[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年01月25日 22時39分57秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
メモっておきます:
服部保長の長男 保俊の家
定紋
16桁矢筈車
向ひ蝶
矢車
16葉菊
正成の兄(次男)保正の家の定紋は
矢筈車
轡十文字
16葉菊
半蔵の家
つまり いわゆる 服部半蔵石見守正成の家
天正18年小田原の役で 黒地に白く五文字を染めたる四半を奉る。
いわゆる「伍」の字 の幟ですね
半蔵の子・正就の子つまり孫の
正幸と3男の正治の家
11歳の時、パパが戦死後 松山に至り松平隠岐守定行に養われ家臣となり
次男の正辰は松平越中守貞綱に養われて家臣に
定紋
8桁車の内 竪八(矢)筈二
竪矢筈に替えたってコトかな?
もう1人保長関係の家
八筈車
平蝶
矢車
16葉菊
石原慎太郎の家は 矢車 だって言ってましたね。
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年01月25日 22時45分49秒 ) | パスワード |
服部政信の家
矢筈車
今切に於いて死す
だから
あの近辺にお墓があるのかも
ですね。
子孫が
源氏車の内矢筈
16葉八重菊
上藤
別の家が
源氏車の内矢筈
揚羽蝶
16葉菊
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年01月26日 09時26分46秒 ) | パスワード |
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101537.html
「政信の墓所はありませんでした」
とお書きでしたね。
失礼を致しました。
[4] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年02月13日 22時46分39秒 ) | パスワード |
トヨタって元は湖西市(敷知郡山口村)の出身で
尾張の服部家のお蔭で
というのがありますよね。
今回は服部悦雄氏の件:
1943年中国生まれで27歳までいた。
あの時代
銃殺されたヒトの目隠し用の布を奪い合った時代を彼は過ごしたそうです。
わたしの知り合いの南京の女性は
あれは、あの時代の最大の娯楽で
面白かった
と言ってました。
https://bunshun.jp/articles/-/68825
(奥田硯さんのお言葉)
「章男くん程度の社員ならば、ごろごろいる」
トヨタを世界一にしたサラリーマン社長が抱いていた“創業家への感情”
文春オンライン
by 児玉 博氏「トヨタ 中国の怪物 豊田章男を社長にした男」 文芸春秋
なかなか面白い裏話です。
浜松は物作り王国ですから
将来を担う子供達には是非とも理系に進んで欲しいです。
さる女性学者ですが
彼女が学者になったそもそもは
幼稚園のお弁当箱の銀フォイルに土を入れ
道端で見つけた雑草を入れて水をやり
育て観察したことから
だそうです。
幼稚園生時代から…既に!
子供達を育てるって早い方が良いのかも
ですね。
三つ柏さんは県下最高の高校をご卒業ですから昔のクラスメートの皆さんと子供達を育てる将来を図って欲しいです。
学者さんなどもいらっしゃるでしょ?
[5] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2024年02月14日 20時59分16秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
4号店、ありがとうございます。ゆっくりコーヒーでも飲みながら、天才トラ
ンペッター=クリフォード・ブラウンの奏でる華麗なバラードを聴きたいと思い
ます。現在、自治会の相談役もやり、氏子総代長もやり、選考委員長もやりで、
歴史へのアプローチへの集中力がそがれてしまっております。また女房の健康状
況にも気を遣わなくてはいけないので、試練の連続であります。
人生とは、試練の連続、それをいかに乗り越えるか・・・そこが個人それぞれ
に課せられた命題なのかと思います。服部半蔵正成も試練の連続だったと思いま
す。半蔵がいかに試練を乗り越えたかに興味があります。近々、岡崎に行って、
半蔵の幼少時の気配を探ってきたいと思っています――
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年02月15日 13時55分33秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
人間関係の煩わしさは組織1つ分でも大変なのに
三つ柏さんは複数の責任者をなさってお忙し過ぎる毎日ですから
お好きなクリフォード・ブラウンのトランペットに耳を傾けてメンタルの調整をなさってください。
>人生とは、試練の連続、それをいかに乗り越えるか
はい
まさに!
「乗り越える気力が続くよう」に我が身に鞭打ってます。
泣
負けたらいけません。
>服部半蔵正成も試練の連続だったと思います。
>半蔵がいかに試練を乗り越えたかに興味があります。
>近々、岡崎に行って、半蔵の幼少時の気配を探ってきたいと思っています―
伊賀町や大樹寺あたり、昔の面影が残っていると良いですね。
八丁味噌をお土産にどうぞ。
[7] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年02月15日 14時52分58秒 ) | パスワード |
三つ柏さん あをさん
ご無沙汰しております。
岡崎に服部半蔵正成の幼い頃の俤はあまりなさそうですが、車なら伊賀八幡宮の駐車場に駐車しておき、明願寺(彼の生誕地のすぐ近くとされる)を訪問されたらと思います。ご住職に聞かれたらひょとするとより詳しい話が聞けるかも…。正成と関係はありませんが酒井氏に関係する井田八幡宮も近くに鎮座し井田城跡もあります。
面白いのは、正成が6歳から預けられたとされる大樹寺、明願寺、伊賀八幡宮、岡崎城がほぼ一直線で繋がれる点です。また伊賀八幡宮のすぐ南には伊賀川が流れ、そのまま岡崎城の西の濠のような形で乙川に合流しています。水運的には伊賀川−乙川−矢作川となるので、便利な場所になりますね。
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年02月15日 22時31分18秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
以下 方向音痴と時代音痴のワタクシらしいレス:
欠町には本多忠次の屋敷跡があるそうですね。
わたしは酒井忠次とこんがらがってましたが
https://www.city.okazaki.lg.jp/1100/1109/1162/p011774.html
昭和の洋館 旧本多忠次邸
岡崎市欠町足延40−1
旧本多忠次邸は、旧岡崎藩主本多家(本多忠勝系)の末裔にあたる本多忠次が、
昭和7年(1932年)、東京・世田谷に建てた住宅と壁泉の一部を移築し復原したもの。
建築系がお好きな人には面白いでしょうね。
三河にいた頃は幸田や深溝の方にも同僚の車でウロつきましたが
彼女達は歴史に興味は無く
ワタクシも分かって無くて
大久保彦左なんかの家の跡の前を通っても
へぇ〜
のあたりで、
彦左って、江戸にいたんじゃないの? とトンチンカンでした。
今 思うと 惜しいことをしました。
日本の歴史は「通字」との闘い。
今年の大河の「光る君へ」は藤原さんのオンパレードで 藤原一族総出 と言う感じで 誰が誰と血が濃いんだっけ? とワケ分からないです。
岡崎城の北あたりのエリアに徳川家臣団の関係者(子)らしき家が並んでいるようなので
うろついてみるのも面白いかもですね。
[9] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年02月16日 19時08分44秒 ) | パスワード |
あをさん
>岡崎城の北あたりのエリアに徳川家臣団の関係者(子)らしき家が並んでいるようなのでうろついてみるのも面白いかもですね。
関係者のお宅を発見できたとしてそれをブログや掲示板に載せるのはちょっと控えた方がよさそうにも思えるので、家康以前を岡崎城から北へ見ていくのが面白いのかも…。大雑把な感覚ですが、北へ行くほど松平氏の登場人物が過去にさかのぼっていくように感じられます。東名、国道1号線、248号線に囲まれた三角形の中を北上すれば頂点が岩津町で、松平氏三代の信光が山中の松平郷を出てようやく平野部にまで至った辺りとなります。
岡崎城の北ではなく西に少し行った辺りには新田白山神社が鎮座しており、楠の巨木があるので1年以上前に見に行ったのですが、後で由緒をチェックしたところ岡崎観光協会のホームページに以下のような内容が書かれていました。
「参河国聞書」によれば、永禄9年(1566)に、家康公が厄除開運祈願と祈祷のために、源氏である新田氏ゆかりの地「上野国新田」(現・群馬県新田郡)から勧請したと伝えられています。元は岡崎城内白山曲輪にあって、代々の城主の産土神として崇敬されていました。
正にこの年に家康は徳川に改姓し、従五位下三河守に叙任されています。清和源氏新田氏流世良田氏流松平氏の、事実かどうか疑問の多い系図がこの時点で成立したのでしょうね。しかも間髪を入れず新田郷から白山神社を勧請し岡崎城に鎮座させたとは、何とも用意周到な家康らしい手の打ち方と言うしかありません。
三角形の北側には似たような面白い話が幾つも転がっているのではと期待されます。豊田JCT周辺は既にあちこち見てきましたが、三角形の中は主要部分を見ただけなので、機会があれば俯瞰的かつ事細かに探索してみたいと思っている次第です。
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年02月16日 22時46分04秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
三つ柏さんの参考になる書き込みに感謝です。
岡崎に興味が無かった当時 彦左の書いてた 徳川家発祥の地の土地の貧しさ など 全然分かりませんでした。
今でもピンと来ていませんが
百姓をした経験が無いし
だけど岡崎やその周辺
今 思いますと (へぇ〜、あそこが?) などと「どうする家康」を見てた時 興味無かったので残念でした。
こんな場所から日本史に躍り出たのか
など 感慨深いです。
Too Late!
>三角形の北側には似たような面白い話が幾つも転がっているのではと
はい
同じく!
三河で知り合った人達
「場所」と「名字」で
え?あのドクター、あの武将の関係者?
え?あの経営者、あの武将の関係者?
それで 変人なのか
それで 超お金持ちなのか
とか
思い出します。
うちの親戚の本多さん
岡崎にいたから 本多忠次の関係者?忠勝の子孫の関係者?
正信関係者じゃないよね
半蔵さんの方だよね
だけど宗教的には 正信に近いか?
などと岡崎城近辺に今でも当時の16神将の子孫が住んでるから空想の翼が広がります。
勝手に翔んでろ
ですね
>岡崎城の北あたりのエリアに徳川家臣団の関係者<<子孫の>>家が並んでいる
>関係者のお宅を発見できたとしてそれをブログや掲示板に載せるのはちょっと控えた方がよさそう
昨年、テレビでバラされたお宅は迷惑してるでしょうね
上記に書いたドクターや経営者のコト
(だろうな)とは想像してたけど
まさか 今でも 続いている家だった というのは昨年の放送まで現実感は無かったです
歴史って 日本史って
自分には関係無いと思って授業を受けてたけど
「自分」のハナシだったのか
です。
もっとちゃんと受け留めれば良かったな〜
[11] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年02月17日 18時41分55秒 ) | パスワード |
あをさん
>三河にいた頃は幸田や深溝の方にも同僚の車でウロつきましたが彼女達は歴史に興味は無く
深溝なんて知らない人は愛知県内でも多いでしょうね。でも、ここには深溝松平家があり、現在もそうであるかは不明ですが、現当主はIMFに勤務されているとか。深溝に関して以下城関係のホームページより拝借。ご参考まで。
幸田町の最南端、三ヶ根山(さんがねさん)と遠望峰山(とぼねやま)に挟まれた交通の要衝に深溝の地がある。かつて、深溝は「ふこうぞ」と読んだという。JR三ヶ根駅から北方300m程にある丘陵が深溝城の跡地で、現在は住宅地、工場地となっており、平山城であったが構造は全く分からない。城跡には城址碑と説明板が建っているだけで、遺構として見るべきものはない。深溝城の南西方向に「札の辻」という地名があり、この地名が示すとおり、かつての高札場であった。他にも城跡周辺には「丸の内」、「騎兵野」といった深溝城に因む地名が存在する。札の辻からさらに先の向野(むかいの)には、旧平坂(へいさか)街道沿いに右手に源元公、左手に源照公と刻まれた2基の石碑がある。この源元公とは深溝松平氏の初代当主である忠定(たださだ)のことであり、忠定が建立した本光寺(ほんこうじ)は当初この地にあった。そして源照公とは2代当主の好景(よしかげ)のことであり、善明堤の戦い(西尾市吉良町)で戦死した際に、首を埋葬した首塚と伝えられている。また好景が戦死した下永良には胴塚(西尾市下永良町)が存在するという。あじさい寺として有名な曹洞宗瑞雲山本光寺(幸田町深溝内山)は、大永3年(1523年)松平忠定によって開基され、深溝松平氏累代の菩提寺である。本光寺の山門をくぐると、左手が初代忠定から5代忠利(ただとし)までと11代忠恕(ただひろ)が眠る西廟所、右手が6代忠房(ただふさ)から19代忠諒(ただあき)までが眠る東廟所、正面の梅林が本堂跡である。深溝城を本拠とした深溝松平氏は、吉田城(豊橋市)、刈谷城(刈谷市)、丹波福知山城(京都府福知山市)、肥前島原城(長崎県島原市)、下野宇都宮城(栃木県宇都宮市)、肥前島原城と移封していったが、当主が亡くなると必ず先祖発祥の地である深溝の本光寺に葬ることが家伝であった。亡くなった当主は御遺体船で蒲郡まで運び、行列を整えて本光寺に入った。本光寺の5代忠利の肖影堂の裏には、寛文12年(1672年)建立の願掛け亀がある。松平忠房が福知山藩主時代に作らせた亀趺碑(きふひ)で、これには深溝松平氏の発祥から6代忠房までの業績が漢文で刻まれおり、撰文は林羅山(らざん)の三男・林鵞峰(がほう)による。完成まで10年余の歳月を要したもので、この願掛け亀に刻まれた碑文を全部読むと、亀が動き出すと言い伝えられている。
ちょっとした場所にも色々歴史がありますね。知多半島も美浜辺りは平家の落人が逃げ隠れた場所とされており、旧ブログに以下のような記事を書いています。
源平合戦で敗れた平家の落人が隠れ住んだ里のようです。落ち武者7人の名字は、中村、片岡、千賀、榊原、奥村、森岡、森田とのことで、その子孫は今も受け継がれているとのこと。これは凄いですね。念のために、名前ランキングで検索してみました。地域性のありそうな名前と思われる千賀と榊原で見ていきます。千賀姓は全国で861人、そのうち愛知県は357人で41%を占めています。千賀姓は愛知県が圧倒的な名字だと理解されます。その中で、蒲郡市が57人、田原市が43人、美浜町は20人となっています。蒲郡市の人口は約86千人で、美浜町は7710人ですから人口比で考えれば美浜町が非常に多いと言えるでしょう。
榊原姓は全国で8932人、そのうち愛知県は4398人でこれも愛知県が全国の半数近くを占める状態となっています。その中で半田市が1345人、美浜町が149人となっています。半田市の人口は約12万人なので、人口比では美浜町が勝っています。この結果から吉祥寺の解説板にある平家の落ち武者伝承は一定の根拠があることになりそうです。
旧ブログの内容は以上です。美浜町は落ち武者伝承の地ではありますが、実は鎌倉幕府の直轄地でもありました。かつての荘園だった枳豆志(きづし)庄は、武豊町全域と常滑市南部、美浜町布土と知多半島南部に広がり、承久の乱の後鎌倉幕府の直轄領となったとされています。そんな場所のすぐ近くに落ち武者として隠れ住んでもすぐに発見されてしまうのではないか、などと思ってしまいました。
それはともかくとして、源平合戦の時代から落ち武者の子孫が代々住み続けてきたのですから、ずっと歴史の新しい16神将の子孫が岡崎にいても不思議ではないと言えそうですね。もっと古い例もあり、例えば富士山麓において応神天皇の子である大山皇子の子孫が太神宮の大宮司となり宮下姓を名乗り、宮下姓は山梨県全体で1108人。うち富士吉田市に810人、河口湖町に121人と飛び抜けています。宮下姓は山梨県全体で1108人。うち富士吉田市に810人、河口湖町に121人と飛び抜けています。と言うことは、ここでは古代から現代までが地続きになっている訳です。
現在のテーマとは関係ないことばかり書いてしまいました。つい色々連想が働いて話が飛んでしまうのはよくない癖ですが、今さら変えようがありませんのでご容赦のほど。いずれにしても、日本の歴史は深掘りすればするほど色々出てきますね。
[12] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年02月17日 18時48分42秒 ) | パスワード |
あをさん
すみません。宮下姓は山梨県全体で1108人。うち富士吉田市に810人、河口湖町に121人と飛び抜けています。を二度繰り返してしまいました。過去に書いたものを部分的にコピーして、それがなぜか二度になってしまったのかも。まあ単にボケているだけの話でしょうけど。
[14] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年02月17日 23時08分25秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
ありがとうございます。
深溝は 三河にいたワタシには ふこう「ぞ」 の方です。
NHKで ふこう「ず」 と発音されると 不愉快です、 なんで? と。
最近は NHKで 小牧の有楽ホテルとか有楽苑関係で 「ゆうらく」と発音してたのが不愉快でした。
名古屋人の私には 「うらく」じゃないの? でした。
信長 知らないの? 弟だよ! と。
ま、名鉄さんは織田家に遠慮して 「ゆうらく」 と発音することにしているのかもですね。
それでNHKも 織田有楽について 全く 名前の由来を紹介しなかったのでしょうね。
平坂も懐かしい!
I remember Heisaka!
です。
このrememberは「覚えてる」じゃなくて「懐かしいぃ〜!」のニュアンスの用法です。
>願掛け亀に刻まれた碑文を全部読むと、亀が動き出すと言い伝えられている。
知らなかったですぅ〜
千賀って
ジャニーズに「千賀」くんという解体の好きなお坊ちゃまがいますね。
愛知出身で。
貧しい家庭出身の子が多いとされるジャニーズだけど<母方父方ともに>なかなかの裕福な家庭出身のジャニーズだそうです。
もう1家について書きたいですが
ここで書くと 身バレで 血の雨が降りそうなので止めておきます。
なるほど!
そういう関係だったのか!
です。
まさか 平家繋がりだったとは。
書きたいのに書けないもどかしさ!
笑
もっと他の家の子で「うちは揚羽蝶紋だよ。昔 関係があったんだよ」と言ってる人がいました。
当然 をのこ ね。
知らないだけで 実は 実は 大昔の「刎頸の友」の子孫同士だったんですねぇ。
>つい色々連想が働いて話が飛んでしまう
>日本の歴史は深掘りすればするほど色々出てきますね。
いろいろ謎が解けました。
遠い目
本当にありがとうございました。
そうそう 三河の中根さんも 平家がらみだと どこかで読んだ記憶。
擦れ違うも他生の縁
どころか
実は わたし達は 日本の歴史を引き続き生きているのですねぇ。
[15] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年02月18日 07時04分48秒 ) | パスワード |
思い出した!
擦れ違うも他生の縁
「袖振り合う」どころの近さじゃなくて
ホントに 一瞬 擦れ違うだけでも 因縁がらみの人と出会ってたんだなとシミジミです。
日本ですねぇ〜
三河にいた時に 「松平さん」 という男性がいましたっけ。
どこの松平家か訊いておけば良かった。
18松平家のどこかなんでしょうけど
インチキ松平なら地元の人間が(戸籍の登録時の役人も含めて)許さないから
本物だろうと思います。
それも 岡崎の人ですから 当然 家康がらみの本物の松平さんでしょう。
明治になって名字を名乗るようになって 自称 松平 なんて名字にしたら 回りが許さない日本だったと思います。
それも岡崎なら特に。
徳川さんも結構いたりします。
ロス時代に仕事で知った徳川さんは まさに 18代目あたりの徳川さん って感じの好青年でした。
側室
いらないですかぁ?
と訊きたかったなぁ〜
パスポートでチェック済みの徳川さんでしたよ。
ハワイにも徳川さん、いますよ。
ロス時代には徳川家達の孫姫がいて ここの息子さんの親友が酒井さんとおっしゃって ランドセル並べて幼稚舎に通ってたよ というハナシから
フーン
で終わってましたが
後に え? 酒井って? でした。
too late!
松平と酒井の関係をコロッと忘れてました。
当時は。
この酒井さんの仕事場のご近所に榊原るみと鈴木潤一監督夫妻のマンションがありました。
義兄がこのマンションに住んでました
鈴木潤一監督夫妻はラスベガスで自損事故を起こしてドクターヘリで搬送されて1万ドルだか請求されて怒って日本に帰っちゃいました
東大出た人は怒りのポイントはそっちか
とカンシンしましたよ
フツー人のわたくしの場合は 自損事故をやらかした自分が恥ずかしい と思うのに、と
>応神天皇の子である大山皇子の子孫
夫のかかりつけの医者の1人が大山守皇子のご子孫でした。
親切なワタクシは英語で書いて教えて差し上げました。
笑
大阪大学医学部卒でした。
恥
失礼をば致しました
宮下文書のことは三つ柏さんから教えて頂きました。
徐福が日本へ行ったことは中国人も知ってました。
わたしが わたしの名字のフーブーは元は「秦」をパクったんだよ と言ったから
それで逆にビックリしました 徐福って 実在人物だったの?と。
江戸時代の260有余年
移動の自由が無かったということで
記憶が途切れてしまいましたね
お蔭で 犯罪者の遺伝子も途切れて 安全な時代になりましたが
だけど ひょんなことから 出会った瞬間に え? と不思議な感覚に陥ります。
好きだったり 嫌いだったり 何も感じ無かったり。
それで日本人は出身地を訊くのが好きなのかもですね。
出身地と名字で ピンと来るコトがあったり。
今は 明治以降 移動しまくって 本人さえ知らなかったりしますから残念です。
[16] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年02月18日 19時05分09秒 ) | パスワード |
あをさん
>旧本多忠次邸は、旧岡崎藩主本多家(本多忠勝系)の末裔にあたる本多忠次が、昭和7年(1932年)、東京・世田谷に建てた住宅と壁泉の一部を移築し復原したもの。
桑名の浄土寺に行ったとき、本多忠勝のお墓を本多忠承さんが昭和55年に修復したとの修復碑が建っていました。忠承さんは忠次さんの曾孫に当たるのかな。
>そうそう 三河の中根さんも 平家がらみだと どこかで読んだ記憶。擦れ違うも他生の縁どころか 実は わたし達は 日本の歴史を引き続き生きているのですねぇ。
これは一種のシンクロニシティなのか、昨日我が家に中根さんが来られましたよ。で、中根氏って遠い先祖までたどると服部氏と関係してきますよね。伊賀の服部氏は桓武平氏忠正流で忠正の長男・長盛の子孫が服部氏、七男・正持の子孫が中根氏になる…。あくまで両者の系譜が正しいとの前提においての話ですが、大先祖は一緒となります。
>松平と酒井の関係をコロッと忘れてました。当時は。
伝説的なようにも思えますが両者は先祖が同じになるので、酒井家累代の墓も大樹寺の境内にあったようです。現在はすぐ近くの回向院にあります。
服部半蔵正成に話を戻しますと、昔私が紀尾井町辺りにいた頃、清水谷公園などうんと近いので散歩がてら行っていました。ここは正成が信康の菩提を弔うため庵を建てた場所。また四ツ谷駅から新宿方面に少し歩けば西念寺。甲州街道の起点が半蔵門ですから、本当に身近な場所に正成の存在があった訳です。
残念なことに、当時は歴史に対する興味がそれほどなく、紀尾井町の地名由来や清水谷付近で大久保利通が暗殺されたことを知っていた程度でした。今ならもっと真剣に探索したでしょうが、過ぎ去った時代を取り戻すのはできないので仕方ないですね。
[17] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年02月18日 22時34分34秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
レス<15>を書いて良かった!
酔石亭主さんには アホか コイツ と思われるかなと思いました。
>残念なことに、当時は歴史に対する興味がそれほどなく
酔石亭主さんにもそんな過去がありましたか。
わたくしはオットと結婚してから
>一種のシンクロニシティなのか
まさに コレがあります。
昨夜もテレビを見てたら ここの参加者のXさんに 数日前にメールした件がまた起きたことで メールして寝たところでした。
中根さんの件も 実は実は というハナシがあって
それでレス<15>に ええい! 書いちゃえ! という感じでちょっと書いたのでした。
それで今朝起きて来たら <一種のシンクロニシティなのか> と酔石亭主さんがお書きでしたから 背筋がゾクゾクしました。
>過ぎ去った時代を取り戻すのはできないので仕方ないですね。
東京にしょっちゅう出掛けるのは年齢的物理的時間的金銭的に無理ですものね。
惜しいですね
>桑名の浄土寺に行ったとき、本多忠勝のお墓を本多忠承さんが昭和55年に修復したとの修復碑が建っていました。
>忠承さんは忠次さんの曾孫に当たるのかな。
桑名藩は
背筋がまたゾクゾクして来て
指が動かないです
ホンヤさんと高須藩は引っ張り合いがあって
ここの兄弟が会津・桑名・尾張の当主になりましたから(他には浜田とか一橋とか)
そうすると 三河のシンセキの本多家って 忠勝系なのかな? とまたまた翼を広げてしまいました
宗教繋がり的には 正信系 じゃないのか?と。
訊いておけば良かった。
当時はつつましやかなシュクジョやってたので過去にガツガツ土足で踏み込むような真似はしなかったのが残念です。
夏目さんとも引っ張り合いがありましたよ。
お前が書くな!
と血の雨が降りそう
ま、 仲良かったのは 宗教的にもそうだろうな と「どうする家康」で納得しました。
[18] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年02月19日 18時54分00秒 ) | パスワード |
あをさん
>お前が書くな! と血の雨が降りそう
長い歴史を持っていると色々な絡みが出てきて大変ですね。私の場合は、まあ多少はあるにしても、気になるようなレベルでもなく気が楽です。
今回はこれで退出しますが、面白い話などがあったら(最近はあまりないので困りもの)また寄らせていただきますのでよろしく。
[19] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年02月29日 22時42分09秒 ) | パスワード |
レス<4>の続きです
レス<4>記事
https://bunshun.jp/articles/-/68825
(奥田硯さんのお言葉)
「章男くん程度の社員ならば、ごろごろいる」
トヨタを世界一にしたサラリーマン社長が抱いていた“創業家への感情”
文春オンライン
by 児玉 博氏「トヨタ 中国の怪物 豊田章男を社長にした男」 文芸春秋
本日の記事:
https://gendai.media/articles/-/124846
2024.02.29
トヨタ・豊田章男を「社長にした男」の“知られざる正体”が明かされた…! その名も「中国の怪物」、いまはじめて語られる「豊田家が頭を下げた瞬間」と「創業一族を支えたウルトラC」
https://gendai.media/articles/-/124848
2024.02.29
豊田章男を社長に押し上げた「トヨタの怪物」、その“壮絶すぎる半生”を明かす…!「日本の小鬼」が生き抜いた「中国・死の時代」から「豊田家の通訳に抜擢」、そして「トヨタ役員を約束された男」が“トヨタを辞める日”に「捨てたもの」
[20] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月01日 01時56分26秒 ) | パスワード |
最近 いろいろ不思議な出来事が続いていました。
その1つを書きます:
知り合いが脳梗塞から ノーコワさん(脳が壊れた)になって 家族はいろいろ大変なのだけど
2週に1回 幻覚が起きて 家族は困惑している
と言って来たのです。
その直後に ある番組で 「見える」ハナシ をやってました。
以下わたくしが送ったメールのコピペ:
某学者達の話です:脳学者と生物学者の話。
「見える」件ですが
普通の人も シルビウス溝(シルビウス裂)に刺激を与えると「見える」人がいるそうです。
シルビウス溝は左の方が長いので
より敏感に「存在」を感じ
人によっては 何かが 乗っている = 霊 = と見えるし
それで 見える人は 霊が憑りついている と言うのだそうです。
これは脳表面にある大きな溝の1つで 前頭葉、頭頂葉、側頭葉を分け「外側溝」ともいう。
大脳の側面が深い切れ込みで側頭葉と前頭葉に分れるが,
この切れ込みはオランダのシルビウスが初めて記載したことから
シルビウス溝と呼ばれている。
[21] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月10日 13時27分03秒 ) | パスワード |
本日のNHKニュースで
珠洲市上戸町の断水が一部解消になって
理容店も通常営業できるようになり
この理容店主のお名前が 初鳥進也さんとおっしゃる方で
ニュースを聞いてた時に「はっとりしんやさん」と聞こえたので へぇ〜 と思っていたら 漢字が全く違ってて驚きました。
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%88%9D%E9%B3%A5
【名字】初鳥
【読み】はっとり,はつとり
【全国順位】 25,773位
【全国人数】 およそ140人
同名字は、茨城県、千葉県、埼玉県などにみられる。
初鳥さんの多い地域 TOP5
都道府県 人数
茨城県 およそ50人
千葉県 およそ30人
大阪府 およそ10人
東京都 およそ10人
石川県 およそ10人
市区町村 人数
茨城県かすみがうら市 およそ40人
千葉県千葉市若葉区 およそ10人
大阪府柏原市 およそ10人
東京都大田区 およそ10人
千葉県市川市 およそ10人
初鳥さんの比率が多い地域 TOP5
都道府県 比率
茨城県 0.00175%
石川県 0.00075%
千葉県 0.00045%
熊本県 0.00026%
三重県 0.00024%
市区町村
比率
茨城県かすみがうら市 0.102%
長野県上伊那郡中川村 0.077%
石川県珠洲市 0.03% ← ここ
大阪府柏原市 0.02%
茨城県潮来市 0.017%
[22] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年03月11日 08時02分48秒 ) | パスワード |
あをさん、三つ柏さん
全く初歩的な質問で笑われるかもしれないのですが、服部党の当主である服部友貞の先祖は伊賀の服部氏でいいのでしょうか?疑問の元になるのは太田氏の見解で、同氏は伊勢の服部氏に関して以下のように書いていました。
和名抄 奄芸郡に服部郷あり、八止利と註す。この地より起りしもあらん。永禄中、服部友定あり、長島砦を修し、ここによりて、北畠氏に属す。
この書き方だと、服部友定(友貞)は尾張の国人ですから、それが伊勢の服部氏の中に書かれている以上、太田氏は服部友貞を奄芸郡津市河芸町一帯にいた服部氏の子孫として認識していることになります。Wikiにも、本願寺配下の服部氏は、前述(伊賀の服部氏)の服部氏とは別系統で、伊勢国奄芸郡が発祥とされる。戦国時代の「服部党」当主の服部友貞が有名。と書かれ、服部党は奄芸郡の服部氏が源流になっているように見えます。
ちょっと混乱してしまいそうなので、整理して頂ければと…。
[24] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月12日 03時31分19秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
ばか丸出しの書き方をしてしまったので 書き直し。
恥ッズ!
>服部党の当主である服部友貞の先祖は<<<伊賀>>>の服部氏でいいのでしょうか?
服部党の当主である服部友貞の>>>14世紀の直接の先祖は伊勢の服部氏<<<でしょうか?
の方が適正なご質問になりますね。
平氏が伊勢伊賀に土地を貰って
子孫の家長は伊賀の小宮神社あたりのエリアを支配し
この家は地名の服部を屋号にしてアチコチに一族を送り込んだ。
11世紀の初めに 寛弘年間だったかな?に 東国から伊勢伊賀に土地を拝領して移動してきた平氏の子孫は
正盛さまの時代に力をつけ
忠盛さまの時代にはかなりの有力者に
その後
清盛 vs 忠正 の戦いがあって
忠正に仕えていた家来は忠正が処刑された後に清盛の家令であった家貞一族に組み込まれ
伊賀の家長の家の子になった一族は伊賀にもいたでしょうし伊勢にもいたでしょう
伊勢伊賀どころか忠盛さまの時代には既に名古屋の御器所にもいたし
九州にも家貞の家来がいたし
北陸にもいたし
その後
源平合戦で負けて各地から古巣の伊勢伊賀に戻ったのもいるし
平家にとって安心安全な伊勢の津あたりの服部氏は力を持ったままだったでしょうね
これがホンヤのご先祖
わたしも奄芸郡 特定すると 久居なんですが ここにいた気がします
何度も不思議な経験をしています
もっと特定すると 榊原温泉
この不思議な体験をすることになった原動力は
ずっと後に知ったことですが
その人は父方・母方ともに平家の一門で母方はまさに伊賀の服部氏でした
特定が超簡単なので書けないのが残念っ
○○の服部だよ
と書けば
日本人なら えっ と分かるレベル
太田先生はかなり整理なさった書き方だと思います。
伊勢伊賀(その他 御器所や 北陸や九州)に拡散した一族で
家長に関わる人達が
車に並び矢の家紋で集約されている
と思っています。
ま、立場で家紋も変化しますが
家長に関わる人達が 家長が弓のコンペで優勝して車いっぱいの矢を6条院から拝領したのを記念して この家紋を使用して来た と思っています。
三重県の秦氏の服部さんで今もお祀りをなさっているお家の家紋は
家長系の家紋とは全く違います
ちなみに
「服部氏が忠正の子孫」の件は
忠正に「仕えた」服部一族ということだと思っています。
「忠正に仕えた子孫」という部分が「忠正の子孫」に化けたと思っています。
しかし
忠正を父に母が服部氏の女たち という事もあり得るから 「忠正の血を引く忠正子孫の服部」もいると思っています。
伊賀の服部氏も
父が「服部」ならラッキーだけど
母が服部の「女」だったら名字が違うし
養子や猶子の服部氏もいるだろうし
名字と家紋が「服部」で「車に並び矢」だったら 分かり易くて ラッキー!
今じゃ 「服部」=「伊賀の服部」で 世界で大きな顔をしていられる(伊勢ですけどぉ〜 元は伊賀でもあるからねっ)
あ〜
やっぱりバカ書いちゃった
[25] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月12日 10時12分04秒 ) | パスワード |
上記をかなりボカして書いていたけれど
ほんと
ココって神がかってる
平熱
ほんとオカルトパワーがスゴイ。
榊原温泉
七栗の湯ですね
清少納言ゆかりの。
家貞が平家と九州の関係を安定させたことを思い出していました:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E8%B2%9E
平家貞
平安時代後期の武将。伊賀国を本拠とする伊勢平氏譜代の有力家人。
平忠盛・平清盛の二代に渡って仕え、「一ノ郎等」といわれた。
略歴
平忠盛の側近として知られ、公卿らが殿上人になった忠盛を闇討ちにする計画を立てた際、殿上の小庭に武装して控えて未然に防いだという逸話がある。
16歳の家長がボディガードとして父について行った話は
ワタシ的には忘れられない「家長」のデビューシーンです(赤面)
忠盛の信頼は厚く、平氏の本領である伊賀鞆田荘の沙汰人となり、東大寺などの勢力を排除して在地経営に携わった。忠盛が西国の海賊追討に赴くとこれに付き従い、海賊追捕の賞として兵衛尉から左衛門尉に昇進する。
忠盛の死後は清盛に仕え、保元の乱・平治の乱で活躍する。保元3年(1158年)清盛が大宰大弐となり九州へ進出すると、家貞も筑後守に補任され、薩摩の阿多忠景や肥前の日向通良の反乱を鎮圧するなど、平氏の九州での勢力拡大に大きな役割を果たした。
『平家物語』は一ノ谷の戦いで戦没したと記しているが、『玉葉』ではこれ以前に既に他界していた旨の記述がある。
86歳で没したとか
平家の主人 正盛さまから計6代 に仕えたから 平維盛の子=平高清を「6代さま」とお呼びした
鹿児島まで平家の力が及び
鹿児島関係の方から いろいろお話を読ませて頂いた
お1人は今ではかなりの地位におつきで 藤原貴族に繋がるので ココに書くことは憚られる。
で、今 録画していた番組を見ているのですが
その番組は鹿児島が舞台で
なんと その番組に出ている人物が 弟にそっくり!
見れば見るほど弟の表情にそっくり。
ウチって 伊賀の家貞の子孫 って言っていいの?
です。
笑
最初 西郷さんを彷彿とさせる人だな と思っていたけれど
アップになってから 弟にそっくりだな と。
九州の西郷氏も戦国時代や徳川時代に無縁じゃないしね
諫早の西郷家に服部右京(左?)亮がいたし 竜造寺に負けたけど
幕末の会津の家老の西郷さんは島津の西郷さんに容保公の命乞いをしているし
容保公はホンヤさんと引っ張り合いのある家の子だし
いろいろ 思い出して ここに書き込んでしまった。
やっぱり平熱には平家のパワーが来るわ・・・
[26] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年03月12日 19時30分52秒 ) | パスワード |
あをさん
詳細な解説ありがとうございました。11世紀の初めに東国から伊勢伊賀に土地を拝領して移動してきた平氏の子孫が各地に広がって服部友貞などに繋がっていったのですね。それでもなお、ちょっとした疑問が残ります。
>太田先生はかなり整理なさった書き方だと思います。
基本的な問題として平氏系の伊勢伊賀服部氏は機織りとは関係のない一族ですから、各地へ広がった先に服部郷や服部の里と言った地名など(検証はしていませんが)付けないと推察され、また服織神社を創建することもないと思われます。従って奄芸郡に服部郷があり、しかも服織神社まで鎮座している以上、服部友貞には繋がって来ないのではないでしょうか。
念のため奄芸郡服部郷の服織神社(津市河芸町久知野に鎮座)をチェックしたところ、解説板には、この神社は延喜式内社で、庵芸郡13座の1座である。服織りは機織りの義で、天照皇大神は農業養蚕機織りを奨励され、天の服織り女をして神衣を織らしめ給うたにより、祭神として奉祀したのであろう。となっていました。
この内容だと、やはり服部党には繋がってきそうにありません。また伊勢神宮に神衣を織って奉献したのは奄芸郡服部郷の服織神社ではなく松阪の神服織機殿神社の服織り女となることから、奄芸郡の服部郷は松阪の機織り集団に関係する場所と推察され、やはり平氏系の伊賀服部氏とは関係しないことになります。となるとあをさんの、
>わたしも奄芸郡 特定すると 久居なんですが ここにいた気がします
に関して、全くの想像ですが以下のような別の筋道は立ちませんか?
伊勢神宮に神衣を織って奉献していたのは松阪市の神服織機殿神社の服織り女。奄芸郡の服部郷に鎮座する服織神社は松阪の服部氏に関係する人々がいたから創建された。或いは、神服部氏が1155年以降初生衣神社にて織った神衣を奉献し始めたことから、仕事にあぶれた神服織機殿神社の服織り女の一部が奄芸郡に移住し、既にいた服織り女と共に機織りを始めたので服織神社が創建されたとも推測されます。
服部連の最も遠い祖神は天御桙命で、そこからずっと下って若多祁命が伊豆国造となり弥蘇足尼、麻羅足尼へと続きます。麻羅足尼は允恭の御代に服部連の祖となっています。大変面白いのですが、神服織機殿神社の近くには服部麻刀方(まとま)神社旧地がありこの人物は天御桙命の前世代の天足別命の別名で、もう一つの服部伊刀麻(いとま)神社旧地の 伊刀麻命は天御桙命の別名となっています。天御桙命は「天」が付く神様のような名前で、物部連との関係などから判断して新しい神名思われ、古い時代の服部氏の先祖の実体は伊刀麻命及び麻刀方命になりそうです。
1155年以降久居、河芸町と移動した松阪の機織り系服部氏は尾張に入り、中川区富田町一帯に居住したのでここが服部村となり、(御器所の服部より時代は古いと推定)神服織機殿神社のすぐ南は麻績郷(織殿神社、麻績神社、神麻続機殿神社など麻績氏系神社が鎮座)だったので服部氏(服織り女集団)と共に(或いは別行動で)移動した麻績氏の一族は稲沢市に入って麻績村となったと推測されます。
以上の観点から、あをさんの御先祖は伊勢松阪の機織り系の服部氏の可能性が浮上してきます。それでは系図と矛盾するとした場合、松阪から久居、河芸町へと移動した服織り女集団の一部がさらに北上する過程のどこかで伊賀の服部氏と合体、あをさんの御先祖になったとの設定は可能です。この場合、系図的には伊賀服部系だが古い機織り系服部氏の流れにも接続していた可能性があることに…。
要するに伊賀から広がった流れ以外に、松阪から北上した流れもあるはずで、その二筋の交点があったのかもしれない…、なんて想像したのですが…、いかがでしょうね。
以下は参考まで。
大和国の服部神社は天之御鉾神が祭神。西2kmばかりの所に、大安寺村字神来森(かきのもり)という土地があり、そこに同社が鎮座して波登里村(はとりむら)、阿刀村(あとむら)の氏神であった。とされます。阿刀村の阿刀は伊刀の転訛とも考えられます。そうであれば、松阪の服織り女が大和にも行ったことになりそうです。
鈴鹿市御薗町にも服織神社が鎮座。鈴鹿市郡山町の酒井神社には服織神社の旧跡があります。
あれこれ書きましたが、去年の秋から今年にかけて数回伊勢市方面を探索しており、次は松阪方面と思っていて事前に幾つか調べた中で色々な情報が出てきました。そこで不明確な部分をあをさんにお聞きし自分なりの推測も交えて整理したところ、正しいかどうかはさて置いて、上記のようになった次第です。
[27] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月12日 22時53分45秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
もうすぐジムに出掛けるので ちょっとだけ。
半蔵さんとこは「帰化人じゃないよ」と言ってます。
かなり捏造というか 先祖を美化していると思っています。
わたしが久居あたりにいたのは 源平合戦のすぐ前なので 1180年ちょっと後あたりの時代です。
三重の秦氏の服部さんから もっと 詳しく訊いておけば良かったのですが
彼女の親御さんの代で お祀りは 途絶えます。
彼女の代は皆さん 日本にはいないので。
>阿刀
実は昨日上記のレスをした時
見てた番組に
この 阿刀 という地名 名称 を見ました。
酔石亭主さんがお書きになったので 背筋 ゾクゾクです。
やっぱり平熱って平家のオカルトパワー すごい!
今からジムです。
4時解錠なので。
[28] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月13日 07時32分34秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
随分前に 地方の 小さな 神社の 織り物小屋をテレビで見ました。
それこそ 家内織り物 というか 家事仕事の一環で
母や妻や娘などが暇な時間に織る
という感じで
その建物は 納屋どころか OUTHOUSE 屋外便所 の規模の建物で
粗末な機1台置くのがギリギリ
隙間風が吹き抜ける感じで
板の隙間から光が入るレベルで
夜は当然 灯り無しだから 夜なべ仕事で織り物はしない できない って感じでした。
どの神社か書いたら三つ柏さんが怒りそう
(笑)
源頼政がらみで見た番組だった記憶
某陰陽師がドジってクビになったのを頼政が就職先に斡旋した神社
ということで 酔石亭主さんの脳内の機織部とか織部とかの規模とは 違うと思いますよ
本当に小規模
そして 社・大社・神社・神宮など 規模や地位に関係無く
神さまをお祀りする所には 機織りをする場所=小屋=が隣接してた
と思います。
ということで
どんな集落も 氏子がいて 氏神さまを祀るなら 織り物をする場所があって
そこが はたおり はとり と呼ばれた場所 と思っています。
漢字で書くと 機織 羽鳥 服織 羽取 服部 八止利 その他
時代が下って 行政が管理したり 氏子代表が有力者になって 社が立派になるに従って 酔石亭主さんの脳内にある 伊勢神宮を最高とする 立派な織物を作る機関に成長したのでしょうけど
日本中 人がいて 村が出来て 社があれば
ソコに織り物をする場所が出来て はっとり と場所名が成立したのでは?
と思います。
だから日本中に 服部 という地名があって当然と思っています。
そこに住む人間は織物業でなくても 服部と屋号で呼ばれ 後に 服部と称した
と思っています。
伊勢神宮の にぎたえ・あらたえ に脳が乗っ取られて
庶民レベルの氏神さまへのささやかなお供えが 帰化人がぁ〜 秦氏がぁ〜 レベルに巻き込まれてしまったのでは?
と思います。
わたしの明治生まれの祖母や継祖母も暇に明かして夜なべで(蚕から)糸を引いて最終的に織り物をしてました。
これは高度成長以前の日本の普通の庶民の家の光景でした。
こういう感覚が無いと 秦氏とか織部とかに 脳が乗っ取られるんじゃないか?と。
秦氏とか織部とか服部とか雄略天皇がとか允恭天皇がとか
そういうのは雲上のセカイのハナシだと思います。
勿論 秦氏の技術や伊勢神宮に納める神服織機殿神社の技術は 下々にも流れたと思います。
ま、バラしたら処刑なんてコトにもなって行ったと思います。
でもフツーに庶民にも「布」が衣類として使われるようになった頃には
技術を得るために服部へ行ったり習いに行ったりしてたんじゃないかな?
と思います。
それで ワタシ的には 「服部」 って日本中に存在した地名と思っています。
三重県の秦氏の服部さんにしてみれば
なんか うちの名字が 平安時代に乗っ取られたんですけどぉ!
その上、ニンジャ人気で 何時の間にやら 伊賀=服部 になっちゃって
と不快じゃないのかな?
彼女にもっと聞いておけば良かった。
秦氏の服部さん宅って 神服織機殿神社と麻続機殿神社に関係するの? とか。
すごい家のお嬢様 と思ってたけど
こうして書いていると
思ってたよりずっとスゴイ家の御令嬢だった?
そうそう上記に書いた わたしの前世の記憶を呼び覚ました友人は 父上がお伊勢さんの神職さんです。
彼も当然お伊勢さん関係です。
[29] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月13日 08時36分12秒 ) | パスワード |
半蔵さんのことを書こうとしてさち子さんから頂いた「服部一族」の書類の束を出して来ましたが
あまりの情報の多さに 15ページで 落伍。
それにも日本中に「服部」の地名があることが記されてました漢字はいろいろですが。
半蔵さんの家の記録
寛永時代や寛政時代に提出のたびに先祖崇拝の脚色が成されていったのでは?
と思います。
ほのはやひの命の末裔なりとか 誰?
允恭天皇の御宇に織部司に任じ諸国の織部を拾領し服部連を号すとか
この辺りは先祖を飾ってるんだろうと
家康の姪で養女と結婚したんだから「書いたもん勝ち」ということで誰も異論は挟めない
その子孫伊賀国阿拝郡服部の郷を領し今諸国に遊仕と記すとか
平氏にして葛原親皇の後胤伊賀平内左衛門が末孫なりとか
これも かなり アヤシイ?
伊賀の土着の人達からカルク見られてたとか聞くから
家長の末孫というのは先祖への箔付けだったんじゃないか?と。
でもムカシの力有る人は子供がたくさんいたから
本当に家長系だったかも、とも思える
>阿刀
空海の母上のご実家ですね。
[30] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年03月13日 19時18分24秒 ) | パスワード |
あをさん
>随分前に 地方の 小さな 神社の 織り物小屋をテレビで見ました。……
ということで 酔石亭主さんの脳内の機織部とか織部とかの規模とは 違うと思いますよ
私はこの神社を随分以前に訪問し、織物小屋も実見しましたし神服部宮司さんと1時間以上話し込みましたよ。その結果を踏まえ独自見解を交えて旧ブログに長々と書き、それをあをさんが目に留めて平熱で三つ柏さんにそのまま紹介し、議論されていたから私も知ることとなり平熱を初訪問し、現在に至る迄時々意見交換などさせていただいている次第です。ですから三つ柏さんも初生衣神社に関しては知っていて怒ったりしないはずです。でも、あをさんがもうお忘れだったらちょっと残念。某陰陽師がドジってなんて私が書いた内容を平たくしたものですよ。
この神社で700年以上も続いた神衣の奉献は明治になって廃絶し、戦後しばらくして復活。おんぞ祭として地域では盛大なお祭りになっているようです。ただ、現在神服織機殿神社では4人の女性が神衣を織っていますので、復活以降における初生衣神社の神衣奉献は小さな織物小屋で十分でしょう。加えて、古い時代の伊勢神宮の儀式においても参列する服織女は八人ですから、さほど大規模なものではありません。
私は初生衣神社、伊勢神宮、神服織機殿神社、神麻続機殿神社と俯瞰的に各史料・ネット情報なども参照しつつ全体を見るようにしていますので、脳内の規模の問題は関係ありませんよ。と言うか、機織り関係に限らずこうした儀式・神事は規模より神事それ自体とその意味や由来が重要なので、そうした視点で見ていくべきでしょう。伊勢神宮の神衣関係の詳細は「倭姫命世記」や(注:これは度会氏が書いたものとされ自分に都合の良い内容も書かれています)群書類従の「皇太神宮儀式帳」などを参照ください。
>どんな集落も 氏子がいて 氏神さまを祀るなら 織り物をする場所があって、……そこに住む人間は織物業でなくても 服部と屋号で呼ばれ 後に 服部と称したと思っています。
もちろん人間の基本は衣食住ですから、遠い昔から村々に織物に従事する人々がいたのは間違いありません。ただ、服部の名前自体は「服」織に従事する「部」民(厳密には品部)を「服部」とした訳で大和王権の制度的な要素が根本にあり自然発生的なものではないと思われます。部民制は6世紀以降に広がり品部は部民制以降の制度なので、服部は6世紀後半から7世紀初めの大化の改新以前に成立した名前となるはずです。
以前に行ったことのある服部連塚は允恭天皇の時代の5世紀中頃諸国の機織りを統率した服部連の墓とされますが、一帯の古墳は6世紀から7世紀にかけての築造とされているので、服部連の墓も同様と考えれば、上記の見方に整合してきます。
応神天皇の御代に大陸から呉織・漢織の2人の織り姫が渡来したとか、雄略天皇の時代に呉服(くれはとり)、漢服(あやはとり)が渡来したなどの伝承はありますが、実際にいつの時代と特定するのは困難です。ただ、大阪近辺の池田市、豊中市、高槻市などにそれらの伝承が多くあり、服部連塚も高槻市ですから強い関連性は窺えます。
時期は不明でも渡来人により高度な機織り技術が伝えられたのは事実ですから、大和王権はその技術を各地に普及させるため服部連を使ったと思われます。租庸調の租税制度は当時なかったでしょうが、各地から良質の絹や麻の織物を召し上げるため管理組織が必要だったので古代における機織りの中心地にいた人々=服部連がその役を担ったのでしょうね。
それと愛知県において服部や羽鳥の地名は非常に少なく、服織神社、服部神社もないに等しいものとなっています。名古屋市中川区の服部の地名は「尾張国地名考」によると、機織部によるものと、往昔伊勢国より移りたる因縁に出る地名なるべし、との説があり、松阪の神服織機殿神社の服織り女の一部が北上して尾張に入ったとする私の見方を裏付けているように思えます。
鳳来町大野には服部神社が鎮座していますが、これは同地の三河赤引きの糸を初生衣神社に送りそこで織った神衣を伊勢神宮に奉献するためにあるようなもので、初生衣神社との関連で存在しています。また豊川市の服織神社はハトリの地名の所に鎮座していたとのこと。
要するに、服部の地名はあをさんが思われるほどどこにでもあるものではなく、大化の改新以前の品部のひとつに数えられる各地の機織り職能民・服部(はとりべ)が朝廷に織物を納めていたことが、例外はあるものの基本的には服部の地名由来になっているのです。従って、村々の機織り職人がいる場所のどこにでも服部の地名がある訳でも、服織神社、服部神社がある訳でもないことになります。
>伊勢神宮の にぎたえ・あらたえ に脳が乗っ取られて庶民レベルの氏神さまへのささやかなお供えが 帰化人がぁ〜 秦氏がぁ〜 レベルに巻き込まれてしまったのでは?
>どんな集落も 氏子がいて 氏神さまを祀るなら 織り物をする場所があってそこが はたおり はとり と呼ばれた場所 と思っています。
それはおっしゃられる通りかもしれませんが、古代の機織りに関連する情報はあをさんの言う雲の上レベルの場所とか史料、伝承にほぼ限られ、それらの史料、神社の伝承などを拾い上げて再構成するしかないと言うのが現状で客観的な現実ですから、仕方ありません。これは脳内云々ではなく単なる方法論の問題ですよ。
あまり練っていない文章をあれこれ書きすぎてしまいました。最近はパソコン画面を見ているとすぐに目が疲れてくるので、つい書き流しになってしまい申し訳ありません。間違いがあるようならご訂正のほど…。
[31] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月13日 22時46分00秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
詳しいご紹介をありがとうございます。
またバカ書いてしまって赤面して消しました。
父の生母の家の自慢をタラタラ書いていたのです。
恥ッズ
父の生母の家は ひょっとすると 三重県出身の秦氏の服部さんに繋がる家だったのかな? です
酔石亭主さんのレスを拝見して いよいよ確信に近づきました。
敬礼!
>初生衣神社
NHKの番組で見た神社はココだったのか
すっかり忘れてしまっていました。
上記レスに書いた 今では地位があって 元は藤原貴族の出身で 今でも 藤原貴族の世界にいらっしゃる人のご実家も NHKで見ました。
アレやコレや たくさんの情報 そうか!<<酔石亭主さんから>>パクったのだったか!赤面
です。
酔石亭主さんには色々教えて頂いて本当に感謝しております。
これからもイロイロ教えてください。
[32] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年03月14日 07時53分52秒 ) | パスワード |
あをさん
えっ、消してしまったの?まだ書きたいことがあったのに…。ちょっと思い出して書きますね。
伊賀の服部さんの系統でうちは渡来人ではないと言っていた方がいたような内容を書かれたと思います。これは結構重要なポイントですよ。機織り系の服部氏は呉服(くれはとり)、漢服(あやはとり)などの名前からわかるように本来は(ハトリ)でその音に適当な表記を当てて八止利なんて書いていたのだと思います。だから服部連も表記は服部連ですが読みは(はとりのむらじ)になります。
さてそこで平氏系の子孫が伊賀の服部に行き、よくあることですが土地の名前を自分の屋号にしようと考えた。けれども、(ハトリ)は渡来系を示す音だったから武家の自分たちは使いたくなかった。あれこれ議論の末それじゃあ読みを(はっとり)すればいいじゃないかとなって、ここから服部(はっとり)が確定した。その後平氏系服部氏が広がったので、今や全国津々浦々服部は(はっとり)になってしまった。などと考えています。
僅かに残る機織り系は羽鳥の地名や羽鳥さんの名前として残ったのではないでしょうか。要するに武家は渡来系を卑賎な職能民として下に見ていたのです。そうした感覚は現代に至るまで残っていて他にも色々な例を挙げられそうです。
そう言えば、秦氏に関しても似たような例があります。神奈川の秦野は秦氏関係する地名となりますが、秦野に来た武士がここの地名を屋号にしようと思ったけれど、秦は渡来系の名前なので嫌がり、音はそのままにして表記を波多に変え波多野にしたとのこと。だから秦野から大磯にかけては今の波多野姓がいます。服部とは逆パターンですが心的な内容は全く同じですね。
>父の生母の家は ひょっとすると 三重県出身の秦氏の服部さんに繋がる家だったのかな?
少し厳密に書けば三重県出身の秦氏の服部(はとり)さんつまり神服部(かんはとり)系に繋がる家だったのかな、が適当かと。秦氏は羽鳥地名の場所によく見られるので、秦氏の服部さんは有り得るとは思いますが、三重県において繋がるかどうかは何とも言えません。またWikiによれば、
阿刀氏(あとうじ、安斗氏/安刀氏/安都氏/迹氏)は、「阿刀」を氏の名とする氏族。
物部氏と同祖伝承を有する神別(天神)の古代氏族で、「阿刀連」のち「阿刀宿禰」姓を称した。とのことで服部伊刀麻(いとま)神社の伊刀麻命には繋がらないようです。この部分は早とちりですみません。
[33] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月14日 22時47分24秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
背筋 ゾクゾク ですぅ〜
>神服部(かんはとり)系に繋がる家だったのかな
ふふふ
ちゃんとは聞いてないので 「はい」 とはワタクシからは言えないです。
でも 核心には近づいています。
昔は遠慮しいというか 分を弁えるというか (ははは) 今でもヒトにズバッとは訊けないです。
訊いても(誰がアンタなんかに)とホントの所は教えて貰えないでしょうし
だから 今でも ズバッとはヒトに訊けないです。
礼節がジャマするワタシ(きゃはは)
>阿刀氏
>物部氏
母方の先祖で 空海の家と繋がるとか それから 空海伝説とか 読んだことがあります。
空海の家は父方より母方の方が身分が高かった とか。
箔づけだね
と思っているのですが
母方が「うちは源氏」と言うので(うっそぉ〜)と思ってましたが
頼義との縁とか義経が弟の烏帽子親になったハナシから気分は源氏でしょと思ってたら
最近 ほんの数年前 後鳥羽源氏 というのを知って ヲ! ホンヤさんの後醍醐源氏と同じことか と納得。
息子達が西面の武士になってたことや娘が後鳥羽上皇に愛されてたことから
だったのかと納得。
女紋はこの時のことを記念しています。
わたしも喪服をこの女紋で作りました。
800年 です。
いろいろな情報をありがとうございます。
酔石亭主さんのお蔭で 先日見たNHKの番組の中で出てた名称がまたまた平家に繋がりました。
ホント 平熱って 平家のオカルトパワーを感じます。
科学者でいらっしゃるココの管理人さんのご理解もあって 関係無い人には アホか のヒトコトでしょうけど
これからも平家一門の思い出を大切にしたいと思っています。
[34] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年03月15日 19時08分22秒 ) | パスワード |
あをさん
>ホント 平熱って 平家のオカルトパワーを感じます。
私は平家にあまりなじみがないのですが、藤沢には平良文の塚などもあり、旧ブログに「関東平氏の鎌倉」と言う記事タイトルで少し書いたことがあります。内容をほんの少しだけ抜き出しますね。
頼朝以前の鎌倉には桓武天皇の子孫が武士として根を張っていました。彼らは激動の時代を命懸けで戦い、走り抜けたのです。そんな彼らの生き様や興亡の一端を垣間見たいと思い、この記事を書き始めました。彼らの流れは桓武天皇から…。
桓武天皇(737年〜806年)―葛原親王―高見王―高望王(平高望)―平良文(村岡五郎)
葛原親王(786年〜853年)に関しては、カテゴリ「相模国の秦氏、タイトル:頼朝以前の鎌倉 2010年10月2日」や「東海の秦氏 その8 2010年11月11日」で書いています。それらの記事では、親王が東国に下向した折、家令である秦福代が同行し大井川上流に福用の地名ができた経緯に力点を置きました。この秦氏とゆかりの深い親王が東国に下向し、鎌倉の基礎となる平良文へと続いていくのですから、感慨深いものがあります。
葛原親王は上記のように秦氏と一定の関係がありました。まあ、子孫たちは関係なさそうですが…。
[35] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月15日 20時48分35秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
ありがとうございます。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-478.html
「相模国の秦氏、タイトル:頼朝以前の鎌倉 2010年10月2日」
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-312.html
「東海の秦氏 その8 2010年11月11日」
ですね
ありがとうございます。
拝見させて頂きます。
[36] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月15日 21時15分01秒 ) | パスワード |
ここからは 愚痴。
拝見させて頂きます の続き:
がっ!
今週はお出掛けが多くて つまり ドたまが爆発寸前なので 文字が目に入らない理解ムリッ!な状態にいます。
知り合いBさんが3月〜4月に日本に里帰りするので、その間の小銭の動きの監視をお願いされ
1月から見習いをしているのですが
数人から 3ドルという少額を場所代のために徴集する 役目です
わたしを含めて3人でやっているから とんでもない間違いの連続 ということが2回目から分かって
3回目には お金の管理の責任者のAさんについて
この人、こりゃダメだ
3ドルの場所代の支払いのために5ドル紙幣を出した人に3ドルのお釣りを出し
50ドル紙幣を出した人には63ドルのお釣りを出そうとしていた
4回目は現在で もうすぐ日本に行くBさんが
2人から計43ドルお金を受け取ったのに誰から頂いたのか記録が無い
それで 昨夜遅く と 今朝早く Aさんに確認のメールを出したところです。
今日 12時間後にAさんに会うので その時に 確認するのですが
Aさんの脳が上記のようなので
一応 書式にて
Aさんに 前情報を送った次第。
わたしが たとえ 43ドルのことでも きちんとしないと気が済まない小心者なので。
中には場所代援助の寄付をしてくれるヒトも2人いたのに Bさんは名前を書いていない。
三つ柏さんに影響されて 社会と繋がろうとしていますが
分かったことは
「女性は24歳を過ぎると」
という差別がなぜ日本に永年アカラサマに存在してたのか
でした。
もう驚きますよ
3ドルの場所代を毎回払うことは分かっていることなのに
100ドル紙幣で払おうとする人がいたり
クレジットカードで払おうとする人がいたり
場所代は「毎回」3ドルの徴収なのに「前回払った」からと踏み倒そうとする人がいたり
なるほど
日本人女性が社会的に使い物にならないと言われて来たハナシ
こーゆーコトだったのか
でした。
こーゆー人って
子供の300円の買い物に1万円札で買いに行かせるの?
クレジットカードって業者は手数料を払わなきゃいけないって知らないの?
などなど
2回目から
日本人って こんなんだったの?
です。
知らない世界に足を踏み入れて お金の管理ぐらいキチンとやれよ とアタマ爆発寸前です。
もう2時過ぎたのでソロソロ愚痴を止めて4時からのジムに行く準備をします。
今年になってからマスマス脳味噌が停滞状態で 分かったことは三つ柏さんって 大変な責任をいくつも抱えていらっしゃる です。
あ〜
スッキリした
わたしも アタマ悪いな〜
です。
こーゆーゴタゴタをどう処理するか そこで 人間って分かれるんだろうな っと。
いつもだったらこんな愚痴は削除ですが
三つ柏さんに敬礼っ!
ということで暫く晒しておきます。
[37] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年03月17日 02時33分16秒 ) | パスワード |
今日は 銃のショーのある日ですが 行かない。
入場料10ドル払うのがアホらしいし。
その代わり 午後からの選挙応援の集会には行きます。
だって 甘いお菓子をたくさんくれるし。
選挙のナイヨ〜はどーでもいい。
政治には興味無いから。
ただし
この人が当選したら
ウチのタワマンの管理をしてる人達の顔写真と名前を印刷して欲しい。
政治の好きな青い州のせいか
組織がいくつもあって
何が何やらさっぱり分からない。
1つ分かったのは AOAOのトップが誰だ あたり。
それでパーティは脂ギトギトの肉料理がメインなのかと 今年 知った。
だいたい AOAO って何だ?
パウワウはインディアン語で「集会」「会合」って意味って知ってるから
ソレ?
今 我が家の台所に甘いお菓子が全く無い のです。
食後のおクチ直しに何かちょっとした甘い物が欲しい。
お昼ごはんの後の「甘酒」と「枝豆」は冷凍庫に確保してある。
スーパーで「うまい棒」を買って来ようと思うのに いつも忘れてしまう。
安くてたくさん入ってて 6ドルあたりだから コスパは良い。
ただし コーン というのがネック。
コーンなんて 遺伝子操作の植物の代表でしょ?
たぶん ソレで いつも買うのを忘れるんだと思う。
ということで 今日は お菓子を貰いに選挙パーティに行きます。
名古屋人だね
結婚式のお菓子のバラ撒きにイソイソ出掛ける根性
今も健在だね。
[38] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月04日 15時28分31秒 ) | パスワード |
今日は3時間ほど知り合いと電話でド喋ってしまいました。
最初は業務連絡の件だったのですが
相手は生まれは大阪で沼津出身のビジネスマン
生まれた年が ゼロ戦の命名の年 と言うから (ゼロってのは神武天皇即位紀元2600年から) 84歳 と丸分かり。
笑
チノのゼロ戦所有者の知り合いで
坂井三郎をロスに招ぶことにしてたのに
突然 電車の中で不快になり 亡くなってしまって 来てくれなかった
と言ってました。
この坂井三郎は とにかく敵より早く敵を見付けて撃墜する を信条にしてて
それには 昼間 星を見つける訓練をしてた という ハナシ=ホラ? を聞かされた なんて言ってました。
わたしも夫に連れられて チノへゼロ戦が飛ぶのを見に行ったような。
その前に日本でゼロ戦を見た
とにかく ちっこい ホントに 小さな戦闘機だったのは記憶にありました。
アメリカは大型化していったのに 日本は 小さく軽く更に小さく軽く だもんね、
などと。
ロス時代の知り合いの父上が名古屋でゼロ戦を開発して それで 知り合いが名古屋で生まれた、とわたしも知ってる情報を話したり
沼津の人ですから 元々 和田一夫さんと知り合いで
和田さんの弟さんの不幸な亡くなり方も 今日 知りました。
何故 ヤオハンがミツワになったのか 今日 知りました。
稲盛和夫さんをロスに招んだ時は 3年待った と言ってました。
そりゃ あれだけの人物ですから 逆に3年で来てくれたことの方が 逆に 早かったのね〜 と驚きでした。
わたしはBIS問題で日本の銀行が世界から叩き出された時
わたしの回りで残った日本の銀行は
静岡銀行・三菱銀行・日本政策投資銀行・ユニオン銀行(前身は東京銀行だったから 今はUSバンクに吸収されてるらしい)+もう1つ名前は失念
と、思ってたら
静岡銀行も同じく消えてるよ
その手伝いをしたから
と「84歳」が言ってました。
今は住友はシリコンバレーにはあるらしい
静岡銀行の業績の良さは聞いてたから アメリカから消えた? ウソだろぉぉぉぉ〜 と
これは住友銀行がユタの銀行に買われてロスから叩き出された時の衝撃のように
わたしには驚きでした。
「84歳」が「住友って本店はサンフランシスコにあったよね」と言うから
「昔の友達のお父さんがサンフランシスコ本店のエライ人だった」と言って
バブルのバースト以降 2転3転 更に リーマンショックもあって 世の中がヒックリ返ってたことを今更ながら知りました。
バブルがバーストして横浜岡田屋も松坂屋もロスから消えてミツワになった旧ヤオハンは異世界になってしまって
2004年にラスベガスに引っ越したので住人としてのロスは全く分かりません。
今は中国から日本の百貨店やら工場が続々撤退とか。
これは駐在員の皆さんのためには 良かったね と言っていいよね?
とか
「84歳」はビジネスマンだから ビジネスのハナシが好きで 夢を語ってたけど
ハワイは財政破綻のままズルズルと今日に至る。
濡れ手に粟 溺れる者は藁 ということで
1ビリオン=1500億円の泡銭をゲットしようと マリファナの娯楽使用許可を議会に掛けて
今朝のニュースでは 反対が多くて 頓挫の様子。
それでビジネスマンの「84歳」は ハワイの活性化の為に何かできないか?と
エンエンと3時間の電話を掛けて来たのでした。
この腐ったハワイで?
ムリ無理ムリ!
もう84歳なんだから 自分の孫ちゃんをビジネスマンに育てたら?
わたしに「84歳氏」の夢を語ったって馬耳東風・暖簾に腕押し・糠に釘!
ということで 冥途への別れのご挨拶 を聞いて差し上げました。
やっぱり日本の高度成長を担った人のメンタルは死ぬまで経済を活性化したいというコトなんでしょうね。
敬礼っ!
[39] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月19日 11時31分36秒 ) | パスワード |
ここ暫く「榊原温泉」と「夷隅」でボゥ〜っとしてました。
榊原温泉
清少納言ゆかり。
七栗の湯。
しかし今は廃墟化の一途だとか。
わたくしの原風景なんですけどね。
1180年頃の心象風景とワタクシの若き頃の思い出と現在の景色が 同じ。
いつもわたしは田んぼの中を歩いてた。
今も田んぼの世界のままだとか。
変わらぬ光景にわたくし的には嬉しいのですけどね。
夷隅
東京の人は夷隅が好きなんだとか。
車で1時間40分
電車で1時間20分?
あんまり変わらないじゃないかっ。
東京の近くでサーフィンが出来るから若者は夷隅が好きなんだろうな
と。
わたくし的には
山あり海あり川あり
親潮と黒潮がぶつかる豊かな漁場あり
田んぼや畑があり
日本の原風景という感じですね
そこに黄色のカワイイ電車が走り
町のヒトが季節の花を植えて観光客の目を楽しませる
その上に城もある?
今回の映像で初めて知りました。
今切関所の奉行の服部さんの一族がいたところですね。
この一族の奥様達の家がスゴイ
信長の父と手切れで妻は横井の娘
桶狭間で家康に兵糧を運んで妻は千秋の娘
川口久助 ココにも来てくださいました 孫さんが悠仁さまと同い年でしたね
朝日奈利昌
高力清長の娘
大久保忠重から養子に来たり
青山や成瀬からもお目をかけて頂いて。
映像に映ったヒト
父にそっくりでした。
寛永20年に上総国夷隅に移されて以来ずっと夷隅の在住者なのか
それとも
モトモト桓武平氏が上総国に下向した時の子孫なのか
日本史は夢とロマンに満ちているな、と。
と、言うより
ワタクシの思い入れですが。
[40] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2024年04月22日 20時27分55秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
ご無沙汰、また筆不精しております。歴史にも少しずつ時間がさけるようにな
ってきまして、アクセルをじょじょに踏みつつあります。
当地の天満宮氏子総代長ということで、個人的には天津祝詞を暗記したり、ま
た岩津天満宮にバイクツーリングしたり、各種歴史本に目を通したりしておりま
す。
でもやはり、「戦国時代」の流れ、「南朝・後南朝」の流れ、「伊賀伊勢・平家」の流れと、「服部・服部連」の流れ……これらの流れ(点と線)は通底してい
ると推察しております。それを解くことが私のモチベーションの源であります。
歴史というものを権力者を中心としたトップダウン(ピラミッド形式)で観る傾
向がありますが、本当は民衆のマグマというものを中心としたボトムアップ(逆
ピラミッド)で観てみる必要があるのではないかと考えます。
広義の賤民のマグマが南北朝時代に後醍醐天皇によって放たれた……ここが一
番肝心なキモではないかと思っています。
これから、少しずつまとめて行きたいと思っていますので、よろしくご指導の
程、お願い申し上げます。
[41] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月22日 22時51分11秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
お久し振りでございます。
>御当地の天満宮氏子総代長
いいですね。
「ヒト」と関わることの出来る幸せ
その上に
日本の「神」「天皇」の世界に関わることの出来る幸せ
を享受できます。
日本の歴史の秘密を教えて頂けると良いですね
但し
一般人にバラしちゃダメですよ
例え ココでも。
だけど「人間相手」は大変!
ワタクシも三つ柏さんを見習って ほんの少し 人間社会と関わろうとしましたが
疲れたぁ〜〜〜
いろんな人種や民族に揉まれましたから「足は引っ張られない」ようにしています
でも日常的にヒトと話すようにしていれば「記憶」が抜けてしまう油断は抑えられますから
良い人生になるので
頑張って続けてください。
>「戦国時代」の流れ、「南朝・後南朝」の流れ、「伊賀伊勢・平家」の流れと、「服部・服部連」の流れ……
>これらの流れ(点と線)は通底していると推察しております。
はい
脈々と「続いています」よね。
切っても切れない
それが日本ですよね
中国ですと新しい勢力が前を完全否定するために殺戮破壊の限りを尽くしますが
日本には「完全否定」は無かった
わたしは向こうから来るオトコやオンナはイヤなので拒否してしまうのですが
最近(このヒトって ワタシのこと=前世や先祖=を知ってる?)と思うヒトが現れて
1歩ずつ歩み寄ろうとしている所です。
恐らく戦国時代にわたしの(内訌で滅んだ)一族を保護した家の子孫。
娘さんに話しかけたら ヨタヨタヨレヨレボロボロの日本語だったので 諦め
来週 母上の方とお話が出来たら嬉しいのですが 90歳は越えてるでしょうから ムリかも。
こうして ヒトとヒトの絆は途切れていくのでしょうね
日本の原点は地元の氏神様でしょうから大切にして欲しいです。
誰かが継承しなくてはね。
>本当は民衆のマグマというものを中心としたボトムアップ(逆ピラミッド)で観てみる必要があるのではないか
はい
日本の原点は氏神様と氏子だなと最近つくづく思います。
わたしも在ハワイの日本人の先輩達を大事にお付き合いしていこうと思っています。
>少しずつまとめて行きたいと思っていますので
いろいろ教えてくださいね。
楽しみにしています。
[42] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月26日 15時22分59秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
本日やっと2年前の6月に頂いた伊賀史の平(平田)家継の項のやんちゃな6人の武士の名前を平熱にアップ出来ました。
2年!
かかりました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/102117_9.html
先日 レス<39>に 「榊原温泉と夷隅」について書きましたが
「書いて!書いて!」
とせっつかれて やっとアタマを空にして(笑) 纏めることが出来ました。
今日 鈴木さん という方とお会いして
私:
「鈴木姓って日本じゃ多いのに アメリカでは鈴木さんには会ったことが あなただけよ」
彼女:
そうなのよ。
わたしの名前の同姓同名は何十人といるのに こちらではいないのよね。
ところがアメリカでは日本人の名前からでは男女の区別が分からないから
郵便物はMrで来るし
銀行の残高証明書は間違えられて 買ってもいない物の代金が引かれてるし
クレジットの成績も信じられないような低評価にされるし
日本とは別の悩みでいっぱいよ!」
と言ってました。
私:
「浜松は鈴木姓が多くて 姓は省いて下の名前で呼ばないと 面倒だそうですよ」
と2人で笑いました。
[43] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月28日 22時47分39秒 ) | パスワード |
今朝はもの凄くたくさんの夢を次から次へと見て悲しくて泣いてて目が覚めた。
目が覚めた瞬間にどんな夢だったか記憶に無い。
笑
なんでカナシかった?
と連想して思い出してみた。
最近でカナシイ事って榊原温泉が廃墟化しててソレがカナシかった・・・かな?
だけど現在の榊原温泉の様子がワタシの心象風景・原風景に戻ってるってことで・・・ワタシ的には構わない
と考えて
わたしがしょっちゅう行ってた記憶の温泉は伊東の「はとや」だった。
毎年行ってたような記憶。
熱海には「行った」というほどの思い入れは無い。
熱海には何度か行ってるけど「金色夜叉」の舞台レベルの思い入れあたり。
それで あれ? と思った。
伊東?
山木兼隆? ワタクシの前世の祖母の弟になるわけだね
討ったのは加藤景廉
加藤は元々伊勢が本拠で
伊勢加藤の館は安濃津の近くの下部田(現在の三重県津市南羽所)にあったらしい
安濃津なんて忠盛さまというか平家本拠地バリバリの港町じゃんね
加藤は平安末期に藤原景通(道)が加賀介となって加藤氏を名乗った。
景通の子、景員(清)が伊勢に転じて、伊勢加藤氏の祖となり
上記に書いたヤンチャな6人のうちの「藤原通久」の一族で良いのかな?
伊東と言えばわたしが好きなのは伊東祐親。
それでしょっちゅう 伊東 に行ってたのかな?
父や兄弟や伯父叔父従兄弟には持ちたくないタイプだけど
「漢」として 好き❤
京に出張に行ってて不在中に娘が頼朝の子を産んでたので怒って孫ちゃんを川に沈めたとかいう人。
頼朝は北条時政を頼って逃げた。
北条時政の正室が伊東祐親の娘
わたしの母方先祖のおじじさまの正妻が時政の娘なんだよね
というような夢をエンエンと見てた。
800年後にわたしは榊原温泉の山の中の田んぼの畦道をヤンチャな6人のうちの1人の子孫と歩いてた。
だけど
この子は父方母方でワタシと繋がってたのをオットと結婚してから知った。
従姉の旦那さんの姪が留学して来てロスの我が家に来た時に持って来た写真の女の子がワタシの写真?と思うほどソックリだった。
そして
彼女の家が平家バリバリ南朝方バリバリというのを知った。
みんな先祖で繋がってた。
哀しい思い出で一杯でもある。
[44] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月29日 01時55分48秒 ) | パスワード |
今朝のジムでいろいろ考えた。
そうだ!
決心して 三つ柏さんからの伊賀史の家継の項をしっかり読んでみよう。
「家継」という字を見るだけで滂沱の涙になる。
家継 ⇔ 信兼 ⇔ 忠清 元に戻って ⇔ 家継
この3人の刎頸の友レベル
老いた身体に鞭打って 滅亡後の平家の底力を振り絞って 佐々木の爺さん殺した
結局この3人って わたしの血と涙を司るDNAの大元じゃん。
ということで頑張って家継の項を熟読して また 平熱にアップせねば。
それにしても 家次
こっちの家次
なんか育ちが良過ぎて 世間知らず
ひょっとして ワタクシの前世の 兄上さま?
笑
[45] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月29日 06時49分20秒 ) | パスワード |
藤原成直
別名:
早尾十郎
愛知県愛西市早尾の人
だいたい「愛西市」なんて知らない
ああ、「平成の大合併で市になった所ね」 あたり。
もと 佐織町・佐屋町・立田村・八開村 って呼んでたエリアか
じゃ、 モロ うちの領域じゃん。
ということで 早尾 って?
と調べたら 熊本に早尾ってあるから
ああ、うちのじいちゃんが遠征に行った時の?って感じで良いのか?
贔屓の引き倒し感 満載だな すまぬ
熊本県八代郡氷川町早尾
熊本県八代郡宮原町早尾
同じ場所?
郵便番号も同じだし
土地鑑無しなんで分からない
茨城にもある 茨城県北相馬郡利根町
もともと ココが出発点で良いのかな?
桓武平氏が下向して 平将門がパパと頑張って開いた土地 って感じ
それをうちの先祖達(平良文)が奪った ってハナシで すまぬ
わたしは この部分 新田と足利の喧嘩 がこんがらがる すまぬ
この近辺には行ってる。竜ケ崎とかね。
わたしの心象風景は市原市の方 当時上総国分寺の隣に住んでた記憶で・・・行ってみて・・・自分が方向音痴って確認した
滋賀に早尾神社がある 滋賀県大津市坂本
日吉大社
比叡山というか
こんなトコと喧嘩しちゃダメじゃないか > 藤原成直
[46] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月29日 07時00分21秒 ) | パスワード |
ということで
早尾について:
https://kojodan.jp/castle/1425/
コピペ
早尾東城は織田信雄の家臣、橋本大膳の居城として知られています。
もともとは津島の豪族大橋源三右衛門により築城されました。
1524年(大永4年)に織田信長の祖父、織田信定が津島を攻めた際に、奴野屋城の大橋氏と津島衆がこの城に逃れて抵抗しましたが敗れ、これにより信定は津島の経済力を手に入れることになりました。
城址には1592年(文禄元年)に常徳寺が建てられ、現在に至っていますが遺構はありません。
まさに 平家じゃん。
平家以外の何者でもないじゃん!
というより
わたしの先祖達のハナシじゃん。
知らなかったよぉ〜
早尾なんて。
藤原成直も まさに わたしのDNAに存在する人物だったの?
驚
[47] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月29日 07時18分56秒 ) | パスワード |
ビックリがあったのでついでに書いておく。
わたしの好みの「フランダースの犬」のネロ少年の日本人版の男子あり。
あまりの美しさと名字から わたしはてっきり 秋田産だと思ってた。
そしたら
「佐竹にはついて行かず 先祖の墓を守ることで居残った子孫」
と言ってた。
わたしより誕生日が1か月遅いことからワタシを「おばさん」呼ばわり。
ムノーのおばさん
役立たずのおばさん
と呼んでて
ホントだから喧嘩も出来なかったのが残念っ
ワタシが辞めてから入れ替わりに「おばさんのおっちょこちょいの弟」呼ばわりの男子が来て
一応キャリアなんだけどね
アタマ良いけど仕事は・・・
ということで
やっぱり「血だよな」と笑われてたと聞いた。
で、なんと!
わたしのことを「おばさん」と呼んでた人は
わたしの先祖の母親の生家の子孫でした。
え?!
私達 血で繋がってたの?!
でした。
彼の美しい顔に仕事中いつも見惚れてたけど
なるほど
わたしの先祖が彼女の美しさの余り子供を産ませて 数えの17歳でパパになったのは当たり前だったのか
と納得した。
700数十年後
男女逆で
子孫同士で出会ってたなんてね。
もし私達が結婚して子供が生まれてたら 近親結婚でとんでもないのが生まれてた?
ヤバイな。
[48] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月30日 06時27分19秒 ) | パスワード |
家継
近江騒動は書ける。
藤原景家を襲った山本義経と弟の柏木義兼を蹴散らしたハナシ。
山本富士子は義経の子孫とか
ホント?
麻丘めぐみは平家の子孫で
大分の家老の娘だとか
家継が手島冠者を討ったハナシで思い出した:
昔 三河に住んでた時に すっごくイヤな目で敵対的に見る人がいて
手島って名字だった。
このせい?
ワタシ的には 名古屋人だから拒否られていると思ってた
800年前の恨みからだった?
間もなく「鎌倉幕府成立」です。
自信
無い。
[49] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年04月30日 08時00分36秒 ) | パスワード |
あをさん
昨年秋以降は主に三重県を探索しており、西の奥深い地域(地理的にですが)まで足を伸ばしています。前回は名張から宇陀まで行きましたが、次は伊賀に行こうかと思い事前にチェックし始めました。伊賀となれば服部氏は欠かせないので、各史料を見始めています。
まずは「伊乱記」からと考えてデジタル版で見たところ、服部氏に三流あるとのことで、漢服部は平内左衛門相続し平氏、呉服部は服部六郎時定相続し源氏、敢国服部は一ノ宮神事を勤める一族で源氏だそうです。また平家長はその遠い子孫のようにも書かれていました。
もうこの時点で疑問符だらけ…。そもそも武家であり桓武平氏の流れを汲む服部氏が渡来系の機織り(服織)女工たちを相続するなど有り得ません。自分たちの支配下に入れて管理することはあるでしょうが…。例えば山城の服部氏に関して、又、後世 伊賀服部氏の後の服部氏は、その系図に「大膳貞長−時貞−貞信(美濃別当、伊賀国呉服明神の神職、後に山城国宇治田原に住す、後 家康に属す)。などと書かれているのはその例でしょうね。
機織り(服織)女工たちは女性ですから、先進的な技術を持ち込んだので地元民から崇敬され祀られること自体に疑問はないものの、数代後には地元に吸収されて消滅してしまうはずです。吸収した地元の有力者が機織り業を始め服部姓を名乗った、或いは後代になって伊賀郷が服部氏の所領になってから、自分たちも服部姓を名乗ったケースはありそうです。
「伊乱記」に服部六郎時定は源氏とありますが、この人物は頼朝に従った源氏方であり、源氏の血脈に繋がってはいないはずなので、これも疑問です。あをさんのホンヤさんが「うちは源氏キリ」とおっしゃっているのは時定のご子孫と言うことなのでしょうか?それは、「和名抄 奄芸郡に服部郷あり、八止利と註す。この地より起りしもあらん。永禄中、服部友定あり、長島砦を修し、ここによりて、北畠氏に属す。」に関係してきますか?
例えば、時定は信太三郎先生義憲(源義広)を羽取山(服部山)で討ち首を獲っていますが、この場所は奄芸郡の服部郷で酒井神社の境内社服織神社(郡山町)と河芸町の服織神社の間の丘陵と思われるので、時定が後にやって来て隠居し、その子孫が服部党と言うことなのでしょうか?
伊賀服部氏の流れはわかりにくいので、足元から調べるため「伊賀国無足人帳」がデジタル化されていないかチェックしたのですが、残念ながらまだでした。ただ「伊勢国無足人由緒書」はデジタル化されていたのでチェックしたところ、以下のような内容もありました。
先祖藤原末葉伊賀杢頭公季五代孫伊賀守平内左エ門朝光属于平家保
元平治有軍忠恩補伊賀国甲賀後於摂州一谷朝光宗盛公之属籏下述諫
言公不許容、其後三草山敗軍之節出万死察天運還甲賀住、服部更号
服部平内時貞平家滅亡之後、勢州之剌司景廉為旧友故頻招請勢州欲
令鎌倉勤仕、平内時貞恥仕二君願為山林潜居、爰当国垂坂村乾窟曲
有地経路僅以開因テ住此地号山之一色村後、正徳三巳年祖々至服部
喜左エ門之代無足人二候故ヲ以、刀 ・衣服御免許御書付頂戴仕候
三重郡山之一色村無足人 服部兼次良(印)
「平内時貞恥仕二君願為山林潜居」から、時定は平家と源氏の二君に仕えるのを恥じて山林に潜居しており、彼の孫は家長の家の養子になっているので、時定の流れはほぼ絶えたか続いていても本流からは外れているように思えます。
上記のように伊賀服部氏のスタート部分からよくわからないことだらけ…。他にも色々わからない点が多々ありますが、服部氏に関しては初心者段階なので、あをさんのご意見をいただければと思います。
[50] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年04月30日 10時11分32秒 ) | パスワード |
あをさん
「伊勢国無足人由緒書」に書かれた服部さんの所在地は現在の四日市市山之一色町なので、ここの服部姓を調べたところ他の姓より圧倒的に多いことが判明しました。住所でポンによると同町には70軒の服部さんがいて、さらに面白いのが同名の方がホンヤさんのすぐ近くの荷之上町本田屋敷におられますし、別の名前で同名が海部郡鯏浦上六町にもおられます。こうなるとホンヤさんが源氏(方)なのは可能性が高く、全くの想像ですが源氏方である服部時定は山之一色村に潜居し、そのご子孫があをさんのホンヤさんになるのかも…。
[52] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月30日 16時03分20秒 ) | パスワード |
さて、もう寝ようか
と思って
ふと上記に書いた「本田屋敷」を思い出し
ホンヤさん宅へ初めて行った時 どうして 迷子になったのか?
(お前が行くべきはコッチの家)
と何かが導いた?
笑
じゃ、寝ます。
[53] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月30日 22時26分10秒 ) | パスワード |
一晩寝て起きて昨日の郵便物を取りに行く途中で・・・
ホンヤさんから頂いた資料があったことを思い出した
さて、どこに入っているか
書類の山を崩さねば
秘宝捜し
になります
父方母方その他
整理して捨てたり また ゴミの山から 拾って来て戻したり
で、ぐちゃぐちゃ
で、「くの字」の件
あれ?
あれって「家紋」のハナシだったっけ?
と思い出した
なんで、あのヒトは「ホンヤさんの家紋との違い」をわたしに教えてくれたのだろう?
どこの家でも家紋は1つじゃないと思っています
ホンヤさんの家紋の1つに<く>の字の家紋を見ています。
お駕籠についてた家紋はまさに江戸時代に洗練された「車に矢」だけど
これはホンヤさん宅のいくつかの家紋の最終バージョンだと思ってます。
母方でも
古い古い幼稚園児の落書き並みの家紋から
洗練された家紋
格式を示す家紋
いろいろあります
現在も実際に使っているのは
落人になって住吉大社に匿って貰った時に名字を変え家紋を替えた時ので
幕末少し前に名字を戻すことは許されたけど
家紋は許されなかった
名字と家紋を許されたら 徳川家臣の身分の高い某家より うちの方が由緒正しい家になってしまうから
ということで今現在使用している家紋は江戸時代より前の戦国時代末期からのもの
あの服部さんは どうして <く>の字の家紋の方を使ってる とおっしゃったのか?
そこがアイデンティティの違いなわけで
これは物凄く意味があるわけで
歴史的にホンヤさんとの違いをわたしに伝えてくれたのでしょうけど
ワタシが まだ 理解するには追い付いてなかった ということでした。
残念っ
一応 ホンヤさんの家とあの方の家は<く>の字の家紋を使用してた時までは同じ一族だった ということでしょう。
その後 差が出た ということ。
ということで上記に書いたことは訂正せねば。
名字の漢字の<く>の字の部分は削除してアップし直します。
[54] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年04月30日 22時41分03秒 ) | パスワード |
<51>の書き直し:
酔石亭主さん
歴史的資料のコピペ
ありがとうございました。
何度も読み直して記憶に留めます。
ホンヤさんがご存命の時に図々しく訊けば良かったのですが
マサカね
ホンヤさんに「馬の骨の方の服部です」といつも名乗ってた端っこですから。
さちこさんの方がホンヤさんに近い関係と思います。
ホンヤさんはお文書蔵の研究者の方を紹介して下さったのですが
萎縮して連絡を取りませんでした。
皆さん 気楽に 専門の方を紹介してくださって
母方では 東大とか某国立大学の教授達とか ホントに気楽に紹介してくださって
いえいえ ワタシのような者が・・・無知丸出しでは
出直して来い
と言われそうで マサカ でした。
中には 待っていてくださった某国立大学の教授もいらっしゃったのを思い出して今更ながら赤面です。
このホンヤさん宅の研究者のかたにしたらホンヤさん宅を研究すればご自分の家の事が分かると
熱心に研究なさってたと勝手に思っています。
この人物の本家になる家は「蔵を研究者に公開なんかしたくない。他人にとやかく言われたくない」と拒否し
その代わり分家衆を集めて家のことを説明してくれたと
分家さんから聞きました。
この家の近くに友貞公の墓があってホンヤさんはお正月にお参りに行ってるとおっしゃってました。
いろいろ歴史の流れがあって
ホンヤさんは研究者にお文庫蔵の門戸開放
逆に
誰が蔵の門を開くものかと心の裡の叫びが聞こえる家もある
宇陀
宇陀の番組を見てたら
父にそっくりな人が出てて
へぇ〜
こんな場所にも血で繋がった一族がいたのか
と驚きました。
ま、場所的にご近所だから、納得です。
半蔵は「うちは帰化人じゃない」と書いてるのを寛政文書で読みました。
ホンヤさんが「うちは源氏」とおっしゃったのは
「後醍醐天皇」からで「宗良親王」つまり「尹良親王」つまりホンヤさん宅で亡くなった「良王君」の流れで
後醍醐天皇から宗良親王だったか尹良親王だったかが源姓を下賜されて
という記憶だったと思っています。
服部時定
この人
何者?
ドサクサで乗っ取った?
って感じで
わたしは納得出来てないです。
しかし 全くの他人じゃない とは思っています。
どこかで家長と繋がっていると思っています
力のある男子はアチコチに子がいて当たり前ですから
たとえば
服部栄養料理学校の服部さん(染谷さん)
ホンヤさんにそっくりです
だから どこかで繋がってて
武家の料理法を繋ぐのに「服部」って名乗りたかったんだろうな
とワタシは納得しています。
何かの本で
お正月の料理の始まりは
南朝方の武士が親王をもてなしたのが始まり
と読みました。
ということで染谷さんが「服部」を「乗っ取った」という悪口は
わたしは逆に 自分は継いでないのに? よく言うよ!と反発を感じます。
四日市市山之一色町
大矢知の隣ですね
多分 うどん(父は蕎麦は食べない) か 何かの食べ物で 母が「大矢知」としょっちゅう言ってた記憶です。
我が家の「うどん」は
コシが無くて
固い食感が好きなわたしは「うどん」が夕食の時は絶対に食べずに不貞腐れて寝てました。
あの「コシ」の無さが伊勢饂飩の特徴と知って
え?
ってコトはうちはヤッパリ伊勢の出なの?
と思った次第です
あんな気持ちの悪い伊勢風饂飩なんて よく食べられるものだ と
自分の顔に唾してました
父の実家は粗食で住み込みの従業員と同じ物を食べるので「量」を増やすのに
クタクタに伸び切った不味い饂飩を一同食すのだと思い込んでました。
痛風の遺伝子を持ってるので「美味しい食べ物」は父の家では禁止なのだと最近理解しました
ホンヤさん宅に初めて行った時に方向音痴なので道に迷ってホンヤさん宅のようなスゴイ家を見掛けました
「く」の字使用の服部さんはコッチ?
この先を書くと身バレというか
わたしなんかが書くとヤバイので
書けないのですが
ホンヤさんが 一目置いてる 服部さん が確かにあります。
わたしがある事を言ったら ホンヤさんが 「ああ、XXの服部さんだね」とおっしゃったので。
でも本田屋敷なのか鯏浦なのか 当時はわたしは初歩だったので ホンヤさんがおっしゃってた意味が分からないです。
オットと結婚した頃で 自分の父方に興味を持った頃なので ホンヤさんのお話も理解出来て無かったです。
酔石亭主さんと もっと早く (オットと結婚した頃に) 知り合ってたら色々な謎が解けたかもですのにね。
残念
ロス時代に知り合った本物の秦氏系服部さん
もっと聞いておけば良かったと後悔です。
父は自分の家のことはサッパリ知らないので確かめようが無いです。
ホンヤさんの先祖が鰍浦に居たのは知っています。
織田に負けて以来今の所。
>源氏方である服部時定は山之一色村に潜居し、そのご子孫があをのホンヤさんになるのかも…。
ホンヤさんがご存命の時にちゃんとお訊ねしておけば良かったと後悔です。
とにかく力があれば子孫繁栄で家は大きく末広がりになり
そこに武力衝突があれば兄弟一族は他人の関係の始まりで
そうすれば 否定し合うし
都合の良いハナシに作るし
古文書って読めば読むほどハナシが・・・
これは酔石亭主さんの方が良くご存じですね
ヒトと最初に出会った瞬間 何を感じるか (この人は自分にとって害する人か?懐かしい人なのか?) などの直感
ますます頼るようになりました。
今は数学の平田先生
どーしょーもない数学ゼロのわたしをすごく可愛がってくれたのは
何故なのか?
どこの出身だったのか 知りたいところです。
三重県出身者だったら?
誤字脱字
ごめんなさい
[55] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年05月01日 08時36分33秒 ) | パスワード |
あをさん
>服部時定この人何者?ドサクサで乗っ取った?って感じでわたしは納得出来てないです。
あをさんがこの人何者と思うようなら私ではお手上げですが、少し時間をいただいて考えてみます。最近目が疲れやすく、パソコンの前に長く座っていられないので…。
>服部栄養料理学校の服部さん(染谷さん)ホンヤさんにそっくりです
仕事のちょっとした関係でこの方の御尊顔は拝したことがありますよ。確かロブションもいた…。かなり格がありそうな方とお見受けしたので、ホンヤさんはきっと全身からオーラを放っているような方だったのでしょうね。
>酔石亭主さんと もっと早く (オットと結婚した頃に) 知り合ってたら色々な謎が解けたかもですのにね。残念
いつあをさんがご結婚されたのか不明ですが、多分その頃は歴史に興味がなかったと思いますので、当時の私であれば謎解きなどできなかったと…。今回が最後のチャンスと思って頑張ってみましょうね。
>この家の近くに友貞公の墓があってホンヤさんはお正月にお参りに行ってるとおっしゃってました。
このお墓は供養墓でしょうか。いなべ市藤原町の米野観音堂が友貞公の自害された場所でここに墓所があると思っていましたが…。いなべ市は員弁川で探石したり石友と会ったりと10回以上行っています。米野観音堂には杉の巨木も鎮座しているので行ってみたいとは思っていましたが、もっと北の方になるのでまだ未訪問です。
「伊勢国無足人由緒書」の「爰当国垂坂村乾窟曲有地経路僅以開因テ住此地号山之一色村」に関して垂坂村は現在の垂坂町ですが、ここには服部姓がほとんど見られません。垂坂村の一部分を服部さんたちが開墾して自分たちのものにしてしまったので、垂坂村で居住しづらかったのかな、などと想像してしまいました。山之一色町の南の小杉町は山之一色町以上に服部さんが密集しています。この二つの町は本当に服部氏エリアと言ってもよさそうです。
いずれにしても、伊賀服部氏の始まりはどうなっているのかあれこれ考えてみたいので、断続的に平熱に書いてご意見などお聞きしたいと思っています。
[56] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月03日 02時42分22秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
わたしの部屋も書斎も 足の踏み場が無いほど 書類で一杯で
今はオットの書斎の本棚8本も わたしの紙切れで一杯で
時々片付けてはいるんですが
昨日 新たに3冊 本を手に入れて
またもや未読コーナーは山を形成中
ということで
ホンヤさんから頂いたホンヤさんの御家の記録
わたしの書斎の あの本棚の あの辺りだろうな
と見当はついてるけど
どれがどれやら
捜すと逃げて行くようです
>このお墓は
>いなべ市藤原町の米野観音堂が友貞公の自害された場所でここに墓所があると思っていましたが…。
はい
その通りです
友貞公はお正月に北畠に挨拶に行った帰りに滝川一益に騙されて死ぬことになり
奥様が後を追って自害なさった
と読んだ記憶です。
NHKのラブコメで「アシガール」というのがあって
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AB#:~:text=%E3%80%8E%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%80%8F%E3%81%AF%E3%80%81%E6%A3%AE%E6%9C%AC%E6%A2%A2%E5%AD%90,2%E6%9C%88%E5%8F%B7%E3%81%BE%E3%81%A7%E9%80%A3%E8%BC%89%E3%80%82
歴史好きの少女が足が速いのが自慢で
戦国時代にタイムスリップして
彼女は歴史を知っているから若君様・羽木九八郎忠清の御家を守ることが出来た
というストーリーで
作者は熊本出身の森本梢子で
何となく
この人のご先祖さまは 加藤清正に従って熊本に行ったんじゃないの? と思うほど
伊勢尾張あたりの事情に詳しいな、と。
上記に滝川一益の名を出しましたが
このドラマの悪役のモデルが恐らく滝川一益で伊勢〜尾張あたりが舞台だろうなと。
ムカシ名古屋の市バスに乗った時 バス停に「滝川」というのがあって
すっごく引っ掛かってました。
今は何故引っ掛かってたのかの理由が 友貞公がらみで わたしの血と肉が(滝川 = なんかイヤ) と反応してたんだろうなと思います。
>その頃は歴史に興味がなかったと思いますので、当時の私であれば謎解きなどできなかったと…。
>今回が最後のチャンスと思って頑張ってみましょうね。
あら
そうだったのですか?
何かのパワーが来たのかしら?
わたしはオットと結婚しなかったら母方の先祖を知ってるぐらいで父方は全く知らないままだったと思います。
オットと結婚したのはわたしの「宿命」だったんだろうな、と。
佐々木が嫌い 手島に嫌われてた 滝川は許せない 伊東祐親が好き 平田家継の名を見ると滂沱の涙になる
その理由がオットと結婚したからと思います。
わたしの無鉄砲を父が母方の激しい血のせいだと言って来たけど
いえいえ
わたしには小松家の侍大将の7人?6人?のDNAがちゃんと アリそう。
1平利家
2平家兼
3藤原通久
4藤原成直
5藤原光景
6成田兵衛尉為成
7田使俊行、難波吾郎
平家の老3羽烏
わたしの血と肉と涙の先祖なんだろうな
平家一門の子孫同士 今生にちゃんと出会ってた というのも分かってしまったし。
わたしの場合はもう解明は終わってるのかも。
>いずれにしても、伊賀服部氏の始まりはどうなっているのかあれこれ考えてみたいので、
>断続的に平熱に書いてご意見などお聞きしたいと思っています。
こちらこそ 色々 教えてください。
先月友人の息子達が日本へ旅行に行くというので観光案内をあげました。
「高山はオットが大好きな場所でアメリカ人は高山が好きだから是非行って欲しい」と言ったのです。
先日テレビを見てたら高山の紹介番組でした。
その中に登場してた女性が姉にそっくりで(北川景子にそっくり)
母の従兄が高山にいて
ぎぇえぇえぇ〜
でした。
つまり 母の従兄の(孫)娘!
こんな偶然 あるんですね。
最近 高山の伯父さんの家族 どうなってるのかな と観光案内を上げた時から気になってたのです。
他のスレの楠木正成公の子孫の方に「ご先祖さまがお喜びですよ」と書きましたが
母方も楠木正成公がらみですから
本当に先祖っていたんだな
とシミジミです。
[57] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年05月03日 07時36分29秒 ) | パスワード |
あをさん
>どれがどれやら捜すと逃げて行くようです
弥富市の図書館で服部氏文書でもないかとチェックしたところ、二つほどありましたが表題を見ると関係なさそうなので簡単には探せないですね。
>わたしの場合はもう解明は終わってるのかも。
私の場合は伊賀服部氏のスタート部分からその後裔の歴史上有名な人物への流れを整理・確認したいのがポイントなので、その意味では不明な点だらけです。で、スタート部分を整理してみたのですがこんな感じですか。完全に重複しているので、ここから内容を深掘りする必要がありそうです。
服部時定−時保−保俊−保行
平忠正−家長−家清−保俊(養子)−保行
平家貞−家長−家清−保俊(養子)−保行
服部公清−保俊(養子)−保行
服部時定から見ていくと、保俊は養子に出していますので系図的には保行に繋がりませんが、血縁的には繋がっているので書いておきました。保行とは別の人物がいて山之一色町に続いていくのかも…。あをさんが書いておられた大矢知町にも垂坂町同様服部さんは少なくて二人程度のようです。なので、山之一色町をもう少し調べてみました。
山之一色町の総人口は611人で内約270人が服部さんと凄い密集度になっており、明らかに無視できない有意性があります。江戸時代には人口の7割以上が服部さんだったと推測され、他にこんな場所はないように思えます。小杉町も1597人中約320人で数は多い。小杉町533−3の服部家住宅は登録文化財になっていました。
「爰当国垂坂村乾窟曲有地経路僅以開因テ住此地号山之一色村」は、ここ伊勢国垂坂村には乾窟曲(乾燥して曲がりくねったと言う意味か?)の地があり小道が僅かに開けているのでこの地に住んで山之一色村と号した。と言う意味だと解釈します。山之一色村の一色は年貢以外の労役を免除される意味があり、村名に山間地で年貢だけ負担する土地だよとの意味を持たせています。小杉の杉は地名学の解釈で傾斜地・崩れ地を指すとのことです。
時定に関する材料はこの程度なので、ここから推論していきたいと思います。まず「伊乱記」に服部六郎時定は源氏と書かれた部分ですが、改めて見ると時定が源氏だと書いてあり彼は頼朝に従った源氏方となります。「吾妻鏡」では1180年に頼朝の従士となり、「平家物語」では1184年に源義広、1186年に源有綱を討っているので、頼朝にかなり貢献したのは間違いなさそうです。ただ時定は二君に仕えるのを恥じて山林に潜居しました。
それが山之一色村となると推測されます。一色は年貢以外のさまざまな労役が免除されていますが、なぜこのような優遇措置を得られたのか。それは時定が頼朝に貢献したからだとしか考えられません。だから小杉町にもホンヤさんレベルではないものの、登録文化財の服部家住宅を建てられる財力を有し続けられた服部さんがいたのではと思います。
またWikiで服部友貞に至る系図を見ると、早い段階の途中で9代略になっていますが、ここの部分が山之一色町在住の時定の子孫ではないかと勝手に想像してしまいます。時定の子孫はそうした困難な場所を開墾して服部一族を増やしていったのでしょうね。山之一色町における服部姓の密集度は明らかに有意性があり、背景に明確な事情があったと考えるしかなく、それが時定と頼朝になるのではと強く推測されるのです。
Wikiが服部党は伊賀服部氏と別系統としているのは、時定の段階で伊賀を去ったからと解釈すれば納得できますし、台上寺が「台上寺の当地移転以前に有った土豪屋敷が服部一族と結び付き、近世になって時定屋敷跡と言はれる様になった。」と書くのも、時定が早い段階でこの地を去った、但し彼の手で伊賀服部郷を取り戻したのだから、それを顕彰したい気持ちが強く後世に時定屋敷跡と言われるようになったのでしょう。
大正時代の 「名賀郡史」によれば、「服部六郎時定宅址、 薦原村大字薦生に在りと傳ふ」とのことで、彼の出身は服部郷ではなさそうです。時定は家長の年の離れた兄弟か弟と思いましたが、ここは現在の名張市薦生となり、服部郷からは直線距離で約15km離れているので、伊賀服部氏とは別系統の服部氏と見るしかありません。
一方「伊勢国無足人由緒書」には時定の前に伊賀守平内左エ門朝光が出てきますが、この人物は藤原氏系で伊賀氏の祖とされ、没年は1251年なので服部時定の後の人物になり、なぜ前に出てくるのか不明です。単に盛っただけでしょうか?朝光は頼朝に従っておりまた甲賀に住んで服部と号したのもよくわかりません。時定の出身が甲賀なら、名張市薦生の出身との記事と矛盾してしまいます。共通項は時定も朝光も頼朝に従っている点です。まあ、由緒書の前半部分、
先祖藤原末葉伊賀杢頭公季五代孫伊賀守平内左エ門朝光属于平家保
元平治有軍忠恩補伊賀国甲賀後於摂州一谷朝光宗盛公之属籏下述諫
言公不許容、其後三草山敗軍之節出万死察天運還甲賀住、服部更号
は無視するしかなさそうです。
時定は頼朝に貢献して伊賀服部郷を取り戻したのに、それは家長一族のものになったようにも見え、しかも時定は伊賀を離れて山林に潜居。孫まで家長一族に出しています。家長と時定の関係性は別系統とは思えないほどのものがあり、時定は自らを犠牲にしてまで家長系に配慮を示しているように見えてしまいます。家長系が服部氏の本流と考えていたからなのでしょうか。矛盾があり過ぎてこの辺の事情はさっぱりわかりません。
Wikiには本願寺配下の服部氏は、前述の服部氏とは別系統で、伊勢国奄芸郡が発祥とされる。戦国時代の「服部党」当主の服部友貞が有名。と書かれていました。これは「伊勢の服部氏 和名抄 奄芸郡に服部郷あり、八止利と註す。この地より起りしもあらん。永禄中、服部友定あり、長島砦を修し、ここによりて、北畠氏に属す。」がベースになってそう書いたものでしょうね。これを山之一色村に置き換えれば、友貞公が少なくとも伊賀服部郷ではなく伊勢国が発祥となるので、部分的には一致しています。
家長やその他の系図では時定の孫が養子になっているので、系図は横に置いて血脈面から見た場合服部友貞も時定の遠い子孫とも言い得るのではないかと思います。ここまでを総合すると、友貞公のご先祖は服部時定で山之一色町にいた服部さんの可能性も三割程度はありそうですが、いかがなものでしょう。
「伊勢国無足人由緒書」は以下を参照ください。
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/common/content/000943711.pdf
伊勢における服部さん関係はP36、40、62、63、74(ページ数でコマ番号ではありません)に出てきます。漏れがあるかもしれない点はご容赦のほど。
纏めれば、服部時定は二君に仕えるのを恥じて山之一色村に潜居し孫は家長の一族に養子に出させ、他の子孫は山之一色村で過ごし繁栄したが、後にこの村を出た者の子孫が服部友貞となった。と言ったところでしょうか。もちろん当たれる史料に限りがある点、桓武平氏の他の流れに属する服部氏をチェックしていない点、家長と時定の関係性が矛盾だらけで確たるものがない点など、問題点や穴は多々あると思います、よって上記は私の勝手で荒っぽい独自見解になり正しい保証はない点お含み下さい。以上を伊賀服部氏の始まりの四つのラインにおける一つ目(服部時定)の検討結果としておきます。
かなりの長文になり、誤字や脱字その他があった際はご容赦のほど…。
[59] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月03日 13時02分32秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
伊勢無足人名簿のURL
ありがとうございました。
郷士の服部さん
服部姓使用者として5人の名前が載ってますね。
更に
服部姓から名字を替えざるを得なかった人も。
長嶋の人なのに信長に仕えてたとか
許せないっ!
へぇ〜
でも、そうなんだぁ〜
そんなものなのか
と驚いています。
宗清の子で反頼朝だった日置さんも載ってて(日置太郎家清の子孫?)驚きました。
上のレスに滝川一益の名前を書きましたが
この人の先祖は北畠に仕え「大河内城の戦い」で織田+滝川雄利と戦って討ち死にして
代々川上村に居住してきた
と書かれてて
伊勢の皆さん 本当に皆さんは織田についてたのか 神戸も柘植も長野も と
暗澹たる気持ちになりました。
泣
藤原姓の服部さんもいたり
ま、これは分かります
10世紀の秀郷公と平氏の関係以来
伊勢にお互いに引っ越して
当然 通婚してるから
藤原姓で服部さんがいて当たり前でしょう
わたしは逆に榊原温泉の田んぼの畦道を一緒に歩いた末に結婚してたら
服部姓の藤原さんになるところだったんだし
御縁がなくて良かった!
生まれた子供はとんでもない悍馬だったかも
自分より制御不能の子供が生まれたら? という恐怖心があります
家長後胤で
顕家公討ち死にの後にお子様の顕信卿に仕え
武州から北畠晴具に従って伊勢に来て
のちに
慶長12年藤堂家の伊予から安濃津御入城から
河邉と名字を替えた
という人もいて 涙 です。
遠慮してますね。
心の裡が読めてしまって
「日本人はそんなもんなんだろうな」
です。
紀貫之の子孫もいたりして
ビックリ!
どころか!
わたくしの母方一族の者も伊勢に流れ着いていたとは。
同じく84代目なのかな?
出会ったら ピン! と来るのかな?
郷士の皆さんの来歴
なかなか興味深くて読み込んでしまいました。
ありがとうございました。
あ、壇ノ浦後 花垣村予野に住した 服部六郎時貞 は 伊賀の平六服部連(むらじ)家長と同一人物なんでしょうか?
時貞の孫の代に服部公清の子が養子に入って後継者となり保俊と名乗った とか?
この服部公清は屋島の合戦後 保長と名を替え 千賀地に居住した説有り。
半蔵さんのパパと同名ですね
その上
半蔵さんの家は
ほのはやひの命の末裔で
允恭天皇の御宇に織部司に任じ諸国の織部を拾領
服部連を称す
で、伊賀の家長の子孫も称しています
ということで服部時貞が服部連家長と同一人物説と合致?
時貞の孫の宗保が柘植宗清の孫の柘植家俊の養子になって清正を名乗り子孫が観阿弥や芭蕉だとか。
さぁ
どうなんでしょう?
とにかく ワケ 分かりません。
とにかく現代の家族関係とは全く違うし 家の感覚も違うし 「御家の存続」感覚も違うし
漢字もテキトーだし。
「時定」じゃなくて「時貞」という書き方も興味深くて「貞」の方がワタクシ的にはシックリです。
郷士録を拝見して興奮して
調子に乗って
ツラツラ書いてしまいました。
本当にありがとうございました。
[60] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年05月03日 19時26分00秒 ) | パスワード |
あをさん
「伊勢国無足人由緒書」がご参考になって幸いです。「伊賀国無足人帳」もデジタル化の作業中のようなので、いずれネット上で見られるようになるはずです。次の課題は家長になり、あをさんのご質問も含め検討には少なくとも3日程度はかかりそうなのでお待ちください。その間に、
>壇ノ浦後 花垣村予野に住した 服部六郎時貞
に関してどの史料或いはネット情報にそう書かれていたのかご教示ください。
[61] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月03日 22時47分05秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
「無足人」は「無宿人」みたいで 笑ってしまいます。
今時の人は「無足人」という文字を見たら
ヤクザかホームレスか
逃散農民
あたりのハンパ者を連想するんでしょうね。
ホンヤさんについて紹介した或る新聞記事に「土豪」と書かれていて (この記者 アホか) と思いましたよ。
ホンヤさんが「うちは土豪の末裔です」とおっしゃるなら
笑って済みますが
記者なら 勉強はしてるだろう 不勉強にもほどがある と思いました。
仮にも 尾張徳川藩の財政を担っていた家を土豪とは
それも 尾張藩の殿様を養育した家を土豪とは
と。
>壇ノ浦後 花垣村予野に住した 服部六郎時貞
>に関してどの史料或いはネット情報にそう書かれていたのかご教示ください。
どこで読んだか 大昔ですよ
手に入るありったけの本で読んだ中 というのは 当然で
花垣村には 行ってるんです 心象風景でも原風景でも
予野は大事な場所で
オットと「🌸」を見に行ったし
花垣村の🌸のハナシは御存知ですか?
芭蕉も花垣村の🌸を詠んでいます
「一里は 桜守りの 子孫かや」
芭蕉も一応 家長+日置(宗清) 関係者ですから
花垣村には思い入れがあったんだろうな
と。
榊原温泉の畦道を一緒に歩いたオトコの素性を知って
花守りならぬ墓守りとして佐竹に置いていかれて秋田に連れて行って貰えなかったヒトにお願いして
予野に連れて行ってもらいました
その途中で 心象風景のオトコが 赤い橋の袂で直衣?狩衣?姿でワタシを待ってました
「今!いた!アソコにいた!アソコで待ってた!」
と叫びました
半蔵さんの家が千賀地と知って
ビックリでした
わたしは 心象風景では 伊賀山田の平田家継の娘か孫娘 って感じなんですけど
なんで 千賀地?花垣村?予野? という地名に引っ張られて
それはそれは 手に入るだけの情報を集めた時に 知ったのです。
もう何十年もムカシなので どこに記録があるやら です。
でも頑張って掘り返します。
[62] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月04日 03時16分22秒 ) | パスワード |
捜すと逃げる
まるで逃亡者を追う刑事の気分
古いな
わたしがココ何十年も捜している本があって
それは吉野朝忠臣15家の名を記した本です。
服部家は7名字の1つ
吉野からお供してきた公家庶流
堀田正重、平野業忠、服部宗純、鈴木重政、真野通資、光賀為長、河村秀清
河村とは今でも仲が良い
鈴木さんは物凄い土地長者でワタシは玉の輿に乗り損ねました
土地長者ってのをバブルの時に知った(TOO LATE!)
母に 「惜しいことをした」 と遅れ馳せながら伝えた(笑)
堀田とも 仲 良いです
堀田から尾張徳川家に養子が来て
薨去の後
ホンヤさんも 亡くなりました
尾張徳川家は1代おきに養子を迎える
とホンヤさんから聞きました
わたしの恩師
なんか心惹かれる恩師で
恩師の母親が 堀田つながりの名家出身ということを知りました
わたしと恩師は たぶん 平家+南朝方繋がりの子孫同士 と思います
FのところBで通してくれました
恥
で、ある時 ある本で 吉野朝忠臣15家の名前を見たのです
4名家
7名字(これは 当然 知ってた)
4名姓(どうしても 1つ 思い出せないので 27年間 捜しているところ)
この「4名姓」の1つに『榊原温泉のオトコ』の家の名が載ってて
それで電話したのです
お母上から(うちの子にちょっかい出さないで)という圧を感じました
理由は『オトコ』から聞いた
お母上はわたしのコトを誤解してて 息子の『ムカシの女』が今頃? と
この『ムカシの女』の先祖が「無足人」名簿に出てるからジックリ読むつもり(笑)
彼女からワタシに「もらうよ」と挨拶
あったから
「どうぞ お構いなく」
と返事した
なのに この2人 別れてた
なんで?
とにかく「4名姓」に引っ張られて電話して
お互いに「月」を見るたびに「どうしてるのかな」と思っていたのを知った。
わたしは彼が「配所の月を見てる姿をずっと想像してた」と表現した
泣
彼は「伊賀の殺戮の景色が見える人がいてね」と話してくれた。
たぶん 彼自身が見えるんだと思う
わたしを怖がらせないために「見える人がいてね」と話してくれたのだと思う
宇高連絡船でも船にすがりついて来る武士達がいるのが見える人のハナシを聞いたことがある
この電話の時に
彼はわたしのコトをホンヤさんの姫と勘違いしてたのを知った
わたしは彼の家のことは知ってるし 没落していった経緯も知ってるし
それで
彼は「うちの本家の長老はお文庫蔵の扉を研究者に開くなんて絶対しない。分家衆に自分の家のことを説明してくれたんだよ」
と
私は電話で聞いたのだと思う。
無足人名簿を見ながら
伊勢伊賀侵攻の時
皆さん 信長方についたのか
と
平家と南朝方で一緒に頑張ったのに?
だけど
信長は
平資盛と平信兼の娘の間の子孫で 越前に転戦して
ここまでは 確かに 仲間だったのに
その後 織田が尾張に来て 力を持てば そりゃあ 皆さん 織田に付くな
と納得せねばと「無足人名簿」を見て 時代の流れを反省する。
幕末に井伊大老の側近が長野さんだったこと
そりゃ
南朝方以来の腹心だよね
と思う。
アチコチ逍遥して申し訳ない。
[63] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年05月04日 06時57分42秒 ) | パスワード |
あをさん
>4名姓(どうしても 1つ 思い出せないので 27年間 捜しているところ)
全くわからないのですが、脇屋義助は候補になりませんか。熱田神宮とも関係があり、師崎まで来ています。詳細はWikiを見てくださいね。
[64] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月04日 09時08分14秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
>脇屋義助
残念ですが 伊勢の人じゃないので 入らない です。
好きですよ、この人。
思い出すと涙が止まらなくなる人です。
圧倒的なイケメン枠に入れたいです。
誰に演じて欲しいかな?(遠い目)
好きな人物のもう1人は 尊良親王に武士の死に方を教えた義貞の息子の義顕です。
その前年の10月
わたしの母方の一族が金ケ崎に援軍に向かう途中でホワイトアウトに掴まって道に迷い(木の芽峠の北って聞いたかな)
この年は歴史的な大雪だったそうです
母方の一行 300騎 馬は凍えて働かず指は凍えて刀を握れず
斯波と佐々木の軍勢に掴まってズタボロにされた
翌春
金ケ崎は兵糧も尽き
義顕は尊良親王に腹の切り方を教えて
享年20。
このせいか ワタシは雪が怖いです
アメリカでもドナー隊が大雪で遭難して死者で命を繋いだ話があって
雪の恐ろしさは絶対に甘く見てはダメ
というのが身に染みています。
金ケ崎にはオットと一緒に行きました。
物凄く風の強い所で
冬の寒さはいかばかり?
でした。
氣比神宮にも行きました。
オットは柴田勝家とお市さまが好きだから福井にも行って
わたしは越前は平家ゆかりのエリアだし南朝方のエリアだし
やっぱり平家とか南朝方とかいうのは いいな と思います。
源氏とか北朝方とかいうのは仲間の殺し合いがあって 好きになれない。
信長が伊勢伊賀を欲しかったのは やっぱり 父祖の地だから? と思ってしまいます。
本当に資盛の子孫だったの?
と。
[65] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月04日 22時42分37秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
子供達がSTEM式教育で未来を作っていきますように!
ということで
2024.05.04
地方の製造業が日本を繁栄に導く〜特に浜松、
スズキ、ホンダ、ヤマハ、カワイ、浜松ホトニクスなどを生んだその「心意気」
https://gendai.media/articles/-/128726?page=3
県庁所在地でさえない浜松市から
>「やらまいか」で独自の地位を築く浜松
>県庁所在地でさえない浜松市から多数の世界的企業が生まれたことはよく知られているであろう。
以下略
全文
https://gendai.media/articles/-/128726
[66] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年05月05日 07時50分22秒 ) | パスワード |
あをさん
>あ、壇ノ浦後 花垣村予野に住した 服部六郎時貞 は 伊賀の平六服部連(むらじ)家長と同一人物なんでしょうか?時貞の孫の代に服部公清の子が養子に入って後継者となり保俊と名乗った とか?この服部公清は屋島の合戦後 保長と名を替え 千賀地に居住した説有り。
上記に関して服部六郎時定が壇ノ浦後花垣村予野に住したとする史料や根拠がないかお聞きしたのは、彼が源氏(頼朝)に従った人物だったので、壇ノ浦の戦いの後隠れ里とされる花垣村に逃げ込む必要など全くないはずと理解しているからです。だから、平氏系のままだった家長と源氏方となった服部六郎時定は別人と考えます。
色々な状況証拠から友貞公は服部六郎時定の子孫ではないかと書きましたが、他にも幾つかの状況証拠を挙げることができます。例えばホンヤさんはうちは源氏と言われていますね。あをさんはこれを後醍醐天皇の頃に源氏姓を賜った、つまり宗純の頃に賜ったと考えておられると理解しています。けれども、系図的に見ると宗純も平氏の系統のはずです。
ホンヤさんの先祖は記録によれば南朝の遺臣とのことで、系図的には多分宗純からのものが残っているのでしょうけど、宗純の時代には当然平氏からの系図があったはずで、源氏賜るのは非常に難しいと思われます。ずっと時代は下りますが、家康などでさえ源氏を賜るため相当無理・苦労をしています。となると、宗純が持っていた系図は家長からのものではなく服部六郎時定からのもので、彼が源氏方だったから源氏姓を賜ることができたと設定すれば、可能性は格段に高くなってきます。「伊乱記」が服部六郎時定を源氏と書くのも、それに類した何らかの史料があったからでしょう。
次に家長が服部連の子孫とは考えられません。服部連は各地の織部を総領する高位の立場の人物となりそうですが、渡来系の機織り(服織)女工である呉服(くれはとり)や漢服(あやはとり)がそのような立場に進めるとも思えません。例えば秦氏が各地の織部を管理したと言ったことはあり得る話となりますが…。「伊乱記」には
服部氏に三流あり漢服部は平内左衛門相続し平氏、呉服部は服部六郎時定相続し源氏 敢国服部は一ノ宮の神事を勤める一族で源氏
などと書かれていますが、そもそも平氏系で武家のはずの家長が渡来の職能民である漢服部を相続するとは考えにくいと思えませんか。家長の系統がいつから千賀地谷に逃れて千賀地氏を名乗ったのか不明ですが(家長から?保行から?)、源氏の追及を恐れ隠れ里に逃れたとしたら、その行動自体が家長が機織り系ではなく武家であることを示しています。服部六郎時定にしても、頼朝の命により源義広や源有綱を討っているので、当然武家となります。
従って、渡来系の機織り(服織)女工、服部連、平氏系の家長、源氏に従った時定は別カテゴリとして分別する必要があるのではないでしょうか。全部をごっちゃ混ぜにすると訳が分からなくなってしまいます。家長が漢服部、服部連、平氏系の三つの異なる属性を持たされたとすれば、ちょっとかわいそうですね。
「伊乱記」は以下を参照ください。服部氏関係はコマ番号36、39、40、41に出てきます。家長を一方で漢服部を相続と書き、他方で侍と書き矛盾しています。ただ服部氏の全体の流れは、正しいかどうかは別として、見ることができます。
https://dl.ndl.go.jp/pid/768755/1/36
服部時定と家長は同一人物かに関して、同一人物として見るとわかりやすい部分、わかりにくくなる部分があります。時定が頼朝に従い源義広と源有綱を討ち褒賞として服部郷を得たのであれば時定こそが服部氏の祖となりますが、一般的には家長が祖とされており、二人を重ね合わせ同一と見ればこの矛盾は解消されます。
ところが、時定が服部郷を取り戻したとしてそれは1186年以降になり、家定は1185年に没したとされるので話がおかしくなってきます。時定は源氏に従いその後の動きは既に書いた通りで、一方家長は既に書いたように本人或いは保行が源氏の追及を恐れて千賀地谷に逃げているので、ここでも大きな矛盾が生じるため、別人と考えた方がすっきりはします。「伊乱記」も家長、時定で二流とすべきを、度々の兵乱で昔の素性を忘れ、悉く家長の流れに移すに至る。と言った主旨で家長=時定に対して批判的です。
>時貞の孫の代に服部公清の子が養子に入って後継者となり保俊と名乗った とか?
服部六郎時定の孫の保俊が家長の子の家清のところへ養子に入ったと思いますが…。
>この服部公清は屋島の合戦後 保長と名を替え 千賀地に居住した説有り。
「伊乱記」を見ると服部氏が伊賀(多分名張も含む)の非常に多くの地域に存在しているように書かれており、色々な説が出てくるのはありがちな話だとは思います。服部公清って家清のことではないのかな。
あまり纏まりのない文になりました。現時点における私の理解では服部六郎時定の子孫がホンヤさんです。(注:当たれる史料が限られているので、他の色々な史料が出てきたら当然変わる可能性もあります)さらに検討を加えて、続きも明日以降に書いていきます。
[68] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月05日 11時06分20秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
>後醍醐天皇の頃に源氏姓を賜った
これなんですけどね
母方もコレがあるのです
ただし
後鳥羽上皇の御世ですけど。
母方が「うちは源氏」と言うので
わたしは「源氏*方*でしょ」と母や伯母達に反論してたのですが
後鳥羽源氏
と言うというのを知って
「そういうのがあるのか」
と驚きました。
息子達が西面の武士として仕え
孫娘が寵愛を受けてたのが 後鳥羽上皇を記念した母方の女紋の由来 です。
わたしも式服の紋は コレ です。
それでホンヤさんが「うちは源氏」とおっしゃったのが納得出来ました。
でも ホントの所は 突っ込んで訊かなかったので なるほど了解しました の段階で納得しています。
家康のように 書付をアチコチ引っ繰り返して 元は藤姓だ 源姓だ 細い糸をたぐって朝廷にお願いして認めて頂くのとは違って
後鳥羽上皇や後醍醐天皇が下賜するのは 天の声 ですからね。
わたしもホンヤさんから「うちは源氏」とお聞きした時は 捨てられたような気分でしたよ(え゛〜?平氏じゃないのぉ?)
父方母方で共に繋がる人が 改めて 御所に系図を提出して 京都の雅な世界でご活躍ですが
氏や姓で
御所から認められた存在というのは
今も 有るのですから
わたしはホンヤさんが「うちは源氏」とおっしゃってる事を素直に受け取るだけです
うちは「馬の骨」ですから。
姉が京都に御縁があった時に父が大反対して流れましたが
母にとっては御歌のうまい母の祖母が藤原家の出身だからモヤモヤしたでしょうけど
わたしにしてみれば 姉の縁で わたしも雅な世界を垣間見れたのにぃ〜!
でした。
藤原姓 ゲット
失敗!
どっちにしろ お歌も詠めないしね 雅さも無いし
わたしの心象風景は 平将門の来襲を恐れる上総国分寺の隣の少女 と 伊勢のあどけない少女なので どっちにしろ 平氏だったらいいな です。
あ、そうそう
また書いておこう!
藤原秀郷公の円墳の方のお墓に行った時
村人が来たので
「秀郷公にご挨拶に参りました」
と挨拶したら
雷が轟いたのですよ!
「しかと その 挨拶 受け取ったり!」
と秀郷公が割れるような大声で返事をしてくださったみたいで
その村人と「秀郷公が喜んでくれてるね」などと笑いました。
なんか
平将門を討ち取った時のダウンバーストの再現が始まるのかという
忘れられない体験でした。
オットは突然の春雷で嵐になるんじゃないかと早く名古屋のわたしの家に戻ろうと心配してましたっけ
もう1つは上総国分寺へ行った時
平将門の軍勢が嵐のように押し寄せて来た時の恐怖心が蘇って
実際にものスゴイ嵐になって
東京の両親宅に戻れないんじゃないか
と心配になりましたよ。
逆に
時間が出来て アオヤギの佃煮を買うことが出来ましたが(笑)
この意味 分かります?
この事からしても ワタシは上総の住人でしょ?
笑
「アオヤギの佃煮を買って帰らなきゃ」と心象風景の少女がわたしに何度も言ったのです。
バカ貝なんて名古屋人は食べないですよ
母は怒ってました「なんでバカ貝?」
食べるのはハマグリ!
アサリも食べない
シジミなんて もっと 食べない!
って。
ホント
なんでアオヤギの佃煮を買ったんでしょう?
心象風景の少女はアオヤギが好物だったんでしょうね。
やっぱりワタシは平氏なのか。
[69] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年05月06日 07時50分33秒 ) | パスワード |
あをさん
>家康のように 書付をアチコチ引っ繰り返して 元は藤姓だ 源姓だ 細い糸をたぐって朝廷にお願いして認めて頂くのとは違って後鳥羽上皇や後醍醐天皇が下賜するのは 天の声 ですからね。
確かに…、家康の例は不適切でしたね。反省。
これは四家七名字との関連で見た方が適切かもしれません。四家七名字筆頭の大橋氏は祖を桓武平氏としており、平家房−家貞−貞能と続く平氏系図の貞能を先祖としています。そう言えば、家貞の子が家長との説もありましたね。で、大橋氏は後醍醐天皇の曾孫・良王を津島に迎え、その子神王丸を大橋家の養嗣子としました。その上で氏を平氏から後醍醐源氏に改めているのです。筆頭家の動きを見た服部氏。そうかウチも源氏を助けた過去がある、じゃあウチも、大橋氏と遠い先祖が同じみたいだし後醍醐源氏でいいじゃないか、などと考えて源氏に改めた、と言った筋が想像できそうです。あをさんの考えとは違うのでしょうけど、こうした見方もできるかも、と思っていただければ幸いです。
あ、ついでに四姓は宇佐見家、宇都宮家、開田家、野々村家ではないでしょうか。
伊賀服部氏の探求は私にとってはややこし過ぎるので、もう少し史料などを読み込んだ上で考え、いつになるかわかりませんが書いてみます。
[70] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月06日 11時39分55秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
最近どうしてか「夷隅」に引っ張られて「夷隅」関係のテレビ番組を何度も見かけて
またまた
寛政のなんちゃらの服部政信の項のメモを何度も読み返しています。
政信の実家は おそらく ホンヤさんとこの弟か従兄弟か甥か とにかく 一族でしょう。
家紋も同じだし
桶狭間で家康に兵糧を届けてるし
このあたりは「さちこさん」が詳しいと思う
なので政信の家は 酔石亭主さんお書きの 服部六郎時定のハナシ です。
新左エ門政久がとき嗣なくして家たゆ。
庶流服部重之丞信発(のぶひで)が呈譜に
平氏にして葛原親王の後胤 伊賀平内左衛門保長が男
平内兵衛保清
伊賀国服部に住せしより家号とす。
保清9代の孫を修理亮保宗とし
その子を伊賀守宗純とし
その子を左京亮宗家とし
其子を伊賀守宗信とし
その子を左京亮宗政とし
政家は宗政が男なりといふ。
権大夫 左京亮 信発が呈譜 政家に作る。
政家は友定のパパかオジでしょうね
この人が織田信秀に属し のち 尾張国河内に蟄居す
天文5(1536)年8月13日死す
年45。
信秀との手切れ事件ですね
大橋は結局は織田についた。織田から嫁を貰ってたから。
政光
母親は横井丹後守が女
永禄3年5月織田右府信長
今川義元と尾張国愛智郡沓掛にをいて合戦の時
政光 兵糧船1艘をもって東照宮にたてまつりしかば
御感をかうぶる。
この年 岡崎においてめされてつかへたてまつりしかば
のち 遠江国河の内庄にをいて3000貫の地をたまふ。
以下略
妻は千秋式部少輔某が女。
この子孫が ずっと後に 1643年かな? 夷隅に采地を移さる。
家紋:
矢筈車
寛政なんちゃらの時代の この一族の 家紋:
源氏車の内矢筈
揚羽蝶
16葉菊
16葉八重菊
上藤
[72] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月06日 13時11分52秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
>四姓は宇佐見家、宇都宮家、開田家、野々村家ではないでしょうか
4家は「伊勢」の家なので
この4家ではないと思います。
開田は美濃だったような記憶。
4家の内 3つまでは記憶しているのですが 1つが全く分からないです。
テーブルの上にクロスレファランス 日本語で相互参照? のために数冊置いて読んでて
4名姓を見たので興奮のあまり日本に電話して くっちゃべってて
ウッカリ本を閉じてしまったので どのページだったか 分からなくなりました。
その後
しょっちゅう本を最初っから最後まで何度もそのページを捜したのですが
今日も分からなかったです。
今日 なんと 分かったのは
4家のうちの2家は藤原
もう1家は(やっぱり藤原ですが)工藤祐経の孫で伊勢平氏残党討伐のために地頭となって安濃郡と奄芸郡を賜った家
を標榜してるようです
重ね重ね 敵!
工藤祐経は伊東祐親の仇敵ですからね
そして信長方でしたしね
ということは
南朝方だったのは
回りが 後醍醐天皇に呼ばれて行ったから そのノリで遅れまいと吉野へ行っただけ?
後に信長が力を持って襲って来たから信長に寝返っただけ?
幕末に うちも南朝方だったんですよ と 井伊大老の腰巾着になっただけ?
な〜んか 工藤祐経の子孫らしい行動だな と 坊主憎けりゃ袈裟まで憎いってワタクシの反応でした。
恥
>家康などでさえ源氏を賜るため相当無理・苦労をしています。
>家康の例は不適切でした
いえいえ
父方母方で繋がる人が雅な世界に復帰して もともと雅なおかたですが 本物の雅な御方になられたので 喜ばしいのですが
「記録」と「後ろ盾」があれば御所に認められるのです。(+実力も必要)
つまり 「お言葉」は 日本人としての最高の栄誉です。
XX天皇から頂いたお言葉は末代までの誇り。
ですから どこかに 何か 何でも良いから 「記録」はないか?
と家康が捜し回ったのは当たり前。
わたくしだって A宮さまから・・・ という (ふふふ) というのがありますから。
そして徳川さまからも楽しいお言葉を頂いておりますから。
更に 日本のさる大富豪(のお坊ちゃま君)から いろいろあって
肘鉄喰らわせて
玉の輿願望の同僚から「勿体ない!」と羨望されました。
この5月には上皇様の<親友を挟んでの>パーティがありますし。
まだイロイロありますよぉ〜
それもこれも オットと結婚したからこそ です
家康が新田さんとの関係に結びつけることが出来て
つまり朝廷から認められて
本当に「良かったね」と思っています。
先祖が子孫に美田を遺してくれたら 子孫は楽勝。
持つべきは 良い先祖。
後鳥羽上皇から叱られた「お言葉」でさえ 800年を超す 我が家の「お宝」です。
ふふふ
[73] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年05月06日 18時53分32秒 ) | パスワード |
あをさん
>後鳥羽上皇から叱られた「お言葉」でさえ 800年を超す 我が家の「お宝」です。
ふふふ
あおさんは千年の歴史を自分の中に吸収・同化させ、そのイメージや心象を様々な形で提示できるちょっと不思議な能力をお持ちのようですね。私にはそうした能力は皆無なので、たまに雲間を高く超然と飛ぶ白鳥を見ているような気分になることがあります。あ、そう言えばあをさんのハンドルネームも白鳥に関係していましたね。服部氏関係はあをさんの守備範囲なので、男の感覚かも知れませんが少し対論的なやりとりができたらな、とも思います。
ところで、ネットサーフィンをしていたら偶然桑名市の長禅寺にある服部家石碑に行き着きました。石碑に刻まれた文面の概要もネット上に出ています。将来ブログに書く際の参考にもなるかもしれず、あをさんはもうご存じの話かもしれませんが、以下に書き出しておきました。石碑は大正8(1919)年の建立とのことです。
先祖の服部伊賀守源宗純の子孫である服部武次二郎源義康は、津島4人衆の一人であり、男の子が4人おり、長男 孝康、次男尚康、3男惟康は津島一統の3大将と言われる武士でした。惟康は 織田信忠に仕えて、本能寺の変の時に、京都二条城で討死しています。4男の 道康は長島・松之木村に住み、その村の長となりました。
文禄元(1592)年豊臣秀吉が朝鮮半島を攻めた時に、各地で軍船を建造しま したが、下坂手でも大船を作り阿太希(安宅)丸、伊勢丸と称しました。下坂手で大船を作った残材で、碁盤と仏卓と梯子を作り、下坂手の聞光寺と仁了寺 に現存している。
[74] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月06日 22時41分15秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
>桑名市の長禅寺にある服部家石碑
この辺りは「さちこさん」の領域ですね。
もうすぐジムに行くので
その後
歯科のクリーニングがあって
その後 改めて 書きに来ます。
[75] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月07日 12時51分26秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
>服部氏関係はあをの守備範囲
知りたい段階です
自分なりの情報はまだ全く確立していないので。
他の心象風景に鎌倉炎上シーンもあります
わたしの母方の直接の先祖=34代前=は鎌倉にはいなかったけど
わたしは鎌倉にいて北条一族と共に死にます
名前は柚木朱実です。
柚木は母方34代前の先祖の家号です
パパが数えの17歳の時に生まれた長子です。
パパの正妻さんは北条の娘
パパは正妻の子に家督を譲ったので
34代前は怒って国に帰ってしまいました。
これが母方が 反北条 → 南朝方 になった経緯です。
柚木朱実の名前を知ってるのは
上記レスに書いた「雅な御方」と「秋田に連れて行って貰えなかったオトコ」と平熱の数人
鎌倉にいたのは仲時さまのお帰りを待っていたのです
正直に「仲時さまを狙ってた」って書けよ
と外野が・・・
まもなく仲時さまの御命日なので
元弘3年/正慶2年5月9日(1333年6月21日)
すっごく悲しいです
もう1つ2つ心象風景は
伊勢関係であります
長禅寺
で、
ドキッとしました
桑名は4名姓のオトコ関係の地で
滅びていく過程を知ってる上に
ヨソモノを蔵の中に入れたくない長老の心の裡も分かるので
4名姓のオトコがワタシを美化してた度合を思い出しました。
上記レスに服部政信の家について書きましたが
(服部政家の孫ちゃん=政信のパパ) は
小田原の役で本多忠勝の御使番をしてました。
本多忠勝は関ケ原の後 初代桑名藩主でしたから 猶更 ドキッとしました。
その後の桑名藩の藩主が松平(久松)定勝で
服部半蔵系の家と大いに関係します。
大服部 小服部 とかで知られています。
そして
幕末の 桑名藩主・松平定敬 + 尾張藩主・徳川慶勝 + 会津藩主・松平容保 + 浜田藩主・武成。
彼らの御実家とホンヤさんは引っ張り合いの関係。
どんどん記憶が蘇ります。
まるで記憶力検査ですね 認知症予防になるでしょうか?
笑
確かに4名姓のオトコがワタシのことを勝手に誤解して暴走していったのはホンヤさんの力であって。。。
ホンヤさんは今川義元に一番槍をつけた服部小平太一忠について「津島の服部さん」とおっしゃってました。
アッチは津島の服部さん!
信長とウチとは犬猿の仲!
この時の槍はホンヤさん宅にある・・・
小平太が詰め腹を切らされた後にホンヤさんが貰ったのでしょうね
義元公の御供養をなさってるのかも
「小平太」と名乗っているんですから この服部さんは 平氏ですよね
>服部伊賀守<源>宗純の子孫である服部武次二郎<源>義康
ということは 宗良親王が源姓を賜って 大将として出陣したのかな?
>津島の服部惟康は 織田信忠に仕えて、本能寺の変の時に、京都二条城で討死
「運」ですね
勝つも負けるも時の運
されど討死は主君の馬前で
家康に仕えた服部さんは ラッキー! でしたね。
あ、そうだ
>家貞の子が家長との説
も書いて置かなきゃ。
六郎家長16歳の時 (1131年) 主人の忠盛(36歳)に対する「殿上の闇討の事」を阻止するために
ボデイガードとして父・家貞に同行している話を読んだり絵を見た記憶です。
平家物語では家貞の名だけがBGとして書かれていた記憶
ということは
壇ノ浦の時 家長は70歳あたりだったのかな。 で、知盛さまは34歳。
那須与一に「扇の的」事案で射殺された弟の十郎兵衛尉家員が50歳ばかりの老人として書かれている。
こうして時々記憶力チェックになります。
感謝
>対論的なやりとりができたらな
ムリ無理むり!絶対ムリです。
前提がありません。
知識がありません。
証拠がありません。
文献が読めません。
ません・ません・ません・ません・の羅列です。
だいたい「時定」の「時」って どこから?
「定」は「家貞」からだろうと。
「時」は誰から拝領?
「時」のつく人、誰?
わたくし的に見当をつけるとしたら堂上平氏の時子さまの兄上(平 時忠)のみ。
それで勝手に 時忠卿の系統じゃないか と思ってます。
平時忠の子に「時定」いますから。
この人(の関係者?)がヨボヨボの伊賀の家長の家に送り込まれた?
と勝手に思っています。
時忠なら やりそうじゃありません?
娘を義経に差し出しているし。
この件でも義経は頼朝に疑われ
義経と時忠は手を組んで頼朝に対抗しようと
それで!
時忠は息子の?(孫の?)「時定」を伊賀に送って 伊賀の服部一族を纏めようと画策した
というのがワタクシの作文。
とにかく平家が壇ノ浦で滅びて 伊勢伊賀は主人を失い どうにか立て直さなきゃ と空いた席に 細い細い糸を頼りに取り敢えずの血縁関係者を据えたのでは?
[76] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年05月08日 07時25分05秒 ) | パスワード |
あをさん
>知りたい段階です
自分なりの情報はまだ全く確立していないので。
ムリ無理むり!絶対ムリです。
とてもそんな風には見えないですけど…。あをさんはイメージ力と情報を自在取り出せる力で勝負する方だと思っておきます
>だいたい「時定」の「時」って どこから?「定」は「家貞」からだろうと。「時」は誰から拝領?「時」のつく人、誰? わたくし的に見当をつけるとしたら堂上平氏の時子さまの兄上(平 時忠)のみ。
あをさんの想定外の人物でどんぴしゃりがいますよ。ただ、平姓ではないので視野から隠れてしまったのでしょうね。その人物の姓は北条です。
北条時定(北条時政の甥、従弟、弟??どれなの?)の通称は平六(或いは平六郎)。桓武平氏・平直方を祖としています。(仮冒の可能性が高いとの指摘もあるようですけど)しかもですよ、彼は服部六郎時定に源義広、源有綱の追討を命じています。参考までに「平家物語」の「泊瀬六代」より引用しますが、関係ない部分は端折り以下に適当に訳しました。
信太三郎先生義憲(しだのさぶらうせんじやうよしのり、=源義広)は、伊賀方面に落ちたと聞いたので、討伐隊は服部平六を先として、伊賀国へ向った。千戸の山寺にいると聞いたので、おし寄せて捕獲しようとしたところ、義憲は腹を掻き切って倒れ伏した。服部平六が首を獲った。それを持って京へのぼり、「北条平六」に見せたところ、鎌倉殿にお見せして恩賞を貰いなさいと言った。「服部平六」は平家の祗候人(しこうびと。平家に仕えている人)だったので、 平家に没収されていた服部郷をお返しいただくことになった。
ここからは私の推測です。服部六郎時定は鎌倉殿から伊賀服部郷を賜ったと北条時定に報告。よかったね、服部郷を賜ったのだから屋号は服部にするといいよ。と北条時定が答えた。服部六郎時定は、有難うございます。ついてはもう一つお願いがあり、北条様のお名前も頂戴したいのですが、と言った。鷹揚な北条時定は、OK俺の名前でいいなら丸ごとあげるからね、と答えた。
その結果、服部六郎時定に関して平家物語諸本においては、羽取平六 羽鳥平六 服部平六 服部六郎時定、服部平六時定など幾つもの表記が出てしまったことになる。「吾妻鏡」元暦元年(1184年)五月十五日の条では服部平六は出てきませんが、当国羽取山にて志太三郎先生義広と合戦に及び、 終日雌雄を争い遂に義広の首を獲った。などとあります。
羽取山は三重県鈴鹿市郡山町南方の服部山で、郡山町鎮座の酒井神社境内社服織神社と河芸町鎮座の服織神社を結ぶ線上辺りの丘陵となりそうです。羽取平六の名前は有綱を羽取山で討ったからこんな名前が登場したのでしょう。いずれにしても、服部六郎時定の幾つかの名前はどこから切り取っても北条時定と同じか関係しているじゃないですか。
そして、伊賀服部氏の祖は家長ではなくて服部六郎時定になる可能性が非常に高くなります。「平家物語」では家長は平知盛の乳兄弟で壇ノ浦の戦いで平家が敗れると、知盛と共に入水したそうですから、1185年には亡くなっており服部六郎時定が源義広を討ったのはその一年前、源有綱を討ったのは1186年となります。この状況下で家長が1184年段階において服部郷を手に入れ伊賀服部氏の祖になったとは考えられません。
服部六郎時定に関しては他にも検討課題があるのでまた別途書いてみます。
[77] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月08日 09時25分04秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
>服部六郎時定に関しては他にも検討課題があるのでまた別途書いてみます。
ありがとうございます。
ワタシ的には 「羽取時貞」 が気に入ってます。
「鈴鹿の羽取の時貞」が座りが良いです。
「伊賀」の服部時定より
「鈴鹿」の羽取時貞なら 有り得るかな? と。 イメージです。
鈴鹿の山賊の伊勢三郎義盛=義経の郎等=に対応して
鈴鹿の羽取の時貞なら家長の後継者に据えられてもおかしくないんじゃないかと
おかしな事を考えてます
本当に詳しくお書き頂き
ありがとうございます
六郎時定
一体
何者?
何人いるんでしょうね?
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%85%AD%E9%83%8E%E6%99%82%E5%AE%9A%E5%B1%8B%E6%95%B7%E8%B7%A1-3069103#goog_rewarded
服部六郎時定屋敷跡
上野市服部町
現・台上寺寺域にあったと伝える。
東西一〇〇メートル、南北七〇メートル、現本堂の東と北に土塁が残り、堀跡と推定される水田・畑地があって、中世土豪の屋敷跡とされる。
時定は伝承上の人物で、
「三国地志」は服部村の「宮城氏宅址」を服部六郎時定後裔の地にあて、
「伊水温故」は「頼朝卿ノ従士、服部六郎時定、当郷ノ産出、源氏服部ノ元祖也」
とする。
「平家物語」巻一二の「泊瀬六代」には
「信太三郎先生義憲は(中略)、伊賀の方へ落ぬと聞えしかば、服部平六先として、伊賀国へ発向す」とあり、
義憲を千戸(現阿山郡大山田村)の山寺で自害せしめた功により、
「服部平六、平家の祗候人たりしかば、没官せられたりける服部返し給はてげり」と述べ、
平家領として没収された服部郷を復されたという。
http://a011w.broada.jp/oshironiikou/shirobetu%20hattoritokisada.htm
付近住所 三重県伊賀市服部町1515
現在 台上寺
服部六郎時定の屋敷は当台上寺域に有ったと伝えられて居る。
本堂の東と北に残る土塁は東西に100米、南北に70米で堀跡と推定される。
水田、畑地が有って、中世土豪の屋敷跡とされ、当服部町に残る貴重な遺跡である。
服部六郎時定とは伝承上の人物で
「三国地志」には服部村の「宮城氏宅跡」を、時定後裔の地に当て
「伊水温故」には「源頼朝郷の従士、服部六郎時定、当郷の産出にて源氏服部の元祖也」と記されて居る。
「平家物語」の「泊瀬六代」には「信太三郎先生義憲が伊賀の地へ落ぬと聞えしかば、服部平六、先として伊賀国へ発向す」と有り
義憲を現大山田千戸の山寺で自害せしめた功により、
平家領として没収された服部郷を復されたと言う。
この服部平六時定と同人と伝承されて来た。
たしかに先祖は「源平盛衰記」巻一の「五節夜闇」にあらはれる「平六家長」とする話しが加はり、
平六家長、服部平六、服部六郎時定
と三人が重なって来る。
文治2年(1186)「吾妻鏡」に平六時定が大和の国宇多郡で源義経の聟伊豆有綱を討って自殺させ、左右兵衛尉に任じられたと有る。
又、平六時定は治承4年(1180)8月20日に源頼朝が伊豆から相模に向った時に従った一人(吾妻鏡)とされ、
平六時定が文治2年(1186)頃伊賀付近で活躍しており、
それらが重複して服部六郎時定なる人物像が出来た様である。
それに台上寺の当地移転以前に有った土豪屋敷が服部一族と結び付き、
近世になって時定屋敷跡と言はれる様になった。
尚当寺の秘仏で有る「愛染明王」は服部六郎時定の持仏で有ると伝えられ33年目に一度の御開帳時に、姿を拝む事が出来る。
https://www.ict.ne.jp/~hi--no/uhssi/isiker/ukozihci.html
伊賀の服部一族
伊賀で服部といえば 忍者!と早とちりしてはいけない。家康に仕えた「槍の服部半蔵正成」が伊賀者を束ねていたのは事実だ。
その父 保長が伊賀出身と言うのも事実だろう。
しかしただそれだけ である。
服部一族は諸所に分散し 分家、諸家多くある。
住み着いた地名を冠している。
予野の千賀地谷に住み着いた者は千賀地服部と称した。
保長は千賀地服部の出身と言われている。
(宗家ではなく 下の服部とよばれ百姓侍の末であったといわれている。)
上野市服部に小宮神社がある。
延喜式伊賀二十五座に列せられ 伊賀二ノ宮と称せられている。
服部氏の祖神「酒の君」をお祭している。
応神天皇の時代(270年〜310年)に呉国と漢国より絹を織ったり綿糸を紡ぐ女性たちが渡ってきた。
呉国から来た人を呉服(くれは) 漢国より来た人を漢服(あやは)と呼んだ。
この渡来人が所属した部署を部(とり)と 言った。
ゆえに 呉服部、漢服部と書く。
この部とは衣服をつかさどる者に名付けられこの先祖が酒の君で この酒の君が伊賀で領した場所を服部という。
服部氏に三流ありという
漢服部は平内左衛門相続し平氏 コレだよね
紋は 丸に横二つ切り竹矢筈 まさしくコレだよね
呉服部は服部六郎時定相続し源氏 勝手に言ってろ!って感じ
紋は 左ひとつ巴 コレじゃない!きっぱり!
敢国服部は一ノ宮の神事を勤める一族で源氏 そうなの?
紋は八つ矢車 ちょっと違う
石原慎太郎の愛媛の実家の服部家は7本矢車と言ってたけど
また一説に「伊賀一円服部名字七流にて候」(応仁元年 1599年 米良文書)ともいう。
伊賀平内左衛門尉家長
平知盛の家臣。
壇ノ浦では冑を二領着て知盛とともに入水している。
服部村に住んだので服部を称す。
五人の子供がおり 竹野屋(荒木に住す) 宮田(丸柱に住す) 高畠(高畠に住す) 杉本(湯舟に住す) 小泉(依那具に住す)という。
服部六郎源時定(みなもとのときさだ)
頼朝の従士
服部の産。
敢国服部
伊賀一ノ宮と称せられる敢国神社(あえくに 又は あいくに))の古祭「くろうとう」を勤める一族は服部氏のみという古法が有る。
この一族を敢国服部と呼ぶ。
藤堂采女元則
伊賀上野城代職の藤堂采女は予野の産である。
由緒書きには
源姓 保田氏 実は安田 家紋追州流 今は三角文字
元則 幼名左十郎 また 佐助と称す 緯は吉次のち元則
実は千賀地半蔵則直の子
とある。
上の系図は郷土史家の久保文雄著 伊賀史叢考より作成してみた。
久保先生も 紀州保田家と予野千賀地の関係は不明とされている。
群書類従系図部には
則宗
伊州名張郡四濃野城主 豊臣秀吉公に仕える 慶長十四年十二月京都に於いて卒 歳四十六 号元亨院雪貞利白居士とある。
名張郡四濃城主とあるが伊賀郡予野城主が正しい。
采女家は予野では千賀地姓を名乗っているが 明治になり保田姓に復姓している。実質的に予野の千賀地宗家は則直で終わったことになる。
[78] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月08日 10時12分15秒 ) | パスワード |
服部時定問題
過去にもいろいろ話題にしてましたので
そのコピペ:
++++++++++++++++++++++++++++++++++
さちこさんからの情報:
服部時定に関してはこれが面白いかも。
http://d.hatena.ne.jp/ACORN/20061110 ← 既に削除されてた
■[古典]平家物語を読む189
巻第十二 泊瀬六代*1
+++++++++++++++++++++++++++++++++++
これに対して隈さんからのレス
私は系図上のことは詳しくないので分からないのですが、
さちこさんの挙げたサイトを見て、「へぇ〜」と感心しきり。
これって平家物語の現代語訳、ですよね。
今更ながら、「やっぱり平家物語を読み込まないとダメだなぁ」と痛感(爆)。
これには「北条平六時定」と「服部平六」がでてきますね。
ここでいう
「北条平六時定」は北条時政の甥もしくは従兄弟で、鎌倉御家人。
「服部平六」は元平家方で、伊賀に領地を持っていた。
・・・姓氏家系大辞典によると、
志田三郎先生義憲を討ったのが
「伊賀国住人・服部六郎時定」(尊卑文脈)もしくは「服部の下司平六正綱」(平家物語)
伊豆右衛門尉源有綱(源義経の聟)を討ったのが
「服部六郎時定」(伊賀地誌等)もしくは「平六儀仗時定」(東鑑)
「北条平六時定」も「服部」と名乗ったってこと?
平六?六郎?
ややこしい・・・(@@;
++++++++++++++++++++++++
さちこさんからのレス
少しややこしいけど服部平六が時定です。
北条平六時定は別人だと思うのですが。
服部平六は北条氏とは縁戚関係にあったのかな?
この話は一般的な平家物語にはないみたいです。
ずっと前に、四天王寺、服部、伊賀で検索してたらでてきたのです。
リンクしたブログとは違いましたが前にみつけたHPと内容が似てたので。
そしたら肝心の服部平六の時定がぬけていて判りにくかったかも。
>谷の楽頭伶人・兼春、それから秦六・秦七という者のもとである
ここなんですけど、ご存知かと思うけど伶人は雅楽氏のことで兼春は東儀だと思うのです。
兼は東儀家の通字で前宮内庁楽部の楽長も東儀兼彦氏。
十郎蔵人は東儀家にいて服部平六らが討ち入ったが逃げられた。
信太三郎先生義教は伊賀の大山田にて服部平六が討ち取った。
(信太三郎先生義教は志田義憲とも源義広とも)
何で服部家にゆかりのところばかりに逃げ込むのか?
なんか一族グルになってんじゃないのかと思ったりして(笑)
平家が滅んで伊賀も混乱していて、
伊賀は平家の支配下にはあったけれど服部家の一族、血縁関係者多い。
やっぱり伊賀には服部家!
平家以前に伊賀に定着していた服部家。
服部家なくては日の出ぬ伊賀。
ということで。。。
頼朝としても
「伊賀なんぞを領地にしたいという物好きな源氏はいないし、
かといって平家だった服部家に領地をすんなり戻せば文句はでるし。。。
服部家の連中、何でもいいから手柄たててくれないかな〜
そしてたらまた伊賀を服部家に押し付けられるのに」
と思ってた!かも?
でっ、
東儀兼春が「そんなことなら協力してやるぜ」ということで、
娘に「十郎蔵人を誘惑して家につれて来い 服部家には忍びを放つ」
でも逃げられて失敗。
今度は信太三郎先生義教を、一族郎党協力し伊賀の大山田村に追い詰めて袋のねずみにして今度は逃げられないようにし、服部家 みごと! 信太三郎先生義教討ち取れた。
こうして伊賀は平家が滅んでも服部家の領地になりましたとさ。
めでたし、めでたし!
あくまでも、平家物語のこの話はどこまで信憑せいがあるのか判りませんし、
あとは私の妄想です(笑)
でも同じ手柄をとっても
平家だった服部家はすんなり領地を返してもらったのに、
とりあえず、流された常陸房はさぞむかついただろうなと想像すると笑う。
「鎌倉殿は服部家に甘すぎる!あいつら散々清盛にゴマすってきて、 ついこの間まで知盛様、命!と言っておったではないか〜!」
+++++++++++++++++++++++++++++++
HN忘れたけど 赤さんで良いかな?大橋さんの御一族さまからのレス
チョット調べてみました。
ご参考に
持っている平家物語(新潮社:昭和56年発行))には・・本文と注釈より。
◎伊賀の平内左衛門尉(平家長(服部姓)で「平内」は平氏で内舎人(うどねり)を勤めた武士の称。家貞の子とする伝もある。伊賀の国阿拝郡服部平六服部の住人で服部氏の祖という。
◎服部平六時定・・・・伊賀の国阿拝郡服部郷(現上野市)の住人。その地の羽取山は義教誅戮の戦場と伝えられる。平家の家臣で服部姓を称したのは伊賀平内左衛門家長がある。その一族か。
六代:より
兄の信太の三郎先生義教(よしのり)は伊賀の国千戸(せんど)という山寺におはしけるが、当国の住人服部平六時定という者に取りこめられて、自害してけり。服部ヤガテ首を取り、鎌倉へ下る。この服部と申すは、平家伺候の者なりしが、本領伊賀の服部をぞ賜びける。
☆義教・・・・底本「よしあき」とあるのを改めた。とあります。
源為義三男。義広とも。常陸の国信太郷に住んだ。
☆千戸・・・・山田郡山田の下千戸にある天台宗の仏光寺。信太義教の墓が現存する。
☆時房・・・・北条の子息(同じ頁に登場)注釈に時政の子。義時の弟。相模守修理権大夫に至る。佐介と称する。この頃二十九歳。覚一本時貞(時政従弟)とする。
◎北条時定(為時)遠江守(弘安4〜正應2):肥前守護という人物はおりますが、
北条平六時定の名は見つからない。(ハッキリ言って根気が続かない・・笑)
◎それより阿拝郡を「アベ」でタイプする時、人名・地名で打つ際に「服部」の文字が出てくる。同じ読みなのか?
+++++++++++++++++++++++++++++++++++
隈さんから
どうもありがとうございます。m(__)m
それではさらに補足します。
http://bame-web.hp.infoseek.co.jp/miurasoryo.htm
頼朝の挙兵に従った武士(吾妻鏡)の項より、
北条平六時定
所領:伊豆国田方郡北条郷
時政の甥。父は伊豆介時綱。のち、畿内で時政の代官をつとめた。
とあります。
++++++++++++++++++++++++++++++
伊賀守某さんからのレス
みなさん、いろいろご教授戴きありがとうございます。
日本の苗字七千傑さん
>服部時定は藤原氏と同族で天御中主命を遠祖とする。
時定はどこから藤原氏と別れたのですか?
隈さん
北条氏と繋がるとは思っても見ませんでした。
北條氏の方からも調べてみます。
+++++++++++
日本の苗字七千傑さんから
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/
伊賀守某さんへ
服部連は天御中主命を遠祖とするが、天御中主命と天御桙命の間が系譜不詳。
秩父国造の系図などから八意思兼命が天児屋根命の別名と言われる。
八意思兼命−天表春命−阿豆佐美命−加弥夜須命−伊豆■命……味身命(秩父国造祖)
加理夜須多気比波預命−多祁美加々命−天足別命−天御桙命……弥蘇足尼(服部連祖)
加弥夜須命と加理夜須多気比波預命は同一人物と思われる。
この辺りで、分流したのではないかと推測される。
北条氏が話題になっているので、ひとつ問題を提起。
北条氏の由来は、公式には伊豆国田方郡北条庄の地名とされている。
北条の郷名は、「増鏡」、「曽我物語」には記載されている。
しかし「和名類聚抄」、「天保国郡全図」、「旧高旧領取調帳」、「荘園志料」などの信頼性のある史料に北条の郷名、庄名、邑名は見あたらない。
北条氏の地名は伊豆ではなく、伊予国風早郡北条邑とも考えられる。
源頼義は伊予守のちには伊予入道となり伊予には縁が深く、平直方の娘は頼義に嫁ぎ、四男親清は河野親経の女婿となった。
河野親経の父は北条親孝であり、何らかの縁組により平直方の子孫が北条の家名を継承したのではないかと思われる。
源氏、北条氏、河野氏は閨閥を形成して鎌倉将軍職継承にも影響を及ぼしている。
閨閥に関心のある方は、姓氏類別大観(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm )桓武平氏維将流を参照のこと。
++++++++++++++++++++++++
伊賀守某さんから
尊卑分脈を参考にすると
天御中主神―天八下尊―天三下尊―天合尊―天八百日尊―天八百萬魂尊┐
┌───────────────────────────────┘
└高魂尊―思兼尊― 天表春尊―阿豆佐美命−加弥夜須命−多祁美加々命┐
┌───────────────────────────────┘
└天足別命−天御桙命
となりそうです。
ちなみに尊卑分脈では
天御中主神―天八下尊―天三下尊―天合尊―天八百日尊―天八百萬魂尊┐
┌───────────────────────────────┘
└津速魂尊―市千魂命―居々登魂命―天兒屋根命
とあるので
思兼尊と天兒屋根命は別神ではないかと思われます。
しかし新選姓氏録の服部連は、天御中主命十一世孫天御桙命之後也とあるので
十一世という数があいません。
別の系図があるのかもしれませんね。
++++++++++++++++++++++++++++++++
さちこさんから
>それより阿拝郡を「アベ」でタイプする時、人名・地名で打つ際に「服部」
の文字が出てくる。同じ読みなのか?
本当ですね。
服部と書いて「アベ」と読む苗字か地名があるということですね。
検索したけどわかりませんでした。
当て字もいいところですね。
勿論ハットリもですけど。(笑)
大山田の話がでたので。
大山田平田の植木神社です。
http://www.genbu.net/data/iga/ueki_title.htm
現在平田の氏神になってるようです。
平田は今は静かな集落なのですが神社の本殿はド派手でした。
昔はかなり栄えていたのだろうと思います。
津島神社と同じ牛頭天王信仰で紋も同じですな。(笑)
信長は津島神社を信仰していたので牛頭天王社は焼かなかったとか、
信長の攻撃を避けるため牛頭天王社に変えたという話を時々聞きますが、
焼かれてるで〜ここの神社は!
今は平田に平田家はなく服部も一軒ほどでほとんど見かけません。
でも植木神社の神主が川口家で総代も川口家でした。
川口家は平田の有力者だったみたいです。今もそうだろと思います。
家紋は柘植の川口家と同じく丸に並び矢羽。
家紋からすると川口家は柘植の一族というより服部家の一族かも?
まあ柘植も服部も同じ一族で一緒なんですけど。
服部川の川口にいたから川口の服部だったとか(笑)
時定とグルになった一族郎党に川口家も入ってたかも?
植木神社の由緒に、
>寛弘元年(1004)、
出雲国意宇郡日御碕の住人桃木某の三男・政守が夢の告をうけ、
播磨国広峰山から、牛頭天王を勧請し、
王手村清水谷鳥坂神社の相殿に祀った。
とあります。
平田の隣が畑「ハタ」という地名です。
出雲にも平田という地名があり関連が気になります。
平田家も秦氏に近い関係だったかも?
どうしても話がこちらにむいてしまいます失礼。
++++++++++++++++++++++++++++++++
伊賀守某さんから
教えていただいた
日本の苗字七千傑 姓氏類別大観(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm )
によりますと
天御中主尊…(系不詳)…ヒ速日命…(10代略)…麻羅宿禰…(系不詳)…服部時定
となっていますが、これは新選姓氏録の
服部連
天御中主命の十一世孫、天御桙命の後なり。(大和国神別)
と
服部連
ヒ之速日命の十二世孫、麻羅宿禰の後なり。(摂津国神別)
を同系統と見て考えられています。
しかし、『古代豪族系図集覧』では
加理波夜須多気比波預命―多祁美加々命―天足別命―天御桙命―国忍多気命┐
┌―────────────────────────────────┘
└意保名豆命―由多祁命―彦振根命―波刈彌命―磐表主命―古美呂伎命┐
┌―──────────────────────────────┘
└―若多祁命―彌蘇足尼
となっています。
だとすると、ヒ速日命…(10代略)…麻羅宿禰は、「宿禰」から見ても
この系図に入れることができません。
そこで、大和国神別服部連と摂津国神別服部連は別系統だと考えられます。
そうすると、服部時定はどちらの系統になるのでしょうか。
++++++++++++++++++++++++++++++
空の青海のあをから
>服部時定はどちらの系統になるのでしょうか?
確か 家長が壇の浦から伊賀に戻って 荒木には戻らず 千賀地に行って
時定を名乗ったような 記憶。
書いた本人が忘れてた
やっぱり認知症 始まってるのか?
赤面
[79] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月08日 11時24分48秒 ) | パスワード |
北条平六時貞 と 服部平六 のハナシ:
平家物語
原文全文
https://classicstudies.jimdofree.com/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E5%85%A8%E6%96%87/#%E5%B7%BB%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%BA%8C
巻第十二
12-5-3:[以降を正節では欠く]
さるほどに、北条四郎、六代午前具し奉て下りけるに、鎌倉殿の御使ひ鏡の宿にて行き逢ひたり。
「いかに」と問へば、「十郎蔵人殿、信太三郎先生殿、九郎判官殿に同心の由聞こえ候ふ。討ち奉れとの御気色で候ふ」と申す。
北条、「我が身は大字之召人具したれば」とて、甥の北条平六時貞が送りに下りけるを、老蘇の森より、「とうわ殿は帰つて、この人々のおはし所聞き出だして、討つて参らせよ」とて、とどめらる。
平六、都に帰つて尋ぬるほどに、「十郎蔵人殿の在所知りたり」といふ寺法師出で来たり。
かの僧に尋ぬれば、「我はくはしう知らず。知りたりといふ僧こそあれ」といひければ、押し寄せて、かの僧をからめ捕る。
ココ
「これはなんの故にからむるぞ。」「十郎蔵人の在所知つたんなればからむるなり。」「さらば『教へよ』とこいはめ。さうなうからむる事はいかに。天王寺にとこそ聞け。」「さらばじんじよせよ」とて、平六が聟の笠原十郎国久、殖原九郎、桑原二郎、服部平六を先として、その勢三十余騎天王寺へ発向す。
十郎蔵人の宿は二所にあり。谷の学頭、伶人兼春、秦六、秦七といふ者のもとなり。二手につくつて押し寄せたり。十郎蔵人はもとにおはしけるが、物の具したる者どもの討ち入るを見て、後ろより落ちにけり。
学頭が娘二人あり。ともに蔵人の思ひ者なり。これらを捕へて、蔵人の行方を尋ぬれば、姉は「妹に問へ」といふ、妹は「姉に問へ」といふ。にはかに落ちぬる事なれば、誰にもよも知らせじなれども、具して京へぞ上りける。
蔵人は熊野の方へ落ちけるが、ただ一人付いたりける侍、脚を病みければ、和泉国八木郷といふ所に逗留してこそゐたりけれ。
かの家主の男、蔵人を見知つて、夜もすがら京へ馳せ上り、北条平六に告げたりければ、天王寺の手の者はいまだ上らず。誰をか遣るべき」とて、大源次宗春といふ郎等を呼うで、「汝が見当てたりし山僧はいまだあるか。」「さ候ふ。」「さらば呼べ」とて呼ばれければ、件の法師出で来たり。
「十郎蔵人のおはします。人もなきに」とて、舎人雑色人数わづかに十四五人あひそへて差し遣はす。常陸房正明といふ者なり。
和泉国に下り着き、かの家に走り入つて見れどもなし。板敷打ち破つて捜し、塗籠の中を見れどもなし。
常陸房、大路に立つて見ければ、百姓の妻と思しくて、おとなしき女の通りけるを捕らへて、「この辺にあやしばうたる旅人のとどまつたる所やある。いはずは斬つて捨てん」と言へば、
「ただ今捜され候うつる家にこそ、昨夜までよに尋常なる旅人の二人とどまつて候ひつるが、今朝など出でて候ふやらん。あれに見え候ふ大屋にこそ今は候ふなれ」と言ひければ、
常陸房、黒革縅の腹巻の袖付けたるに、大太刀はいて、かの家に走り入つて見れば、歳五十ばかりなる男の、褐の直垂に折烏帽子着て、唐瓶子、菓子などとりさばくり、銚子とり持つて、酒勧めんとする所に、物の具したる法師の討ち入るを見て、かいふいて逃げければ、やがて続いて追つかける。
蔵人、「あの僧や、それはあらぬぞ。行家はここにあり」と宣へば、走り帰つて見るに、白小袖に大口ばかり着て、左の手には金作りの小太刀を持ち、右の手には野太刀の大きなるを持たれたり。
常陸房、「太刀投げさせ給へ」と申せば、蔵人大きに笑はれけり。
常陸房走り寄つてむずと切る。ちやうど合はせて躍り退く。寄り合ひ寄り退き、一時ばかりぞ戦うたる。
蔵人後ろなる塗籠の内へしざり入らんとし給へば、常陸房、「まさなう候ふ。な入らせ給ひ候ひそ」と申せば、「行家もさこそ思へ」とて、また躍り出でて戦ふ。
常陸房太刀を捨ててむずと組んでどうど臥す。上になり下になり、転び合ふ所に、大源次つと出で来たり、余りにあわてて、はいたる太刀をば抜かず、石を握つて蔵人の額をはたと打つて打ち破る。
蔵人大きに笑つて、「己は下?なれ、太刀長刀でこそ敵をばうて、礫にて敵打つやうやある。」
常陸房、「足を結へ」とぞ下知しける。常陸房は「敵が足を結へ」とこそ申しけるに、余りに慌てて、四の足をぞ結うたりける。その後蔵人の首に縄をかけて、からめ引き起こして押し据ゑたり。
「水参らせよ」と宣へば、干飯を洗うて参らせたり。水をば召して干飯をば召さず差し置き給へば、常陸房取つて食うてんげり。
「わ僧は山法師か寺法師か。」「山法師で候ふ。」「誰といふぞ。」「西塔の北谷法師、常陸房正明と申す者で候ふ。」「さては行家に使はれんといひし僧か。」「さ候ふ。」「頼朝が使ひか、平六が使ひか。」「鎌倉殿の御使ひ候ふ。まことに鎌倉殿をば討ち参らせんと思し召し候ひしか。」
「これほどの身になつて後思はざりしといはばいかに、さ思ひしといはばいかに。手なみのほどはいかが思ひつる」と宣へば、「山上にて多くの事に逢うて候ふに、いまだこれほど手ごはき事に逢ひ候はず。よき敵三人に逢うたる心地こそし候ひつれ」と申す。
「さて正明をばいかが思し召され候ひつる」と申せば、「それはとられなん上は」とぞ宣ひける。
「その太刀取り寄せよ」とて、召し寄せて見給へば、蔵人の太刀は一所も切れず、常陸房が太刀は四十二所切れたりけり。
やがて伝馬たてさせ、乗せ奉て上るほどに、その夜は江口の長者がもとに留まつて、夜もすがら使ひを走らかす。
明くる日の午の刻ばかり、北条平六その勢百騎ばかり旗ささせて下るほどに、淀の赤井河原で行き逢うたり。「都へは入れ奉るべからずといふ院宣で候ふ。鎌倉殿の御気色もその儀でこそ候へ。早々御首を賜はつて、鎌倉殿の見参に入れて御恩かうぶり給へ」といへば、さらばとて赤井河原で十郎蔵人の首を切る。
ココ
信太三郎先生義教は、醍醐の山に籠つたる由聞こえしかば、押し寄せて捜せどもなし。
伊賀の方へ落ちぬと聞こえしかば、服部平六を先として、伊賀国へ発向す。千戸の山寺にありと聞こえし間、押し寄せてからめんとするに、袷の小袖に大口ばかり着て、金にて打ちくくんだる腰の刀にて、腹かき切つてぞ臥したりける。首をば服部平六とつてんげり。やがて持たせて京へ上り、北条平六に見せたりければ、「やがて持たせて下り、鎌倉殿の見参に入れて、御恩かうぶり給へ」といひければ、常陸房、服部平六各首ども持たせて、鎌倉へ下り、見参に入れたりければ、「神妙なり」とて、常陸房は笠井へ流さる。
「下り果てば勧賞かうぶらんとこそ思ひつるに、さこそなからめ、あまつさへ流罪に処せらるる条存外の次第なり。かかるべしと知りたりせば、何しに身命を捨てけん」と後悔すれどもかひぞなき。されども中二年といふに、召し返され、「大将軍討つたる者は冥加のなければ、一旦いましめつるぞ」とて、但馬国に多田庄、摂津国に葉室、二箇所賜はつて帰り上る。
ココ
服部平六、平家の祗候人たりしかば、没官せられたりける服部返し賜はつてんげり。
[80] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月08日 12時31分14秒 ) | パスワード |
ムカシ ホンヤさんに
「このあたりで ホンヤさんに対応するような名家はどこですか?」
とお訊ねしたことがあって
ホンヤさんは「桑原さん」と答えたような記憶です。
で、上記の平家物語を読んでて気が付いた!
桑原
出てるじゃん!
長野県立歴史館/信濃史料
https://adeac.jp/npmh/text-list/d100010/ht291850
文治二年三月二七日(1186) 北条時政、信濃の人桑原二郎等をして、京都を警衛せしむの条、(追加)
[出典]
吾妻鏡・六
長野の信濃ってどこ?
岐阜県?
と思ってしまった。
方向音痴なので
やっだぁ〜
地理的に近いのは ↓ この家ですが:謎
桑原家住宅 くわばらけじゆうたく
日本歴史地名大系 「桑原家住宅」の解説
岐阜県:養老郡上石津町市之瀬村桑原家住宅
[現在地名]上石津町一之瀬
北流する牧田まきだ川左岸、川西かわにしにある。江戸時代の建築様式を伝え、母屋・門・倉庫など五棟が国指定重要文化財。桑原家はもと阿下喜あげき(現三重県員弁郡北勢町)の城主であったが、天文(一五三二―五五)頃市之瀬いちのせに移ったといい、のち織田信長・豊臣秀吉に仕えて各地を転戦、軍功をあげたが秀吉の没後市之瀬に戻り帰農したという。慶長一五年(一六一〇)石河光忠が徳川家康より一万石余を与えられ、市之瀬村もその所領となった。同一七年石河氏が尾張藩に付属されると市之瀬村をその在所としたが、このとき桑原家は石河氏に城地を献じたと伝える。
それで更に検索してみて驚いた!
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/1945/1/0160_025_002.pdf
PDFの<16>
名簿の最初に 平六儀仗時定(北条時定)
くはゝらの二郎 桑原二郎
最後に
いかの平太(伊賀平太)
同四郎
同五郎
そして
この次のページも面白いですよ!
時政の祖父は伊勢平氏庶流の時家ですって!
時定は 弟 になってるし
『尊卑分脈』などによると北条時政の父は時方であるが、
『続群書類従』等によると時家、
『妙本寺本』等によると時兼が時政の父と記録されており、
系図によって大きく異なる。
最後の「伊賀」を名乗る3名は伊勢平氏庶流の者ではないだろうか
伊賀には平頼盛の家人も多かったと考えられる
と書かれています。
ホンヤさんの先祖の「服部六郎時定」
伊賀の主人の席の空いた家長の後を ちゃっかり 継いだのかも。
そうすると この「時」の字は 伊勢平氏庶流の「時」の字?
普通主人の通字を家来が使うって 図々しい!にもほどがある のですから
服部六郎時定の先祖と北条時政の先祖は 伊勢平氏庶流で繋がってたのかも。
というコトは
ホンヤさんは本来は伊勢平氏で 後醍醐源氏に化けた で良いのかな?
[82] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月08日 20時53分09秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
「服部六郎時定」と「北条時定」の新しいスレッドを立てます。
ホンヤさん 桑原家の情報 ありがとうございました。
さちこさん さすがです。 そして東儀さんへの💛 本物なんですねぇ
隈さん さすが日本でトップを争う学部ご出身ですね 感服!
板管理人さん ご理解をありがとうございます 必然 ですね
大橋一族さん 「平氏じゃん」と罵倒して 今更ながら ごめんなさい
雅な御方さま お宅さまの御先祖さまが助けてくださいました
秋田転居失敗君 ヤッパリあなたは仲時さまの生まれ変わりだったんだよ
藤原氏長老さま 御蔵を開きたくないお気持ち 相見互いでございます
心象風景の君 私達 やっぱり DNAを共有してるね 君は私で ワタシはキミだったね
三つ柏さん 忠正公を否定して 今更ながら ごめんなさい
もう ムカシのお仲間を総動員した感じ。
特に「仲時さま」。そして 母方ご先祖さま ありがとう!
あの「服部六郎時定」
三つ柏さん 平忠正系の服部を否定したこと 今更ながら ごめんなさい
頼盛さま系の服部さんを否定したことも ごめんなさい
[84] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月09日 02時31分15秒 ) | パスワード |
>桑原家はもと阿下喜(現三重県員弁郡北勢町)の城主であった
ムカシ 働いてた時に 三重県出身の女性が入社して来た。
ものすごい美女
仕事 出来る
スタイル 抜群
わたしの対極のような人
彼女が三重県出身と知って
「じゃ、阿下喜で降りて 乗り換えで 更に奥に行く所の出身?」
と指摘して 彼女が驚いてた。
阿下喜なんて まず 知ってる人は地元民だけだろうから
わたしは地元民じゃないのに何故知ってるの?
分かったよ
美しさから
平家の姫君ってスグに分かったよ
仕事 出来るのことにも 後になって驚いた。
御所では有能な女房だったんだろうな。
[85] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月11日 12時36分00秒 ) | パスワード |
ウッカリ消した?
突然長々と書いてたものが消えた!
何かパワーが来た?
服部時定の「時」の字はどこから?
という件で
長々と書いてたら 何かの逆鱗に触れて 消された?
上記に書いた復習:
伊勢平氏庶流に「時」の字を使用する家があった らしい 情報をゲットした
だから 服部時定は北条時定と同じ「時定」を使うことを許されてたのかも
もし服部時定が北条氏の家来筋なら 主人と同じ通字や ましてや 名前も同じなんて 許されないだろうから
そしたら 今日! なんという偶然!
のと鉄道+五箇山の合掌造り
の番組をやってた。
内容:
義経が東北に落ちて行く逃避行のルートが日本海側で 能登=越中 回りですよ!
越中は平家の大事なエリアの1つであります。
上記に書いたことの復習:
壇ノ浦で平家がボロ負けして 時忠卿は娘を義経に差し出し
この件で義経は余計に猜疑心の強い頼朝の怒りを買い
義経は舟で能登半島沿いを行くのだけど
嵐に遭って須須神社の神様に祈ったら嵐が止んだ
そこで義経は愛用の「蝉折の笛」を奉納した
弁慶は刀を奉納した
義経伝説は数あれど
うちの神社には義経の笛や弁慶の刀がある
と案内の「北風八紘」さんがおっしゃってました。
この後 この番組を放送したハワイのテレビ局のハナシを書いていて
この番組は2021年10月6日の松下洸平出演
不謹慎になってるから書いちゃダメだなと思ってたら え? 消えてる! でした。
コワ〜
また消されるのがイヤだから 3回目はさすがに無い! ここでアップ。
[86] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月12日 06時23分34秒 ) | パスワード |
方向音痴なので
越中=能登=平家ゆかりのエリア
って、事は福井県か?
あ、福井はもっと左下だったから(なぜか過去形)
富山県か!(更なる勘違い発動)
という とんでもない方向音痴であります
答え:石川県
ということで「蝉折の笛」や「弁慶の守り刀」伝説について検索して来ました:
https://www.ishikawa-c.ed.jp/content/m-media/minwa/minwahogenSOZAI/semiore/semiore.html
蝉折の笛 せみおれのふえ
伝説の残る須須神社(すずじんじゃ)
須須神社は、「三崎権現」「須須大明神」と敬まわれ、日本海の守護神として、信仰されているお社です。
ビデオが用意されているらしい
わたしのPCでは見られない
蝉折の笛伝説
須須神社には源義経にまつわる「蝉折の笛」伝説が伝わっています。
「安宅の関を越えた後、義経と弁慶は船に乗り、日本海を航海中、三崎沖で難風にあいました。義経が三崎権現に祈ると嵐は静まったので、すぐに船を岸に着け、三崎権現へのお礼として、蝉折の笛を奉納しました。弁慶は、そのとき、守り刀を奉納しました。」
(話者 須須神社宮司 猿女 貞信さん)
ビデオがあるらしい
宝物殿の蝉折の笛・守り刀
須須神社の宝物殿には義経の奉納した「蝉折の笛」と弁慶の守り刀が、今でも保管されています。
++++++++++++++++++++++++++++++
セミが象徴すること
古来日本では、蝉の抜け殻(空蝉)は儚さの象徴とされていました。
ちなみに外国では、多くは生命力の象徴とされています。
長い時を土の中で過ごし、羽化したあと空に飛び立つその姿から、「再生と復活のシンボル」「大きく成長する前兆」。
++++++++++++++++++++++++++++++++
「蝉折れ」とは
雅楽の横笛として伝来していたらしい。
「蝉折」とは、能管の節裏にある蝉と呼ばれる部分が欠けていることを指す。
+++++++++++++++++++++++++++++
「蝉折の笛」伝説
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1223225517
蝉折の笛は、鳥羽院の時代に宋朝の皇帝から贈られたものと言われています。
笛の名手である以仁王に譲られましたが、以仁王は挙兵の際に笛を三井寺に献上。
その後源頼政の手に渡り、いったん宮中に返されます。
その後平家から義経に渡ったという説や、
義朝→常磐→義経の順で渡ったという説など
いろいろあります。
以仁王は「小枝」と「蝉折」の二管の笛を所有していたといいますが、
小枝の方は敦盛(経正の弟)に渡っています。
経正は琵琶の名手であり名器「青山」を賜っていますから、
「蝉折」まで所有していたとは考えにくいです。
「蝉折」ほどの名器を平家もおいそれとは手放さないでしょうから、
何らかの見返りがなければ義経には渡りません。
義経は平家と交渉する権限は持っていませんから、
何かあれば
鎌倉かお目付の梶原景時に相談するはず。
ですがその形跡はないので、正式な手順はふまれてないと考えます。
一の谷で戦った重衡なら「蝉折」の持ち主としてふさわしいのですが、
彼を捉えたのは梶原景時であり、義経との接点はありません。
重衡→義経は接点がなさすぎです。
残る可能性としては、
壇ノ浦の生き残り組が所有していた場合。
宗盛とか、重衡の妻の輔子とか、時忠とかですね。
鎌倉への護送中であれば、
義経へ接近→「蝉折」譲渡も可能だと思います。
特に時忠は娘を義経に嫁がせるなど、かなり義経への接近が目立ちます。
「蝉折」を義経に渡すチャンスがあったのは、彼だと思います。
時忠が遠流されたのが珠洲市で、
「蝉折」が奉納されたのが珠洲市の須須神社というのも、
何か関係がありそうです。
ただ時忠が笛の名手だったとは聞きませんので、
平家の誰かが所有→所有者が戦死→遺品として保管→最終的に時忠の手へ…
という流れもありだと思います。
義経と建礼門院の情事の噂もありますので(源平盛衰記かな?)
大穴として建礼門院→義経 もありかもしれませんね。
きちんと史料を読み込んだわけではありませんので、私の個人的な想像です。
物語としては、面白いと思うんですけどね…
[87] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月12日 06時34分14秒 ) | パスワード |
さらに検索してみた:
https://meitou.info/index.php/%E8%9D%89%E6%8A%98#google_vignette
1
蝉折(せみおれ)
龍笛
須須神社所蔵(石川県珠洲市三崎町)
謡曲「敦盛」において、「小枝、蝉折さまざまに、笛の名は多けれども」と名笛の代表として出てくる。
身の業の 好ける心に寄り竹の 好ける心に寄り竹の 小枝蝉折様々に笛の名は多けれども
草刈の吹く笛ならばこれも名は 青葉の笛と思し召せ。
住吉の汀ならば高麗笛にやあるべき。これは須磨の塩木の海士の焼き残しと思し召せ 海士の焼き残しと思し召せ。
龍笛は雅楽器のひとつで竹管の横笛を指す。竜笛。「青葉」の項を参照
2
由来
朝廷に伝わった経緯を含めて「源平盛衰記」の「蝉折笛事」に詳述される。
鳥羽院の頃、宋の皇帝から御堂造営の為にとて、檜木の材木を所望ありけるに砂金千両に檜木の材木贈ったところ、そのお返しとして種々の重宝を返送してきたと言う。
蝉折ト云御笛ハ。鳥羽院御時唐土ノ國王ヨリ。御堂造営ノ爲ニトテ檜木ノ材木ヲ所望アリケルニ。砂金千両ニ檜木ノ材木ヲ被進送タリケレバ。唐土ノ國王其御志ヲ感ニシテ。種種ノ重寶ノヲ被報進ケル中ニ漢竹一兩節間被制タリ。
その中に、生きた蝉のような節のついた笛竹(漢竹)一節があった。大変貴重な笛竹であったため、三井寺の法輪院覚祐僧正(大進僧正覚宗)に命じて祭壇の上で七日間の祈祷を行ってから笛にされたと言う。
竹ノ節生タリ。蝉ニツユガハザリケレバ。希代ノ寶物ト思召テ。三井寺ノ法輪院覺祐僧正ニ仰テ護摩ノ壇上ニ立テ七箇日加持ニシテ後。彫タリケル御笛也ケレバオボロゲノ御遊ニハ取モ出サレザリケリ。
これで作った笛を高松中納言藤原実衡(実平。藤原仲実の長男。権中納言従三位)が吹いた際、
普通の笛と同様にうっかり膝より下に置いたところ、笛が無礼をとがめたのか節のところで蝉が折れてしまったために、以降「蝉折」と呼ばれたという。
鳥羽院ニテ御賀ノ舞ノアリケルニ閑院ノ一門ニ高松中納言實平。此御笛ヲ給テ吹ケルガ。スキ聲ノシケルヲアタヽメントテ普通様ニ思ツヽ膝ノ下ニ推カイテ。又取上吹ントシテケル。笛咎ヤ思ケン。取ハヅレテ落ニシテ。蝉ヲ打折ケリ其ヨリシテ。此笛ヲ蝉折トゾ名ケル。
「平家物語」にも同様の話が載る。
さる程に宮は、山門は心がはりしつ、南都は未だ参らず、この寺ばかりでは、いかにもかなふべからずとて、同じき二十三日の暁がたに三井寺を出でさせ給ひて、南都へ落ちさせおはします。
この宮は蝉折、小枝とて、漢竹の笛を二つ持ち給へり。中にも蝉折は昔鳥羽の院の御時、宋朝の御門へ砂金を多く参らつさせ給ひたりしかば、返報とおぼしくて、生きたる蝉の如くに節のつきたる笛竹を、一節参らつさせ給ひけり。
これ程の重寶を、いかゞさうなう彫らせらるべきとて、三井寺の大進の僧正覺宗に仰せて、壇上に立て、七日加持して彫らせ給へる御笛なり。
ある時高松の中納言實平の卿参つて、この御笛を吹かれけるに、世の常の笛のやうに思ひ忘れて、膝より下に置かれたりければ、笛や咎めけん、その時蝉折れにけり。
さてこそ蝉折とは召されけれ。
この宮笛の御器量たるに依つて、御相傳ありけるとかや。されども今を限りとや思召されけん、金堂の彌勒にこめ参らせ給ひけり。龍華の暁、値偶の御爲かとおぼしくて、あはれなりし事どもなり。
(平家物語)
来歴
高倉宮以仁王
その後、「御孫子とて」「笛の器量(上手)たるに依って」鳥羽院孫にあたる高倉宮(以仁王)が相伝し愛用していた。
高倉宮管弦ニ長ジマシマシケル上。コトニ御笛ノ上手ニテ渡ラセ給ケレハ。御孫子トテ鳥羽院此宮ニハ御譲アリケル也。宮モ故院ノ御形見ト被思召ケレバ。聊モ御身ヲ放タセ給ハザリケレ共。深ク龍華ノ値偶ト思召ケレバ。彼天ノ楽ヲ奏ニシテ。此寺ノ本尊ニ進給ヒケルコソ哀ナレ。
以仁王は後白河天皇の第三皇子。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。異母兄に守仁親王(二条天皇)、憲仁親王(高倉天皇)。
なお以仁王は、「蝉折」とともに「小枝」も所持していたが、のち平家追討の令旨を発して決起し三井寺に落ちる際に、高倉院御座所の枕元に忘れたのを長兵衛尉信連(長信連、長谷部信連、左兵衛尉。滝口の武士)が追いつき手渡したと言う。
希代ノ寶物共モ打捨サセ御座御厨子ニ被殘ケル。(略)其中ニ声だト聞シ漢竹ノ。殊御祕藏アリケルヲハ。何ノ浦ヘモ御身ニソヘントユソ。兼テハ被思召ケルニ。餘リノ御心迷ニ常ノ御所ノ御枕ニ殘シ留ラレケルコソ御心ニカケテ立歸テニ取マホシク思召テ延モヤラセ給ハズ。御供ニ候ケル信連ヲ召テ。加程ニ成御有様ニテハ何事カ御心懸ルヘキナレトモ小枝ヲシモ忘ヌル事ノ口惜サヨ。イカヽセント仰有ケレハ。信連サル男ニテ。最安キ御事ニテ侍トテ。走歸御所中大概取シタヽメテ。此笛ヲ取二條高倉ニテ追付進テ獻之。宮御涙ヲ流サセ給ヒ。ヨニモ御嬉シゲニヒ思召タリ。
以仁王は、三井寺(園城寺)金堂の弥勒菩薩像に「蝉折」を預けて奈良興福寺へ向
かうが、途中宇治平等院にて頼政もろとも討ち取られる。
源義経
こうして「蝉折」は三井寺から再び宮中に戻った後、平家の手から源義経の所持するところになったという。
これ以前の来歴は平家物語や源平盛衰記による。
以降は須須神社の「蝉折笛縁起」による。
平時忠が壇ノ浦の後に能登の大谷(珠洲市)へ流罪となっており、後に義経がこの時忠の家に泊まり、船出の際には時忠の娘の蕨姫も同行したと伝わる。
須須神社の「蝉折笛縁起」によると、頼朝に追われる身になった義経一行が奥州平泉へ向かう際、安宅の関(石川県小松市)から舟で出たが三崎(須須)の沖で大暴風雨が吹き押し戻された。義経が三崎権現に祈願したところ暴風が止んだため、加護に感謝した義経が須須神社を訪れた際に、所持していた「蝉折」と、弁慶が所持していた「左」と言う銘入りの守刀が奉納されたといい、今に伝わる。
源義経奥州下向之時、適阻風波難於船中祈此神矣、俄而風波始定舳艫無恙也、於是寄附梵竹之横笛、以賽明神也、彼笛今尚在焉、
神主
船木大宮司
万治之三載夏之孟吉辰 猿女君友胤
この三崎権現とは現在の須須神社(すずじんじゃ)であり、「蝉折の笛」は弁慶が奉納したという「弁慶の守刀」と共に宝物館に所蔵されている。
天正14年(1586年)、前田利家により再興されており、その際に利家が献詠した歌も残る。
ほうくわん殿 この笛をこのすずのやしろにささげ給へとなん ありしよの そのあらましをきくからに 袖さへぬれてねにそなかるる
須須神社−珠洲市観光ナビネット
[88] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年05月12日 06時40分19秒 ) | パスワード |
おまけ
「須須神社社伝縁起」にあるという弁慶と義経の歌が最後に出てます。
義経の「蝉折の笛」と弁慶の「守り刀」の画像も出てます。
https://shiten3403.exblog.jp/26417014/
興味深いブログでしたから勝手にアップ。
ブログ主さん ごめんなさい。
2016年 11月 29日
蝉折の笛
2015.10.18〜20
北陸最北端の義経伝説の地より
須須神社宝物殿の蝉折の笛を拝見
蝉折の笛を拝見には事前に予約が必要です。
画像の下側の大きいほうの笛が「蝉折の笛」となります。
本来、写真撮影は出来ませんが、特別に撮影させて頂きました。
須須神社宮司様
大変貴重なものにも関わらず撮影を許可して頂きました事、
また宝物に関してご丁寧に解説して頂きました事、厚く御礼申し上げます。
源義経をも護った須須神社
天仁三年(1110)、鳥羽天皇が宋朝へ万金を贈った返しとして、
生きた蝉のような節の付いた笛が送られてきた。
特別な笛として大切に守られていたが、ある時、
高松中納言がこの笛を吹き、つい普通の笛と同じように膝下に置いたところ、
それを咎めた笛が、蝉の節のところで折れてしまった。
それ以来、「蝉折の笛」と名づけられた。
この笛はその後、平家から源義経の手に渡った。
文治三年(1187)、兄の源頼朝との不仲から
追われる身となった義経は奥州へ落ちのびる際、
大野(金沢市)から珠洲岬へと向かう船に乗りこむことができた。
その日の昼すぎ、岬の手前で難風に遭い、
三?権現(須須神社)に無事を祈願した。
まもなく風が静まり、お礼をとげるために岬に船を寄せた。
その時、弁慶がさざえに藻がついたものを拾い、
義経に供えながら、
「都より 波の夜(寄る)昼 うかれきて
道遠くして うきめ(憂きめ・浮き芽) みるかな」と詠んだ。
義経は、
「うきめをば 藻塩と共に かきながし
悦びとなる 鈴(珠洲)の御岬は」と返し、
一行をねぎらいながら、
難を逃れたお礼として、「蝉折の笛」を奉納したのである。
それ以来、須須神社の宝物として、大切に守られている。
(「須須神社社伝縁起」より)
[89] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年08月11日 13時20分22秒 ) | パスワード |
あをさん
ご無沙汰しています。こちらは猛暑続きで脳細胞が死滅しそう。思考力ほぼゼロ状態で少し書きます、と言うか色々教えて下さい。
今回あをさんに教えていただきたいのは服部宗純に関してです。ホンヤさんの祖となる人物なので、あをさんも色々な情報を持っているのではと期待している次第。
まず宗純の生没年の推測ですが、「浪合記」によれば、1397年に尹良親王は吉野から上野国に迎えられました。これに供奉した一人に服部伊賀守宗純がいて1397年時点で宗純が18歳だったと仮定すれば、生誕年は1379年頃になります。
間を飛ばし、永享7年(1435年)に20歳の青年となった良王親王は大野を出て尾張の津島に向かいました。服部宗純の生誕年は1379年頃と推測していますので、津島に入った時点では56歳前後となります。結構いい歳になっていますね。そして彼が開基したとされる雲居寺に解説板があるので以下に抜粋します。
雲居寺山門前の解説板。
山号は龍寶山。曹洞宗の寺院で本尊は阿弥陀如来です。永享元年(一四二九)服部伊賀守家継(宗純)の創建と伝わり、…以下略。
境内の解説板。
開基 服部伊賀守宗純 永享12年(1444年)寂
とあります。1379年頃の生誕として没時には65歳前後となります。まあ妥当な生没年となりますが、「浪合記」自体が偽書ともされているので、何とも言えません。宗純の生没年に関してあをさんの推定とその根拠になる具体的史料などがあれば教えてください。
服部宗純は愛知県弥富市五ノ三町辺りに居を構えたようです。五ノ三とは「郷の桟(村の縁という意味)」に由来する地名とのこと。愛知県弥富市荷之上町石仏419に服部家住宅がありますが、道路を挟んで五ノ三町に接しています。宗純の居住地は五ノ三のどの辺りにあったのかご教示ください。雲居寺の住職によれば遺構が残っているようです…。
宗純に関する情報は上記程度で少ないので、この他にあをさんが持っている情報があれば何なりとお教えください。
あをさんと意見交換させていただいた伊賀服部氏に関して、改めて読んで見ると幾つか誤りがありました。いずれブログにでも書く機会があればそこで訂正しておきます。
[90] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年08月12日 12時54分04秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
お久です。
>思考力ほぼゼロ状態
同じくです。
今年は三つ柏さんが御用繁多で遊んでくれないので
近場で「遊ぼ」と誘ってくれるヒトがいると2つ返事で参加して
今や、かなり、お疲れ気味です。笑
例
ムカシ1ドル80円あたりでアメリカの不動産を買って永住権で住んでた人達が
今年1ドル150円だの160円だのになったから売却して4月あたりから続々帰国していきました。
その間に不動産は爆上がりして倍以上の値段になってますしね
ということでお別れ会で食べる系のパリピやってます。
さて
いろいろ調べてたら
思わぬ方向での収穫はありました
母方が落人になって名字と家紋を替えた時の名字が十津川村関連でした
吉野にいた時の屋号を名字にしてました
結局
酔石亭主さんにお答えできるような情報はサッパリ見つかりませんでした。
ホンヤさん宅が今現在の所=旧荷之上城跡=に住むようになったのは
友貞が伊勢で自害して弟(正友)が信長に許されて以後と記憶しています。
1576年から今に至る
ですね。
なので雲居寺の和尚さんがおっしゃった「遺構」はまさにホンヤさん宅の事でしょう。
何やらが濠の跡と聞いたような?
その前に
友貞の父である左京亮信発(=政家)が信長の父の信秀と喧嘩して負けて蟄居した場所は
尾張国河内郡で
ここはもともと領地で
このパパは天文5年=1536年=に亡くなっている。
同じく負けた大橋は信秀の娘を嫁に貰って織田一族に組み込まれた。
二の上って
源義朝が青墓(大垣)から知多へ逃げる途中で
ここ迄来たらもう大丈夫だろうと
身を隠していた柴を舟から放り上げた場所
それが 荷之上 と記憶しています。
雲居寺さんのことはオオムカシに読みましたが
ノーコメント
ということにしたいのです。
後醍醐天皇が1288〜1339
後醍醐天皇吉野行宮が1336
雲居寺創建が1429
開基が宗純 永享12年(1444年)寂
ワタシの知識の 宗純が後醍醐天皇のお召で伊勢から吉野へ出て来て忠臣となった というハナシはどうなる?
ということで
ワタクシとしましては ノーコメント にしたいです。
いろいろハナシが飛んでるんだと思います。
恐らく 宗純の菩提の為に子孫によって雲居寺が創建された のであろう と思っています。
それが1429年だろう、と。
[91] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年08月12日 18時24分26秒 ) | パスワード |
あをさん
なるほど、宗純と後醍醐天皇がリンクしているのなら、雲居寺の話は成り立ちませんね。それほど遠い昔ではないのに、手掛かりはほぼなさそうです。
ところで、ネット上に妙な話が書かれていました。服部六郎時定に討たれた源有綱の子孫に服部季行なる人物がいて、南朝方として活躍したとのこと。服部季行が宗純だったとしても筋が通らない。裏付けとなるような史料がないかチェックしてみましたが、何もありませんでした。
まあ、宗純に関してはもう少しチェックしてみます。
[92] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年08月13日 04時38分55秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
>服部六郎時定に討たれた源有綱の子孫に服部季行なる人物がいて、南朝方として活躍したと
南朝方として、というのは
ホント!
と思いたいです。
本姓問わず俗姓で「服部」は日本各地に存在してきたでしょうから、
源有綱の子孫に服部季行がいても変じゃありません
変じゃないけど
フツー 自分の先祖を殺したヤツと同じ名字を名乗るのはエンギでも無い! とイヤだと思うのですがね。
遠江あたりで服部宗純と何か縁があって「服部季行」を名乗ることになったのか?
平氏には「季衡」や「季宗」という人物がいますから通字に「季」を使ったのか?
人間に関することはどこまでが事実か 謎 ですよね。
母方は、一族、皆が「うちは源氏」と言うのでワタシは孤軍大反対してましたが
某学者が「後鳥羽源氏」という表現を教えてくれて
納得し
え゛〜
でした
ホンヤさんが「うちは源氏」とおっしゃって
え゛〜
でした。
一瞬 ホンヤさんに切られた・・・棄てられた・・・と思いました
しかし後に後醍醐源氏という表現を知って ああ、このコトか と思いました。
または
北条時定と被るから
氏の長者の源頼朝からお前も源姓を名乗っていいよと服部六郎時定は言って貰えていたのかも知れないし
ムカシの事は分からないです。
母方の菩提寺の縁起の中で寺宝について明如上人と我が家の先祖の事がチラッと彫ってあって
ワタクシとしましては
「ちゃんと書いて欲しい」ところですが
彫り直すとしたらそれなりの額が生じるわけで
ま、いいか
と諦めました。彫り直すとしたら ワタクシの懐から出すことになりますからね。
雲居寺さんも似たようなことからハナシが飛んでいるんでしょう。
限られたスペースに記すには端折らねばならないコトが多過ぎますから。
それで忖度の人間であるワタクシは雲居寺さんのことは ノーコメント。
笑
[93] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年08月13日 19時35分12秒 ) | パスワード |
あをさん
思考能力ゼロで漏れていたレス[89]の服部季行関連引用元と実際の文面を以下に載せておきます。
https://green.plwk.jp/tsutsui/tsutsui1/chap4/01gonancho.html
伊賀でも伊豆有綱の子孫で南朝方として活躍した服部季行に助けられた成円親王は、義経が潜伏していた神戸の永浜家に入り、「高貴な家」と里人から敬われている。
成円親王って誰?わからないことが多すぎ。続いて雲居寺関連。
https://tsushima-deratera.jimdofree.com/2018/07/16/%E9%9B%B2%E5%B1%85%E5%AF%BA%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%99%BE%E7%BE%85%E6%BC%A2%E5%A0%82/
お寺は、住職だけでは成り立ちませんので、お寺を開くためには開基と申しまして……分かりやすく言えばスポンサーがいます。それが、服部伊賀守宗純という方です。弥富市の五ノ三に服部家の遺構があることをご存知の方もいらっしゃると思いますが、そこに600年ほど前に移り住んだ方で、元々は津島「四家七名字」の出です。
服部家は代々栄え、宗純公から数えて9代目に当たる人は、服部小平太一忠という方とされています。室町時代末期、織田信長公の馬廻として仕えていたそうです。この雲居寺を護持するだけでなく、弟の服部小藤太と共に信長の家臣として、尾張国津島辺りで一所懸命に働いていた訳です。
服部小平太は、桶狭間の合戦で敵将の今川義元公に一番槍をつけたと言われております。「服部小平太」という人は二人存在することが分かっているのですが、もう一人は東京のお寺の開基で、しかも没年が天正15年ですので別人かと思われます。信長が本能寺で自刃したのは天正10年6月2日(旧暦)で、その時に小平太の弟・服部小藤太は一緒に死んだとされています。服部一忠はその後、豊臣秀吉、その婿の秀次に仕え、松阪城2代藩主として迎えられています。ただ、秀頼が生まれたために秀次は疎まれて、謀反を企てたとして文禄4年7月15日に切腹を命ぜられました。服部小平太一忠は、その時に連座して詰め腹を切ったとされています。7月15日……旧暦ですが、まさに今日のことですね。今日は、服部一忠の命日とされているんです。
弥富市ホームページによれば以下。
服部家は、織田氏との戦乱の後、天正4年(1576年)頃に旧領地荷之上城の跡に居を構えた。当主弥右衛門尉正友は、戦乱で散った百姓などを招き寄せて荷之上村を再興したという。当家の主屋について『尾張名所図会』には「その家は天正年中に建てしままなり」と記されており、構造上からも県内有数の古い民家である。
荷之上城の築城年代、城主名は不明とのこと。服部友貞の居城だったともされているようです。それ以前の話は全くの推測となりますが、旧領地荷之上城つまり現・服部家住宅が宗純の城館だったのかもしれません。ネット上にはそう書いているものも見られました。
ところで服部友貞の居館があったとされる城の腰は愛知県の中世城館跡調査報告Tによると、弥富市五明町築留とのことです。三角公園の南東少しの位置のようですが、遺構は残っておらず住宅街になっています。或いは弥富市鯏浦町下六(海老江信号交差点の東方、名鉄尾西線の踏切辺り)とも…。どちらも近いのでまあこの辺りにあったとしておきましょう。
それにしても、名古屋は20日間連続の猛暑日。早く涼しくなれと願っていますが、これで急に気温が下降すると逆に風邪を引くかも。
[94] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年08月13日 22時56分49秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
https://green.plwk.jp/tsutsui/tsutsui1/chap4/01gonancho.html
この情報をありがとうございました。
スグに まるでワタクシの母方関係者が書いたのではないかと思うほど
背筋の反対側の両前肩筋がゾクゾクしました。
上にワタクシが「十津川」と書いたばかりなので
何か シンクロして? 平熱はやっぱりオカルトかかってる?
ような気になりました。
住吉さんは「何かあったら住吉に落ちていくように」と先祖からの言い伝えもあり
もう涙が溢れて来ます
それに「平熱」で知り合った男性で
彼の父方が平家一族で
母方とも繋がる人の家のことも、
このURLのサイトで改めて確認できました!
父方で繋がってたことはNHKの番組でも放送してました
あちらは 雅系の平家の御子孫ですとしっかり書いて置きます
また母方もあちらは身分がずっと上の御子孫ですと書いておきます
服部が「伊賀の名族」に
え゛?
でした
やっぱり
平 熱 は オ カ ル ト か か っ て る ぅ 〜
>服部小平太
ホンヤさんは「あっちは津島の服部さん!(キッパリ)」とおっしゃってました。
信秀に取り込まれて以来の裏切者の家ということでしょうね。
でも ホンヤさんご自身も 織田家に繋がるので
織田も 信秀ー信長 の系統だけじゃないからね
とだけは書いておきます
小平太が義元を刺した槍は長押に架けてありましたよ
もう1振り
一緒に架けてありました
頂いたURLは後程じっくり拝読させて頂きます。
もう動揺しまくってます。
ありがとうございました。
あ
大河内にも驚きました
やっぱり日本人なんだな
あっちもこっちも わたしのDNAはしっかり繋がってるんだぁ〜
です。
[95] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年08月14日 19時04分10秒 ) | パスワード |
あをさん
>スグに まるでワタクシの母方関係者が書いたのではないかと思うほど
背筋の反対側の両前肩筋がゾクゾクしました。
偶々拾って来たような情報に大きなお宝が隠されていたとは驚きです。またあをさんの参考になったのも幸いです。
宗純公に関してはちょっと難しそうなので、涼しくなったら平家長をもう一度考えてみたいと思っています。彼に関して一般的には服部氏の祖とされますが、どうにも腑に落ちない…。例えば、家長が壇ノ浦の戦いで亡くなったのであれば、平家長として亡くなることになります。仮に壇ノ浦で生き延びて千賀地に隠棲したのであれば、千賀地家長となるはず。つまり、服部家長となる要素が見当たらない。
服部六郎時定が源義広を討ち、服部郷と服部姓を賜ったとすれば、服部姓はこの時点で落人狩りから逃れられる呪符のようなものです。多分伊賀の小領主たちはこれにあやかろうとこぞって服部姓に改姓したのかも…。改姓して尾張、三河、遠江方面へと逃れた面々もいたでしょう。つまり服部姓が各地に広がる画期はここにあった…。
そこで平家長は何人も子供はいるのに、壇ノ浦の戦いの前時点辺りで服部六郎時定から養子をもらい危機に備えた、なんてシナリオを考えましたが、まあほぼ妄想の域を出ないので、何とも言えません。
[96] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年08月14日 22時56分28秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
服部家長の件:
方向音痴のワタシが書くことではありませんが
服部郷
現在の上野市の東部
服部・羽根・高畠・羽根・寺田・荒木・西明寺周辺地域
荒木に家長の屋敷があったと読んだことがあります
そして
荒木又右衛門の「荒木」はココからだ、と。
ということで荒木又右衛門は服部家長ゆかりと読んだことがあります
平知盛さまが乳母子と手に手を取って入水したハナシ
あのヒトが家長だったら「乳母の夫」と書かれるべきで
だからアレは平家物語の「脚本」だと思ってます
乳母子と入水したハナシは本当だろう
だけど
乳母夫とは手に手を取って入水はしないだろう
と思ってます。
盛ったり削ったり改竄したり
どこまで本当なんだろう
と思ってます
ワタクシ的には 家長はかなりの高齢ですから 壇の浦で<刀を執って>戦ったりしてない と思います
きっと参謀的な立場だけだった?のではないかと
ワタクシの瞼の父の平田家継が 頼朝軍と戦ったハナシは やはり反乱軍として参謀やってただけだろうと。
こうしてアレコレ想像するのが楽しい
とだけ書いて置きます。
今からジムに行きます。
うちのタワマンのジム 4時 解錠なので。
[97] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年08月15日 18時14分13秒 ) | パスワード |
あをさん
>服部郷 現在の上野市の東部服部・羽根・高畠・羽根・寺田・荒木・西明寺周辺地域
荒木に家長の屋敷があったと読んだことがあります
服部郷の範囲に関する情報ありがとうございます。「伊賀の服部一族」によると家長の子は以下の通りだそうです。裏付けは取れていませんが…。
https://www.ict.ne.jp/~hi--no/uhssi/isiker/ukozihci.html
五人の子供がおり 竹野屋(荒木に住す) 宮田(丸柱に住す) 高畠(高畠に住す) 杉本(湯舟に住す) 小泉(依那具に住す)という。
上記から竹野屋が長男で家長の家を継いだようにも見えます。息子たちは千賀地には行かなかったのでしょうか。よくわからないと言うしかなさそうです。
>平知盛さまが乳母子と手に手を取って入水したハナシ あのヒトが家長だったら「乳母の夫」と書かれるべきで
「平家物語」諸本によると、家長は長承元年(1132年)時点で17歳となるので、生誕年は1116年頃となります。一方平知盛は1152年の生誕。年齢差は36年もあります。時代や年齢差を考慮するとその差は孫に近いものがあり、どう判断すべきかちょっと悩ましい。いずれにしても、平知盛さまが乳母子と手に手を取って入水は脚色でしょうね。
[98] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年08月17日 06時30分49秒 ) | パスワード |
酔石亭主さん
[伊賀の服部一族]
https://www.ict.ne.jp/~hi--no/uhssi/isiker/ukozihci.html
ありがとうございました。
>息子たちは千賀地には行かなかったのでしょうか。
>よくわからないと言うしかなさそうです。
はい
よくわかりませんが源平合戦の時の息子達は行ってないと思っています。
千賀地の服部というのは 南北朝以降のハナシと思っています
だから千賀地の服部氏誕生は時代がかなり後と思っています
おそらく南北朝の時代の紀州南朝方系が<平家つながりで>伊州服部氏に化けたと思っています
服部家と関わりが本当にあったとしたら
吉野で服部宗純一行と出会って 一部が紀州に残り 千賀地の服部氏になったと思っています
花垣神社の🌸
見に行きましたよ
と言っても 方向音痴なので 予野からちゃんと行けてたのかどうかは謎ですが
若い🌸の木がありました
残念ながら平安時代の本物の🌸じゃなかったし
桜は毛虫がスゴイので捜したりしませんでした
この場所は心象風景や原風景にあって何度も行きました
涙・涙のエリアの1つです
榊原温泉(久居)から平田を過ぎてずっと西へ行った
という脳内記憶です
酔石亭主さんのレスの<小泉(依那具に住す)>
地図を見ながら源平合戦当時のワタシはココの家(城)にも泊まったのかなと思いました
心象風景で源平合戦当時一緒に🌸を見に行った男の子の昭和の子孫はマサに千賀地の服部氏の子孫です。
もうちょっと指が滑って書き込むと誰のことかバレバレなので ヤバイ。
ホントに我々日本人って 何重にも何重にも 血と涙で繋がってると思います。
だから会った瞬間に DNAが反応して血沸き肉躍り 固い絆が蘇る と思っています。
以下
よく言うよ
と呆れてる
でも言論は自由だし そうかも知れないし
>服部氏に三流ありという
>漢服部は平内左衛門相続し平氏 紋は 丸に横二つ切り竹矢筈 (ホンヤさん宅の古い紋に似てる)
>呉服部は服部六郎時定相続し源氏 紋は 左ひとつ巴 (へぇ〜)
>敢国服部は一ノ宮の神事を勤める一族で源氏 紋は八つ矢車 (石原慎太郎の家は7つ矢車。元は武田の残党らしいけど同じく武田の残党の川越の服部さん宅はいわゆる源氏車に並び矢紋)
>また一説に「伊賀一円服部名字七流にて候」(応仁元年 1599年 米良文書)ともいう。
伊賀の服部氏は7つ家があった?
平家が伊勢伊賀を本貫地にしたのは11世紀の初めだから
源氏に大負けした12世紀の終わりまでの200年近く
10世代あたりが生きた伊勢伊賀の地は 壇の浦で負けた平家の落人を受け入れたと思います。
ま、200年の内に 平家に対して 面白くない人間も生まれてたでしょうから
源氏方に密告したりしたのもいたでしょうね。
それで南北朝〜戦国時代の伊賀の地はたいした有力者を出さずどんぐりの背比べで疑心暗鬼の時代を迎えたのかな
とか
思ったりします。
[99] | 酔石亭主さんからのコメント(2024年08月17日 18時40分14秒 ) | パスワード |
あをさん
>千賀地の服部というのは 南北朝以降のハナシと思っています
Wikiの系図で見るともっと早い時代のよう(注:Wiki系図で服部家長−千賀地家清−保俊−保行−上、中、下服部)ですが、これが正しいのか判断できません。信憑性のある史料がないので私的にはよくわからないとするしかなさそうです。
>花垣神社の🌸
見に行きましたよ
この場所は心象風景や原風景にあって何度も行きました
花垣神社は伊賀に行った際は参拝したい神社の一つで、年内には行こうと思っています。じっくり見て回りあをさんの心象風景や原風景を私の脳内で再構成できるかも、なんてことは無理でしょうね。でも、何らかの収穫を得たいとは思っています。
今日もこちらは非常に暑く、家の中の二つのデジタル温度計は同じ場所でなぜか36度と32度になっています。キッチンのクーラーをつけてもリビングは30度を何とか切る程度で、ハワイがうらやましい…。
思考力は既に書いたようにほとんどゼロだしパソコンの調子もよくないので、この辺で退出します。涼しくなったらまた気になる点などを書いてみます。
[100] | 空の青海のあをさんからのコメント(2024年08月17日 23時03分54秒 ) | パスワード |
5号店を開店致しました。
是非お立ち寄りを。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/102136.html
酔石亭主さん
書き込みをありがとうございます。
そう言えば 平知盛さまのお子様の第3子=知忠=を伊賀の北でお守りしたことを思い出しました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9F%A5%E5%BF%A0
それで知忠は「北」姓を使っていたのかな?などと空想しています。
さらに
「喜多」「喜多村」などに後世変化したのかな?などとも。
そのヒトの弟(知盛さま第4子)=知宗=は対馬の宗氏の祖になったとかいろいろ伝説伝承などあるようです。
伝説伝承は人気のバロメーターということで。
酔石亭主さんの書き込みの
>Wikiの系図で見ると
>服部家長−千賀地家清−保俊−保行−上、中、下服部ですが、
>これが正しいのか判断できません。
>信憑性のある史料がないので私的にはよくわからないとするしかなさそうです。
はい
よく分からない
のヒトコトです。
屋号を名乗るのに あやかりたい というのもありますから。
ワタクシなんぞでも若い頃は結構貴重な存在だったようで
某大家の弓矢の家から望まれたり (わたしはチョー運動音痴なのに)
ホンヤさんの姫だと誤解されたり
困惑のヒトコトでした。
服部家長というヒトは「武」の世界では人気があるようです。
17歳で忠盛さまの参内にボディガードとして睨みを利かせたから?
弓のコンペで優勝して六条院から車いっぱいの矢を褒美に拝領したから?
知将・知盛さまの乳母の夫だったから?
家紋も結構人気のようで 車に矢紋 は「武」の家で使いたいようで
家長という人物は「武」の家の先祖にフサワシイのだと
拍手!
ま、裏切者とか弑逆の徒とかの扱いでないのは同じ名字を名乗る者としては嬉しいです。
そろそろジムに行きます。
まだまだ暑い日が 9月中頃まで 続きます。
お身体を大切に
そして
花垣神社と千賀地の城跡と平田農協の裏の明昌寺さん(平田家継の城跡)に是非いらっしゃってください。
花垣神社:
一里はみな花守の子孫かや
by 芭蕉
芭蕉も花垣神社や千賀地に行ったのでしょうね
酔石亭主さんにも心象風景があったら興味深いですね。
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