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投稿番号:37888 投稿日:1999年08月09日 23時31分52秒
お名前:鷹取誠
 

教えてください

キーワード:壇ノ浦 水軍 佐伯氏

コメントの種類:質問


 広島に住むものです。息子が壇ノ浦の戦いについて調べたいといっておりました。インターネットで調べているうちにこのページを発見しました。元来私も歴史は大好きで、このページの隅から隅まで読ませていただきました。大変な情報量に圧倒されていますが、僕の素人知識と、にわか勉強で得た知識を総合すると、疑問に思う点が浮かんできます。郷土史家の皆様に教えていただきたいと思って書きこませていただきます。
1.まず、水軍の件です。元来平氏のほうが水軍にすぐれ、屋島が落とされるまでは圧倒的な制海権を握っていたと聞いています。しかるに、正面から激突した壇ノ浦の戦いになぜ敗れたのでしょうか。黒板博士の潮流説というのが古典的に認められているらしいですが、潮流など当然読みのうちに入っているはずで、れっきとした水軍がそんなことでうっかり負けるなどということは考えられません。安部民部大夫という人が寝返ったということですが、これが逆転の真相なのですか。真相だとすると、やはりこれは喋略の類で決着がついたということなのでしょうか。
2.博多の歴史の本を読んでますと、筑前住吉宮の佐伯氏が源氏政権樹立に関与したという記載があります。このページでは取り上げられていないようですが、瀬戸内海の海賊衆にも影響力が大きかったということです。このあたりの関係はどうなのでしょうか。これが影響したとすると、日宗貿易の権益を巡って対抗勢力をことごとく迫害してきた平氏のやり方が自らの滅亡の遠因となっているのかとも思いましたが。
 以上2点、負けるはずのない水軍の戦いで完敗を喫したことについての疑問です。


服部 明子さんからのコメント(1999年08月10日 00時26分56秒)
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鷹取さま:

初めまして。ようこそいらっしゃいました。
皆、同じ疑問があるのです。
「勝てる戦さに何故負けたのか?」
これは日本史上の疑問でもあります。

潮の流れ+裏切り+そして戦法の卑怯さ+さらに平家は女子供連れ

その他にも要因が何か?皆で考えましょう。


住之江とか住吉というのは「海の神様」ではありませんでしたか?
万葉言葉で「海のみこもち」とか聞いたことがあります。

佐伯氏が平家に押さえられていたのを挽回を謀った、というのは初耳でした。
ありがとうございます。

千葉ちゃんさんからのコメント(1999年08月10日 15時20分54秒)
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元暦元(1184)年の4月28日、頼朝は淡路国の広田庄を広田社に寄進しています。
広田社は海運との繋がりが深く、広田庄には駅が置かれていました。この翌日には
梶原景時・土肥実平に海戦の指示を出しています。
摂津周辺の地理案内を承っていた渡邊党は、淀川河口一帯に
「渡邊惣官」として支配権を持っていました。もちろん摂津国衙との関わりも強く、
その治世にも一部参画していました。住吉大社の住江殿守衛の兵役も渡邊党が関係しています。
肥前の松浦党も渡邊党から出ているとされ、九州との関わりもあったのかも?
土肥・梶原は頼朝の指示に従って、惣追捕使として中国地方の国衙在庁たちに
積極的に働きかけをしており、そういった地道な工作も源氏勝利の一因でしょう。
また、周防国衙の船所を支配していた在庁官人・船所正利が源氏に船を提供したのは、
周防の元筆頭の在庁で、宋との貿易で平家と対立して常陸に流された大内権介盛房の
影響(盛房は治承2年10月に赦免されて帰国)が一因にあるとも言われてます。

なかにしさんからのコメント(1999年08月10日 23時27分44秒)
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>その他にも要因が何か?

 負け始めると、一気に負けてしまうという人間心理とか。黄泉の国へと通じると太古に言われていた彦島に居を構えることが出来た安堵感とか。ちょっと歴史的観点からはずれましたが、そういう心理的な点もあるかも。

鷹取誠さんからのコメント(1999年08月11日 00時54分18秒)
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鷹取です。さっそくいろいろな情報を教えていただき、ありがとうございます。 ところで、住吉宮について調べたことを少し補足させてください。 筑前住吉宮は、平安末期には3000町の荘園を保有し、日宋貿易の利益も得てかなりの勢力を持っていたようです。その勢力は鎌倉時代にも及び、当時の瀬戸内水軍の詳細な記録、図面が保管されていることからもこのことがうかがわれます。 ところが、1157年、清盛は博多に袖の湊を造築し、対宋貿易を独占しようとしました。これは住吉宮の既得権益を著しく侵害するものであったため、おそらく佐伯一族はそれに抵抗したらしい(この記載はない)ということです。その後、1179年、佐伯一族は平家により配流の刑に処せられました(社伝には故ありてとしか記載がない)。その一人、佐伯昌助は同年5月3日に伊豆へ配流されたこと、さらに、昌助の弟、昌長が翌年7月23日、頼朝のもとへ参上、8月6日に昌助が頼朝蜂起の吉日を占い、8月17日に決定したことが吾妻鏡に記載されている。頼朝挙兵以来、佐伯一族は作戦行動に深く参画していたらしいです。ここまでが調査結果です。これから想像をたくましくすると、この影響力をもって瀬戸内水軍を動かし、彼らが歴史を動かす原動力となったかも。(私、広島におりますので、水軍の歴史が大好きでなので )このあたり、考証していただけませんか。

服部 明子さんからのコメント(1999年08月11日 12時59分07秒)
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佐伯氏について私が分かっていることは:

物部氏の一族で勇猛果敢な民で
神道系で(物部だから当然ですね)

平安末期は清盛と厳島神社の佐伯景弘の盟友関係ですね。
この佐伯氏の対抗一族が九州にいらっしゃったとは思っていませんでしたが
ちょっと「見えて」来ますね。

さて、わたくしの疑問ですが
海戦に功績のあった佐伯氏は歴史から消えた?のでしょうか。
九州とか四国に佐伯姓の方は多いようですね。

服部 明子さんからのコメント(1999年08月11日 13時38分04秒)
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佐伯氏を引っ張ったら、こんなのが出て来ました。


臼杵氏 ( うすきし)
大友氏の対外貿易を管掌

 臼杵を 本貫(ほんがん)とする氏族。豊後 大神(おおが)姓臼杵氏と、
その名跡を継いだ大友姓臼杵氏がある。
後者から筑前臼杵氏が分出する。〈大神姓臼杵氏〉

  豊後大神氏 初代 惟基(これもと) の第5子 惟盛(これもり) を
臼杵氏初代とする「 大神氏 都甲(とごう)系図 」のほか、
惟盛の曽孫 惟隆(これたか) を祖とする「 大神系図 」「 大神姓佐伯氏
系図 」がある。

前者は 緒方九郎大夫惟盛 の曽孫 臼杵大夫惟隆 とし、
後者は 三重九郎大夫惟盛 曽孫 臼杵次郎惟隆とする。
この3系図と全く共通点がない「 大神氏臼杵系図 」では、
田篠 に居館を構え、 水上城 を本城とした 臼杵四郎 惟氏(これうじ) を
初代としている。

惟盛、惟隆、 惟氏 のうち、他の史料で臼杵氏とみえるのは惟隆だけで、
次郎惟隆とある。史料には、『 吾妻鏡(あずまかがみ) 』のほか
「日田郡司職次第」『 玉葉(ぎょくよう) 』『 後愚昧記(ごくまいき) 』等がある。

惟隆は実弟 緒方三郎 惟栄(これよし) 佐賀四郎 惟憲(これのり) らと共に
宇佐宮 破却の罪で 配流(はいる)の 官符(かんぷ)を下されたが
非常の 赦(ゆるし)に会っている。

しかし、頼朝と義経の対立で義経に組したことで再び捕えられ配流されたらしい。
配流先等は不明。

『 歴代鎮西要略(れきだいちんぜいようりゃく) 』は、
大友 能直(よしなお) の豊後入国に際して展開された石垣原合戦で惟隆は
降参したとするが信用し難い。現在、惟隆の晩年や子孫を知る史料はないが、
「大神氏臼杵系図」に惟氏の後は 惟鎰(これ  ) → 惟元(これもと) → 義
氏(よしうじ) → 直氏(なおうじ) →女子としている。
〈大友姓臼杵氏〉

@「大神氏臼杵系図」は直氏の娘に迎えた養子 戸次(べっき)七郎 時直(ときなお) を
大友姓臼杵氏の初代とする。

この点は、「 藤原姓臼杵氏系図 」に初代 臼杵七郎時直 とあり、「 戸次系図 」に
臼杵七郎直時(誤記か)、「 大友系図 」に臼杵とみえることから間違いない。
時直は、大友2代 親秀(ちかひで) の次男 戸次 重秀(しげひで) の曽孫で、
康永4年(興国6、1345)の天龍寺供養の先陣随兵を勤め、康安元年(正平16、1361)に
所領所職(しょりょうしょしき)を 安堵(あんど)されたという。

「 臼杵家譜 」は 戸次時親(ときちか) 第3子時直が応永5年(1398)臼杵を賜わり
臼杵姓を称すようになったとするが、時代的に信用し難い。

時直以後の系譜を「藤原姓臼杵氏系図」によって示す。紋は 杏葉(ぎょうよう)、丸に二引、
丸に五七桐という。
〈大友家 加判衆(かばんしゅう)〉

 大友16代 政親(まさちか) 代に整備された支配機構の一つに、年寄 宿老 老中などと
呼ばれるものがある。支配機構の最高機関で、主君の命を執行するに当たって
複数で署名加判することから 加判衆 と呼ばれている。

臼杵氏から加判衆に登用されたのは 長景(ながかげ) が最初で、永正13年(1516)の
朽網親満(くたみちかみつ)の乱 直後の登用である。

加判衆最後の史料は享禄元年(1528)12月3日付けであるが、史料的には12月27日まで
確認できる。没年を前年の大永7年(1527)に発生した 佐伯惟治(さいきこれはる)の
乱 の時とする説は誤りである。

長景の跡を継いで加判衆に登用されたのは 臼杵 鑑続(あきつぐ) である。
系図上では確認できないが、太郎とあることから長景の長子であることは間違いない。
最初は 申次(もうしつぎ)の役にあったらしいし、筑前国志摩郡代( 柑子岳(こうじだけ)
城 主)にもなったらしい。

加判衆としては天文5年(1536)から弘治2年(1556)までの約20年間である。
鑑続の跡を継いだのは 鑑速(あきはや) である。

鑑速は、天文19年に起こった俗にいう大友 二階崩れの変 で 義鑑(よしあき) が
遺(のこ)した 条々(じょうじょう) に大友家の重要書類や日記箱を管理する奉行に
指名された人物である。

加判衆の期間は弘治3年から元亀3年(1572)ころまでである。
鑑速の跡には 臼杵 鎮理(あきまさ(よし))が登用され、天正9年(1581)ごろから
約10年間加判しているが、鑑続同様系図上での確認はできない。
〈大友氏の対外貿易を管掌〉

大友 宗麟(そうりん) が臼杵 丹生島(にゅうじま) に移った理由は、山口の 毛利水軍
への対応にあるといわれるように、臼杵は海上防衛の要であった。

この地を本貫とする臼杵氏と海との関係は容易に想像できる。
例えば、長景が佐賀関 一尺屋浦(いっしゃくやうら) を本拠地とする
大友水軍 若林氏 を 被官(ひかん)として掌握していることからも確かである。
また、筑前臼杵氏として柑子岳城にあった 臼杵安芸守 親連(ちかつら) に対し、
対馬の 宗盛賢(そうもりかた) が「高麗国御渡船之儀、委細示預候、得其意候」と
通知していることから、親連が大友氏の対高麗貿易の中枢にあったことがわかる。

さらに同内容の書状が長景にも発せられていることからすれば、大友氏の対外貿易を
管掌していたのは臼杵氏といえよう。また、下って天正元年8月、大友宗麟派遣の
南蛮貿易 船が帰国途中、島津氏の港に 繋留(けいりゅう)される事件が発生した時、
その返還を求める交渉に際して、臼杵鑑速は特別に 伊集院忠棟(いじゅういんただむね)に
鎧(よろい)一領を贈っている。これも、対外貿易の管掌者としての鑑速の措置であるとい
えよう。
 参考文献 『臼杵市史』第1巻 福川一徳「筑前臼杵史について」(『臼杵史談』第79号)
[橋本 操六]

服部 明子さんからのコメント(1999年08月11日 13時41分55秒)
           パスワード

大分県佐伯市

【いわれ】平安末期の頃、豊後の中南部に勢力を培っていた大神氏は、
しだいにその勢力を広げ、一族である臼杵惟康が佐伯に封を受け、佐伯氏と名乗り
この地方を治めたことに始まる。

服部 明子さんからのコメント(1999年08月11日 14時36分57秒)
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ご隠居:箱崎宮、妙楽寺を話したから、ついでに住吉宮の ことも言うておこう。

熊さん:住吉宮といやあ、今年の初詣でに行ってきやした。

八さん:そういや、熊さん一人もんやったな。

ご隠居:住吉さまは、もともと航海の神様じゃけん、対宗 貿易で巨利を治めて
おったんらしか。
平安時代の末期、博多に築港が造られたことから 事が始まった。この人工の港は、
袖の湊。

これを 造ったのが、当時、平清盛という権勢並ぶものなし と言われた人物で、
佐賀米を上方に 送り出すためじゃった。そんころ、住吉宮の佐伯 昌助という者が
捕まえられて、伊豆の国に流され とる。

ようわからんが、対宗貿易で、多分平家との 間で喧嘩しよったんじゃろう。
流された先が、伊豆。ここには、先に大物が、一人 流されとった。

八さん:ご隠居さん。待ってつかあさい。 その人は、当ててみましょう。
源頼朝でしょうが。

ご隠居:当たった。その頼朝が平家追討の兵を起こしたから 協力して戦勝祈願
やらして大いに働いたげな。

服部 明子さんからのコメント(1999年08月11日 14時44分59秒)
           パスワード

以上のURLを引っ張ろうとしましたが「検索」に戻れなくなってしまいました。
<m(_ _)m>

服部 明子さんからのコメント(1999年08月11日 14時46分39秒)
           パスワード

最後の書き込みは「NTTのよもやま話」というURLからです。

なかにしさんからのコメント(1999年08月12日 00時00分54秒)
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 作家の井沢元彦さんが昨年の源平シンポジウムで講演された内容に、ちょっと関係のある部分がありますので紹介しますね。出典は「赤間神宮叢書10 逆説源平合戦」です。

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『平家物語』を読むとですね、源氏が連戦連勝して一度も負けてないように書いてあるんです。平家というのは、あっというまに、それこそ石橋山の合戦から富士川の合戦が終わったあと、あっというまにやられちゃったように書いてあるんですが、実はですね、平家もけっこう勝ってるんですこれ。結構勝ってるんですが、一番最後に三回続けて負けたんですね。

細かい戦いがはいっている場合がありますけども、その三回というのは、一ノ谷、屋島、壇ノ浦、これはですね、一ノ谷、屋島、壇ノ浦というのは平家の側から見たら負けるはずのない戦いだったんです。実際、源氏側の司令官が源義経以外だったらたぶん負けなかったでしょう。

一ノ谷というのは石橋山みたいな地形でですね、神戸ですね、後ろが山です、前は砂浜です、海です。だから攻めて来る敵っていうのは、海は平家の軍船がいっぱい浮いてますから、狭い砂浜を、砂浜伝いに攻めてくるしかないわけなんです。そんなのは、砂浜伝いなんていくらでもやっつけられますよね、海から矢を射ることも出来るし。狭い所を大軍が攻めてこれませんから、義経は何をやったかというと、後ろの崖から逆落としに攻めて来る、鵯越(ひよどりごえ)ってやつですね。こんなことは誰も考えなかったんです。

将棋指しますよね、王様の後ろには駒を置けないですよね、最初やる時に、王様の駒っていうのは、王将は一番後ろにくっついてますよね、後ろ守る必要ないですよ、後ろは盤外ですから。ところが、一ノ谷の戦いっていうのは、義経は盤外から攻めて来た。屋島も同じなんです。屋島も前が海で、島で、まあ島のような所に陣を張ってたんですが、何と義経はですね、後ろから攻めて来た。後ろの狭い水路を渡って、いきなり安徳天皇の居る急所を攻めてきたんです。安徳天皇というのは、平家の側にとってみれば切り札なわけです。

安徳天皇と三種の神器は持っているわけですね。当時の考え方では、三種の神器を持っている天皇こそ本当の天皇なんです。従いまして、これを奪われたら、逆に平家は賊軍になってしまう。だからいきなり急所を襲われた時に、もう平家は逃げるしかなかったんですね。そこで最終的にどうしたかというと、この壇ノ浦まで逃げてきたんですけども、そこでもやられちゃったと。これも、実に不思議な戦いですね。これは本当によく調べた方がいいと思うんですけども、平家っていうのはもともと海軍ですよね。陸軍もあるんだけれども、とくに海軍に非常に強いんです。源氏ってのは山猿でですね、海のことなんか全然知らないんです。普通の状態でいって、全く海に対してはと素人の源氏と、海については非常によく知っていて力もあって、味方にも水軍がいっぱいいる平家が戦ったら、平家が負ける筈ないんです、負ける筈がないのに負けちゃったんですねこれが。ですからこれは、平家の側からみれば大誤算であり、源氏の側からみるとすれば、奇跡の勝利だった。

そして戦いの折りにですね、安徳天皇はここに入水されてですね、お亡くなりになってしまう。三種の神器のうち、その時剣が海に沈んでしまったようなんですね、鏡と玉は手に入ったんですけど、剣が沈んでしまったと。まあ、その剣が沈んだことによって、後の人が言うにはですね、これで朝廷から武力と指揮権が離れてしまったと。それで武士の天下になったんだと。そういうまことしやかにいう人もいるんですが、とにかく、壇ノ浦の合戦で、義経がとった作戦というのは、実はルール違反なんです。

当時の戦争というのは、武士と武士が名乗りを上げて戦うものであって、武士以外の、例えば船を漕いでいる人ですね、舵を取っている人、水手(かこ)とか梶取(かんどり)とかいいますけれども、そういう人達は非戦闘員であって、討ちゃあいけないんです。例えば巌流島の決闘の時にですね、宮本武蔵をギコギコ舟を漕いで送っている人がいますね。あれを小次郎の側が矢で討ちゃあいけないのと同じことでしてね、そういうことをやってる人はですね、戦争の場から除外するというのが当時の合戦のルールだったんです。

ところが、義経はそれをまったく無視して戦ったわけです。今だったら違いますよ、たとえばB29の、B29なんて古いですけど、B29のパイロットは飛行機を操縦してるだけだから、戦闘員じゃないなんてことは誰も言わないし、例えば、零戦のパイロットが、それを撃ち殺してもいいわけなんですけども、昔は違うんです。昔は、武器を持ってる人間しか、戦っちゃあいけなかったんです。武器を持ってない人間は殺しちゃあいけないというのがルールだったんですが、義経はですね、積極的に水夫、まず船を動かしている人間を狙ったんです。これはまあコロンブスの玉子なんですね、そういうことをしようと思った人は誰もいなかったんですが、義経は長い放浪生活で、ゲリラ戦術を身につけてますから、敢えてルール違反をやったわけなんです。

それでどうなったかというと、平家の船は皆動かなくなっちゃった、そこへちっちゃな船に乗った源氏がですね、漕ぎ寄せていって、次々に撃ち取ったということで、完全にやられちゃった、ということらしいんですね。ただまあ、壇ノ浦の合戦というのは、実は謎が多くてですね、やっぱり、ちょっと余りにも源氏が奇麗に勝ちすぎて、源氏が勝ったことは事実なんだけれども、他に何か秘密があったんじゃあないかということも考えられます。それをいうんなら、一ノ谷、屋島もそうなんですけれども、とにかくこの三つの合戦はですね、源氏にとって非常に幸運な、奇跡的な勝利だったわけですね。逆に言えば平氏は非常に不運だった。

しかし、不運で片付けられない何かがあるとすれば、やはり平家というのが、当時の大きな時代の欲求に対応していなかったということですね。源氏の方は対応していた。従いまして、もし仮にですね、義経がいなくて、そして平家が力を保ったとしても、最終的な勝者はやはり、源氏であったのではないかと。それはなぜかというと、歴史の流れに、歴史の流れというかもっと具体的にいえば、その時々の民が、国民が、民衆が何を望んでいるかということに答えた政治、権力者が最終的な勝利を収めるということで、例えば織田信長という人がいますけれども、織田信長は戦国時代を終わらせる寸前に、殺されました。しかし、じゃあそのことによって、織田信長の路線がストップしたかというとそうじゃあなくて、その後を継いだ秀吉や家康によって、ちゃんと完成されてるわけですね。同じように、頼朝が仮にアクシデントで平家に倒されることがあっても、歴史の流れ全体は、やはり変わらなかったんじゃあないかというふうに思えるんですね。

そういう意味で、やっぱり平家の悲劇というのは、パイオニアの悲劇であると。後から進んで行く人間は、前の人間のミスを見てますから、修正すればいいわけですけれども、パイオニアというのは、本当に何をやっていいか分からないってこともありますから、それがやはり、平家の不幸な末路というか、滅亡の最大の原因であったと言えましょう。それを『平家物語』というのは、例えば清盛が徳の無い人間であったとか、余りにも傲慢であったとか、そういった書き方をしてる部分がありますが、それは個人の傲慢だとか、そういう問題じゃあないということですね。

個人でいえば、清盛という人は非常に偉大な政治家だったと思いますけれども、そういう偉大な人物でも、歴史の流れに乗らないと滅んでしまう。結局、そういうことでですね。

服部 明子さんからのコメント(1999年08月12日 00時14分36秒)
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なかにしさん:

お疲れさまでした。
お盆休み、しっかり休養を。(笑)

なかにしさんからのコメント(1999年08月12日 00時25分47秒)
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 OCRを使ってますから楽勝です (^_^)。

鷹取誠さんからのコメント(1999年08月12日 00時28分46秒)
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鷹取です。一度に読みきれないので、コピーしてゆっくり読ませていただきます。
膨大な資料をありがとうございました。 緒方とか臼杵という氏は反平氏勢力として
ところどころで出てきますね。佐伯氏とも関係があったのでしょうね。

服部 明子さんからのコメント(1999年08月12日 00時36分33秒)
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なかにしさん:
OCRでしたか。
なぁ〜んだ、では、前言取り消し!(笑)

鷹部さん:
緒方・臼杵と佐伯氏は一族だったようですね。
<大神>氏が本姓ということでしょうね。



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