[1] | 服部 明子さんからのコメント(2002年06月23日 11時12分44秒 ) | パスワード |
最後の写真は寂しいですね。
[2] | LOVE MEさんからのコメント(2002年06月23日 17時36分03秒 ) | パスワード |
あら・・・ そうだったんですか。r(^^;
ここは 兄貴が卒園したとこですし、それ以外も いろいろお世話になったとこなんですよ。
見慣れた園舎がなくなってしまうのは なんだか寂しいですね。
[3] | お世話係なかにしさんからのコメント(2002年06月23日 19時58分39秒 ) | パスワード |
服部明子さん、こんばんは
そうですね〜。月曜日から解体に着手するということで、この日はすでに机や遊具も運び出されていてガランとしていました。ちなみに、一番下の写真は年中さんの部屋で、私は画面の右端あたりの窓際に座っていたような気がします。
LOVE ME さん、こんばんは
ロンドンブーツの淳さんもここの出身だそうですね。お別れ式にメッセージが届いていました。
新しい園舎は二階建てで快適なものになるそうですので、子供達や保母さんにとっては待望の施設でしょうねぇ〜。来年の1月竣工だそうで楽しみです。
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2002年06月23日 20時58分32秒 ) | パスワード |
>私は画面の右端あたりの窓際に座っていたような気がします。
凄い記憶力ですねぇ。
原風景として残っているんでしょうね。
きっと楽しかったのでしょう。
[5] | miura yoshiyukiさんからのコメント(2002年06月27日 03時48分58秒 ) | パスワード |
弟子待保育園 現名 でしまつ保育園の創設の苦労。
関門トンネルの工事土砂にての埋め立てにて、整地・地盤改良の苦労。 人力作業。
創設総指揮は、祖父の山本吉之介。 全部人力。 排水の悪い、粘土層との戦い。
園舎の構造骨格は当時めずらしい、コンクリートブロック。 それも20cmブロック。
火災に強く、安全な構造を考え、耐久性の優れた、ブロックにて、手作り。
現園長 山本八重 園長が、田の首町の旧自宅前にて、自ら、セメントをこねて、
2名の作業者と共に、一日20個づつの生産ノルマで、型枠成形にて、手作りにて、
作業。 1200ケ製造開始。 当時、お腹には、現副園長の 山本 吉幸。
砂は、田の首町大山の手前の浜砂を、手こぎ船にて、運搬は、当時、
市役所勤めの、現事務長の山本栄祐氏。 完成ブロックは、当然運搬も、リヤカーで、人力にて、旧 弟子待 姫の水(現杉田町)まで、運んだそうです。
当時は、山中町・向井町は、田んぼ。 田の首線県道は、未舗装状況。
現在の道は、ほとんどあぜ道に近い状況。 よく人力で、運んだと思います。
でしまつ保育園の、手作りにて、園舎構築は、あまり、
知られていないので、敢えて、創設の苦労の一端を、お伝え致します。
[6] | 服部 明子さんからのコメント(2002年06月27日 10時21分34秒 ) | パスワード |
素晴らしいお話をありがとうございます。
>自ら、セメントをこねて、2名の作業者と共に、一日20個づつの生産ノルマで、
>型枠成形にて、手作りにて、作業。
60年代頃までこんな光景があったそうです。
私の伯母も自分でセメントこねてブロックを作ったなんて聞いています。
そういう想い出のある園舎を取り壊すって
身を切られる思いなのでしょうね。
でも、安全には替えられませんからね。
[7] | お世話係なかにしさんからのコメント(2002年07月01日 00時32分44秒 ) | パスワード |
miura yoshiyukiさん、こんばんは。貴重なお話をありがとうございました。
あの園舎は手作りだったのですねぇ。現在の保育に対する姿勢も、「手作り」というのは的確な表現ではないかもしれませんけど、他の保育園にない良さがありますよねぇ。
うちの上の子は小さい頃、園舎が近代的でこぎれいな別の保育園にしばらく通わせてたんですけど、決してその園に不満があったわけでは無いのですが、なんだかんだの事情で私自身も30年前に通っていたでしまつ保育園に転園させて、非常に良い保育をしていただきました。
よその保育園とは一味違う保育に対する熱心な姿勢って言うのも、そういう歴史に裏打ちされたものなのですねぇ〜。
[8] | 金丸篤實さんからのコメント(2002年07月01日 16時19分09秒 ) | パスワード |
なにか、このサイトの底にある力の源泉を垣間見させていただいた気がします。五十年以上前に始まったであろう創業者の努力、それを支えた子供たちの教育にかける熱情、数枚の写真と解説、創業関係者の思い出から、想いは、空を駆け巡ります。
卒園された方々の思い出を聴きたいです。
[9] | 杜華さんからのコメント(2002年07月02日 01時32分25秒 ) | パスワード |
杜華(もりのはな)と申します。女性のようなハンドルネームですが、男です。
弟子待保育園の卒園生です。こちらのお世話係なかにしさんが30年ほど前に
通園しておられたとの事ですので、ちょうど同じくらいの世代かと思います。
よろしくお願いいたします。
弟子待保育園の思い出を・・・とのことですが、思い出はたくさんありますが
最初に思い浮かぶのは大きな滑り台でしょうか。10年位前に取り壊されたの
ではないかと思いますが、遊び時間の遊びといえば滑り台だったように記憶し
ています。地形を利用して作られた大きなものでしたが、ひょっとするとあれ
も園長先生方の手作りだったのだろうか、と思うと懐かしさもより一層です。
他には、集団登園でしょうか。
今は保護者が送迎をしておられるようですが、当時は保母さんが引率して地区
ごとにみんなで並んで登園下園していました。もちろん、今ほど車は多くなか
ったと申しますか、車などほとんどない時代でしたので、何十人かでかなり長
い列を作って帰っていたように記憶しています。台風のときなどはどうしてい
たのでしょうか。
[10] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月02日 02時30分40秒 ) | パスワード |
滑り台も手作りだったのでしょうか?
涙が出そうなお話ですよね。
[11] | 金丸篤實さんからのコメント(2002年07月05日 10時21分13秒 ) | パスワード |
滑り台も手作りだったのでしょうか?服部さんの受け売り。
多分、手作りですよね。杜華さん。他の卒園者の方でもいいのだけれど、もう少し、滑り台ほか、園の話を聴きたいです。
ひとつの時代が役割を終えて、次の時代に譲るように、なにか、でしまつ保育園の園舎の取り壊しを感じるのです。ところで、でしまつ保育園は閉じないのでしょう?
[12] | お世話係なかにしさんからのコメント(2002年07月05日 22時55分46秒 ) | パスワード |
杜華さん、金丸さん、みなさん、こんばんは。
でしまつ保育園は閉じません。もちろん、今も仮園舎で保育をしておられます。
思い出・・・。
滑り台は私も良く遊んでました。8年位前に取り壊して倉庫になったんですよね。
集団登園。もちろん私もしてました。私は弟子待保育園に家が近いのでかなりの行列でしたねぇ。2、30人くらいでしたでしょうかねぇ。
あとは・・・なんでしょ・・・保育園の思い出が自分の子供が同じ保育園に通園したことによって上書きされてしまったみたいでうまく思い出せないんですよねぇ。
そうそう、夏場は講堂でみんなで昼寝、ってのがありましたね。先生がうちわでみんなをあおいでくれてたんですよねぇ。
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