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[1] | ![]() | 相良四郎さん![]() |
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障りのないよう精進していきます。
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典籍の修善寺
浄蓮の滝
三連寺
浄海大居士 清盛
城連大居士 重盛 浄蓮か?
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里見氏に近いか 松島氏
上野国系に違いないと見る
まず長野中川村等
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服部正吉
正 通字 重へ
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穴山 穴師 大穴磯部
五十瓊敷命
物部首
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横田河原の戦い
城四郎助茂→兄助長逝去により長茂と
次回移行へ続く
(以上川中島以前は:川中島の前は)
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滝澤氏確認
再検討
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服部貞信
伊賀越え関連
一 秘密漏洩防止
二 伊賀越えの目的 襲われたてい
三 別人、穴山梅雪説 影の人となった。(梅説の身代わりがいた。)
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訂正:川中島の戦いの前は
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松下氏研究者より
遠江井伊氏考察録
松下氏の三春への道
他者の本覚書
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蜂前神社 物部系
(秦氏+物部氏か)
蜂前は古名で復す
服部宗次(保次)栗に囲まれ眠る
宗純の宗と予想。
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服部半八 服部因淑 卜部氏=吉田氏
の確認。
4つの服部
半蔵正成
平太夫正尚
中保次
権太夫政光
何れも殆どが伊賀越えに関連。
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麻績王
麻績部氏
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天火明命=饒速日命説
若狭湾に上陸した(航海)徐福のユダヤ人
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明智斎藤稲葉は表で
裏の顔は服部という話でした。
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次に
対立軸
同一軸の話
饒速日等
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対立軸
海人族vs.天孫族
ヒルコvs.ヒルメ
銅鐸vs.銅鏡
スサノオvs.アマテラス
饒速日vs.瓊瓊杵
同一軸
ヒルコ=スサノオ
スサノオー五十猛(親子)
五十猛=饒速日(神名)
饒速日=天火明
天照大神=卑弥呼
卑弥呼=日女命
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天海と家康ー
対豊臣の家康の前に現れた
国家安康を使えという天海
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ためし
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青山神社
尹良親王に殉じた青山蔵人師重を祀る
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苦手分野を見ます。
そのまえに横田河原
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木曽がおっしゃったのは、「義仲の戦いの吉例は七手に分けるもの」ということなので
まず、今井四郎兼平に五百余騎を与えて横田河に打ち入れて渡らせた。
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光秀の妻の一人服部氏
喜多村出羽守 服部出羽守保章 北村保光娘
いずれか
敏満寺 近江猿楽
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日本がいずれ10倍に...の話見ました。
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あんばい安倍のつづき
諏訪氏が南アルプスを越え奥大井・奥静へ
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安倍氏安部氏続き
静岡の安部氏ー諏訪盛重の子元眞が祖
諏訪氏は内訌を100年も行っていた。
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蕨手文について
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蕨手文 続き
黄金のありか
シダ類の近く(生えたところか)
蕨←シダのモチーフ
金山と武田の話
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金や銀の争奪戦の歴史ということか。
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麻の流通
麻績村に服部氏あり
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テスト
歌人吉井勇について
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信康の口難事件
天方氏と半蔵の人選
介錯
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藤枝は出世の登竜門
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本多正重
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連福寺
秋鹿氏の墓あり
重盛の無礼は人徳から隠されたか。
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例:得川村の源姓
源姓で「宗」の諱
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関の戸
従二位服部陸奥大掾
参内が許されたほど
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2年前の服部カフェを読んでいました。
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松島氏 今川徳川方の高天神城の戦い
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瀬戸方久(新田喜斎)は政商で
塩にまつわる人物
茶屋四郎次郎と同じ感じがするよう
雄踏の中村家に関係
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喜斎といえば呉石
祝田村に住していた、後呉石
乙若丸の一件から若宮が作られたが
82才で訴えにより刑に処せられ亡くなる。
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剣術の話多少見させてもらってます。
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訳語田=他田=長田
百済大井宮から訳語田へ(敏達天皇)
タリシホコ(尾張王)
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御家人:譜代、二半場、抱席
甲賀といえば忍者ですが、甲賀衆と呼ばれる党を作っていました。
甲賀衆には次の名字があります。
頓宮(はやみ)、大河原、土山、佐治、大野、神保、隠岐、高峯、和田、上野、竹島、笹山、勝井、山岡、竹林、瀧、飯田、池田、望月、服部、芥川、鵜飼、内記、山中、伴、美濃部、中山、岩根、新城、八田、宇田、儀峨、大原、上野、多喜、池田、鳥居、大久保、大野、土山、平子、鮎川、黒川、饗庭(あえば)、葛城、山上、青木、宮島、針、夏見、杉山、長野、多羅尾、倉地、杉谷、三雲、牧村
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U 隠岐国の戸籍から見えてくる海部・服部
@隠岐国居住者の郡・郷別の分布
(加藤謙吉「隠岐の氏族・部民と畿内政権」『原始・古代の日本海文化』より)
[島前]
智夫郡 大領=海部 主帳=服部
宇良郷 壬生
由良郷 津守部 壬生部 阿曇部
大結郷 服部臣
大井郷 各田部
三田郷 石部(3)
郷不詳 海部
海部郡 少領=海部直 主帳=日下部 少領=阿曇部
布施郷 阿曇部
海部郷 壬生部(3) 阿曇部 勝部 三□部 物部首?
三宅郷 日下部(2) 勝部 □部?
佐作郷 海部直(3) 海部(3) 凡海部 阿曇部(6) 勝部(2)
佐吉郷 日下部(3) 阿曇部(2)
[島後]
周吉郡 大領=大私直
上部郷 私部(3) 蝮王部 孔王部 日下部
山部郷 服部(2) 壬生部 物部 檜前部 雀部 宗我部
賀茂郷 雀部 鴨部
新野郷 私部(3) 宗我部 日下部
奄加郷 蝮王部 □部
郷不詳 宗我部
隠地郡 大領=大伴部 少領=磯部(3)
都麻郷 石部
武良郷 私部 勝部 大伴部 三那部
河内郷 鴨部
奈□郷 □棘部
郷不詳 大田部 日下部
郡不詳 服部(臣)(3) 阿曇 阿曇部
茶阿 山田 花井 忠輝 長安は家康の掌の上
諏訪家は他田の子孫か
猿投は元美濃
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U 隠岐国の戸籍から見えてくる海部・服部
@隠岐国居住者の郡・郷別の分布
(加藤謙吉「隠岐の氏族・部民と畿内政権」『原始・古代の日本海文化』より)
[島前]
智夫郡 大領=海部 主帳=服部
宇良郷 壬生
由良郷 津守部 壬生部 阿曇部
大結郷 服部臣
大井郷 各田部
三田郷 石部(3)
郷不詳 海部
海部郡 少領=海部直 主帳=日下部 少領=阿曇部
布施郷 阿曇部
海部郷 壬生部(3) 阿曇部 勝部 三□部 物部首?
三宅郷 日下部(2) 勝部 □部?
佐作郷 海部直(3) 海部(3) 凡海部 阿曇部(6) 勝部(2)
佐吉郷 日下部(3) 阿曇部(2)
[島後]
周吉郡 大領=大私直
上部郷 私部(3) 蝮王部 孔王部 日下部
山部郷 服部(2) 壬生部 物部 檜前部 雀部 宗我部
賀茂郷 雀部 鴨部
新野郷 私部(3) 宗我部 日下部
奄加郷 蝮王部 □部
郷不詳 宗我部
隠地郡 大領=大伴部 少領=磯部(3)
都麻郷 石部
武良郷 私部 勝部 大伴部 三那部
河内郷 鴨部
奈□郷 □棘部
郷不詳 大田部 日下部
郡不詳 服部(臣)(3) 阿曇 阿曇部
茶阿 山田 花井 忠輝 長安は家康の掌の上
諏訪家は他田の子孫か
猿投は元美濃
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即ち伊勢神宮は中央構造線(諏訪湖から紀伊半島、四国を通って九州
まで)の上に建てられているからであります。マイナスイオンやら磁力線やら
がオーラのように強く出ていると思います。見える人には見えるのかも知れま
せん。
ー長上郡服部より
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この狗奴国の比定が
現在の琉球あたりとすれば、邪馬台国は九州説となり、
天竜川の東あたり(アイヌ?)とすれば畿内説となるようです。
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諏訪系藤沢氏
蕗原荘ー殿下御領(殿下渡領) 上伊那郡箕輪一帯
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続き
遠江国の神職中村氏も子孫で登場します
箕輪城主長野信濃守業政も登場!
2代海野小太郎幸恒信濃守長男が海野氏継ぐ
以上XXX\
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「賀」についてですが、呉の国に「賀斉」という武将がいて、姓は「賀」
氏でした。呉の国からの民の流入を考えた時、何か関係があるのではと思
っています……。
花垣神社について、記してなかったことが、一つのありました。それは
「賀」のことを考えていた時に、「賀」は太陽に関係するのかなと思い、
調べている内に、花垣神社に「皇居遥拝所」の石碑があることを思い出し
たのです。先日、花垣神社を訪れた時には、この石碑は天皇陛下を遥拝す
るものだと勝手に解釈しておりましたが、加茂喜三氏の『日本の超古代史
ヒミコの故郷(ふるさと)』を読むと、「皇居」とは明治以降のもので、
その前は江戸城。それ以前の「皇居」とは、富士山麓の”高天ヶ原”に
あった「皇居」を表すという。
一方「皇大神宮遥拝所」の皇大神宮は伊勢内宮を表す。
いずれにしても、夏至、冬至、春分、秋分等の太陽の方向に関係してい
る太陽信仰がからんでいるようであります。
この両「遥拝所」は、四日市を中心とした伊勢・伊賀地方に多いという
ことであります。伊勢に残る伝説はそのことと関係しているように思えま
す。
長上郡より
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天海和尚が光秀と同一人物とは思いませんが、素性の言えない光秀関係者かな?と。
結局ここに戻ってしまいます。
で、ひょっとすると明智と親戚だった服部家の人間ということは?とまで空想が飛びました。
半蔵正成の叔父になる正清の子が保章でこの人の娘が明智光秀の妻だったとか。
息子の方は近江の北村に住して北村氏を名乗ったとか。
同上
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http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E9%95%B7%E7%94%B0
【名字】長田
【読み】おさだ,おざだ,ちょうだ,ちょうた,ながた,ながだ
【全国順位】 264位
【全国人数】 およそ86,800人
長田臣、宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)、
村上天皇の皇子具平親王の子師房にはじまる源氏(村上源氏)、
桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)、
古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏、大江氏(土師の族で相撲の元祖の野見宿禰の子孫。平城天皇の子孫ともいわれる)、
丹党などにもみられる。
「おさ」は「他」や「長」の文字をあてた。
「長」は長くのびている地形、器物、生物などの意味。
長田さん都道府県別ランキング!!
福島県 491位 およそ600人
茨城県 778位 およそ600人
栃木県 960位 およそ300人
群馬県 707位 およそ400人
埼玉県 412位 およそ2,800人
千葉県 327位 およそ3,200人 結構多いね
山梨県 13位 およそ7,900人 多いね
長野県 177位 およそ2,400人
岐阜県 501位 およそ700人
静岡県 112位 およそ6,100人 多いね。ここが長上郡に関わるのかも
愛知県 335位 およそ3,900人 意外でした もっと多いと思った
三重県 419位 およそ800人
滋賀県 464位 およそ500人
京都府 315位 およそ1,400人
大阪府 289位 およそ5,000人 多いね
兵庫県 211位 およそ4,600人 多いね
奈良県 299位 およそ800人
和歌山県 350位 およそ500人
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一意見
それにしても武田に対抗するために徳川と手を結ぼうというのが寿桂尼から出たというところに
オトコはダメだ
というのを感じました。笑
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[55] | ![]() | 相良四郎さん![]() |
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さすがあを様、絹織物が神代よりいかに政治の中枢に関与する神具・存在
であったかという今までにない考え方の地平線を広げてくれました。
長上郡より
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三つ柏さん
服部<中>保次の <中>って何? と思ってましたが
>観阿弥の祖父が伊賀の服部氏一族から宇陀の<<中家>>に養子にいき
この<<中>>のことかも、ですね。
なるほどね〜
写し
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昨日の古本屋での収穫は、『史実 大久保石見守長』、『柳生一族 新陰流
の系譜』、『伊賀上野城史』、『遥かなる衣ヶ浦のみなと』です。
写し
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南朝がらみと、伊勢湾交通の仲間として、、、と多方面から再考中です。
長田の伝承では三河湾だけでなく駿河伊豆まで船で活躍したと、、、で
調べてみると、大規模な津波で静岡の港、伊勢志摩の港は壊滅状態で知多三河の港は被害は軽微との記述があり、嘘ではないが、、鳥なき里の、、みたいです。
池田輝政の弟長吉の鳥取藩家老荒尾は旗本永井氏からの養子が入っています、
荒尾氏の勢力範囲に直勝庶子の家(永井荷風を排出)があり豪農、塩問屋として明治を迎えています。
写し
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[59] | ![]() | 相良四郎さん![]() |
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http://www.genbu.net/data/inaba/watari_title.htm
抱き柏紋になっていました。
和多理神社
わたりじんじゃ
鳥取県八頭郡八頭町郡家殿字地主500
式内社 因幡國八上郡 和多理神社
旧村社
御祭神
左留陀比古神 猿田彦ですね
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>服部左衛門清信・加信斎兄弟(あるいは清信・清正父子)
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「吉祥山長慶禅寺」は後醍醐天皇の孫の「長慶天皇」に関係があると言
われているようですが、その具体的な内容についてはわかりません。ただ、
弘法大師が根本中堂を建てたという立派なお寺であり、また背後には広大
な霊園をかかえておりました。
その霊園で見つけたものは――
鈴木氏の墓:家紋は「丸に三つ柏」のものと「丸に剣片喰」のものが
がありました。
服部家の墓:家紋は「抱き茗荷」でありました。
ここで、般若心経を二巻唱え捧げました。
写し
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[62] | ![]() | 相良四郎さん![]() |
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%85%83%E9%81%B8
無文元選禅師
(むもんげんせん、元亨3年2月15日(1323年3月22日) - 明徳元年/元中7年閏3月22日(1390年5月7日))
南北朝時代の臨済宗の僧。
父は後醍醐天皇。
勅諡号は聖鑑国師・円明大師。
写し
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[63] | ![]() | 相良四郎さん![]() |
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http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%A5%9E
【名字】神
【読み】かみ,かなえ,じん,しん,こう,みわ,こお,かん
【全国順位】 1,241位
【全国人数】 およそ14,100人
すごいね、日本には八百万の神と14,100人の神さまがいらっしゃるのか。
ブルゾンちえみ風に。笑
【解説】
出雲大社から出た諏訪神家の子孫。
三輪氏と起源をともにする。
三輪氏族の子孫が神氏を呼称。
神の鎮座地などが由来。
後世には中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)の神氏もみられる。
なるほどね。
分布図?生息地?では
青森県がダントツで神さまがいらっしゃるようです。
なるほど
それでイタコ?霊媒師が多いのか?
その他にも神さまは東北地方に多いようです。
やっぱり弥生人(神武東征)による追われた縄文人の存在を意識してしまいました。
写し
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友人より:
古代史最大の謎の氏族が尾張氏です。
壬申の乱で,大海人皇子が勝ったのは尾張氏のお蔭ですが,日本書紀には一時半句も書いてない。
次の続日本紀には,大海人皇子は,尾張大隅のお蔭で勝ちましたと書いてあります。
この尾張氏ですけど,熱田神宮が氏寺???だったようです。
ここには,三種の神器の草薙の剣がありますから,尾張氏は,出雲最後の王大国主命の直系の子孫だったのかもしれません。
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再掲
[52] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月14日 12時38分52秒 ) パスワード
友人より:
古代史最大の謎の氏族が尾張氏です。
壬申の乱で,大海人皇子が勝ったのは尾張氏のお蔭ですが,日本書紀には一時半句も書いてない。
次の続日本紀には,大海人皇子は,尾張大隅のお蔭で勝ちましたと書いてあります。
この尾張氏ですけど,熱田神宮が氏寺???だったようです。
ここには,三種の神器の草薙の剣がありますから,尾張氏は,出雲最後の王大国主命の直系の子孫だったのかもしれません。
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茶阿さまおお名前がこんがらがりました。
やはり 服部氏 ⇔ 松下氏・花井氏 ⇔ 阿茶の方 ⇔ 山田氏 ⇔ 石田三成 ⇔ 島左近 ⇔ 柳生家
⇅
忠輝 ⇔ 伊達政宗娘 ⇔ キリシタン
⇅
川中島
⇅
大久保長安
みんな繋がってしまいますね。
忠輝が家康に嫌われた真相は
関ケ原の石田三成との関係(とはいえ、花井氏や山田氏が疑われていたのでしょうね)
大久保長安との関係
伊達政宗との関係
ここでこの3つが出ましたね。
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空の青海のあを様
今回の山梨・甲府行きで地理的に分かったこと――
@新清水ICより富士川に沿って北上すると、「南部町」(昔、南部氏の
本貫地)、「身延町」(日蓮の久遠寺がある)、「加賀美(郷)」(加賀美遠
光の本貫地)、そして南アルプス市、甲斐市(甲府市の西側)へとつながり
ます。
A甲斐市より北西に中央自動車道を行くと、「韮崎市」、「穴山町」(
穴山氏の発生地)、「北杜市」、「茅野市」、「諏訪市」と、その間およ
そ50qの道のり。これは想像以上に近いという印象でありました。
B富士山の北側にある北杜市、甲斐市、甲府市等からは、富士山のいわ
ば腰から上が常に見え、八ヶ岳と同じように人々の心象風景の中に焼き
つく存在であるように感じられました。
C甲府市内は碁盤の目になっていて、ある時期に「都」のような都市計
画がなされたように思われます。
D甲府市の中心から武田神社(信玄の旧躑躅ケ崎館)までは、一直線の道
「武田通」が延びていて、見通す限り一定した勾配の登り道となってい
ました。
つまり、信玄は甲府市内を見渡せる一番高い所に居住していたという
ことになります。
E信玄の旧館からは、南東の山の端の上にニョキッと富士山が見え、信
玄も毎日この富士山を仰ぎ見たのではないかと想像されました。
F富士川上流の身延や下部のあたりには金山が豊富で、穴山氏が支配し
ていました。つまり穴山氏の財源は金と材木でありました。
G富士川を下りきると「蒲原」があり、北条・今川・武田を分け合う戦略
拠点のように思われます。つまり富士川を甲斐から蒲原までつなぐ線が
一つの重要な生命線や境界であり、また富士川の水運が田子の浦ルート
で清水湊とつながれば、海運を制することにもなったと思われます。
身延あたりの河内領を本貫地とする穴山氏が、清水港に近い田尻城の
城主をしていたことは、経済的・軍事的に大変重要な意味を持つもので
あったと推測されます。
以上が今回地理的ないわゆる土地勘として頭にインプットされた事項で
あります。おおまかにいえば、八ヶ岳と富士の両霊峰と南アルプスに囲ま
れた山梨は、長野よりコンパクトで素晴らしい土地でありました――
写し
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[68] | ![]() | 相良四郎さん![]() |
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本日浜松市博物館より電話があり、原島の太田家文書のマイクロフィルムが
ありましたので、見に来て下さいとのことでした。この3日間は忙しいので、
4日以降に見に行こうと思っています。
松島氏専用のスレッド専用に立てていただき、ありがとうございます。読ま
せていただきます。
マイクロフィルムのお話も楽しみにしております。
忍者の話も興味あります。
半蔵の父?祖父?おじ?が宇治田原にいたのか
それも書いてあると良いのですが。
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空の青海のあを様
本日で丸二年が経過いたしました。明日より三年目に突入いたします。
歴史の表層はかなり荒々しく掘り起こしましたが、これからはより深く
掘り起こさなければ新たな真実は出てこないと思いますので、ぞうぞ引き
続きよろしくご指導の程お願い申し上げます。
情報を採取するのは金鉱堀と同じだと思っています。この五月にはまた
土肥へ行って、大久保長安の残存オーラを追いかけたいと思っています。
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16八重菊紋
籠神社が三つ巴紋と菊の紋を使用しているそうです。
http://www.genbu.net/data/tango/kono_title.htm
服織田神社(牧之原市)
神紋は三つ巴ですねえ。
社伝によると、景行天皇の七年に勧請。
「服織田」の社号の由来は以下の三説。
1.鎮座地が、往古、服織田村と称した地名に由来。
2.四国の服織から移住してきた人々が奉祭した神。
3.祭神が、服織の神。
で、四国の服織ってどこだろう。
阿波国勝浦郡に、阿佐多知比古神社(朝立彦神社)というのがあるが、
当社祭神・麻立比古命と関係があるのだろうか。
いずれにしろ、式内社・服織田神社に比定されている古社。
井伊谷宮
いいのやぐう
静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1991−1
なげかじな 忍ぶばかりの 思い出は 身の昔にも 有りしものなり
十六八重菊
李花
御祭神
一品中務卿宗良親王(後醍醐天皇第四皇子)
静岡県浜松市引佐町にある。
旧引佐町役場の南500mほどの井伊谷に鎮座。
小掘遠州の庭で有名な名勝・龍潭寺のすぐ北に境内がある。
社殿の後方に神明造の本殿があり、
その後方には、石垣に囲まれた宗良親王の御墓がある。
石垣の中は一般の立入りが禁止されており、
中には西向きの鳥居と垣の中に宝筐院塔があるらしい。
御墓の石垣の高さは2m近くあるようで、
周囲の道を歩いても石垣の中は確認できなかった。
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浜名氏
1. 文字化けしてて読めないです。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hamana_k.html
•l–¼Ž
ŽOƒc“ª¶”b
(´˜aŒ¹Ž—Š—¬) @
“V–ì‰p•vŽ‚©‚çAw•l–¼Žj˜_x‚Ì’†‚ÉŒfÚ‚³‚ê‚Ä‚¢‚éu‘å–î•ۉƊ‘ •l–¼ŽŒn}v‚É‚æ‚邯Au´˜aŒ¹Ž•l–¼Žv‚̉Ɩä‚ÍuŽOƒc“ª¶”bv‚Å‚ ‚邯‚Ì‚²‹³Ž¦‚ð‚¢‚½‚¾‚«‚Ü‚µ‚½B @
2.
http://andare1.exblog.jp/9353299
遠江国鵺代猪鼻浜名氏の武蔵国川越への展開進出
下記の駿河今井家って?よく分かりませんが・・・コピペ
伊勢新九郎盛時=北条早雲は、当初、京都室町幕府将軍官僚職だったが実妹が駿河今川家への嫁いだ事から駿河今井家に仕える事になった。三河国松平氏との抗争の際は、駿河今井家方の武将である猪鼻浜名家の客将として闘い戦功を立てた。その後、幼い甥を駿河今井家の当主に擁立する事に成功し、今井家の執事として活躍したが認め合っていた太田道灌が謀略に遭い、殺害されてしまった事もあり、自立を目指し、日本初の戦国下克上武将として相模に後北条家を建てたのだった。伊豆、相模、武蔵と北上進出する中で用いた日本の桃園の誓いと言われる仲間との誓いや遠江国出身の武将の人材登用、そして、遠江、駿河、伊豆、相模、武蔵の広いエリアに及ぶ移動は、辺境だった東日本の開発に直結するのものなので中世日本史の中でも興味深いものがある。
遠江国鵺代は、源頼政が平安末期、夜な夜な御所に出没する妖怪「鵺」を退治した事により帝から褒美として賜った領地だった。平家打倒の叛旗を立てるが情報が計画半ばで漏れてしまい決起するも源頼政は、宇治平等院で多くの一族と共に戦ったが自刃してしまった。その為、生き残った一族は、領地である遠江国鵺代に落ち延び土豪化し、猪鼻浜名氏として16世紀半ばまで活躍した。
猪鼻浜名家の一人が1546年の扇谷上杉家・古河公方との間で起きた川越夜戦で荒廃した川越の開発の為の中核寺院建立と都市開発者として派遣された事は、ごく自然の事だったのかもしれない。1549年川越連馨寺建立の為、大道寺駿河守政繁の従兄弟である感誉上人の随伴侍として川越にやって来た猪鼻民部(いのはな たべ)は、連馨寺の門前町である旧猪鼻町や広大な脇田町を拓いて土着化し、その子孫たちは、現在も多数在住し、生活している。
1590年、豊臣軍による小田原侵攻によって後北条家が滅んだと同時に大道寺家も消滅した。城主の消えた川越を実質暫定統治した猪鼻氏は、後に芝・増上寺徳川家大僧侶になる川越喜多院管長時代の天海に後北条家の行った諸国に秀た治世について知己を与えた。その為、天海による猪鼻氏への配慮として徳川家康に進言したのである。松平徳川氏と猪鼻浜名家は、元は、共に駿河今井家配下の武将であり、又は、戦火を交わした旧知の関係でもある。更に遠江国鵺代は、源頼政ゆかりの猪鼻浜名家の子孫である事も充分考慮し、川越藩における役職を付与した。
徳川家康の江戸幕府開府後、猪鼻氏の家系で川島角泉を拓いた猪鼻氏を代々川越藩総取締役名主代官と任命し、柳沢吉保を初めとする老中として名高い歴代の川越城主を支えて寵愛され幕末期においては、川越藩による江戸湾警護の軍資金捻出の為、重要な役割を果たしている。川越八幡神社には、今も川越の護り神として存在し、その境内には、中世川越の都市発展の礎を築いた猪鼻民部が今も民部稲荷として祀られている。
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http://tikugo.com/osaka/busho/toudou/b-toudou-moto.html
藤堂元則:初代保田采女
(とうどうもとのり)
生没年:1582〜1660年
身分:藤堂家の家臣
官位(通称、号):采女
{ 元は秀吉の家来の増田家の家臣ですって }
本姓・保田。
父は服部半蔵則直。 ← え?この人の父親も「半蔵」さん?
則直は紀伊保田庄の豪族で元は保田則直と言ったが、
伊賀予野の服部氏の養子となり服部姓を名乗った。
則直は千賀地谷に館を構えたので千賀地半蔵とも呼ばれる。
元則は則直の次男として生まれ
伯父の保田栄西の養子となって保田姓を名乗り、
伯父と一緒に増田長盛に仕えた。
【藤堂家へ】関ヶ原の戦いで増田家が改易されたため、1601年に藤堂高虎に仕え1500石を与えられる。1606年に兄・則宗と共に徳川家康に謁見し、彼の命令で藤堂姓に改めた。大坂冬の陣に従軍し功があって500石を加増される。
夏の陣にも従軍し八尾・若江の戦いで、井伊直孝軍への軍使として向かい、玉串で高虎の言葉を伝えた。そしてそのまま木村重成隊と戦い首級を得た。この働きを直孝に賞され自身の槍を授けられる。翌日の戦いでは八尾での先鋒の壊滅により左先鋒の一人となった。
伊賀上野城
【普請監督】陣後、それらの功により合計5千石の領主となる。1628年に大坂城に赴き普請監督を務めた。1640年に伊賀上野城代の藤堂高清が死亡したため次の城代となる。1651年に隠居し家督を息子に譲って可休と号した。その後、病気となり京都で療養したが回復せず1660年5月24日に死亡する。遺体は京都の黒谷で火葬され伊賀長田村の西蓮寺に葬られた。妻は佐伯惟定の娘。
管理人から・・・
元則は土木関係に強かったようで、高虎の築城の手伝いをよくしています。
兄の則宗は家康に仕えて3千石の旗本となったそうです。
また父は有名な服部半蔵正成とは別人です。
関係もよく分かりません。
参考文献:藤堂高虎家臣辞典・三百藩家臣人名事典
*******************
藤堂采女とは
采女というのは藤堂氏の伊賀支配を担当した藤堂采女家の当主の代々の通称であり、この采女の名は元施という。
津藩の藩祖・藤堂高虎ははじめ伊賀支配を一族の藤堂高清に任せたが、高清が亡くなると服部正成(半蔵)の甥に当たる藤堂元則(采女)が務めるようになり、以後は采女家の支配下に入ったのである。
幕末の元施は家督相続前の文久3年(1863年)、天誅組の乱が大和で起こると、天誅組の指導者である吉村寅太郎と面識があったことから味方しようとしたが、結局は幕命や勅命に逆らえずに天誅組の鎮圧に務めた。慶応元年(1865年)、家督を継いで津藩主・藤堂高猷に仕えて7000石の家老・城代となった。
慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いでは津藩軍の総帥を務めており、幕府軍を裏切って新政府につくという裏切り行為を行なった。ただしこれは藩主・高猷に命じられて行なったことだといわれている。
明治時代には敢国神社の神官を務めた。明治11年(1878年)に死去。享年43。
↑
伊賀の一宮だったような
もう1つ同じような話:
藤堂采女 とうどう-うねめ
1836−1878 幕末の武士。
天保(てんぽう)7年10月23日生まれ。伊勢(いせ)津藩につかえ,伊賀(いが)上野城代家老をつぐ。鳥羽・伏見の戦いで藩論は尊王,佐幕のいずれともさだまらなかったが,独断で幕府軍を攻撃した。維新後,津藩の執政,権(ごんの)大参事,伊賀敢国(あえくに)神社権宮司(ごんのぐうじ)。明治11年6月26日死去。43歳。姓は保田とも。名は元施(もとはる)。
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http://www.genbu.net/data/oumi/taga_title.htm?print=on
多賀大社
たがたいしゃ
滋賀県犬上郡多賀町多賀604
虫食い折れ柏紋
三つ巴紋
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以下コピペ
http://musuhi310.blog.fc2.com/blog-entry-43.html?sp
Fri 06/22 2012
幸せいっぱいいただいてます(^^)
昨日は、絹織物一反をいただきました。
アマテラスさまの御衣になる絹糸を紡ぎ毎年伊勢神宮へ奉献している神社なのですが(明治神宮・砥鹿神社・橿原神宮へも奉献)お祭りの準備ということでお手伝いに。
神宮司庁からアマテラスさまの掛け軸をいただいたことから始まった御縁なのですが、その後もここの神々から多大なお力をいただくことになり、通うことに(^^)
お掃除終わり、お土産にどうぞ・・・と、渡された絹織物。
着物が大好きで、たくさんの織物がいっぱいあるけど、もう全部処分したいから・・・もらってくれない?座布団カバー作ってもいいし、何作ってもいいよ・・・と仰りながら渡されました。
絹の神様が祀られている地からいただいた素敵な生地の絹織物で座布団カバー作ったら素敵ですよね(^^)
ところで・・・大人の着物を1着作るのに必要な和服地の量を、1反と言いますよね。
その1反の和服地を作るのには、繭がどのくらい必要なのか知ってますか?
桑の葉 98kg→ → →蚕 約2700頭→ → →繭 4.9kg(約2600粒)
→ → →生糸 900g→ → →絹織物一反
だそうです。
蚕飼ったことあるのですが、桑の葉を食べる姿はそれはそれはかわいいんですよ。
2700頭分の繭です。
御蚕さんに感謝しながら座布団に座らなくっちゃネ。
素敵な座布団想像するだけで幸せな気分(^^)
以上
布一反に 桑の葉っぱ 100kg?必要? これだけでスゴイ〜
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以下コピペ
http://musuhi310.blog.fc2.com/blog-entry-43.html?sp
Fri 06/22 2012
幸せいっぱいいただいてます(^^)
昨日は、絹織物一反をいただきました。
アマテラスさまの御衣になる絹糸を紡ぎ毎年伊勢神宮へ奉献している神社なのですが(明治神宮・砥鹿神社・橿原神宮へも奉献)お祭りの準備ということでお手伝いに。
神宮司庁からアマテラスさまの掛け軸をいただいたことから始まった御縁なのですが、その後もここの神々から多大なお力をいただくことになり、通うことに(^^)
お掃除終わり、お土産にどうぞ・・・と、渡された絹織物。
着物が大好きで、たくさんの織物がいっぱいあるけど、もう全部処分したいから・・・もらってくれない?座布団カバー作ってもいいし、何作ってもいいよ・・・と仰りながら渡されました。
絹の神様が祀られている地からいただいた素敵な生地の絹織物で座布団カバー作ったら素敵ですよね(^^)
ところで・・・大人の着物を1着作るのに必要な和服地の量を、1反と言いますよね。
その1反の和服地を作るのには、繭がどのくらい必要なのか知ってますか?
桑の葉 98kg→ → →蚕 約2700頭→ → →繭 4.9kg(約2600粒)
→ → →生糸 900g→ → →絹織物一反
だそうです。
蚕飼ったことあるのですが、桑の葉を食べる姿はそれはそれはかわいいんですよ。
2700頭分の繭です。
御蚕さんに感謝しながら座布団に座らなくっちゃネ。
素敵な座布団想像するだけで幸せな気分(^^)
以上
布一反に 桑の葉っぱ 100kg?必要? これだけでスゴイ〜
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>大久保の代官屋敷(服部中)についての資料が見つかりました
楽しみにしております。
花粉症は大変ですね。
こちらは VOG といって 火山灰がらみです。
わたくしはラスベガスに行って砂漠の砂にやられて
やられたのは片目だけ(笑)
片目だけ涙がとどまるを得ず
ハワイは火山灰ですからガラス質で「痛い」です。
笑
>絹織物とハトリ関係
絹織物と服部は「そういうことかな」と納得できるのですが
絹織物と羽鳥となると、なかなか、納得の行く情報が無いです。
羽鳥と麻だったら、なんとなく納得出来ますが。
まだまだですね。
[29] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年03月05日 10時12分21秒 ) パスワード
空の青海のあを様
春は不安定な天気、寒暖の落差、春の嵐=風、花粉、黄砂、PM2.5等、やや
もすると調子を崩してしまいます(カゼを引いたりします)。
私はいつも3月から5月までは調子が悪いというか、カゼを引いたような
症状になります。花粉症・過敏症といいますか、とにかくスッキリしません。
さて、浜松中央図書館にて『大久保村史』を見つけて中をみたところ、大
久保代官所のことについて記述がありましたので、記します。読み取れない字
も少しありましたが、ご容赦下さい。
「大久保代官所(御陣屋)
服部大和守保秋氏、寛文の頃より石高三千五十石を所領する陣屋跡にて、
明治の前まで大久保、山崎、古人見、伊佐地の一部、神ヶ谷の一部、遠隔
れて市野村上石田、下石田を領地とせられ、今の大窪神社の位置にあり。
参道を昇り行けば今の鳥居の附近に大きな「ギボシ」の付いた観音開き
の立派な門あり。其の両側に四畳か六畳位の仲間部屋有り(昭和二十六迄あ
り)。其の奥は平坦の地あり、広く玉砂利を敷きし「オシラス」と役人の
居る建物ありて罪人を裁きし所なりと古老の話なり。入口の門の右石垣の
上に七間に五間位の二階建の白壁の大土蔵あり、宝物や貴重な道具、刀、
槍、陣笠、お籠等を蔵し有り。東の角に一戸分位の住宅の跡あり。当時御
東の藤田氏(宇布見現住)の住宅の有りし所ならん。其の北に西向きに平屋
建の七間に二間半位の長屋。其の北、今の社務所の位置に二階建の六間に
二間半位の建物あり(明治四十年頃小学校に使用せし事もあり)。又、奥北
に二間四方位の穀物倉庫あり。其の附近より山に添いて低い瓦葺の土塀あ
りたり。又、門の西には大広間も有る数室の居宅あり。お西の馬渕氏の住
宅なり。大窪神社東の田及び県道、その南の地域が同一高さの平坦地にて
正面に格子戸のある牢屋敷あり。罪人を入れし所なりと僕の祖母が其の
現状を見たと云ふて聞かせたり。
向こう側の宿屋はお陣屋へ用事をたしに来た人等が、其の日に終わらな
い時泊まりたる家なりし為、宿廊と云いしと。
馬渕家は石田より御陣屋に務むる為に移り来られし家との事。」
「服部伊賀守の陣屋即ち大久保代官は石高三千五十石、旗本服部仲様の陣
屋で、大久保、山崎、古人見、伊佐地、神ヶ谷の一部、上石田、下石田の
一部を所領し居り。服部家はその昔、楠氏の一族にて、足利尊氏征討の折、
後醍醐天皇より給いし□□(しかと読めず)錦旗、□□(しかと読めず)、
尚菊水の旗印其の他徳川氏に至る迄歴戦の功績により得たる高貴の家宝あ
り。湊川に正成公の戦死以来、足利氏の探索に依り一時姓氏を変え、転々
時期の到来を待ち織田氏興るに及び、客□(しかと読めず)として二十万石
を領し、眞十郎氏に至り徳川氏に仕え、伝来の長槍を馬上に奮戦せりと。
服部家の□(しかと読めず)世に大和守従五位下に叙せられ、武士達の
振央に盡され、江戸城西丸御留推(しかと読めず)役として江戸の消防を
主宰され、尚同家には伊賀守と成られしも□(しかと読めず)代ありきと
江戸上屋敷炎災の為、宝物は烏有に帰し詳細を知る物無し。大正三年八月
未亡人逝去後、家は断絶せりと。同家に残る由緒無く、同家の紋所が大久
保尋常高等小学校の鬼瓦として残り居り、これを後世に傳えんと同小学校
の校章として有りし。服部家を忍ぶ一事有るのみ。」
家紋は「源氏車に(縦)並び切り竹(矢筈)」・・・八桁の源氏車に縦の竹
を二本、竹の真ん中に節一本、切り口は上下ともV字型です。
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http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=201170
日本人の起源(縄文・弥生・大和)
201170 古代日本史は氏族間の勢力争いの歴史
内藤琢 ( 31 京都 路上人 )
以下コピペ
ヤマト王権成立から朝廷成立(=律令国家体制の確立)に至る古代日本史では、朝鮮半島由来の各氏族間が生き馬の目を抜くような勢力争いを繰り広げていた。
葛城氏→物部氏→蘇我氏→中臣氏(藤原氏)は、それぞれ皇族を担ぎ上げて天皇とすることで主導権を自分のものとしてきたが、律令国家体制が確立されるにつれ、天皇としての素質は問われなくなり、血統の維持のみが天皇の役割となっていく。
これが桓武朝で確立された「万世一系概念」であり、これは天皇の権威を高めるためではなく、天皇の実権を限定的にするためのものだった。
<2世紀〜>邪馬台国→ヤマト王権
出雲地方に新羅系一族が渡来。従来、そこに住み着いていた古出雲族を滅ぼす。(記紀神話:スサノオが出雲に降臨)
出雲地方を中心に、四隅突出型古墳が出現。
漢帝国が衰退過程に入り、加羅で生産された鉄が、出雲の方面に供給される。鉄が国内で製造できるようになる5世紀以前は、伽耶との間に鉄のルートを構築した勢力が台頭していった。
↓
全国各地に古墳が築造される。(3世紀〜)
畿内〜北九州:前方後円墳/東海〜関東・出雲:前方後方墳。
(関東では武器・馬具などが副葬品)
↓
畿内〜吉備を中心に、前方後円墳の定型化。伽耶が連合国家であったように、日本でも渡来人による連合国家がつくられた。しかも半島の負け組み同士による連合であるため、あまり戦争にもならず、連合の証として古墳をつくることで縄張り緊張の圧力を緩和させていたものと考えられる。
<5世紀〜>応神天皇〜武烈天皇/葛城王朝(河内王朝)
加羅系海人族・葛城氏と騎馬系金官伽耶王族の裔、応神天皇により大和に王権樹立。
畿内(大阪平野)を中心に前方後円墳が大型化していく。同時に、騎馬的、戦闘的色彩が強くなり、古墳も連合の証というよりも、権力誇示が目的化したため、大型化したのではないか。
こうした天皇の中央集権的色彩が強まる一方で、出雲、東国には前方後方墳が残るなど、抵抗勢力とのにらみ合いがあったと思われる。
↓
天皇への中央集権を急ぐ雄略天皇により葛城氏が切り捨てられる。→葛城氏没落。
<6世紀〜>継体天皇〜推古天皇/物部氏支配→蘇我氏支配
百済系騎馬民族・物部氏と大伴氏が、東国から継体天皇を招く。
東国出身の継体天皇により、東国氏族勢力の象徴として伊勢神宮が設立される。
↓
前方後円墳の規模が縮小し、円墳の群集墓が増加。
物部氏が中心となり、大型古墳による統合から神社による統合に徐々に移行。
朝鮮半島の百済〜任那地域に前方後円墳が出現
↓
朝鮮半島との外交特権を握っていた蘇我氏が台頭。
蘇我氏が仏教での民衆統合を進めた為、対抗する物部氏が神社による統合を強化。(物部神道)
↓
外交特権を握っていた蘇我氏が実権を握り、律令国家作りを始める。
(特に、任那滅亡(562)に伴う大量の渡来人を受け入れ、力を付けたのが蘇我氏だと考えられる。蘇我氏は、半島移民の窓口役として、天皇家と利害を一致させつつも、百済とも唐・新羅とも仲良く付き合う全方位外交のスタンスで、任那復興、新羅征討を願う欽明ら天皇一家とはそりが合わない部分もあった。)
<7世紀〜>天智天皇〜桓武天皇/藤原氏支配
百済滅亡危機により朝鮮半島から渡来した中臣氏が、クーデターにより蘇我氏支配を崩す(645)。
同時に、百済復興の為、朝鮮半島に出兵(白村江の戦い663)。日本軍は、唐・新羅連合軍に大敗し、唐・新羅軍が畿内にまで迫る。
百済系氏族・中臣氏の支援を受けて、天智天皇即位。中央集権体制作りを進める。古墳築造が禁止される。(中臣神道)
↓
東国氏族勢力の潜在的な反発が高まる。
新羅系氏族・大海人皇子(天武天皇)が、東国氏族勢力をまとめ、王権を奪う(壬申の乱672)
天武天皇〜持統天皇により、伊勢神宮を頂点とする国家祭祀体制が確立される。
↓
奈良時代を通じて、外圧が低下。民衆の間で仏教が広がりを見せる。
律令国家体制が確立されるにつれ氏族(貴族)の勢力が強まり、天皇の実権が削がれていく。
↓
天皇に期待される役割が「血統の維持」のみに。
血統だけを正統性の根拠とした桓武天皇が即位。
王権の構成要素ごとに神社(氏族)を配置した律令国家に。
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http://folklore.office-maeta.jp/461.htm
千野(ちの)
# 関東地方南部から甲信地方にかけての名字で特に山梨県甲府市に多くみられる。
# 長野県や山梨県に多い他、関東地方南部や静岡県に多くみられる。
# 長野県では長野市から茅野市付近にかけて多くみられる。
# 山梨県では甲府市に多くみられる他、長野県境方面の地域に多い。
# 信濃国諏訪郡千野郷(長野県茅野市)をルーツとし、諏訪氏の支流。
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三つ柏さん
大久保長安事件で本来の大久保家や服部家や青山家も処分されたのはどうしてだったのでしょうね。
家康がそれほど憎んだから?
政敵だった本多父子が絶対に許せなかったから?
秀忠には家康と本多父には逆らえなかったからというのはあったでしょうね。
こんな記事がありました:
NHK大河ドラマ「真田丸」が大坂城を舞台にクライマックスを迎える中、歴史フォーラム「豊臣大坂城と真田幸村」がこのほど、大阪市中央区の大阪歴史博物館で開かれた。豊臣秀吉が築いた初代大坂城の石垣を掘り起こして公開する豊臣石垣公開プロジェクトの一環。詰め掛けた幸村(信繁)ファンらがメモを取るなどして、熱心に聞き入っていた。
スカウト条件「巨額の契約金+50万石の大大名」
北川央大阪城天守閣館長と、城郭考古学者の千田嘉博奈良大学教授が基調講演。北川館長は幸村関連の古文書を紹介しながら、幸村の人間像に迫った。関ヶ原合戦で敗北した昌幸・幸村父子は九度山へ幽閉された後、経済的困窮が深まっていく。
昌幸は1月5日付けの書状で長男信之に「借金もかさみ、このままでは1年持たない。早く残りの仕送りを送ってほしい」と、新年早々から窮乏を訴えていた。昌幸が懇願した仕送りは20両で、現在の金額で600万円だった。
幸村らが苦しんだのは、経済的困窮ばかりではない。心身の衰えも忍び寄る。幸村は「とてもくたびれてしまった」「歯が抜け、ヒゲも白くなった」と嘆く。しかし、大坂の陣を前に大坂城入城を決意した幸村を、豊臣秀頼は破格の厚遇で迎え入れる。
「秀頼が提示した条件は、支度金だけで黄金200枚、銀30貫。現在の金額で7億5000万円に相当する巨額の契約金で、幸村はスカウトされたわけです」(北川館長)
借金まみれで当座の生活費にも困っていた幸村だけに、大いにモチベーションが上がったに違いない。大坂の陣に勝った場合の論功行賞もすごい。秀頼は幸村に知行50万石の大大名抜擢を約束していた。豊臣方有力武将では最上位の扱いだ。幸村に対する秀頼の信頼の高さや期待の大きさを物語る。
一方、大軍で攻め込む徳川方は、幸村をどのようにみていたのか。
「真田が大坂城へ入城したとの一報が届いた際、家康は『籠城したのは父親か息子か』と、繰り返し質した。父親はすでに病死していたと知って、家康は安堵する。家康が怖れたのは昌幸で、幸村はさほど評価していなかったようだ」(北川館長)
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空の青海のあを様
内山さんというと、すぐ内山真龍を思い浮かべます。
個人情報については、念のため、十分注意を払うことが賢明です。
そういった意味では、いわばみんな個人属性のない「忍者」と一緒で
あります。
その時代の流れの中にあって、「電話帳」がまだネットで見られると
いうことを確認しました。
それを利用して、焼津の「服部氏」の分布について調べてみました。
やはり、焼津には「服部氏」が多く住んでおられます。この分布状況
に沿ってお寺廻りをすれば、服部氏の家紋調査の効率はかなり高くなる
と思われます。
電話帳登録(2000年)されている服部氏について、焼津市の各町におけ
る分布状況を多い順に(但し、五軒以上)挙げてみますと―
@焼津 22軒
A小川新町 15軒
B本町 14軒
C西小川 10軒
D三ケ名 9軒
E鰯ケ島 9軒
F城之腰 8軒
G駅北 7軒
H西小川 7軒
I石津 7軒
J柳新屋 7軒
K小土 7軒
L小川 6軒
L栄町 5軒
これだけで133軒あります。焼津市全体では登録されていない家庭も
含めて、200軒位はあるものと推察されます。やはり、焼津に「服部」
姓は多い。その要因は何であるのか……?
いずれにしても、家紋の調査をしてみたいと思っています。
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空の青海のあを様
本日は一日会合がありまして書く体制がとれませんでした。明日にまた東
三河に行ってまいります。足山田の服織神社を中心にして・・・。
今、東三河と西遠江との関係を何とか調べたいと思っております。弓張山
系を挟んで西と東。西は豊川、東は天竜川、その2本の川の上流が合流しそ
うな所が、佐久間です。弓張山系をよく調べたことはありませんが、ダイダラボッチという怪物の伝説があります・・・今まで無関心であり過ぎました。
地図を調べていたら浪合村がどこかわかりました。スキー等で2回程行った
ことがありました。治部坂スキー場という所です。車で2時間位の所でした。
本当に、無知さらけだしです。
奈良時代以前のの絹織物生産のシステムが、自発的に起ったのか、強制的に
作られたのかはっきりしません。その当時絹は金と同じ価値があり、朝廷の
専売特許みたいなものだったと思いますので、技術的指導員だけでなく、機密
漏洩防止の管理者を送ったはずだと思っています。朝廷での中心は大蔵省。係
は織部司。その部下たちになると思いますが・・・。そういえば、秦氏は大蔵
専門でしたね。
ではまた明日にご報告いたします。
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http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/jidai/kofun/1327658560112.html
岡本山古墳・弁天山古墳
名称
岡本山古墳(おかもとやま こふん) 弁天山古墳(べんてんやま こふん)
所在地
高槻市南平台三丁目
時代・概要
古墳時代前期
左側=南側・岡本山古墳、右側北=側・弁天山古墳
南平台の丘陵上に広がる住宅地の家並みの上に、緑の丘が二つ並んでいます。名神高速道路沿いの南の丘が岡本山古墳、北の丘が弁天山古墳です。
岡本山古墳の墳丘は、尾根地形を利用してつくられ、後円部径70m、全長120mをはかります。
一方弁天山古墳の墳丘は全長100m、後円部の直径は岡本山古墳と同じ70mという特徴をもっています。
ホントだ 河原石が使われているのか
↓
これまでの踏査では、両古墳とも墳丘に河原石が葺かれ、
岡本山古墳では壷形埴輪らしい破片が、
また弁天山古墳では土器片があるものの、
埴輪は並べられていないことがわかっています。
この事実から、岡本山古墳は3世紀後半、弁天山古墳は岡本山古墳に続いて3世紀末ごろに築造されたものと推定され、南にひろがる平野部を本拠地とした三島の王の墓と考えられています。
三島の王?
どなた?
三島古墳群(みしまこふんぐん、三島野古墳群)とは、
淀川北岸、桧尾川流域から茨木川流域にあり、
大阪府高槻市と茨木市(旧三島郡)にかけて広がる古墳と遺跡の総称。
ということは旧三島郡にいらっしゃった古代豪族達ですか
写し
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