[1] | 服部 明子さんからのコメント(2000年12月23日 07時33分49秒 ) | パスワード |
蜂須賀小六正勝の実像:
「武功夜話」によると
「小六殿は侠気猛く、豪勇近隣に聞こえ高し。
川筋7流の者数千人群牢す。
一党の者、尾・濃の間を徒党して往来」
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2000年12月23日 07時41分28秒 ) | パスワード |
最後の阿波藩主・蜂須賀茂アキ侯爵が明治天皇の宴席で
慣例になっている小食器を持ち帰る時
銀のスプーンか何かをそっと懐中に入れたのを
明治天皇に「蜂須賀、家柄は争えぬものだな」と言われたという話は
じつは蜂須賀侯がまだ世子の頃
土佐の山内容堂ところで座にあった銀の瓶子を所望し
返事のないのに持ち帰ろうとして容堂から
「なんじ、乃祖←だいその遺風にならうや」
と言われたことが原型らしい。
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2000年12月23日 07時52分33秒 ) | パスワード |
いずれにしても上下を問わず夜盗小六の名は知れ渡っていたらしい。
小六の名が現われるのは諸種の「太閤記」で
「甫庵太閤記」には「夜討強盗を営む」といい、
「絵本太閤記」には「おいはぎ、強盗の親分」
などとある。
「頼山陽の<日本外史>でも、豪侠大盗だ。
なかでも三河・矢作川の橋の上で秀吉こと日吉丸とのカイコウ場面が有名である。
強盗働きの帰りと思われる小六と
その槍の石突きを握ってニラム少年日吉丸の図柄はよく知られている。
以後、日吉丸は小六の食客となり、一転、信長に仕官した秀吉が小六を家来にして
墨俣に一夜城を築城し手柄を立てる。
これが良く知られた小六像である。
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2000年12月23日 07時57分40秒 ) | パスワード |
蜂須賀小六正勝の父は正利。
蜂須賀正利の妻は大橋氏出身だが小六正勝の生母ではない。
正妻・大橋氏は津島奴野城を預かっていた大橋定高の子孫・貞広の娘。
大橋氏は平家である。
南朝方。
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2000年12月23日 08時23分40秒 ) | パスワード |
蜂須賀小六正勝の妻まつは真清田(ますだ=増田)の娘で
まつの母方は伊勢・本姓・関氏、平家の出身である。
由来、関氏は北伊勢のお大族であった。
建仁4年の夏、平 盛国の嫡子・左近将監・実忠がはじめ伊勢鈴鹿郡関谷を領し
6世の孫の関四郎盛政という者から関谷亀山に住むことになった。
子孫大いに繁盛し、
嫡子・関太郎盛澄は神戸に
2男国府次郎盛門は国府に、
3男三郎盛繁は亀山に
4男鹿伏兎四郎左衛尉盛宗は鹿伏兎に
5男峰五郎政実は峰に
それぞれ本拠を構えた。
これら5家の領地は併せて16郷。
軍兵900。
うち騎馬150騎、小者600人で
与力は合わせて1000人と号した。
いわゆる<関の一党>という。
まつの生家真清田の縁類は鹿伏兎の流れで中河原に住んだ。
通称・中河原平内左衛門という。
この人物によってまつは北畠具教のお側に上がることになった。
[6] | 服部 明子さんからのコメント(2000年12月23日 08時43分43秒 ) | パスワード |
当時の「津島」とは:
津島は伊勢・尾張の境をやくする町であった。
西南の川口に開けた港湾はここから桑名の航路を津島渡しと称するほど
海上の要でもあった。
「宗長手記」によると
「此所の各々、堤を家路とす。
橋あり、3町あまり。
熱田の長橋よりなお遠かるべし。
及川洲俣河落合、近江の海ともいうべし。
橋のもとより船十余艘かざりて若衆法師誘引。
此河づらの里々数を知らず。
桑名までは河水3里ばかり、
舞謡、笛、つづみ、太鼓、舟ばたをたたき
ささずして流れ渡りしなり」
もってインシンのさまが窺われる。
また町並は裕福で、土倉が軒を並べていたという。
人の出入りもまた激しかったと思わねばならない。
[7] | 服部 明子さんからのコメント(2000年12月23日 09時54分03秒 ) | パスワード |
津島天王祭
「津島踊り」:
6月15日の夜、天王川に神葦(みよし)流しと称する神事があり
御葦漂着の地に舞台をかけ
踊りを催す。
これを御葦踊り
ないし
津島踊りと言う。
世に「津島踊り」といい慣らわされるようになったのは
弘治3年信長が津島で踊りを催してからである。
この時
信長は天女のように仕立て
平手内膳は赤鬼のよう
浅井備中守は黒鬼のよう
滝川一益は餓鬼のよう
織田太郎左衛門は地蔵のよう
前野但島守+伊東右兵衛+市橋伝左衛門+飯尾定宗は武蔵坊のよう
祝弥三郎は鷺のようにそれぞれ扮装して踊ったという。
[8] | 服部 明子さんからのコメント(2000年12月23日 10時02分41秒 ) | パスワード |
伊勢・安濃津
伊勢湾に開いた要港として古代から中世にかけて安濃津があった。
伊勢は津でもつと歌われたところで
薩摩の坊の津、筑前の博多、若狭の小浜と並んで知られた貿易港であった。
しかし安濃津は地震で港の形状が崩れたのと
北の桑名、南の大湊が栄えてさびれてしまった。
大湊は伊勢神宮の御廚や御園が多くなるにつれ
その外港としての地位が重くなった。
さらに南北朝の争乱のおり、
吉野山の山中に本拠を置く南朝が
諸国と連絡をとるための拠点となった。
その間、ほぼ50年。
そして伊勢の国司で南朝方の柱石であった北畠氏がこの港と勢力下に置いた。
[9] | 服部 明子さんからのコメント(2000年12月23日 10時14分19秒 ) | パスワード |
北畠具教のお側に上がっていたまつが懐妊して小六正勝に嫁ぐ。
半年後、生まれた子は「長存」または普門西堂と称する。
一応小六正勝の庶子と記す。
すなわち「東岳栄俊禅師」である。
蜂須賀藩初期の黒衣の宰相ともいうべき存在。
寛永11年、81歳で没した。
蜂須賀政家(のち家政)が朝鮮に行ってる間は藩政を任され、
関ヶ原のおりは家政の代理となって阿波の返上など難しい政治摂政にあたっている。
長存自身は自らを「仲兄」として家政を立てている。
[10] | 服部 明子さんからのコメント(2000年12月23日 10時33分17秒 ) | パスワード |
織田信長と土豪の関係:
信長は土豪の存在を認めていなかった。
その為蜂須賀小六正勝は美濃の斎藤道三に仕えた。
織田信長のところでは先代・信秀の時から土豪にうまみを与えていない。
戦国時代の覇者ないし封建支配の確立者として織田信長が他の戦国大名と違うのは
<一元的土地所有>という領国大名を早くから目指していたところ。
それまでの、領主>土豪>百姓といった系列図式による
<名主的土地所有>の在り方と対立する。
要するに織田信長はその家臣である武士か領民である百姓の存在しか認めようとせず
土豪の存在は不要であった。
これが戦国乱世にくさびを打ち込み
封建制度確立につながるものなのだが
当の土豪や地侍にとっては単に身分を奪うものであった。
こういう理由で蜂須賀小六はおいそれと信長の味方になる訳にはいかなかった。
[11] | 服部 明子さんからのコメント(2000年12月23日 10時36分36秒 ) | パスワード |
竹中半兵衛・・・・戦術家
黒田官兵衛・・・・戦略家
[12] | 服部 明子さんからのコメント(2000年12月23日 10時41分01秒 ) | パスワード |
三木の別所長治辞世:
1)今はただ 恨みもあらじ諸人の 命に代わる我が身思へば
(苦しい篭城戦の僅かな慰め)
2)ながはると 呼ばれしことも偽りよ 25年の春を見捨てて
(不運だったおのれの運命を恨んでいる)
[13] | 服部 明子さんからのコメント(2000年12月23日 10時44分31秒 ) | パスワード |
高松の清水宗治:46歳
浮き世をば 今こそ渡れ武士の 名を高松の苔に残して
兄の月清は「自分は先に生まれたから先に死ぬ」と言って腹を切った。
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