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投稿番号:36352 投稿日:1999年07月06日 12時44分07秒
お名前:服部 明子
 

平家物語の雑談 18


コメントの種類:歴史


日本中に平家落人伝説があるのを知って「平家」とは一体どのような
人々の集団であったのか、いよいよロマンを掻き立てられます。


服部 明子さんからのコメント(1999年07月15日 11時46分44秒)
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平 知盛さまの次男・知忠どのの子孫の方からご連絡を頂きました。

http://www.mep.titech.ac.jp/Ito/gakusei/matsukat/

四国に渡っていらっしゃったことは全く知りませんでした。
そして蜂須賀家より「松家」姓を頂いたそうです。

私は知忠が伊賀で育てられ、16歳で蜂起に失敗し、その子が伊賀の北で
育てられ姓を「北」とし、子孫が義満暗殺に失敗した、という所までは
知っていましたが。

なかにしさんからのコメント(1999年07月15日 23時31分50秒)
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「松家のルーツ」ってのを読みましたが、漢字が多くて何の事やらよくわからなかったよぉ(これこれ ^^;)。

 安徳天皇伝説については・・・主観100%ですが、あまり露骨に伝説や史蹟が残ってるのは・・・どうなんでしょうね、あまり、アレかなぁ、と思ったりもするのですが・・・。

服部 明子さんからのコメント(1999年07月16日 00時06分46秒)
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土地鑑が無い場所ですからね。

でも、壇の浦で負けた後、祖谷に落ちて行った、ということはやっぱり
あったのだな、と思いました。だから頼って落ちて行ったのだろう、と。

そうして、同じ知盛さまの孫の流れでも一方の四国では「北朝方」に、
他方は伊賀で「南朝方」になって戦い、互いに身内の存在を知らずに
間接的に「敵」となっていたのか、という歴史の皮肉を読みました。

服部 明子さんからのコメント(1999年07月17日 22時38分23秒)
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犀川さまにお願いがございます。

1。富士の巻狩りについてお書き下さいませんか?
2。八重姫は頼朝とどのように出会ったのか、そのあたりの考証をお書きくださいませんか。

と、申しますのは、今年、壇の浦に行きまして、あそこは非常に狭い所で驚いたのです。
「戦場」というのは、結構、場所が「限られた狭さ」がないと、というのは知っていましたが
壇の浦の狭さは予想以上の幅で、手を伸ばせば対岸の九州は門司にヒョイっと届きそうで
ございました。
これでオーバーなら、私でさえ泳いですぐに渡れそう、と思いましたから
なかにしさんにそう申しましたら「潮の流れが。。。」と、指摘されまして
(なるほど。壇の浦の合戦の勝敗も潮の流れが決定した、ということだった)と思い出しました。

ヨソ者には土地勘の無さでどうしても分からないことってございますので、
御教示頂けませんでしょうか?
お書き込みは「史跡を訪ねて」の方で結構でございます。

服部 明子さんからのコメント(1999年07月17日 22時49分26秒)
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昨日、「歴史読本」買って来ました。
990円でしたから15ドルで済みました。良かった!
昨日は「鎌倉擾乱」を注文しました。著者は高橋直樹。
7月9日文春から文庫で出たということで助かります。

服部 明子さんからのコメント(1999年07月18日 00時59分11秒)
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転載記事より:

私は「伊東祐親」って結構好きな人物です。
最期が「男」として結構「いい」と思います。
良くも悪くも「意地」を通した、ということで「伊東祐親」らしい、と。

宥免されて誰が生きていられよう、との伊東祐親の考え方って
周りの人々には「損な奴だ」「馬鹿な男だ」と思われたでしょうけど
(頼朝を何度も殺そうとした俺が頼朝に許されておめおめ生きられようか)
と、伊東祐親は、ここで自分のプライドに掛けて死を選んだ、と思うのです。

伊東と工藤が元々一族で、犀川さまご指摘のように、伊豆辺りは調べていくと
みんな「親戚回り」になってしまいますね。北条とも親戚、三浦とも親戚とは
わたくしも書きましたし。

とらさんがご指摘のように、当時、(大庭や)伊東が平家と近かったから
都にも近いということで他の豪族達が遠戚に繋がりたかった、というのが先ず
あったでしょう。

あの最期が無かったら「伊東祐親」ってただの田舎の頑固親父で終わった
と思います。

それにしても「曽我兄弟」も含めて「伊東一族」って「黙っては引っ込んでおられ
ない」、酷い表現を使用すれば「人騒がせな一族」だったと思います。

頼朝は富士の巻狩り事件の犯人が「曽我兄弟」の仕業と知って「伊東のガキ達か。
しょがないなぁ」と笑って「許してやれ」と命じたのでは?と思います。
伊東と工藤の土地争いがこじれにこじれていたのを知っていたと思いますから。

でも、この「曽我兄弟事件」に日本史最大の謎の1つが存在するんですよね。。。
「範頼さんのお部屋」で本郷先生も4つの推理をなさっていらっしゃいます。
私の考えは上記パラグラフ止まりです。単純なわたくし。。。(^^;

千葉さんからのコメント(1999年07月18日 15時36分49秒)
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服部さん、こんにちは。

伊東祐親は、工藤一族中では庶流にすぎませんでしたが、平治の乱後に
久須美庄を平重盛に寄進することで平家との結びつきを強めました。
一方で、惣領の狩野氏は祐親らにその権限を奪われたため頼朝に荷担し
たとも考えられます。
北条時政ももとは庶流で、計画的だったかはわかりませんが、源頼朝に
政子が嫁いで彼に荷担することによって、結果的に北条氏の宗家という
立場を手に入れることができました。

三浦義澄と伊東祐親の娘の婚姻については、義澄の生年と子・義村の活
躍時期などから考えると、まだ祐親が平家に仕える前と思われ、祐親が
相模介家と姻戚になって同族内で優位に立とうとする行動ではないでょ
うか。つまり祐親側からの申し入れということです。

曾我兄弟の頼朝暗殺という企ては、しごく単純に考えました。
祐経殺害ののちに頼朝の陣屋にかけ込もうとしているところから見て、
じつはただ出頭するつもりだけだったりして。それを討ち入りと誤解し
た頼朝側近の仁田らに取り押さえられたのかも?
服部さん、答えになってなくてすいません(^^;

服部 明子さんからのコメント(1999年07月18日 22時09分18秒)
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千葉さん:

ありがとうございます。
「政治力学」がよく分かります。
初めは「ささやか」だったのに「日本の政治を動かす」原動力になった経緯が
分かります。

私の勘違い部分も訂正して頂きましてありがとうございます。
これは「頼朝さんのお部屋」に書かせて頂きます。

「曽我兄弟」にすれば、あの祐親さえ許してくれた頼朝だから、自分達が工藤祐経を
討った後、頼朝に自首すれば許して貰えると考えていたんじゃないかと私が思っても
表面上間違ってはいないようですね。

もう1度ありがとうございました。

服部 明子さんからのコメント(1999年07月23日 21時53分14秒)
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高倉天皇の愛人だった「小督」を捜しに行った<源仲国>と実朝と一緒に暗殺された
<源仲章>は兄弟だったんですって。

時代が違うから兄弟だなんて気が付きませんでした。

服部 明子さんからのコメント(1999年07月29日 11時08分28秒)
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「鎌倉擾乱」を手に入れて読んでいます。
これは良い本です。

柴田さんからのコメント(1999年07月30日 14時04分19秒)
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服部さん、こんにちは。
千葉氏のページの掲示板が変更になりましたので
おしらせしまーす。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~bame/glight/glight.cgi

服部 明子さんからのコメント(1999年08月03日 11時51分45秒)
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平家物語館の「頼朝さんの部屋」及び「平家物語の史跡を訪ねて その4」
からの転載分です。

No.83 (1999/07/31 04:22) title:頼朝の娘達の死の謎
Name:服部 明子 (209.86.195.105)

URL:http://www.tip.ne.jp/bbs/msg/36233_05.html

上記URLの犀川氏の「平家物語の史跡を訪ねて〜 東大寺編」を拝見しまして
頼朝の対朝廷対策を考えさせられました。

聖武天皇の大仏建立は大国家事業だったので、1180年に焼けた東大寺を
頼朝が1195年に大仏再建を成し遂げた、ということは凄い力を確保していた、
と驚くと共に献身的・経済的に朝廷の為に奉仕する頼朝の姿が浮かんで来たわけです。

先ず、東大寺は日本国総国分寺だから、と朝廷の面子を立ててあげた頼朝がそれ以降も
朝廷との安定的関係に心を砕いたことは忘れてはならない功績だ、と改めて考え直し
犀川氏の書き込みにインスピレーションを吹き込まれまして
頼朝の娘達の為の入内運動もひょっとすると別な意味があったのではないか?と
思うようになりました。

しかし、頼朝の子供達の死は実に不思議なのです。
全員死んでしまったというところが釈然としないんです。

最初の子供は子供の実の祖父に当たる伊東祐親に殺されました。
男の子達2人の死の経緯は表面的には「はっきり」?歴史に書かれていますが
女の子達の死は「曖昧」です。
長女に続いて入内させたかった次女も死んでしまいました。
結局は頼朝の娘達の入内は無かったのですが娘2人の死が私には「謎」になってしまいました。

つまり長女・大姫の死はなんとなく納得させられていましたが
次女・三幡の死は逆に大姫の死も実は欝病こうじての死ではなかったのではないか?と
疑うようになったのです。

頼朝の大姫と三幡の入内運動:

1。大姫に対しては親として、ふびんな大姫に最高の結婚をさせたいとの考えで
後鳥羽天皇に入内させないかとの話に飛び付いた、と単純に考えていました。
2。しかし三幡に対しては「政治」的に必要だと考えたからではないか、と思います。

頼朝の朝廷への誠実さの具体化として、朝廷を押さえる為ではなく「融和」の為だったのでは?
例えば「わたくし<頼朝>は決して朝廷を軽んじているわけではないのですよ。ですから
ウチの娘をそちらに差し上げてわたくし<頼朝>の誠意とさせて頂きたい」と。

ましてや頼朝が天皇の外戚になって朝廷を操ろうとしたから入内話に乗り気になったのではなくて
「娘を入内させれば鎌倉と京都の仲がもっと穏やかに運ぶ」と考えたのではないか?と。

1。後鳥羽天皇は安徳天皇が平家と共に西下した為天皇になれたのだから鎌倉には感謝があった筈だから
頼朝から娘を貰ってくれと言われたら嫌な理由はなかったでしょう。

2。頼朝が朝廷を幕府の下で支配する為に外戚になろうとしていたなら
別に大姫や幼い三幡でなくても頼朝の母方の藤原の娘でも頼朝の身内の娘でも
政子の妹の娘でもだれでも良かったでしょう。

3。頼朝に朝廷を押さえ込もうとする意図がなかったことは頼朝が鎌倉で過ごしたということから、
彼は京都を切り離せる人だった、と分かると思います。

当時の日本人にとって京の都とは絶対的な場所であった筈ですし、
木曾義仲でも平家でも玉体を自分の方に拉致しようとしました。
しかし頼朝は京都には2回しか出掛けていません。

大姫と三幡の死について:

大姫の健康状態は、京都まで出掛けているし、親が結婚させようとした位ですから
今にも死にそうな病弱というわけではなかったと思います。

それに頼朝と政子・健康そのものの男女から生まれた子供達ですから三幡も
簡単に死んでしまうとは思えないのですが。

もともと入内話は貴族達の世界の大変な大問題で、貴族達はいかに自分の側の娘を入内させるかに
腐心したわけですから、貴族達は自分達の間の争いを放ってでも頼朝の娘の入内話には邪魔をした
でしょう。その為には組みたくない手も組んだでしょうし、どんな汚ない手も使ったでしょう。

大姫と三幡の入内が無くなって喜んだ人物・得した人物が怪しいと思うのですが。

服部 明子さんからのコメント(1999年08月03日 11時54分38秒)
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No.84 (1999/08/01 02:00) title:大仏から とんだ発展!
Name:犀川 武廣氏よりのレス
Email:saikawa@pc4.so-net.ne.jp

源頼朝の大仏再興の目的について、服部様の意見は深く頷ける内容です。
頼朝の京都に対する腐心とともに、「史跡巡り」にも書きましたが、
大衆に向ける目を持っていることに感心しています。
私は京都に向ける目より、大衆に向ける目の方が強かったのではないか、とさえ思っています。

ところで、服部様は大姫・三幡とも死には不自然なものがある、とお思いのようですね。
私も最近、「どうも二人の死は、病死ではないのではないか」と思い始めています。
考えれば考えるほど、不自然な死です。
ふと感じたのが、「ひょっとして、殺されたのでは」ということです。
そうすると辻褄が合ってくるのです。

何故殺されたかの回答を引き出したのが、服部様のご意見ですね。
私の意見も、かなり服部様に近いのです。
ところで、犯人探しはどう進展していきますか?
ここで止めたとしても、充分のような気もしますが。

服部 明子さんからのコメント(1999年08月03日 11時56分39秒)
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No.85 (1999/08/01 13:49) title:三幡姫
Name:千葉ちゃんさんよりのレス (210.131.97.33)
Email:bamen@mxz.mesh.ne.jp
URL:http://www2s.biglobe.ne.jp/~bame

服部さんこんにちは!

三幡については正治元(1199)年5月にも重病に陥っており、
頼朝は京都から丹波時長を鎌倉に招いて三幡を診させていますよね。
たぶん、その後も三幡の体調はすぐれずに病死してしまったのでは?と思います。
頼朝は文治元(1185)年、京都守護を定めて、北条時政を派遣していますから、
京都の支配を強めようとはしていたと思います。

東大寺の再建について、詳しいことは知りませんが、
最終的に頼朝が大檀那として参列することになりますが、
清盛が亡くなって半年たつとはいえ、いまだ平家の政権の中で東大寺再建が
計画されていることを考えると、はじめは平家主導によるものだったのでは?
平家が西に追いやられると、勧進をした人物でもっとも有力となっていた
頼朝が暗黙の了解で東大寺供養に参列したのかも。東大寺は全国にそれなりの
影響力を持っていたでしょうし、頼朝も全国に対して大いにアピールできたのかも。
大江広元も勧進に参加していますが、彼はどういう立場で勧進したのでしょうね。

おっしゃるとおり公卿の世界では入内は大きな問題でした。
それがそのまま朝廷内の権力につながるわけですからね。
頼朝の入内話を妨害したかどうかはわかりませんが、当時は九条兼実と土御門通親が
あらそっており、結局通親の娘が皇子を産んだことで、九条兼実ら親頼朝一派は朝廷から
追われることになってしまうわけです。
それと、自分も後鳥羽上皇はおそらく頼朝には敵意を抱いていなかったと思います。
実朝に諱を授けたり、和歌を通してもいろいろ世話をしていますしね。
しかし、北条氏に対してはなぜか敵対心を持っていたようですね。やはり京都守護と関係が?

服部 明子さんからのコメント(1999年08月03日 11時58分06秒)
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No.86 (1999/08/01 14:51) title:犀川さま + 千葉どの
Name:服部 明子 (206.71.110.97)


ありがとうございます。<m(_ _)m>

後鳥羽天皇が実朝の暗殺死後、待ってました、とばかりに北条氏に挑戦した
背景というのが1つ見えた気が致しました。

実朝の妻が坊門の娘、というのも後鳥羽の好意もあったのですねぇ。

兼実vs通親の争いもあって、幕府にとって上皇や天皇を流罪にした元々の経緯
というのも見えた気が致しました。

「承久の変」というのは日本史上の凄い大事件でしたが、その凄さ、というのが
迫りました。「日本の中世」というのが凄い時代だったというのが震えを伴なう
衝撃で伝わって来ました。

服部 明子さんからのコメント(1999年08月04日 22時36分00秒)
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No.89 (1999/08/04 22:37) title:大衆に目を向けていた


上記「大衆に目を向けていた」ということについてでございますが大仏再建は
宗教的に、というよりも大衆にとっては「政治の安定と太平」を約束してくれる
象徴になったということでございましょうね。

服部 明子さんからのコメント(1999年08月04日 23時04分25秒)
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「那須与一は称賛する平家の老武者を何故射殺したのか?」

名古屋の上前津辺りに(と思います)北条義時の孫が地頭として赴任して来て
「横井」姓を名乗ったのです。
江戸時代は尾張藩の御重臣を勤めていて名古屋の名家の1つです。

江戸時代にこの横井氏の1人が非常に粋な人で
ある時、お客人が川柳を所望して扇を出し、「もう一句」と催促したら
「2本目は 与一も困る 扇かな」
と書いたそうです。


「ゴジョウ」事件で思い出したのですが
見事扇を射抜いた与一を称賛する平家の老武者が扇をひらひらさせたのを
ひょっとすると義経は「あの<扇>も射抜いて見せよ」と言ったのかも。

2本目は<与一>も困ったのかも。。。

服部 明子さんからのコメント(1999年08月05日 09時58分40秒)
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以下のレスを頂きましたので御紹介させて頂きます。

No.45 (1999/08/05 10:01) title:大仏再建
Name:極楽浄土 (209.86.193.240)

大衆は、政治の安定と太平を約束してくれる象徴などと、
上段に構える考えはなかったのではないでしょうか。

この頃になると、大衆は「精神的な飢え」を覚えて、
何かにすがろうとしていました。
以後、新しい宗教が雨後の筍のように出て来るのもその一例でしょう。

大仏再興は、その「要」とも言える大事業だったわけです。
心の支えといったものに、頼朝は目を向けたのだと思います。

今も昔も「俺が、俺が」という時代の中で、
自分が心の支えであるものは、
大衆もそうに違いない、と考える思考がいいですね。

語ればとても長いものになりますが、簡単に言えば以上のことだと思います。
反論はあるでしょうが、「精神的な飢えの中で、心の支えを造ろう」としたことだけは、
絶対間違いありません。

服部 明子さんからのコメント(1999年08月05日 10時19分42秒)
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No.38 (1999/08/05 10:18) title:成る程
Name:服部 明子 (209.86.193.240)
Email:akikohsmith@mindspring.com

そうでしたね。
鎌倉を中心に一般大衆には一遍上人の「時宗」、武士の間には「禅宗」
少し遅れて日蓮大上人が人々の心を捕らえましたね。

うっかり忘れておりました。
鎌倉は寺の町でもありましたね。

今春「龍口寺」に行きましたが、落ち着いた「仏教」のお寺さん、という
印象を受けました。うまく表現出来ませんが京都の「権力」を背景にした
観光化したお寺とは違って「人々の心の寄り所」として訪れ易さ、という
雰囲気を感じました。ウチは本願寺ですが「義務」とか「行事」とは
ちょっと違う「オーラ」のような物を感じました。

「極楽浄土さん」から御指摘を受けて今春感じた<あれだ>と思いました。
ありがとうございました。

服部 明子さんからのコメント(1999年08月05日 21時36分51秒)
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No.39 (1999/08/05 21:38) title:人心再建
Name:西方の人 (209.86.197.154)

『鎌倉を中心に一般大衆には一遍上人の「時宗」、武士の間には「禅宗」、
少し遅れて日蓮大上人が人々の心を捕らえましたね。』

その通りです。
人々は「心の支え」に飢えていたのです。
それは何故か?
飢餓や、天災、そうしたものを平安時代末期から鎌倉時代初期の人々は、
非常にうまく切り抜けてきました。

そうした民衆に芽生えてきたのが、生きることへの自信といえるでしょう。
飢餓や天災の直面している時は、生きることしか見えません。

しかし、それが収まって生きる自信が持てると、「何か支えが欲しい」
と心に余裕が出て来るのです。
それが、焼けた大仏の再興であり、宗教であったわけです。

頼朝の大仏再建は「人心再建」でもあったのです。

松家@知忠子孫?さんからのコメント(1999年10月05日 02時59分13秒)
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あ・・・例の知忠の子孫の松家です。
こんにちは。
「松家のルーツ」ですが
文献が古くて表現が難しくうまく纏められませんでした。
暇を見つけて資料を補強し分かりやすいように書きなおそうと思ってます。
では(^^;)

なかにしさんからのコメント(1999年10月06日 13時11分14秒)
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 あ、どうもこんにちは (^_^)。

 「松家のルーツ」のページの今後の展開を楽しみにしております。