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投稿番号:33398 投稿日:1999年04月17日 15時13分20秒
お名前:服部 明子
 

服部明子の日本アッチコッチ・オカルト紀行


コメントの種類:その他


「彦島」編集長さんのお蔭で平家関連の場所をくまなく
回る事が出来ました。
感謝の気持ちを込めて日本滞在中に経験した事を書いて
みようと思いました。


なかにしさんからのコメント(1999年04月17日 16時02分16秒)
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よろしくお願いします〜。たのしみにしてます。

ACCさんからのコメント(1999年04月17日 16時52分35秒)
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やったー!楽しみだなぁ!

でもなんで、オカルトなの?カルトの間違いじゃ?(笑)
それともなかにしさんに怖いところに連れて行かれたのかなぁ(笑)
      

服部 明子さんからのコメント(1999年04月17日 18時03分33秒)
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なかにしさん:
ACCさん:
そして皆さん:

どういう訳か先ず第1話を書き込もうとしたらカーサーが
飛びまくって困っています。
いろいろ無い知恵を出して修正しようとしているのですが
今回は無駄な抵抗のようで私には今の所、直せません。
明日夫に直して貰います。

それで当分書き込めません。(涙)
でも1つウマイ手を考えついたのでそれで書き込めるかも知れません。
メールも1部消えてしまったりして、これって「書くな」と
言われているのかなぁ?

あるく@タビビトさんからのコメント(1999年04月17日 22時28分09秒)
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>メールも1部消えてしまったりして、これって「書くな」と言われているのかなぁ?

すでにこれは導入部なわけですね。おぉ、コワ(;゚゚)

服部 明子さんからのコメント(1999年04月17日 23時19分46秒)
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あるくさん+皆さん:
夫のパソで書いてます。

>すでにこれは導入部なわけですね。おぉ、コワ(;゚゚)
で、しょうか?
うーーーん、どうなのでしょう。。。

服部 明子さんからのコメント(1999年04月18日 00時17分44秒)
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第1話

4月1日伊豆の狩野に行きました。

狩野はどういう所かと言いますと藤原(俗姓伊藤)忠清一族の先祖が伊勢に行く前に居た
所であります。
藤原(伊藤)一族は下野の藤原秀郷(または俵藤太)が平貞盛を助けて平将門を討って後
子孫が伊豆の狩野に土地を貰って移り、更にここから伊勢に移ったというわけであります。

伊勢の藤原景綱は息子の忠清らと共に平貞盛の子孫の清盛を助けて保元の乱や平治の乱で
活躍し、平家一族の中心的武力となり、孫には忠光・景清兄弟や景経・景俊兄弟がいます。
(つまりこの4名は従兄弟関係になります)

伊勢の藤原景綱は別名「伊勢・古市の景綱」とも呼ばれ、古市は伊勢神宮の内宮・下宮の
中間に位置する所にあり日本5大遊廓の1つとして伊勢参拝者で賑わった所だそうです。

狩野には東京から静岡県三島に出て修善寺に南下し、東海交通のバスで柿木橋で下車して
国道を渡り、左手に歩けば「狩野城跡入り口」の案内板が立っています。

私の場合はかなりの方向音痴なので右に行ってしまって道に迷い尋ねた人が「東鑑を読め
ば狩野がどんな立派な武士であったか良く分かる。平重衡を預かった人でもある」と教え
てもくれました。 (^^;

さて、ここから私のオカルト体験が始まります。
私は忠清の息子または甥が罪を得て出奔し、東国に一時居たような気がありました。そし
て東国の雰囲気を体験し、平家の行く末を感じ取ったのではないか?と。

狩野の城跡には階段を昇ってすぐに到達出来ますが、この時、一瞬流れた空気で(その人
は矢張りここに来ていたのだ)と確信を持ちました。

*「員弁史談」によると「当地伊藤氏は藤原鎌足の後胤で伊豆の国司従5位下、狩野駿河
守藤原維景の末葉伊藤佐介慶治という者当地に来住伊藤姓を名乗る。本町石川の伊藤氏が
その祖で、相場に来たったという。庄屋伊藤安之進、医師三郎、神職伊藤家等同系と伝え
ている。庄屋伊藤家の蔵には古文書等多く蔵されているが未公開であることは惜しいこと
である。」

服部 明子さんからのコメント(1999年04月18日 02時27分28秒)
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上記を書き込んでから「某関係者」に送ろうと思いプリントしてみたところ、
しっかり「文字」が飛んでしまって印刷が駄目でした。

今は夫が私のパソを直してくれたので自分のパソで書き込んでいます。
いつまでもつやら。。。

服部 明子さんからのコメント(1999年04月18日 06時39分34秒)
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第2話

4月13日に東京から三重県の山の中に行こうとしましたが結局は京都府相楽郡
木津町に行ってしまいました。(木津は奈良県と長いこと思い込んでいました)

最初は東京発のひかりで名古屋に行き、桑名に出て、電車で更に阿下喜という町
からバスに乗り、私の先祖が信長に欺されて自害したという「米野」という所に
行こうと思ったのですが非常に不便な所なので、これじゃその日の内に東京まで
戻れないんじゃないかと不安に襲われ、諦めて東京に戻ろうとしたところ、じゃ
ぁ、代わりに「木津に来て欲しい」と平重衡どのからのメッセージがありました。

桑名の町ではちょっとフラフラあちこち写真を撮りアイスまんじゅうを1個かじ
っただけで「木津なら今日の内に東京まで戻れるだろう」と思い、名古屋から各
駅止まり!の「ひかり」 (^^; で京都に向かいました。

途中、私の先祖が伊勢の国守である北畠具教の所に妻と正月の挨拶に行って自害
した経緯を考えてみました。どうしてあんな凄い山の中で?というのが疑問なの
です。用が済んだらサッサと家に戻るのが我が家の家風なのに、わざわざ遠回り
をして、現代でも大変な不便な所に何故行ったのか?

上記<その1>で書いた本姓藤原氏・俗姓伊藤氏との共同戦線を強化する話し合
いをしに行ったのか?それとも伊賀の一族に会いに行くところだったのか?

あの山の中のすぐ近くに大垣や関ヶ原があるから対信長包囲網を強化する為だっ
たのだろうとは容易に想像は付きましたが、多分、伊賀に行く所だったのだろう、
と私なりの結論を出しました。

こんな風に考えていたら米原でも「ひかり」が止まって、北条仲時どのが自害し
た番場の宿方向を目で探していたら、平重衡どのが「木津に来て欲しい」と再び
呼び掛けて来たので次回日本に来る時は仲時どのに会いに<誰か>と行こう、と
思いました。(大変な方向音痴なので)

京都で奈良行きの特急を待っている間に今回の里帰りは「後尾」の列車に乗る癖
が付いたせいか、やはり1番後ろの車に乗りたくてたまりませんでした。そして、
席はいっぱい空いてたのにどういう訳か某老人にくっつくように腰を掛けました。
この老人には京都で列車を待っている時から気になっていました。

この老人がパンフレットをカバンから出し、読み始めたので気になり、覗くと五
ボウ星が見えたので「あら、安倍晴明社ですね」と声を掛けました。「おや、あ
なたは安倍晴明をご存じですか」と話が続き「安倍晴明という人は実に不思議な
人ですよね」と私が続けましたら、この老人は安倍晴明を研究している人でした。

「壇の浦に行ってきたのですが、あそこで安倍晴信がイルカの存在から源氏の勝
ちと言ったのは私には謎なのです」と言いますと、「動物と交信出来る能力があ
ったから」ときっぱり!
安倍晴明は狐が母親と言われていたのを思い出しました。

それで「実は今日は今から木津の安福寺に行く所なのです」と言うと、そこの和
尚さんが教え子だった、と。。。3日前に郵便局で会ったばかりだけど宜敷くと
伝えて下さい、と言われ。。。結局はこの老人も木津の人で一旦家に戻ってから
安福寺で会う約束をしました。

それで「実は安福寺の平重衡どのから木津に来て欲しいと言われて行くことにし
たんです」と言いました。

1時間この老人を安福寺で待っている間に重衡どののお墓を見ていました。見え
ましたね、赤間神宮にあった7盛の絵の1番下の丸顔の武将の断末魔の顔として。
白目を剥いていましたが、

アメリカに戻ってからなかにしさんの「更新」で7盛の絵を見てハッとしたんで
す。それまでは気が付きませんでした。赤間神宮では「誰が誰やら見当もつかな
い」と話していた程です。

*木津の老人は奈良教育大学名誉教授で87才。今でも自転車で駅と自宅を往復
なさっていらっしゃいます。70才くらいの肌でした。

*安福寺の和尚さんは70代半ばで元教師のようでした。

服部 明子さんからのコメント(1999年04月18日 10時15分47秒)
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上記書き込みの添加:

木津には前から行きたかったのですが、いろいろ予定が変わり、東京から安福寺だ
けに行くのは時間が。。。と思い、すっかり諦めていました。

私にとって大切な場所に今回行けず、代わりに「木津に来て欲しい」とのテレパシ
ーが重衡どのから来ても凄い方向音痴ですから無事に行って更に帰ってこられるの
かは私の場合は (^^; 物なので列車の中でご老人に出会えた事はとても偶然には思
えませんでした。

壇の浦で突如「イルカ」の大群が出現した平家物語の話は私にとっては非常に不思
議で安倍晴信(晴明から200年くらい下がった人物)が予言した話は気になって
いました。現代はイルカや鯨は大変な頭脳を持っていて人間が交信したいという世
の中になり実際に研究をしている段階ですから、安倍晴明は1000年も前に既に
果たしていたのか、と驚くばかりです。

平重衡どのの墓石の斜め手前にどなたかのお墓?があります。一部人為的に?欠け
ているので誰か有名な賭け事師の墓かも知れません。

「あなたが1番愛していた女性は誰ですか?」と重衡どのに聞いてみたかったです
が3人はいますものね。私が望んだのは「千手の前」で、斜め手前のお墓が千手の
前の墓でしたら私も嬉しいのですが。吉川英治の「新平家物語」でも千手の前が重
衡の移送に影ながら従って行くシーンがありますから別な人のお墓でも「千手さん
だったらいいですね」と声を掛けてあげたかったです。

1番愛したのは誰ですか?という質問はヤボですね。その時一緒に居た人を一生懸
命愛した、という答えで「充分」と最近は思うようになりました。誰を一番愛した
か?という質問は「女性」の発想であり、聞かれる「男性」には答えようの無い難
問だと思うようになりました。あの女性も誠心誠意愛したし、この女性も身を焼か
れる想いで通ったし、鎌倉で千手の前と心を抱き締め合ったのも真実の愛からだっ
た、とその答えで「充分」と思えるようになりました。

1時間ご老人を待っている間に雲行きが怪しくなり(所帯道具は背中にしょってる
かたつむりなので降られても困りはしませんでしたが)ぽつりぽつりと雨が肌に感
じられ、日も落ちて来て不安にもなりましたが、無事にご老人も出現され、和尚さ
んにご挨拶も済み、東京に戻ろうと電車に乗り込んで外を見たら、輝くばかりの夕
日が西の空の雲の間から最後の光を放つように差して来ました。なにか神々しい雰
囲気を感じました。

服部 明子さんからのコメント(1999年04月18日 14時17分03秒)
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2時間かけて打った「その3」がどうかなってしまいました。
藤原秀郷公墓所を訪ねた時の苦労話とちょっと不思議な体験について
書いた物です。
今日のもオカルト入っているのかも。

服部 明子さんからのコメント(1999年04月18日 14時46分39秒)
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第3話

4月7日東京から新幹線は「なすの」に乗車し小山で両毛線に乗り換え佐野から
東武鉄道で140円払って2つ目の吉水で下車し「藤原秀郷公墓所」なる所に行
きました。

墓所はなんと「田沼意次」の出身地「田沼」内でしたものね、でも、佐野って、
「佐野政言(まさこと)の傷害事件の?」と思い出し、田沼意次の子供意知が佐
野政言から由緒正しき系図を借りたまま返さず恨まれ傷付けられて絶命した背景
の地なのか、と思うとちょっと「怖い」物がありました。

佐野氏と田沼氏のどちらが藤原秀郷の直系か、と問えば田沼の本家に当たる佐野
氏でしょうから、系図にこだわって命を落とし、更には一族が世間の笑い者にな
るきっかけを作ってしまった意知には「名より実力よ」と言ってあげたかった。


小山下車に加え、両毛線と言い、さらに「東武鉄道」の不便さたるや、ここが東
京周辺?でした!時間の浪費を「贅沢」として楽しんではいる私にとって「待ち
時間」の長さには4月2日足利に行った時以上に「アレレ?」でした。だって、
どの線も各1時間に1本走っているだけあたりなんですから朝早く東京駅を出発
しても目的地に到着するのはお昼でしたものね。まさに、喧噪の東京をちょっと
離れるとこんな陸の孤島があったの?という心境でした。

ところで「方向音痴」の私は本領発揮。しっかり迷いましたね。

下野の藤原秀郷公の死後を慕うとして「墓所」と「神社」のどちらに行くかと問
われれば当然「墓所」でありまして、唐沢山神社の方はパス!ここは今でも神職
さんの佐野氏直系がいらっしゃるとかで私には関係無い!それよりも実際に埋葬
された所に行きたい、という思いだけで吉水駅の周りをウロウロ迷い続けました。

右と左が私は混乱しているそうで、更に、東と西が混乱しているそうで、だって
お日さまが出てなきゃどっちが南か分からないじゃないのよ!出て来い、太陽と
命令する珍しい人間だと人から笑われ、挙げ句は「頭の中で自分の作成する地図
の中で既に迷子になるのが服部明子」という格言まで「迷わない人々」から頂戴
し、今日こそは絶対迷わないぞ!の決意固くも、やっぱり迷ってしまいました。
(;^^A あー、アセ・汗・あせ。。。焦ったなぁ。

でも実は郷土の英傑をご存じ無い人々が多過ぎて、混乱に拍車を掛けてくれたの
です。藤原秀郷公の墓を聞いてるのに、「誰?それ」だもの。こりゃ無理だ、と
思いましたね。
最後に尋ねた2人の老人によりやっと辿り着けることが出来た次第でありました。

1人は老婆で私の顔を見て、にやっ、と笑いましたね。
もう1人は老人で「ほぉーっ!アメリカから写真を撮りに?」と聞くので「はい。
写真をアメリカに持って行こうと思いまして、はるばる参りました」と答えた所、
突然の雷鳴が轟き亘りました。

でも、結局は私自身は全く濡れなかったので、あれは歓迎のご挨拶だったのでしょうか?


以上、書いてアップしようとしましたが2回送ってみて駄目。更に内容を自分に
メールしようとしましたが何回やっても送れず、結局夫に頼んでやっと今書き込
みが出来そうであります。

なかにしさんからのコメント(1999年04月18日 22時40分27秒)
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 「七盛」の一人がわかりましたか。ふむふむ。

なかにしさんからのコメント(1999年04月18日 22時55分26秒)
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ちなみに、「七盛」というのは、赤間神宮の宝物殿(水天門をくぐって左側)に展示してある絵画のタイトルで具体的には以下を参照して下さい。>みなさま

http://www2.tip.ne.jp/~nakani00/travel/index1.htm

服部 明子さんからのコメント(1999年04月18日 23時14分48秒)
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「7盛」の絵の1番下左と斜めの2人はよく似た顔をしているので「資盛と有盛」兄弟
なのかしら?と思います。

1番上の白髪の人は「教盛」かしら?と。年齢的に白髪から。。。ま、若くて白髪の人
はいくらでもいますが。

でも、重衡は「7盛」に入らないので、あの丸顔の人は違うのでしょうが。

服部 明子さんからのコメント(1999年04月18日 23時20分28秒)
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「1番上」って左の3人の内の1番上って意味です。年取った感じで
「怒髪天を突く」髪型の人のこと。

あの絵の右の1番上の人が知盛どのでしょうか?
作者が名前を書いておいてくれればこんなに悩まなくて済むのに。

服部 明子さんからのコメント(1999年04月18日 23時48分48秒)
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それにしても、この欄の書き込みってアップが難しくて、困ります。
「書くな」と言われているのか、偶然なのか、他の欄はすんなり以前
よりずっと早く掲示出来るのに。

なかにしさんからのコメント(1999年04月18日 23時51分52秒)
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 ま、作者に尋ねるのもアレですが、想像するのが楽しいですよね。だいたい意見が固まったら、作者の方と連絡を取る努力をしてみましょうか。こんちゃんにお願いすればなんとかなるかも・・・。

あるく@タビビトさんからのコメント(1999年04月19日 02時28分53秒)
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服部さんて、声が聞こえたり顔が見えたりするんですか。
うらやましい。。。(^^ゞ

服部 明子さんからのコメント(1999年04月19日 09時15分46秒)
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あるくさん:
声や姿だけでなく「闇」の世界や「死」の世界に誘なわれる事もある訳で
「怖い」事です。でも今回は殆ど全て「良い」経験なので嬉しく思ってい
ます。

服部 明子さんからのコメント(1999年04月21日 12時34分43秒)
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その4

4月11日(日)私の先祖がいたという上総国の国分寺に行きました。
選挙の日でしたから確かに朝から雨でした。

電車で上総村上駅に着いた途端、台風のような風と雨に変わりました。
確かにあの辺りで平将門が馬に乗って暴れ回った感じがありました。

だだっ広い土地で、それも水稲地域というのは見て取れました。
ぽつんぽつんと古墳があって。

私は国分寺の右=東側のたんぼで腰が抜けるくらい田植えをしなくて
はならない毎日に、百姓仕事をさせられるのはうんざりの少女だった
ような気がします。
結婚するなら絶対自分の家のような家格の男はイヤだと思っていまし
た。

父親は別に役人でもなく、毎日土地を耕して、たんぼを作って、苗を
育て、田植えをして取り入れを待つだけの人だったような気がします。
私はやりたくない田植えをさせられながら、もっと楽な生活を約束し
てくれる青年の出現を夢見ていたような気がします。


春にこの日(11日)のような大嵐を経験したのは初めてでした。
とても傘など役に立たない降り方でした。
まるで私が国分寺に来るのを誰かが憤っているような。
私の存在を拒むのは一体誰かと考えても見当が付きませんでした。

でも答えは出ました。
全く知りませんでしたが国分寺に「平将門」供養の「将門塔」があり
ました。

市原市教育委員会は伝承であって事実は違うだろうとの見解を取って
いますが時代が大幅に下がった南北朝時代にどなたかが「平将門」の
霊をなだめる為に建てたのだと思います。

平将門が藤原秀郷と平貞盛の連合軍に敗れたのを今でも怨みに思って
いるのだろう、と供養塔を見てから思いました。

服部 明子さんからのコメント(1999年04月22日 14時30分42秒)
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その5

鎌倉に2度行きました。4月8日と10日です。

常楽寺に行きました。
常楽寺に着いて、山門を避け、隣の脇道から大姫のお墓に行こうと
しましたら、「なじる」力を感じました。
なんでそんな所に行くんだ、と誰かが言うのです。

墓参りですから、バッグから数珠を取り出しましたら(糸が切れて
玉が弾け飛ぶ)予感がしました。
でも、それにも拘わらず、大姫と義高のお墓に行きました。

結局、数珠は使いませんでした。
誰かが癇癪を起こして数珠の玉を散らす感じがしましたから。

でも、どうせなら2人の塚を並べてあげたら良いのに、と思いまし
た。


鶴岡八幡宮から宝戒寺に回り「高時腹切り窟(やぐら)」やら景清
の入れられていた「窟」を見ました。

1993年の里帰りの時は怖くて「高時腹切り窟」には行く気に
なれませんでしたが今回は全く平気でした。
93年以降に山崩れがあって「明かるい」雰囲気になってしまって
いました。ですから全く怖くありませんでした。

景清が入れられていた?窟は(嘘だろう)と思いました。
何にも感じませんでしたから。
それに、あんな所に収監するかしら?と思いました。
後世の人の作り話と思いました。

忠光や景清兄弟の断食死は平盛国の断食死の話を使ったのでは?と
今でも思います。

一時的に窟に入れられたのは有り得る気もしますが、鎌倉では、と
いうより昔の日本の「土牢」がこんなだったのかしら?と思うと
嫌な物を見てしまった、と思いました。


極楽寺は私の大好きな「北条仲時」さまのお祖父さまの建立の寺
でしたから当然行ってきました。
江の電「極楽寺」駅すぐの所でしたから便利でした。

凄い木を2本見ました。
さるすべりの木と桜の木なのですがちょっと気になりました。
もう1本「八重一重咲きの桜の木」もありましたがこれには興味を
持ちませんでした。

何かの木で「仲時さま」と昔、遊んだ気がしました。
でも、どの木か分かりません。

極楽寺から少し歩いた所に墓所があって極楽寺を開基?開山?した
「忍性(にんじょう)上人」の墓がありましたが、隣に仲時さまの
お祖父さまの重時公のお墓も建っているそうです。
ここは4月8日しか公開しないそうで残念ながら見られませんでした。

この極楽寺は凄く厳格というかやたらと「べからず調」で、
写真を撮ってはいけない、絵を描いても行けない、さっさと家に帰れ、
と言ってるようなお寺さんでした。

でも、私の仲時さまとの思い出の場所は(ここじゃない)と
思いました。


鎌倉の外れは「腰越」でしょうか?
義経が頼朝から「鎌倉の外で待機するように」と言われて、居た所。

その更に向こうが「竜口寺」というわけで日蓮宗の聖地の印象を
受けました。
ここで日蓮上人が処刑されようとした、という場所です。

私が竜口寺に行ったのは仲時さまの子供の友時と高時公の子供の
時行が処刑された所だそうですから。

残念ながら竜口寺にはお墓は無いようでした。
竜口寺で処刑された「罪人」達は極楽寺に運ばれたらしいので
ちょっとだけ「極楽寺なら」と安心出来ました。

北条一族の中で1番人気の人物が仲時さまだそうで、これには
慰められました。
仲時さまの最期の見事さに共感してくれる人がたくさんいるようで
嬉しいです。

ACCさんからのコメント(1999年04月22日 15時33分04秒)
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>鎌倉の外れは「腰越」でしょうか?

そうですね、北は手広の交差点くらいかなぁ?
近くに鎌倉山もあることだし・・・

服部 明子さんからのコメント(1999年04月22日 23時22分19秒)
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上記の追加。
源氏山に行きました。
化粧坂を登って。「切り通し」と呼ばれる狭くて急な坂です。
これなら鎌倉を攻められない、と思いました。

鎌倉を攻めるのは怖かったでしょうね。
人間1人がやっと通れる幅ですから上から石やら矢で狙われたら
避けるも出来ず後ろに戻るも出来ず、
だから新田義貞は鎌倉の南の海から攻めたのか、って納得出来ました。

伊勢の古市でも思ったのですが、ここ化粧坂でも思いました。
お伊勢さんにお参りする前 and/or お参りした後に「遊廓」に寄った
人々。
鎌倉に入る前 and/or 鎌倉から出た直後「遊廓」に寄った人々。

おおらかな性に笑ってしまいました。
「緊張」を前 and/or 後にしてリラックスした人々。
神さまの前で and/or 後で、そして、鎌倉幕府の中で and/or 外で、
精進落とし、っていうのだったのでしょうか?

化粧坂なる切り通しで「化粧」をして男達を迎えた女性達の嬌声が
聞こえたような気がして日本人の「性」をそんなふうに思いました。
化粧坂とはなんて色っぽいネーミングをしたのでしょう。

源氏山には頼朝の像があって、余りの若い頼朝の顔に戸惑いました。
挙兵当時の印象なのでしょう。
政権を取ってからの頼朝しか知りませんでしたから新鮮な驚きでした。
山桜が綺麗でした。

服部 明子さんからのコメント(1999年04月23日 11時17分50秒)
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ACCさん:
次回は「鎌倉山」をハイキングしようかと思います。
鎌倉の要害度が良く分かるそうなので。

ACCさんからのコメント(1999年04月23日 18時15分58秒)
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>次回は「鎌倉山」をハイキングしようかと思います。

いいですねぇ、いろんなことが分かりそうですね。
他の山はベットタウン化されてマンションだらけですから(笑)
特に桔梗山なんてバスがガーガー登って行きますよ!(笑)

服部 明子さんからのコメント(1999年04月26日 12時07分26秒)
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いよいよ「伊賀」での体験と「下関」での体験に迫りました。
その前に「東京」での話を1つ書きます。

両親が去年名古屋を引き払って東京に引っ越しました。
ウチは父方が名古屋に南北朝時代から住んでいるようで
ざっと600年名古屋に居たことになるのでしょうか?
父方は600年、伊賀と名古屋の間あたりをうろうろしていたようです。

愛知県津島市の津島神社が伊勢・尾張の南朝方の拠点だったそうです。
そして一宮市の妙興寺が北朝方の中心だったそうです。
服部家ホンヤが津島神社の天王祭の宰領を今でもしています。
これは北朝方に勝った時のエピソードを伝えているものだそうです。
この祭りを信長や秀吉も好んで見たと津島市観光課のHPでは宣伝しています。

服部家ホンヤでは真夏にカミシモを着て執り行なうので大変な話であります。


さて両親の引っ越し先は亀戸でして、戦争中は軍需工場があった所で、
空襲があり、戦後でも死体が転がっていたそうで、この話を恩師から知らされて
両親宅で眠るのは怖かったのですが別に何も経験しませんでした。

経験したことは近くの「亀戸天神」でのことで、昔の知り合いがここに来た
ことを「どこから」入って来たか、ということを感じました。
その人の息づかいを感じましたから。
ちょっとドキッとしました。

亀戸天神の藤祭りは4月18日から5月18日と書かれていましたが
私が行った時は4月14日で未だ10センチ位しか伸びていませんでした。

服部 明子さんからのコメント(1999年04月27日 12時19分05秒)
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その8に行く前に。

「下関」関連でのオカルト体験は今回で4回目でした。
1)1993年に初めて「赤間神宮」を夫の希望で訪れ、不思議な体験をしまし
た。
2)1998年「彦島」の「清盛塚」をダウンロード中、老人の顔を見ました。

3)今年、里帰りをする直前、上記(2)について懐疑的だった大阪の某氏より
「清盛塚」で2人見えた、と言って来ました。私には「1人半」見えました。

4)今年の里帰りでは3箇所でオカルト的体験をしました。場所は身投げ岩と清
盛塚と赤間神宮です。

身投げ岩では1人。清盛塚では3人。赤間神宮での事は伊賀で結果がありました。



服部 明子さんからのコメント(1999年04月27日 12時36分25秒)
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その8のA:身投げ岩にて

「彦島」の島民の皆さんの心の優しさを目にしました。私自身は(へぇ、ここで
815年前にね)という観光客的気分でいたのですが平家や彦島の女性達が身を
投げた場所にいかにも女性の霊を慰める為の花をお供えしているのを見て感激し
ました。

道端の椿も「赤」なのが印象に残りました。

「身投げ岩」では私自身は何の霊的な引き込まれを感じませんでしたが、道端に
1番近い慰霊壇に白い女性の姿を見ました。厳島のミコさんかと思います。

普段の私でしたら崖に立てば水の中に引き込まれてしまう恐怖で一杯になるので
すが、ここでは全く何も感じませんでした。多分、女性達の霊が現在に至る迄し
っかりと人々によって慰められているからでしょう。

服部 明子さんからのコメント(1999年04月28日 12時30分07秒)
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その8のB:清盛塚にて

清盛塚は去年初めてサイトをダウンロード中に老人の顔を見ました。好々爺の
顔でした。

でも、石に霊など宿るとは思えないという懐疑的な某氏に1度ダウンロードを
してみては、と勧めて何と彼から「2人見えた」とメールが来て、私も改めて
ダウンロードしてみたら、私には「老人」ともう1人別な人の「老人を見上げ
る横顔」が見えました。

老人の方はよく見掛ける「清盛」の顔に似ていると思います。でも、私には
分かりません。

それで今回のオフでなかにしさんに「絶対行きたい所」の1つとして、ご案内
頂きました。いんこさんの時とは違って虫がうるさくなくて助かりました。
でも、明かるくなっていて、助かったというか良かったというか、迷います。
なかにしさんがお書きのように真新しい案内板が立っていて、これは嬉しかっ
た。平家に対して心有る人が訪ねて来てくれると嬉しいですから。

彦島では1番見晴らしが良い所のようでした。それで携帯電話用のアンテナが
立っていたのでしょうか?航空業界に働く者として電磁波が彦島に眠る霊達の
眠りを妨げなければいいけれど、と思いました。

今回私が清盛塚に行って直接目にしたのは銘のある塚石の方にではなく、隣に
割れて置かれている方の石にでした。この石はサイトには写っていません。

私には20代の終わりか30才前後の青年の顔のように見えました。嘆き悲し
んでいました。「悲しい。こんな事になったなんて。絶対負ける筈が無かった
のに。みんな死んでしまって悲しい」と嘆くのです。

髪をうなじで結んでいました。正面を向いているのではなく、清盛塚と銘の彫
ってある石に向かって慟哭している姿でした。「みんな死んでしまって悲しい。
こんな筈じゃなかった。絶対勝算はこっちにあった。こんな筈じゃなかった」
と訴えているシーンのようでした。

私には誰か全く見当が付きませんでした。痩せた細面の青年武将です。宗盛な
ら太っているイメージがありますが、宗盛ではないと思います。私の大好きな
知盛さまにするとまたまた私のイメージに合いません。清盛の息子の1人には
思えませんでした。もしかすると知盛さまを補佐した侍大将の1人かも知れま
せん。年齢的には教経どのですが、教経どのはああいう報告の仕方はしないの
では?と思います。

誰だろう、誰だろうと考えてもさっぱり見当が付きません。赤間神宮にも行っ
て七盛の絵を拝見しましたが全く誰が誰やら、これまた分かりませんでした。

それで分からないままアメリカに帰って来ましてHPに紹介された七盛の絵を
見て、あれ?と思ったのです。清盛塚の左の石に私が見た嘆く青年の顔は、赤
間神宮の七盛の絵の1番下の右に描かれた平静な顔の人だ!って。

はまかわさんからのコメント(1999年04月28日 18時46分50秒)
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こりゃ今年は夏前に彦島心霊ツアーを慣行するしかないなぁ・・・(笑)
だれか参加する(笑)

あるく@タビビトさんからのコメント(1999年04月28日 22時26分41秒)
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する!(笑)

服部 明子さんからのコメント(1999年04月29日 13時07分32秒)
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その9:赤間神宮にて(A)

私はかなりの高所恐怖症と閉所恐怖症の持ち主で、閉所恐怖症の方は解消したよ
うですが高所恐怖症の方は未だあると思います。と言っても90度真下を覗き込
むのが怖いだけであって、高い所は結構好きでもあります。高い所からパノラミ
ックな景色を眺めるのは好きですから。

1985年にカリフォルニアのヨセミテ公園に行った時、「モロロック」という
岩山に登ったのですが、殆ど垂直の岩を簡易な手摺を頼りに狭い坂を登って頂上
に行った次第ですが、岩肌のすぐ真下は切り立った断崖どころか、高さ1600
メートルが覗けると聞き、聞いただけで吸い込まれるような気分に陥り、上がっ
て行く途中で腰を抜かしてしまいました。以来、90度真下を見下ろせなくなり
ました。

赤間神宮前方の駐車場から壇の浦に至る岸壁の階段の所にはとても近寄れません
でした。階段に近づくだけで海の中に引き込まれそうな気分に陥りました。
階段は数段あるだけで、別に何メートルも何十メートルもの高さがある訳ではな
く、ホンの数段ですから、2メートルも無かったと思います。普段の私でしたら
全く平気な高さです。

赤間神宮の前に訪れた「身投げ岩」の所では、海を覗いたり投身する場面を思い
浮かべたりしたのですが、別に恐怖心はいだきませんでした。

この差は一体何なのかが不思議でした。

服部 明子さんからのコメント(1999年05月02日 02時34分39秒)
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その9:赤間神宮にて(B)

いよいよ「七盛塚」の段になりました。
1993年のオカルト体験から書かなくてはなりませんね。

夫が平家贔屓なのを結婚してから知りました。結婚早々「自分は蟹の生れ変わ
り」と言い出し、私をキョトンとさせました。夫は日本に行けば、何度でも厳
島神社に行きたがる人です。宮島の蟹を指差して「仲間がいる」と言う人。

ドイツ系が4分の2ですからフランス系に言わせると「明子の旦那はドイツ系
だからオカルトかかってるだろ?スミスなんて名字は元々がドイツの名だぜ」
(えっ?スミスって名字は典型的なイギリスの名前じゃなかったの?)と私は
驚いてしまいました。←英文科出てるのに不勉強がモロに出てますね。(^^;

確かに夫の家の人々はオカルトかかってます。2年前に亡くなった夫の父も私
は2ー3回確かに感じています。これを経験して、結婚以来聞かされて来た霊
的な話を(ウチはオカルトかかってるんだ)と認めるようになりました。

確かにスミスと結婚してから、いろいろ、不思議な体験をするようになりまし
た。私の母方が、平家を裏切って源氏に付いた「源氏方」という事実も知りま
した。母方の事は子供の頃から「ウチは源氏。平家のような軟弱な男の子とは
結婚しないでね」と言われて来ましたから知ってはいましたが、それだけの事
でした。母方の代表人物のこともスミスと結婚してから詳細を知りました。そ
の人が承久の変で後鳥羽上皇に付いて敗れ、奥州江刺(現在の北上市内)に流
され没し、墓が整備され保護を受けていることもヒョンな事から知りました。

スミスと結婚してから、まず、このように母方の事から事実を知りました。で
も父は何も語らず「昔の事など分かるものか」というだけで、父も実は伊賀に
は何度も出向いていた事を1997年にやっと聞き出しました。

母方の事を知れば知るほど父方の事が出て来ます。でも父は「昔の事など」と
否定的態度なので(この平家物語のこの人物って。。。)とロマンを感じるだ
けでした。

1993年に「連れてって」と前々から夫が行きたい・行きたいと言っていた
赤間神宮にやっと行くことになりました。名古屋から新幹線で小倉に出て門司
を経由して下関に辿り着けました。(迷子にならず?!?)赤間神宮にも<な
んとか>行けました。町の公衆電話に可愛い飾りが付いていて夫は喜んでいま
したっけ。なかなか個性的な行政の町であると2人で感激しました。

赤間神宮で「耳無し芳一」の像を見て、7つの塚石を見て、じゃぁ、もういい
ね、帰りましょ、となりました。赤間神宮から新幹線の駅に戻るのに、バス停
でちっともバスが来ないのです。名古屋に早い内に帰れないじゃないのよぉ!

帰りを急ぐそんな私に何か<力>を感じました。
バスはなかなか来ないし。
何かの力が「行くな・未だ帰るな」と私に語り掛けるのです。
<後ろ髪を引かれる>という表現はこういう時に使うのでしょうか?

まだまだバスはなかなか来ないし。
それで赤間神宮で10円払って買って来たパンフレットを取り出して、読んで
みたら、伊賀の平内左衛門服部家長の塚も並んでいる事に気が付きました。

声にならない悲鳴を挙げて「ロンさん、あった!あった!戻らなきゃ、私!」
と叫んで赤間神宮に駆け戻りました。老夫婦が1組、既にいました。七盛塚は
静かです。でも、老夫婦が去った後は特殊な静寂が忍び寄って来ました。空気
も冷たくなってきて、別世界に変わりました。

もう、私は<涙・涙・涙>でした。

尋ねていた人は「ここに居たの?」と思いました。
家長の塚石の写真を撮ってバス停で待ってた夫の所に戻りました。そして涙で
くしゃくしゃの顔をして再び新幹線に乗りました。今度は名古屋に帰る為に。

昼間の新幹線はガラガラで、特に下関から小倉に戻る新幹線ですから全く乗客
はいず、多分私と夫の他には2人くらい乗っていただけではないでしょうか?
夫は通路の左側の窓際の席に自分の好きなように席を作り、私は指定の席でぼ
んやりしたく、背中からバックパックを降ろそうとして<感じた>のです。人
の手を。温かな手でした。「ありがとう。来てくれてありがとう」と言われた
のも感じました。

そして再び<涙・涙・涙>で一杯になってしまいました。

小倉から名古屋にひかりで戻って、服部家ホンヤの家に初めて行くことにしま
した。そして川越の服部家にも。これらの家は平家長が弓のコンペで優勝して
六条院から車一杯の矢を頂いた事を記念して、車と矢を組み合わせた形を家紋
に替えたのを使用している家です。因みにウチは只の矢2本の「並び矢紋」使
用です。嫡男は車に矢の紋、次男・三男は2本の矢の紋、四男以下は3本の矢
の紋とか区別?があるそうです。

服部家ホンヤは私のような身分の低い服部の者が敷居をまたげる家では無いの
に現当主の寛大さで入れてくれました。アメリカ人の夫は400数十年前に建
てられた家に座って天井に掛け渡した槍を見上げながら(中には今川義元を刺
した服部小平太の槍もあったようです)オカルトしていたようです。「何だか
あそこに座っていたら母衣衆が息せき切って伝令の報告を伝えに来るような気
がしたよ」と語っていました。

川越の服部氏は民俗資料館をしていらっしゃって、この家は武田氏の滅亡で流
れて来たとお話でした。そして「婿さんが下関の人です」とおっしゃっていま
した。家長の塚も赤間神宮にあります、とお知らせしましたら早速赤間神宮で
撮った写真をアメリカに送ってくれました。


因みに上記の服部小平太はホンヤの仇敵になる織田信長の家来になり、秀吉の
養子秀次の守り役の1人として連座し新潟で切腹しています。ホンヤにとって
は裏切り者の「津島出身の服部サン」になります。

服部 明子さんからのコメント(1999年05月02日 08時37分06秒)
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その9:赤間神宮にて(C)

今回、絶対私が赤間神宮の七盛塚に行きたかったのは、家長の隣に上総の忠光や
その従兄弟である飛騨の景経・景俊兄弟の塚石もあったのを1997年になって
やっと知ったからでした。

1997年に里帰りをしたのは、両親が引退をし東京に引っ越す事にしたので、
名古屋の不動産を全て処分する為、私の実印も必要になったからでした。それで
二度と伊賀に行くことは無いのだろうと思い1人で伊賀に行くことにしました。

名古屋から始発の関西本線に乗り、桑名を通った時、古い知人がここの高校に通
っていたのを思い出し、感慨深いものがこみ上げて来ました。桑名から亀山へと
抜け、電車を乗り換えて伊賀に向かいました。その日は5月というのに大変寒く
更に、雨もよいの日でありました。電車で佐那具に向かう途中、突然、私の顔の
辺りが温かく感じられました。何だか昔、知っていた人達の体温に接したような
気がしました。

佐那具を越すと再び寒い空気に戻り、電車はやがて伊賀上野駅に停まりました。
最初の予定は「伊賀神戸」に行こうと思い、電車を乗り替えて南に向かう途中、
「服部川」を越えた途端、どうしても「上野市」駅で降りなくてはならない気分
になりました。駅で降りても伊賀上野で知っている場所は、お城と忍者屋敷です
が、夫が一緒でないので1人では行く気になりませんでした。

それで心の命ずるまま、上野市駅で降り、右になんとなく歩いて行って。。。そ
れまで私が疑問に思っていたことが殆ど全て分かる事になりました。小さいこと
では「佐那具」駅の近くに敢国神社があり、忍者は「仕事」の前に、このお社に
来て手を合わせ成功を祈ったのだそうです。またこの神社のお祭りを「服部氏」
が宰領していたそうです。

最大の収穫は上記に書いた「桑名」の人が1060年を越す昔からウチを助けて
くれていた家の子孫だと分かりました。

彼の家は、この「オカルト紀行」の初めに紹介した藤原秀郷の子孫になります。
940年に東国に於いて藤原秀郷と平貞盛が組んで貞盛の従兄弟の平将門を殺し
ました。彼の家は「オカルト紀行」にも書いたように、伊豆の狩野に下だり、後
に伊勢に移って度会郡古市の景綱が、上総から伊勢・伊賀に下だって来た平氏の
子孫の清盛とよしみを通じ、以降江戸時代の初めまで彼の家とウチの家は命と涙
と血を預け合った運命共同体を構成する盟友関係にありました。

20数年ぶりに彼の声を聞きました。

日本に電話を掛ける時間を待ってる時にも、いろいろ知りたかったことが次々と
出て来ました。服部家ホンヤが「吉野朝遺臣11党」と呼ばれる1つであること
はホンヤから直接聞いていましたが他の10家の名がたまたま読んで時間を潰し
ていた本の中に出ていました。尾張・伊勢の南朝方の中心が津島神社である事、
戴いていた後醍醐天皇の子供が宗良親王である事、その子供は「いずよし親王」
そして11党は「四名家・七名字」と分類される事、など。でも、時間が来て
「桑名」に電話をしようと本を閉じて後は表紙から1ページ毎に丹念に探し求め
ても二度とそのページは見つかりませんでした。

この電話の後、桑名の人と最初に出会った時の情景を思い出しました。私は彼の
向こうに黒い影を見ていました。馬に乗った武将の姿でした。「桑名のもっと奥
に実家がある」と聞いた時、私は名古屋の隣にある桑名を考えず、姫路よりずっ
と西の場所を連想していました。

この2年間に20数年前の情景が鮮明な形となり、去年の8月遂にネット友達か
ら彼の家の藤原氏が清盛の次男・基盛父子及び三男・宗盛の補佐役であることを
教えて貰いました。何となく分かってはいたのですが証拠となる書き物が手に入
らなかったので私は自信が無かったのです。

(私が桑名の人の背後の影に見ていたのは、平行盛が乳兄弟と轡を並べて藤戸の
合戦に赴く場面だったの?!)と。

倶利伽羅峠の戦いで景綱の孫(忠清の嫡男と景家の嫡男)が揃って討ち死にをし
景家は嘆きの余り死んでしまいました。それで忠清の息子が景家の家に養子に行
ったのです。彼の名前は「藤原景俊」。景俊は若い頃、罪を得て出奔し、遠縁で
ある伊豆の狩野に隠れて父・忠清の怒りの解けるのを待ち、その間に東国の雰囲
気を嗅ぎ取って平家の行く末の不確かさを見てしまったのです。

藤原景俊は平家西国落ちの前、混乱の中を幼友達の<わたし>を訪れ、西国には
同行しないよう、<わたし>は代わりに伊賀の予野の花垣村に逃れるように、と
告げて去って行きました。「必ず自分は生き延びて、伊賀の花垣神社の桜の所で
君に再びまみえるのだから。何年かかろうとも、必ず君に会いに行くから、どこ
にいることになっても、君も必ず桜の咲く時には、毎年予野の桜の所に来ていて
欲しい」と。


赤間神宮の七盛塚には早朝1人で参るのが良いと思います。人が他にいては交信
出来ません。ましてや観光旅行の団体さんがいては平家の人々の訴える言葉は聞
こえないでしょう。お話の世界だけの事と思っていましたが「耳無し芳一」の世
界が赤間神宮の七盛塚の場所には今でもちゃんと存在しているのです。


「吉野朝遺臣11党」の件は「浪合記」に書かれています。ただ、「浪合記」が
徳川氏の出自捏造に利用された為に価値を失ったのは残念と思います。

服部 明子さんからのコメント(1999年05月02日 09時13分23秒)
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いよいよ最終章。「伊賀」の段になりました。

伊賀には「北条仲時」どののDNAを持った人が
迷子名人の私が迷子にならないようにと
仕事を休んで案内してくれました。

カムパネルラさんからのコメント(1999年05月02日 13時27分41秒)
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ふぅ。
読み応えがあるなぁ。(^^ゞ

けれども、これは「伝言板の書きこみ」では、もったいないですね。
これだけで、立派なHPになりますよ。

本にしても良いかも!って思っちゃいます。

続きはどうなるのだろう。
ドキドキ。

服部 明子さんからのコメント(1999年05月02日 18時10分38秒)
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カムパネルラさん:

ありがとうございます。
頑張って「伊賀」の段で完結させます。



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