[彦島を熱く語る!!一覧に戻る] お名前:大学生 |
知ってる人教えて下さい |
コメントの種類:質問 お久しぶりです。大学生です。 彦島について調べていて、疑問に思ったことがあったので知ってる人が いたら教えて下さい。 1つめは、、、 昭和8年3月20日、彦島は下関と合併してから水を引いたそう (彦島には水がないと聞きました。)ですが,それまでは一体ど うしていたのか? ということと、もう一つは、、、 海士郷に渡船場(海士郷ー伊崎町)がありますがもう船を出して いないということを聞いたのですが、いつ頃まで運行していたの かはっきりとした年代を知りたいのですが、、、 もしご存じの方がいたら宜しくお願いします。 |
1.
子供のころなんですが、水門から丸食方向を見ると後ろに山がありますが、ここの山のうえには、煉瓦の建物があって
ショッカーの基地として親しんでおりましたが、そういえば大人は水源地と呼んでいた記憶が・・
あと、今の彦島有料のトンネル口あたりではわき水も出ていましたっけね。
井戸なんかもたくさんありまたし、水道がくるまではそういうレベルで水は供給されていたんでは???
2.
なつかしいなぁ。5人ぐらいしか乗れない小さい渡船でしたよね。
でも、いつまで運行していたんだろう??
ちょっと手元の本を数冊調べてみましたけど、確かな答えは載ってないですねぇ・・・。
後者の渡船のことなど本に載ってても良いような気がしたのですが、途中経過は詳細に書いてあるものの、廃止になった時期は「昭和五十□年□月□日」になってました (^^;)。本を書いた人も調べきれなかったみたい (^^;).
ちなみに、水については私の旧家でも完全に井戸でした。井戸が昭和45年くらいまで使用されていました。水道が通じても「お茶は井戸水がおいしい」とか言って祖父母は井戸水でお茶をいれていました。SAGさんが書いておられる有料のトンネルのところもおいしい水が出たそうですね。かなり遠方からも水をくみに来ていたと聴いたことがあります。有料の工事のドタバタでいつの間にか水が出なくなったときいていますが・・・。
「井戸水が枯れる」というのは(前に書きましたか?)地下に棲む龍がいない
ということで「良くない」と中国の人は言います。
母の伯母の家も素封家だった時は井戸水が良く出たそうですが出なくなったのと
家が傾いたのは同時期だったそうです。
私の実家も同じ運命でした。
彦島は水に恵まれていたので平家がここに動座したというのが納得出来ました。
>彦島は水に恵まれていたので平家がここに動座したというのが納得出来ました。
そうそう、思い出した。この彦島有料道路のわき水って「平家の・・・」なんだっけな? 平家のわき水だったか、なんだったかそういう俗称で呼ばれていたそうです。それを根拠に知盛の城はここにあったという人もいますが、わたし的には、九州方面も福良の港も見えにくいのでこの説はないだろうなぁ、と思ってます。
最寄りの写真のページはないんですが、地図で言うと
http://www2.tip.ne.jp/~nakani00/old_map.htm
のちょうど島の真ん中あたりの「長崎」と書いてあるあたりになりますかねぇ・・。
話がそれてすいません>大学生さん
地図、拝見しました。
島の真ん中で?!
こういうことがトポグラフィー(地形学?)上どういう意味を持つのでしょうか?
大学生さんは確か専攻が環境設計学科でしたね。
わたくしの質問はどういうことになりますでしょうか?
色々なお答え有り難うございます。それから、返事が遅くなってしまってごめんなさい。
やっぱり彦島には水(井戸水)がでてたんですねえ。井戸水って、何年かしたら枯れちゃうものなんですか?各家庭に水がひかれた現在では井戸水を利用する人はきっと少ないですよね。
なかにしさんの書かれていた文章に「かつては山が有り、小川があり,田んぼが有り、、、」とあったんですけど、この「小川」って言うのは現在の本村や老の辺りにもあったんでしょうか?
服部さんの質問に関しては残念ですけど専門外のことでわからないです。といっても私の専門の知識なんて微々たるものなんですけど(苦笑)。
川については、下関市教育委員会の方の講演を記録したこちらに書いておりますが
http://www2.tip.ne.jp/~nakani00/special_2/spe2_2.htm
老には今でもあるようですねぇ。
私の手元にある川が記録されている地図で一番古い物は1923年の物ですが、本村には川は見えないですねぇ。
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