[彦島を熱く語る!!一覧に戻る] お名前:服部 明子 |
平家物語の雑談 15 |
コメントの種類:歴史 「平家物語館」で「範頼」についての議論が白熱化。 ちょっと行ってみて下さい。 http://www.tim.hi-ho.ne.jp/cgi-bin/user/ahoyanen/tnote.cgi?book=noriyori |
範頼って、あんまし印象に残ってないですねぇ・・・。
平家滅亡前、こっちの方(下関の方)に無謀にもやってきて、「あら、ぼくちゃん、孤立しちゃった」っていう印象しかないです。範頼ファンの方ごめんなさい。
平家物語巻の方でROMして勉強させてもらいます。
http://www.tim.hi-ho.ne.jp/cgi-bin/user/ahoyanen/tnote.cgi?book=tomomori
平家物語の館で知盛さまのことが話題になっています。
上記URLは全部 tomomori 迄コピーして入室して下さいね。
さて、よその書き込みに書いた事って、違う家主さんとこにはコピーしちゃぁ
いけないものでしょうか? 自分の物だけですが。
あっちに書いたのは非常にブレインストーミング的で、根拠の無い事を書き
綴っているので「服部明子の日本・平家物語お馬鹿物語」とでも思って読んで
下さい。結構笑えると思うので。
もし、こちらにも、コピーして載せて良いなら、書き写すかな?と考えています。
ちょっとドタバタ調なので品位に欠ける表現が多くあり、気後れしています。
(^^;
平家物語館と専属契約でもしてない限り (^^;) 自分の発言を別の場所に書き写すのは何の問題もないですよ。よろしくお願いします。
ではでは。。。
頼朝が義経と範頼を処分した時の気分はどんなだったろう、という書き込みに対して
以下は、私も日頃いだいていた頼朝の事を書き込んだ話です:
お騒がせ「明子」のわたくしでございますればワタクシからも。
頼朝が「平氏」の女に次々と手を出したところが???なのでございます。
「女がそこにいたからさ」
でしょうか?
「タマタマみんな平氏の女だったというわけさ」
でしょうか?「坂東は平氏の世界だったから」?
「思春期の男にはなんだっていいの」
でしょうか?
別にこだわっていなかった、ということでしょうか?
頼朝の母が名古屋の熱田神宮の神職の娘で、頼朝は名古屋で生まれた
という話題です。それで頼朝を名古屋祭りの郷土出身の英傑行列に
加えたらいいのに、という意見に書き込んだ物です。
名古屋の英傑行列に「頼朝」は無理でしょうね。
母親が熱田神宮の神職の藤原氏というだけで頼朝自身は名古屋に何も残してはいない
ようですから。
頼朝が名古屋生まれなんて知ってる名古屋人もいないのでは?
私も名古屋の地図を眺めていて発見した時は眉唾物と思っていた位ですから。
名古屋あたりに係わってヨソに出て行って名を残した人(信長・秀吉・家康など)
の1人ということで語る方が良いですね。
ちなみに私は熱田神宮の北、信長が育った古渡城の南の金山、というか
中区伊勢山出身です。
以下は暫く「源 範頼」の話題が続きます。
範頼は有能だったか無能だったか、という議論への書き込みです。
範頼の最期も非常に不条理な疑いからですよね。
報われることの無かった範頼ですからこの掲示板で名誉回復を
してあげましょう。
有名な兄と弟に挟まれて不当評価される?範頼について激論が沸騰して来ました。
以下はわたくしの書き込みから:
範頼粛清事件は「北条」氏にとって、範頼がどういう存在だったか考えると
面白いですよね。
範頼の評価について激論が続いています。
義経の勝利または戦術の成功は範頼が後方を守っていたから、という
某氏の書き込みに対してわたくしが書き込んだもの:
義経はやっぱり範頼の下に属してて、スタンド・プレイが上手かった人だったんだ、
って思いましたね。
それで義経が周りから嫌われていた、ってことが納得行きます。
日本人にはこういうタイプって同じ組織内ではうっとぉしいではありませんか。
(それが出来たのは俺達が周りを固めていたからじゃないか)って。
部外者には義経の活躍というのはヤンヤヤンヤの喝采だったでしょう。
都の人達には面白かったでしょうねぇ。
範頼粛清事件についての<いきさつ>:
曽我兄弟の仇討ちだったかに頼朝の急を聞いて政子に自分がいるから大丈夫
と言って政子に嫌われたとか。
この時のやり取りで
2代目将軍の座を狙っていると政子は取ったのか?
夫の弟だから許してあげてるのにつけ上がるんじゃないわよ、と取ったのか?
北条氏にとって権力への道はいつから求め出したのか?
夫の弟でも態度が大きい者は処分の対象にしたのか?
源氏3兄弟は結局は「他人のフンドシ」で相撲を取った、ということですね。
頼朝でも直接の部下はいるというほどは持っていなかった。
範頼だってそう。
義経は藤原氏の所に身を寄せていたのだから「期待」されていたのでしょうが
鎌倉にたいした武将は1人も引き連れては来なかった。
北条方には「誰のお蔭で」という腹が元々あったことでしょう。
範頼の家来が曽我兄弟の仇討ち事件の後、頼朝の屋敷の床下に隠れていたという事件。
範頼が係わっていたかどうか以前にこれはゆゆしき問題ですね。人間の弱さがモロに出ている。
見つかってしまえば範頼の謀反はたとえ初めっから無くても「有り」になってしまいます。
頼朝が亡くなれば、自分だって、将軍になる資格がある、と思っていなかったわけじゃ
なかったでしょうね。
頼家なんて未だ子供じゃないか、戦さに加わった経験が無いではないか、と。
私は範頼が曽我兄弟の仇討ちに加担していた、というのは信じられないのですが、というのは
首謀者にでっちあげることは可能な時代でしたから「記録」として残せたと思うのですが。
まだ、時政が企んだ「仇討ち」という方が信じられます。
頼朝は名古屋で生まれ、熱田神宮の西の生まれた場所に寺があります。
尾張あたりは結構「頼朝」系の史跡があります。
美濃国赤坂には「青墓」が、尾張国弥富には「荷之上」という地名があり、
義朝が内海に逃げる際、船の底に隠れ、身体の上に柴を積み、弥富に至って
「もう大丈夫だろう」と積み荷を上げたところから「荷之上」と
名付けられた所があります。
「荷之上」にウチの服部家<ホンヤ>の家があります。
私の家のホンヤという意味では無く「伊賀の末裔」の服部家の<ホンヤ>
という意味です。私には雲の上の存在です。
尾張国野間の内海(どっちがどっちか分かりません)が義朝終えんの地であります。
吉川英治の「新平家」でも義経が熱田神宮に寄ったことになっていましたよね。
どうなんでしょうね?
兄の母の実家、というのは「他人の家」のような物と思うのですが。
上記に追加:
義経だったら自分は異母弟でも図々しく熱田神宮に厄介になりに行った感じが
します。
範頼の性格:
義朝の子にいろいろあれど、範頼も結構ひとかどの人物だったと思います。
消された人物については権力の側に良く書かれて残る訳がなく、それで
良い記録が残されなかったのでは?と思います。
義経の場合は巷に喧伝されて幸運な人物と思います。
範頼は地味に徹したから世間の評判にもならず同情を買うことにもならなかった
のではないでしょうか?
範頼の姿というのは頼朝の顔色を窺って自分を存在させたというように思います。
母親が名のない遊女では肩身が狭かったでしょうね。
義経の母親は美女1000人の中から選ばれた女性というブランド付きですもの
「花」がありますよね。
義経という人のあの明かるさはどこから来たのかと思っていましたが
今回奥州藤原氏の親戚回り、と知って、ちょっと納得出来ました。
藤原氏がちやほやした理由も成る程と思いました。
頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした理由も納得出来ました。
身内の争いの醜さはどろどろの泥試合だけど、同じ義朝の子なのに自分は
奥州藤原氏の援助は貰えなかったじゃないか、という怨みもあったのでしょうね。
頼朝の屈折した性格の原因に「僻み」も加えていいようですね。
>範頼はそつのない常識人だっただけだという事だと思います。
@でしょうね。自分の立場が分かっているだけに控え目に振る舞っていた
範頼の姿が浮かんで来ますね。
日本のサラリーマンの姿とだぶって来ます。
リストラされる中高年の悲哀というのが合うなぁ、って思ったら、ちょっと
悲しくなりました。
>義経だったら自分は異母弟でも図々しく熱田神宮に
>厄介になりに行った感じがします。
同感です。そうでもしないと、頼れる人もいなかったでしょうしね。そもそも、「兄の母の実家は他人の家だ」っていう発想もそもそも無かったのかもしれません。「俺は義朝の九男だ」ってプライドだけで行動してたのだろうとも思いますし、世の中の人はみんな自分を歓迎してくれるとでも思っていたのかも。
義経のそういうものの考え方が、頼朝や梶原君に嫌われる原因の一つだったのだろうとも思います。
範頼については、なんか、頼りない・・・っていうか、彼が何かをやってると、「おいおい、だいじょうぶか?」って言いたくなるような・・・(これこれ ^^;)。
まぁ、これは私の主観で、名前が「蒲殿」だから、蒲=かば=がま=カエルという勝手な連想してしまうからだと思います(笑)。
頼朝が藤原氏を討った理由については私もなるほど、と思いました。そう考えるとあのあたりの人の動きというのはわかりやすくなりますね。