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 投稿番号:103896 投稿日:2017年01月22日 00時44分19秒  パスワード
 お名前:鬼丸円
どなたか鬼丸姓についてご存知ないでしょうか?
キーワード:鬼丸 藤原
コメントの種類 :その他  パスワード

この度は初めて投稿させていただきます
鹿児島市最北部(平成の合併で日置郡より吸収合併)在住の鬼丸と申します
当家の家系を探しております
少なくとも、墓石では、1600年前後のものが残されております
家系図では藤原家となっておりますが、平家物語を熱く語るの中で、服部明子さんtakahiro さんが平家の鬼丸について述べておられる文章を最近拝見させていただきました。
鬼丸姓は平家と考えるほうが良いのでしょうか?。当地区では三家の鬼丸姓があり、家紋は
いずれも中輪に開き扇ですが、当家のみが3本で他のニ家は5本骨と二つに別れております。
当地区は江戸時代は島津直轄地でした。当家は当地区での郷士で地頭跡の真横に昔から居住しております。
何か参考となることをご存知の方がおられたご教示いただければ幸いです。

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[1]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月22日 01時53分17秒 ) パスワード

鬼丸円さん

ネットに詳しく出ていますよ。

例えば

http://www.kakeiken.com/report0016.html

『平家伝説序章(9)頼盛流』鬼丸氏<1>


頼盛ーーー為盛ーーー家保(居 鬼丸)ーーー初代 鬼丸家衡  −−→22代甚三郎



『平家伝説序章(9)頼盛流』鬼丸氏<2>
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月22日 01時55分37秒 ) パスワード

鬼丸円さん


数年前に放送になった大河ドラマの「清盛」で
第8話?の番組の終わりの「紀行」に「鬼丸神社」が紹介されていました。


続く
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月22日 01時59分17秒 ) パスワード

島津家の家老  小松家の守り神  という説明だったように記憶しています。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月22日 02時09分36秒 ) パスワード

小松というのは

小松氏(こまつし)
禰寝氏の江戸時代中期以後の改姓後の姓。幕末の小松清廉(帯刀)が著名。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%B0%E5%AF%9D%E6%B0%8F
禰寝氏(ねじめし)

本姓    建部氏
称・桓武平氏重盛流
家祖    禰寝清重
出身地   大隅国禰寝院

著名な人物

      小松清廉
      祢占才之進
      山本権兵衛
      上原謙(池端清亮)
      入鹿山且朗
      池端清一


支流、分家
      角氏(武家)
      池端氏(武家)
      山本氏(武家)
      武氏(武家)
      など

大隅国の有力国人、戦国大名、のち薩摩藩士の氏族。

禰寝氏は中世には豪族として角、西本、池端、山本氏など、また近世初期では入鹿山、武などの別の名字を名乗る20家門ほどの庶流を輩出した。同氏直系は江戸時代中期に先祖に当たると目された平重盛の号にちなみ「小松氏」と改姓した。江戸期には、「歴代当主」の項に明らかなように古代・中世から続く連綿とした宗家の血の流れは途絶えたが、宗家を支える御三家、禰寝・松沢(庶流の最も古い一門)、禰寝・西本(時に西元とも)、禰寝・角などは他の庶家とともに一族の歴史的記憶に重要な役割を果たし続け、現在に至っている。


大隅国禰寝院(現在の鹿児島県肝属郡錦江町(旧大根占町はその一)及び南大隅町(旧[小]根占町はその一))を領したことが、名字の由来である。

江戸時代に直系は「平重盛の孫・平高清の末裔」であることを主張したが、鎌倉時代、室町時代の公式文書にはすべて「平姓」(平氏)ではなく「建部姓」(建部氏)で署名していること、平高清の没年と禰寝氏初代・清重の地頭職就任年が同年であることから見て疑わしい。平氏末裔を主張した背景には島津光久後室・陽和院殿の養家である平松家とのつながりが深くなったことが背景にあるのではという説がある[2]。またこの江戸時代には源氏を名乗る島津氏が禰寝氏本流を受け継いでいたため、血縁的には中世の禰寝氏とつながらず、より大きな、しかも周知の姓、平姓にしたかったことも一因であろう。[独自研究?]。

建部姓禰寝氏の先祖は遠く大宰府の在庁官人であり、禰寝氏(小松氏)が同じ鹿児島の島津氏よりも出自が古いことは歴然としている。このように史料をもって古代に遡りうる氏族は稀である。[3]。


奈良・平安時代[編集]

古代にあっては建部姓を取り、大宰府在庁官人であった。後に一族は郡司職についている。11世紀半ば過ぎに、禰寝氏初代清重に遡ること4代前の藤原頼光に関わる史料が『禰寝文書』では最初の文書として上げられている[4]。治暦5年(1069)年のことである。京で藤原氏全盛期のころ、建部姓の一族は、奥州にあって清原氏が藤原姓を名乗るように大隅国にあって藤原姓を取っていた。頼光が子女に配分した所領は広大で、荘園としての禰寝院(行政所領単位[5]。名字はこれに由来する)の規模をはるかに超え、絶大な権勢を保持した。



戦国時代から安土桃山時代[編集]

禰寝忠清は島津忠昌に従って軍功著しく、また文亀3年(1503年)には上洛して後柏原天皇の勅に応じて献じた和歌がお褒めに与り右兵衛尉に任ぜられた。尊の字を賜り、尊重と称した。薩隅日(薩摩・大隅・日向)を代表する歌人として高い評価を得ている。永正元年(1504年)にも宣旨を受け大和守に任ぜられているが、朝廷と独自のパイプを持っていることが伺い知れ、禰寝領主として守護島津氏に依らない権勢を持っていたことがわかる。

この頃までの禰寝氏は、大隅国の国人の中では島津氏よりの姿勢をとっていたが、その後島津氏は早世する当主が相次ぎ、その権威の低下をついて、隣に領地を構える肝付氏の攻撃が激しくなってくる。禰寝清年が当主であった享禄3年(1530年)、肝付兼興は禰寝領へも侵攻を開始したがこれは撃退することに成功している。天文12年(1543年)には種子島恵時との戦いに勝ち屋久島を領地とするが、これは翌年には奪いかえされることとなり、以後、種子島氏との対立が激化する。種子島氏側(『種子島家譜』)ではこれを「根占(禰寝)戦争」と呼び、重視するが、これに関わった禰寝一族の根占(禰寝)龍善の名は禰寝氏史料からは消されている。戦国時代の中で禰寝一族の中でも本家と分家の対立が生じており、後に禰寝氏直系は本流を限定した可能性がある。それは多分整理された系図に読みとれよう。これは名字を改めたこととともに一考に値する歴史的問題であろう。[独自研究?]

清年の後を嗣いだ禰寝重長は琉球との交易や産業振興で領内の拡充を図る一方、領地の拡大をもめざし、戦国大名として成長していくことになる。この過程で種子島氏は島津氏を後ろ盾としたため、対抗上、禰寝氏は対立していた肝付氏と連合を組むこととし、永禄4年(1561年)の廻城の戦いでは肝付兼続側に付いている。その後、肝付氏、伊地知氏らと連合し、海軍を率いて鹿児島を奇襲するが、これは島津氏側の必死の防戦により失敗した。この頃が禰寝氏の勢力が一番大きかった時代といえよう。

この頃、島津氏の当主は義久に代わっていたが、悲願の薩隅日統一のためには肝付氏への対抗上禰寝氏との連合が不可欠であることを痛感し、重長にたびたび使者を派遣し調略、島津氏の勢いを悟った重長は義久の説得攻勢に屈することとなり、以後島津氏配下の武将となった。重長が島津氏側に寝返ったことを知った肝付兼続は、以後禰寝領に激しく攻撃を仕掛けてきたが、重長はそのたびに島津氏からの援軍を得て撃退に成功している。

重長の跡を嗣いだのは息子の禰寝重張(重虎)で、島津氏配下の武将として活躍していた。しかし、文禄5年(1596年)の文禄検地により、島津氏配下の武将のほとんどが先祖伝来の土地からの領地替えを命じられる。禰寝氏も例外ではなく、鎌倉時代から支配していた南大隅から引き離され、薩摩国吉利郷(現鹿児島県日置市日吉町吉利)に遷される。このことは禰寝氏の運命の転換点となる。庄内の乱後、北郷氏など多くの領主が旧領に戻る中で、禰寝氏は二度と旧領に戻されることはなかった。

江戸時代以降[編集]

重張の跡を継いだのは息子の重政であったが重張に先立って早世、子供はいなかったために禰寝氏の直系はここで断絶した。この跡を嗣いだのは当時の薩摩藩主である島津家久の子・福寿丸で、事実上禰寝氏は島津家の分家として乗っ取られたことになる。

清雄以降は家老等の重職を任されるようになる。禰寝氏は光久の後室・陽和院の入輿に関して功績大であったことなどから公家・平松家との親交が深まり、特に先祖顕彰に熱心であった24代当主の清香は藩内の反対を押し切って小松氏への改姓に成功、以後「小松」を姓とする。

幕末には小松帯刀清廉が活躍したが、病弱のため早世した。小松清廉の男子直系子孫も孫の重春で断絶(女子の子孫は続いている)し、その後は重春の夫人が養子に迎えた西郷従道の子孫が家名を継いでいる。子宝に恵まれた従道子孫は鍋島家(鍋島氏)や岩倉家などにも入っているので、小松家とは従って縁戚となる。


詳しくはURLへ
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月22日 02時44分21秒 ) パスワード

書き直し



平清盛の弟の平頼盛の生母(池の禅尼 = 藤原宗子さま)が源頼朝の命を救ったので
平家が敗北して後、頼朝は頼盛に礼をしています。

島津忠久は母が頼朝の乳母子だったので頼朝に重用されました。
(ここで島津忠久が源頼朝のご落胤というハナシが出て来るのでしょう)

                本当だとしても政子がコワイから頼朝は認知出来なかったでしょうし
                世間がそう噂していたというのもあったでしょうし

                当時は科学的な証明ができず、京都の水で顔を洗った美しい女性はみんな顔が似てたかも
                それで忠久と頼朝の顔はなんとなく雅さを持っていたかも。


                     母親だって自分の生んだ子の父親が誰かよく分からないということがありますからね(ふふふ)

                     父親を(ふふふ)と秘密にしておけば世間は勝手な解釈をしてくれますからね


頼朝は源氏の氏の長者なので、頼朝のお気に入りは、清和源氏に姓を変えたでしょう。


で、島津藩の家臣は平家の子孫ということではちょっとマズイということで、平頼盛の母の実家の藤原姓に姓を変えたということもあるでしょう。

                 政治的な動きですね


藤原宗子さまの一族は天皇家に近く、実際に後に天皇が出てますし
鬼丸氏は源氏の敵の平家を名乗るよりは藤原氏の方が都合が良かったでしょう。
どちらにしろ頼朝の母も藤原氏の娘ですしね

島津家の重臣の身分としては

滅びた平家の子孫よりも藤原つながりで頼朝とも繋がる
ということで  小松家も鬼丸家も   平家であって藤原氏でもある
源氏の世を憚って  姓を藤原  にしたのでしょう。ウソじゃないし。
 


島津氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月22日 03時03分34秒 ) パスワード

名字は
大陸や半島は名字の数が少ないですが
日本はものすごい数ですよね。
多分世界で1番名字の数が多い民族(笑)ではないでしょうか?


その上に日本人の出自は簡単には語れないです。

人間は足があるので動きますからね。
同じ一族の中で、区別のために屋号として住んでる土地の名を称したり
派遣先の土地の名家と縁が出来て、婿として、その土地の豪族の名前を称したりしますしね。


その上に殿さまから姓を拝領したりしますしね。



家紋はもっとややこしいです。
1家に1紋じゃないです。

同じ父を持つ家の中でも区別の為に本数の違いがあったりして区別が出来ます。
それで上下関係・嫡庶の区別がついたり。


同じ名字で同じ家紋なら、同じ系統でしょうけど
同じ名字でもちょっと家紋に差があれば、何か、アイデンティティの違いがあるのでしょう。


そういうのは  先祖  のハナシですから
お彼岸とかお盆とかお祭りの時に一族の方でお喋りして聞き出すより
と思います。

どこで分かれたのか分かるかも知れないし
実は名字は同じでも  ヨソモノ  ということもありますし。


兄弟は他人の始まりとはよく言ったものです。
こうやって他人の関係に成っていくんだなとシミジミします。
[8]鬼丸円さんからのコメント(2017年01月22日 17時04分33秒 ) パスワード

空の青海のあをさん
誠に有難うございます。このように早々に貴重な情報を賜り感謝いたします。
当方も、同様に解釈しておりました。すなわち、平氏であるものの島津直轄地で生き抜くためには
藤原姓を名乗らざるには生きてゆけない立場だったと解釈しても良いのではと思います。
当地区には、ご指摘にように、花尾神社があり、この神社こそ、丹後局を祀っております。
この神社祭りには、島津家当主の方の参加があります。空の青海のあを様の情報を熟読させて頂き
自分なりに先祖の解釈を持ちたいと思います。この度のご協力に深く感謝いたします。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月23日 01時43分13秒 ) パスワード

鬼丸円さん

他の方より書き込みがあるかも知れませんので
時々覗きに来てくださいね。

家紋についても情報が来るかもです。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月23日 01時51分06秒 ) パスワード

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E9%AC%BC%E4%B8%B8

【名字】鬼丸
【読み】おにまる,きまる

【全国順位】 4,595位
【全国人数】 およそ2,400人


現大分県中南部である豊後国海部郡鬼丸村起源とも言われる。
近年、福岡県に多数みられる。

次ページに分布図が出ています。


分布としては福岡から大分・宮崎・鹿児島に集中してますね。
(大分の南隣って鹿児島だと思ってました。土地勘が無いので、ごめんなさい)

大分県海部郡
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月23日 02時05分23秒 ) パスワード

ビックリ!

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1194544411


Q)名字に鬼が使われる   略


A)「鬼丸」の名のつく場所

福岡県、
次いで鹿児島県に多く、

豊後国海部郡臼杵荘鬼丸村(津久見市大字上青江のうち)や
同国速見郡山香郷鬼丸名(速見郡山香町大字立石字鬼丸に比定される)、
同国下毛郡諌山郷内田口浦鬼丸名(中津市三光田口のうちに比定される)、
豊前国田川郡(福岡県田川市)にも鬼丸の地名があったとされますが場所は不明、

肥前国佐賀郡赤松村鬼丸名(佐賀県佐賀市城内の佐賀城の南側内堀に沿って位置する)など、

地名は九州の北部に多く点在します。

それぞれの由来に関しては、どこも地名範囲が狭く、現地で調べなければ詳細は
不詳としか言いようがありません。



ということは
豊後国海部郡臼杵荘鬼丸村(津久見市大字上青江のうち)でしょうか?
   
      佐伯市じゃなかったですね。
      津久見って?
      名前は知ってる。高校野球の名門校。赤面
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月23日 02時29分07秒 ) パスワード

>豊後国海部郡臼杵荘鬼丸村

佐伯市かと思ってました。
豊後国海部郡は現在の津久見市や佐伯市の一部だったのでしょうね。

佐伯市としたら平家のお味方の宇佐神宮がらみかもですね。
http://www.usajinguu.com/lineage.html

平家との関係
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E7%A5%9E%E5%AE%AE


祭神
主祭神は以下の3柱。

一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ) - 誉田別尊(応神天皇)とする
二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) - 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)とする
三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう) - 別名として息長足姫命とも

いずれも上宮・下宮の両方に祭られている。




神護景雲3年(769年)の宇佐八幡宮神託事件では皇位の継承まで関与するなど、
伊勢神宮を凌ぐ程の皇室の宗廟として崇拝の対象となり繁栄した信仰を集めた。

平安時代中期の『延喜式神名帳』には、
3神が「豊前国宇佐郡 八幡大菩薩宇佐宮」、「豊前国宇佐郡 比売神社」、「豊前国宇佐郡 大帯姫廟神社」として記載され、
いずれも名神大社に列している。

また、平安時代には宇佐神宮は神宮寺の弥勒寺とともに九州最大の荘園領主であった。
また神職家や坊官家は武士としても活動しており[注 2]、このため近郊の(特に豊後国の)有力武士としばしば敵対している。


                                             ↙ココ

源平争乱期には平清盛の娘を妻とする大宮司・宇佐公通が平家方につく。

屋島の戦いから敗走する総大将・平宗盛ら平家一門は宇佐神宮を頼って束の間安徳天皇と共に公通の舘に滞在していたが、
豊後の緒方惟義が源氏方について叛逆したこともあり庇護しきれなかった

    (このとき悲嘆した平清経が自殺したという場所に、小松塚と呼ばれる石碑と五輪塔がある)。

またこのとき緒方氏によって神宮が焼討ちにあったという。


この焼討ちの時、神体(金の延べ棒との説もある)が強奪された。
この後発見されるが、朝廷の裁定により石清水八幡宮が管理することになった。


鎌倉時代の元寇でも当時の他の社寺同様に加持祈祷を行っている。
この際に活躍した宇佐公世(公通の玄孫)は、社領回復に成功して中興の祖と仰がれた。
その子・宇佐(到津)公連は鎌倉幕府倒幕においても活躍して、後に懐良親王擁立に参加している。


                                    この懐良親王は南朝方の将軍として九州に送られました。






なので鬼丸氏は平家方であり南朝方だったと思いますよ。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月23日 02時33分21秒 ) パスワード

http://www.kagojinjacho.or.jp/search/kagoshima/hioki/post-241.html
鬼丸神社

•神社名:鬼丸神社
•神社名カナ:オニマルジンジャ
•鎮座地:〒899-3203 日置市日吉町吉利4827
•例祭日:四月十六日 六月十六日
•通称:鬼丸殿(オイマンドン)
•旧社格:村社
•神紋:
•摂末社:0
•社宝:鎧一領(現在は黎明館に保管)


御祭神

•祢寝家十六代右近大夫重長公(ネジメケジュウロクダイウコンダユウシゲナガコウ)
•建部大明神(タケベダイメョウジン)
•稲荷大明神(イナリダイメョウジン)
•山王権現(サンノウゴンゲン)



祢寝家16代右近大夫重長公重長公は小松十六代の祖である。

剛勇にして才幹に溢れ、元亀・天正の頃、大隅肝属地方を本拠として勢威を振るった。
一方、人民には仁厚く徳政を布いたので、畏敬尊信をうけた。

天正八年三月麑府に赴き、鴆毒に遇い、帰路大姶良郷で没した。

荼毘に付した煙は天に満ち、鬼丸大明神の五文字を描いた。



そこで、子の重帳は小根占に鬼丸神社を建立し、父君を祀った。

御神鏡の裏に「天正八年三月十六日鬼丸大明神天下一森田武蔵作」と銘があるので、この年の創建と思われる。


文禄四年重帳は吉利を領することとなり、神社も遷座した。


へぇ〜
こういう経緯でしたか。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月23日 02時48分28秒 ) パスワード

5本骨扇紋(3本のは見つかっていないです)


古代より扇は神の依代とされ、所持していることで厄除けにもなるとされていた。

戦国時代では、扇を戦場で翻せば神威によって身が守られ、戦に勝利すると信じられていた。

また、扇は末広とも呼ばれ将来発展するとされ、やがて家紋として用いられるようになった。

扇紋は、その骨の数で宗支を分けることが多いとされる。


       ある説では宗家から離れるに従って骨の数が少なくなるというのを見ました。
       我が家の家紋(並び矢)では本数が増える(3本矢)は庶流だと読んだことがあります。


なので本数の違いについては一族の中でお聞きになるのが良いと思います。

[16]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月23日 02時51分43秒 ) パスワード

見付けました:

[17]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月23日 02時54分36秒 ) パスワード

鬼丸円さん


只今問い合わせ中なので
もしかするとお返事があるかも知れません。

時々覗いてくださいね。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月10日 13時50分28秒 ) パスワード

鬼丸円さん

本日、残念ながら、
中輪に開き扇3本骨紋についての情報は得られなかったとのことですが
有用なお返事を頂きましたので
ご報告でございます。


以下コピペ:

一般的には、旧薩摩藩の鬼丸姓の家紋につきましては、
『鹿児島県姓氏家系大辞典 (角川日本姓氏歴史人物大辞典)』の巻末に比較的詳しく掲載されています。

あともう一冊、全国の名字と出自、家紋を都道府県順に掲載した図書(東日本版と西日本版の二冊構成)があり、
こちらにも西日本版の鹿児島県の部分に、鬼丸姓と家紋について掲載されていましたが、
今現在、確認することができません。
(京都府立総合資料館に蔵書されていた覚えがありますが、現在改築のため閉館中です。)

とのことでした。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月10日 22時13分05秒 ) パスワード

3−4時間後に続きを書きますね。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月11日 01時55分39秒 ) パスワード

続き

家紋の件ではございませんが:現在に続く鬼丸氏について

A)
旧薩摩藩内の鬼丸姓について
桓武平姓鬼丸家、また藤原姓鬼丸家、また島津家からの分家の鬼丸家があり

B)
福岡県の鬼丸姓について
同県瀬高町に江戸時代より宮座が続く鬼丸姓があり。

C)
熊本県の鬼丸姓について
明治初期の神風連の乱にて自刃した鬼丸競の家系は、少なくとも戦国時代に遡り、熊本市の藤崎八旛宮の社家の一家の末裔として記録に残ります。


鬼丸競?
鬼丸円さんと関係があるのでしょうか?

渡辺氏には名前は1字決まりの名家がありますが
鬼丸競の家もコレでしょうか?



ということで鬼丸競について
http://kobayashi10.info/wp/?tag=%E9%AC%BC%E4%B8%B8%E7%AB%B6

神風連の乱に参加した小林恒太郎は、挙兵が失敗に終わった後、鬼丸競、野口満雄とともに自刃した。

小林の自宅でのことだ。
自宅の場所は、現在の熊本市内坪井町の古地図に小林恒太郎宅の記録があるほか、
同市山崎町にも小林家の住まいがあったことが伝わっている。

どちらが最期の地であったのだろうか?


鬼丸競についてお調べになってはいかがでしょう?
熊本と鹿児島は近いですから。
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