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 投稿番号:102120 投稿日:2024年05月09日 06時38分52秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
服部六郎時定

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード



酔石亭主さんに感謝致します。

お蔭様で
ホンヤさんの御先祖の服部六郎時定について見えて来ました。
服部家長が壇の浦の後に荒木に戻らず千賀地に行った理由も見えて来ました。


16年4か月前この件について既に話題に上がっていましたが
やっと
納得出来そうになりました。


酔石亭主さん
更なるご指導をお願い申し上げます。


レス<1>以下の書き込みは
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/102089_83.html
「服部カフェ  4号店」より移したもので
重複します。


再度  皆さま方にも感謝とお詫びを申し上げます:

ホンヤさん   桑原家の情報  ありがとうございました。
さちこさん   さすがです。  そして東儀さんへの💛  本物なんですねぇ
隈さん     さすが日本でトップを争う学部ご出身ですね  感服!
板管理人さん  ご理解をありがとうございます   「必然」 ですね
大橋一族さん  「平氏じゃん」と罵倒して   今更ながら  ごめんなさい
雅な御方さま  お宅さまの御先祖さまが助けてくださいました
藤原氏長老さま 御蔵を他人に開きたくないお気持ち  相身互いでございます
三つ柏さん   忠正公系服部氏を否定して  今更ながら  ごめんなさいです。

[1]酔石亭主さんからのコメント(2024年05月09日 07時59分30秒 ) パスワード

あをさん

開いてビックリ進撃の巨人のような怒涛のレスに撃沈寸前です。ただ、服部六郎時定に関するあをさんのイメージと私の脳内イメージの間にはなおもずれがあると思います。全体像はまだとても提示できないので、取り敢えず少しだけ書いてみますね。

>レス「78」伊豆右衛門尉源有綱(源義経の聟)を討ったのが「服部六郎時定」(伊賀地誌等)もしくは「平六儀仗時定」(東鑑)「北条平六時定」も「服部」と名乗ったってこと?平六?六郎?ややこしい・・・(@@;

北条時定は追討の指揮を執っている人物で、服部時定は実働部隊と見ればややこしくはなさそうです。まあ、パッと見ると混乱させられますけど…。よって二人は当然赤の他人のはずです。

>ホンヤさんの先祖の「服部六郎時定」伊賀の主人の席の空いた家長の後を   ちゃっかり   継いだのかも。

いや、その逆のようにも思えますよ。服部六郎時定は平忠正が平家に召し上げられた(と推定される)伊賀服部郷を取り戻しています。そして孫を家長の子の家清に養子に出しているのですから、事実上服部郷を家長の子に譲り渡したことになります。しかも自分は二君に仕えたのを恥として山林に潜居したのですから、何て強く優しい人物なんだろうと思いました。

ところであをさんは服部六郎時定が伊賀の人だと思っていませんか。実は伊賀ではなく名張出身の人なんですよ。と言うか、そのような言い伝えがあると「名賀郡史」に書かれているんです。内容を以下に書き出します。

服部六郎時定宅址

薦原村大字薦生に在りと傳ふ。「名所記」曰、源有綱が薦生村にて生害を遂げる侍る由申し伝う、往古この里頼政の領地故とぞ聞こえし、「大系図」曰、頼政嫡男仲綱 仲綱の次男有綱、義経に組し 吉野山を落ちて此處に隠る、頼朝此國の勇士服部六郎時定に仰せて有綱を打たしむ。「伊賀考」曰、平家末葉志田三郎義憲、左衛門尉有綱と伊賀にさまよふ 頼朝当国服部時定に命じ討たしむ、とありこのこと源平盛衰記にも見ゆ、考ふるに、服部時定は東鑑によれば当時京都に在しが有綱の黒田に隠れ居ることの知られたる後命を奉じ来たり宇陀山中にて戦ひてこれを亡ぼしたるものの如し よって見れば時定の宅址この地に在りしは信じ難し

「名賀郡史」が「吾妻鏡」によると時定は宇陀山中で戦って有綱を滅ぼしたとあるから、薦生が時定の宅址とは信じがたい、としている点に関しては、薦生が時定の宅址で時定は宇陀山中で戦って有綱を滅ぼしたと設定すれば、薦生を時定の宅址とする言い伝え自体は守れることになります。また「なばりの昔話」には以下のように書かれていました。

薦生は源有綱が自害をした地と伝承されています。有綱は源義経の娘むこ、頼政の孫で、義経が兄頼朝に追われ、重臣だった有綱も同じ目に会いました。有綱は吉野から山辺(奈良県・榛原町)に逃れましたが、ここでも頼朝の追討を受け、祖父頼政の領地である薦生の地へ山伝いに逃げて来ました。薦生には源氏の一党である武田氏が住んでいましたので、ここでしばらくかくまわれていたのです。
 ところが、頼朝の命を受けた伊賀の服部六郎時定が軍勢を引きつれて、有綱の立てこもる薦生の山城を攻撃しました。有綱は勇猛果敢な武将らしく戦いましたが、多勢に無勢。嫡子の有宗に六人の家来をつけて乳母の弟である予野の萱左衛門もとに預けたあと山城で自刃して果ててしまいました。文治二年(一一八六年)六月十六日のことといわれています。
予野の地を無事逃れた嫡子有宗の家系は、為盛→景守→元成→清次と続き、清次は郷土が誇る「能」の大成者である観阿弥となりました。 また、有綱には有宗ら四人の子供がいて、次女は柏原の城主である滝野上野介の妻になったと伝えられています。

服部時定の住居があった場所で源有綱を討ったとはやはり出来過ぎた話と思えませんか?「名賀郡史」がいぶかるのも当然ではあります。他にもややこし過ぎたり、出来過ぎたりして理解するのが難しい点などありますが、とにかく纏め切るだけの力量が不足しているし、すぐに目が疲れてしまうのであと数日程度の検討が必要です。急がば回れですから、御寛容のほど…。


[2]空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月09日 10時20分23秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございます。


>ややこし過ぎたり、出来過ぎたりして理解するのが難しい点などあります

はい

書き写されるたびに  削ったり盛ったり   偽装改竄捏造  あったでしょうね。



>予野の地を無事逃れた嫡子有宗の家系は、為盛→景守→元成→清次と続き、清次は郷土が誇る「能」の大成者である観阿弥となりました。

ビックリ!
ハナシが随分違う・・・


>服部六郎時定が伊賀の人だと思っていませんか。
>実は伊賀ではなく名張出身の人

え?
伊賀じゃなくて
名張なんですか。

ありがとうございます。

名張の方が伊賀より京の都に「近い」と感じます。
地理的だけじゃなくて貴族の世界=政治的=に近かった
そんな感じがします。



上記に
>>>三つ柏さん   忠正公系服部氏を否定して  今更ながら  ごめんなさいです<<<
を加えておいて  ラッキー!
赤面

         調子の良いワタシ


酔石亭主さん
またの続きを楽しみにしております。


それにしても16年4か月の前のハナシが今やっと日の目を見て落ち着きそうで謎の解明になりそうな予感がしています。


本当にありがとうございます。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月09日 22時43分32秒 ) パスワード

思い返せば
ホンヤさんに   ホンヤさん宅と同レベルの名家はどこか   とお訊きしたのは
31年前!

31年前にワタシは桑原家の存在を聞いてた。。。


それから2007年にハナシが「時定」の方向に行って
2008年になって隈さんとさちこさんが「時定」と「時定」がややこしいと言い出して


2024年春  もう夏か?  酔石亭主さんから教えて頂いて


         やっと  💡 が灯った感じ。


         実は最近老人相手のボランティアを始める件に巻き込まれていて
             老人はナカナカ  💡  が灯らないのを
             リーダーが嘆いていて

         わたしも老人になるとアンナなのかな?と怖くなってました。


いやいや  ムカシっからです。


母が「お姉ちゃんには1つ言えば  10  分かってくれる。なのにお前は10言ってやっと1  出来るか出来ないかのレベルだ」とよく言ってたけど


ワタシは   1言われたら 💡灯るのに  31年かかるんだぁ〜  と2024年5月に発見した。(笑)

    笑って良いのか?


きっとホンヤさんは  (この子は鈍いな)  とワタシのことを見抜いていらっしゃった、と思う。


秋田に連れて行って貰えなかったオトコがよく言ってました。
「見ればどのレベルの人間か分かる。  書いてるもの  話すこと  それで脳のレベルが分かる」

     慶応の加藤寛教授が  バッサリ  斬り捨てるヒトで
     コワカッタけど
     加藤君みたいに面と向かって言うヒトってあんまりいないと思うけど
     皆さん  言わないだけで  (なんだ?このバカ!俺様の時間のムダ!)  って心の中でバッサリ斬って捨ててるんでしょうね。



こんな感じでナカナカ💡に灯りが灯らない蛍光灯ですが
酔石亭主さん
更なるご指導をお願い致します。
<m(__)m>
[4]酔石亭主さんからのコメント(2024年05月10日 07時08分51秒 ) パスワード

あをさん

正直言って服部氏関係は私にとって邪馬台国問題や出雲関係の謎よりずっと難しく、まだどう転んでいくのか、どんな方向に行くのかはっきりしていない状態です。巨木探索で伊賀に行こうと思い立ち、それなら服部氏の始まり部分も見ていこうと安易に考えて検討を始めたものの、ここまで難物だったとは思いもしませんでした。いずれにしても、暗中模索から少しでも光が見えるように持っていきたいと思いますので、もうしばらくお待ちください。
[5]酔石亭主さんからのコメント(2024年05月10日 07時58分46秒 ) パスワード


あをさん 

取り敢えず書けそうなところから書いていきます。

>服部六郎時定の先祖と北条時政の先祖は  伊勢平氏庶流で繋がってたのかも。

まず服部六郎時定の先祖を考えてみますが、時定に関して書かれた史料や系図は見当たらない(調査不足かもしれませんが)ので、確たることは何一つ言えません。「服部氏に三流ありという 漢服部は平内左衛門相続し平氏 呉服部は服部六郎時定相続し源氏」云々は全く信用できないと思います。

呉服(くれはとり)は応神天皇の時代かどうかわかりませんが、渡来の機織り(服織)女工でつまり職能民となります。それが平安末期まで続いていたとして、女系ですから常に婿を取り続け、平安末期になって服時定が女工さんの婿になって機織りを始めたと言うのが「相続」の意味になってしまいます。時定はバリバリの武人で源氏方ですから職能民になるなど有り得ないと思いませんか。

機織りの先進技術を持ち込んだ呉服女工は地元民から崇敬され神社で神として祀られるのは理解されますし、その宮司になったり氏子総代になったりする服部氏が出るのは十分あり得ます。けれども、時定が呉服部を相続して自分の祖は呉服だとするような話は実際には有り得ないと思います。従って時定の先祖は不明とするしかなさそうです。

唯一の可能性は「伊賀国無足人帳」で、これを見ることができたら、もっとヒントになるような記述が出てくるかもしれません。例えば名張の薦生と関係する無足人が複数いて先祖やその他に何らかの共通性があったとしたら、服部時定もひっくるめられる可能性が出てきます。

伊賀市図書館に行けば「伊賀国無足人帳 文久三壬戌年五月十日」の、多分原本を閲覧はできるかと思いますが、貸出は禁止となっています。伊賀流忍者博物館所蔵古文書にも写本があります。仮に調べるとして、全1800人超の無足人から多分少なくとも一割程度はおられそうな服部さんを探し出し、関係しそうな方をピックアップするのは現代語ではないので一日フルに使う必要があるでしょう。そうなると、20か所近く訪問しそうな巨木探索のついでにとはいきません。誰か調査してもいいよと言う方がいないかなあ……。

今後は分かるところから少しずつ書いていくことにします。その場合、後になって前に書いていたことと矛盾してきた、間違っていたなんてことが起きるかもしれませんが、ご容赦のほど…。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月11日 09時44分01秒 ) パスワード

酔石亭主さん


ホンヤさん宅のお文庫蔵には  何万点やらの古文書が手つかずで保管されていて
研究員が調べているハナシも聞いていますが・・・


そこでホンヤさんに匹敵する「桑原家」を思い出し   意外な桑原家のルーツをアップします。

こんな事  あるんだぁ〜
ということで。



     「桑原なんて聞いたことが無い」と言ったら
          なんと!愛知県知事の名字で有名だった・・・とか。


桑原 幹根(くわはら みきね、1895年8月29日 - 1991年4月11日)
日本の政治家、内務官僚。
1946年に官選愛知県知事に任じられ、公職追放された後、公選で当選し、同知事を6期24年にわたって務めた。
1987年愛知県名誉県民。
勲一等旭日大綬章受章。

本籍 山梨県富士吉田市大明見20番地
住所 名古屋市昭和区高峯町133−19

            えっ?
            高峯町?
            中京テレビ放送KKへ行ったことがある
            名古屋市昭和区高峯町154



                桑山は知ってる
                桑山美術館
知多出身の富豪  桑山清一
                わたしには「桑山一族=名古屋のお金持ち」のイメージ

                この近所に滝川町のバス停があって(笑)
                西に御器所がある
                     御器所は若い時にウロついてた

                     理由は分からない
                     藤吉郎のママや市のママの在所だから虎のママもここの生まれかも

                     オットと結婚してから清盛が忠盛から相続した土地の1つと知った



「桑原」というのは知らなかった
「桑山」は知ってたから

ホンヤさんが「桑原」とおっしゃった時  え?  桑原?桑山じゃなくて?だった。


                
で、「桑原」を調べたら   ちょっと  参考になるかと?


>時定に関して書かれた史料や系図は見当たらないので、確たることは何一つ言えません。
>「服部氏に三流ありという 漢服部は平内左衛門相続し平氏 呉服部は服部六郎時定相続し源氏」云々は全く信用できないと思います。

>呉服は応神天皇の時代かどうかわかりませんが、渡来の機織り(服織)女工でつまり職能民となります。
>それが平安末期まで続いていたとして、女系ですから常に婿を取り続け、平安末期になって服部時定が女工さんの婿になって機織りを始めたと言うのが「相続」の意味になってしまいます。
>時定はバリバリの武人で源氏方ですから職能民になるなど有り得ないと思いませんか。

>機織りの先進技術を持ち込んだ呉服女工は地元民から崇敬され神社で神として祀られるのは理解されますし、
>その宮司になったり氏子総代になったりする服部氏が出るのは十分あり得ます。>けれども、時定が呉服部を相続して自分の祖は呉服だとするような話は実際には有り得ないと思います。
>従って時定の先祖は不明とするしかなさそうです。


https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%A1%91%E5%8E%9F#google_vignette

桑原姓
@現奈良県である大和国葛下郡桑原郷がルーツである、新羅帰化族。
ほか中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原南家。
A菅原氏。
B越智氏(物部氏の子孫)などにもみられる。

桑の広がる原野や広い地域が語源。


https://www.t-toumon.jp/kuwahara/#:~:text=%E5%85%AC%E5%A7%93%E3%81%AE%E6%A1%91%E5%8E%9F%E6%B0%8F,%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%90%8D%E3%81%AB%E7%94%B1%E6%9D%A5%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%82


公姓の桑原氏は、朝鮮半島からの技術者である漢人集団の在地統率者として、桑原村主の系統を引く渡来系民族。

桑原の姓は大和国葛上郡桑原郷(現御所市掖上)の地名に由来する。


「くわばらくわばら」の伝承は菅公ゆかりで平将門や崇徳天皇とともに日本三大怨霊のひとりなので
人々は藤原氏の巻き添えを食って雷に当たらないようにと
「ここは道真様の領地の桑原ですから、雷は落さないで下さい」と言う意味で「くわばら くわばら」を唱えたと言うものです。

菅公の領地桑原には一度も落雷がなかったということです。



?原家(桑原家、くわはらけ)は、菅原氏の流れを汲む五条家庶流の公家・華族・平民だった家。

公家としての家格は半家、華族としての家格は子爵。

             子爵?
             ビックリ!



桑原家の先祖は天文14年(1545)伊勢の阿下喜から一之瀬に移り住み、信長に仕えましたが、関ヶ原の合戦後は、尾張藩の在郷武士として返り咲きました。

桑原氏は30石を与えられ、村内では賄庄屋も兼ね、植林を奨励し用水路引き田畑の開墾を始めました。


再出
https://www.city.ogaki.lg.jp/0000000717.html#:~:text=%E6%A1%91%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E3%81%AE%E5%85%88%E7%A5%96%E3%81%AF,%E9%96%8B%E5%A2%BE%E3%82%92%E5%A7%8B%E3%82%81%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82

原則非公開
大垣市上石津町一之瀬365

重複:
桑原家の先祖は、天文14年(1545)伊勢の阿下喜から一之瀬に移り住み、信長に仕えましたが、関ヶ原の合戦後は、尾張藩の在郷武士として返り咲きました。
桑原氏は、30石を与えられ、村内では賄庄屋も兼ね、植林を奨励し用水路引き田畑の開墾を始めました。


桑原氏の邸宅は、寛永5年(1628)に中島郡駒塚(現羽島市)に住居を移しますので、約22年間政所となりました。

現在は、約2,800平方メートルの敷地と建造物(六種)が国の重要文化財に指定されています。
[7]酔石亭主さんからのコメント(2024年05月11日 19時19分50秒 ) パスワード

あをさん

>桑原 幹根 本籍 山梨県富士吉田市大明見20番地

ちょっと驚きました。ここは富士山麓の徐福伝承や富士高天原王朝があった(とされる)場所で、以前にじっくり見て回り旧ブログにも書いています。その時大明見一帯に結界が張られているような不思議な感覚があり、後でチェックしたら少し前まで富士吉田市の市民も立ち入らない場所だったとのこと。この地域には宮下姓(宮下文書に関係する一族)や桑原姓が多くおられます。

>知多出身の富豪  桑山清一

小学校のとき一人いたので、この方の子孫かもしれませんね。

>桑原家の先祖は、天文14年(1545)伊勢の阿下喜から一之瀬に移り住み

阿下喜。員弁川の探石で行った場所に近いですね。

>「くわばらくわばら」の伝承は菅公ゆかりで平将門や崇徳天皇とともに日本三大怨霊のひとりなので人々は藤原氏の巻き添えを食って雷に当たらないようにと「ここは道真様の領地の桑原ですから、雷は落さないで下さい」と言う意味で「くわばら くわばら」を唱えたと言うものです。

「くわばらくわばら」伝承の元ネタになりそうで、秦氏も出てくる話がありますよ。「日本書紀」によると、少子部蜾蠃(ちいさこべすがる)は雄略天皇から蚕(こ)を集めるよう命令された。ところが、間違えて子(こ)を集めてきた。天皇は蜾蠃に子供たちを養育するよう命じたが、この子供たちが各地に散った秦氏だった。秦氏はご存じのように養蚕にも関与しており、結果的に天皇の命令を果たしたことになる。ある日のこと、天皇は蜾蠃に三諸岳(三輪山)の神を見たいので捕まえてこいと言った。蜾蠃はお安いご用と三輪山の神(大蛇、雷神)を捕まえてきたが、雷のような大音声を発し、眼は爛々と輝き、その恐ろしさに腰を抜かした天皇は神を三輪山に返させた。そして蜾蠃に雷の名前を授けた。桑を使う養蚕に関与した蜾蠃が雷を捕まえたので、雷が鳴っても桑原には落ちないと人々は思い、雷除けの呪文として「くわばらくわばら」と唱えられるようになったとさ。

上記の結論部分は薄い記憶で書いています。ひょっとしたらそんな伝承はなかったかもしれず、その場合、私が新たな伝承を創造したとご理解のほど…。以前桑原治田神社を訪問していますが、多少関係しそうな部分がありますので、以下旧ブログより抜粋しておきます。

麻績村を離れ秦川勝の子である秦広国が入植した信濃国更級郡桑原(現在の千曲市桑原)へと向かいます。ここで注目すべきは治田(はるた)神社です。と言うか、この神社以外に見るものはなさそうです。千曲市のホームページによれば、711年(和銅4年)更級の里に養蚕を伝えた秦氏が稲荷を祀る。とあります。当初は秦神社と呼ばれていたそうです。「はるた」と「はた」。似通った音ではありますが、どうなんでしょう?

抜粋は以上ですが、他にも桑原の地名がある何カ所かに秦氏が関係しています。あをさんが今回書かれた場所や人物が、なぜか私の行った場所や人物と関係してくるのが不思議ですね。

余談はさて置き、服部六郎時定関係で次に書き込もうと思っているのが彼の実像・人物像についてです。実はこれが最大の難関。時定は「平家物語」によると平家の貴人(多分平維盛)に仕えている。一方「伊乱記」では時定は頼朝の従士。台上寺の解説板は伊賀服部氏の検討のためほぼ真っ先にネットで見たのですが、全体の内容が曖昧です。けれども、具体的な内容と共に頼朝に1180年から従ったなどとありました。既に書いたように時定は頼朝の指示で北条時定の指揮のもと源義広と源有綱を討っています。

ダメ押しが「伊勢国無足人由緒書」の、時定は二君に仕えるのを恥じて山林に云々の記事。「時定が対立する源平のそれぞれのトップに仕える」なんて本当に凄すぎる話ではありますが、どう理解したらいいのか。この難問に筋の通った結論を出せるのかわからず、時間がかかりそうだと書いた次第です。時定は忍者の元祖で分身の術が使えたとか、実は双子の兄弟だったので手分けできたとか、漫画のようなことを考えましたが、それこそ漫画。

幸い悩みながらも何とか7割程度は筋が通りそうになってきましたので、明日中には書き込めそうです。しばしお待ちのほど。

[8]空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月11日 22時44分14秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございます。
桑原さんの件
背筋ゾクゾクです。


>麻績

伊勢の服部氏が麻績に行って神官になり諏訪に仕え姫を生み
信玄に滅ぼされ
諏訪の娘が信玄の側室になり
勝頼を生んだハナシ



     確か藤原姓だった記憶


時定の件
ありがとうございます。


>7割程度は筋が通りそうになってきました

楽しみにしております。
嬉しいなぁ〜

[9]酔石亭主さんからのコメント(2024年05月12日 14時18分25秒 ) パスワード

あをさん

>服部六郎時定の先祖と北条時政の先祖は  伊勢平氏庶流で繋がってたのかも。

から続けます。一応服部六郎時定の先祖は不明と暫定的な結論を出しましたので、次に北条時政を見ていきます。伊勢平氏の祖は一般的には維衡とされているようですが、貞盛を祖と見ることにして、家長まで続けると以下のようになります。

貞盛(伊勢平氏の祖 生誕年910年代頃〜没年970年代から80年代頃)−維衡(伊勢に地盤を築。く生没年不明)−正度(生没年不詳、没1067年?)−正衡(所領は伊賀、生没年不詳)−正盛(没1121年)−忠正(伊賀所領は没収。没1156年)−家長(服部平内左衛門尉、没1185年、生き延びた説あり)

一方北条時政は以下のようになります。生没年等は省きます。

貞盛−維将−維時−直方(北条氏の祖)−維方−時方−時家−時兼−時政

北条氏は貞盛を伊勢平氏の祖と設定すれば伊勢平氏系となりますが、維衡が伊勢平氏の祖なら伊勢平氏系にはなりません。ですから、平直方流とでもしておけばいいと思います。と思っても、直方から時政までの系図でさえ異なるものが何点かあって混乱しており、実際はどうなのかよくわからず、直方から続く北条系図自体が仮冒の可能性もあります。こうした状況ですから、先祖不明の服部六郎時定と北条時政の先祖は全く繋がらない可能性が非常に高いと思われます。

私は系図読みが嫌で苦手なのは、正しいかどうかわからない点や、平氏や源氏など幾つもの系統に広がっていくので手に負えないと思ってしまうからです。なので、系図を血の繋がり(血脈)として見るのではなく、一族や家、或いは生業・事業の継承として見るようにしています。継承ですから親戚や赤の他人から引っ張ってきても構わない…。

系図問題はここで一旦打ち切り、時定の人物像をあれこれ探ってみます。(注:話の流れがあるので、レス「7」で書いた部分をそのまま使います)実はこれが最大の難関。考えてもみてください。時定は「平家物語」によると平家の貴人(多分平維盛)に仕えている。一方「伊乱記」では頼朝の従士。台上寺の解説板は伊賀服部氏の検討ではほぼ真っ先に見たのですが、全体の内容が曖昧です。けれども、具体的な内容と共に頼朝に1180年から従ったなどとあります。ダメ押しが「伊勢国無足人由緒書」の時定は二君に仕えるのを恥じて山林に潜居云々の記事。対立する源平のどちらにも仕えるなんて凄い話ですがどう理解したらいいのか。この結論を出すのに時間がかかると思った訳です。時定は忍者の元祖で分身の術が使えたとか、実は双子の兄弟だったので手分けできたとか、漫画のようなことを考えましたが、それこそ漫画です。

と言うことで、既存の史料は限られるので不十分ではありますが、解明できた部分を具体的に書きつつ詳しく見ていきます。

時定は岩波書店の「平家物語」で見ると、

服部平六、平家の祗候人たりしかば、没官せられたりける服部返し給はッてンげり

となっています。祗候人は主君のそば近く仕える家来。没官は罪科を犯した者の身がらや家族・土地・財産・職務などを官に没収すること。服部は伊賀国阿拝郡の郷名と注記あります。では、服部時定は平家の誰の家来になっていたのか。

平家と書く以上、本筋の人物となるはずで、年代から考えるとイケメン貴公子の平維盛(生没年1159年〜1184年)が最有力候補になります。彼は桓武平氏維衡流つまり伊勢平氏の系統なので、例えば家長とも交流があったかもしれません。武人の時定は家長の推挙で維盛の警護役になり、常におそばに控えていたと設定しておきましょう。

「伊勢国無足人由緒書」には服部時定に関して「二君」に仕えるのを恥じて山林に潜居し云々とありましたが、二君の片方は頼朝(と北条時定)ですから、平家側で見合う「君」とはやはり維盛かなと思ってしまいます。ただ、対立激化の二君に同時並行的に仕えるなど不可能なので、どこかの時点で時定は平家から源氏に鞍替えしたと判定するしかありません。その時点を探ることから始めてみます。

1179年7月、清盛の後継者と目されていた父・重盛が病死し維盛の立場に暗雲が垂れ始めます。維盛の生誕は1159年ですから弱冠二十歳。まだ時定は維盛を見捨てるなどできないはず。

ところがです。「伊水温故」には、頼朝卿ノ従士、服部六郎時定、当郷ノ産出、源氏服部ノ元祖也とあり、最初から頼朝の従士だったようにも受け止められそうな書き方となっています。あをさんが引用した台上寺の解説板にも、「又、平六時定は治承4年(1180)8月20日に源頼朝が伊豆から相模に向った時に従った一人(吾妻鏡)とされ、」と書かれていましたね。

さて困りました。維盛は1180年の5月26日に以仁王の挙兵を鎮圧する大将軍として宇治に派遣され、乱は鎮圧されているのです。その僅か三か月後に時定が頼朝の挙兵に従っているのは理解に苦しみますし、そもそも維盛は1180年9月5日に源頼朝など源氏の挙兵の追討軍総大将となっており、完全に矛盾する状況です。では時定は1180年頃どちらに従っているのが事実なのか…。

ここではっと気が付いたのが台上寺の解説板。「平六時定」と書かれている部分です。これって北条時定のようにも読めませんか。問題解決のため原文で見てみます。

治承四年(1180)八月小廿日庚子。三浦介義明一族已下。兼日雖有進奉輩。于今遲參。是或隔海路兮凌風波。或僻遠路兮泥艱難B之故也。仍武衛先相率伊豆相摸兩國御家人許。出伊豆國。令赴于相摸國土肥郷給也。扈從輩。
北條四郎      子息三郎      同四郎       平六時定

北条四郎つまり北条時政 次に子息の三郎と四郎、「その次は時政の甥か従弟か弟の北条時定だった」としたらぴったり合ってきます。人名が順に並べて書いてあるのだから間違いはないでしょう。いやもう、本当に厄介極まりない。私も危うく騙されそうになり、「伊水温故」や台上寺の解説板筆者など完全に騙されたことになる…。正しくあをさんや皆さんが悩んだ「時定」と「時定」問題ですね。このような視点を持ったうえでもう一度台上寺の解説を見ると面白いですよ。是非試してください。

服部時定は1184年に頼朝の命により北条時定の指揮の元源義広を討ち、1186年には源有綱を討ち褒賞とし伊賀服部郷を取り戻しており、一連の流れは具体性、整合性があるのでより騙されやすいことになります。「時定」と「時定」問題は結局「平家物語」が実行部隊の服部時定で書き、「吾妻鏡」は指揮を執った北条時定で書いたことになりそうです。まあ、それも当然の話でしょうけど…。

服部時定が北条時定から名前を丸ごともらわなかったら、こんな誤解はなかったはず。本当に余計なことをしてくれたものですね。ちなみに各史料に出てくる服部時定の名前は、北条時定より頂いた時点から少し遡らせて書かれたものではと推測しています。

以上から、服部時定は1180年以降のある時点まで(多分)平維盛のおそばに仕え、どこかの時点で源氏方に鞍替えしたと確認できることになります。その時点は遅くとも1184年かそれ以前になるはずです。もちろんそれを示す或いは示唆するような記録はないので、ここからは脳内イメージで書いていきます。つまり創作です。

屈強の武人である時定は既に書いたように、平家長に推挙してもらい平維盛の警護役として常におそばに仕えていた。武人の時定はイケメン貴公子・維盛の自分にはない姿にまぶしさを感じていた。つまり情があった。

そうした中、1180年の9月5日、源頼朝ら源氏の挙兵に際して維盛は東国追討軍の総大将となりますが、最終的には総崩れとなって敗走。11月、維盛はわずか10騎程度の兵で命からがら京へ逃げ帰ったとのこと。時定も従軍していたとして、彼に従う郎党も犠牲になったはず。多分この時点で時定の中に疑念が生じたのでしょう。平家にあらずんば人にあらずと時忠が豪語した平家の世も終焉を迎えそうだと…。

さてそこで、Wikiの記述をお借りしますが、寿永2年(1183年)4月、維盛を総大将として木曾義仲追討軍が逐次出発し、「平氏の総力を結集」した総勢10万(4万とも)の軍勢が北陸に向かいます。だが5月には倶利伽羅峠の戦い、6月には篠原の戦いで義仲軍に大敗。となりました。その翌年の1184年には時定は頼朝の命により源義広を討っています。

このように見ていくと、時定は木曾義仲追討には出陣しなかった。時定にとってこれ以上一族・郎党や仲間たちを犠牲にすることはできなかったのです。彼は泣く泣く維盛を見限ったのでしょう。一方の頼朝陣営。

頼朝:おや木曾義仲と平家との戦いに服部時定(既に書いたようにこの時点での彼の名前は不明)は出陣しなかったな。
北条定時:そのようでありますな。
頼朝:ほう面白い。伊賀は都に近いし伊賀人は情報収集にたけている。平家の残党や俺に対立する輩が伊賀方面に逃げ込んだら戦闘力も強いあいつを使おう。すぐにわが陣営に引き込み大いに働いてもらえるよう手配せよ。
北条時定:かしこまりました。

なんてやり取りがあったかどうかは不明ですが、結果十分な働きがあったので伊賀服部郷を取り戻し、北条時定から名前も丸ごと頂戴することになった。ただ、我が身と一族郎党の安全のためとは言え、若き維盛を支える立場から裏切る結果になった自分を許しがたく思ったのでしょう。このように考えると、二君に仕えるのを恥じて山林に潜居云々の記述にも沿い得る形となってきます。

時定にはもう一人お詫びすべき人物がいます。そう、家長ですね。時定は自分の子か孫の保俊(嫡子か嫡孫)を家長(或いは子の家清)の養子に出しました。これは実質的に服部郷を家長に譲り渡したことを意味します。彼は家長へのお詫びと同時に、その恩に報いたとも言えそうです。また源頼朝から褒賞を得た服部時定ですから、家長が服部の名前を使えば残党狩りから逃れやすくなる可能性もあります。

時定の実像・人物像に関する検討は以上です。前半部分は解明となりましたが、後半部分は創作(想像)なので不十分ではあるものの、1184年段階においては完全に頼朝の源氏方として行動しているので、まあよしとして下さい。

この先の展開は家長の検討結果と時定・家長の関係性次第となります。今のところ家長に関しては白紙状態に近いので、家長に関してあをさんが把握している情報をその根拠も含めてお教えいただければと思います。例えば、家長は壇ノ浦の戦いで亡くなったとされるが、実は生き延びて平家の残党狩りを恐れ、花垣村予野の千賀地谷に逃げ込んだとの説はどの史料或いは地元伝承などに書かれているのか知りたいものです。

またWikiで服部氏の系図を見ると、服部家長−千賀地家清−保俊となっていて、保俊は服部時定の子・服部時保の子?。と書かれていました。系図をどう判断するか難しいですが、保俊が時定の子か孫で、そこから家長自身あるいはその子の養子に入ったと見ることになります。これに関して根拠となる史料や系図があるならお知らせください。それ以外にもご存じの情報があれば何なりとお教えください。

(注:いつになるか不明ですが、この書き込みは将来ブログに書く原案的なものなので、やや私のブログ調になっている点ご了承願います)

[10]空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月13日 11時33分03秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございました。
興味深く読ませて頂きました。


31年間の謎と16年間の謎が2つ
なるほどな
です。


「平家物語」ってかなりヒトの手が入っていて  ホントのトコはどこ?   です。


知盛さまが乳兄弟の家長と手に手をとって入水したハナシ

    知盛さまは享年34あたり。
    家長は70歳近く。

         知盛さまが乳兄弟と手に手をとって入水したなら
         その相手は   家長の子か孫でしょう


家長は乳母の夫だったと思います。
36歳ほどの差なら   乳母の夫の年齢あたり  ですから。


家長は知盛さまの   家令とか侍大将とかの立ち位置  と思っています。


壇の浦から命からがら伊賀に戻って荒木じゃなくて千賀地に棲んだというのも
荒木には住めなくなってたから
と思っています。



現在引き出しを2つ整理したところ。

とてもじゃないけど   ゴビ砂漠に落としたピアスの片耳を捜すような感じです。

何十年間分ですからね。

オットと行った鍵屋の辻(のあたり)

   荒木の前は菊山を名乗ってたとかで
   荒木生まれで服部家に養子に行ったとか

私達  現代人は  戸籍に縛られているけど  
ムカシの人は   家号がコロコロ変わっても  フツーだったんだろうな、と。

 
家長の伊賀の本宅は荒木だよ
これもいつ知ったのか      記憶にございません     です。


三つ柏さんにワタシの纏めたものを送ろうと思って  書き込んでた  ので  何年前?


「送ろう」と思って  本当に送ったんだっけ?  とソコさえ記憶にございません   です。

          6年ほど前なのにね。


酔石亭主さんに「おっぱい石」のところでメールしましたが
こうして書いていますから  無視してください。
お騒がせいたしました。ぺこり 


あ゛〜
ハッズ   
[12]酔石亭主さんからのコメント(2024年05月13日 19時12分19秒 ) パスワード

あをさん

>壇の浦から命からがら伊賀に戻って荒木じゃなくて千賀地に棲んだというのも荒木には住めなくなってたからと思っています。

いや、千賀地だって伊賀ですから落ち武者狩りの最も危険な時期に伊勢平氏の拠点でもある伊賀に戻るなんて常識的には考えられません。平家の落ち武者伝説のある地域はもっと人跡未踏に近いような場所のはずです。例えば、香美町香住区余部の平内神社が鎮座する御崎地区には家長も関連する以下のような伝承があります。

当地、御崎は余部から険しい山道づたいに約4キロ、日本海に突き出た岬の突端にある平家集落である。
かつては、食物や飲用水にもこと欠くような、文字通り陸の孤島であった。
平家伝説の地は、ほとんど全国にまたがって各地に分布している。 但馬地方にも古くから平家の里と言い伝えられて来たところが数多くあるが、とりわけ「御崎の平家伝説」は有名である。
「平家物語」の中ではすでに死んだことになっている人たちの生存説が極めて多い。
壇ノ浦の合戦(寿永4年、1185年3月)に敗れた平家の武将達は、海路隠岐・対馬へ逃れようと壇ノ浦から漕ぎ進めたが、日本海に出てから強いシケに遭い、因幡と但馬の海岸へ押し流されてしまった。
この御崎には、平家の一門の内、門脇宰相教盛を大将とし、幼帝安徳天皇の衛士の大将 伊賀平内左衛門家長、その子光長、矢引六郎右衛門、小宰相局など一行7人が命からがら漂着したのは、寿永4年4月5日のことであった。
一行が御崎のある伊笹岬の沖にさしかかると一条の煙が見え船戸に漕ぎ付け、それを頼りに崖をよじ登って行くと、小さな庵に高野聖の森本浄実坊という修験者がいて、一行は小麦の蒸し物をクズの葉にのせて施され、飢えをしのいだ。
それが、今日に続く「小麦祭り」(日吉神社)の起源である。浄実坊の勧めに従って土着し、平家再興を計るため先ず「一の谷」奥に門脇宰相が居を構え、2キロほど東西へ隔て、東の方に伊賀平内左衛門、西の方に矢引六郎右衛門が居を構え、追っ手に備えたと伝えられている。
毎年1月28日に氏神の平内神社の境内で行われる「百手:ももて:の儀式」は、平家再興の願いを込め、源氏に見立てた的に101本の矢を射る新年の武芸始めの儀式として、代々受け継がれてきた伝統行事である。
集落の入口に俊龍大和尚の碑がある。和尚は、諸寄の龍満寺で得度したこの地出身の高名な禅僧で、時の大老井伊直弼に師と仰がれ、万延6年3月、桜田門外の変で暗殺された大老の葬儀では、導師を勤めた人である。

まあ、あくまで伝説・伝承ですから信憑性のほどは何とも言えませんが、記載内容には具体性があり千賀地より可能性は高そうです。仮に家長が壇ノ浦で死去した或いは御崎地区に逃れたとしたら、彼は平家長(伊賀平内左衛門家長)のまま亡くなったか逃げたので、服部姓にはならないと思われます。千賀地谷に逃げた場合、千賀地家長になるのでこちらも服部姓にはならないのでは…。

そうなると、今までの検討から真の伊賀服部氏の祖は服部時定のように思われ、一方「平家物語」によると服部氏は桓武平氏忠正流とされることから、時定の父は平忠正…?

>荒木の前は菊山を名乗ってたとかで   荒木生まれで服部家に養子に行ったとか

びっくりです。出身地からしてこの菊山さん(或いはその親族)の子孫の可能性のある方と何度も話をしたことがあります。あをさんを知らなかったら、知らないままで終わったでしょうから、一体何のご縁なのか…。ただ、荒木生まれで服部家に養子に行ったのは、ちょっと??

>酔石亭主さんに「おっぱい石」のところでメールしましたが

どうして大昔の品位に欠けるゴミ記事なんかに行かれたのですか。でもご安心を。旧ブログは既にクローズされていて、2020年以降のコメントはなぜか、管理者の承認待ちです となっているので私も見られません。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月13日 22時39分09秒 ) パスワード

酔石亭主さん

>2020年以降のコメントはなぜか、管理者の承認待ちです となっているので私も見られません。

あ〜
良かった。

アタフタと1人で大騒ぎしておりました。

そして大騒ぎのスグ後に  無事解決して  お詫びメールを出そうかと思ったものの  
ところが「おっぱい石」には行けなくて   ヤだな  どぉ〜しよぉ〜   と思っておりました。

行けなくて  ラッキー!


>毎年1月28日に氏神の平内神社の境内で行われる「百手:ももて:の儀式」は、平家再興の願いを込め、
>源氏に見立てた的に101本の矢を射る新年の武芸始めの儀式として、代々受け継がれてきた伝統行事である。


「平内」=弓の達人
にあやかって、ということで
信憑性の高い儀式ですね。



実は大学生の時に  もうチョット書いたら特定が可能になってしまうのですが

ある弓の達人がわたしの大学に来てウチの大学の弓道部の某㊛=わたしの中学からのクラスメート=にコッソリ会いに来たのですが
       彼女はそんな事、全く知らないわけで
わたしがその場にタマタマ居合わせることになってしまい   そこから  彼がわたしに『ゾッコン』になってしまい

「父がXXから出て来ることになった」と言って来て「会って欲しい」ということで
わたしは冗談じゃないから断ったのですが


当時はわたしは未だ  家長=弓の達人  とは知らなかったのでした。

     オットと結婚してから   家長が弓のコンペで優勝して六条院から車いっぱいの矢を拝領した  と知りました



上記の弓のオトコは   弓道にすぐれた女性を妻にするように  父親から言われていて  彼女に目を付けて  うちの大学に来たのでした。


ところがヒョンな事から私と遭遇して

彼女より私の方が  彼の御家には  父上が求める条件が揃ってた  というワケで   『ゾッコン』  になったのでした。


     しかし今は出会うべく「力」というものが存在するなら
     彼とワタシは出会うべく道筋にあったと思います

     そのヒトの出身地も  家の伝統も   まさに「家長」に直結ですから  私は父親さんの望みを叶える女性だったのでした


大学生になった時に  オトコ解禁で   こういう類の経験がいろいろありました。

このオトコの前のヒトは  すごい格式の家の人で  冗談じゃないレベルだったのですが

信長に攻められた一向一揆の時の協力者の家でした。

        わたしはオトコから寄って来られるのがイヤでたまらない系

        誰でもオーケー系だったら
        とっくに榊原温泉の畦道のオトコだ  (ごめん)


やっぱり家長は平家方には特別な存在  弓の人にとっても現代に至るも特別な存在なのか   とシミジミです。



>出身地からしてこの菊山さん(或いはその親族)の子孫の可能性のある方と何度も話をしたことがあります。
>一体何のご縁なのか…。


菊山姓って珍しいですよね。

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%8F%8A%E5%B1%B1

現三重県北西部である伊賀が起源(ルーツ)である、服部氏子孫。
現岡山県南東部である備前、現大分県中南部である豊後に菊山村がみられる。

「山」は山の地形を表す。「菊」は岫(くき)のことで、洞や崖になった谷の意味。



>ただ、荒木生まれで服部家に養子に行ったのは、ちょっと??

これは荒木又右エ門を調べたら分かることかも、ですね

やはり「服部」系ということで?



時定の家って
誰に仕えてたのでしょうね?

正盛さま以来のどこかでしょうね

     忠盛さま  忠正さま  清盛  重盛  維盛

     家長    宗清   ちょっと外れて  頼盛さま  

可能性が広がるばかりです。
[14]酔石亭主さんからのコメント(2024年05月15日 07時07分20秒 ) パスワード


あをさん

>時定の家って誰に仕えてたのでしょうね?可能性が広がるばかりです。

史料や系図がないので不明としか言いようがないのですが、時定に関しては仕えた人物を絞るのではなく、平家のとある有力者に仕えていたが様々な事情により見限って1183年頃から源氏方に与するも、二君に仕えたのを恥じて山林に潜居したと全体の流れで纏めればいいのではないでしょうか。

間接的証拠から見ると、

平忠正は平家から所領を没収されていた。時定は源義広を討った褒賞として平家に没官されていた伊賀服部郷を賜った。「平家物語」によると服部氏は桓武平氏忠正流。時定こそが真の伊賀服部氏の祖と推測される。これらの流れから時定は忠正の子の可能性があります。ただ、系図本には忠正の子の中に入っていないので、側女の子だったのかも…。

時定が平家を見限ったのは、彼が忠正の子だったとして、忠正と長盛などの子らは1156年に清盛の手で処刑されていますので、その恨みも含まれるかもしれません。平維盛は平清盛の嫡子平重盛の嫡男であり、維盛に仕えるのはこの視点から見ると難しいとも思える一方、この時代だったら関係ないのかも…。ちなみに、江戸幕府幕臣の服部氏は、伊賀国に住んだ長盛の一子長光の後裔を称している。とのこと。服部氏は桓武平氏忠正流ともされているので、それを知って繋げたのでしょうか…。

色々視点を変えて見ると面白いのですが、時定はまた後で考えるとして取り敢えず家長に関して続けてみます。「尾張国諸家系図」に一宮市の服部氏の項があり、以下の内容が書かれていました。

服部家系書上 中島郡祖父江町森下 服部勝蔵氏蔵
天明三年卯十一月
京極天皇伊賀国之地主一伏大明神之公家義之宮後胤伊賀平内左衛門尉家長末孫服部伊賀守平家継。津嶋七苗字之其一人。永享七卯年より津嶋二住居同所雲居寺ヲ開基ス。
                          服部三良右衛門
                       同兄 小藤太
                       同弟 小平太

右兄弟二人共信長二隋巡シテ於桶狭間而今川義元ヲ討。其刀関兼法于今所持ス。

家長は「一伏大明神之公家義之宮」の後胤とありますが、誰なのか全く理解できません。一伏は一度伏せること、指一本の幅と言った意味があるようです。「屋島の合戦」で那須与一の扇の的を打ちぬいた時の矢の長さは十二束三伏(一束は握り拳一つ)とのこと。

一伏の意味自体が分かってもそれだけでは不明なので、もし何かご存じならお知らせください。家継は宗純のことだと思いますが、なぜ名前が二つあるんでしょうね。何か背景があるのでしょうか。大橋家の系図も面白く、少し追ってみます。

季房(平国香七代裔)−家貞−貞能―七代略します−定省−信吉−源信重(神王丸泉守、良王親王ノ子。大橋ハ平氏ナレトモ、後源姓トナルハ此信重ノ謂イナリ)
定省の子の貞元は四家七苗字ノ一ツ、定省の子の女は良王親王二嫁ス。

この系図が真実かどうかは別として、家長が貞能の子だとすれば大橋家とも繋がっていることになります。貞能に関して大橋系図によれば、…前略…退隠ノ領トシテ而尾州海部郡門真荘ヲ永代二給、貞能、此時ヨリ津嶋に居住ス。文治年中(1185年〜1189年)也。

Wikiに、平氏滅亡後の元暦2年(1185年)6月、貞能は縁者の宇都宮朝綱を頼って鎌倉方に投降する。朝綱は自らが平氏の家人として在京していた際、貞能の配慮で東国に戻ることができた恩義から源頼朝に助命を嘆願した(『吾妻鏡』7月7日条)。この嘆願は認められ、貞能の身柄は朝綱に預けられた。と書かれている部分がおおよそ前略にした部分に対応しています。

またWikiによれば、大橋氏は桓武平氏流貞能が肥後国山本郡大橋に下向したといい、大橋氏と称したことに始まるとされる。とのこと。大橋系図はそれぞれの人物に関する脇書がかなりのボリュームで書かれています。服部系図はそうした脇書や解説の類がないのでしょうか。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月15日 09時27分19秒 ) パスワード

PCが不調で?  何度書いても  消されます。
何かのパワーが来てる?


ホンヤさんのお文庫蔵には手つかずの文書が何万点もあって

ここを調べたら  桑原家のヒミツも分かるかも。


     服部連のハナシは桑原家に対抗してデッチ上げたのでは?
     だから
     半蔵は「しかし、うちは帰化人じゃない」と言ってるのでは?


簡潔に書きます:

>京極天皇

皇極天皇ではないでしょうか?




>忠正の子なら  

母は伊賀の女 AND/OR 家貞・家長に繋がる女で
忠正が斬られた時に  清盛の家令だった家貞が命乞いしたから生き残れた?



>服部三良右衛門
    同兄 小藤太
    同弟 小平太    =   中保次

この兄弟は  服部中保次と兄  じゃないかしら?
三つ柏さんの気になってる人

宗清系で
宗清が頼朝から伊賀国阿拝・山田2郡を拝領し
服部村にいたから子孫が服部を称した
宗純の子孫を称している。


桶狭間で義元に襲いかかり
この戦功で家康から足軽同心50人を預けられた。
後に遠江で暗殺された記憶。



中保次の家も  
三右衛門も名乗ってるし
保次の子は上田城攻めに参加して慶長7年に夷隅郡で1550石を貰ってます



>江戸幕府幕臣の服部氏

ドラマで見た幕臣服部氏の家紋はホンヤさんとこと同じでした。


    ドラマで見る服部の皆さんの家紋は  車に並び矢で
    これは
    衣装さんが手を抜いた?


          皆さん  家長や半蔵にあやかってる  だけでしょうか?



この幕臣の服部さんって  幕末の長崎奉行だった人でしょうか?  



消されるのがメンドウなのでココでアップ。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月15日 11時46分16秒 ) パスワード

なるほどね〜


名古屋の中川区に 二女子ににょし という地名があって  これが  平貞能関係の女がらみの地  とか聞いてます。
肥後から出て来てから、と聞いた記憶。

      貞能だか貞能の子だかは三河にもいた記憶


一女子は古渡あたりで  信長が悪ガキ時代にいた所。
南に熱田神宮があって加藤さん宅に竹千代が預けられてて  前田の犬なんかと一緒にイジメに通ってた記憶。

オットと結婚する前なので  ちゃんと聞いてなかった




下記コピペに「大橋の乱」や「津島十五党=四家・七名字・四姓」が出てます。

    しかし
    わたしが或る本の中で見た4名姓とは違う名字が書かれていて
    あれ?
    です。

    下記では酔石亭主さんがお知らせくださった4姓になってますね。

          わたしが或る本の中で見たのは「伊勢」の4名姓でした。
          だから驚いて榊原温泉の畦道のオトコに電話した。
          (お宅さまも南朝方だったの?と)


以下コピペ:

津島十五党

応永4[1397]年,吉野から尹良親王に従って大橋家を始めとする11家が世良田政義・桃井宗綱のいる上野国に入る.
尹良親王が信濃国浪合にて討死.
大橋家ら11家は尹良親王の遺児である良王を守って三河国を経て尾張国津島へと落ち延びた.
これが津島党の起源と言われる.


大橋 尾州津島四家の一つ.
岡本 尾州津島四家の一つ.
山川 尾州津島四家の一つ.
恒川 尾州津島四家の一つ.


堀田 尾州津島七党の一つ.
平野 尾州津島七党の一つ.
服部 尾州津島七党の一つ.
真野 尾州津島七党の一つ.
鈴木 尾州津島七党の一つ.
河村 尾州津島七党の一つ.
光賀 尾州津島七党の一つ.


宇佐美 尾州津島四姓の一つ.
宇都宮 尾州津島四姓の一つ.
開田 尾州津島四姓の一つ.
野々村 尾州津島四姓の一つ.



信長の家は父親の代で力をつけアレよアレよという間に尾張で頭角を現わした。


信長の父の時代に大橋が高須に城を作って信長の父と戦って大橋が負けた。
これが「大橋の乱」で
服部家は元居た場所から逃げ出した。
大橋は信長のおばさんを嫁にして織田の家来になった。

    確か  信長の祖父の時代に既に  経済の中心だった津島を奪われてた記憶
    それで織田家が力をつけた
    と聞いた記憶



だから

今川義元に1番槍を付けたのが   津島の服部さん    服部小平太一忠
今川義元の本陣に真っ先に挑んだのが一宮の服部さん?   服部小平太・中・宗次・要介・保次

当時この2つの服部さんは織田の家来だった。

津島の服部さんは秀吉に
一宮の服部さんは家康に
鞍替えした。




一宮というのは尾張で1番大事な場所で真清田神社があって此れが尾張国一之宮になる。
蜂須賀小六の奥さんがここの娘だった記憶(身分ロンダリングでいろいろな家に養女になった。篤姫も身分ロンダリングをやってるしね)

小六の祖母になる蜂須賀家の正妻さんは大橋から嫁に来た記憶

(熱田神宮は尾張国三之宮ね)



大橋さん
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ow_ohasi.html

全文はURLへ

戦国時代、尾張国津島に大橋氏が割拠していた。尾張の大橋氏は上記の桓武平氏・平貞盛の子孫で、文治年間(1185〜90)の平貞能が筑後守・肥後守に任じられ、その子左衛門尉が肥後国山本郡大橋に下向大橋城主となって大橋を称したのが始まりである。はじめ、平家の家人であたが、その没落後源頼朝に随従して御家人に列した。


 貞能は隠居地として尾張国海東郡内に所領を得たといわれ、その地がのちに尾張大橋氏の拠点となり、南北朝の内乱期を経て、戦国時代に至って大橋重一が出た。


南北朝期は宮方に属し、和泉守信重は「津島大納言」と呼ばれ、実は良王親王嫡子であった者が大橋信吉の養子となったと伝えている。信重は奴野屋城主であった。


尾張の国人領主に成長

 尾張国津島には、「四家・七名字・四姓」の土豪よりなる南朝方「十五党」があった。四家の長は大橋氏で、戦国初期の当主が重一であった。重一は大永二年(1522)、美濃国高須城を築造あるいは修築している。


 高須城は長良・木曽両川を挟んで津島と接しているのであるが、大橋氏は次の重長のとき、尾張国清洲城主織田氏と領地を争っている。「大橋の乱」である。

尾張国にはまた、織田信貞の子で勝幡城主の信秀がおり、重長(重定)は、信秀と抗争を続けたが、ついには信秀の女蔵を嫁として迎え、やがて信秀に属するようになる。


 重長の高須在城は、天文三年までで、同年より弘治二年(1556)までは高津直幸が城主、翌年より永禄三年(1560)までは、津島十五党の"縁者"が守将に名をつらねる。平野長治・恆川信景・鷲巣光康・秋山信縄・林長正・林正三・稲葉正成らである。このうち、稲葉正成は斎藤福こと後の春日局を後妻とする人物で、福の父が信長を本能寺に屠った明智光秀の老臣の斎藤利三である。


 なお十五党には、のち秀吉に仕えて伊勢国松坂城主の服部一忠や、春日局の養子となり老中まで上り詰める堀田氏の先祖、さらに平野長治が賎ヶ岳の七本槍の一人として知られる長泰である。


 重定の子が重賢で、滝川一益に仕え、一益没落後は福島正則に仕えた。しかし、正則も改易処分となり、結局松平出羽守直政に仕え、家老職を勤めたという。一族には、帰農した者もいる。



蛇足

 徳川旗本の大橋親善・親重兄弟、小田原北条氏家臣の大橋山城守、戦国期浅井亮政に仕えた大橋秀元らも、肥後大橋流であると伝える。
[17]酔石亭主さんからのコメント(2024年05月16日 07時39分30秒 ) パスワード

あをさん

>京極天皇 皇極天皇ではないでしょうか?

ご指摘の通りです。同じカ行なので脳内変換してしまったのかな。

>忠正の子なら  
母は伊賀の女 AND/OR 家貞・家長に繋がる女で忠正が斬られた時に  清盛の家令だった家貞が命乞いしたから生き残れた?

なるほど。だから時定は家長(或いはその子)に服部郷を譲ったと考えればいいのかもしれませんね。

全て仮定に基づく推測になりますが、時定と家長の生没年を見ていきます。

時定を忠正の子と仮定した場合、忠正の生誕年は推測で1100年頃。没年は1156年で確定となります。忠正が20歳の頃時定が生まれたとして、生誕年は1120年。1186年段階でまだ生きているのでその後すぐ山林に潜居で1190年頃死去とします。

次に家長ですが、平貞能の子と設定します。平貞能の父である平家貞から見ていくと、生没年は1082年〜1167年と随分長生きです。貞能が1102年の生誕と仮定して、父と同じ程度長生きした前提で没年が1187年頃。家長の生誕が1122年と設定して、壇ノ浦で死去したなら没年は1185年。63歳で死去ならあをさんが70歳頃とした年齢にある程度近くなります。生き延びていたと仮定して、その場合の没年は1200年頃としておきます。

以上から時定と家長の生誕年はほぼ同じとなります。時定の動きを想定すると、1186年中に河芸町の旧服部郷に移動して潜居。数年後には亡くなるので、子孫と一族郎党は山之一色村に移住。系図で略となっている9代はここで暮らしたが、退屈な生活に飽きたメンバーで桑名方面に進出する者が出てきた。その中から服部宗純が出て津島へ。その子孫たちが津島から舟で下れば領主の支配が及ばない解放区長島。水運や物流でお金を儲け友貞公へと続いていく…。と言った筋道が推測されるのでは…。(注:あくまで乏しい史料を参照して導き出した私の推測に過ぎませんよ)

もちろん家長の子の家清に時定の嫡孫となる保俊が養子に入って、一般的な服部氏の系図の流れで続いていったと見てもいいでしょう。ただ、縦系図は脇書などがなかったら単なる名前の羅列に過ぎないので、私としては動的に捉えるべきと思います。その観点の場合、上記の伊賀から移動していく経路は無理がなく、こんなところでいいのかなと…。うんと極端に言えば、遠い過去のことなどわからないので、自分がこれでいいと思った過去が当人にとっての真実になる。聖杯の謎とイエスの末裔を探す映画「ダ・ヴィンチ・コード」エクステンデッド版を見ると、そんな気がしてきます。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月16日 08時38分55秒 ) パスワード

酔石亭主さん

いいですね。


時定が忠正関係だった
というのは

     清盛に恨みがあったから頼朝に付いた

の説明になるから
ムリが無いですね。


家貞には兄弟がいたでしょうから
その中には忠正に仕えたのも  当然  いたでしょうから。

時定は忠正の家令か侍大将だったかも。



時定の「時」がどなたから来たのか
それが分かるとかなり迫れますよね。


半蔵さんの「正」の通字は案外忠正の「正」を記念してるのかも知れないですね。

初代  服部半蔵保長(正種)
2代目 服部半蔵正成
3代目 服部半蔵正就
4代目 服部半蔵正重



>時定の動きを想定すると、1186年中に河芸町の旧服部郷に移動して潜居。
>数年後には亡くなるので、
>子孫と一族郎党は山之一色村に移住。
>系図で略となっている9代はここで暮らした

これが「伊賀平氏の服部さん」でなく「伊勢平氏の服部さん」ということかも
ですね。



そうすると桑原家との関係も永く続いていたのだろうな、と。

    北勢+大垣+高須あたりを基盤とした桑原家と
    木曾3川あたり+高須あたりに力を持っていたホンヤさんの関係が
    何か分かった気がします


         なんで美濃国にあった尾張藩の飛び地の高須家とホンヤさん宅が関係があるのか
         31年間の謎でした。

                未だ言ってる・・・

         そうか・・・時定以来だったのか・・・
         です。笑



不思議ですね
永きに亘って引っ掛かってたことが
思わぬ誰かの出現で  
謎解きの糸口が示されるなんて。


ありがとうございました。


また楽しい謎解きをお願いします。   
[19]酔石亭主さんからのコメント(2024年05月16日 19時32分04秒 ) パスワード

あをさん

平熱にこれだけ続けて書き込んだのも、伊賀服部氏と関連事項に関してある程度纏めて考察できたのも初めてのことで、あをさんとの意見交換の賜物だと思っています。ただ、推測が多く確度の高い謎解きができていないのが残念。あれこれ考えてふやけた脳を多少活性化できたことは間違いないので、感謝です。いずれ新たな疑問が湧いてきたり新史料が発見できたりした際はまた書き込みますので、その節はよろしくお付き合いください。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月16日 22時10分19秒 ) パスワード

酔石亭主さん

>推測が多く確度の高い謎解きができていないのが残念

はい
前提が確定事項じゃないですから  そこから導き出したものは・・・です。


ホンヤさんのお文庫蔵の手つかずの文書が何万点やらあるのは聞いてますが
「時定」が何者か書かれていると良いのですが。


とにかく写本というのは字の書き間違いもあれば書き写す人の心境も入り込んでいるから

    平家物語も写本によってハナシが違うので、

どこまで本当?事実?真相?、結局「面白い」のが残ったわけで。



半蔵さん宅の「服部連」の子孫というハナシは、桑原家に対抗しているんだな、というのが見えてきました。


    桑原家文書にホンヤさんとこの真相が書いてあったら   面白いですね。

こんな感じで歴史探求は楽しいですね。



>いずれ新たな疑問が湧いてきたり新史料が発見できたりした際はまた書き込みますので、その節はよろしくお付き合いください。

こちらこそ宜しくお願いいたします。


わたしはヤッパリ伊勢の子だったのかなぁ。。。

         未だ言ってる
[21]酔石亭主さんからのコメント(2024年05月18日 07時07分48秒 ) パスワード

あをさん

気になる点がまだあったのでまた書き込みました。

>ホンヤさんのお文庫蔵の手つかずの文書が何万点やらあるのは聞いてますが「時定」が何者か書かれていると良いのですが。

多分書かれていないと思いますよ。何万点の文書はお役所とのやり取りや、近隣の関係、神社の祭礼、お寺関係などの雑多な文書でしょう。一方系図は一族にとって最も重要な文書であり仏壇などに収められているはずで、調べるまでもなく真っ先に出てきます。また知る限りではホンヤさんは宗純を祖としています。それ以前は確定できないので、書かなかったのではないでしょうか。これはご先祖に対して真摯な姿勢で向き合っている証拠のようにも思われます。

様々な権益に関係するため家名の継承が最も重要と思われていた時代、多くの家がどこかから赤子をもらい嫡子として系図を続けたり、名前ロンダリングをしたりと、何でもありだったのではないでしょうか。そのいい例が大橋氏で、『尾張國津島の大橋氏における家系伝説創造と「浪合記」・「大橋記」』に詳しく書かれています。かなり長いのですが面白いので興味があればご一読ください。(記事タイトルを入力して検索ください)

それにしても服部姓の方は数多いのでなぜかなと思ってしまいます。江戸時代に勝手に屋号にしてしまった、明治になって姓を持てるようになった際、服部は語感がいいので(声に出すとそう感じますよ)、服部にしてしまった「なんちゃって服部さん」もかなりいたのではなどと想像(妄想)してしまいました。面白いのは小文字のッ音を入れた名前は名前大国の日本にもほとんどない点です。思い浮かぶのは秦氏系の名前とも思われる八田程度でしょうか。

なお、時定が奄芸郡の服部郷に潜居したのに、その死後すぐに一族郎党が山之一色村に移住した(私の推測ですよ)のは、工藤祐長の存在があったからなどと想像しました。時定自身は源氏方でしたが、服部氏は一般的には伊勢平氏と見られているので、服部の地名がある場所では居心地が悪かったのかもしれませんね。祐長に関しては以下Wikiより。

藤原南家乙麿(乙麻呂)流の一族で、曾我兄弟に殺された工藤祐経(1147年〜1193年)の三男・祐長(全くの推測で1167年〜1217年)が、伊勢平氏残党の討伐のため、伊勢国長野の地頭職となって安濃郡・奄芸郡の2郡を給わり、その子・祐政が長野に来住して長野氏を名乗ったのが、長野氏の起源である。
鎌倉時代から伊勢国中部の有力国人として君臨したが、南北朝時代に入ると、南朝方国司の北畠氏が伊勢に進出する。このため、長野氏は北朝方にくみして伊勢の覇権を争った。ちなみに、この時代に書かれた『梅松論』にも「長野工藤三郎左衛門尉」という名乗りの人物が登場している。

ところで宗純が南朝方だったのは北畠の影響でしょうか?服部友貞が自害したのは確か北畠に挨拶に向かう途中だったはずで、そんな考えが浮かびました。まあ、後代の話から過去の話に結び付けるのはどうかなとは思いますが…。友貞の自害はWikiによれば以下となっています。

永禄11年(1568年)正月、北畠具教に年賀の挨拶をするために霧山城へと登城する最中に織田軍の刺客に囲まれ伊勢国米野の陰涼庵で自害に追い込まれた。なお、友貞の死後、服部党は長島一向一揆に参加している。

北畠具教はWikiによると長野工藤氏を抑え込んでいますね。

弘治元年(1555年)、父・晴具の命により伊勢国安濃郡を支配していた長野工藤氏と戦い、永禄元年(1558年)に次男・具藤を長野工藤氏の養嗣子とする有利な和睦を結ぶことで北伊勢に勢力を拡大し、永禄5年(1562年)5月5日に長野稙藤と長野藤定が同日に死去したため長野氏の支配権を完全に掌握した。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月18日 13時51分26秒 ) パスワード

酔石亭主さん

引き続き情報を詳しく書いてくださって感謝致します。


>北畠具教はWikiによると長野工藤氏を抑え込んでいますね。

それで信長が次男のために北畠を乗っ取ったのか。

      長野工藤氏が絡んでたことは全く寝耳に水でした。
      で、長野が信長方についたわけか。


群雄割拠の時代
家を存続させられるか   家を興すことが出来るか
オトコの生き甲斐   本能発揮  の時代だったんだな
と改めて思いました。

      やっぱり信長ってスゴイ人だったんだな
      です。



現在  ホンヤさん宅から頂いた資料を発掘捜索中。
まさか誰かに貸したという可能性って?

2020年コロナで自宅待機中に万葉集を貸してそのままドロンされたけど

捜す時は見つからないのよね。
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