし、義経軍は平家の背後を襲撃することになりましたから、例え正面で鎌倉軍を力攻めして壊走せしめても駄目だったでしょうが…。
(この続きは第二話で)
一の谷合戦関わり(第二話)
一の谷は今も須磨に地名が残っていますね。ちょうどこの付近は窪地というか、鎌倉でいう谷(やつ)のように、背後の三方に小高い山(丘陵のようでもありますが)が控えているところで、海に面した平らな土地があるような状態だったので平家も御座所を設けていたのは理解できます。守るには左右の街道だけで済む。そしてこの北側にひよどり越えがあります。鎌倉軍との戦闘はここからずっと東の三宮辺りで行われていたのですが、距離からいっても戦闘の音さえ届いていなかったのではないでしょうか?
のんびり構えていたところに義経率いる騎馬軍が攻め入り、あっという間に火を放ったので平家の人々は混乱して砂浜へと急いだことでしょう。結局主戦場の後方でもある西方で火の手が上がって煙りが見えると福原以東の平家軍は士気を喪失してしまって我先に壊走してしまったようですね。背水の陣の範頼軍は勇躍西進し始め、この一戦で事実上平家の陸戦部隊は潰えたと言って過言はないと思います。ただし、制海権を掌握できない状態が鎌倉軍には続きましたから平家の息の根を止めるには未だ1年近く掛かることにはなりましたが…。
和田岬には福原以東に展開する平家軍の上陸舟艇が係留されていたらしいですが、壊走で我先に雑兵どもが乗ってしまい平家の公達は乗り遅れてしまいがちだったようですね。それでも西に行けばまだ船は残っていると思い、ひたすら西進したことでしょう。でも須磨に近づいても既に沖へ出ていて乗れない。特に若い公達にとってはとっても辛かったでしょうね。一門の一方の将として担ぎ出され、鎌倉軍に負けるなと知盛から叱咤激励されて戦列に加わったものの、不甲斐ない自軍の壊走で、挙げ句の果ては大将をほったらかしにして雑兵どもが先に逃げて行く。もうどうにでもなれと自暴自棄になっていた公達も無くは無かったことでしょう。
(この続きは第三話で)
千葉江州どの:
1と2を読ませて頂きました。
そんなに広範囲だったのですか。
確かに<三ノ宮←→須磨>では戦いは聞こえなかったでしょうね。
平家が逃げる時、確かに我先に船に乗ってしまったので、1番有名なのが
敦盛の話ですね。
その次が知盛さまと知章父子の話ですね。
3を楽しみに待って居ります。
御指摘の通り、敦盛の話だけは避けられないでしょうね。
ところで、どうも一度に沢山の文章を貼り付けられないので、話を千切った形で続けていますが、ご了承ください。
一の谷合戦関わり(第三話)
須磨浦公園の東側だったと記憶していますが、例の敦盛碑がありましたね。その辺りは海岸線が迫った状態になっていますが、当時の形もそうであったかもしれません。須磨海岸は今も海水浴場として利用されていますから神戸の地形からすると珍しく小山が海に迫りながらも浅瀬が続く場所だったんでしょう。平家も笹舟を上陸舟艇として利用していたのでしたら地形的に納得できますね。
それでも須磨まで義経軍から分かれた土肥軍の尖兵が来ていたということはかなりの勢いで明石方面から迂回してきた搦め手軍が殺到し、徒歩立ちの兵までが攻め入ったのでしょうね。熊谷氏は小名の部類に入る豪族で、しかも徒歩立ちで功名を狙わねばならない立場でしたから、須磨へと歩を進めるというよりは必死に数キロの距離を駆け続けて来たのでしょうね。どっしり重量のある鎧兜を着用しての全力疾走の長距離走なんて想像しただけでもぞっとしますね。
逆に熊谷直実のような功名に飢えていた小名に見つかった敦盛こそ災難でした。おそらく大名の手勢に出くわしていたら生け捕りにされて主君の元まで引き連れて行かれていたことでしょうから。それでも平家の公達は結局頼盛を除いて鎌倉からは許してもらえなかったですから、死を与えられる時期が前後しただけだったのには違いないでしょう。あたら若い命を落としてとお嘆きの向きもあるでしょうが、まあ生き恥を曝すといったことがなかっただけでもせめてもの救いだったのかもしれません。
須磨には須磨浦公園の他にもう一つ須磨離宮公園があり、こちらも人気があって休日には大勢の家族連れが遊びに来ています。また、須磨は従来の国道沿いなので、明石大橋が出来て以来私も全く通らなくなってしまいました。道路が出来て便利になるのはいいのですけれど、車窓の景色も風物とは縁の無い場所ばかりしか見えなくなり風情が無くなってしまいましたね。
一の谷合戦関わり(第四話)
逆落としで有名なひよどり越えですが、実際には高倉山を経由して鉄槌山を駆け下って義経は攻めたと言われているようです。ひよどり越えは鉄拐山のまだ北側に位置しており、ここが急峻だったせいなのか有名になってしまい、あたかもここから直接平家の陣屋に攻め下りたかのような喧伝のされ方をしていますね。ちなみに、鉄拐山は234mの標高で、およそ60階くらいの高層ビルの高さから下りていったわけですよね。こんな小山が背後にあれば平家も守備を手薄にしていたことでしょう。
ひよどり越えは今も西神戸道路(自動車専用道)の途中に看板が見えます。とても狭いトンネルで、くねくねした道で知られる道路です。確かにところどころで斜面の景色が眼下に広がって見えますね。徳島と大阪を結ぶ高速バスが阪神高速の渋滞時に迂回路として走るのですが、大きな車同士が対行したり狭いトンネルの壁が接近してきたりと、なかなかスリルがある道です。斜面越しに見える景色を見るにつけ、よくこんなところを人馬が進めたなあという感慨を持ちますね。
義経軍は搦め手軍の位置付けで遊撃活動を強いられましたが、その軍中には畠山重忠や土肥実平などの有力者も加わっていましたね。特に重忠は範頼公の下では目覚しい働きも出来ないと高言して義経軍に投じていますが、さすがに重忠も義経の奇襲作戦には着いていくのがやっとだったようですね。逆落としでは馬を庇うあまり自身の背に負って下りるなど蛮行をしたものです。
奇襲には数十騎が義経に従うだけだったとあり、他の搦め手軍は宇佐美の指揮下で長田方面の平家軍側面を突く行動を、土肥の指揮下でぐるりと明石か舞子まで出てから須磨方面へ戻って敵の退路を断つ活動をしていたようです。明石への迂回行動は意外と平坦な土地を移動していくので、思いの外楽な行軍だと思いますが、やはり義経の選んだ行路は人馬も通わぬ道を突き進むものですから勢い距離は少ないものの時間を要したのは推論するまでもありません。
一の谷合戦関わり(第五話)
ところで三草合戦で敗走した資盛ですが、本来ならば嫡出子の相続でいえば清盛の長男である重盛の嫡子(清盛にとっても嫡孫)ですので資盛が平家の旗頭になってもよさそうなものですが、清盛の指定で次男の宗盛が後継者にされましたよね。資盛とて心中穏やかではなかったことでしょう。
それが心の中で葛藤していたのか否かは定かでありませんが、遊撃軍の大将の地位に甘んじて行動しなければならないと思っていたとすれば、戦闘になっても身が入らなかったのはやむを得ないことだったのかも知れませんね。どうせ叔父貴のいうことを聞かないと自分の存在など論外にされてしまう、とまで思ったかどうか知りませんが、極端な思考で資盛がどうせ負けたってしょうがないやという了見で一方の大将を任されていたとすれば知盛の戦略に初めから齟齬があったといっても仕方ないですよね。
資盛はどこかこらえ性のない性分・性格が見え隠れするのですが、やはりお坊ちゃま育ちであったことに原因があったんでしょうか。歴史で「たら・れば」は論じてはいけないとされていますが、ただの一度でいいから乾坤一擲の戦闘を、性根を据えて三草で実行さえしていればその後の鎌倉史は大幅に塗り変わり、引いては資盛自身の歴史的評価も随分変わっていたことでしょうに、残念なことですよね。
江州どの
今日は特に沢山書かれていて嬉しうございます。 <m(_ _)m>
さて、ムカシ・昔・むかし須磨公園?に行きました。垂水か舞子から電車で行ったと思います。
その途中で「青葉の笛」の須磨寺の近くを通ったと思うのですが、私は、「と伝えられる代物
だろう」と思いました。丁度京都の祇王寺のように人為的な感じがしたのです。要するに<偽
物>と思ったのです。敦盛の死を惜しむ人の奉納した物だったのでは?と。(嫌な性格してま
す。時々現実と空想が混乱してしまうのです。ごめんなさい)
祇王寺を見に行ったのですが、入り口で、可愛いメルヘンチックな建物で女性好みだと思いま
したが、(これは偽物)と思いました。すぐ近くの新田義貞の首塚は(本物)と思いました。
この感覚の延長上で「青葉の笛」も偽物と思いました。それで祇王寺も青葉の笛も見に行きま
せんでした。
「ひよどり越え」もどこまで本当なのだろう?と思うのです。読み物としては面白いです。
>なかなかスリルがある道です。
>斜面越しに見える景色を見るにつけ、よくこんなところを人馬が進めたなあという感慨を
>持ちますね。
江州どのは「可能だった」の方でしょうか?
どこかの乗馬クラブの人が降りてみて、降りることが出来たなら、素直に義経の軍事的天才ぶ
りに感服出来るのですが。。。物語としては非常に面白いけれど。。。ついつい、疑ってしま
います。
この日を記念して神戸市観光課は「逆落とし」を行事化して毎年お祭りの出し物の1つにした
ら非常に面白いと思います。でも怪我人続出でしょうね?ふふふ
資盛は何を考えていたのでしょうね?
1説には平家は重盛の息子達を総司令官にしてコキ使い、自分達は後方で楽をしていた、と読
んだことがあります。確かに資盛の兄の維盛はあちこちに送り出されていますね。
京都近辺の出陣は重盛の家系で指揮を執り、屋島は宗盛、彦島は知盛さま、というように分権
が決まっていたのでしょうか?
資盛は矢張り「女」でしょうね?建礼門院右京大夫!が気になって身が入らなかった?または
一緒に作戦を勤めた弟の有盛が気になって身が入らなかったのかも。壇の浦では従兄弟の行盛
と資盛は幼い有盛の手をとって一緒に入水した、と書かれていますから。
資盛は「やんちゃ坊主」のイメージです。子供の時に事件を起こして伊勢に謹慎させられてい
たから。現在の天皇家の次男坊のような人物だったような気がします。兄と違って好きなよう
に生きて噂が絶えない人物。でも彼を愛した女性が良かった、と。
さていよいよ屋島でしょうか?
楽しみにしております。
>江州どのは「可能だった」の方でしょうか?
人間何か傑出しているものを持っている筈で、それが潜在的に表面へ出てくるか、来ないかがその人の運命なども書き換えたりしてしまうのではないかと思っています。
ですからそれは人馬の運動能力を完璧に把握していた人間がその場に居合わせたからこそできた所業ではないかなあと思います。日頃の訓練の蓄積が不可能と思われることを凌駕することがあるかた出来たのではないかと想像するのです。
あまり適切な例じゃないかも知れませんが、日露戦争時に圧倒的優位を伝えられていたバルチック艦隊に対して日本海軍は軍略の天才と称された秋山真之に日本海会戦の戦略を練らせた上で強運の持ち主とされた東郷平八郎に指揮を委ねて全世界が0対10で日本海軍の負けを確信していた会戦を、バルチック艦隊殲滅という100対0もの圧倒的な完勝を達成したことにも通じるんじゃないかなと思うんです。全く不可能を可能にするどろこか、思いも寄らぬほどの成果を挙げるというのはやはりあるんじゃないでしょうか?
ちなみに、秋山真之の兄秋山好古は日本陸軍の騎馬軍の創設者とも言うべき人物で、彼が盛んに義経の騎馬軍略の天才振りと勇猛さを陸軍大学の講義で論じていた下りが司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」にも描かれていましたよ。
ただ、特殊な才能を持つ人の最大の欠点として、ごく一般的な人が持っている常識とかが欠落していることがあって、適応能力が無いケースというのが義経にも当てはまるのではないでしょうか?天は二物を与えてくれないものですから…。;私には一物も与えてくれてないようです(TT)
>この日を記念して神戸市観光課は「逆落とし」を行事化して毎年お祭りの出し物の1つにし>たら非常に面白いと思います。でも怪我人続出でしょうね?ふふふ
そうですね(笑)。でも信州で巨大な御神木を小高い岡(高さは百mはあるのかな?)から降ろしながらそれに人が跨ったり、捕まったりして落ちて行くという勇壮なお祭りが7年に一度ありますね。怪我人はいつも大勢出て、打ち所が悪いと亡くなる方も出るくらいのものを伝統行事としてやられてますよね。
>京都近辺の出陣は重盛の家系で指揮を執り、屋島は宗盛、彦島は知盛さま、というように分
>権が決まっていたのでしょうか?
これは私も調べていないので分からないんですよ。でも戦闘の下知は知盛が差配している形跡が高いですから。少しそのこと関連して書いてみましたので御覧ください。
一の谷合戦関わり(第六話)
知盛という人物は知謀と勇気を持ち合わせた人物に写るのですが、残念なことに彼の率いる駒達に齟齬が多過ぎた。知盛さえおれば平家軍はどっしり落ち着いていたようなのですが、肝心なところに彼が居合わさないと駒達がとんでもない素っ頓狂なことを仕出かして、折角戦略を組んでいた知盛の作戦も水泡に帰してしまうことが多々あったのではないでしょうか?
一の谷合戦でも前線で彼が指揮している間は鎌倉軍と互角に戦闘を進めていたのに、彼の策で鎌倉軍の背後に出るべく運動していた資盛らの軍勢があっさり敗れて逃げ帰り、その敗北の連絡さえ滞っていたようですね。そのため徐々に退却の準備を始めれば須磨や和田岬での悲劇的な公達達の最期も防止できたものをみすみす討ち取られるような敗北を喫せざるを得なかった。
屋島でも知盛の帰りが遅れたばかりに総帥の宗盛が明け渡さなくてもよい屋島を易々と義経の掌中へ落とさしめる結果となりました。当然壇ノ浦では阿波民部が裏切るような行為を見せなければもう少し勝敗は縺れた筈です。それも総帥宗盛の人徳の無さが災いして折角知将知盛が自軍におりながら決定的な挽回の機会を失してしまったのですから。
勝負は時の運という言い回しがよくされますが、いくら自陣内で齟齬を起しても結果として勝ち進んでいった鎌倉軍に対して、圧倒的な実力をもちながらそれを発揮することなく没落していった平家や奥州藤原氏など歴史の歯車が回転を狂わすと悲劇的な結末が用意されているのには恐ろしい限りです。武運拙いという表現では終わらせ切れないところがありますね。
明子様そう急かさずに。
屋島に行く前にもう少しご指摘の場所がありましたよね。
そう淡路島のことを意識されておられましたね。
確かに明石からわずか4km足らずの海上に淡路島は位置しています。その意味で明石や須磨は要衝と言えなくもないですね。ただ、地図では分からないことなのですが、淡路島の北端付近は結構ごつごつとした海岸線で、あまり人が住むに適さなかったところだと思いますよ。今ではかなり高台のところも整地されて人の住める環境にはなってきたようですが、一の谷合戦当時は直接アクセスするのは難しかったと想像しますね。
淡路島の北端は岩屋という地名なのですが、文字通りごつごつしている岩場なので船も大きなものは近寄ることが難しかったのではないでしょうか。それに明石海峡は非常に流れの速いところですから、(現在のようにモーターボートであれば難なく海峡を横切れるでしょうが)当事の艪漕ぎの小さな船では渡り切れないときています。
淡路島は洲本辺りまで行かないと平坦な土地が見当たらないですから四国に渡るにはまず洲本を足掛かりにして、淡路島の南端に当たる福良まで行って、それから潮の状況を見て鳴門へ渡るのが通常の行き方だったのではないでしょうか。今でも鳴門には土佐泊(とさどまり)という地名が残っていますが、土佐へ赴任した紀貫之もここに立ち寄ったことが記録に見えます。
平家も一の谷合戦で敗退した後は四国を守備せざるを得なかったので、四国の東玄関に当たる鳴門から引田に掛けては防衛ラインを構築していたのではないかと思うのですが、義経はそれを無視して通常のルートではなくて、紀伊水道を横切って直接徳島の東部に上陸する離れ業を敢行してしまったのでした。情報戦ではなかった時代の戦争とは言え、防衛線と想定したネットに掛からず、大きく迂回した経路で侵入してきたところに義経の強運?があったのでしょう。
ここまで来ると既に屋島合戦に話が及んでしまいますので、ここらで一の谷合戦関わりのお話はお終いにしたいと思います。拙い文章をお読みいただき有り難うございました。
でも屋島は調べたことをまとめないといけないので、少し小休止させてくださいね。
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