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投稿番号:35347 投稿日:1999年06月10日 15時00分24秒
お名前:服部 明子
 

服部明子の日本オカルト紀行完結編3


コメントの種類:その他


未だ未だ4月6日の朝をウロウロしています。
伊賀に連れて行ってくれた人からは自分の登場が「未だ?」と
催促されています。



服部 明子さんからのコメント(1999年06月15日 22時47分27秒)
           パスワード

やっと今月中にはアップ出来そうです。
アッチコッチうろうろ歩いて途中迷子になったりしてなかなか到達出来ませんでしたが
やっと「見えて来ました」私の最終目的地。

あと少しのお待ちを。

服部 明子さんからのコメント(1999年06月21日 14時35分18秒)
           パスワード


私は何故、今、生きてこの世に在るのだろう?
私とは?
生とは?
人とは?
心とは?
思いとは?
考えれば考えるほど答えの出ない泥沼に落ち入り身動きが取れなくなる。

父と母がいて私が生まれたと考えると、父にも両親があり母にも両親があり、
家書に拠れば84代目の私1人が存在するのに一体幾人の先祖が存在したのか
計算してみるとはかり知れない数字となって驚愕する。

生命科学の時代に生きている私は自分の遺伝の本体DNA30億個の1つ1つ
が先祖1人1人の小人のように思えてしまう。しかし先祖の存在が全部DNA
で伝えられるとすると、実際には30億個または30億人では遥かに足りない。

あと5年もすればDNAの1つ1つが解読され、私がどんな原因で死を迎える
ことになっている定めなのか分かるらしい。もしこの世で運命とか宿命とかが
人を支配しているのなら、神に私の「定めの君」は誰なのか、何処にいるのか
訊ねてみたい。

初めて訪れる土地なのに何故か懐かしく感じたり、初めて出会った人なのに昔
から良く知っていたような身近さに心が浮き立つ時、私は「血が騒ぐ」または
「DNAが過去に反応して興奮している」と表現することにしている。

逆に初めての場所なのにおどろおどろしさを感じたり、初対面なのに嫌悪感を
いだいたりする。これは矢張り血のせい、DNAに書き込まれた過去の記憶の
せい、と思えば納得がいく。

しかし昔々の私の先祖が生活していた所、私の先祖が愛していた人、そういう
ことが<ある時>ふと分かってしまったら?特に前世で恋人だったとか夫婦の
片割れだったとかが今生で分かってしまったら?果たして人の心は平静でいら
れるだろうか?

幸せを全う出来た関係だったら良いけれど、不慮の災難などで果たせぬ思いを
残したままの関係だったら?その場合、死んだ人の魂は思いの対象を求めて彷
徨するのではないだろうか?

DNAの秘密解明は神の領域に迫る人類の最前線だ。



1999年4月6日午前10時。三重県久居市榊原にて。

前夜、名古屋から到着した宿のたたずまいを見た時、あんまりいけ好かない気
がした。何より嫌なのは夜中に何かが出て来ること。下関ではぺこちゃんが大
分から来てくれたし次の夜は浅葱さんが泊まってくれたから平気で眠ることが
出来た。それに私は何も気が付かないようにと催眠剤も摂ってぐっすり眠った。

ためらう私にタクシーの運転手が「他にしましょうか?」と聞いた。私の不安
は白昼でも構わず存在する。私がこの世で1番怖い場所が自分の育った家の中
であるとは人には話せない。自分1人では真っ昼間でさえ私は自分の生まれ育
った家の中にいられないなんて。

いけ好かない、と思ったのは自分が三重県の何処にいるのかも分からないのに
(ここには昔居たことがあった)という気がしたからだ。夜の闇に白く浮かぶ
宿を見た時、過去の記憶にかすかに何やら在った気がした。しかし確信は無い。

建物の中は全く初めての場所であった。矢張り私の思い過ごしなのだろうか?
名古屋から「泊まる所はどこでも構いませんから」と告げてタクシーに乗った。
翌朝早く伊賀に行きたくて、なるべく近場に宿をとりたかったから。

明日はあの人に会えるだろうか?

私の関心はただ1つ。藤原景俊という若者が伊賀に来てくれるかどうか。赤間
神宮で彼の名を彫った塚石に「必ず伊賀で会いたい」と呼びかけた。約束した
でしょ?私達。必ず伊賀の花垣村の桜の下で春に会おうね、って。私、とうと
う行くのよ、あなたに会いに。

赤間神宮の「七盛塚」の塚石に何度も何度も訴えた。必ず、来て欲しい、と。

夜遅いこともあって、この宿に決めた。しかし宿の内装にも部屋の造りにも全
く記憶は無かった。ただ、夜の闇の中で旅館の佇まいを遠目に見た時は(ん?)
と思う物があったし、子供の時、学校の行事で引率されて来た所のような気も
あるが、温泉宿なのに湯に漬かった記憶も全く無い。多分人と入るのが恥ずか
しくて湯には入らなかったのだろう。

旅館がイヤなのは部屋に仲居がうろうろすることだ。どれがご飯茶碗かお湯呑
み茶碗なのか今や見当も付かない私には仲居の存在が余計に有難迷惑だ。食事
なんて私には燃料補給のようなものなのだから静かに1人で食べさせてくれな
いかしら?それより私にとって何より苦痛なのが人前の畳に正座なんだけど。

布団の敷き方も今では自信がないけれど、私は身体を横に出来ればそれだけで
満足出来るタイプだから、自分で寝床くらい延べるので、早く引き取ってくれ
ないかしら?明日の伊賀行きを1人で静かに考えてみたいから。。。<私>っ
て、誰?と。

<わたし>が私である、というより<わたし>は父方の<わたし>と、母方の
<わたし>の2人いるような気がずっとあった。母の支配が強い家庭だったか
ら母の家の意識が私を支配していたが、もう1人の私は父の姓を一生捨てられ
ないだろうとも思っていた。

父の姓をだから嫌っていた。なるべく早く家を出て新しい姓に変わりたかった。
この意味での結婚願望が強かった。私が結婚するとしたら「改姓」の為だった。

父の家の姓を肯定的方向で意識するようになったのは1993年に赤間神宮に
行って不思議な体験をしてからだ。

前々から夫に「赤間神宮に連れて行って欲しい」とは言われていたが、あの頃
の赤間神宮は私にとって距離的に心理的に「遠い所」であった。平家が滅亡し
た場所は私には全く関係無いと思っていたから、夫が「自分にとって大切な場
所だから連れて行ってよ」と私に何度頼んでも、なかなか赤間神宮迄は行く気
になれなかった。

私は日本にいても落ち着かないと思った。日本の男性とは何回結婚しても結局
は結婚と離婚を繰り返す一生を送る予感があった。それで私はアメリカに渡り、
ロン・スミスと結婚した。

新婚間もなく夫が「自分は昔<かに>だった」と告白した。

<かに>が「蟹」であるとはすぐには分からなかった。「厳島神社に連れて行
ってよ」と言うので連れて行ったら夫は舞殿前の水の中に小さな蟹を見付けて
「これが自分の前世の姿なの?」といつまでもしみじみと眺めていた。

こういう理由で夫は赤間神宮にも行きたがった。それで1993年にとうとう
連れて行ったという次第だ。

私のオカルト体験は年齢にすると3才くらいに遡る。そして25才になったば
かりの頃、私は「死に神」の誘いを受けた事があった。しかしこの時の今に残
る感想は「死に神」の姿が西洋画に描かれる<鎌を持った黒装束姿>であった
のがおかしい。私は同じ黒装束姿でも、日本での「死に神」は三途の川を渡す
<船頭姿>だと思っていたからだ。

はっきりとこの世の理解を超える世界が存在するのを認識したのは1980年
代の終わりで、友人が新しいマンションに入居したから、と訪ねて行った夜だ。
彼女の肩越しの夜の闇の中に私は得体の知れない物を見た。それで彼女に訊く
と「イエス」であった。その一言で充分であった。私はそれ以上は話題にもせ
ず訊きもしなかった。

この時迄の私は「気のせい」「思い過ごし」「そんなことは。。。」と無理に
でもそういう世界を否定していた。

彼女の家を訪問してから数日後、竹原に行った。母方先祖の主人が秀吉の四国
侵略に敗れ、妻の実家の竹原に引き取られ亡くなった菩提寺に写真を撮りに行
ったのだが、お墓の周りにしゃれこうべが40から50個写っていた。

母方先祖の主家が滅亡した時には、私の直接の先祖は出奔していて浅野長政の
配下にいたから、落城と共に自決もしなかったし、主人が亡くなった時にも殉
死しなかった。写真の中のしゃれこうべのさまざまな表情を興味本意で見た私
と伯母と従兄が大怪我をした。

1993年の里帰りには比叡山で不思議な体験を2つした。

その年迄に母方一族に連なる一遍上人の足跡を訪ねて日本全国殆どを辿った私
と夫であったが比叡山には仏教の布教に尽くした人々の影像があるとのことで、
あるお堂に入ったところ、最初に一遍上人の肖像画に目が行ったどころか、目
と目が合って「よく来たね」と声を掛けられ、にっこり、いかつい武士階級出
身を隠せぬ、ぎこちない笑顔まで頂いた。

夫は根本中堂まで焼いた信長の話を知っていたので根本中堂の中をビデオで撮
影したがった。私は「聖なる場所なのだから撮影はするものじゃない」と叱っ
たが、確かに夫は撮影していたし、職業が映画関係の夫なのに、アメリカに戻
ってから見ようとしても写っていなかったどころか私のとがめる声も入っては
いなかった。

比叡山参りの翌日訪れた下関では、夫は公衆電話の屋根の飾りが可愛いと喜び、
なかなか個性的な良いアイデアだと面白がった。赤間神宮はこじんまりとした
派手な作りでこれも夫の気に入った。七盛塚も当然覗きに行った。が、それだ
けのことだった。

現在に至る1993年の決定的な出来事はこの後起きた。

お約束の赤間神宮に夫を連れて行って「見終わったのだからさっさと帰りまし
ょ」とバス停でバスを待ったのだがなかなか来なかった。バスが全く来ないの
で<呼ぶより誹れ>とばかりに「早く帰らないと名古屋に着くのが遅くなって
しまうのに」と悪口を言い合っていたがバスは待っても待っても来なかった。

私に名状し難い胸騒ぎが始まった。そしてこれが「後ろ髪を引かれる」という
表現なのだろうかと思うほど、私の後ろ姿を赤間神宮に引っ張られた。胸騒ぎ
がどんどん激しくなって行くので社務所で購入して来たパンフレットを開いて
読んでみた。

驚いた。

七盛塚の2列目に父方先祖の塚石があった。(伊賀の家長!?)蒼白になる私
に夫が「どうしたの?」と質ねた。「行かなきゃ。もう1度赤間神宮に戻らな
きゃ。あったの、ここにウチのおじじさまの塚石も!」

驚きはこれだけでは無かった。

赤間神宮から名古屋に戻るには、小倉から新幹線の「ひかり」を利用するのが
1番早いから、新下関から小倉に1駅新幹線に乗り、検札後、好きな場所に坐
ろうと、夫は車両の1番後ろの座席の進行方向左の窓側に、私は通路を挟んで
右の窓側に移り、私はディパックを下ろそうとして、そして、人の手を背中に
感じた。

温かい大きな手であった。絶対に生ある人の手では距離上も有り得無かった。
夫は快適なように私の反対側で場所を作っていたし昼間の新幹線でもあり、終
点近くでもあったから、その車両には私と夫の他は車両前方に2人位乗ってい
ただけであった。決して生きている人の手では無かった。そして「来てくれて
ありがとう」との言葉も貰った。

このことがあって翌日から川越の服部民俗資料館やら弥富の服部家本家を訪ね
た。両家共に「伊賀の家長」の由緒正しい流れの家であれば、私の家のような
馬の骨の服部姓の者が敷居を跨げる家ではなかったが。

1997年に突然日本に短期里帰りしたのは両親が名古屋を引き払って東京に
引っ越すことに決めた為で、名古屋もこれが最後かと思うと私は感傷的になり、
伊賀に一人で出掛けた。

その日は五月というのに肌寒く、おまけに雨まで降り出して、山坂を登る電車
は暖房もなく、季節外れの余りの寒さに震えていた私なのに、鈴鹿峠を越え、
伊賀に入る直前、私は上半身だけがオーラに包まれるように感じ始め、あたか
も懐かしい人々に囲まれ、伊賀入りを歓迎されているような心地となり、人の
体温の温さを感じた。そしてこの温かさは佐那具駅を過ぎる頃には去り、私は
再び山の冷気に身を縮めた。

伊賀に行くとは決めたけれど、さして何処に行くとは考えてはいなかった。伊
賀の雰囲気を感じたかっただけで、せいぜい伊賀の中を通ってみたかっただけ
であった。

JR伊賀上野駅で乗り換えてバスに乗ってどこかに行きたかったが道に1人で
迷うのは不安でもあれば、伊賀神戸駅にでも行こうと電車に乗ったが、途中上
野市駅に近づくに従って(ここで降りなくては)という強迫観念に捕われた。

伊賀神戸の町は伊賀の田舎の中でも更に外れに在れば、何にも無い所に行くの
も良いか、とも思い、そのまま電車に乗り続けていたかったが、結局、上野市
駅で誰かに腕を引っ張られて下ろされるような気分で、私は慌てて電車からホ
ームに飛び降りた。

駅から右へ右へと誘われるように歩いて行った。

伊賀は土地鑑の無い私には見知らぬ町であり、右に歩いて行ってどうする予定
も無く、道がどこに至るのかも知らなかったが、私はとにかく右に右にと歩い
て行きたかった。現在、あの時を振り返れば、平家が敗れた後のうらぶれて荒
涼たる大山田村の喰代砦に潜在的に帰ろうとしていたのかも知れない。

右に右にと歩いて行く私に、唐突に源氏との戦さに敗れた伊賀の同胞達が予野
の花垣村を目指し、春めいた柔らかい風の中を、足取り重く逃れ落ちて行く姿
が見えた。

<予野の花垣村?>

何という懐かしい地名であろう。私の意識の底に澱のように沈んでいた過去の
一コマが蘇った思いであった。私は誰かにそこで会う約束をしていた。でも、
誰?

次の瞬間思い出したのは私が未だ子供のころ学校の合宿で行った山の中の宿で
知り合った男の子。あの人に関係があるの?あの人と私はお友達でも無かった。
でも、でも。。。宿の近くの畦道を歩いたことがあったっけ。

「ウチは桑名の更に奥の山の中で、丁度こんな所だよ」

畦道を歩きながら饒舌な男の子の話に私は<桑名の奥>と聞いて全く別の場所
を連想していた。<姫路の更に西>を少年の言葉の中に見ていた。姫路の更に
西で誰かが馬に乗っている姿を彼の背後に見ていた。

黒い影でしかないが、確かに男性だった。あの人は誰?精神を集中して黒い影
の人物を見てみる。鎧兜に身を包んだ人。武士?もう1人の人物も見えて来る。
こちらは華やかな武将で大将クラス。この大将の名前は「平行盛」とすぐ分か
った。2人の関係は乳兄弟。。。轡を並べて手綱を取る先は。。。岡山の藤戸。
今から源氏との合戦に赴くシーンだ。でも、あの武士は誰?

たまたま山の中の宿で出会った男の子とは、彼の目の人の心の中を見透かすか
のような鋭い光、更には、少年とはいえ、時々露顕する性格の激しさ・厳しさ
にたじたじとなり、恐れをなした私はそれ以上親しく言葉を交わすことを止め、
以来、20数年を経てしまったが、だんだん彼の家と私の家との関係が見えて
来た。

私の家と彼の家とは東国に居た時代に、つまり、1000年を超す昔に始まる
親しい間柄であった。両家のそもそもの始まりは、平将門が若くして父を亡く
し、遺産を一族達に狙われた地方の小さな事件にあった。加害者の一族の1人
が私の先祖、平貞盛である。平将門は下野の実力者であった藤原秀郷に助力を
願ったが、藤原秀郷は将門にではなく将門の従兄弟である貞盛方に付いた。藤
原秀郷が山の中で出会った男の子の先祖であった。

その後、藤原秀郷の子孫は伊豆の国司となり、更に伊勢に土地を得て移住して
本姓藤原氏・俗姓を「伊勢の藤原氏」つまり伊藤氏と称し、私の先祖は上総国
から伊勢・伊賀に移り、伊賀で本姓平氏・俗姓服部と名乗った。こうして両家
は再び伊勢・伊賀を舞台に絆を改めて深く固くした。

彼の家は私の家つまり平家の良き協力者としてあくまでも信義を貫いた。源義
朝が平清盛の熊野参りの隙を突き、京の都に兵を挙げた時、もし、彼の先祖の
伊勢国古市の藤原景綱が座して清盛を助けずにいたのなら、義朝は丸腰の清盛
を易々と葬ったことであろう。そして「時は今」とばかりに景綱が野心に目覚
め、勝ちに傲る義朝を討ったのなら、日本の歴史も変わりこの私も生まれては
来なかった。

現在、あの時を振り返れば、山の中で出会った男の子の言葉の端々に私の家と
の関係の手掛かりが隠されていたことに気が付く。彼が後に伊賀に転居した時、
私が彼を訪ねて伊賀に行っていたなら、こんなに遠回りせず、両家の深い縁に
二人で驚き、また、深い絆を新たにしたであろうに。

更に、1997年の5月に私が伊賀上野市駅で右に右にと歩いて行った場所は
彼が伊賀に転居した時、彼が住んでいた家が在った場所だったそうだ。あぁ、
あの時、伊賀に行っていたなら。。。

伊賀は不思議な空間で、山また山の中にあるせいか、空気までもが閉じ込めら
れたような閉鎖的な場所だ。人々は身動きも出来ぬ狭い盆地にへばり着くよう
にして額に汗を集めて食を得、新しい血を入れることなく代を重ねてきた。そ
こでは時は止まり、人々は過去の呪縛から解放されることはない。

伊賀の人々を眺めていると、不幸な歴史を今も背負って生きている姿が見えて
来る。ある者は源平時代の平家の敗残者の姿を、ある者は南北朝時代の勝利に
縁の薄かった南朝方忠臣の姿を、またある者は信長の伊賀征伐でむざむざ虐殺
された農民の姿を背負って生きている。

私が子供の頃出会ったあの男の子を思い起こすと、いくつもの時代に彼は登場
し、壮絶な戦いを生き抜く武士の姿として浮かんで来る。いや、正確には彼は
不条理な権力の前に正義と理想を高く掲げて戦う孤高の武士だ。無勢の味方は
刀折れ矢尽き、彼は死屍累々たる戦場に、ただ一人血刀下げて敵に立ち向かう。
彼を支えるのは武士に生まれた男子としての誇りだ。

あの男の子の背負った<武士の姿>に、私は過去何度も出会った気がする。彼
の前に現われる私の姿は常に<少女>として登場する。過去に幾度も苛酷な歴
史の舞台となった伊賀で、あの男の子が背負った姿のあの武士は、一体何度生
まれ変わって将来も戦い続けなければならないのか?そして、私の中のあの少
女は、一体何度生まれ変わって彼の生き様に立ち合い、涙を流さなければなら
ないのか?

私があの山の中の宿で出会った男の子は、伊賀に転居した後、伊賀の社会の未
開性に遭遇し、被差別層の人々に義を感じ、戦い、傷付き、自らの正義も理想
も実現することなく敗れ、そして伊賀から追われ姿を消した。

因習の壁に敗れたとはいえ、あの男の子らしい、強さ優しさ・美しさ気高さを
そのまま体現する生き様であったと私は誇りに思う。あぁ、あの男の子は背負
った姿だけでなく、彼自身が本物の現代の武士であったのだ。

今更涙を流して避けてしまった過去を悔いても遅過ぎるのだが、この胸のせつ
なさは何と表現して良いのだろう?あの武士と少女、そして、あの男の子と私
は「定め」の2人であったのだろうか?

空想が始まると私は止めることが出来なくなる。自分の空想に酔って涙が止ま
らなくなる。危ないな、もうこういうお遊びは止めなくては。私が源平時代に
あの男の子と出会っていたなんて、そんなこと、有り得ないじゃない?あの男
の子の後ろに武士の姿を見たなんて、そんなこと、有り得ないじゃない?あの
男の子と私が出会うべくして出会っていたなんて。。。

身体中の水分が涙となって流れ出して行くかと思うほどであった。

アメリカに戻ってから手当たり次第に日本の歴史を読んでみた。出て来るのは
私の家と彼の家が如何に固い絆で結ばれていたかを証拠立てる物ばかりであっ
た。

10世紀の中頃から血と涙と命を預け合う運命共同体を形成し、それが関ヶ原
の戦いを境に私の家とあの少年の家の交流は唐突に終わる。それは江戸時代の
260余年の永きに亘る徳川幕府の行政措置により、自由な行き来を止められ
たからで、こうして両家の意識から互いの存在が消えた。

私の記憶の中に息を潜める少女。あの男の子の背後に見えた武士。この二人は
誰なの?思い始めるとますます気になり出す。私には全く見当も付かない二人
なのに、考え出すと先に涙が溢れ出す。この涙の原因は?

知らせてくれる人があり、私の捜し求めていた武士の正体が昨年8月判明した。

藤原景俊。藤原忠清の末子。壇の浦の合戦から辛くも脱出し、生涯を執拗に頼
朝暗殺に奔走した忠光・景清兄弟の末弟。赤間神宮の<七盛塚>に実兄忠光・
従兄弟景経と共に塚石現存。藤原忠清の家は清盛の次男基盛の乳母の家ではあ
ったが、基盛が若くして亡くなり、遺児である行盛を後見。忠清の末子景俊は
倶利伽羅峠の戦いの後、清盛の三男宗盛を後見した叔父景家の家にやられ、壇
の浦の合戦以降その行方は不明である、と。

私が山の中で出会った男の子の家の4代に亘る男達を知っている人によると、
「激しい気性の家系だ」そうだ。「抜き身の刀が歩いているような男達だ」そ
うだ。あぁ、そう、その通り。あの男の子もそうだった。

まるで熱田神宮に納められている景清愛用の太刀「あざ丸」のように、恐ろし
いくらいに研ぎ込まれ、妖しく鋭利な輝きを四方に放ち、近寄る者の足をすく
めさせる抜き身の刀が歩いているような人だった。

あの男の子が藤原景俊の生まれ変わりだったの?いや、現代的に表現すれば、
藤原景俊のDNAを有した人だったの?

そして私は今年の休暇は絶対伊賀に会いに行こうと決心した。今年こそ、約束
を果たさなければ。必ず予野の花垣村の桜の下に行かなければ。だからあなた
も必ず来て欲しい。そして涙を流すのはもう今生の涙で終わりにしたい。

会えるよね、私達?

1999年4月5日の夜から6日にかけて、私は一睡もせず来し方をつらつら
考えていた。私の一生。私の過去。私の前世の記憶。これまでの不思議な体験。
それらが私の定めだったの?と。でも、明日、伊賀に行けば分かる。予野の花
垣村の桜の下に立てば答えが出ることだ、と。

明日、明日こそ。。。

眠られぬままに夜を過ごしていると、天井に明かるい光が差し込み、その光は
私を見下ろす位置に移動し、納得するかのように一瞬輝きを増し、そして消え
た。

翌朝、昔の仕事場の友人が宿の玄関に立っていた。昔の私は暗くて仕事がさっ
ぱり出来ない人だった、と評した後輩だ。「どうして此所に泊まっていると分
かったの?」と問う私に「おばさん、伊賀に行きたいって言ってたでしょ?此
所って伊勢と伊賀を結ぶ地なんですよ。知らなかったの?久居の榊原って場所」

伊勢と伊賀を結ぶ?国と国を?人と人を?魂と魂を?過去も、現代に結ぶの?
それで景俊さまが夕辺私に会いに来てくれたの?

やっぱり景俊さまは私に会いに来てくれたんだ。。。

「おばさん、昨日、伊賀に一緒に行きたい人がいるけど行方が分からないから
その人とは行けない、って言ってたでしょ。伊賀の地名って万葉仮名みたいに
読み方が難しいんだよ。それでワタシで良かったら連れて行ってあげるよ。地
理・方向感覚・ドライブテクニック、どれをとっても誰にも負けない自信があ
るから」

それで今日は仕事を休んで車を飛ばして来たよ、という北条君は私の昔の可愛
い後輩だ。私が方向音痴なのを「おばさんを日本で迷子にはさせたくないよ」
と今朝早く名古屋を発ち、私が宿から出て来るのをずっと待っていたと言う。

北条君は私が日本にいた頃からずっとこの調子だ。私が何か言えばその方向で
惜しみなく協力してくれた。北条君ほどとことん私の面倒をみてくれた人はい
なかった。北条君は「敬老精神からです」と腹の立つ言い方をするが、お蔭で
私はアメリカに渡ることさえ出来た。もし彼がいなかったら私は今ごろ日本で
みじめな日々を過ごしていただろう。

北条君は三重県全図と伊賀上野市の地図を見比べながら「全部頭に入ったから、
じゃあ行きましょうか」と車を発進させる。「お願い。宿の周りをちょっと走
って下さらない?」

夕辺は夜の帳がすっかり落ちてから宿に着いたから辺りの様子は全く見えなか
ったが、朝の光の中で見てみると、昔の記憶に存在するのどかな景色はすっか
り消えてはいたが、懐かしいたんぼの畦道が1本だけ短く残っていた。

「私、この道をあの人と歩いたのよ。残ってた、道!」

20数年前、私が宿で出会った男の子とおしゃべりしながら歩いた道!
八百数十年前、伊賀の明子が伊勢の景俊さまに手を引かれて歩いた道!

これから伊賀に行くのに部外者の北条君が同行では景俊さまは怒って出て来て
は下さらないのじゃないかしら?私は少々心配だ。

昔も北条君は私が何を言っても黙って首を縦に1つ振って(おばさんの仰せの
ままに)と同意をしてくれる年下の可愛い男の子だった。彼は仕事場では居る
のか居ないのか分からないような静かな男の子で、口数は少ないが的確な表現
で私の意表を突くと同時に発想が意外で私をよく楽しませてくれた。

私が晴れてアメリカに飛ぶ日は仕事を休んで荷物持ちに成田に同行してくれた。
この事は私も記憶しているが、私を見送ったすぐ後に飛行機で名古屋に戻り、
職場の飲み会に出席したよ、と言う。(え?飛行機恐怖症の北条君がそこまで
私の為にしてくれていたの?)

更に私がアメリカから一時帰国した時も仕事を休んで成田に迎えに来ていたん
だよ、と言う。「残念ながらおばさんには会えなかったけど」。(え?全然知
らなかったわ、ごめんなさいね)

「北条君はぜぇんぜん変わっていないのね」「昔のまま」「ここまで変わらな
い人というのも珍しいわね」だんだん私の言葉が辛辣になり「私はね、同じ北
条姓でも北条仲時さまが好きなの。あの人の最期がたまらなく好きよ。

鎌倉が落ちてしまって滋賀の番場で敵に囲まれて、部下の命を助ける為に、我
が首を差し出すように、と言って死んで逝った人。そこが北条君と仲時さまの
違いなのよね。そうでしょ?北条君は人の命と引き換えに死ねる?死ねないで
しょ?北条君なんて仲時さまに比べたら道に落ちてる石ころよ」

ハンドルを握って前方に目を見据えたまま、北条君は黙って首を縦に1つ振る。

「私がもう1人好きなのは平知盛さま。壇の浦の合戦で源氏に敗れて最早これ
まで、見るべき程のことをば見つ、と言って入水した人よ。私って最期の美し
い男性が好きなの。でも、今日は別の私の恋しい人に会いに行くのだけどね」

北条君は黙って首を縦に1つ振る。

「どうしても今日会いに行かなきゃいけないの。私の昔の恋人が待っているの
よ」。北条君が尋ねる「どのくらいその人に会っていないの?」。私が答える
「815年くらいかしら?」

北条君は黙って首を縦に1つ振る。

はしゃぐ私。私の恋人のことを北条君にのろける。「その人と約束していたの。
私に会いに必ず戻って来るって約束してくれてたのよ。でも人として宗盛さま
を見捨てられず、私との約束を果たせなくて、私達、遂げられぬ思いが残って
しまったの。その人に今日はとうとう会えるのよ。西に、西にと走れば予野の
花垣村に至るわ。迷って奈良の月ヶ瀬村に出たら少し戻れば良いの」

北条君は黙って首を縦に1つ振る。

「でもねぇ、その人と815年振りに会える、っていうのに、北条君の存在、
邪魔だなぁ。それに、恋しい人に会えて喜んでる、おぬけマヌケ顔も見られた
くないし」「おばさんと恋人の再会の邪魔はしませんよ」「北条君は後ろを向
いててくれる?」「後ろ向いててもおばさんと恋人の再会を優しく見守れます
からね」

北条君はいい人だ。私の総てを黙って見守ってくれる。

伊賀のたんぼの畦道は、現在は舗装されているとはいえ、小型車1台がやっと
通れるだけの幅であみだクジのように折れ曲がった農道だ。行ったと思うと突
き当たりに寺だの神社だのが鎮座して行く手を遮る。カーナビの出来ない私だ
が「あっちじゃないの?こっちかしらね?」と口を出す。

小さな橋があった。

塗られていたのは目を奪うような「赤」。現在、あの時を振り返れば、印象的
な赤の出現であった。やっぱり平家関連は「赤」かな!?との「彦島」のN氏
の言葉を思い出す。

山国の遅い春の日々であれば久居から伊賀へと走る車の窓に見る景色はまだま
だ色彩が単調で、伊賀盆地に入ってからはたんぼの中を更にモノクロのイメー
ジで走って来たから、突然、前方に赤い橋を目にして私は心に引っ掛かる物を
感じた。

小さな川に架かる、ささやかではあるが色鮮やかな「赤い橋」をすっ飛ばして
北条君は目的地に急ぐ。

周りの景色は工業地帯に入ったらしく雰囲気が更なる無機質な色彩に変わる。
私の心の中に(こんな感じじゃ無い。こういう所じゃ無かった)と、いぶかし
さがわき起こる。「赤い橋」を後にすればする程私の胸は一杯になり涙ぐむ。
1993年に赤間神宮で「後ろ髪を引かれた」時のような胸騒ぎがした。

涙が止まらない。

「おばさん、気合いを入れて作ってきた顔が壊れちゃうよ。これから恋人に会
うんでしょ?恋しい男に815年ぶりに会うんでしょ?顔を直さなきゃ男が怖
がって逃げて行くよ」

「来てたの!。。。あの人。来てたの。待ってた。あそこに来て、待ってた!
あの人が私のこと、待ってる、って。今、橋を渡った所!予野の花垣村の桜の
木の下でけい子ちゃんを待ってるよ、早く来て、って言ったの!」

北条君としたことが道に迷っていた。

慌てて地図を見ると私達は「橋」を渡ってはいけなかった。やっぱり奈良の月
ヶ瀬村に向かってしまっていた。方向感覚自慢で道に迷ったことの無い北条君
は感覚が狂って狐につままれたような表情だ。(俺が道に迷うなんて?!)と。
私の方が落ち着いている。(戻れば良いのよ)。

あの時も迷ったのだろうか?

景俊さまと私は予野の花垣村の桜の話を大人どもから聞いて2人だけでこっそ
り見に行った。夜になっても未だ未だ着けなくて、とにかく西に西にと歩けば
いい。国境を越えて奈良に入ってしまったら戻ればいいんだから、と。幼い私
は疲れ果て、景俊さまにもたれてウトウトした。道に迷ったのに不思議に不安
な気持ちにはならなかった。それより、もたれた時の景俊さまの身体の温かさ、
頼もしさ。あぁ、私は今でも決して忘れてはいない。

涙でいっぱいになる。

あの人は私を守ってくれていた。必死に守ろうとしてくれていた。ずっと前か
ら。私が生まれた時から。1度の生だけでなく、何度も何度も生まれ変わって、
私達は生まれ変わる度に出会って、そして、あの人は私を守ってくれていた。

北条君は車を名阪国道(国道25号線)に乗せ治田インターチェンジから東へ
車を戻す。(あぁ、なんて道が遠いのだろう!)迷った距離を戻るのって、こ
んなに遠く感じるものなの?北条君も動転しているのか混乱しているようだ。

「ワタシは道に迷ったことは無いんですけどねぇ。。。おばさんみたいに右手
が常に東だと思い込んでる人とは違って、方向感覚の良さが自慢なんですけど
ねぇ。。。」

目印の「赤い橋」にはなかなか到達出来ない。

「あの人が待ってるの。私の恋しい人が待ってるの。小高い所なの。桜が植わ
ってて、その下で景俊さまが待ってるの。私の来るのを」

とうとう北条君が車を止め、ハンドルを握って目を前方に見据えたまま、私に
黙って首を縦に1つ振った。

私は車のドアを開け小走りに山坂を桜めがけて駆け出した。

ACCさんからのコメント(1999年06月21日 19時38分31秒)
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ふう!やっと読み終えました。(汗)
これって続きがありますよね?わくわくしますね。

>はっきりとこの世の理解を超える世界が存在するのを認識したのは1980年
 代の終わりで・・・

私は霊感がまったく無くて、信仰もまったくない野蛮人間ですが、子供の頃幾度
となく病で死にそうになりました。その中で一回だけ三途の川らしきものを見た
のです。たしかに川らしき(境界にたいな)ものの向こうに数人、人が立ってい
ましたね。結局母の呼び声で無事生還しましたが・・・(笑)
やはり有るのですかねぇ、向こう側が・・・

服部 明子さんからのコメント(1999年06月21日 23時22分00秒)
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ACCさん:
韓国のくろかわさん:

お読み頂きまして、ありがとうございます。<m(_ _)m>

ACCさん、三途の川、ですか。
私の体験は「川を電車で走っていた」時です。(^^;
私は友人の「行っちゃ駄目!」って声で助かりました。
「おいで、おいで」って誘われました。
その後も2回くらい同じ場所で同じシチュエーションで「誘われました」。

私の場合の三途の川は愛知県の「矢作川」でした。(^^;;
船は「名鉄電車」でしたね。(^^;;;

私以外の人には「自殺に見えた」でしょうね。
あれ以来「自殺観」が変わりました。
当人は自殺するつもりは無くても、死んでしまえば、周りから自殺した、
と見えるのかな?と。



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