[1] | 服部 明子さんからのコメント(2000年11月08日 22時52分37秒 ) | パスワード |
中国語は音節が短い為
漢字が必要である。
これは
音節が短い為
同音語はアクセントで区別されるが
それでも同音語が多く出来てしまう為
漢字が必要となった。
日本人は日本語と中国語は全く違う言語でありながら
抽象概念を漢字を使うことによって可能にした。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2000年11月08日 23時05分57秒 ) | パスワード |
「生命の木」
日本は藤の木古墳で見つかった冠から
くねくねとS字状にカーブしたサンゴ樹形の木が2本立ち上がり
こずえに船と鳥と剣菱形の文様。
桑の木ではないか、と。つまり扶桑。意味は若々しさ。
日本と呼ぶようになった経過は:
「扶桑の国」 →太陽は毎日生まれ変わるということから「日のいづる国」→「日本」へ。
古代オリエントはナツメヤシ
(隣に描かれるりんごは知恵の木)
古代ギリシアやイランは葡萄。
中国は桃の木。
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2000年11月08日 23時09分12秒 ) | パスワード |
美濃3人衆:
安藤(竹中重治の舅)
氏家
稲葉
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2000年11月08日 23時13分04秒 ) | パスワード |
焼き物
1)中国系・・・・天目・青磁
2)朝鮮系・・・・刷毛目・粉引・斗々屋・割高台(はけめ・こひき・ととや・わりこうだい)
3)日本系
A)楽・・・・・・光悦の楽系
B)瀬戸物・・・・白天目・志野・織部
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2000年11月08日 23時17分45秒 ) | パスワード |
織田信長が歌舞伎にもなっていないのは
江戸時代の人間には
正体の分からないタイプの人間だったから。
日本人離れした日本人だったわけで
信長のドライとも思える合理性が理解されるようになったのは
明治に西洋思想が入ってきてから。
明確な評価は戦後まで待たれる。
日本史の五味文彦東大教授談。
[6] | 服部 明子さんからのコメント(2000年11月08日 23時30分47秒 ) | パスワード |
新田義貞の3男の義宗と
新田義貞の弟・脇屋義助さまの嫡男の義治の2人は
南北朝の和解にかかわらず幕府から追われ
出羽国羽黒山から四国へと逃げ
伊予の河野の庇護を受け
応仁元年(1394年)日浦の地に落ち延びて両人共にここで生涯を終えた、
と石井由彦愛媛県生活文化部長で俳人協会会員のお話です。
新田脇助さまは今治で確か病没してる筈です。
[7] | 服部 明子さんからのコメント(2000年11月08日 23時52分01秒 ) | パスワード |
続き:
日浦には2人を祀る両新田神社があり
天台宗の古刹・円福寺には両人の太刀や甲冑や馬具などがある。
漱石は住職に請いこの遺品を見せて拝観し
山寺の太刀をいただく時雨哉
冷たくも南蛮鉄の具足哉
応仁の昔なりけり塚の霜
の句を円福寺に贈ってるそうです。
漱石は清和源氏の出身なので源氏や新田・足利に関心と親近感を持っていたのだろう、と。
[8] | 服部 明子さんからのコメント(2000年11月09日 00時38分55秒 ) | パスワード |
七尾の城山は能登の守護大名畠山氏の城館のあった所である。
そこから1里にわたり
千門万戸が連なり
山上山下
大いに賑わったそうだ。
謙信が七尾城を攻略した夜
台上に武将を集めて宴を催し
席上、霜は軍営に満ちてに始まる「9月13夜」を詠じたと「日本外史」は述べる、
しかし落城は15日であり
謙信はまだ山1つ隔てた石動山という所に布陣中だった。
詩そのものも頼山陽の仮作ではないかと詮索されている。
元来、上杉氏と畠山氏は親しい仲で
謙信の出征は織田信長と一戦を交えるためだった。
それが七尾城に引っ掛かり2年も空費することになった。
同盟を結ぶどころか高圧的に出て畠山氏家中の反感をかったのである。
[9] | オランダシシガシラさんからのコメント(2000年11月09日 00時43分14秒 ) | パスワード |
新田義貞で思い出したのですが、
私の故郷福井に新田塚があります。
子どもの頃京福電車で三国へ海水浴に行く時、新田塚という駅があり、田んぼの中に神社が有りました。
今ではすっかり市街地になっています。
大正生まれの母の時も勿論戦前は学徒の勤労動員で清掃作業の遠足が課せられていたそうです。
いま又国民教育会議?だかのボランティア活動の義務化の声を聞くたびに、新田塚が思い浮かんでくるのです、、、
[10] | 服部 明子さんからのコメント(2000年11月09日 00時59分45秒 ) | パスワード |
上記の新田の書き込みは↓から始まりました。
阿部龍太郎の「彷徨える帝」は
新田義貞の子・義興を謀殺し
南朝方から足利方に寝返ったユダのような武将の運命を描いている。
激動の時代の中で夢と不安を抱えながら
どうしようもなく突き進んで行く人間の姿が鋭く捉らえられている。
との書評が出て来ましたが
この南朝方武将とは誰でしょう?
[11] | 服部 明子さんからのコメント(2000年11月09日 01時02分59秒 ) | パスワード |
上記の私の質問に以下の回答を頂きました。
矢口の渡
新田義興が暗殺されたのは、矢口の渡しという場所です。
関東で新田の挙兵に苦しめられていた相模の守護畠山国清は、
竹沢・江戸という二人の豪族を動かし、義興を多摩川矢口渡におびき寄せました。
義興は二人に先導されて鎌倉に入る予定でしたが、
川の中ほどで船を操っていた竹沢・江戸が船底を壊して川に飛び込み、
両岸から伏兵が現れて義興に矢を射掛けて殺したのです。
関東での南北朝の戦いは、その後ほとんど終息に向かいました。
畠山国清は嫌われ者で、その後関東管領の足利基氏に追放されると、
反乱を起し滅亡しました。
ところで脇谷義助の子義治は、「太平記」ではなかなかの武将に描かれています。
この人の後半生はよくわからない。。。。
この回答が上記<6>と<7>でございます。
[12] | 服部 明子さんからのコメント(2000年11月09日 07時32分22秒 ) | パスワード |
文春文庫の「バサラ将軍」の中に入ってました。
「知謀の淵」という章です。
[13] | 服部 明子さんからのコメント(2000年11月09日 13時51分18秒 ) | パスワード |
西行法師
木曾と申す武者
死に侍りけりな
木曾人は 海のいかりをしずめかね
死出の山にも入りにけるかな
[14] | 服部 明子さんからのコメント(2000年11月10日 13時50分40秒 ) | パスワード |
畠山国清は尊氏の弟を毒殺した人でした。
尊氏はソウウツで基氏は欝の方を継いだと書かれていました。
尊氏が欝なのは分かっていたけど。
[15] | 服部 明子さんからのコメント(2000年11月10日 14時19分26秒 ) | パスワード |
信夫の里の「文知摺石」:
9世紀なかば過ぎ、都から陸奥国に来た源融は長者の娘・虎女と恋仲になる。
が、やがて融は都に帰ることになる。
再会を約しながらも都から便りはない。
虎女が病いの床についた時、やっと融から1首届いた。
「みちのくの 忍ぶもぢずり 誰故に 乱れそめにし我ならなくに」
虎女はこの歌を抱きしめたまま息を引き取ったという。
文知摺石は文知摺観音の境内にあるが
これは明治18年に地中深く埋没していたものを堀り起こしたものである。
[16] | 服部 明子さんからのコメント(2000年11月10日 22時41分50秒 ) | パスワード |
坂本の琵琶湖湖底:
琵琶湖の水位が下がると見えてくるモノがある。
大津市下阪本沖の坂本城。
坂本城は1571年(元亀2年)
織田信長の命を受け
明智光秀が湖岸に築城した典型的な水城。
本丸石垣は築かれた当時から普段は水中に沈んでいたと見られている。
坂本城は本能寺の変(1582年)後、
立て篭もった一族が運命を共にした悲劇の城として知られている。
琵琶湖には地盤沈下などで水没した湖底遺跡が約80ヵ所確認されている。
水面が1メートルちょっと下がれば未確認の遺跡がもっと見つかるかも知れない。
[17] | 服部 明子さんからのコメント(2000年11月10日 22時45分07秒 ) | パスワード |
平成元年、光秀の菩提寺、大津市の西教寺に「光秀公顕彰会」が出来た。
寺は6月14日光秀の命日に墓前で追善法要が行なわれる。
[18] | 服部 明子さんからのコメント(2000年11月10日 22時57分24秒 ) | パスワード |
対立関係にあった者同士が過去の経緯を超え仲直りしたケースは多い。
兵庫県明石市と愛知県吉良町。
水戸市と彦根市。
しかし、きっぱり断わったケースもある。
山口県萩と会津若松市だ。
会津若松市は先の大戦といえば太平洋戦争でなく戊辰戦争を指す地域。
拒否の理由の1つは「斗南藩に移住させられた人達に申し訳ない」だった。
戊辰戦争に敗れた会津藩士とその家族約1万7000余人は
青森県下北半島に「流刑」され、斗南藩を立てた。
28万石から米穀の実らない未開の原野へ。
夏はヤマセという北東の冷たい風が霧を呼び太陽を閉ざしてしまう。
冬は地吹雪が荒れ狂う土地。
採れるのはヤマイモ、ジャガイモ、ニンジン、ダイコン、ニンニクなど
地中で成育する根菜類だけという厳しさ。
草さえ食べたから「会津の毛虫」(けだか)・豆ばかりだから「鳩ざむらい」と
あざ笑われた。
斗南藩の記憶は明治の近代化と共に歴史から消えていった。
だが会津は忘れなかった。
虐げられた側の思いは深い。
[19] | 服部 明子さんからのコメント(2000年11月11日 23時17分12秒 ) | パスワード |
室津:
中国・四国・九州の大名が必ず立ち寄った所
[20] | 服部 明子さんからのコメント(2000年11月11日 23時19分07秒 ) | パスワード |
京都・俵屋旅館
長野主善の泊まった所
彦根藩と関係があった。
[21] | 服部 明子さんからのコメント(2000年11月11日 23時25分32秒 ) | パスワード |
名古屋の屋敷町:白壁町と主税町
東区東二葉町に竹腰の中屋敷があった。太い老い松があった。
相応寺:尾張藩菩提寺
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