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投稿番号:34906 投稿日:1999年05月29日 10時17分26秒
お名前:服部 明子
 

平家物語の雑談 17


コメントの種類:歴史


最近「教経どの」が酒乱になった経緯を考えてみました。
飲まずにはいられなかった背景を。
アル中の身体でよく義経を追い回した、と思います。
もし、アル中でなくて、義経を捕らえていたなら、などと
私らしくもない夢を描いてしまいました。


なかにしさんからのコメント(1999年05月30日 23時58分13秒)
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 教経って、アル中なんですか?? (^^;)

 お酒を飲んでいられるところが平家方の砂上の楼閣みたいな余裕だったんでしょうか?? ま、私のまわりにもお酒を飲まないと活性化しない人も大勢いますから、合戦に出るための「単なる」燃料みたいな物だったのかも・・・。

服部 明子さんからのコメント(1999年06月06日 06時58分32秒)
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http://www.city.yokohama.jp/me/asahi/furusato/rekishi/hyoushi.html

源氏方で好きな人物である畠山重忠の最期の地が分かりました。

服部 明子さんからのコメント(1999年06月13日 02時39分42秒)
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鎌倉で6月10日より頼朝没後800年記念展が開かれているようで。

義仲や景清の太刀も展示されているそうです。
景清の太刀は凄い抜き身だそうです。
太刀が「あさ丸」と呼ばれたのは景清の顔にアザがあったからのようです。

京わらべが景清を恐れた話は読んだことがありましたが、余計スサマジイ
形相だったのかしら?

因みに景清の太刀は熱田神宮蔵だそうです。

服部 明子さんからのコメント(1999年06月13日 03時06分25秒)
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No.37 (1999/06/11 23:48) title:政子の手箱

9日に鶴岡八幡宮で公開されたと新聞で読みました。

ヒノキ正目材に金粉を蒔き、薄く削った夜光貝約1500枚をはめ込んだもので
復元費用は約1億円。

手箱は後白河法皇が頼朝上洛の際に贈ったと伝えられる「沃懸地(いかけじ)
まがきらでん蒔絵手箱」←漢字が無い (^^; だそうです。

鶴岡八幡宮の「御神宝」として保管されていたが1873年のウィーン万博に
出品された後、翌年、帰国船が沈没して失われた。

頼朝没後800年記念特別事業として同八幡宮が復元を計画。
明治初期頃の摸写図などを基に、奈良の漆工芸の人間国宝、北村昭斎さん(62)が
約3年かけて完成させたそうです。

服部 明子さんからのコメント(1999年06月19日 12時38分12秒)
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三重県三多気の「日神の石仏群」(←ひかわと読みます)

日神仲善寺の西方墓地に、俗に平家六代君(平維盛の子)の墓と言われている
高さ1メートルの五輪塔2基があるそうです。

この五輪塔を含めた多くの石仏群が「日神の石仏群」で、
鎌倉時代から室町初期の弥陀立像、薬師立像、親子地蔵などの優れた作品が
苔むしているそうです。

服部 明子さんからのコメント(1999年06月22日 10時29分02秒)
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頼朝の切手が発売予定と聞きました。
本当ですか?

なかにしさんからのコメント(1999年06月22日 18時27分42秒)
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 頼朝の切手については郵政省のページ
http://www.postal.mpt.go.jp/kittecolle/index.htm
で探したんですけど見あたらないですねぇ・・・。

ところで・・・

 今日は副業が忙しくて、あれやこれや指示を出しながら、テンヤワンヤだったんですが・・・このときふと思いました。

 たとえば、私が間接的・直接的に、何千人、何万人の人間指揮して忙しく仕事しているときに、母親の違う弟が、手伝いの人間も連れるどころか、どこの輩ともわからないような子分を数人連れて「お兄さん、会いたかったです」なんて言って仕事場にやってきたら・・・そうとう迷惑やなぁ・・・(^^;)

服部 明子さんからのコメント(1999年06月22日 22時49分22秒)
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「頼朝」さんの切手は「もう手に入れた」という人もいました。
切手をいつも購入している日本の友人にも尋ねてみます。

昨日考えたのですが日本では「人物」を切手にするのは戦後は
難しいでしょうね。

「連れて来た連中」が一癖も二癖もある人間だったら(何しに来た
んだ。迷惑だなぁ)との本心はあるでしょうね。特にべったり負担
になりそうな人物が来たら私は嫌ですね。でも、そういう時でも
来てくれて嬉しい人の場合もあります。「来て!来て!」と言われる
タイプでありたいと思います。

服部 明子さんからのコメント(1999年06月23日 11時53分55秒)
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以下は6月10日から始まった鎌倉の鶴岡八幡宮の「頼朝公没後800年記念展」
に対する書き込みのコピーです。

話題は入場料が300円なのに安いという私の書き込みと
「頼朝像」は本人なのか別人なのかという書き込みです。

No.58 (1999/06/23 11:47) title:千葉どのへ + とらさんへ
Name:服部 明子 (207.168.132.168)

>仮説では「伝源頼朝像」は足利直義、「伝平重盛像」は足利尊氏、
「伝藤原光能」は足利義詮

@これ、どこかで読んだことがあって思い出せなかったのです。
流石に千葉さん。ありがとうございました。<m(_ _)m>

とらさん:

アメリカで日本の貴重な歴史を紹介する物が渡って来た時、 付き添いの
国立博物館の学芸員?がテレビで「なるべく沢山の人に来て欲しくない」と
言ってました。
つまり、沢山の人が来れば、それだけ「傷みがひどくなるから」だそうでした。

「なんでも鑑定団」のテレビ番組で、多田源氏の800年前の系図を持参した人に
「見せて欲しいと言われても見せないように。光を当てればそれだけ傷みが進行す
るから」と話していました。

だから今回の「頼朝展」で貴重な宝を一度に公開したということは鶴岡八幡宮に
すれば頼朝公没後「800周年」ということで大盤振舞いをしたのだなと
私は解釈しましたね。良心的な神社と思います。

服部 明子さんからのコメント(1999年06月23日 11時59分49秒)
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以下は「頼朝像」の話題です。

No.45 (1999/06/20 00:55) title:画家は藤原隆信でしたっけ?

描いた人も凄いって思います。

それまでの絵が引き目鈎鼻の単純な絵で個性が無かった日本の絵に
人物の内面も描いた、ということで隆信って凄い画家だったと思います。

鶴岡八幡宮の凄い所は300円でしたっけ?
低料金で日本の宝の品々を惜し気も無く公開して「みなさんに見て欲しい」
との姿勢。

目から鱗の頼朝展でした。

服部 明子さんからのコメント(1999年06月23日 13時27分20秒)
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http://www.pref.gifu.jp/kasimo/event.htm

ここに「なめくじ」と<袈裟御前+遠藤盛遠>の伝説が書かれています。
これのレスを転載致します。


映画「地獄門」をアメリカで数回見ました。

「なめくじ祭り」では袈裟御前がなめくじになって文覚上人に
<慕い寄る>伝説ですか?

映画の中では京の「門」の所で袈裟と遠藤盛遠が出会って口をきくのが始まり
でした。なかなか面白い映画でしたよ。

私は、袈裟も遠藤盛遠に好意を抱いていたのでは?と思います。
本当に大嫌いだったら夫に盛遠を何とかしてくれと夫に殺させるのでは?
と思うのです。

夫と盛遠の間で。。。苦しむ程の心の揺れがあったのでは?と思います。
私は結婚するのは渡辺渡?みたいな人ですが心を燃やすのは遠藤盛遠的な
人です。だから袈裟御前の気持ちって「貞女」とされるのは大分違うのでは?
と思いました。

服部 明子さんからのコメント(1999年06月26日 03時33分37秒)
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今年4月に赤間神宮にて買い求めて来ました「赤間神宮叢書 10」
井沢元彦「逆説源平合戦」読み易くていいです。

服部 明子さんからのコメント(1999年06月26日 13時31分53秒)
           パスワード

http://uma.neko.to/cgi/voting.cgi?

「かむろ倶楽部源平人物人気投票」です。

是非、皆さんのご参加を!
わたくしは「平 知盛さま」が上位に食い込んで喜んでおります。

どうやら複数投票オーケーのようですので、あなたのお好きな人物にこぞって
クリックを!

服部 明子さんからのコメント(1999年06月29日 13時28分09秒)
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http://gunyu.toride.com/~kazuto/bbs.cgi

上記HPの No.73 + 74 に「分骨」に対する「解答」を頂きました。
矢張り、なかにしさんご指摘のように当時は「分骨はしなかった」
ようです。

比叡山が平家を裏切ったから高野山に持って行ったのか?との
新たな疑問が出て来ました。

ここは「最澄」vs「空海」ということで。。。(^^;

服部 明子さんからのコメント(1999年06月29日 22時26分30秒)
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「分骨」の私の質問を下にコピーしました。

西暦1999年06月28日 22:18:56
by 服部 明子

高野山の質問です。
不勉強な書き込みで申し訳ございませんが。。。

平家が都落ちした時、平貞能があぶれ武士掃討に出ていて平家の一行に出合い、
都に戻って忠盛 + 清盛 + 重盛のお墓から骨を取り出して焼いて、高野山に
持って行き、宇都宮氏を頼って落ちて行った、と読んだような記憶がございます。

わたくしの疑問は、当時も「分骨」をしたのかどうか?、ということでございまして
私は「した」と思っておりますが、いかがでございましょう?

平家が西海に下だるのに、当然、分骨して持って行ったのではないか、と思うのです。

下野に平家落人伝説があって、平「さだつぐ」という武士が西海にも落ちて行った
けれど、平家滅亡後、宇都宮家を頼ったけれど、「貞能」の時とは違って受け入れ
られず、下野の山の中に落人伝説が残った、と読んだ事がございます。
この人がお骨を持って行ったのではないか?

山口県下関市の「彦島」に「清盛塚」というのがありますから。

以上2つのことから当時も分骨したのではないかと考えますが、もし機会が
ございましたら、お知らせ下さいませ。

PS:「彦島」HPに「清盛塚」のサイトがございます。

服部 明子さんからのコメント(1999年06月29日 22時37分15秒)
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00076 高野山の件 その2

西暦1999年06月29日 13:57:38
by 服部 明子

何故「貞能は高野山に遺骨を持って行った」と書かれたのか?ということで
ございますが。

事実納骨したのでございましょうか?それとも「平家物語」は小説でございますから、
この部分は「比叡山」に対抗して書かれたのでございましょうか?
「高野山」なら「平家」に対して冒涜はしなかったでしょうから。
更に「比叡山=最澄」 vs「高野山=空海」。

書き手の平家に対する同情と比叡山に対する嫌悪から?

高野山は武将のお墓が沢山あると聞いていましたからこんな事を連想致しました。

服部 明子さんからのコメント(1999年06月29日 22時51分22秒)
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高野山と比叡山の関係は、この時代においては真言宗の代表は高野山ではなく
東寺であった、との御指導を頂きました。

服部 明子さんからのコメント(1999年07月03日 14時03分12秒)
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No.66 (1999/07/03 13:59) title:千葉さんへ
Name:服部 明子

源氏16流のうち、「源氏」=「清和天皇流」だったのがイメージ壊れますね。

でも、「星野博士は石清水八幡宮の文書をもとに源経基は陽成天皇の皇子の
元平親王の子だ」と。。。


源頼朝が経基の子孫であるなら清和源氏でなく「陽成源氏」ということになる
との御指摘に以上のようなレスを付けました。

服部 明子さんからのコメント(1999年07月03日 22時41分32秒)
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No.69 (1999/07/03 22:26) title:千葉さん
Name:服部 明子

「清和天皇の子孫ということで」という乱暴な書き方をしましたから
千葉さんには (^^; されるかと思いましたが、ありがとうございました。

源氏が「清和天皇の子孫」を称するようになったのは、陽成天皇が乱暴
だったからでしょうか?乳兄弟の「源益」←みなもとのまさる?を格殺
したから?

手で打ち殺した、とは武士の源氏にすれば決して恥ではないと思いますが
当時は大変な恥だったのでしょうね。

私は「清和天皇の孫・元平親王よりXX代子孫の源氏」と書けば筋が通る、
と思いますが苦しいでしょうか?

陽成天皇の歌「筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる」
は百人一首にも採用されているそうで、なかなか文武の天皇だったと思います。

服部 明子さんからのコメント(1999年07月04日 06時28分22秒)
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今年の里帰りで集めて来た資料の1つにJR発行「栃木」の観光案内があり、
この中に「栗山村」が平家の落人伝説の場所だと記されていました。
「彦島」の平家落人伝説のサイトにも出ていますから参照して下さい。

平家が壇の浦で敗れて後、平「さだつぐ」という武者が宇都宮氏を頼って
落ちて行き、断わられて山の中に身を隠し落人伝説を残した、と昔読んだ
ことがありますから、多分その人のことだと思いますが「サイト」の方は
別人の名前で出ていたと思います。

私の想像ではサダツグという人は「平貞能」の弟か息子と思います。
上記書き込みのように「分骨」を持って落ちて行った人ではないかと。

「栗山村」ご紹介をコピーしてみます:
栗山村観光商工課 (Tel)0288-97-1136

栗山村は湯西川・川俣・奥鬼怒などの湯量豊富な温泉を始め、四季折々に変化
する山々、清流あふれる渓谷などの自然環境に恵まれ、中でも紅葉で有名な
「瀬戸合峡」の景観は一見の価値があります。

また、ここは約800年もの昔、壇の浦の戦いで源氏に追われた平家一門が
落ち延びたと言われる平家落人の里。平家伝説を今に語り継ぐ「平家の里」
はいつも多くの観光客で賑わっています。

「緑濃い山々に抱かれ、手付かずの自然に囲まれたこのエリアは平家の落人
伝説が残る幻想的な地です」とも書かれています。


「平家の里」
昭和60年に平家落人伝説で知られる湯西川に開村。
(Tel)0288-98-0432
平家の落人たちの生活を再現した「平家の里」には茅葺き屋根の家が9棟
復元してあり、それぞれテーマに分かれている。


「平家大祭」
湯殿山神社から「平家の里」まで約1キロを平家の面々に扮した武者が
総勢200名、行列を作って練り歩きます。
今年は6月5日(土)〜7日(日)
場所は栗山村湯殿山神社

問い合わせ先:
栗山村観光協会
(tel) 0288-97-1126


「九十九姫物語」も6月7日にあったようですが何のことか分かりません。


平家の落人がひっそり暮らした湯西川では鳴き声を出す鶏は飼わない、のぼり
は立てないなどの習慣が今でも残っているそうです。


アクセス:

東京駅より宇都宮に出、ここから日光方向に乗って。。。と書いたものの
私の案内では必ず迷子になりますねぇ。。。(^^;;;

東部浅草駅から直通急行・快速が出ているので便利のようです。
野岩鉄道会津鬼怒川線で湯西川温泉駅に行ってはいかがでしょう?
東部鉄道鬼怒川温泉駅下車、バスで湯西川にも行けるそうです。
書きながら私は既に迷子状態であります。。。(^^;;;

服部 明子さんからのコメント(1999年07月04日 12時16分42秒)
 

本人によりコメントは削除されました。 1999年07月04日 12時18分53秒

服部 明子さんからのコメント(1999年07月04日 12時21分12秒)
           パスワード

ACCさんのご協力で「東武浅草駅」から行けることが判明しました。

ACCさん、ありがとうございました!
<m(_ _)m>

漢字を間違えてしまいました。「東武」でしたね。すみません!

服部 明子さんからのコメント(1999年07月05日 11時58分47秒)
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以下に「全国平家落人伝説の地」紹介サイトがあります。

http://www2.tip.ne.jp/~nakani00/heike/heike07.htm

服部 明子さんからのコメント(1999年07月06日 13時14分21秒)
           パスワード

平家落人伝説の上記サイトより引用させて頂きます。

以下の3箇所は非常に近接していまして、野岩鉄道線上にあります。
<桧枝岐>は下野から会津に入ったすぐの所です。
いかにも「尾瀬」の所ですね。

なかにしさん:
休暇の行き先に困りましたら下記3箇所マトメテ訪問なんて如何でしょう?
尾瀬付きで。


檜枝岐(ひのえまた)
所在地/福島県南会津郡檜枝岐村。
交通/会津鉄道会津高原駅より、檜枝岐までバス1時間30分。
南会津の最南端、尾瀬沼の入口にある山村。
村人は平・藤原氏の後裔と伝え、星・橘姓が大半を占める。
古文書類は度々の大火で失われ、わずかに揚羽蝶紋の墓碑や重箱が残る。


川俣(かわまた)
所在地/栃木県塩谷郡栗山村川俣。
交通/東武鉄道鬼怒川温泉駅より、川俣温泉までバス2時間。
鬼怒川上流に位置し、平藤房(ふじふさ)を将とする人々の落人の里と伝える。
平家の将の墓と伝える大将塚、平家杉など所縁の遺跡が多い。
なお、川俣温泉は藤房子孫・平藤四郎の発見と伝える。


湯西川
所在地/栃木県塩谷郡栗山村湯西川
交通/東武鉄道鬼怒川温泉駅より、湯西川温泉までバス1時間15分。
平忠実(ただざね)が落ちのびたとされる、湯西川沿いの温泉地。
忠実が埋めたと伝わる藤づるの鞍が出土した。
平家落人民俗館、平家の里、平家祭など、見どころも数多い。

服部 明子さんからのコメント(1999年07月09日 00時24分54秒)
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http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/inu.htm

「三浦と千葉」の争いが面白く書かれていました。
是非ご1読を!

服部 明子さんからのコメント(1999年07月16日 23時31分30秒)
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以下は「伊東祐親と北条政子の共通点」ということで書いたもののコピーです。

「平家物語館」の「頼朝さんの部屋」の
>頼朝は宿敵伊東祐親の血をひく女性を妻にしたってことになりますね。
に対しての書き込みです。


それどころか「頼朝さん」って初めての女性として登場するのが
伊東祐親の娘である八重姫でしたよね。>犀川さま。
ここから浮かんで来る「頼朝さんの好みの女性像」って伊東系なのかな?
と、想像が暴走して行きます。

次に、私は伊東祐親って個人的に好きな男性で、直情径行と表現すると
悪いでしょうが男性としての汗臭さとか頑固さを一杯持った<男>
だった、と思うのです。個人的にはこんな人が父親とか夫とか兄弟にいたら
大変迷惑ですが<男>のサンプルとして傍で見てる分には非常に面白い
生き方を貫いた人物だったと思います。

まず、伊東祐親が京から戻ったら娘が何時の間にやら子供を生んでいた。
これには驚いたでしょうね。母親は何をやってたんだ!と怒ったでしょう。
聞けば将来ゼロの男が相手だなんて。あんな男、ぶっ殺してやるぅ、と
叫んだことでしょう。で、子供を殺してしまい、娘は嫁にやってしまう。
今では見られなくなった問答無用の家父長型オヤジの姿がありますね。

それから「曽我兄弟事件」の原因となった土地争い。これはどっちがどっち
ということは分かりませんが、工藤祐経は外見オトナシクテ口が立って
それに比べたら自分はボクトツでうまく弁明出来なくて。。。悔しい。。。
という歯ぎしりが聞こえて来そうです。

で、工藤祐経の妻を奪った、って?ここのお話も犀川さまから聞けそうで
ございますね。この土地争いから工藤祐親に襲われ息子を殺され「曽我兄弟
事件」へ。この工藤祐経が曽我兄弟に殺されて工藤祐経を可愛がっていた
頼朝に許された、というのも不思議の1つであります。

治承4年頼朝を石橋山に敗走させた。
富士川の戦いに参戦途中捕まり娘婿の三浦義澄に預けられ助命にも
拘わらずイサギヨシとせず自害。

なんだかバタバタした一生で怒鳴り声もしっかり今現在でも聞こえて
来るような存在感のあるオヤジです。

この人に比べたら北条時政という人は何を考えているのやら姿が今1つ分かり兼ねます。
そこが伊東祐親が3流の人物である所以なのでしょうが。

さて、八重姫。結婚したもののおとなしく納まっているのではなく頼朝の元へ。

で、ここで「政子さん」の登場。
父親としては北条時政の行動も伊東祐親と変わりなかった。
政子は山木兼隆に嫁ぐことになったものの。。。
一途な愛を貫いた、っていうところが八重姫との違いです。
父親を夫の味方に引き込んだ政子の力は何だったのか興味深い物があります。
亀の前の存在を絶対許さず「うわなり打ち」までして腹いせを晴らした女性。
無能な男は息子といえども子離れ出来た女性。

伊東祐親と北条政子の共通点は「性情の激しさ」と私は思うのです。

服部 明子さんからのコメント(1999年07月16日 23時43分40秒)
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上記の書き込みのやり取りは以下の私の質問に「政子の母は伊東祐親の娘だった」
という回答の発展したものです。

No.97 (1999/07/15 00:29) title:政子と義時の母は同じ?

旧暦7月14日は大姫の命日ですね。新暦8月28日。
義時が死の前年に大姫の寺をやっと建てて「ほっとした」と言ってるそうですね。
気になってたけどごたごたしてたし。。。承久の変もあったし。。。
なかなか、大姫の寺にまでは。。。と。

大姫最期の時には義時は伊豆から駆け付けたとか?
「大姫」という女性は鎌倉でどういう存在の女性だったのでしょう?

ところで義時の母は「伊東」の娘だそうで。
政子と義時は同母だったような記憶があるんですが。
政子が伊東の血を引いてるなら「伊東祐親」と性格が似てると納得出来ますし、
義時は時政の性格に似ていると思いますが。

服部 明子さんからのコメント(1999年07月17日 01時56分08秒)
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以下は犀川武廣さまからのレスを許可を頂きまして転載致しました。

No.104 (1999/07/17 01:02) title:始めに謝っちゃいます
Email:saikawa@pc4.so-net.ne.jp

かなり前のことですが、伊東祐親は工藤祐経の妻を奪った助平親父。と言ったところ、
服部様から「工藤祐経の妻は祐親の娘」との指摘を受けました。
結果は、その通りです。 ごめんなさい。

以来、家系図には係わらないことにしています。
辿って行くと、必ずどこかで接点が出てきます。
何のことはない、同族で争っているわけです。
私の結論は「勝手にやってろ!」でした。

「頼朝さん」って初めての女性として登場するのが伊東祐親の娘である八重姫でしたよね。
>犀川さま。

公式にはそうです。
が、女性の影はかなりあったようです。
それはそうでしょう。 血気盛んな若者が「一人」は無理な話です。
それを止めさせる意味で、八重姫をという話もあるくらいですから。

どうも、それから察するに伊東系云々は、確かに暴走かも知れませんね。

服部様のいう曾我兄弟の件も、きちんと整理すれば、北条時政を頂点とした
「頼朝暗殺計画」であったことが見えてきます。
ここでは書きませんが、疑問は現地を歩き、聞き、見ることで案外解けます。
富士の巻き狩も、それを実証するための頼朝の作戦だったのです。

伊東祐親と北条政子の共通点は「性情の激しさ」と言い切りましたね。
まあ、賛成出来ないこともありませんが、決定的違いは知能指数の高低です。
先見性の違いです。
どちらかのファンなら「違う」と反論するでしょうが、頼朝ファンの私は様子見。

大姫の件ですが、私もヨリさんと同じところを注目しました。
小学校2年の少女が、大学2年になる歳まで、人を恨み続けるほど、
大姫はしつこい人だったのか、ということです。

これは後世に作られた話ではないかと思ったのです。
「吾妻鏡」に頼朝、大姫二人の死が抜けていることは、二人とも毒殺された公算が大きい、
と言ったら何となくツジツマが合いませんか?



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