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「承久の乱」が日本史上で「きわめて画期的な事件」と言えるワケ
by 松岡 正剛氏
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1-%E3%81%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E4%B8%8A%E3%81%A7-%E3%81%8D%E3%82%8F%E3%82%81%E3%81%A6%E7%94%BB%E6%9C%9F%E7%9A%84%E3%81%AA%E4%BA%8B%E4%BB%B6-%E3%81%A8%E8%A8%80%E3%81%88%E3%82%8B%E3%83%AF%E3%82%B1/ar-AA1BJcuA?ocid=msedgntp&pc=HCTS&cvid=bc8dd68827c94b2da211f42ff148b0ad&ei=14
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分岐点としての承久の乱
鎌倉幕府は東国に誕生した政権ですから、その勢力圏は当然ながら東に片寄っています。そこで幕府の力を全国に及ぼすため、諸国にくまなく守護と地頭を配置して政務をゆきとどかせ、警察権を掌握できるようにした。しかし都や西国には朝廷と公家の力がまだのこっています。
建保7年(1219)1月、3代将軍の源実朝が甥っ子の公暁に鎌倉八幡宮の大銀杏の下で暗殺されるという事件がおこりました。北条義時が執権として統率にまわることになり、新たな将軍に後鳥羽上皇の皇子の六条宮雅成親王を迎えたいと朝廷に申し入れたところ、上皇はいくつかの条件付きでならいいと言う。その条件が幕府の統率を乱すものだと判断した義時は、すぐさま弟の時房に1000騎を従わせて上洛させ、上皇の条件を潰しにかかります。
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上皇は憮然として鎌倉調伏のための加持祈祷を寺社にさせたりして、さらに反発の意志を示すのですが、そこへ承久元年七月、内裏を守護していた源頼茂が西面の武士に殺されるという事件がおこります。頼茂は将軍に就く野望をもっていたようです。
ここにおいて上皇は幕府の打倒を決断します。順徳天皇は主旨に賛同し、みずから譲位して皇位を仲恭天皇にあずけ、自身は自由の身で討幕に協力することにした。これで気合が入った上皇は秘密裏に三浦氏・小山氏・武田氏などにはたらきかけて軍勢をととのえると、ついに承久3年(1221)、義時追討の院宣を発しました。日本史上、きわめて重要な「承久の乱」の勃発です。
上皇挙兵のニュースは鎌倉に知らされ、ここに朝廷vs.幕府という前代未聞の戦端がひらかれることになります。当初の勢いは上皇側にありました。そこで北条政子は熱弁をふるって「実朝の遺業を引き継ぐためにも上皇の軍勢を蹴散らかすべきである」と説くと、幕府軍は19万の大軍となって都に向かい、木曽川と宇治川の合戦で一気に上皇軍を制圧します。
結果は上皇の惨敗。後鳥羽上皇は隠岐島に、順徳天皇は佐渡に流され、上皇に加担した者はほとんど斬首されました。以降、幕府は京都に六波羅探題をおき朝廷を見張るとともに、北条執権政治を確立します。
承久の乱で日本史は劇的に折り返したと言っていいでしょう。武家が公家を制圧するという事態がおこったのです。
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「武家伝奏」というエージェント
しかし、それで朝廷や公家がなくなったかというと、まったくそうはなってはいません。さすがに弱体化はおこっていきますが、武家政権は朝廷を巧みに動かすようになり、朝廷のほうも武家の活用を慎重にもくろむようになったのです。日本史で大事なところは、この朝廷と幕府の関係がどうなっているかということです。
結論からいうと、そこには朝廷と幕府のデュアリティ(双対性)が確立し、「天皇を戴く日本という国家」をどう運用したらいいかという、その運用のしくみができあがっていったのです。それが南北朝、足利時代、戦国、信長・秀吉から徳川250年まで続くことになります。
この運用の中核を担った役職があります。それを「武家伝奏」といいます。朝廷と幕府のあいだをつなぐ役目です。
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後醍醐天皇の時代に生まれ、室町幕府が制度化したもので、公家と武家とのあいだをとりもつスペシャル・エージェントになりました。数年おきにおびただしい数の人物が武家伝奏となり、公家と武家のパイプ役を引き受けました。徳川時代では関白に次ぐ要職でした。大納言や参議から選ばれたスペシャル・エージェントなのですから、もっと注目すべきです。
しかし、パイプはときに詰まったり歪んだり複合化したりします。朝廷と幕府の関係はデュアリティを保ちながらもしだいに複雑になり、その複雑さから日本史をゆるがす新たな様相が噴き出てきました。それが幕末の尊王攘夷であり、「国体」思想の蔓延であり、維新の王政復古の提案でした。
けれども、これらは明治日本には歪んだかたちでしかあらわれてこなかったのです。どこかで伝奏がボタンを掛けちがえたのです。このボタンの掛けちがえが明治維新を促しました。
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さらに連載記事
<「中国離れ」で華開いた「独特な日本文化」が機能不全に…その「残念すぎる末路」>
では、日本文化の知られざる魅力に迫っていきます。
https://gendai.media/articles/-/145011
ぜひご覧ください。
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「ジャパン・フィルター」が機能しなくなる
大和本草や国学のような国産物の開発、日本儒学の研究といった連打は、政治や思想や文化における「中国離れ」を引きおこします。日本はこのままいけるんではないか、もっと充実した国になれるんではないか。宝暦天明期や文化文政期には、そんな驕りさえ出てきます。
ところが、そこにおこったのがアヘン戦争(1840)です。イギリスが清を蹂躙した。幕府が唯一親交を温めてきたオランダ国王からの親書には、「次は日本がやられるかもしれない」という警告が書いてありました。これは「オランダ風説書」という文書に示されています。
実際にもロシアの戦艦が千島や対馬にやってきて、通商のための開港を求めます。幕府は外国船打払令などを連発して、これを追い払おうとするのですが、効き目がない。
そうこうするうちに、ついに「黒船」がやってきて(1853)、この対処に戸惑った幕府は解体を余儀なくされました。海外向け、外交上のジャパン・フィルターの持ち札がなかったのです。やむなく攘夷か開国かで国内は大騒動です。これで明治維新に突入することになったのです。
こんなふうになったのは、黒船に代表される西洋の近代科学の力に圧倒されたということもあるでしょうし、同時にその西洋の力によって、かつての日本にとってのグローバルスタンダードであった清国がなすすべもなく蹂躙されたアヘン戦争という事件を間近に見たせいでもあったでしょうが、いずれにしてもそこで、それまで日本が保持していた何かが損なわれたのです。
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「和魂漢才」から「洋魂米才」へ……
これまでの日本であれば、グローバルスタンダードを独特のジャパン・フィルターを通して導入していたはずのものが、西洋の政体と思想と文物をダイレクトに入れることにしたとたん、つまり「苗代」をつくらずに、フィルターをかけることなく取り込もうとしてしまったとたん、日本は「欧米化」に突入することになったのです。
これを当時は「文明開化」とは言ってみましたが、でもそこからは、大変です。列強諸国のほうが、裁判権とか通商権などに関してフィルターをかけようとしたのです。
西洋の文化を受け入れるに際して、あまりに極端なオープンマインド、オープンシステムで応じたために、中国の文物を受け入れるに際しては機能した「和漢の境をまたぐ」という仕掛けがはたらかなくなりました。
こうして「和魂漢才」はくずれ、できれば「和魂洋才」を律したかったのですが、そこもどちらかといえば「洋魂米才」があっというまに広がっていきました。このことは明治の大学が「お雇い外国人」にそのスタートを頼んだことにもあらわれています。
仮名の発明から徳川時代の国学まで続いた「中国離れ」は「列強含み」に変わったのです。それではいかんと奮起して日清戦争と日露戦争に勝利できたあたりから、日本主義やアジア主義を唱える新たなムーブメントもおこりますが、その動向はまことに微妙なもの、あるいは過剰なものとなっていきました。
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https://gendai.media/articles/-/144389
日本人なのに「日本文化」を知らなすぎる…「知の巨人」松岡正剛が最期に伝えたかった「日本とは何か」
「わかりにくさ」こそ日本文化
日本文化はワビとかサビとかばかり言って、どうもむつかしいというふうに言われてきました。だからわかりやすく説明してほしいとよく頼まれます。
しかし、この要望に応える気はありません。断言しますが、日本文化はハイコンテキストで、一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂があるのです。
わかりやすさを求めればいいというものではありません。空海の書、定家の和歌、道元の禅、世阿弥の能、長次郎の茶碗、芭蕉の俳諧、近松の人形浄瑠璃、応挙の絵、宣長の国学、鴎外の小説、劉生の少女像に何か感じるものがあるというなら、わかりやすくしようなどとは思わないことです。
かれらが放った「間架結構」「有心」「朕兆未萌」「時分の花」「面影」「さび」「もどき」「古意」「簡浄」「美体」などというコンセプトそのままに、日本文化を会得していくべきです。
それがあまりにもむつかしいというなら、では聞きますが、プラトンのイデア、ラファエロの天使、スピノザのエチカ、カントの理性批判、ドストエフスキーの大審問、プルーストの時、デュシャンの芸術係数、サルトルの実存、コルトレーンのジャズ、ウォーホルのポップアートは何によって「わかった」と言えたのでしょうか。
私はそれらが「わかる」のであれば、日本の哲学や美も「わかる」というふうになるはずだと思います。
多少の手がかりは必要です。私はそれをジャパン・フィルターというふうに名付けました。なかでも客神フィルター、米フィルター、神仏習合フィルター、仮名フィルター、家フィルター、かぶきフィルター、数寄フィルター、面影フィルター、まねびフィルター、経世済民フィルターなどが有効です。本書で点検してみてください。
「おもかげ」「うつろい」こそジャパン・スタイル
日本文化の正体は必ずや「変化するもの」にあります。神や仏にあるわけでも、和歌や国学にあるわけでもありません。
神や仏が、和歌や国学が、常磐津や歌舞伎が、日本画や昭和歌謡が、セーラー服やアニメが「変化するところ」に、日本文化の正体があらわれるのです。
それはたいてい「おもかげ」や「うつろい」を通してやってくる。これがジャパン・スタイルです。
しかし、このことが見えてくるには、いったんは日本神話や昭和歌謡や劇画などについて目を凝らし、そこに浸って日本の歴史文化の「変化の境目」に詳しくなる必要があります。
白村江の戦いや承久の乱や日清戦争は、その「変化の境目」がどのようなものであるかを雄弁に語ります。そこは見逃さないほうがいい。それはアン女王戦争がわからなければピューリタニズムがわからないことや、スペイン継承戦争がわからなくてはバロックが見えてこないことと同じです。
ところがいつのまにか日本文化というと「わび・さび・フジヤマ・巨人の星・スーパーマリオ」に寄りかかってしまったのです。それでもかまいませんが、それなら村田珠光の『心の文』や九鬼周造の『「いき」の構造』や柳宗悦の『民芸とは何か』や岡潔の 『春宵十話』はどうしても必読です。せめて山本兼一の『利休にたずねよ』や岩下尚史の『芸者論』や中村昇の『落語哲学』はちゃんと読んだほうがいい。
日本は一途で多様な文化をつくってきました。しかし、何が一途なのか、どこが多様なのかを見究める必要があります。日本人はディープな日本に降りないで日本を語れると思いすぎたのです。これはムリです。
安易な日本論ほど日本をミスリードしていきます。本書がその歯止めの一助になればと思っています。
さらに連載記事<「知の巨人」松岡正剛が最期に日本人に伝えたかった「日本文化の核心」>では、日本文化の知られざる魅力に迫っていきます。ぜひご覧ください。
*本記事の抜粋元・松岡正剛『日本文化の核心』(講談社現代新書)では、お米のこと、柱の文化について、客神の意味、仮名の役割、神仏習合の秘密、間拍子と邦楽器、「すさび」や「粋」の感覚のこと、お祓いと支払いの関係、「まねび」と日本の教育など、日本人が知らない日本文化をわかりやすく解説しています。「知の巨人」松岡正剛が最期に残した「渾身の日本文化論」をぜひお読みください。
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