[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月20日 07時43分13秒 ) | パスワード |
A
紀元239年、魏の国の王が邪馬台国の女王・卑弥呼に、貢物の返礼として「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印を授けたという。
B
親魏倭王印(しんぎわおういん)とは、魏の皇帝・曹叡から邪馬台国の女王・卑弥呼に対して、西暦238年に与えられたとされる金印。
いろいろお説があるようですが
AとBは
『漢委奴国王』の金印のこと?
ときおさん!
Help!
[2] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年03月21日 19時30分55秒 ) | パスワード |
あをさん
親魏倭王は卑弥呼に与えられた(と推測される)封号。
漢委奴国王は卑弥呼(或いは奴国、伊都国)に下賜された(と推測される)金印に刻まれている文字。
NHKの番組は私も見ましたが、番組はご指摘のように謎の女王・卑弥呼の邪馬台国はどこにあった?と言う見方(卑弥呼と邪馬台国を安直に関連付ける見方)をしています。これ自体に大きな誤り・問題があり、視聴者を惑わす内容だと思いました。歴史に一家言あるあをさんでもNHKに引きずられ同様に書いてしまうのですから、一般の方はもうNHKの呪力にそのまま飲み込まれてしまうでしょうね。本当に困ったことです。
今さらあれこれ言っても後の祭りですが、倭国、女王国、邪馬台国、伊都国に関し魏志倭人伝に書かれた記事内容を踏まえつつ、各国の規模、人口構成、位置などをきちんと推論し分別すれば卑弥呼が邪馬台国に存在できるはずがないと理解され、誤解はなくなるはず。再度訂正版を放送してほしいものです。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月21日 22時17分48秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん!
ありがとうございます。
ぺこり
昨年から一段とアホ丸出しに理解が出来ない脳になっているので謎の連続でした。
「魏志倭人伝」通りに進むと 日本から離れた海の中に行ってしまう
という部分のみ納得してました。
あの番組はミスリードしますよね。
まるで「歴史的大発見!これで卑弥呼の謎が解けた!」と言ってるみたいで
え?
でした。
いろいろ突っ込みどころ満載でした。
気が付かない内に新しい大発見があったのか
時代のバスはとっくにワタシを置き去りにしてた
と内心 泣いてました。
ありがとうございました。
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月21日 22時24分36秒 ) | パスワード |
ときおさんからのメールのコピペ:
志賀島の金印「漢委奴国王」印と「親魏倭王」印 は別件です。
「親魏倭王」印の正体は全くの不明で行方知らずです。
「称号」だけで実態の無いものかもです。
*四カ国で「四国」と同じ名付けなら、九カ国で「九国」のはずです。「九州」と呼ばれて居ます。
大陸の中原を中心とした恐れ多くも皇帝の支配地域を「九州」と呼ばれ、都城が中心地です。
「九州」とは皇帝の国なのです。
日本の「九州」は日本の皇帝の国を表して、中心地の「都城」も存在する訳です。それが「大宰府」なのです。
西暦でも200年代から営まれた都で有ったことが判明しています。
*ぜひ視聴をお勧めします。すごい規模です。
復元の山頂の矢倉門は岡山の総社に在る「鬼ノ城南の門」です。「・・・城」は「・・・き」と読みます。
「水城・みずき」「大野城・おおのき」です。
(面白小話です)―中世の山城名を「城・じょう」で「常=城・じょう」を「つね」と呼び「つね(常)やま城」や鬼=城(き)で「鬼ノ城」=「城ノ城」に成ったりします。―
中にはハゲ山の事を(木が無い=鬼無し)に成ったりもします。
【消された九州王朝】大宰府は倭国の都だった!?【ゆっくり解説】
https://www.youtube.com/watch?v=Obg2uG6z4HI
18:09 / 23:00 太宰府は当時の東アジア最大の羅城だった!
https://www.z-shogei.co.jp/blog/20220830/ からの一部を抜粋が下の文です。
(12)西の「匈奴」に対して東の「委(倭)奴」
私たちは匈奴のことをふつう「キョウド」と言っていますが、本来、「匈奴」は「フンヌ」を同音の漢字で表記したものです。
匈奴は漢との抗争の末しだいに西へ追いやられ、その末裔たちは「フン族」として中世のヨーロッパに甚大な影響を及ぼしました。
ハンガリーですね by ワタシ
名称としては「フン族」とは言いますが
「フンヌ族」とは言わないことからも「ヌ」には「族」の意味があるのではないでしょうか。
57年の朝貢に際して何故「匈奴」にちなんで「委(倭)奴」と名付けたのかは漢廷が、何か匈奴との共通性を見いだして対比したものと思われます。
「委(倭)奴国」の名称は「委(倭)族の国」または「委(倭)人たちの国」という意味を持つと解釈するのが最も真相に近いように思われます。
ちなみに「委(倭)奴国」の名称は57年の朝貢以後使われたことがない
へぇ〜 by ワタシ
【親魏倭王印】は発見されて居なくて
一部抜粋 ―「親魏倭王と為し」と書かれているのみで、この金印に「親魏倭王」と刻印されていたかは不明。刻印も「親魏倭王」の可能性がある。―
https://www.2810w.com/fmmain0.html?no=2080
わかっていない事
【親魏倭王印はどこにある?】−もう一つの金印が発見されれば!!−
西暦238年、魏の曹叡(曹操の孫)は朝貢した倭王の卑弥呼に対し「親魏倭王」の称号を与え金印を授けます。
中国の史書では倭国が受けた金印はこの「親魏倭王」印と後漢の時代に送られた「漢委奴國王」印の二つだけになり、後者は江戸時代に現在の福岡県の志賀島で発見されています。
そしてもし前者の「親魏倭王」印が発見される事になれば、その地が幻の邪馬台国である可能性が非常に高くなるのです。
三国志の倭人の項ではこの「親魏倭王」印の事が次のとおり書かれています。
今以汝為親魏倭王假金印紫綬装封帯方太守假授汝
今、汝(卑弥呼)を以って「親魏倭王」と為し、金印紫綬を装封(包装封印)して帯方太守へ送り汝に与える
ここには「親魏倭王と為し」と書かれているのみで、この金印に「親魏倭王」と刻印されていたかは不明です。
ただ「親魏倭王」と任命されたからには刻印も「親魏倭王」であった可能性は低くはないと思われます。
もしもそうであったならば、
印の文字構成が「王朝名」+「民族名」+「部族や国名」という定石には例外があるとなるわけで、
刻印の文字には王朝、民族、部族、国名の他に形容詞や動詞が入る可能性が出てくるのです。
もし「親魏倭王」印が発見されることがあれば、邪馬台国の所在地ばかりではなく、「漢委奴國王」の読み方にも大きな影響を与えるのかもしれません。
しかし三国志「親魏倭王」印の記事には假(仮)と書かれており、一旦は帯方太守の劉夏の元に送られたのはまずは間違いなのでしょうが、
その後に邪馬台国まで無事に届けられたのかは、残念ながらそこには記載されていない様です。
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月21日 22時28分06秒 ) | パスワード |
ときおさん
ありがとうございました。
ここにコピペしたので他の方にも見て頂けます。
他の人もラッキー!
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月22日 10時42分15秒 ) | パスワード |
https://www.youtube.com/watch?v=ohh5I3OLU-Q
金印「漢委奴国王」に渦巻く疑惑
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