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[1] | ![]() | 相良四郎さん![]() |
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障りのないよう精進していきます。
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典籍の修善寺
浄蓮の滝
三連寺
浄海大居士 清盛
城連大居士 重盛 浄蓮か?
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里見氏に近いか 松島氏
上野国系に違いないと見る
まず長野中川村等
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服部正吉
正 通字 重へ
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穴山 穴師 大穴磯部
五十瓊敷命
物部首
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横田河原の戦い
城四郎助茂→兄助長逝去により長茂と
次回移行へ続く
(以上川中島以前は:川中島の前は)
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滝澤氏確認
再検討
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服部貞信
伊賀越え関連
一 秘密漏洩防止
二 伊賀越えの目的 襲われたてい
三 別人、穴山梅雪説 影の人となった。(梅説の身代わりがいた。)
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訂正:川中島の戦いの前は
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松下氏研究者より
遠江井伊氏考察録
松下氏の三春への道
他者の本覚書
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蜂前神社 物部系
(秦氏+物部氏か)
蜂前は古名で復す
服部宗次(保次)栗に囲まれ眠る
宗純の宗と予想。
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服部半八 服部因淑 卜部氏=吉田氏
の確認。
4つの服部
半蔵正成
平太夫正尚
中保次
権太夫政光
何れも殆どが伊賀越えに関連。
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麻績王
麻績部氏
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天火明命=饒速日命説
若狭湾に上陸した(航海)徐福のユダヤ人
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明智斎藤稲葉は表で
裏の顔は服部という話でした。
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次に
対立軸
同一軸の話
饒速日等
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対立軸
海人族vs.天孫族
ヒルコvs.ヒルメ
銅鐸vs.銅鏡
スサノオvs.アマテラス
饒速日vs.瓊瓊杵
同一軸
ヒルコ=スサノオ
スサノオー五十猛(親子)
五十猛=饒速日(神名)
饒速日=天火明
天照大神=卑弥呼
卑弥呼=日女命
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天海と家康ー
対豊臣の家康の前に現れた
国家安康を使えという天海
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ためし
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青山神社
尹良親王に殉じた青山蔵人師重を祀る
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苦手分野を見ます。
そのまえに横田河原
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木曽がおっしゃったのは、「義仲の戦いの吉例は七手に分けるもの」ということなので
まず、今井四郎兼平に五百余騎を与えて横田河に打ち入れて渡らせた。
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光秀の妻の一人服部氏
喜多村出羽守 服部出羽守保章 北村保光娘
いずれか
敏満寺 近江猿楽
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日本がいずれ10倍に...の話見ました。
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あんばい安倍のつづき
諏訪氏が南アルプスを越え奥大井・奥静へ
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安倍氏安部氏続き
静岡の安部氏ー諏訪盛重の子元眞が祖
諏訪氏は内訌を100年も行っていた。
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蕨手文について
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蕨手文 続き
黄金のありか
シダ類の近く(生えたところか)
蕨←シダのモチーフ
金山と武田の話
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金や銀の争奪戦の歴史ということか。
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麻の流通
麻績村に服部氏あり
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テスト
歌人吉井勇について
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信康の口難事件
天方氏と半蔵の人選
介錯
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藤枝は出世の登竜門
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本多正重
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連福寺
秋鹿氏の墓あり
重盛の無礼は人徳から隠されたか。
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例:得川村の源姓
源姓で「宗」の諱
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関の戸
従二位服部陸奥大掾
参内が許されたほど
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2年前の服部カフェを読んでいました。
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松島氏 今川徳川方の高天神城の戦い
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瀬戸方久(新田喜斎)は政商で
塩にまつわる人物
茶屋四郎次郎と同じ感じがするよう
雄踏の中村家に関係
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喜斎といえば呉石
祝田村に住していた、後呉石
乙若丸の一件から若宮が作られたが
82才で訴えにより刑に処せられ亡くなる。
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剣術の話多少見させてもらってます。
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訳語田=他田=長田
百済大井宮から訳語田へ(敏達天皇)
タリシホコ(尾張王)
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御家人:譜代、二半場、抱席
甲賀といえば忍者ですが、甲賀衆と呼ばれる党を作っていました。
甲賀衆には次の名字があります。
頓宮(はやみ)、大河原、土山、佐治、大野、神保、隠岐、高峯、和田、上野、竹島、笹山、勝井、山岡、竹林、瀧、飯田、池田、望月、服部、芥川、鵜飼、内記、山中、伴、美濃部、中山、岩根、新城、八田、宇田、儀峨、大原、上野、多喜、池田、鳥居、大久保、大野、土山、平子、鮎川、黒川、饗庭(あえば)、葛城、山上、青木、宮島、針、夏見、杉山、長野、多羅尾、倉地、杉谷、三雲、牧村
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U 隠岐国の戸籍から見えてくる海部・服部
@隠岐国居住者の郡・郷別の分布
(加藤謙吉「隠岐の氏族・部民と畿内政権」『原始・古代の日本海文化』より)
[島前]
智夫郡 大領=海部 主帳=服部
宇良郷 壬生
由良郷 津守部 壬生部 阿曇部
大結郷 服部臣
大井郷 各田部
三田郷 石部(3)
郷不詳 海部
海部郡 少領=海部直 主帳=日下部 少領=阿曇部
布施郷 阿曇部
海部郷 壬生部(3) 阿曇部 勝部 三□部 物部首?
三宅郷 日下部(2) 勝部 □部?
佐作郷 海部直(3) 海部(3) 凡海部 阿曇部(6) 勝部(2)
佐吉郷 日下部(3) 阿曇部(2)
[島後]
周吉郡 大領=大私直
上部郷 私部(3) 蝮王部 孔王部 日下部
山部郷 服部(2) 壬生部 物部 檜前部 雀部 宗我部
賀茂郷 雀部 鴨部
新野郷 私部(3) 宗我部 日下部
奄加郷 蝮王部 □部
郷不詳 宗我部
隠地郡 大領=大伴部 少領=磯部(3)
都麻郷 石部
武良郷 私部 勝部 大伴部 三那部
河内郷 鴨部
奈□郷 □棘部
郷不詳 大田部 日下部
郡不詳 服部(臣)(3) 阿曇 阿曇部
茶阿 山田 花井 忠輝 長安は家康の掌の上
諏訪家は他田の子孫か
猿投は元美濃
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U 隠岐国の戸籍から見えてくる海部・服部
@隠岐国居住者の郡・郷別の分布
(加藤謙吉「隠岐の氏族・部民と畿内政権」『原始・古代の日本海文化』より)
[島前]
智夫郡 大領=海部 主帳=服部
宇良郷 壬生
由良郷 津守部 壬生部 阿曇部
大結郷 服部臣
大井郷 各田部
三田郷 石部(3)
郷不詳 海部
海部郡 少領=海部直 主帳=日下部 少領=阿曇部
布施郷 阿曇部
海部郷 壬生部(3) 阿曇部 勝部 三□部 物部首?
三宅郷 日下部(2) 勝部 □部?
佐作郷 海部直(3) 海部(3) 凡海部 阿曇部(6) 勝部(2)
佐吉郷 日下部(3) 阿曇部(2)
[島後]
周吉郡 大領=大私直
上部郷 私部(3) 蝮王部 孔王部 日下部
山部郷 服部(2) 壬生部 物部 檜前部 雀部 宗我部
賀茂郷 雀部 鴨部
新野郷 私部(3) 宗我部 日下部
奄加郷 蝮王部 □部
郷不詳 宗我部
隠地郡 大領=大伴部 少領=磯部(3)
都麻郷 石部
武良郷 私部 勝部 大伴部 三那部
河内郷 鴨部
奈□郷 □棘部
郷不詳 大田部 日下部
郡不詳 服部(臣)(3) 阿曇 阿曇部
茶阿 山田 花井 忠輝 長安は家康の掌の上
諏訪家は他田の子孫か
猿投は元美濃
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即ち伊勢神宮は中央構造線(諏訪湖から紀伊半島、四国を通って九州
まで)の上に建てられているからであります。マイナスイオンやら磁力線やら
がオーラのように強く出ていると思います。見える人には見えるのかも知れま
せん。
ー長上郡服部より
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この狗奴国の比定が
現在の琉球あたりとすれば、邪馬台国は九州説となり、
天竜川の東あたり(アイヌ?)とすれば畿内説となるようです。
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諏訪系藤沢氏
蕗原荘ー殿下御領(殿下渡領) 上伊那郡箕輪一帯
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続き
遠江国の神職中村氏も子孫で登場します
箕輪城主長野信濃守業政も登場!
2代海野小太郎幸恒信濃守長男が海野氏継ぐ
以上XXX\
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「賀」についてですが、呉の国に「賀斉」という武将がいて、姓は「賀」
氏でした。呉の国からの民の流入を考えた時、何か関係があるのではと思
っています……。
花垣神社について、記してなかったことが、一つのありました。それは
「賀」のことを考えていた時に、「賀」は太陽に関係するのかなと思い、
調べている内に、花垣神社に「皇居遥拝所」の石碑があることを思い出し
たのです。先日、花垣神社を訪れた時には、この石碑は天皇陛下を遥拝す
るものだと勝手に解釈しておりましたが、加茂喜三氏の『日本の超古代史
ヒミコの故郷(ふるさと)』を読むと、「皇居」とは明治以降のもので、
その前は江戸城。それ以前の「皇居」とは、富士山麓の”高天ヶ原”に
あった「皇居」を表すという。
一方「皇大神宮遥拝所」の皇大神宮は伊勢内宮を表す。
いずれにしても、夏至、冬至、春分、秋分等の太陽の方向に関係してい
る太陽信仰がからんでいるようであります。
この両「遥拝所」は、四日市を中心とした伊勢・伊賀地方に多いという
ことであります。伊勢に残る伝説はそのことと関係しているように思えま
す。
長上郡より
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天海和尚が光秀と同一人物とは思いませんが、素性の言えない光秀関係者かな?と。
結局ここに戻ってしまいます。
で、ひょっとすると明智と親戚だった服部家の人間ということは?とまで空想が飛びました。
半蔵正成の叔父になる正清の子が保章でこの人の娘が明智光秀の妻だったとか。
息子の方は近江の北村に住して北村氏を名乗ったとか。
同上
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http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E9%95%B7%E7%94%B0
【名字】長田
【読み】おさだ,おざだ,ちょうだ,ちょうた,ながた,ながだ
【全国順位】 264位
【全国人数】 およそ86,800人
長田臣、宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)、
村上天皇の皇子具平親王の子師房にはじまる源氏(村上源氏)、
桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)、
古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏、大江氏(土師の族で相撲の元祖の野見宿禰の子孫。平城天皇の子孫ともいわれる)、
丹党などにもみられる。
「おさ」は「他」や「長」の文字をあてた。
「長」は長くのびている地形、器物、生物などの意味。
長田さん都道府県別ランキング!!
福島県 491位 およそ600人
茨城県 778位 およそ600人
栃木県 960位 およそ300人
群馬県 707位 およそ400人
埼玉県 412位 およそ2,800人
千葉県 327位 およそ3,200人 結構多いね
山梨県 13位 およそ7,900人 多いね
長野県 177位 およそ2,400人
岐阜県 501位 およそ700人
静岡県 112位 およそ6,100人 多いね。ここが長上郡に関わるのかも
愛知県 335位 およそ3,900人 意外でした もっと多いと思った
三重県 419位 およそ800人
滋賀県 464位 およそ500人
京都府 315位 およそ1,400人
大阪府 289位 およそ5,000人 多いね
兵庫県 211位 およそ4,600人 多いね
奈良県 299位 およそ800人
和歌山県 350位 およそ500人
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一意見
それにしても武田に対抗するために徳川と手を結ぼうというのが寿桂尼から出たというところに
オトコはダメだ
というのを感じました。笑
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[55] | ![]() | 相良四郎さん![]() |
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さすがあを様、絹織物が神代よりいかに政治の中枢に関与する神具・存在
であったかという今までにない考え方の地平線を広げてくれました。
長上郡より
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三つ柏さん
服部<中>保次の <中>って何? と思ってましたが
>観阿弥の祖父が伊賀の服部氏一族から宇陀の<<中家>>に養子にいき
この<<中>>のことかも、ですね。
なるほどね〜
写し
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昨日の古本屋での収穫は、『史実 大久保石見守長』、『柳生一族 新陰流
の系譜』、『伊賀上野城史』、『遥かなる衣ヶ浦のみなと』です。
写し
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南朝がらみと、伊勢湾交通の仲間として、、、と多方面から再考中です。
長田の伝承では三河湾だけでなく駿河伊豆まで船で活躍したと、、、で
調べてみると、大規模な津波で静岡の港、伊勢志摩の港は壊滅状態で知多三河の港は被害は軽微との記述があり、嘘ではないが、、鳥なき里の、、みたいです。
池田輝政の弟長吉の鳥取藩家老荒尾は旗本永井氏からの養子が入っています、
荒尾氏の勢力範囲に直勝庶子の家(永井荷風を排出)があり豪農、塩問屋として明治を迎えています。
写し
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[59] | ![]() | 相良四郎さん![]() |
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http://www.genbu.net/data/inaba/watari_title.htm
抱き柏紋になっていました。
和多理神社
わたりじんじゃ
鳥取県八頭郡八頭町郡家殿字地主500
式内社 因幡國八上郡 和多理神社
旧村社
御祭神
左留陀比古神 猿田彦ですね
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>服部左衛門清信・加信斎兄弟(あるいは清信・清正父子)
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「吉祥山長慶禅寺」は後醍醐天皇の孫の「長慶天皇」に関係があると言
われているようですが、その具体的な内容についてはわかりません。ただ、
弘法大師が根本中堂を建てたという立派なお寺であり、また背後には広大
な霊園をかかえておりました。
その霊園で見つけたものは――
鈴木氏の墓:家紋は「丸に三つ柏」のものと「丸に剣片喰」のものが
がありました。
服部家の墓:家紋は「抱き茗荷」でありました。
ここで、般若心経を二巻唱え捧げました。
写し
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[62] | ![]() | 相良四郎さん![]() |
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%85%83%E9%81%B8
無文元選禅師
(むもんげんせん、元亨3年2月15日(1323年3月22日) - 明徳元年/元中7年閏3月22日(1390年5月7日))
南北朝時代の臨済宗の僧。
父は後醍醐天皇。
勅諡号は聖鑑国師・円明大師。
写し
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[63] | ![]() | 相良四郎さん![]() |
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http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%A5%9E
【名字】神
【読み】かみ,かなえ,じん,しん,こう,みわ,こお,かん
【全国順位】 1,241位
【全国人数】 およそ14,100人
すごいね、日本には八百万の神と14,100人の神さまがいらっしゃるのか。
ブルゾンちえみ風に。笑
【解説】
出雲大社から出た諏訪神家の子孫。
三輪氏と起源をともにする。
三輪氏族の子孫が神氏を呼称。
神の鎮座地などが由来。
後世には中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)の神氏もみられる。
なるほどね。
分布図?生息地?では
青森県がダントツで神さまがいらっしゃるようです。
なるほど
それでイタコ?霊媒師が多いのか?
その他にも神さまは東北地方に多いようです。
やっぱり弥生人(神武東征)による追われた縄文人の存在を意識してしまいました。
写し
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友人より:
古代史最大の謎の氏族が尾張氏です。
壬申の乱で,大海人皇子が勝ったのは尾張氏のお蔭ですが,日本書紀には一時半句も書いてない。
次の続日本紀には,大海人皇子は,尾張大隅のお蔭で勝ちましたと書いてあります。
この尾張氏ですけど,熱田神宮が氏寺???だったようです。
ここには,三種の神器の草薙の剣がありますから,尾張氏は,出雲最後の王大国主命の直系の子孫だったのかもしれません。
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再掲
[52] 空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月14日 12時38分52秒 ) パスワード
友人より:
古代史最大の謎の氏族が尾張氏です。
壬申の乱で,大海人皇子が勝ったのは尾張氏のお蔭ですが,日本書紀には一時半句も書いてない。
次の続日本紀には,大海人皇子は,尾張大隅のお蔭で勝ちましたと書いてあります。
この尾張氏ですけど,熱田神宮が氏寺???だったようです。
ここには,三種の神器の草薙の剣がありますから,尾張氏は,出雲最後の王大国主命の直系の子孫だったのかもしれません。
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茶阿さまおお名前がこんがらがりました。
やはり 服部氏 ⇔ 松下氏・花井氏 ⇔ 阿茶の方 ⇔ 山田氏 ⇔ 石田三成 ⇔ 島左近 ⇔ 柳生家
⇅
忠輝 ⇔ 伊達政宗娘 ⇔ キリシタン
⇅
川中島
⇅
大久保長安
みんな繋がってしまいますね。
忠輝が家康に嫌われた真相は
関ケ原の石田三成との関係(とはいえ、花井氏や山田氏が疑われていたのでしょうね)
大久保長安との関係
伊達政宗との関係
ここでこの3つが出ましたね。
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空の青海のあを様
今回の山梨・甲府行きで地理的に分かったこと――
@新清水ICより富士川に沿って北上すると、「南部町」(昔、南部氏の
本貫地)、「身延町」(日蓮の久遠寺がある)、「加賀美(郷)」(加賀美遠
光の本貫地)、そして南アルプス市、甲斐市(甲府市の西側)へとつながり
ます。
A甲斐市より北西に中央自動車道を行くと、「韮崎市」、「穴山町」(
穴山氏の発生地)、「北杜市」、「茅野市」、「諏訪市」と、その間およ
そ50qの道のり。これは想像以上に近いという印象でありました。
B富士山の北側にある北杜市、甲斐市、甲府市等からは、富士山のいわ
ば腰から上が常に見え、八ヶ岳と同じように人々の心象風景の中に焼き
つく存在であるように感じられました。
C甲府市内は碁盤の目になっていて、ある時期に「都」のような都市計
画がなされたように思われます。
D甲府市の中心から武田神社(信玄の旧躑躅ケ崎館)までは、一直線の道
「武田通」が延びていて、見通す限り一定した勾配の登り道となってい
ました。
つまり、信玄は甲府市内を見渡せる一番高い所に居住していたという
ことになります。
E信玄の旧館からは、南東の山の端の上にニョキッと富士山が見え、信
玄も毎日この富士山を仰ぎ見たのではないかと想像されました。
F富士川上流の身延や下部のあたりには金山が豊富で、穴山氏が支配し
ていました。つまり穴山氏の財源は金と材木でありました。
G富士川を下りきると「蒲原」があり、北条・今川・武田を分け合う戦略
拠点のように思われます。つまり富士川を甲斐から蒲原までつなぐ線が
一つの重要な生命線や境界であり、また富士川の水運が田子の浦ルート
で清水湊とつながれば、海運を制することにもなったと思われます。
身延あたりの河内領を本貫地とする穴山氏が、清水港に近い田尻城の
城主をしていたことは、経済的・軍事的に大変重要な意味を持つもので
あったと推測されます。
以上が今回地理的ないわゆる土地勘として頭にインプットされた事項で
あります。おおまかにいえば、八ヶ岳と富士の両霊峰と南アルプスに囲ま
れた山梨は、長野よりコンパクトで素晴らしい土地でありました――
写し
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[68] | ![]() | 相良四郎さん![]() |
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本日浜松市博物館より電話があり、原島の太田家文書のマイクロフィルムが
ありましたので、見に来て下さいとのことでした。この3日間は忙しいので、
4日以降に見に行こうと思っています。
松島氏専用のスレッド専用に立てていただき、ありがとうございます。読ま
せていただきます。
マイクロフィルムのお話も楽しみにしております。
忍者の話も興味あります。
半蔵の父?祖父?おじ?が宇治田原にいたのか
それも書いてあると良いのですが。
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空の青海のあを様
本日で丸二年が経過いたしました。明日より三年目に突入いたします。
歴史の表層はかなり荒々しく掘り起こしましたが、これからはより深く
掘り起こさなければ新たな真実は出てこないと思いますので、ぞうぞ引き
続きよろしくご指導の程お願い申し上げます。
情報を採取するのは金鉱堀と同じだと思っています。この五月にはまた
土肥へ行って、大久保長安の残存オーラを追いかけたいと思っています。
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16八重菊紋
籠神社が三つ巴紋と菊の紋を使用しているそうです。
http://www.genbu.net/data/tango/kono_title.htm
服織田神社(牧之原市)
神紋は三つ巴ですねえ。
社伝によると、景行天皇の七年に勧請。
「服織田」の社号の由来は以下の三説。
1.鎮座地が、往古、服織田村と称した地名に由来。
2.四国の服織から移住してきた人々が奉祭した神。
3.祭神が、服織の神。
で、四国の服織ってどこだろう。
阿波国勝浦郡に、阿佐多知比古神社(朝立彦神社)というのがあるが、
当社祭神・麻立比古命と関係があるのだろうか。
いずれにしろ、式内社・服織田神社に比定されている古社。
井伊谷宮
いいのやぐう
静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1991−1
なげかじな 忍ぶばかりの 思い出は 身の昔にも 有りしものなり
十六八重菊
李花
御祭神
一品中務卿宗良親王(後醍醐天皇第四皇子)
静岡県浜松市引佐町にある。
旧引佐町役場の南500mほどの井伊谷に鎮座。
小掘遠州の庭で有名な名勝・龍潭寺のすぐ北に境内がある。
社殿の後方に神明造の本殿があり、
その後方には、石垣に囲まれた宗良親王の御墓がある。
石垣の中は一般の立入りが禁止されており、
中には西向きの鳥居と垣の中に宝筐院塔があるらしい。
御墓の石垣の高さは2m近くあるようで、
周囲の道を歩いても石垣の中は確認できなかった。
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浜名氏
1. 文字化けしてて読めないです。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hamana_k.html
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2.
http://andare1.exblog.jp/9353299
遠江国鵺代猪鼻浜名氏の武蔵国川越への展開進出
下記の駿河今井家って?よく分かりませんが・・・コピペ
伊勢新九郎盛時=北条早雲は、当初、京都室町幕府将軍官僚職だったが実妹が駿河今川家への嫁いだ事から駿河今井家に仕える事になった。三河国松平氏との抗争の際は、駿河今井家方の武将である猪鼻浜名家の客将として闘い戦功を立てた。その後、幼い甥を駿河今井家の当主に擁立する事に成功し、今井家の執事として活躍したが認め合っていた太田道灌が謀略に遭い、殺害されてしまった事もあり、自立を目指し、日本初の戦国下克上武将として相模に後北条家を建てたのだった。伊豆、相模、武蔵と北上進出する中で用いた日本の桃園の誓いと言われる仲間との誓いや遠江国出身の武将の人材登用、そして、遠江、駿河、伊豆、相模、武蔵の広いエリアに及ぶ移動は、辺境だった東日本の開発に直結するのものなので中世日本史の中でも興味深いものがある。
遠江国鵺代は、源頼政が平安末期、夜な夜な御所に出没する妖怪「鵺」を退治した事により帝から褒美として賜った領地だった。平家打倒の叛旗を立てるが情報が計画半ばで漏れてしまい決起するも源頼政は、宇治平等院で多くの一族と共に戦ったが自刃してしまった。その為、生き残った一族は、領地である遠江国鵺代に落ち延び土豪化し、猪鼻浜名氏として16世紀半ばまで活躍した。
猪鼻浜名家の一人が1546年の扇谷上杉家・古河公方との間で起きた川越夜戦で荒廃した川越の開発の為の中核寺院建立と都市開発者として派遣された事は、ごく自然の事だったのかもしれない。1549年川越連馨寺建立の為、大道寺駿河守政繁の従兄弟である感誉上人の随伴侍として川越にやって来た猪鼻民部(いのはな たべ)は、連馨寺の門前町である旧猪鼻町や広大な脇田町を拓いて土着化し、その子孫たちは、現在も多数在住し、生活している。
1590年、豊臣軍による小田原侵攻によって後北条家が滅んだと同時に大道寺家も消滅した。城主の消えた川越を実質暫定統治した猪鼻氏は、後に芝・増上寺徳川家大僧侶になる川越喜多院管長時代の天海に後北条家の行った諸国に秀た治世について知己を与えた。その為、天海による猪鼻氏への配慮として徳川家康に進言したのである。松平徳川氏と猪鼻浜名家は、元は、共に駿河今井家配下の武将であり、又は、戦火を交わした旧知の関係でもある。更に遠江国鵺代は、源頼政ゆかりの猪鼻浜名家の子孫である事も充分考慮し、川越藩における役職を付与した。
徳川家康の江戸幕府開府後、猪鼻氏の家系で川島角泉を拓いた猪鼻氏を代々川越藩総取締役名主代官と任命し、柳沢吉保を初めとする老中として名高い歴代の川越城主を支えて寵愛され幕末期においては、川越藩による江戸湾警護の軍資金捻出の為、重要な役割を果たしている。川越八幡神社には、今も川越の護り神として存在し、その境内には、中世川越の都市発展の礎を築いた猪鼻民部が今も民部稲荷として祀られている。
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藤堂元則:初代保田采女
(とうどうもとのり)
生没年:1582〜1660年
身分:藤堂家の家臣
官位(通称、号):采女
{ 元は秀吉の家来の増田家の家臣ですって }
本姓・保田。
父は服部半蔵則直。 ← え?この人の父親も「半蔵」さん?
則直は紀伊保田庄の豪族で元は保田則直と言ったが、
伊賀予野の服部氏の養子となり服部姓を名乗った。
則直は千賀地谷に館を構えたので千賀地半蔵とも呼ばれる。
元則は則直の次男として生まれ
伯父の保田栄西の養子となって保田姓を名乗り、
伯父と一緒に増田長盛に仕えた。
【藤堂家へ】関ヶ原の戦いで増田家が改易されたため、1601年に藤堂高虎に仕え1500石を与えられる。1606年に兄・則宗と共に徳川家康に謁見し、彼の命令で藤堂姓に改めた。大坂冬の陣に従軍し功があって500石を加増される。
夏の陣にも従軍し八尾・若江の戦いで、井伊直孝軍への軍使として向かい、玉串で高虎の言葉を伝えた。そしてそのまま木村重成隊と戦い首級を得た。この働きを直孝に賞され自身の槍を授けられる。翌日の戦いでは八尾での先鋒の壊滅により左先鋒の一人となった。
伊賀上野城
【普請監督】陣後、それらの功により合計5千石の領主となる。1628年に大坂城に赴き普請監督を務めた。1640年に伊賀上野城代の藤堂高清が死亡したため次の城代となる。1651年に隠居し家督を息子に譲って可休と号した。その後、病気となり京都で療養したが回復せず1660年5月24日に死亡する。遺体は京都の黒谷で火葬され伊賀長田村の西蓮寺に葬られた。妻は佐伯惟定の娘。
管理人から・・・
元則は土木関係に強かったようで、高虎の築城の手伝いをよくしています。
兄の則宗は家康に仕えて3千石の旗本となったそうです。
また父は有名な服部半蔵正成とは別人です。
関係もよく分かりません。
参考文献:藤堂高虎家臣辞典・三百藩家臣人名事典
*******************
藤堂采女とは
采女というのは藤堂氏の伊賀支配を担当した藤堂采女家の当主の代々の通称であり、この采女の名は元施という。
津藩の藩祖・藤堂高虎ははじめ伊賀支配を一族の藤堂高清に任せたが、高清が亡くなると服部正成(半蔵)の甥に当たる藤堂元則(采女)が務めるようになり、以後は采女家の支配下に入ったのである。
幕末の元施は家督相続前の文久3年(1863年)、天誅組の乱が大和で起こると、天誅組の指導者である吉村寅太郎と面識があったことから味方しようとしたが、結局は幕命や勅命に逆らえずに天誅組の鎮圧に務めた。慶応元年(1865年)、家督を継いで津藩主・藤堂高猷に仕えて7000石の家老・城代となった。
慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いでは津藩軍の総帥を務めており、幕府軍を裏切って新政府につくという裏切り行為を行なった。ただしこれは藩主・高猷に命じられて行なったことだといわれている。
明治時代には敢国神社の神官を務めた。明治11年(1878年)に死去。享年43。
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伊賀の一宮だったような
もう1つ同じような話:
藤堂采女 とうどう-うねめ
1836−1878 幕末の武士。
天保(てんぽう)7年10月23日生まれ。伊勢(いせ)津藩につかえ,伊賀(いが)上野城代家老をつぐ。鳥羽・伏見の戦いで藩論は尊王,佐幕のいずれともさだまらなかったが,独断で幕府軍を攻撃した。維新後,津藩の執政,権(ごんの)大参事,伊賀敢国(あえくに)神社権宮司(ごんのぐうじ)。明治11年6月26日死去。43歳。姓は保田とも。名は元施(もとはる)。
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