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鶴富姫について |
キーワード:鶴富姫 コメントの種類:歴史 鶴富姫というのは平家落人で椎葉に住んでいた人です。以下のURL参照。 http://www2.tip.ne.jp/~nakani00/special_3/index.htm 壇ノ浦の合戦後、平家一門の生き残った人たちの一部は九州中央部の椎葉、五家荘、五木付近に散り々々になって隠れ住んでたのですが、平家の地をわずかでも受け継いでいる者は皆殺しにせよとの源頼朝の指示で、那須大八郎(屋島の合戦の「扇の的」で有名な那須与一の弟)が、椎葉へ平家追討にやってきました。 詳しくはここにビデオがあります。 http://www.miya-shoko.or.jp/siiba/roman/roman.html 椎葉へやってきた那須大八郎は、その後の経緯はいろいろあるわけですが、平清盛の末裔の鶴富姫と数年間椎葉で農耕にいそしんで暮らしたと言われています。 この鶴富姫という人、清盛の末裔とは言いますが、具体的にどういう関係があるのか良く知られていません。 そこで・・・ |
今晩、夫のヴィデオ・プレイヤーで拝見致します!
大八郎って「与一」の弟でしたか。
私は「長男」だと勘違いしていました。
・・・とある日、以前パソコン通信で親しくしていただいていた方からメールが届きました。
「椎葉といえば、大八郎鶴富姫ロマンですが、おびちゃん(なかにしのこと)の「椎葉山由来記」を読むと、『古文書「椎葉山由来記」はこんなふうに伝えています。要約すると・・・召使の侍女鶴富と云ゑるやがて平清盛の末裔である鶴富姫』という風に書かれていますが、「召使の侍」女が「姫」と訳されている意味が分かりません。これはおびちゃんの解釈でしょうか、それともなにか文献があるのでしょうか?」
さすがに椎葉ともなると、そう簡単に調べ物をしに行くわけにも行かず、鶴富姫のロマンに興味はあるものそれほど深くは考えたこと無かったんですよねぇ。
自分の書いたメールなので公開しちゃいますけど、私はこんな風に返事を書きました・・・。
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正直言うと、このあたりは自分自身で文献などをあたったわけではないんです。現在の鶴富屋敷を管理しておられる方のお話をもとにして書きました。「椎葉山由来記」にある「召使の侍女鶴富」の部分が、現地で自分の耳で聞いた話では「平清盛の末裔である鶴富姫」になっている、ということです。
当日、椎葉民俗芸能博物館を短い時間で見て回った記憶では家系図のような物はなかったのですが、椎葉民俗芸能博物館には資料室があり、こちらの方は時間が無く見ることが出来ませんでしたので、ひょっとするとここには何か資料があるかもしれません。
以下は私の推測ですが、清盛にはたくさんの子供がおり(文献としては容易に手に入るものとして「平家物語の虚構と真実・下・上横手雅敬著・塙新書 p.169)、その中に「御子姫君」と呼ばれていた女性がいます。鶴富姫というのはこの女性のことではないかと思っています。鶴富姫の「姫」は一般的な呼称の「姫」ではなくて「御子姫君」の名前の「姫」ではないかと。
この女性についての資料はないのですが、「平家物語の虚構と真実」によると、もともとは安芸の宮島で生まれた人ですが、その後、清盛のライバルの後白河法皇に仕えていたということですので、平家の都落ちの頃は京都にいたのだと思います。ですから、平家の都落ちの時に後白河法皇は比叡山に夜逃げ同然の状態であわただしく隠れてしまっているので、この女性が後白河法皇の元を離れて、平家と共に都落ちした可能性はあると思います。というか、清盛の直系ですので、むしろ、身内の誰もいなくなる京都に残ることは考えづらく、さらに、落ち行く方角が自分の生まれた西国ともなれば、一門と行動を共にしたことは間違いないでしょう。
で、建礼門院の壇ノ浦の時の年齢が30歳です。御子姫君の年齢はわかりませんが、清盛の次女で国母である建礼門院より年上ということはないはずですので、那須大八郎と出会った頃は20歳代後半からせいぜい30歳くらいだったでしょうか。
両家の男が乳母を妊娠させることもそれほど珍しくなかった時代ですので、この二人の間にロマンスが生まれても違和感はない話です。
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つづく・・・
服部さん、こんばんは (^_^)
大八郎は与一の弟です。与一も頼朝に・・・というか、与一が仕えていた範頼が頼朝に冷遇されていたりなんだりで、ちょうどこのころ病気になって下野国にひっこんでて、それで大八郎が天野遠景の一手として九州へ派遣されたことになっているようです。
・・・などということを考えたのですが、んじゃ、鶴富姫って、誰じゃいな??? っていうのが私の最近のトレンドです (^^;)。
わからないことはとりあえず人に聞いてみようということで(これこれ ^^;)、以前椎葉で教鞭を執っておられ、現在は延岡に移っておられる「MatheMagics http://www.mnet.ne.jp/~ujino/」で有名な先生に図々しくもメールを出させていただいたところ、親切な返事を頂きました。
んが、結局はよくわかりませんでした。じゃ、自分で話を組み立ててみようということで、まずは年齢なんぞを計算してみようかと思ったわけでありました。
手元にある平家物語関連の書籍をいろいろ眺めてみますと、吉川英治の「新平家物語」に「鶴富姫は玉虫がかしづいていた平家の娘。屋島の頃は幼かった。」と書いてあります。「新平家」はもちろん小説ですが、文献や古文書をかなり詳細に調べて書かれたということですので、頭の隅にとどめておくことにします。
ちなみに、この「玉虫」というのは、先の屋島の合戦の扇の的のシーンで、扇を持っていた女性です。「新平家」では壇ノ浦で入水した(寿永4年・1185)ことになっていますが、五家荘には玉虫が暮らしていた伝説が残っています。
那須与一の年齢から那須大八郎の年齢を推定しようと思ったのですが。那須与一宗高は生没年不詳だそう・・・。でも、たぶん屋島(1185)のころ那須大八郎は15歳くらいだったでしょうねぇ(感)。ちなみに、大八郎は建久4年(1193)に30歳くらいで椎葉を離れて帰京したという説があるようです。
で、鶴富姫の年齢っていうのはよくわからないんですが、最初、椎葉に行った頃はとっても若い女性を想像していました。でも、今回よくよく考えてみると、以外と年齢が行ってた、大八郎よりかなり年上だったのではないかという気もしてきました。
大八郎が椎葉にたどり着くまでは、馬も途中で捨てなければならないほどの厳しい道のりを何年かかけてるわけなんですよね。で、くたくたになって、やっと平家の人たちを見つけて「よし討ち取るぞ」っていきりたってる時に、若い女性がいたからって恋に落ちますかねぇ・・・。私はここで、椎葉の人たちと大八郎はいろいろ、戦をせずに京へ出頭して下さいとか交渉をしたと思うんですが、村の長老の他に鶴富姫もその場にいたんじゃないかと思うんですよねぇ。そこで鶴富姫と出会い、追討の旅の疲れもあって年上の女性の包容力に引かれたというか、なんというか・・・。
で、服部さんにも情報をいただいて、ちょっと年表を作ってみました。
1118 清盛誕生
1146 清盛・宮島厳島神社の修復造営を命じた
1158 鶴富姫誕生
1160 最初の厳島参詣?「山槐記」
1164 厳島平家納経
1167(仁安3) 社殿の造営
1181 清盛死去
1185.2(寿永4年)屋島 大八郎は20歳
玉虫の仕えていた武将が45歳とすると娘(=鶴富姫)は27歳
建礼門院30歳
1185.11(文治元年) 義経都落ち
大八郎下野の国へ戻る
1186 大八郎・義経追討の命を受ける
1186(文治2年) 鎮西軍として天野遠景の一手として九州へ
1187(文治3年) 大八郎椎葉方面入り
? 十根川神社境内に大八郎が杉を植える
1193(建久4年) 大八郎28歳
鶴富姫35歳
椎葉を離れる
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・・・ところで、このへんの話を卒論かなんかで書いた人っていないんですかねぇ??
なかにしさん:
今日、もう一度年齢関係などを考え直してみます。。。
と、書いても。。。(^^;
ビデオ拝見致しました。
NHKエンタープライズ製作ですか。
なるほど。
那須与一は「新平家」によると鎌倉から良く思われていなかったようですね。
理由は勝手に義経の配下に入ったから、だったと思います。
それに屋島で扇の的を射てから称賛する平家の老武者を射殺しているでしょ。
冷遇ざれる理由というのがあったと思います。
だから「吾妻鑑」などの公式書物には那須与一の名は無いとか聞きました。
それで「伝説上」の人物ではないか、という説もあるとか。
真偽のほどは分かりませんが那須家が椎葉に送られたのは鎌倉からは左遷・
嫌がらせ・いじめの意味があったのでは?と。ですから「鶴富姫」伝説の
生まれる土壌はあったのでは?と。
私も「鶴富姫」は20才前の若い女性を考えていましたが、案外、年上の女性
だったかも?と思うようになりました。
又は「清経」が椎葉に逃れて来てから生まれたのかしら?とも思います。
そうなら、若い女性だった可能性が出てきます。
「清経」って重盛の3男になるのですねぇ。維盛・資盛の次に生まれていますね。
因みに4男の有盛は壇の浦で資盛と共に入水しています。
本人によりコメントは削除されました。 2001年04月16日 18時28分52秒
みたのに新しいコメントが無い。
何じゃコリャ
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