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 投稿番号:102136 投稿日:2024年08月17日 22時18分46秒  パスワード
 お名前:丸に三柏服部さんの代理
服部カフェ 5号店
キーワード:服部、羽鳥、服織、ハットリ、ハトリ
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

好評につき
「服部カフェ」
の5号店をオープン致しました。

「古代より現代に至る─服部」についての自由で総合的な考察の場─カフェ。
コーヒーでも飲みながら、語り合いませんか?


1号店  http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101884_136.html
2号店  http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101930_102.html
3号店  http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101979_99.html
4号店  http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/102089_99.html

[1]真夏に降る雪さんの代理さんからのコメント(2024年08月29日 08時47分11秒 ) パスワード


最後などと書いてしまい申し訳なく思ってます。
妻木氏の件長い目で見て行きたく思います。
[2]真夏に降る雪さんの代理さんからのコメント(2024年08月31日 18時09分37秒 ) パスワード

七盛と服部党に誓って
大きく曲がったことは惹起も
致さぬということです
ここで退室します。
[3]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2024年09月01日 16時32分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 五号店開設、ありがとうございます。あを様のエネルギッシュさに私も刺激を
受けます。もう半年で責任ある立場からは解放されます。できるだけ早く体制を
整えたいと思っています。最近は、田中英道さんの本を読んでいます。最近読ん
だ本は、『能の起源と秦氏』であります。
 今、地元天満宮の氏子総代長をやっておりますので、菅原道真や土師氏につい
て、あるいは古代からの人間と宗教というものについても考察をしております。
歴史探求は時間がかかりますので、今ここで発表するのは控えますが、いずれ必
ず復帰しますのでお待ち下さい。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2024年09月01日 22時52分06秒 ) パスワード

三つ柏さん

お久ですぅ〜
お元気そうでなによりでございます。


毎日大変な日々だと思いますし
そちらも大雨だったニュースを読みました。



>地元天満宮の氏子総代長

人間を纏めるのは大変ですが
逆に   <<<古代からの人間と宗教>>>  と関わって  貴重な情報+人脈をゲットなさったでしょうね
      公開出来ないようなレベルで。



最近テレビの旅番組で静岡編をいくつか見まして
なんと!
旧ジャニーズの  松村北斗  にそっくりなヒト達を数人見ました。
NHKの朝ドラの『カムカムエヴリバディ』に出てたヒトです。

     顔も声も話し方もソックリで   兄弟?従兄弟? 
     静岡ってこんなイケメンがたくさんいるの?
     と驚きました。

          その前に知ってた静岡の男の子は中東系の濃い顔で
          オリオールズの試合に行った時に巨大な望遠レンズのカメラを持っていたから
          セキュリティチェックでテロリスト扱いされて面倒だった
          と言ってました 

               それで静岡男子のイメージが払拭(笑)されました。ホント!



氏子さんの為に動くこと
氏神さまの仕事に携わること
地域の一員であること

     わたしも  ほんの少し  三つ柏さんの真似事を今年はしています。
     人間としての幅がほんの少し  広がったかな?  レベルですが。



半年後
楽しみにしております。


最近  「古事記」 vs  「日本書紀」  について  ちょっと【差】に気付きました。今更ですが。

「日本人のソモソモって何だったのか?」と。



>古代からの人間と宗教というものについても考察

楽しいですよね。
[5]真夏に降る雪さんの代理さんからのコメント(2024年09月15日 09時04分32秒 ) パスワード


平熱は見ますが体調は最悪です。
歴史に側面いろいろあれど見には来ますので
私から積極的にということはもうありません。
そうしたいんです。

鳴海 妻木あるならばで
通常の生活を送ろうと思います。
[6]真夏に降る雪さんの代理さんからのコメント(2024年09月17日 21時42分37秒 ) パスワード


一応ですが
若者代表(?)として年相応に鉄分銅分足りず
迷走に入ってしまったのは理解しました。

さて知らないふりは駄目でしたので

妻木 鳴海 木字子などなど
核心以前 平常心を取り戻そうと思って進みます。
[7]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2024年09月27日 15時10分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 airmail、いつもながらありがとうございます。ハワイについては、ハワイアン
の唄をウクレレ片手に唄っております。でもロシアとイスラエルの2つの戦争に
心は晴れません。昨日の袴田事件の無罪判決と大谷の活躍によるドジャーズの地区
優勝には心が一瞬ではありますが晴れました。

 近々、岡崎に調査に行ってまいります。大型スクーターで各所を回ってきたいと
思っています。半蔵についての資料が入手できるといいですが・・・。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2024年09月27日 22時33分05秒 ) パスワード

三つ柏さん


自治会のお手伝い
今でも大変な毎日とお察しいたします。


昨日  日本人会のパーティで  80代の男性が3人
認知症の入り口にいるのを知ってしまいました。
1人は結構近くのお住まいなので  ちょっとしたお手伝い  可能です。
ドンキの近くなので  お手伝いの帰りに  寄れますしね。


三つ柏さんには若い世代の育成をお願いしたいところです。
超優秀な学歴・職歴をお持ちですから
後輩に良い刺激になると思います。

物作り日本の再生を担う若者が増えてくれたら
と願っています。



大樹寺あたりに半蔵関係が残っていると良いですね。
たぶん浜松の方が残っていると思いますが。
にっこり
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2024年10月03日 06時20分47秒 ) パスワード

三つ柏さん


先週新城からお客人があり
そして
本日非常に庶民的な時間潰しをしていて   ←  クロスワードパズルのような時間の無駄遣いの遊び


    こんなコトで時間を使うな
    三つ柏さんに書いてやれ

ということで書き始めました。
御存知のハナシばかりでしょうけど
あれ?
と思ったので。




https://www.his-trip.info/siseki/entry275.html
三ケ日人 只木遺跡

三ヶ日町只木の石灰岩採石場で9500〜7500年前の縄文時代の人骨片が発見された。
人骨片はすべて断片で、観察できる部位の特徴はすべてホモ・サピエンスであることを示している。
特徴は、寛骨が小さく、かつ大腿骨片長さから推定された生前の身長が150cm前後と低い。

以下略
URLへ




東三河の豊田藤助

武田との戦で酒井忠次が豊田藤助に案内させた話。
https://www.higashimikawa.jp/busyo/spot57.html
https://www.net-plaza.org/KANKO/shinshiro/haka/toyada-haka/index.html
https://kichisama26.jimdofree.com/%E3%81%A8%E3%82%88-%E8%B1%8A%E7%94%B0%E8%97%A4%E5%8A%A9/


武田軍が長篠・設楽原の戦いの際、長篠城を包囲・監視するために作った砦の一つ。
酒井忠次はこの砦の襲撃を織田信長に進言し、信長の命令によって4,000の兵を率いて、砦の後方から奇襲をかけ
長篠城の救援という目的を果たした。

砦が落とされたことで、挟み撃ちを怖れた武田軍は、織田・徳川連合軍と激突。




おこちゃ屋敷
https://ameblo.jp/kantaro-yamaguchi/entry-12529872314.html
本多重次=鬼作佐=の知り合いの浜名湖の西の太田村代官   豊田六郎左衛門に  お万の方が預けられ

     出産は宇布見村の中村源左衛門宅

ということで



この豊田さんはどこから?と思ったのです。
そして物作りのトヨタの大元は   秦氏  だったのかな?   と。
三つ柏さんが   秦氏  に引っ張られる  その原点かな?と。




で、トヨタさんですが
ひょっとすると

大庭景宗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BA%AD%E6%99%AF%E5%AE%97

大庭 景宗(おおば かげむね)
平安時代後期の相模国の武将。
平良文の末裔である鎌倉景正の流れを汲む大庭氏の一族
(景宗は景正の孫にあたる)。


家系については、
『尊卑分脈』に景正 ― 景経 ― 景忠 ― 景義、弟景親と見え、
三浦系図には鎌倉景政の父景成の兄景村 ― 景明 ― 景宗 ― 景義 ― 景親、弟景久。
諸家系図纂には景成 ― 景正 ― 景経 ― 景忠 ― 景能(景義)とある。


で、
この方の御子息が
大庭景義、豊田景俊、景親、俣野景久、波多野義常室。



豊田景俊
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E6%99%AF%E4%BF%8A
豊田 景俊(とよだ かげとし)
平安時代後期の武士。
相模国大住郡豊田庄の領主。

略歴
相模国の有力武士団・鎌倉党の一族で、大庭御厨を相伝した大庭景宗を父、同地を継承した大庭景義・景親を兄弟に持つ。

名字の地とした豊田庄には父・景宗の墳墓があったという。

治承4年(1180年)伊豆国で挙兵した源頼朝が相模国への侵出を図った際、

兄弟のうち景親や俣野景久は平家方として頼朝軍を阻んだが、
景俊は兄・景義とともに頼朝軍に扈従している(石橋山の戦い)。



以下略



大好きな大庭家のことなのでコピペしてて泣けて来る。



ということで遠江の豊田家や東三河の豊田家って   大庭の流れなのかな?と空想が飛ぶ、


豊田家が先祖自慢をしないのは  元が  秦氏だから   物作りはお家芸だからかな?とか。
織機やってたし。



豊田さんはコーワの服部さんに金銭的にお世話になってるしね


などなど   ちょっと気になってたコトが  先週  新城からの客人ですっごく気になり
とうとう駄文を三つ柏さんに書いてしまいました。
[10]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2024年11月12日 00時00分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 郷土に残る歴史史料を根気よく探すと、時として宝物が出て来ることがあります。
 今回ご紹介するのは、袴田耕司氏の『橘姓楠木氏の末裔 北遠・袴田一族のル
ーツを解く!』という2022年に幻冬舎から発行された本であります。

 簡単に要約いたしますと――

 @楠木正成には姉がいて、その子に正遠、行遠、高貞(正成の甥たち)がいた。
 A正遠は湊川の戦いで正成と共に亡くなった(自害した)。
 B幼かった二人の弟たちは、その後の大船団での全国派遣で宗良親王に供奉し、
  嵐のため遠州浜にたどり着き、井伊家の三岳城に入った。
 C今川勢に攻められ、三岳城も危うくなり、宗良親王は駿河の安倍城に逃れる
  こととなった。彼を護衛していた楠木一族も、残党狩りがきびしいので、そ
  れぞれ身の振り方を考えなければならなかった。行遠と高貞の二人は姓を変
  え、百姓として隠棲することにした。
 D行遠は「袴田五郎左衛門」として「都田」に身を隠した。
 E高貞は「袴田高貞」として「二俣」に隠棲した。
 Fまた、楠木一族の安間七郎は天竜川の下流に向かい、「安間村」を起こした。

 もともと正成を当主とする楠木一族は、縁者・仲間・地元の百姓住民が一体と
なって網の目のように結びついた武装コミュニティであった。従って、劣勢の時
は身を隠したり、平時には百姓住民と共に農耕をしていた。生きるためには何で
もありで、手段を選ばなかった。

 ということで、この遠州の地は宗良親王、井伊家、楠木一族郎党等、南朝の血
とマインドが根付いているいうことを、改めて確信いたしました。

 さらに、亡くなった長男の正遠には娘がいて、伊賀の上島家(服部次郎左衛門)
に嫁ぎ、子をもうけた。その第三子が清次、即ち観阿弥である。(日本家系協会
『服部一族』による) つまりは世阿弥の父。
 伊賀、三河、遠江は服部氏で特に底通していると言っても過言ではない。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2024年11月12日 02時07分55秒 ) パスワード

三つ柏さん

>この遠州の地は宗良親王、井伊家、楠木一族郎党等、南朝の血とマインドが根付いているいうことを、改めて確信いたしました。



背筋がゾクゾクする書き込みをありがとうございました。


楠木一族と服部一族の関係 
 
    >>伊賀、三河、遠江は服部氏で特に底通していると言っても過言ではない

ですね。

    
わたくしのムカシの仕事場の若い男の子の家が楠木正成子孫の刀鍛冶の家でしたしね。

     気が合うと思っていたら
     その謎が   先祖がらみだったのか   と。



これからの日本
トヨタに負けない物作りの人材を輩出して
世界を救って欲しいです。


あ、それには  アメリカの永住権のくじに応募して当たって欲しいです。
アメリカは個人の能力を換金して示してくれますしね。

     オ〜タニさんに続く世界一の日本人が伊賀、三河、遠江あたりから出てくれますように!

今月号にも載ってたのでお送りしておきました。
[12]字井次郎さんからのコメント(2024年11月12日 10時26分32秒 ) パスワード


観阿弥世阿弥について
見識のある方とお会いできたと一文記しておきます。



[13]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2024年11月14日 09時33分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 以前、秋田出身の「菊池」さんという人と知り合いになりました。
 最近、静岡に住む「菊地」さんと知り合いになりました。
 この「ち」の漢字の違いは何かと思い、インターネットで調べたところ、名字
 研究家の高信幸男氏が次のようなことを述べられておりました――

 「菊池のルーツは、平安時代に肥後国菊池郡の武士が菊池を名乗ったのが始ま
 りである。菊池氏は、南北朝時代に南朝方として活躍し、東北まで派遣されて
 戦闘に参加したが、結局敗れてしまう。その時に東北地方の各地に散った菊池
 氏の一部が、菊地と文字を変えた。その理由は、敵から追われる身であるので、
 名前をカムフラージュしたということらしい。地の字の「土」は武士の「士」
 を表し、「也」は「なり、なる」という意味が込められている。」

  南北朝の戦いは全国的であったので、形勢不利側の人達は東北はもちろん、
 各地でいわゆる「隠れ南朝臣」としていわゆる地下に潜り、「南朝狩り」を避
 けたということは想像に難くありません。

 


[14]空の青海のあをさんからのコメント(2024年11月14日 13時10分13秒 ) パスワード

三つ柏さん

>東北地方の各地に散った菊池氏の一部が、菊地と文字を変えた。
>その理由は、敵から追われる身であるので、名前をカムフラージュしたということらしい。
>地の字の「土」は武士の「士」 を表し、「也」は「なり、なる」という意味が込められている。


これは知らなかったです。
ありがとうございました。



落ちぶれたと言えど  こうやって  アイデンティティやプライドを分かる人には分かって貰える  そういう矜持が込められているんですね。


     日本ですね



そう言えば思い出します:


会津藩の家老の西郷さんが  薩摩藩の西郷さんに会って救済をお願いに行った件は  互いに=南朝方だった菊池の子孫であること=で会いに行った
というのは聞いたことがあります。



平熱で「現在名乗っている半田姓」は「実は平家の落人の平田氏を隠した」という告白を見たことがあります。



ヨシダさんは   吉田(吉=武士出身)と𠮷田(百姓で土地を守る家)の2種類あって身分の違いを示していると聞いたことがあります。



我が家も   「又」じゃなくて「く」を使う  と父から聞いたことがあります。

ま、   俗字  と呼ばれているそうですけど。
時代物のシーンで   呉服商が「く」を使っている看板があったりして


このシーンを見るたびに
うちは明治時代の登録時に   俗字で登録した?  mataha 役人が手を抜いて俗字を使った?  と思いましたが

ホンヤさんとこも俗字で書いた表記を見たことがあって

ホンヤさんの近くの服部さんが「うちの家紋は【く】だ」とおっしゃってて

        この情報に当時はピンと来なくて聞き流してしまいました


何か微妙な違いを示しているのかもですね。


でも  今は  皆さん鬼籍にお入りになっていて  確かめようが無いのが残念です。


専門家がご自分の考えを述べたら   後世に  定着する・定説になる  というコトもあり得ますから


各自、自分の家のことはちゃんと子孫に伝えていって欲しいものです。
でも今の時代   どんどん  忘れ去られていくのでしょうね。

    ワタクシも系図の中にとんでもない勘違い=漢字違い=を一族中に伝えてしまったことがあります。

       南朝方の我が家の漢字を北朝方の漢字に書き換えてしまったのです

            その1字の違いこそが我が家が南朝方であった証拠なのに
                   ホント!バカ


1字の違いの中にアイデンティティが隠されていること
先祖の思いが込められていること


    日本って  スゴイ!  と改めて思います。



蛇足:

   「奥羽」をローマ字表記しようとすると  ものすごい数の表記の仕方があって

   「大谷」さんは  OHTANI  と  【H】を入れてる

   「伊藤」さんは  ロス時代に   ITOW  とスペルしてた日系人がいて(【私は牽引する】って意味じゃないのに)と憤慨した過去があります

日本語をローマ字表記なんてホント大変と思いました。


大阪は  OSAKA  って書きますものね
東京は  TOKYO  ですが  最近は フランス語みたいに  TOKIO で表記する人も出て来てたり


結論:
日本語はホント!厄介!
[15]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2024年11月14日 16時31分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 11月4日に、ツーリングでまた大鹿村(大河原)へ行ってきました。紅葉を見
ることが第一の目的でありました。今年は異常気象で暑さがずっと続いており、
残念ながらいい紅葉を見ることはできませんでした。3000メートル級の南ア
ルプスもまだ白い雪を被っておらず、これでは夏からいきなり冬になってしまう
かもという危惧を抱いてしまいます。

 宗良親王がここに約30年お住まいになった。よくこんな山奥にと思ってしま
いますが、その理由の一つとして、私はこの地では塩がとれるということ。岩塩
が水に溶けて塩水や塩温泉が出る鹿塩という所が大鹿村にあるのです。塩は人間
の生活になくてはならないものではありますが、また馬(騎馬)を育てたり飼った
りするにも絶対に必要であるのです。南北朝の戦いに馬は絶対欠かせなかったと
思います。蟻のように歩いて日本中を戦い回った、逃げ回ったなんてことはおそ
らくないはずです。
 
 大鹿村を流れる小渋川の河原にすわり、おにぎりを食べ、遠くのアルプスの山
々や取り囲む小高い山々、それに目の前の河原の中の清流を眺めていると、時間
が止まり、一枚の絵になりました。
 川上の小高い所を見ると、観音様のようなものがたてられていました。見に行
ってみますと、案内板があり、戦後大洪水があって多くの人が亡くなったとか。
私のツーリング仲間の友人の話だと、ここで流された牛が下流に流され、さらに
天竜川に流れ込み、静岡県の二俣まで流されて発見されたことを小さい頃おばあ
さんから聞いたことがあると言う。
 南信州とは、川でつながり、塩の道でつながり、さらには古来より行き来があ
ったということ・・・地政学的歴史のつながりは必然であった。
 
 
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2024年11月14日 22時31分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


大鹿村のレス
ありがとうございます。


宗良親王が  小さな小さな行在所(8畳間サイズって読んだのかな?)にお住まいだったこと

それには「岩塩」が背景にあったことは全く知りませんでした。


   塩があるということは
   下に水がある   だから  塩が地上に出て来る  というトルコの塩湖の番組を見たばかりです

   
        これまた  平熱はオカルトかかっている!  と思ってしまいます

        トルコの塩湖の番組を見ていなかったら理解の度が全く違ったものになりますから



ということで   何故大鹿村が南朝方の拠点に選ばれたのか   本当に物凄い山奥  というNHKの番組を  更に理解することが出来ました



あんな所にリニアを通す?
下に水があるのなら
大工事になるのでは?


というより   ムカシの日本人の知恵   戦いの時の知恵   すごいですね。

    戦争がオトコ達の脳をフル回転させて  文明を更に発展させる

        というのを改めて思い出しました。



>南信州とは、川でつながり、塩の道でつながり、さらには古来より行き来があ
ったということ・・・
>地政学的歴史のつながりは必然であった。

ですね。

敗戦  敗戦  で逃げまくった末に大鹿村に辿り着いたというワケでは無かった   ということですね。


野生動物が「塩を舐めに来る」という知識に裏打ちされていたのですね。
「馬を飼える」という戦略上の拠点だったのですね。



ガソリン無きゃ戦えない日本
それを無理に大東亜に拡大していった旧日本軍
「地政学的歴史」をもうちょっと勉強しておくべきでしたね。

     これはEVにも言えますね


>「地政学的歴史のつながり」
こういうことを小学生の後輩達に教えてあげて欲しいです。

視野が広がります!
脳の使い方を若いうちに知ることが出来ます!


ホント  良いツーリングが出来ましたね。

     やっぱり「平熱はオカルトかかってる」

          また  言っちゃった
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2024年11月15日 09時43分08秒 ) パスワード

三つ柏さん


またもや「平熱はオカルトかかってる」件です。


上のレスに「会津藩の家老の西郷さんが  薩摩藩の西郷さんに」と書きました。


今日は近所の北海道出身の知り合いが北海道からの観光客総勢17名を連れて来て
      たあいなく北海道の話をしていたら
ワタクシの知り合いの老人が「実は僕は北海道のXXXで」というハナシになり
      方向音痴のワタクシは北海道の地名はサッパリでアウエーでしたが


この老人の名字が  ホンダさん  で
なんと  本多平八郎忠勝  ゆかりのヒトでした。
ビックリ

     ご自分は(なんで僕は平八郎って呼ばれるの?平八郎って誰?)という感じで育ってしまい

     そして

     自分では岡崎とか名古屋とか三重あたりのエリアにすごく心惹かれる感じがあって

とおっしゃるのです。


大学やら就職やらで東日本をアチコチして   

「福島では松平家に対しては  今でも  へへぇ〜  (平伏ぅ〜〜〜)  って感じだよ」

などと教えてくださって


     いやいやいや
     まさか  ココで  会津のハナシが出るとは思わず


わたくしは「うちの一族の者が新選組に入って後に伊東甲子太郎先生に感化されて油小路案件で捕まって会津藩邸に連れて行かれて」


などと話して


このホンダさんは  会津の3つの唄をご披露してくださって(1つは白虎隊)


まさか今日  「会津」で盛り上がるとは  思ってもいませんでした。


     この老人のことは今春3月からホンダさんという名は知っていましたが
     
     まさか8か月後にこんなハナシをすることになるとは!
     でした。
     今日  北海道の観光客が来なかったら
     こんな展開にはなりませんでした


桑名の本多家   桑名の松平家  会津の松平家  と言ったら   まさに  ホンヤさんとの引っ張り合いのある家ですからね

     残念ながらワタクシは半蔵さんとは直接関係ありませんが・・・

でした。

     半蔵家と桑名の関係とか

         忠勝の墓所は 桑名や姫路や夷隅にもありますからね

             夷隅はワタクシの心の古里でもありますしね
             夷隅には今切関所の政信の4男が1500石頂いていましたし
             夷隅で服部家と本多家の関係が当然あったでしょう


家紋も菩提寺も同じだよ
         とおっしゃってましたっけ

             桑名の方?夷隅の方?
             図々しく訊けば良かった




このホンダ爺さんと話していてDNAに刷り込まれた過去の記憶がちょっと蘇った気分でした。


3月からホンダさんは爺さんだからどう呼んで良いのか分からず「ホンダ先生」とお呼びしてたのですが
今日はチラッと  XXX心理学の研究をやってた  とおっしゃってたような。


ボチボチどんなヒトなのかムカシ語りをお願いしようかと思っています。
今夜にでも黄泉路に発ってもおかしくない御高齢ですから。


     うちの近所のマクドナルド(2か所のどちらか)にいつも居座ってるとおっしゃってました。
     近くを通ったら中を覗いてみようかと。
[18]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2024年11月15日 22時10分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大鹿村大河原も標高1000メートル内外ですが、ここから東へ15qから20
q位のところに南北に南アルプスが連なっています。3000mクラスの山が、北
から北岳(3193)、間ノ岳(3189)、西農鳥岳(3051)、塩見岳(3047)、荒川岳(3141)、
中岳(3083)、赤石岳(3120)、聖岳(3013)と屏風のように広がっています。

 地元の話によると、宗良親王は南朝勢力挽回のため、北条時行、諏訪頼継、高坂
高宗などを従え、しばしば赤石岳山頂に登って足利氏の調伏を祈願したという。調
伏といえば密教系の修験者が介在したに違いない(宗良親王は天台座主でもあった)。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2024年11月15日 22時56分27秒 ) パスワード

三つ柏さん

南アルプスって3000m級の山々でしたか。

    車で3000m一気に上ぼるとワタクシは高山病系のカラダが縛られる感覚になります。
    ムカシは1歩1歩ゆっくりですから平気だったでしょうけど

         >しばしば赤石岳山頂に登って足利氏の調伏を祈願したという

               おいたわしい
    

>宗良親王は南朝勢力挽回のため、北条時行、諏訪頼継、高坂高宗

高坂高宗:ちょっとコピペ

南北朝時代の武将。
信濃大河原城主。
南朝方に属し,康永3=興国5年(1344)ごろ大河原城に宗良親王をむかえる。
ここを拠点に各地を転戦した親王を30年にわたってまもった。



宗良親王は大平城(おいだいらじょう:現在の浜北の大平)に逃れたものの、

      あらあらあら!
      地図を見てビックリ!

         中安牧場もあったりして(にっこり)

         都田も近いんですね

              方向音痴+空間把握不能者なのでこれ以上は書けない(恥)


ここも落城し、
親王は井伊道政に助けられ、駿河へ落ち延び、さらに越後、信濃、吉野を転々と過ごした後、
信濃大河原(現在の長野県大鹿村)の山奥で30余年、ひっそりと過ごした。


そういう経緯でしたか。


なるほど  三つ柏さんの琴線に触れますね。
泣けて来るので  ここで  アップ
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2024年11月16日 06時49分05秒 ) パスワード

今朝   上記を書いて「平熱って不思議」と思っていたら
更に
驚くことがありました。謎


昨夜録画しておいた番組を見てたら

2022年4月16日の放送の「くるくるJAPAN」という番組に田中道子が出てて


    静岡の出身だから富士山を見て育った

というハナシから   こんな美しいヒト  静岡のどこの出身?  と思ってたら   浜松なんですね。



彼女は一級建築士だそうで
鳥取の大山の投入堂を絶対に見ておきたいということで
この番組が作られたわけですが



    山には神が宿る

        (この「くるくるJAPAN」の後に見た「相棒18」も山には神が宿るってハナシがありました)


        船上山には神が宿る  というのは   経験上  そう思いました



大山(投入堂)については・・・

    三徳山三佛寺 奥院 (国宝 投入堂)

        役行者が三徳山を訪れた時、麓でお堂をつくり 役行者は法力で大きな掛け声と共に断崖絶壁にある岩窟に投入れた

というハナシがある、と番組で紹介してましたが



テレビ画面の  山を見たら   3人分ぐらいの目が見えて   1番左の神様の目が「ウソ!ウソ!」  と(笑)


面白かったですよ。

      ということは  大山にも  神はおわしましたか?

           船上山の時のような霊的な強さは感じませんでした

                民放の番組だからかな?
                底の浅さが霊性を薄めてた感じでした。
[21]酔石亭主さんからのコメント(2024年11月17日 08時42分42秒 ) パスワード

あをさん、三つ柏さん

以前あをさんはお持ちの服部家系図に関して、

公清 ⇒ 養子が保俊 ⇒ 千賀地保行 ⇒ 下服部

と書かれており公清が誰だかわからないとされていましたね。伊賀服部氏の先祖の段階で不明な人物がいるのは私も気になっていました。この問題に関して全くの推測ですが、橘公清が該当する可能性はありませんか。そう考えたのは、

Wikiには、服部氏の出自に関しそれ以外の説としては楠木氏(伊予橘氏)がある、と書かれている点や、橘公清の親が年代的にも動き方にも伊賀服部氏の始祖とされる平家長、服部六郎時定と重なる部分があるように見えたからです。橘氏家系図によると、

15代橘右馬弁公長は頼朝の祖父源為朝に恩義があり1180年に清盛の四男で従二位権中納言の平知盛の家臣から源頼朝の麾下に入ったとされます。文治元年(1185年)には壇ノ浦の合戦の後、義経の命により捕虜であった平清盛三男で清盛亡き後の平氏一門の棟梁・平宗盛(平知盛の兄)を斬首したとのこと。時代や活動状況は服部六郎時定と重なってきます。

橘氏は平家の滅亡と共に没落するも、公長の一族は鎌倉の御家人となり没落を免れ、公長の三男に公清がいました。ただWikiは、公清に関して讃岐橘氏で後裔に橘公業がいる。父は従四位下下野守の橘公盛。と書いており違いがありますが…。なお公盛は公長の兄とされているようです。

公長の動きを見ると時定と知己だった可能性も想定され、時定の孫の保俊を公清の養子にしたものとも受け止められます。ただ伊賀服部氏はその子孫を全て家長にくっつけていますので、公清の名前が家清に変えられて、家長⇒家清⇒保俊の系図になったのかもしれません。

次に平家長を見ていきます。「源平盛衰記」には家貞の子息に薩摩平六家長の名前があります。なぜ薩摩が出てくるのか全く意味不明でしたが、橘氏の関連とすれば有り得る話だと思いチェックしたところ、16 代の 小鹿島橘氏流薩摩守始祖が橘公次左エ門尉公業となっていました。公業は公長の次男です。「源平盛衰記」が家長の名前の前に薩摩と入れたのは、服部氏の出自が伊予橘氏だったとの意識が残っていたからではないかと推測できそうです。

以上のように服部氏の出自をWikiの書く伊予橘氏の前提で見ると、あをさんの系図にある公清の実像は伊予橘氏の橘公清であった可能性も少しはありそうですが、いかがなものでしょう。流し書きなので他の史料などを相互参照しておらず、間違いや勘違いがあるかもしれませんが御寛容のほど。

橘氏系図詳細は以下を参照ください。

https://www.at-newyork.com/wp-content/uploads/company/%E6%A9%98%E6%B0%8F-%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E5%9B%B3.pdf
[22]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2024年11月21日 00時02分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日AML届きました。ありがとうございます。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2024年11月23日 22時49分29秒 ) パスワード

酔石亭主さん

11月12月は祝日やパーティが目白押しで    アタマの中がゴタゴタしていて
その前に
大谷翔平の試合を見ながら片付けをしてて  それで  どこに何を移動させたか  物の移動先が    分からない

ということで  酔石亭主さんの書き込みの件   どこに史料が行ったか探さなくては  状態です。




三つ柏さん

人間を扱うお手伝いを始めて8か月。

     もう  大変!
     心の中で   悲鳴と罵倒   やっています。
     実にさまざまな人間像

         自分の出来る範囲を黙々とこなしています。


木曜に   女子にはちょっとムリ・・・な・・・お手伝いをさせられて
でも    打撲傷で済んで   ホッとしています。  
明日には100%痛みも消えているでしょう。



人間を纏めるって大変ですねぇ。
わたしの立場はお手伝いのヒトの下働きですが

    上に立つって

寛容な心を持っていないと   壊れてしまいますね。


歴史上のリーダー達
日本を掌握した偉人達

改めてスゴイと思います。



石破さん
ペルーに行って   どーの  こーの
言われてますが

わたしは  公と私の軽重の区別がつかないレベルの秘書達じゃ  石破さん  きっと大変な毎日なんだろうなと気の毒です。


秘書さん達もまさか自分の親分がココ迄高みに至るとは想像してなくて
    自分が間に合わないってコト
    申し訳なく思っているのだろうな
と思います。


三つ柏さんの2025年がラクな立場になりますように!
[24]酔石亭主さんからのコメント(2024年11月24日 15時26分44秒 ) パスワード

あをさん

>酔石亭主さんの書き込みの件   どこに史料が行ったか探さなくては  状態です。

どうぞごゆっくり。

実は22日の金曜夜にパソコンが壊れ、翌日購入した店に行ったら修理には三週間以上かかるといわれ、どうせ来年には窓10のサポートが終わるので買い換えようと思っていたので、急遽前倒しして買い換えました。必要なデータなどはUSBメモリーにおおよそコピーしてありますが、漏れもあるのであれこれチェックする予定です。パソコンは本当に便利ですが面倒な道具ですね。疲れます…。

[25]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2024年11月25日 18時13分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 宗良親王は、現代の世において、どれだけ知られているだろうか?
 たぶん、知る人は少ないだろう。また知っていても、深く知っている人は僅少
であろう。
 一言で言えば、「戦う流浪歌人親王」という得意な存在である。血統は良い。
父は後醍醐天皇、母は藤原定家を高祖父とする二条家の為子である。
 歌集には、『李花集』、撰集には、『新葉集』がある。

 前者については、小生も以前より所有しているが、なかなか読みこなそうとい
う気にはなれなかった。だが、時間はかかったが徐々に糸口が見えてきた。
 『李花集』には、全部で912首の宗良親王の歌が収録されている。私には和
歌に対する感性はあまりない。ただ、姉が草書体の師範をやっていたので、草書
で書かれた和歌に接する機会ができ、そして草書がある程度読めるようになった
のは幸運であった。

 中世の和歌の中で、私は「み吉野の〜」の言葉に妙に惹かれます。何とも言え
ない感覚、天から降りてくる美しい言霊と切なくとも甘い郷愁のようなものを感
じます。何故であろうか。「み吉野」と「吉野」では明らかに違う。「み」があ
るだけでこんなにも違うモのか・・・。
「み吉野の〜」のを題材(歌枕)にした歌はいろいろありますが、宗良親王の『李花集』にも、13首の歌があります(具体的には今ここでは記しませんが)。

 藤原定家撰の『新古今和歌集』の後鳥羽上皇の歌―
「み吉野の 高嶺の桜 散りにけり 嵐も白き 春のあけぼの」
は、歌は美しくまた意味深いものがありますが、定家、後鳥羽上皇の二人の存在
に特に意味を感じます。

 定家は宗良親王の母の高祖父であり、後鳥羽上皇は『古今和歌集』を世に出し
た醍醐天皇の時代に思いを馳せている。

 宗良親王の父は後醍醐天皇。やはり醍醐天皇の『延喜の治』を理想と仰いでいる。

 つまり、醍醐天皇―後鳥羽上皇―後醍醐天皇は、特に天皇親政の線でつながっ
ている。その中にあって、藤原定家と宗良親王は、歌人としての線で、並行的に
三天皇の線に沿っている。

 今日はここまで――
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2024年11月25日 22時51分59秒 ) パスワード

三つ柏さん

宗良親王についてありがとうございました。

「みよしのの〜」

   吉野  と  み吉野


       三吉野の 耳我の嶺に 時なくそ 雪は降りける 
       間なくそ雨は   降りけるその雪の
       時なきがごと  その雨の
       間なきがごとく 隈もおちず
       思ひつつぞ来し   その山道を

落ちて往く天武天皇と南朝方の思いが伝わって来ます。


三つ柏さんのDNAにも
    (ま  日本人なら誰にでも刷り込まれていると思いますが)
ご先祖さまの吉野での思いが刷り込まれているのかも
と思いました。


吉野に「み」がついて
     「美しい」吉野
      山奥「深い」吉野
この時の  ご先祖さまの思い  が   三つ柏さんの琴線を掻き鳴らすのかな?と。



___________________________________


少し前に日本から某一家の渡布があって

このヒト達の名字が実に珍しい(ウッソォ〜!)と叫びたい衝動に日本人なら駆られる名字で


     絶滅系の名字で珍し過ぎて身元バレバレなのでフェイクを入れます

          例:義朝


それで  意を決してお訊ねしたのです。

「義朝さんって   源義朝公ゆかりの御子孫ですか?」
「うちは落人で」

     そりゃ  そうでしょ  負けた側だから


と思っていたら   「源姓」じゃなくて「平姓」でした。

「え?   源氏じゃなくて平氏?」
調べてみたら   ご出身地は  確かに  平家ゆかりバリバリの落人先でした。




世の中は複雑で   表面からは  分からないものですね。
目からウロコでした。
[28]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2024年11月27日 00時13分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 宗良親王は、調べたところ、吉野へ6回ほど上っている。
 @  26歳
 AB 57歳 
 C  65歳
 D  67歳
 E  73歳

 26歳の9月には、伊勢大湊を出港して暴風に遭い、井伊城に入城。
 29歳の9月井伊城脱出。10月に信濃大河原へ。約30年ここを拠点とする。

 60歳で『李花集』
 69歳で『新葉和歌集』

 『李花集』に収められている和歌には、『新葉和歌集』に再び収められている
和歌もあるようだ(後者については手元にないので確認できないが)。

 李花集を読んでいると、こんな歌があった――
 「君がため 世のため何か 惜しからむ すててかひある 命なりせば」
 これは『新葉和歌集』にも載せられていると思われますが、坂本龍馬が好んだ
歌であったと言われています。

 水戸学により、南朝とその忠臣の顕彰がなされたということ、やはり南朝は生
きていた、そして今も心の底で生きている。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2024年11月27日 01時58分00秒 ) パスワード

三つ柏さん

>「君がため 世のため何か 惜しからむ すててかひある 命なりせば」

泣けてきます。


非常に   日本的  ですね。

大日本帝国に利用された 
というの
分かりますね。
[30]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2024年11月28日 23時27分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 静岡県神社庁浜名支部主催で、昨日と今日、熱田神宮、伊勢神宮―外宮・内宮に
参拝に行ってきました。
 伊勢神宮は、平成25年の式年遷宮よりちょうど丸11年が経ち、来年からは次
の式年遷宮の準備のための儀式・行事が始まるということです。
 11年も経つと、檜の板や柱、檜皮葺きの屋根も日射や雨風、乾燥で傷んできて
います。20年ごとの式年遷宮での立て替え移転は、伊勢神宮に伝わる全ての技術
や様式―文化の伝承に絶対に必須なものであるということがよくわかりました。
 今回は神社庁の主催ということで、一般の人の入れない所での参拝が許されまし
た。また、神楽殿内部での神楽―代々御神楽・倭舞・人長舞を見ることができまし
た。これも氏子総代という役を担ったおかげであります。
 宿泊は、鳥羽の入り組んだ海と島々が見渡せる高台の大きなホテル。食事も酒も
おいしく、また部屋も広々として、9階からの広角ビューにも大満足。いい旅であ
りました。
 熱田神宮については、後醍醐天皇が神宮を官社に列して朝廷の宗祀としたという
ことがわかりました。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2024年11月29日 08時44分08秒 ) パスワード

三つ柏さん


>一般の人の入れない所での参拝が許されました。
>また、神楽殿内部での神楽―代々御神楽・倭舞・人長舞を見ることができました。
>これも氏子総代という役を担ったおかげであります。


良かったですね。


それに


>熱田神宮については、後醍醐天皇が神宮を官社に列して朝廷の宗祀とした

はい。
千秋昌能ですね。


千秋家
服部一族の記録の中にも出て来ますね

戦国時代は信長に従いましたが。




我が一族の長男の結婚式はお寺(旧一向宗  笑)と神社の2か所で
つまり
熱田神宮でも行うのですが


綿々と南朝方の子孫というのを改めて意識します。
母方の従姉も熱田神宮で12単での結婚式でした。


     あのドテッとした衣装
     実は
     サムソナイトの旅行鞄にちゃんと収まるんですよ
     笑っちゃいますが

        現代のシルクじゃなくて日本古来の絹は糸が細くて軽くて
            え〜
            あのスゴイ嵩張った感じに見えるの
               今の外来の蚕のシルクで考えちゃいけないのか

                でした


日本の歴史が今に続いているということ
現代人の我々は意識していませんが
何かの折に  えっ?!  と知って驚きます。   

    あの夫婦
    結ばれるべくして結ばれてたのか
    とか。

         大学の先輩が某先生と結婚したのも南朝の子孫同士だったと知って
                  なるほどな
         でした。


良いご旅行が出来て  本当に良かったです。
氏神さまはやっぱり大切に守っていかなくては
ですね。
[32]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2024年11月30日 10時35分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様 

 南朝現象(勤王指向 シンパシィ)は何故起こったのだろうか?

 この現象について、『宗良親王 大河原の三十年・他』の中で、著者松尾四郎
氏はこう分析しています。

 T.支配層
  1.日本の政治は、王政でなくてはならぬ、と思っている者。
  2.新田氏のように、足利氏と両立しないように追い込まれた者。
  3.元直義党で、尊氏と激しく戦っていたのが、直義滅亡後も南朝方と共同の
   敵として、足利政権に抵抗した者。
  4.自己の存立のため、あるいは勢力拡大のため、南朝を利用した者。

 U.民衆
  1.機会があれば武士になって権力を振るい、略奪をほしいままにしたいと思
   った者。公武どちらでもよかった。
  2.兵士本人に勤王の自覚のあるなしは関係なく、主君が南朝方ならそれに従
   った者。
  3.本人独自の考えから、南朝を指向する者。
   a.同士が集まって、武将を迎えて旗揚げした者。
   b.本人の意思で、南朝方武将のもとに走った者。
   c.平素は動きを見せないが、何か事の起こった時に南朝活動をした者。
   d.積極的活動はしないが、南朝方に結束していた者。
   e.親王方を神格化して見ていた者。

 日本の歴史の中で、天皇・皇統は、皇祖(スメミオヤ)カムイザナギノミコトを
継ぐ者として、連綿と続いてきた。また祝詞(のりと)の中ではそれがとうとうと
唱えられてきたということ。今は現人神の思想は排除はされているが、?の子孫
という認識は民衆の中に無意識的に存在していると思う。またスメミオヤからの
神道の信仰は、家長制度とオーバーラップして、家庭内の秩序の維持ともなり、
ある意味縮図でもあったと思う。

 これらの考えは表面的なもので、本当はもっともっと深いものがあると思う。
 南北朝という地割れの中から、初めてその地底に秘められていたマグマが噴出
したということ。ただやがては表面的には無機質な戦国時代に突入となってしま
った。 幕末になり再び勤王思想が湧き上がる。

 これらの探求は永遠のテーマでもあり、南朝現象はヒントでもありますので、
今後も続けてまいります。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2024年11月30日 12時29分00秒 ) パスワード

三つ柏さん


>松尾四郎氏の分析


ありがとうございました。
我が家のアイデンティティやワタクシ自身の心象風景にピッタリ合いました。

     南朝方は負けたとはアタマでは分かっているけど   自分自身のココロでは負けを認めていない。

          なんかカナシイ。


要するに  日本が外国勢力に滅亡させられなかったから  この感情がワタシのココロにあるのかな?と。


FDRが日本人は下等生物だから地球上から絶滅させねばならないと演説したものの死んでしまって(ざまぁ)
トルーマンはFDRの希望通り原爆を投下したものの  日本民族を絶滅はさせなかったから

ワタシは南朝に拘ることが出来るのでしょう。


      この部分にも葛藤があります


>永遠のテーマ

はい
ワタクシにとって   日本が存続する限り   永遠のテーマであります。


ありがとうございました。
[34]丸に三つ柏服部さんからのコメント(2024年12月03日 08時39分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、秋葉山の秋葉神社に、来年のための祈祷と自治体会各家庭から依頼が
あった?札(おふだ)をいただき(購入)に行ってまいりました。
秋葉神社は火防の?として定着していて、?札の要望は今でもかなりあります。
 秋葉山の歴史もかなり深いものがあります。南北朝時代、戦国時代、江戸時代、
幕末から明治にかけてと、いろいろな出来事がありました。いずれまとめたいと
思いますが、いずれにしても、修験道抜きには語れないものと思っています。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2024年12月03日 12時59分54秒 ) パスワード

三つ柏さん


秋葉神社へ自治会の皆さんのために防火のお札を貰いに行ってあげたなんて
日本の良き伝統が続いていて  いいですね   永く続くように願っています。


         これから寒い日々になって  火を出さないよう  我々も気を付けますから
         土地のヌシさまも我々を守ってください
              という思いがあって

              日本だな

         と思います。


日本人の宗教観は一神教のヒト達からはバカにされますが
いえいえ
我々を守ってくれるよう  日本のかみ様も道教も陰陽道も仏教の仏さまもキリスト教の神さまもそしてイスラム教のアッラーにも  我々は敬意を払います   よろしくね

という謙虚さを感じます。



    一神教ゆえに「我々じゃないヤツは許さない、我々じゃないヤツに良くするヤツも許さない」という発想
    日本人には対極だなと。  


修験道の人々は中東で行われている一神教の下での殺し合いをどう思っているのかなと。      


>いずれにしても、修験道抜きには語れない

はい。
自然の前には人間なんてホントにちっぽけな存在であること。

明治政府によって排斥されても日本人の自然に対する畏怖の念は否定できない。
改めて修験道を目指した人々を尊敬します。



>南北朝時代、戦国時代、江戸時代、幕末から明治にかけてと、いろいろな出来事がありました。
>いずれまとめたいと思います


はい
是非拝読させてください。
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