[1] | 総督さんからのコメント(2005年11月29日 00時38分32秒 ) | パスワード |
私わこの資料わぜんぜん知りませんでした、大正時代にもうこのような計画があつたとわ驚きです、でも今の時代になるとジャンボジェツトもできコンテナも出来チョツト様子もかわつて来ているので同じように論じる事わできませんが、凄い事です。
[2] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年11月29日 01時24分58秒 ) | パスワード |
>自然の水深が10〜18メートル
>230万平方メートルの広大な平地を作る
大ロマンだったんですねえ。
良港を建築し
70万坪の土地が確保できたら
巨大企業の工場が2つは誘致できるんですから雇用も確保できて人口も流入して経済も活性し
北九州経済圏の発展に大いに貢献できた
という計画だったんですね。
[3] | なかにし@お世話係さんからのコメント(2005年11月29日 09時49分56秒 ) | パスワード |
URL=http://www.hikoshima.com/ |
総督さん、暇潰しさん、おはようございます。
もし実現していたら、彦島の姿がどのように変わっていたか想像さえもできないようなすごいプランですよね。きっと香港かシンガポールのようになっていたのではないかと想像できます。
総督さんも書いておられますが、物の動き方が船の性能が上がったり、物流が陸上輸送に移っていったりで変化してしまい、それに加えて、いろいろなことがあって、計画の一部分(小瀬戸の埋め立てとか、大和町から細江にかけての整備とか)しか実現しなかったのだと思うのですけど、本当に大ロマンですね。
「海峡大観」には「小倉・若松周辺は工業がますます発展する」「下関は小倉の工業地帯を支える住宅地として発展する」「下関は朝鮮との窓口になり、国際的な物流は門司港に移行する」「関門に橋を架けるのは当分無理だろう」といった感じで、現在を予見していたのか、それともこの時代から100年後を見据えたプランがあって現在もそのプランに従って街が動いているのか、そんなことを感じさせる記述もあります。北九州市の図書館には原本と現代語訳版両方が収蔵されています。下関の図書館では市の図書館サイトで検索したのですがヒットしませんでした。
[4] | nyaoさんからのコメント(2005年12月04日 23時24分29秒 ) | パスワード |
URL=http://www2u.biglobe.ne.jp/~vanquish |
古田税関長が掲げた関門の七大特徴のうち、
「対アジア」と「石炭」は見る影もなくなっていますが、
他の5項目は今なお関門港(国土交通省の正式呼称)において、
大正年代と同等もしくはそれ以上の重要度を持っています。
これだけの重要水域ならば国がそれ相応の戦略方針を持って、
港湾建設を行うことはごく自然な流れであったと思います。
戦争以外で誤算があったとすれば船舶の巨大化でしょうね。
かつて長崎で建造された戦艦「武蔵」は呉で最終仕上げを行うにあたり、
喫水が深すぎて関門海峡を通航できないため、
大隅海峡・豊後水道を回って瀬戸内海に入りましたが、
その排水量は設計値で満載時約7万2千トン。
大雑把に客船等の総トンに換算すれば4万3千トンくらいですが、
今じゃ大型貨物船は載貨重量トンで10万トン以上も珍しくなくなりました。
もちろん喫水が異なるので単純比較はできませんが、
まさかここまで船が大型化するとは予想できなかったのでしょう。
大正時代で日本最大の船は戦艦「長門」「陸奥」…でしたっけ?(汗)
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