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投稿番号:34905 投稿日:1999年05月29日 09時00分22秒
お名前:服部 明子
 

平家物語の雑談 16


コメントの種類:歴史


平 知盛さまの部屋に書き込んだもののコピーです。
かなりドタバタ調で恐縮しております。


服部 明子さんからのコメント(1999年05月29日 09時05分57秒)
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「知盛さんの部屋」第1号記念ということでかなりハイパーなわたくしの姿が以下であります:

No.1 (1999/05/27 11:46) title:妻にして欲しい人 No. 1
Name:服部 明子 (207.168.132.168)
Email:akikohsmith@mindspring.com

わたくしは基本的に「平 知盛さま命」でございますから嬉しいです。
あろはさん、ありがとう!

服部 明子さんからのコメント(1999年05月29日 09時08分41秒)
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No.4 (1999/05/27 22:48) title:知盛さまって病弱だったのでしょうか?
Name:服部 明子 (209.86.196.190)
Email:akikohsmith@mindspring.com

吉川英治の「新平家」を読んでから知盛さまに対するイメージが変わってしまいました。
病弱だったのでしょうか?

だとすると壇の浦での玉砕や入水が意味を変えてしまうので私としては落差に対応出来ていません。

服部 明子さんからのコメント(1999年05月29日 09時11分31秒)
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No.7 (1999/05/28 11:58) title:武士としての知盛さま
Name:服部 明子 (207.168.132.168)
Email:akikohsmith@mindspring.com

知盛さまは義経との連合も(義仲との連合も)考えない合理的な考えの人と思います。

本来の敵とお互い立場が悪くなったからといって妥協して結ぶという節度の無い人
ではなかったと思います。

そういう弱さは無かった人と思います。
こういう人は味方を裏切ったり売ったりすることも無いと思います。

結局は政治性には欠けると思います。
武士だったと思います。

わたくしは「知盛さま命」なので武士としての知盛さま像を想い描いてしまいます。

服部 明子さんからのコメント(1999年05月29日 09時14分38秒)
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No.10 (1999/05/28 13:10) title:範頼には勝っていたでしょう。
Name:服部 明子 (207.168.132.168)
Email:akikohsmith@mindspring.com

へいたんせん(漢字が無い)が伸び切っていたので範頼はこれだけで負けていた
ということだと思います。

範頼が守っていたにも係わらず、かなりの平家の人々は九州に逃れたのでしょうか?
落人伝説が多いから。
私は九州在の平家方の人々が隠れた、と思っていたのですが。

服部 明子さんからのコメント(1999年05月29日 09時19分27秒)
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No.11 (1999/05/28 13:26) title:日本人の好きな血液型で。。。
Name:服部 明子 (207.168.132.168)
Email:akikohsmith@mindspring.com

瀬戸内海を西の彦島と東の屋島で押さえるというのは、私には「清盛」の遺言だったのでは
と思います。
宗盛がさっさと屋島を捨てたのは彦島で九州を押さえれば勝ち目が未だある、と読んでいた
のではないか?と。

彦島に藤原忠清の執事が富士川の戦いで京都を通り越して彦島に走ったと中西さんのHPに
ありますが、何故かを考えると上記の結論に達するのです。

清盛は心配しつつ亡くなっているので策を教えて亡くなったのでは?と思うのです。
まさか清盛も義経の人の意表を突く才能には気がつかなかったのでは?と思います。

短絡ですが「義経」の血液型はBで「清盛」はO、「知盛さま」のはAなんていかがでしょう?

服部 明子さんからのコメント(1999年05月29日 09時21分27秒)
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No.14 (1999/05/28 17:47) title:ノムさんへ
Name:服部 明子 (207.168.132.168)
Email:akikohsmith@mindspring.com

ふぅ〜ん、成る程。

知盛さまの作戦の1部は成功していたのですね。対範頼戦は。
誤算は義経が四国勢を引き連れてやって来た、という事でしょうか?

服部 明子さんからのコメント(1999年05月29日 09時24分19秒)
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No.20 (1999/05/28 23:19) title:政子どのの血液型はBでしょう。
Name:服部 明子 (209.86.202.71)
Email:akikohsmith@mindspring.com

政子どのはOかBって感じですね。でも、Bと思います。
ウチの職場でBの女性2人が大喧嘩した時、凄かったですよ。
徹底的にやり合ったのですから。
Oでしたら、もっとさっぱりしています。

政子の血液型はBですな。

服部 明子さんからのコメント(1999年05月29日 09時26分14秒)
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No.21 (1999/05/28 23:21) title:ノムさんへ
Name:服部 明子 (209.86.202.71)
Email:akikohsmith@mindspring.com

範頼は九州で手も足も出ない最悪の状況に落ちていたと思います。

それで泣き言を鎌倉に送ったのだと思います。

服部 明子さんからのコメント(1999年05月29日 09時30分14秒)
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頼朝には血液型がAっぽいところがあるので、これは母ちゃんの影響か?という
指摘に対し。。。だんだんドタバタして来ました。(^^;


No.22 (1999/05/28 23:29) title:ヨリさん、父ちゃんはBということで。。。
Name:服部 明子 (209.86.202.71)
Email:akikohsmith@mindspring.com

義朝さんはOかBでしょうね。

あの人っておっちょこっちょいって思いません?
執念深さとか慎重性に欠けるから、Aでは無いような感じです。

OかBか、と迫られたらBでしょうね。

服部 明子さんからのコメント(1999年05月29日 09時32分43秒)
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No.23 (1999/05/28 23:35) title:頼朝の母ちゃんはAということで
Name:服部 明子 (209.86.202.71)
Email:akikohsmith@mindspring.com

頼朝はABかAじゃないでしょうか?
私は、父ちゃんがBと思うんで、母ちゃんはAではないか、と。。。

ヨリさんや〜、頼朝と義経は母ちゃんが違う、よ〜!

服部 明子さんからのコメント(1999年05月29日 09時36分12秒)
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No.24 (1999/05/28 23:47)
Name:服部 明子 (209.86.202.71)
Email:akikohsmith@mindspring.com

教経もいいですね。

吉川英治の「新平家」では酒のみの酒乱と書かれていますが豪放磊落な人物だった
と思います。

ひょっとすると「義経の8艘飛び」に追い付けなかったのは、2日酔い、のせい
ではなかったかな?と思うのであります。

頭ガンガンで、1艘飛び越える度に足元フラリで、さしもの教経と言えど流石に
不覚を取り、義経を取り逃がしてしまい後悔しきり、なんていかがでしょう?

で、義経天狗の生徒なる伝説が出来た、なんて。
いくらチビとはいえ、30才では身体が重くなっていたのでは?鎧も着ていたで
しょうから。身軽なんて若い頃はこのワタクシだって結構身軽でしたよ。

服部 明子さんからのコメント(1999年05月29日 09時46分58秒)
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No.25 (1999/05/29 00:06) title:義経の母ちゃんはBだったと思う
Name:服部 明子 (209.86.202.71)
Email:akikohsmith@mindspring.com

世間に白痴美という言葉があるので義経の母ちゃんは白痴美だったのではないか?と。
それか、条件の良い男にすりすり寄って行く、B型女の特性を持っていた賢い女か?。

Aでは無い、と思うのは清盛に迫られた時、Aだったら自害を選んで子の命を乞うた
と思うのであります。

Oでは無い、と思うのはワタクシがOですから。
Oだったら清盛をベッドの中で暗殺したと思うのですがねぇ。夫を殺した男に身体を
許すことにまでなっては、一矢報いずには女がすたる、とOなら思ったことでしょう。
失敗すれば殺されるのは覚悟の上ですよ。
それに清盛に捨てられて、またまた結婚するという神経はO型の女性には取れない
生き方と思うのですがねぇ。

ABとしたら、常盤のぐずぐずしたところ、からです。

でもBでしょう。Bだから結構積極的に身の栄達を計って、義朝に結婚し、更に清盛
にも身を任せ、更にお公家さんに、あんまりお金には恵まれない人だったようですが、
嫁いだのでしょう。

結構常盤ってしたたかな女だったような気がします。
だから、義経の性格って義朝より常盤の血ではないかと思います。

服部 明子さんからのコメント(1999年05月29日 09時48分55秒)
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移動させるのに約1時間かかってしまいました。
あ〜、疲れた。

なかにしさんからのコメント(1999年05月29日 10時44分49秒)
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 おつかれさまでした〜

ACCさんからのコメント(1999年05月29日 22時56分51秒)
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お茶でも飲んで休んでください(^^)

服部 明子さんからのコメント(1999年05月30日 11時52分52秒)
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No.37 (1999/05/30 11:48) title:平家落人伝説
Name:服部 明子 (207.168.132.168)
Email:akikohsmith@mindspring.com

初めは九州の「平家方」の人々が山深い奥に逃げた、と思ったのですが
源氏方の執拗な探索で「平家」の人々もあちこちに散らばって隠れ棲んだ
のだろう、とも思うようになって来ました。

今は「ロマン」で平家落人伝説を信じたいです。

平家の人々が山奥に隠れて今日に至った、と思う方がいいです。
平家の人々が皆殺しに遭って絶え果てた、というのでは
鎌倉の時代があまりに殺伐として、
日本人であることが悲しくなりますから。

なかにしさんからのコメント(1999年05月31日 00時20分10秒)
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>頼朝はABかAじゃないでしょうか?

 AB型の私が思うに、頼朝はABじゃないでしょうねぇ。ABだったら、そういきなりは義経や範頼を討たないと思います。自分の役に立つか立たないかをじっくり見極めるのではないかと。

 ただ、挙兵前の頼朝の姿にはABを感じますが。

服部 明子さんからのコメント(1999年06月01日 14時26分15秒)
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No.41 (1999/06/01 12:11) title:ノムさんへ
Name:服部 明子 (207.168.132.168)
Email:akikohsmith@mindspring.com

宗盛が政治的に無能だったというより、後白河が大天狗だったということもあり、
外戚ということもあったし、京都の中にどっぷり漬かって身動き出来なかった、
ということもあったのではないでしょうか?

頼朝が幸運だったことは京都から遠かったという地理的理由もあったと思います。
京都の政治の汚なさを良く知っていた大江広元がクッションになってくれて
タイミングを外したり出来た、ということではないでしょうか?

知盛さまも含めて平家の良さは家族愛の絆の強いことであって、
武は自分が政治は宗盛が、と役割分担していたのではないでしょうか?
でも、さすがに壇の浦の合戦の終わりに宗盛が海に落とされて泳ぎ回っていたことを
知盛さまは「みっともない」と述べていますね。

あそこで死を選んだ知盛さまは男を上げ、生を選んだ宗盛は男を下げていますね。
これが日本人の武士に対する目なのでしょう。

服部 明子さんからのコメント(1999年06月01日 14時32分42秒)
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No.42 (1999/06/01 12:21) title:ノムさんへ
Name:服部 明子 (207.168.132.168)
Email:akikohsmith@mindspring.com

平家落人伝説は日本全国にありますね。(除・北海道?)

富山とか岐阜のあたりも有名な五箇山だの飛騨白川村がありますね。
それから栃木の山奥にも平家落人伝説があります。

私は平家「方」に付いた土地の豪族達が戦さに敗れた後、山奥に隠れ棲んだと思っているのですが。
平家の貴公子達と土地の豪族達の話が混同しているのだと思っております。

でも、ロマンということで「平家落人伝説」の方が美しくていいです。

服部 明子さんからのコメント(1999年06月01日 14時40分06秒)
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No.43 (1999/06/01 12:30) title:頼朝に許された「平家」の人々
Name:服部 明子 (207.168.132.168)
Email:akikohsmith@mindspring.com

第1には頼朝の命を救った「池の禅尼」の息子・池の大納言どの。
第2には幼くして亡くなった池の禅尼の生んだ家盛に頼朝がそっくりだと告げて
池の禅尼に平家の運命を誤らせた「宗清」がいます。

九州の八女には「宗清寺」があります。
どうしてこんな所に?と思うのですが、私の推理では「安徳天皇」は壇の浦から脱出して
この地で本当は亡くなったのではないか?と思うのです。

宗清は伊賀の柘植に頼朝から土地を貰って生き長らえたのですから、
平家の菩提を弔うのだったら伊賀でいいじゃないか、と思うのですが、
何故「八女」に寺を建てたのでしょう?

何故「八女」なのか、非常なる疑問ではないでしょうか?

服部 明子さんからのコメント(1999年06月01日 14時51分31秒)
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No.44 (1999/06/01 12:44) title:織田信長は元は越前の神職の藤原氏
Name:服部 明子 (209.86.200.16)
Email:akikohsmith@mindspring.com


私は信長が野望の途中で「伊勢の平氏」を詐称したのだと思っております。
平 資盛が子供の時に事件を起こして伊勢に謹慎させられていた時、
土地の娘に子を生ませ、関氏を名乗った子孫のそのまた子孫というお話。

伊勢・伊賀が信長に徹底的に反抗をした理由というのもそのあたりに
秘密がある、と私は思っております。
信長も栄達途中に、やたらと伊勢・伊賀に拘っていますし。

信長がこういうことをしたから、秀吉は藤原姓を金で買い、家康も源氏を詐称
することになったのだと思います。
愚かな話だと思いますが、こういうことが日本人の出自伝説を支えているのだ
と思います。

服部 明子さんからのコメント(1999年07月09日 14時49分36秒)
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No.64 (1999/07/08 13:31) title:源 季貞

生没年不詳
武将。歌人。
清和源氏源満政の子孫。

清盛の近習として佑筆役や平家領経営などの財務を担当。
宗盛の下では兵糧米・兵士役の賦課徴収を行ない兵たん部門で平家軍制を支えた。

治承4(1180)年、源氏挙兵後、平家の侍大将として平盛澄と共に
大江遠業・源義基・大神惟栄・緒方惟義・菊池隆直らと戦った。

壇の浦の戦いで捕われたが、箭造りの名人のために頼朝に召し出された
子宗遠に身柄が預けられた。

服部 明子さんからのコメント(1999年07月09日 14時51分44秒)
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No.77 (1999/07/08 22:32) title:源 頼信

安和元年(968)〜永承3年(1048)
清和源氏の1流河内源氏の祖。源 満仲の3男。

藤原道兼の家人の後、その死後は弟道長に仕えた。
上野介在任中、その臣従ぶりは兄頼光に劣らず、「道長の近習」と噂された。

平 忠常の乱(1028)では甲斐守として追討に成功、勇名を坂東一円に駆せた。
<<のちに東国に武家政権を樹立する頼朝は6代目の子孫に当たり、その足掛かりは
頼信の時に出来た。>>

鎮守府将軍も務めたが河内守を契機に同国石川(羽曳野市)の地に勢力を培った。
同地に墓がある。



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