[彦島を熱く語る!!一覧に戻る] お名前:服部 明子 |
平家物語の史跡を訪ねて その4 |
コメントの種類:歴史 久し振りに<その4>を開設致します。 あなたの心に残った場所、あなたの琴線に触れる場所、また必ず再び訪れたい場所、 これから行ってみたい場所、そんな所を書いて下さい。特に行きたくても行けない 人達の為に。 |
本人によりコメントは削除されました。 1999年07月04日 03時09分19秒
次回、日本に行きましたら、横浜の旭区の史跡を訪ねてみようと
計画しています。
畠山重忠が二俣川の合戦に敗れて討ち死にした所なので行ってみたいのです。
「鎌倉一の武士」と称された爽やかな好青年です。
出身地の埼玉に畠山重忠のロボットの置いてある歴史館?があるそうですが
どうやら晩年の畠山重忠らしく「老けてる」そうなので、出身地の方はちょっと
行き辛いです。
今年は頼朝没後800年ということで鎌倉では盛大に2回展覧会が計画されて
いるようですから前回6月に鶴岡八幡宮にいらっしゃった方はお書き込み
頂けませんか?
また10月の鎌倉市の展示会のこともお知らせ下さい。
平 知盛さまの次男・知忠どのの子孫の方からご連絡を頂きました。
http://www.mep.titech.ac.jp/Ito/gakusei/matsukat/
四国に渡っていらっしゃったことは全く知りませんでした。
そして蜂須賀家より「松家」姓を頂いたそうです。
私は知忠が伊賀で育てられ、16歳で蜂起に失敗し、その子が伊賀の北で
育てられ姓を「北」とし、子孫が義満暗殺に失敗した、という所までは
知っていましたが。
犀川武廣氏の紀行文を転載致します。
1180年、平重衡らの南都焼き討ちで東大寺・興福寺が灰燼に帰したことは、
両寺が鎮護国家の象徴であっただけに、精神的打撃は計り知れないものがありました。
ですから、大仏再興は単なる「文化財」の復元とか修復とかいうものではなく、
それ以上の意味があったのです。
そして1181年、勧進聖人・重源を中心に大仏再興が開始されました。
源頼朝は、大仏再興の大旦那として、金一千両・米一万石・砂金一千両・上絹一千疋を
奉賀しています。
早くも1185年8月28日には、後白河法皇自ら開眼供養を終えています。
次いで、1190年10月の大仏殿上棟を行いました。
1195年3月12日、頼朝は政子と数万の兵を伴い上洛し、後鳥羽天皇参列の元、
堂々たる落慶供養をしたのです。
重源は、運慶・快慶らに南大門の仁王像造像を命じました。
いわゆる京仏師に押されていた、奈良仏師の模索を実現化させたのです。
そうした慶派に、活躍の場を充分に与えた頼朝の陰の功績は多大と言えるでしょう。
今回、私は日中の猛暑を避ける意味もありますが、あえて閉門寸前の黄昏時を狙って、
東大寺を訪れてみました。
人はとても少ないし、夕日に映える大仏殿も見たかったのです。
期待に反しない姿を見せてくれました。
日があるうちに「転害門」を見にいきました。
まず、想像以上の大きさに驚きました。
平 景清が隠れ、頼朝を討つため身を潜めたという別名「景清門」。
不思議その一、こんな大きい門だと、頼朝に近づくためにかなり歩数がいる。
その間に見つけられ、捉えられてしまう。
何故、この門を選んだのだろう。
不思議その二、興福寺から来ても、寝所から来ても、この門は絶対通らない。
何故この門を通ると知っていたのだろう。
又、何故この門を頼朝が通らなければならないのか。
不思議その三、頼朝が大仏殿の後ろから入るようなことはまず、ありえないことだ。
もし、本当に通ったなら、内部からの情報漏洩があったのではないだろうか。
或は景清を捉えるための偽情報に、景清がひっかかったのか。
そんなことには「関係無いよ」と、天平時代の偉風そのまま、切妻造・八脚門の転害門は
堂々と今に昔を伝えます。
大仏殿は説明不要でしょう。
ただ、この再興に心をくだいた頼朝の話や、重源の話は多く語られないのが、残念です。
又、再興最大の功労者である重源の像は、三月堂の近く俊乗堂に追いやられるように
安置されています。
しかしその像は、強い意志と民衆済度の願いが今も、心を動かします。
南大門をくぐると、大仏殿が目の前にドーンとそびえているせいでしょう。
右側の本坊に目を注ぐ人はまずいません。
ここは頼朝が、東大寺の落慶供養の際に、寝所として使われたところです。
正面の門構えから見るとそう大きくはみえませんが、横に回るとその規模の大きさ、
数の多さに驚かされます。
一つ一つの建物も立派なものです。
ここに寝泊りをして、頼朝は政子と何を語ったのでしょう。
まだまだ、これからの夢を掴んでいきたい時期ですから、夜を徹して将来を二人で
話し合ったと思います。
本坊の前に立ち、そんなことをふと思いました。
東大寺、こんな有名で大きな寺にも、頼朝の逸話が残っています。
頼朝はやはり、立派な天下人だったのです。
>もし、本当に通ったなら、内部からの情報漏洩があったのではないだろうか。
或は景清を捉えるための偽情報に、景清がひっかかったのか。
@はぁ〜。。。成る程。。。
現場検証から浮かび出て来る歴史の謎ですね。
ありがとうございます。
聖武天皇の大仏建立は国家事業だったので頼朝が1195年に大仏再建を成し遂げた、
ということは凄い力を確保していた、ということなのですねぇ。
それに、頼朝が朝廷との安定的関係を構築したことは忘れてはならない功績でも
ありますね。
上記「東大寺編」を拝見しまして頼朝の対朝廷対策を考えさせられました。
聖武天皇の大仏建立は大国家事業だったので、1180年に焼けた東大寺を
頼朝が1195年に大仏再建を成し遂げた、ということは凄い力を確保して
いた、と驚くと共に献身的・経済的に朝廷の為に奉仕する頼朝の姿が浮かん
で来たわけです。
先ず、東大寺は日本国総国分寺だから、と朝廷の面子を立ててあげた頼朝が
それ以降も朝廷との安定的関係に心を砕いたことは忘れてはならない功績だ、
と改めて考え直し、犀川氏の書き込みにインスピレーションを吹き込まれま
して頼朝の娘達の為の入内運動もひょっとすると別な意味があったのではな
いか?と思うようになりました。
しかし、頼朝の子供達の死は実に不思議なのです。
全員死んでしまったというところが釈然としないんです。
最初の子供は子供の実の祖父に当たる伊東祐親に殺されました。
男の子達2人の死の経緯は表面的には「はっきり」?歴史に書かれています
が女の子達の死は「曖昧」です。
長女に続いて入内させたかった次女も死んでしまいました。
結局は頼朝の娘達の入内は無かったのですが娘2人の死が私には「謎」にな
ってしまいました。
つまり長女・大姫の死はなんとなく納得させられていましたが
次女・三幡の死は逆に大姫の死も実は欝病こうじての死ではなかったのでは
ないか?と疑うようになったのです。
頼朝の大姫と三幡の入内運動:
1。大姫に対しては親として、ふびんな大姫に最高の結婚をさせたいとの考
えで後鳥羽天皇に入内させないかとの話に飛び付いた、と単純に考えていま
した。
2。しかし三幡に対しては「政治」的に必要だと考えたからではないか、と
思います。
頼朝の朝廷への誠実さの具体化として、朝廷を押さえる為ではなく「融和」
の為だったのでは?
例えば「わたくし<頼朝>は決して朝廷を軽んじているわけではないのです
よ。ですからウチの娘をそちらに差し上げてわたくし<頼朝>の誠意とさせ
て頂きたい」と。
ましてや頼朝が天皇の外戚になって朝廷を操ろうとしたから入内話に乗り気
になったのではなくて「娘を入内させれば鎌倉と京都の仲がもっと穏やかに
運ぶ」と考えたのではないか?と。
1。後鳥羽天皇は安徳天皇が平家と共に西下した為天皇になれたのだから鎌
倉には感謝があった筈だから頼朝から娘を貰ってくれと言われたら嫌な理由
はなかったでしょう。
2。頼朝が朝廷を幕府の下で支配する為に外戚になろうとしていたなら別に
大姫や幼い三幡でなくても頼朝の母方の藤原の娘でも頼朝の身内の娘でも
政子の妹の娘でもだれでも良かったでしょう。
3。頼朝に朝廷を押さえ込もうとする意図がなかったことは頼朝が鎌倉で過
ごしたということから、彼は京都を切り離せる人だった、と分かると思います。
当時の日本人にとって京の都とは絶対的な場所であった筈ですし、
木曾義仲でも平家でも玉体を自分の方に拉致しようとしました。
しかし頼朝は京都には2回しか出掛けていません。
大姫と三幡の死について:
大姫の健康状態は、京都まで出掛けているし、親が結婚させようとした位で
すから今にも死にそうな病弱というわけではなかったと思います。
それに頼朝と政子・健康そのものの男女から生まれた子供達ですから三幡も
簡単に死んでしまうとは思えないのですが。
もともと入内話は貴族達の世界の大変な大問題で、貴族達はいかに自分の側
の娘を入内させるかに腐心したわけですから、貴族達は自分達の間の争いを
放ってでも頼朝の娘の入内話には邪魔をしたでしょう。その為には組みたく
ない手も組んだでしょうし、どんな汚ない手も使ったでしょう。
大姫と三幡の入内が無くなって喜んだ人物・得した人物が怪しいと思うのですが。
源頼朝展お知らせ:
場所:神奈川県立歴史博物館(JR桜木町駅下車)
日時:10月23日ー11月28日
目的:源頼朝没後800年記念事業の一環として
出品:伝・源頼朝坐像
二階堂永福寺の出土資料など国宝13点
その他重要文化財35点
及び52点
入館時間:午前9時半ー午後4時半
入場料 :一般800円
休館日 :毎週月曜日と11月4日と24日
電話 :045ー201ー0926
本人によりコメントは削除されました。 1999年10月31日 10時26分27秒
第十話。
今回は、紀行ではなく「特別展」没後800年記念『源頼朝とゆかりの寺社の名宝』の報告を
書いてみた。
もっとも、見おわったあと同行者が「頼朝と一緒に、中世を歩いた気がした。」と呟いて
いたが、そうなると「紀行」と言えなくもない。
10月30日(土)9時30分。
神奈川県立歴史博物館に開館と同時に駆け込んだ。
人が来ない間に、ゆっくりと頼朝と対面したかったからである。
鶴岡八幡宮での、800年記念祭『源頼朝公展』でのあの感動を、もう一度味わいたかったから
かも知れない。
そして、何よりも八幡宮と今回の違いは、複製と本物の違いだった。
京都神護寺蔵、国宝「伝源頼朝像」。
東京国立博物館蔵、重要文化財「伝源頼朝坐像」。
これらの複製は見たものの、本物は八幡宮でさえ見ることは出来なかった。
それが今、目の前にある。
それだけで「感動」である。
それだけで充分である。
複製に比べやはり本物は迫力があり、表情が違う。
坐像に至っては、今にも「おい!」と語りかけてくるのではないか、と思うくらいの目の色
をしている。
何度も何度も絵と坐像の前を行き来した。
しっかりと脳裏に刻み付けようと、通り過ぎては戻った。
他にも今回は、頼朝の直筆の書、寄進状など国宝が並ぶ壮観さである。
文化庁を筆頭に、東大寺を始めとした寺社、マスコミの協力を得た今回の「特別展」と八幡
宮が主催した「記念展」の差があるのは当然とも言える。
八幡宮の「記念展」は頼朝が八幡宮に寄せる心に触れることを、見る人に読み取ってもらう
ことを主眼にしてあった。
今回の「特別展」はこれらの文化遺産から、頼朝のイメージを読み取ってもらうことを主眼
に置いている。
従って、八幡宮は「頼朝を知っている」人を対象にし、博物館は「頼朝を知らない」人をも
対象とした広い懐を持った印象を受けた。
帰りは、感動の「頼朝像」の額をもとめ、早速家で飾っている。
800年という節目での、この感動はもう二度と味わうことは出来まい。
そう思うと、この春と秋の「記念展」と「特別展」は頼朝に関する文化遺産が一同に会する
最後の機会ではなかったか。
記念すべき、この年を生きて迎えたことを感謝したい。
最後に一言。
今回は複製でなく、本物の国宝が数多く展示されている。
これらが一ヵ所に長く展示されることは、許されるものではないことは理解できよう。
「特別展」に行かれる人は、一応見たいものが現在展示されているかどうか確認された方が
いいと思う。
現に、国宝「伝源頼朝像」は今回、二度に分けて展示される旨、注意書きがあった。
JR相模線、小田急、相鉄の路線が交差する海老名。
全国で2位の規模だった國分寺に近く、相模國の中心であったと思われる。
近くには、源頼朝のそうそうたる側近たちの城跡、屋敷跡が点在している。
佐々木秀義、岡崎義実、梶原景時、渋谷重國などがそれである。
なかには、石橋山で頼朝を苦しめた大庭景親の根拠地も見逃せない。
駅前の海老名中央公園に入ると、朱色に染まった七重の塔が目に飛び込んで来る。
聖武天皇の命で、全国に建立された國分寺の一つ、相模國・國分寺の七重の塔を正確に再現した縮小モニュメントである。
それでもビルの4階か5階くらいの大きさ、高さはあるだろう。
当時は公園に再現されたモニュメントの3倍、高さは何と65メートルあったという。
それは壮観であったと思う。
海老名はおろか、相模國全域を眺めることが出来たのではないか。
晩秋の小春日和に誘われて、七重の塔を見たあと小高い丘を目指して歩くと、多少の汗が感じられる。
銀杏の木からは、銀杏の実が転がり落ち、幾分かの葉は色づき始めている。
ふと視界が広がると、そこには相模國・國分寺七重の塔の基石が見えてくる。
それは大きな石であり、基盤の一辺が20メートルを超す大きな塔の跡と分かる。
これなら高さ65メートルの七重の塔を支えられる。
國分寺の跡は、少しの広い芝生に石碑が建つのみで、いささか寂しい感がある。
やはり、壮観な七重の塔跡に目が行ってしまい、寺跡は置き去りになってしまったのか。
隣には金堂跡なども見られる。
付近には頼朝が建立させた常泉院、修理を加えた清水寺など、縁の史跡が点在している。
勿論、頼朝はこの國分寺にも何度か立ち寄っているに違いない。
恐らく、七重の塔にも登ってみたことであろう。
今は、東京・横浜のベッドタウンとして急激な発展をしているが、鎌倉時代のこの周辺は、農家が点在する寒村だったと思う。
今、そんな光景は想像できないが、頼朝が平定するまでは源氏勢と平家勢が凌ぎを削っていた争いの相模國であった。
頼朝によって戦さが無くなり、平和を取り戻した相模の住人は、ほっと安堵の息を吐いたことだろう。
そうした農民の支持も得た頼朝である。
農民の心の拠り所である神社・仏閣に手を入れた頼朝もまた、強かの天下人である。
そんな想いを巡らせながら、國分寺跡をグルリと一周。
頼朝に別れ、現在の國分寺に立ち寄る。
静かな境内は、銀杏の実でいっぱいである。
六地蔵に赤くなった葉が積もっている。
本人によりコメントは削除されました。 1999年11月24日 09時49分00秒
本人によりコメントは削除されました。 1999年11月24日 10時08分03秒
犀川さま:
詳しい場所をお書き下さいましてありがとうございます。
そうしますとJR茅ヶ崎駅より八王子に北上する途中、厚木のすぐ北に海老名が
位置している、と見つけられました。
銀杏の木は日本全国どこにでも植えられているのでございましょうが
相模の銀杏は鎌倉の鶴岡八幡宮の大銀杏の木を連想させますし、
平家の忠光が壇の浦での平家滅亡後、頼朝暗殺に身を隠していたのも大銀杏の木の蔭、
そして足利のばんな寺にも大銀杏の木がございましたから
銀杏の木には「源氏ゆかりの」と形容しても遜色ございませんね。
銀杏の木には相模路を歩く旅人には心情的に中々せつないものがございますね。
大銀杏の木の蔭から頼朝公がお姿を現わしませんでしたか?
源氏贔屓・頼朝公ファンの犀川さまの前に。
6月の鶴岡八幡宮の「頼朝公没後800年展」そして10月の神奈川県立歴史博物館の
「源頼朝とゆかりの寺社の名宝」をじっくり鑑賞なさった犀川さまには、本物の頼朝公
ゆかりの品々を目近になさって心を奪われることがございましたでしょう?
今回、頼朝公の出掛けた場所にいらっしゃって、犀川さまも同じ空気を吸い、同じ道を
歩き、同じ風に心をそよがせ、道端の名も無い草花にさえ頼朝公の心を慰めたかも知れ
ないとお思いになって犀川さまも可憐な草花に心を奪われ、頼朝公とご一緒に歩いてい
る気がなさいませんでしたか?
今年は頼朝公没後800年ということで今迄一般には公開しなかったような国宝が沢山
展示されましたから、犀川さまは頼朝公の歴史的な意味・農民達の生活に平和と安堵を
もたらした功績・そして、国民に愛された人柄の良さに思いを駆せ、今さらながら頼朝
公の偉大さに心を奪われ、熱にうなされ、気に当てられて、源頼朝という男にハマって
しまわれたのではないでしょうか?
犀川さまには1999年は良い年になりましたね。
羨ましうございます。
コメント有り難うございます。
確かに銀杏は、源氏には縁の深い樹のようです。
ですから、縁(エン)とは読まず、縁(ユカリ)と読みたい心境です。
その中でも一番の注目される銀杏は、やはり実朝暗殺で公暁の隠れていた八幡宮の大銀杏でしょう。
樹齢は1000年。
余談ですが、「800年前では、木が細くて公暁の身は隠せまい。」という人がいますが、
200年の樹齢があれば充分隠れることは可能です。
はい、どうやら頼朝公が近くにいるような気がしております。
「そんな馬鹿な!」と仰って頂いて結構です。
私が感じているだけでしょうから。
ただ、話し掛けられないだけです。
鎌倉も相模國です。
先祖の頼義は相模守となり東国源氏の勢力を固め、
子の義家は由比若宮(八幡宮)を修理、
義朝は鎌倉に邸を構えた。
頼朝も相模國・鎌倉郡の南端に首都を築いた。
相模國鎌倉は、頼朝にとって単に戦略上の「いい場所」ではなく、縁のある愛着のある土地であったと思います。
私は今、頼朝公の出掛けた場所に行ったのではなく、出掛けた場所に住んでいるのです。
恐らく、頼朝も私と同じ道を歩み、同じ道端の名も無い草花を見ていると思います。
今後、海老名の周辺を歩く度に、頼朝の歩いた跡を追っている気がするでしょう。
ただ、一緒に歩いている気にはまだなれません。
詳しく調べると、ここ相模國・海老名はかなり頼朝との繋がりがありそうです。
又々私の課題が増えました。
今年は私だけではなく、頼朝ファンにとって記念すべき年であったでしょう。
鶴岡八幡宮の「頼朝公没後800年展」と神奈川県立歴史博物館の「源頼朝とゆかりの寺社の名宝」を見て以来、
史跡巡りの回数がぐっと減りました。
特に「特別展」の、複製ではない、本物の国宝を見て、どうもボーッとしたままのようです。
一段落してしまった感があるのです。
私の史跡巡りは、全く段落などついていないのですが。
まだまだ、いっぱいの史跡は残っています。
今は頼朝に「死ぬのが早過ぎた」と言いたいのです。
北条の策にはまった頼朝が、何とも情けなく哀れに思えてなりません。
実際は、源氏の将軍は頼朝だけであった、と言っても過言ではないでしょう。
それはやはり、頼朝が思ったより早く、策略で亡くなってしまったからです。
だからこそ、頼朝が好きでたまらないのかも知れません。
私にとって1999年は良い年だったと思いますが、こうも思っています。
「頼朝には記念の年であった。私にとってもいい年であった。来年はもっといい年になるだろう」と。
本人によりコメントは削除されました。 2000年01月09日 23時02分48秒
冬枯れの茶色に染まった芝生の上を歩いている。
頼朝も歩いたであろう南回廊、中門を通り金堂へ入る。
建造物は何一つ無いが、その礎石群を見て、CGのように豪華な國分寺の金堂、講堂、七重塔
が脳裏に出現する。
南回廊だけで、中門をはさんで100メートルはゆうに超す長さだ。
しかも、その幅は10メートル近いだろうか。
法隆寺の金堂を取巻く回廊でさえ、わずか4メートルか5メートルそこそこである。
頼朝が歩いているのと同じように、ゆっくり、しずしずと真似てみる。
ふと振りかえり、同行の政子に声をかける。
「政子ちゃ〜ん、早くおいでよ〜。僕ちゃん、早くあの高ぁ〜い塔に登りた〜い」と
言ったかどうか。
冬の相模國分寺。
ゆっくり見て回ると、それなりに、鎌倉時代の姿が見えるような気がする。
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