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 投稿番号:102116 投稿日:2024年04月24日 19時29分19秒  パスワード
 お名前:真夏に降る雪さんの代理
式町氏 敷町氏
キーワード:堅田
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード



http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101697_89.html
式町氏敷町氏の解明。

[1]相良四郎さんからのコメント(2024年04月24日 19時41分48秒 ) パスワード


色々と受け取りましたのでaccomplishingはきちんとさせて頂きます。
[2]相良四郎さんからのコメント(2024年04月25日 11時26分32秒 ) パスワード


縁というもの6系統であるという話に思わさせて頂きました。
今宵は霊験灼たかとは別ですが少しばかり気を改めようと考えます。
[3]相良四郎さんからのコメント(2024年04月28日 23時14分17秒 ) パスワード


情け無いことに時政の年齢まで加味をして考えることがありませんでした。
それでは一月くらいであればと粉骨砕身させて頂くことに致します。

ちょっとした空間でも井の中の蛙と思うこの頃です。
[4]相良四郎さんからのコメント(2024年04月29日 21時20分14秒 ) パスワード


改めまして新田喜斎 名倉 南朝色というところを中心にもしつつ覚え直そうかと思います。
断家譜につきましても念頭にあるという事です。
[5]相良四郎さんからのコメント(2024年05月01日 00時25分09秒 ) パスワード


加えて種直 櫛田宮ももう少し探ろうと思っております。
[6]相良四郎さんからのコメント(2024年05月01日 15時19分56秒 ) パスワード


種直 ある件で思い入れはございます。
まず平家方とのこと ゆっくり読んでおきます。それで後々も思い出す為に来させて頂こうと考えております。

口野につきましては面白い意見を伺っておりますので逐一読みます。
温泉の話も興味深く思うところです。

[7]相良四郎さんからのコメント(2024年05月01日 16時13分28秒 ) パスワード


何鹿のお話が御座いました。
二方國造におきましても既に触れております。
十一屋さんを離すようにしてしまいましたが
また確認を繰り返させて頂くことにします。
[8]相良四郎さんからのコメント(2024年05月01日 21時57分42秒 ) パスワード


ともあれ無にならせて頂きました。

御影 比企尼 竹御所 もう一周させて頂きましたところ
滂沱の意味するところ掴めたのではと沁み入ってございます。
[9]相良四郎さんからのコメント(2024年05月02日 15時57分43秒 ) パスワード


何鹿 伊福 基本これらは続いているという事でやっていきます。
[10]相良四郎さんからのコメント(2024年05月02日 18時17分02秒 ) パスワード


夷隅は勿論の事 伊甚國造 夷隅郡も含め見直すことにさせていただきます。

小湊や朝夷につきましても目を引く感じがいたします。
特段 市原市ですが一緒に深掘りしてみたいところであります。
[11]相良四郎さんからのコメント(2024年05月02日 18時49分00秒 ) パスワード


七栗の話がございました。
温泉と書いておりましたが正しく覚えてませんでしたので
榊原川があるそうです。

再び「く」の話もありましたのでのめり込ませて頂こうかと思って御座います。
[12]相良四郎さんからのコメント(2024年05月02日 22時29分42秒 ) パスワード


城氏 出羽介 ここまではありましたが 友田(鞆田)忘れておりました。

出羽介なんたるかも覚えるべきと思いますが全体的な構造をみたいです。
歌島も思い出せましたので登場人物増やせるよう心がけておきます。
[13]相良四郎さんからのコメント(2024年05月03日 22時50分27秒 ) パスワード


喜斎が捕らえられるまでの経緯初めてしかと読ませて頂きました。
なお滂沱の続きは解読中でありますので少々お待ちください。
[14]相良四郎さんからのコメント(2024年05月04日 18時46分17秒 ) パスワード


畿内を見るとき東大阪はやはり気にしておりますけども
「石川」とあると惹かれるのはあります。和泉も面白く思ってまして淡路に近くあるのも
何か感じるものはあります。その中で伊賀ですが
維景 残香を思うときに半蔵の姿まで出て来るということになるようです。

詳しくは喜斎においても纏めるので一応もう少し見回るつもりであります。
[15]相良四郎さんからのコメント(2024年05月04日 19時07分47秒 ) パスワード


清少納言に七栗 有難いお話を頂きました。
[16]相良四郎さんからのコメント(2024年05月05日 15時52分59秒 ) パスワード


唐津のスレッド覗いておりました。

夷隅のこと纏めますのでまた挨拶に行ければと思います。
[17]相良四郎さんからのコメント(2024年05月05日 18時51分49秒 ) パスワード


維景に登場頂いたので

中保次も話を追い始めることにします。
[18]相良四郎さんからのコメント(2024年05月05日 23時08分36秒 ) パスワード


そして康頼や田室 邂逅させていただいたところです。
[19]相良四郎さんからのコメント(2024年05月06日 12時44分38秒 ) パスワード


古屋佐久左衛門について見ておりました。

ここからは長いです。城氏が一度登場しておりましたが
[20]相良四郎さんからのコメント(2024年05月06日 13時39分12秒 ) パスワード


平長盛なる人物を書き留めさせていただきました。
[21]相良四郎さんからのコメント(2024年05月06日 14時33分58秒 ) パスワード


横井丹波守某女との記述でした。
もう少し読まさせて頂きとうございます。
[22]相良四郎さんからのコメント(2024年05月06日 14時37分57秒 ) パスワード


疑問が出て参りました。

政秀とあります。政光と名乗る理由あったはずです。
[23]相良四郎さんからのコメント(2024年05月06日 23時03分43秒 ) パスワード


割らせて頂きますが

須金の情報を見ておりました。一度確認してはおります。

次一応<19>から継続の形にはします。
[24]相良四郎さんからのコメント(2024年05月08日 11時04分06秒 ) パスワード


前の川 大鍋 どういう流れにあったかということでした。

政信関係をあたることで少しでも見えればというところです。
[25]相良四郎さんからのコメント(2024年05月09日 06時58分12秒 ) パスワード


康頼 田室 もう一度相知町で語る機会出来たらばと思っている次第です。
[26]相良四郎さんからのコメント(2024年05月09日 22時04分31秒 ) パスワード


心機一転 霧氷 伺っておりました。

政信を断家譜で見る前にもう少し確認です。
[27]相良四郎さんからのコメント(2024年05月10日 00時27分47秒 ) パスワード


再度割らせていただきますが

村櫛三郎兵衛  馬場信春 忍氏の確認をして次へいきます。
[28]相良四郎さんからのコメント(2024年05月10日 04時06分47秒 ) パスワード


常光寺の話はありました。

後醍醐源氏見ていこうと思っております。
北勢四十八家も確認を進めます。
[29]相良四郎さんからのコメント(2024年05月10日 12時54分53秒 ) パスワード


服部家ホンヤさん

おせちのお話有り難く読ませて頂いておりました。
[30]相良四郎さんからのコメント(2024年05月11日 14時34分47秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2024年05月12日 03時57分56秒
[31]相良四郎さんからのコメント(2024年05月11日 21時07分52秒 ) パスワード


桑原氏 地図と合わせて眺めているところでした。

もう一度確認をさせて頂きたく思います。
[32]相良四郎さんからのコメント(2024年05月11日 22時45分25秒 ) パスワード


では久々に東常縁を調べることに致します。
[33]相良四郎さんからのコメント(2024年05月12日 22時18分53秒 ) パスワード


断家譜に服部時貞が見えるか確認致しております。
[34]相良四郎さんからのコメント(2024年05月13日 12時24分28秒 ) パスワード


東常縁は千葉氏のサイトで確認途中でした。

飛躍ではありますができればメノーラーなどの情報も補填しつつ見たいところです。
[35]相良四郎さんからのコメント(2024年05月14日 15時53分02秒 ) パスワード


ミワ カモ と題して(三輪 賀茂)

メモを残しておりました。
出雲 出雲系 天八現津彦命 三輪 和邇 建御名方神

再度ソースを見ようと思います。
[36]相良四郎さんからのコメント(2024年05月14日 16時44分09秒 ) パスワード


すでにご指摘のあった初生衣神社の記事を拝読させて頂いておりました。
[37]相良四郎さんからのコメント(2024年05月15日 11時18分12秒 ) パスワード



 


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 投稿番号:102120 投稿日:2024年05月09日 06時38分52秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
服部六郎時定

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード


酔石亭主さんに感謝致します。

お蔭様で
ホンヤさんの御先祖の服部六郎時定について見えて来ました。
服部家長が壇の浦の後に荒木に戻らず千賀地に行った理由も見えて来ました。


16年4か月前この件について既に話題に上がっていましたが
やっと
納得出来そうになりました。


酔石亭主さん
更なるご指導をお願い申し上げます。


レス<1>以下の書き込みは
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/102089_83.html
「服部カフェ  4号店」より移したもので
重複します。


再度  皆さま方にも感謝とお詫びを申し上げます:

ホンヤさん   桑原家の情報  ありがとうございました。
さちこさん   さすがです。  そして東儀さんへの💛  本物なんですねぇ
隈さん     さすが日本でトップを争う学部ご出身ですね  感服!
板管理人さん  ご理解をありがとうございます   「必然」 ですね
大橋一族さん  「平氏じゃん」と罵倒して   今更ながら  ごめんなさい
雅な御方さま  お宅さまの御先祖さまが助けてくださいました
藤原氏長老さま 御蔵を他人に開きたくないお気持ち  相身互いでございます
三つ柏さん   忠正公系服部氏を否定して  今更ながら  ごめんなさいです。



[1] 酔石亭主さんからのコメント(2024年05月09日 07時59分30秒 ) パスワード

あをさん

開いてビックリ進撃の巨人のような怒涛のレスに撃沈寸前です。ただ、服部六郎時定に関するあをさんのイメージと私の脳内イメージの間にはなおもずれがあると思います。全体像はまだとても提示できないので、取り敢えず少しだけ書いてみますね。

>レス「78」伊豆右衛門尉源有綱(源義経の聟)を討ったのが「服部六郎時定」(伊賀地誌等)もしくは「平六儀仗時定」(東鑑)「北条平六時定」も「服部」と名乗ったってこと?平六?六郎?ややこしい・・・(@@;

北条時定は追討の指揮を執っている人物で、服部時定は実働部隊と見ればややこしくはなさそうです。まあ、パッと見ると混乱させられますけど…。よって二人は当然赤の他人のはずです。

>ホンヤさんの先祖の「服部六郎時定」伊賀の主人の席の空いた家長の後を   ちゃっかり   継いだのかも。

いや、その逆のようにも思えますよ。服部六郎時定は平忠正が平家に召し上げられた(と推定される)伊賀服部郷を取り戻しています。そして孫を家長の子の家清に養子に出しているのですから、事実上服部郷を家長の子に譲り渡したことになります。しかも自分は二君に仕えたのを恥として山林に潜居したのですから、何て強く優しい人物なんだろうと思いました。

ところであをさんは服部六郎時定が伊賀の人だと思っていませんか。実は伊賀ではなく名張出身の人なんですよ。と言うか、そのような言い伝えがあると「名賀郡史」に書かれているんです。内容を以下に書き出します。

服部六郎時定宅址

薦原村大字薦生に在りと傳ふ。「名所記」曰、源有綱が薦生村にて生害を遂げる侍る由申し伝う、往古この里頼政の領地故とぞ聞こえし、「大系図」曰、頼政嫡男仲綱 仲綱の次男有綱、義経に組し 吉野山を落ちて此處に隠る、頼朝此國の勇士服部六郎時定に仰せて有綱を打たしむ。「伊賀考」曰、平家末葉志田三郎義憲、左衛門尉有綱と伊賀にさまよふ 頼朝当国服部時定に命じ討たしむ、とありこのこと源平盛衰記にも見ゆ、考ふるに、服部時定は東鑑によれば当時京都に在しが有綱の黒田に隠れ居ることの知られたる後命を奉じ来たり宇陀山中にて戦ひてこれを亡ぼしたるものの如し よって見れば時定の宅址この地に在りしは信じ難し

「名賀郡史」が「吾妻鏡」によると時定は宇陀山中で戦って有綱を滅ぼしたとあるから、薦生が時定の宅址とは信じがたい、としている点に関しては、薦生が時定の宅址で時定は宇陀山中で戦って有綱を滅ぼしたと設定すれば、薦生を時定の宅址とする言い伝え自体は守れることになります。また「なばりの昔話」には以下のように書かれていました。

薦生は源有綱が自害をした地と伝承されています。有綱は源義経の娘むこ、頼政の孫で、義経が兄頼朝に追われ、重臣だった有綱も同じ目に会いました。有綱は吉野から山辺(奈良県・榛原町)に逃れましたが、ここでも頼朝の追討を受け、祖父頼政の領地である薦生の地へ山伝いに逃げて来ました。薦生には源氏の一党である武田氏が住んでいましたので、ここでしばらくかくまわれていたのです。
 ところが、頼朝の命を受けた伊賀の服部六郎時定が軍勢を引きつれて、有綱の立てこもる薦生の山城を攻撃しました。有綱は勇猛果敢な武将らしく戦いましたが、多勢に無勢。嫡子の有宗に六人の家来をつけて乳母の弟である予野の萱左衛門もとに預けたあと山城で自刃して果ててしまいました。文治二年(一一八六年)六月十六日のことといわれています。
予野の地を無事逃れた嫡子有宗の家系は、為盛→景守→元成→清次と続き、清次は郷土が誇る「能」の大成者である観阿弥となりました。 また、有綱には有宗ら四人の子供がいて、次女は柏原の城主である滝野上野介の妻になったと伝えられています。

服部時定の住居があった場所で源有綱を討ったとはやはり出来過ぎた話と思えませんか?「名賀郡史」がいぶかるのも当然ではあります。他にもややこし過ぎたり、出来過ぎたりして理解するのが難しい点などありますが、とにかく纏め切るだけの力量が不足しているし、すぐに目が疲れてしまうのであと数日程度の検討が必要です。急がば回れですから、御寛容のほど…。



[2] 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月09日 10時20分23秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございます。


>ややこし過ぎたり、出来過ぎたりして理解するのが難しい点などあります

はい

書き写されるたびに  削ったり盛ったり   偽装改竄捏造  あったでしょうね。



>予野の地を無事逃れた嫡子有宗の家系は、為盛→景守→元成→清次と続き、清次は郷土が誇る「能」の大成者である観阿弥となりました。

ビックリ!
ハナシが随分違う・・・


>服部六郎時定が伊賀の人だと思っていませんか。
>実は伊賀ではなく名張出身の人

え?
伊賀じゃなくて
名張なんですか。

ありがとうございます。

名張の方が伊賀より京の都に「近い」と感じます。
地理的だけじゃなくて貴族の世界=政治的=に近かった
そんな感じがします。



上記に
>>>三つ柏さん   忠正公系服部氏を否定して  今更ながら  ごめんなさいです<<<
を加えておいて  ラッキー!
赤面

         調子の良いワタシ


酔石亭主さん
またの続きを楽しみにしております。


それにしても16年4か月の前のハナシが今やっと日の目を見て落ち着きそうで謎の解明になりそうな予感がしています。


本当にありがとうございます。

[3] 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月09日 22時43分32秒 ) パスワード

思い返せば
ホンヤさんに   ホンヤさん宅と同レベルの名家はどこか   とお訊きしたのは
31年前!

31年前にワタシは桑原家の存在を聞いてた。。。


それから2007年にハナシが「時定」の方向に行って
2008年になって隈さんとさちこさんが「時定」と「時定」がややこしいと言い出して


2024年春  もう夏か?  酔石亭主さんから教えて頂いて


         やっと  💡 が灯った感じ。


         実は最近老人相手のボランティアを始める件に巻き込まれていて
             老人はナカナカ  💡  が灯らないのを
             リーダーが嘆いていて

         わたしも老人になるとアンナなのかな?と怖くなってました。


いやいや  ムカシっからです。


母が「お姉ちゃんには1つ言えば  10  分かってくれる。なのにお前は10言ってやっと1  出来るか出来ないかのレベルだ」とよく言ってたけど


ワタシは   1言われたら 💡灯るのに  31年かかるんだぁ〜  と2024年5月に発見した。(笑)

    笑って良いのか?


きっとホンヤさんは  (この子は鈍いな)  とワタシのことを見抜いていらっしゃった、と思う。


秋田に連れて行って貰えなかったオトコがよく言ってました。
「見ればどのレベルの人間か分かる。  書いてるもの  話すこと  それで脳のレベルが分かる」

     慶応の加藤寛教授が  バッサリ  斬り捨てるヒトで
     コワカッタけど
     加藤君みたいに面と向かって言うヒトってあんまりいないと思うけど
     皆さん  言わないだけで  (なんだ?このバカ!俺様の時間のムダ!)  って心の中でバッサリ斬って捨ててるんでしょうね。



こんな感じでナカナカ💡に灯りが灯らない蛍光灯ですが
酔石亭主さん
更なるご指導をお願い致します。
<m(__)m>

[4] 酔石亭主さんからのコメント(2024年05月10日 07時08分51秒 ) パスワード

あをさん

正直言って服部氏関係は私にとって邪馬台国問題や出雲関係の謎よりずっと難しく、まだどう転んでいくのか、どんな方向に行くのかはっきりしていない状態です。巨木探索で伊賀に行こうと思い立ち、それなら服部氏の始まり部分も見ていこうと安易に考えて検討を始めたものの、ここまで難物だったとは思いもしませんでした。いずれにしても、暗中模索から少しでも光が見えるように持っていきたいと思いますので、もうしばらくお待ちください。

[5] 酔石亭主さんからのコメント(2024年05月10日 07時58分46秒 ) パスワード


あをさん 

取り敢えず書けそうなところから書いていきます。

>服部六郎時定の先祖と北条時政の先祖は  伊勢平氏庶流で繋がってたのかも。

まず服部六郎時定の先祖を考えてみますが、時定に関して書かれた史料や系図は見当たらない(調査不足かもしれませんが)ので、確たることは何一つ言えません。「服部氏に三流ありという 漢服部は平内左衛門相続し平氏 呉服部は服部六郎時定相続し源氏」云々は全く信用できないと思います。

呉服(くれはとり)は応神天皇の時代かどうかわかりませんが、渡来の機織り(服織)女工でつまり職能民となります。それが平安末期まで続いていたとして、女系ですから常に婿を取り続け、平安末期になって服時定が女工さんの婿になって機織りを始めたと言うのが「相続」の意味になってしまいます。時定はバリバリの武人で源氏方ですから職能民になるなど有り得ないと思いませんか。

機織りの先進技術を持ち込んだ呉服女工は地元民から崇敬され神社で神として祀られるのは理解されますし、その宮司になったり氏子総代になったりする服部氏が出るのは十分あり得ます。けれども、時定が呉服部を相続して自分の祖は呉服だとするような話は実際には有り得ないと思います。従って時定の先祖は不明とするしかなさそうです。

唯一の可能性は「伊賀国無足人帳」で、これを見ることができたら、もっとヒントになるような記述が出てくるかもしれません。例えば名張の薦生と関係する無足人が複数いて先祖やその他に何らかの共通性があったとしたら、服部時定もひっくるめられる可能性が出てきます。

伊賀市図書館に行けば「伊賀国無足人帳 文久三壬戌年五月十日」の、多分原本を閲覧はできるかと思いますが、貸出は禁止となっています。伊賀流忍者博物館所蔵古文書にも写本があります。仮に調べるとして、全1800人超の無足人から多分少なくとも一割程度はおられそうな服部さんを探し出し、関係しそうな方をピックアップするのは現代語ではないので一日フルに使う必要があるでしょう。そうなると、20か所近く訪問しそうな巨木探索のついでにとはいきません。誰か調査してもいいよと言う方がいないかなあ……。

今後は分かるところから少しずつ書いていくことにします。その場合、後になって前に書いていたことと矛盾してきた、間違っていたなんてことが起きるかもしれませんが、ご容赦のほど…。

[6] 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月11日 09時44分01秒 ) パスワード

酔石亭主さん


ホンヤさん宅のお文庫蔵には  何万点やらの古文書が手つかずで保管されていて
研究員が調べているハナシも聞いていますが・・・


そこでホンヤさんに匹敵する「桑原家」を思い出し   意外な桑原家のルーツをアップします。

こんな事  あるんだぁ〜
ということで。



     「桑原なんて聞いたことが無い」と言ったら
          なんと!愛知県知事の名字で有名だった・・・とか。


桑原 幹根(くわはら みきね、1895年8月29日 - 1991年4月11日)
日本の政治家、内務官僚。
1946年に官選愛知県知事に任じられ、公職追放された後、公選で当選し、同知事を6期24年にわたって務めた。
1987年愛知県名誉県民。
勲一等旭日大綬章受章。

本籍 山梨県富士吉田市大明見20番地
住所 名古屋市昭和区高峯町133−19

            えっ?
            高峯町?
            中京テレビ放送KKへ行ったことがある
            名古屋市昭和区高峯町154



                桑山は知ってる
                桑山美術館
知多出身の富豪  桑山清一
                わたしには「桑山一族=名古屋のお金持ち」のイメージ

                この近所に滝川町のバス停があって(笑)
                西に御器所がある
                     御器所は若い時にウロついてた

                     理由は分からない
                     藤吉郎のママや市のママの在所だから虎のママもここの生まれかも

                     オットと結婚してから清盛が忠盛から相続した土地の1つと知った



「桑原」というのは知らなかった
「桑山」は知ってたから

ホンヤさんが「桑原」とおっしゃった時  え?  桑原?桑山じゃなくて?だった。


                
で、「桑原」を調べたら   ちょっと  参考になるかと?


>時定に関して書かれた史料や系図は見当たらないので、確たることは何一つ言えません。
>「服部氏に三流ありという 漢服部は平内左衛門相続し平氏 呉服部は服部六郎時定相続し源氏」云々は全く信用できないと思います。

>呉服は応神天皇の時代かどうかわかりませんが、渡来の機織り(服織)女工でつまり職能民となります。
>それが平安末期まで続いていたとして、女系ですから常に婿を取り続け、平安末期になって服部時定が女工さんの婿になって機織りを始めたと言うのが「相続」の意味になってしまいます。
>時定はバリバリの武人で源氏方ですから職能民になるなど有り得ないと思いませんか。

>機織りの先進技術を持ち込んだ呉服女工は地元民から崇敬され神社で神として祀られるのは理解されますし、
>その宮司になったり氏子総代になったりする服部氏が出るのは十分あり得ます。>けれども、時定が呉服部を相続して自分の祖は呉服だとするような話は実際には有り得ないと思います。
>従って時定の先祖は不明とするしかなさそうです。


https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%A1%91%E5%8E%9F#google_vignette

桑原姓
@現奈良県である大和国葛下郡桑原郷がルーツである、新羅帰化族。
ほか中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原南家。
A菅原氏。
B越智氏(物部氏の子孫)などにもみられる。

桑の広がる原野や広い地域が語源。


https://www.t-toumon.jp/kuwahara/#:~:text=%E5%85%AC%E5%A7%93%E3%81%AE%E6%A1%91%E5%8E%9F%E6%B0%8F,%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%90%8D%E3%81%AB%E7%94%B1%E6%9D%A5%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%82


公姓の桑原氏は、朝鮮半島からの技術者である漢人集団の在地統率者として、桑原村主の系統を引く渡来系民族。

桑原の姓は大和国葛上郡桑原郷(現御所市掖上)の地名に由来する。


「くわばらくわばら」の伝承は菅公ゆかりで平将門や崇徳天皇とともに日本三大怨霊のひとりなので
人々は藤原氏の巻き添えを食って雷に当たらないようにと
「ここは道真様の領地の桑原ですから、雷は落さないで下さい」と言う意味で「くわばら くわばら」を唱えたと言うものです。

菅公の領地桑原には一度も落雷がなかったということです。



?原家(桑原家、くわはらけ)は、菅原氏の流れを汲む五条家庶流の公家・華族・平民だった家。

公家としての家格は半家、華族としての家格は子爵。

             子爵?
             ビックリ!



桑原家の先祖は天文14年(1545)伊勢の阿下喜から一之瀬に移り住み、信長に仕えましたが、関ヶ原の合戦後は、尾張藩の在郷武士として返り咲きました。

桑原氏は30石を与えられ、村内では賄庄屋も兼ね、植林を奨励し用水路引き田畑の開墾を始めました。


再出
https://www.city.ogaki.lg.jp/0000000717.html#:~:text=%E6%A1%91%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E3%81%AE%E5%85%88%E7%A5%96%E3%81%AF,%E9%96%8B%E5%A2%BE%E3%82%92%E5%A7%8B%E3%82%81%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82

原則非公開
大垣市上石津町一之瀬365

重複:
桑原家の先祖は、天文14年(1545)伊勢の阿下喜から一之瀬に移り住み、信長に仕えましたが、関ヶ原の合戦後は、尾張藩の在郷武士として返り咲きました。
桑原氏は、30石を与えられ、村内では賄庄屋も兼ね、植林を奨励し用水路引き田畑の開墾を始めました。


桑原氏の邸宅は、寛永5年(1628)に中島郡駒塚(現羽島市)に住居を移しますので、約22年間政所となりました。

現在は、約2,800平方メートルの敷地と建造物(六種)が国の重要文化財に指定されています。

[7] 酔石亭主さんからのコメント(2024年05月11日 19時19分50秒 ) パスワード

あをさん

>桑原 幹根 本籍 山梨県富士吉田市大明見20番地

ちょっと驚きました。ここは富士山麓の徐福伝承や富士高天原王朝があった(とされる)場所で、以前にじっくり見て回り旧ブログにも書いています。その時大明見一帯に結界が張られているような不思議な感覚があり、後でチェックしたら少し前まで富士吉田市の市民も立ち入らない場所だったとのこと。この地域には宮下姓(宮下文書に関係する一族)や桑原姓が多くおられます。

>知多出身の富豪  桑山清一

小学校のとき一人いたので、この方の子孫かもしれませんね。

>桑原家の先祖は、天文14年(1545)伊勢の阿下喜から一之瀬に移り住み

阿下喜。員弁川の探石で行った場所に近いですね。

>「くわばらくわばら」の伝承は菅公ゆかりで平将門や崇徳天皇とともに日本三大怨霊のひとりなので人々は藤原氏の巻き添えを食って雷に当たらないようにと「ここは道真様の領地の桑原ですから、雷は落さないで下さい」と言う意味で「くわばら くわばら」を唱えたと言うものです。

「くわばらくわばら」伝承の元ネタになりそうで、秦氏も出てくる話がありますよ。「日本書紀」によると、少子部蜾蠃(ちいさこべすがる)は雄略天皇から蚕(こ)を集めるよう命令された。ところが、間違えて子(こ)を集めてきた。天皇は蜾蠃に子供たちを養育するよう命じたが、この子供たちが各地に散った秦氏だった。秦氏はご存じのように養蚕にも関与しており、結果的に天皇の命令を果たしたことになる。ある日のこと、天皇は蜾蠃に三諸岳(三輪山)の神を見たいので捕まえてこいと言った。蜾蠃はお安いご用と三輪山の神(大蛇、雷神)を捕まえてきたが、雷のような大音声を発し、眼は爛々と輝き、その恐ろしさに腰を抜かした天皇は神を三輪山に返させた。そして蜾蠃に雷の名前を授けた。桑を使う養蚕に関与した蜾蠃が雷を捕まえたので、雷が鳴っても桑原には落ちないと人々は思い、雷除けの呪文として「くわばらくわばら」と唱えられるようになったとさ。

上記の結論部分は薄い記憶で書いています。ひょっとしたらそんな伝承はなかったかもしれず、その場合、私が新たな伝承を創造したとご理解のほど…。以前桑原治田神社を訪問していますが、多少関係しそうな部分がありますので、以下旧ブログより抜粋しておきます。

麻績村を離れ秦川勝の子である秦広国が入植した信濃国更級郡桑原(現在の千曲市桑原)へと向かいます。ここで注目すべきは治田(はるた)神社です。と言うか、この神社以外に見るものはなさそうです。千曲市のホームページによれば、711年(和銅4年)更級の里に養蚕を伝えた秦氏が稲荷を祀る。とあります。当初は秦神社と呼ばれていたそうです。「はるた」と「はた」。似通った音ではありますが、どうなんでしょう?

抜粋は以上ですが、他にも桑原の地名がある何カ所かに秦氏が関係しています。あをさんが今回書かれた場所や人物が、なぜか私の行った場所や人物と関係してくるのが不思議ですね。

余談はさて置き、服部六郎時定関係で次に書き込もうと思っているのが彼の実像・人物像についてです。実はこれが最大の難関。時定は「平家物語」によると平家の貴人(多分平維盛)に仕えている。一方「伊乱記」では時定は頼朝の従士。台上寺の解説板は伊賀服部氏の検討のためほぼ真っ先にネットで見たのですが、全体の内容が曖昧です。けれども、具体的な内容と共に頼朝に1180年から従ったなどとありました。既に書いたように時定は頼朝の指示で北条時定の指揮のもと源義広と源有綱を討っています。

ダメ押しが「伊勢国無足人由緒書」の、時定は二君に仕えるのを恥じて山林に云々の記事。「時定が対立する源平のそれぞれのトップに仕える」なんて本当に凄すぎる話ではありますが、どう理解したらいいのか。この難問に筋の通った結論を出せるのかわからず、時間がかかりそうだと書いた次第です。時定は忍者の元祖で分身の術が使えたとか、実は双子の兄弟だったので手分けできたとか、漫画のようなことを考えましたが、それこそ漫画。

幸い悩みながらも何とか7割程度は筋が通りそうになってきましたので、明日中には書き込めそうです。しばしお待ちのほど。


[8] 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月11日 22時44分14秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございます。
桑原さんの件
背筋ゾクゾクです。


>麻績

伊勢の服部氏が麻績に行って神官になり諏訪に仕え姫を生み
信玄に滅ぼされ
諏訪の娘が信玄の側室になり
勝頼を生んだハナシ



     確か藤原姓だった記憶


時定の件
ありがとうございます。


>7割程度は筋が通りそうになってきました

楽しみにしております。
嬉しいなぁ〜


[9] 酔石亭主さんからのコメント(2024年05月12日 14時18分25秒 ) パスワード

あをさん

>服部六郎時定の先祖と北条時政の先祖は  伊勢平氏庶流で繋がってたのかも。

から続けます。一応服部六郎時定の先祖は不明と暫定的な結論を出しましたので、次に北条時政を見ていきます。伊勢平氏の祖は一般的には維衡とされているようですが、貞盛を祖と見ることにして、家長まで続けると以下のようになります。

貞盛(伊勢平氏の祖 生誕年910年代頃〜没年970年代から80年代頃)−維衡(伊勢に地盤を築。く生没年不明)−正度(生没年不詳、没1067年?)−正衡(所領は伊賀、生没年不詳)−正盛(没1121年)−忠正(伊賀所領は没収。没1156年)−家長(服部平内左衛門尉、没1185年、生き延びた説あり)

一方北条時政は以下のようになります。生没年等は省きます。

貞盛−維将−維時−直方(北条氏の祖)−維方−時方−時家−時兼−時政

北条氏は貞盛を伊勢平氏の祖と設定すれば伊勢平氏系となりますが、維衡が伊勢平氏の祖なら伊勢平氏系にはなりません。ですから、平直方流とでもしておけばいいと思います。と思っても、直方から時政までの系図でさえ異なるものが何点かあって混乱しており、実際はどうなのかよくわからず、直方から続く北条系図自体が仮冒の可能性もあります。こうした状況ですから、先祖不明の服部六郎時定と北条時政の先祖は全く繋がらない可能性が非常に高いと思われます。

私は系図読みが嫌で苦手なのは、正しいかどうかわからない点や、平氏や源氏など幾つもの系統に広がっていくので手に負えないと思ってしまうからです。なので、系図を血の繋がり(血脈)として見るのではなく、一族や家、或いは生業・事業の継承として見るようにしています。継承ですから親戚や赤の他人から引っ張ってきても構わない…。

系図問題はここで一旦打ち切り、時定の人物像をあれこれ探ってみます。(注:話の流れがあるので、レス「7」で書いた部分をそのまま使います)実はこれが最大の難関。考えてもみてください。時定は「平家物語」によると平家の貴人(多分平維盛)に仕えている。一方「伊乱記」では頼朝の従士。台上寺の解説板は伊賀服部氏の検討ではほぼ真っ先に見たのですが、全体の内容が曖昧です。けれども、具体的な内容と共に頼朝に1180年から従ったなどとあります。ダメ押しが「伊勢国無足人由緒書」の時定は二君に仕えるのを恥じて山林に潜居云々の記事。対立する源平のどちらにも仕えるなんて凄い話ですがどう理解したらいいのか。この結論を出すのに時間がかかると思った訳です。時定は忍者の元祖で分身の術が使えたとか、実は双子の兄弟だったので手分けできたとか、漫画のようなことを考えましたが、それこそ漫画です。

と言うことで、既存の史料は限られるので不十分ではありますが、解明できた部分を具体的に書きつつ詳しく見ていきます。

時定は岩波書店の「平家物語」で見ると、

服部平六、平家の祗候人たりしかば、没官せられたりける服部返し給はッてンげり

となっています。祗候人は主君のそば近く仕える家来。没官は罪科を犯した者の身がらや家族・土地・財産・職務などを官に没収すること。服部は伊賀国阿拝郡の郷名と注記あります。では、服部時定は平家の誰の家来になっていたのか。

平家と書く以上、本筋の人物となるはずで、年代から考えるとイケメン貴公子の平維盛(生没年1159年〜1184年)が最有力候補になります。彼は桓武平氏維衡流つまり伊勢平氏の系統なので、例えば家長とも交流があったかもしれません。武人の時定は家長の推挙で維盛の警護役になり、常におそばに控えていたと設定しておきましょう。

「伊勢国無足人由緒書」には服部時定に関して「二君」に仕えるのを恥じて山林に潜居し云々とありましたが、二君の片方は頼朝(と北条時定)ですから、平家側で見合う「君」とはやはり維盛かなと思ってしまいます。ただ、対立激化の二君に同時並行的に仕えるなど不可能なので、どこかの時点で時定は平家から源氏に鞍替えしたと判定するしかありません。その時点を探ることから始めてみます。

1179年7月、清盛の後継者と目されていた父・重盛が病死し維盛の立場に暗雲が垂れ始めます。維盛の生誕は1159年ですから弱冠二十歳。まだ時定は維盛を見捨てるなどできないはず。

ところがです。「伊水温故」には、頼朝卿ノ従士、服部六郎時定、当郷ノ産出、源氏服部ノ元祖也とあり、最初から頼朝の従士だったようにも受け止められそうな書き方となっています。あをさんが引用した台上寺の解説板にも、「又、平六時定は治承4年(1180)8月20日に源頼朝が伊豆から相模に向った時に従った一人(吾妻鏡)とされ、」と書かれていましたね。

さて困りました。維盛は1180年の5月26日に以仁王の挙兵を鎮圧する大将軍として宇治に派遣され、乱は鎮圧されているのです。その僅か三か月後に時定が頼朝の挙兵に従っているのは理解に苦しみますし、そもそも維盛は1180年9月5日に源頼朝など源氏の挙兵の追討軍総大将となっており、完全に矛盾する状況です。では時定は1180年頃どちらに従っているのが事実なのか…。

ここではっと気が付いたのが台上寺の解説板。「平六時定」と書かれている部分です。これって北条時定のようにも読めませんか。問題解決のため原文で見てみます。

治承四年(1180)八月小廿日庚子。三浦介義明一族已下。兼日雖有進奉輩。于今遲參。是或隔海路兮凌風波。或僻遠路兮泥艱難B之故也。仍武衛先相率伊豆相摸兩國御家人許。出伊豆國。令赴于相摸國土肥郷給也。扈從輩。
北條四郎      子息三郎      同四郎       平六時定

北条四郎つまり北条時政 次に子息の三郎と四郎、「その次は時政の甥か従弟か弟の北条時定だった」としたらぴったり合ってきます。人名が順に並べて書いてあるのだから間違いはないでしょう。いやもう、本当に厄介極まりない。私も危うく騙されそうになり、「伊水温故」や台上寺の解説板筆者など完全に騙されたことになる…。正しくあをさんや皆さんが悩んだ「時定」と「時定」問題ですね。このような視点を持ったうえでもう一度台上寺の解説を見ると面白いですよ。是非試してください。

服部時定は1184年に頼朝の命により北条時定の指揮の元源義広を討ち、1186年には源有綱を討ち褒賞とし伊賀服部郷を取り戻しており、一連の流れは具体性、整合性があるのでより騙されやすいことになります。「時定」と「時定」問題は結局「平家物語」が実行部隊の服部時定で書き、「吾妻鏡」は指揮を執った北条時定で書いたことになりそうです。まあ、それも当然の話でしょうけど…。

服部時定が北条時定から名前を丸ごともらわなかったら、こんな誤解はなかったはず。本当に余計なことをしてくれたものですね。ちなみに各史料に出てくる服部時定の名前は、北条時定より頂いた時点から少し遡らせて書かれたものではと推測しています。

以上から、服部時定は1180年以降のある時点まで(多分)平維盛のおそばに仕え、どこかの時点で源氏方に鞍替えしたと確認できることになります。その時点は遅くとも1184年かそれ以前になるはずです。もちろんそれを示す或いは示唆するような記録はないので、ここからは脳内イメージで書いていきます。つまり創作です。

屈強の武人である時定は既に書いたように、平家長に推挙してもらい平維盛の警護役として常におそばに仕えていた。武人の時定はイケメン貴公子・維盛の自分にはない姿にまぶしさを感じていた。つまり情があった。

そうした中、1180年の9月5日、源頼朝ら源氏の挙兵に際して維盛は東国追討軍の総大将となりますが、最終的には総崩れとなって敗走。11月、維盛はわずか10騎程度の兵で命からがら京へ逃げ帰ったとのこと。時定も従軍していたとして、彼に従う郎党も犠牲になったはず。多分この時点で時定の中に疑念が生じたのでしょう。平家にあらずんば人にあらずと時忠が豪語した平家の世も終焉を迎えそうだと…。

さてそこで、Wikiの記述をお借りしますが、寿永2年(1183年)4月、維盛を総大将として木曾義仲追討軍が逐次出発し、「平氏の総力を結集」した総勢10万(4万とも)の軍勢が北陸に向かいます。だが5月には倶利伽羅峠の戦い、6月には篠原の戦いで義仲軍に大敗。となりました。その翌年の1184年には時定は頼朝の命により源義広を討っています。

このように見ていくと、時定は木曾義仲追討には出陣しなかった。時定にとってこれ以上一族・郎党や仲間たちを犠牲にすることはできなかったのです。彼は泣く泣く維盛を見限ったのでしょう。一方の頼朝陣営。

頼朝:おや木曾義仲と平家との戦いに服部時定(既に書いたようにこの時点での彼の名前は不明)は出陣しなかったな。
北条定時:そのようでありますな。
頼朝:ほう面白い。伊賀は都に近いし伊賀人は情報収集にたけている。平家の残党や俺に対立する輩が伊賀方面に逃げ込んだら戦闘力も強いあいつを使おう。すぐにわが陣営に引き込み大いに働いてもらえるよう手配せよ。
北条時定:かしこまりました。

なんてやり取りがあったかどうかは不明ですが、結果十分な働きがあったので伊賀服部郷を取り戻し、北条時定から名前も丸ごと頂戴することになった。ただ、我が身と一族郎党の安全のためとは言え、若き維盛を支える立場から裏切る結果になった自分を許しがたく思ったのでしょう。このように考えると、二君に仕えるのを恥じて山林に潜居云々の記述にも沿い得る形となってきます。

時定にはもう一人お詫びすべき人物がいます。そう、家長ですね。時定は自分の子か孫の保俊(嫡子か嫡孫)を家長(或いは子の家清)の養子に出しました。これは実質的に服部郷を家長に譲り渡したことを意味します。彼は家長へのお詫びと同時に、その恩に報いたとも言えそうです。また源頼朝から褒賞を得た服部時定ですから、家長が服部の名前を使えば残党狩りから逃れやすくなる可能性もあります。

時定の実像・人物像に関する検討は以上です。前半部分は解明となりましたが、後半部分は創作(想像)なので不十分ではあるものの、1184年段階においては完全に頼朝の源氏方として行動しているので、まあよしとして下さい。

この先の展開は家長の検討結果と時定・家長の関係性次第となります。今のところ家長に関しては白紙状態に近いので、家長に関してあをさんが把握している情報をその根拠も含めてお教えいただければと思います。例えば、家長は壇ノ浦の戦いで亡くなったとされるが、実は生き延びて平家の残党狩りを恐れ、花垣村予野の千賀地谷に逃げ込んだとの説はどの史料或いは地元伝承などに書かれているのか知りたいものです。

またWikiで服部氏の系図を見ると、服部家長−千賀地家清−保俊となっていて、保俊は服部時定の子・服部時保の子?。と書かれていました。系図をどう判断するか難しいですが、保俊が時定の子か孫で、そこから家長自身あるいはその子の養子に入ったと見ることになります。これに関して根拠となる史料や系図があるならお知らせください。それ以外にもご存じの情報があれば何なりとお教えください。

(注:いつになるか不明ですが、この書き込みは将来ブログに書く原案的なものなので、やや私のブログ調になっている点ご了承願います)


[10] 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月13日 11時33分03秒 ) パスワード

酔石亭主さん

ありがとうございました。
興味深く読ませて頂きました。


31年間の謎と16年間の謎が2つ
なるほどな
です。


「平家物語」ってかなりヒトの手が入っていて  ホントのトコはどこ?   です。


知盛さまが乳兄弟の家長と手に手をとって入水したハナシ

    知盛さまは享年34あたり。
    家長は70歳近く。

         知盛さまが乳兄弟と手に手をとって入水したなら
         その相手は   家長の子か孫でしょう


家長は乳母の夫だったと思います。
36歳ほどの差なら   乳母の夫の年齢あたり  ですから。


家長は知盛さまの   家令とか侍大将とかの立ち位置  と思っています。


壇の浦から命からがら伊賀に戻って荒木じゃなくて千賀地に棲んだというのも
荒木には住めなくなってたから
と思っています。



現在引き出しを2つ整理したところ。

とてもじゃないけど   ゴビ砂漠に落としたピアスの片耳を捜すような感じです。

何十年間分ですからね。

オットと行った鍵屋の辻(のあたり)

   荒木の前は菊山を名乗ってたとかで
   荒木生まれで服部家に養子に行ったとか

私達  現代人は  戸籍に縛られているけど  
ムカシの人は   家号がコロコロ変わっても  フツーだったんだろうな、と。

 
家長の伊賀の本宅は荒木だよ
これもいつ知ったのか      記憶にございません     です。


三つ柏さんにワタシの纏めたものを送ろうと思って  書き込んでた  ので  何年前?


「送ろう」と思って  本当に送ったんだっけ?  とソコさえ記憶にございません   です。

          6年ほど前なのにね。


酔石亭主さんに「おっぱい石」のところでメールしましたが
こうして書いていますから  無視してください。
お騒がせいたしました。ぺこり 


あ゛〜
ハッズ   

[12] 酔石亭主さんからのコメント(2024年05月13日 19時12分19秒 ) パスワード

あをさん

>壇の浦から命からがら伊賀に戻って荒木じゃなくて千賀地に棲んだというのも荒木には住めなくなってたからと思っています。

いや、千賀地だって伊賀ですから落ち武者狩りの最も危険な時期に伊勢平氏の拠点でもある伊賀に戻るなんて常識的には考えられません。平家の落ち武者伝説のある地域はもっと人跡未踏に近いような場所のはずです。例えば、香美町香住区余部の平内神社が鎮座する御崎地区には家長も関連する以下のような伝承があります。

当地、御崎は余部から険しい山道づたいに約4キロ、日本海に突き出た岬の突端にある平家集落である。
かつては、食物や飲用水にもこと欠くような、文字通り陸の孤島であった。
平家伝説の地は、ほとんど全国にまたがって各地に分布している。 但馬地方にも古くから平家の里と言い伝えられて来たところが数多くあるが、とりわけ「御崎の平家伝説」は有名である。
「平家物語」の中ではすでに死んだことになっている人たちの生存説が極めて多い。
壇ノ浦の合戦(寿永4年、1185年3月)に敗れた平家の武将達は、海路隠岐・対馬へ逃れようと壇ノ浦から漕ぎ進めたが、日本海に出てから強いシケに遭い、因幡と但馬の海岸へ押し流されてしまった。
この御崎には、平家の一門の内、門脇宰相教盛を大将とし、幼帝安徳天皇の衛士の大将 伊賀平内左衛門家長、その子光長、矢引六郎右衛門、小宰相局など一行7人が命からがら漂着したのは、寿永4年4月5日のことであった。
一行が御崎のある伊笹岬の沖にさしかかると一条の煙が見え船戸に漕ぎ付け、それを頼りに崖をよじ登って行くと、小さな庵に高野聖の森本浄実坊という修験者がいて、一行は小麦の蒸し物をクズの葉にのせて施され、飢えをしのいだ。
それが、今日に続く「小麦祭り」(日吉神社)の起源である。浄実坊の勧めに従って土着し、平家再興を計るため先ず「一の谷」奥に門脇宰相が居を構え、2キロほど東西へ隔て、東の方に伊賀平内左衛門、西の方に矢引六郎右衛門が居を構え、追っ手に備えたと伝えられている。
毎年1月28日に氏神の平内神社の境内で行われる「百手:ももて:の儀式」は、平家再興の願いを込め、源氏に見立てた的に101本の矢を射る新年の武芸始めの儀式として、代々受け継がれてきた伝統行事である。
集落の入口に俊龍大和尚の碑がある。和尚は、諸寄の龍満寺で得度したこの地出身の高名な禅僧で、時の大老井伊直弼に師と仰がれ、万延6年3月、桜田門外の変で暗殺された大老の葬儀では、導師を勤めた人である。

まあ、あくまで伝説・伝承ですから信憑性のほどは何とも言えませんが、記載内容には具体性があり千賀地より可能性は高そうです。仮に家長が壇ノ浦で死去した或いは御崎地区に逃れたとしたら、彼は平家長(伊賀平内左衛門家長)のまま亡くなったか逃げたので、服部姓にはならないと思われます。千賀地谷に逃げた場合、千賀地家長になるのでこちらも服部姓にはならないのでは…。

そうなると、今までの検討から真の伊賀服部氏の祖は服部時定のように思われ、一方「平家物語」によると服部氏は桓武平氏忠正流とされることから、時定の父は平忠正…?

>荒木の前は菊山を名乗ってたとかで   荒木生まれで服部家に養子に行ったとか

びっくりです。出身地からしてこの菊山さん(或いはその親族)の子孫の可能性のある方と何度も話をしたことがあります。あをさんを知らなかったら、知らないままで終わったでしょうから、一体何のご縁なのか…。ただ、荒木生まれで服部家に養子に行ったのは、ちょっと??

>酔石亭主さんに「おっぱい石」のところでメールしましたが

どうして大昔の品位に欠けるゴミ記事なんかに行かれたのですか。でもご安心を。旧ブログは既にクローズされていて、2020年以降のコメントはなぜか、管理者の承認待ちです となっているので私も見られません。

[13] 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月13日 22時39分09秒 ) パスワード

酔石亭主さん

>2020年以降のコメントはなぜか、管理者の承認待ちです となっているので私も見られません。

あ〜
良かった。

アタフタと1人で大騒ぎしておりました。

そして大騒ぎのスグ後に  無事解決して  お詫びメールを出そうかと思ったものの  
ところが「おっぱい石」には行けなくて   ヤだな  どぉ〜しよぉ〜   と思っておりました。

行けなくて  ラッキー!


>毎年1月28日に氏神の平内神社の境内で行われる「百手:ももて:の儀式」は、平家再興の願いを込め、
>源氏に見立てた的に101本の矢を射る新年の武芸始めの儀式として、代々受け継がれてきた伝統行事である。


「平内」=弓の達人
にあやかって、ということで
信憑性の高い儀式ですね。



実は大学生の時に  もうチョット書いたら特定が可能になってしまうのですが

ある弓の達人がわたしの大学に来てウチの大学の弓道部の某㊛=わたしの中学からのクラスメート=にコッソリ会いに来たのですが
       彼女はそんな事、全く知らないわけで
わたしがその場にタマタマ居合わせることになってしまい   そこから  彼がわたしに『ゾッコン』になってしまい

「父がXXから出て来ることになった」と言って来て「会って欲しい」ということで
わたしは冗談じゃないから断ったのですが


当時はわたしは未だ  家長=弓の達人  とは知らなかったのでした。

     オットと結婚してから   家長が弓のコンペで優勝して六条院から車いっぱいの矢を拝領した  と知りました



上記の弓のオトコは   弓道にすぐれた女性を妻にするように  父親から言われていて  彼女に目を付けて  うちの大学に来たのでした。


ところがヒョンな事から私と遭遇して

彼女より私の方が  彼の御家には  父上が求める条件が揃ってた  というワケで   『ゾッコン』  になったのでした。


     しかし今は出会うべく「力」というものが存在するなら
     彼とワタシは出会うべく道筋にあったと思います

     そのヒトの出身地も  家の伝統も   まさに「家長」に直結ですから  私は父親さんの望みを叶える女性だったのでした


大学生になった時に  オトコ解禁で   こういう類の経験がいろいろありました。

このオトコの前のヒトは  すごい格式の家の人で  冗談じゃないレベルだったのですが

信長に攻められた一向一揆の時の協力者の家でした。

        わたしはオトコから寄って来られるのがイヤでたまらない系

        誰でもオーケー系だったら
        とっくに榊原温泉の畦道のオトコだ  (ごめん)


やっぱり家長は平家方には特別な存在  弓の人にとっても現代に至るも特別な存在なのか   とシミジミです。



>出身地からしてこの菊山さん(或いはその親族)の子孫の可能性のある方と何度も話をしたことがあります。
>一体何のご縁なのか…。


菊山姓って珍しいですよね。

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%8F%8A%E5%B1%B1

現三重県北西部である伊賀が起源(ルーツ)である、服部氏子孫。
現岡山県南東部である備前、現大分県中南部である豊後に菊山村がみられる。

「山」は山の地形を表す。「菊」は岫(くき)のことで、洞や崖になった谷の意味。



>ただ、荒木生まれで服部家に養子に行ったのは、ちょっと??

これは荒木又右エ門を調べたら分かることかも、ですね

やはり「服部」系ということで?



時定の家って
誰に仕えてたのでしょうね?

正盛さま以来のどこかでしょうね

     忠盛さま  忠正さま  清盛  重盛  維盛

     家長    宗清   ちょっと外れて  頼盛さま  

可能性が広がるばかりです。
[38]相良四郎さんからのコメント(2024年05月15日 11時19分37秒 ) パスワード


では半蔵について纏め直す最終段階に入ろうと思います。
[39]相良四郎さんからのコメント(2024年05月19日 12時29分12秒 ) パスワード


まだ維景について調査は続けます。
(平田の話を纏められておりませんのでお待ちください)

基本は半蔵正成ということで見ておりますが
磯城郡ということでしたので少し拘泥をなくしていこうかと思います。
[40]相良四郎さんからのコメント(2024年05月19日 22時51分50秒 ) パスワード


遅い昼寝をしておりました。

北越雪譜の件了解です。
[41]相良四郎さんからのコメント(2024年05月21日 20時59分21秒 ) パスワード


私として強調しておった部分(の裏)に
意外か松下常慶が出てくるともあるようでした。

一度だけとは参りませんのでメモの間違い 不足を補っておきます。
鳳来牛の話楽しませて頂きました。
[42]相良四郎さんからのコメント(2024年05月24日 01時27分02秒 ) パスワード


深川屋さんの読み 製糖さんも見させて頂きました。
これから半蔵達とどう重なるのか確認してまいります。
[43]相良四郎さんからのコメント(2024年05月26日 23時51分05秒 ) パスワード


賢甫宗俊禅師のこと見ています。
[44]相良四郎さんからのコメント(2024年06月24日 16時04分33秒 ) パスワード


山木氏 念頭にあり続けたとのことで一応最終確認です。
[45]相良四郎さんからのコメント(2024年06月24日 16時07分01秒 ) パスワード


大事ということで野増 再投稿

これは優先させてください。
野増ですが伊豆武田(信正)のお話を拝読させて頂きまして
大久保などの流れも見ておりましたので纏め上げようと思います。
[46]相良四郎さんからのコメント(2024年06月25日 19時44分45秒 ) パスワード


家清もしくは日置太郎家清 枝継ぎのあたり話を見させて頂いております。
[47]相良四郎さんからのコメント(2024年06月26日 06時41分02秒 ) パスワード


白嶺の件 続いているということで見ていきます。
[48]相良四郎さんからのコメント(2024年11月17日 21時41分11秒 ) パスワード

このスレッド
思い出させてもらってました
兎に角経験でなんとかしていきます。

また戻ります。
[49]相良四郎さんからのコメント(2024年11月18日 09時45分49秒 ) パスワード


変体漢文との表記は知りませんで
なおさら有松しぼりのくだりを意識することとなりました。
おいおい纏めていきます。
[50]相良四郎さんからのコメント(2024年11月18日 11時21分47秒 ) パスワード


とりあえず許しを頂いて来ます。
[51]相良四郎さんからのコメント(2024年11月18日 20時36分07秒 ) パスワード


予定にありませんでしたが
多賀城を西国と間違えていたことは言えずじまいでした。

何処かで書いたでしょうか。
消えない記憶です。
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