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 投稿番号:101736 投稿日:2020年10月08日 13時02分49秒  パスワード
 お名前:中村
美作菅家の偽系図事件!!

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

美作菅家の偽系図事件!!

美作菅家の系図について、専門家は、

「管原氏系図」道真の末裔美穂満佐の子忠門が、美作国久米郡原田郷(岡山県美咲町原田)を領して原田氏呼称はいささか信憑性に乏しい。

           「日本家系・系図大辞典」奥野敬之著鞄結桴o版-P824

※「管原氏から出た菅家党の諸系図を照合してみると、異説が多く混沌して収拾できない」「姓氏家系大辞典」に載せる「有元系図」が三穂満佐の子に。「有元・広戸・福光・植月・原田・鷹取・江見」これが菅家七流の祖としている説を根本的に覆している。各人の実名が、広戸豊前守住友・鷹取長門守佐利以外は全く逸脱しており。そのまま信じられないのである」

         「系図研究の基礎知識」近藤安太郎著 近藤出版社 P1067


この“平熱”に「美作菅家殿教えて下さい!!」と、投稿したら、

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・質問の掲載期間が過ぎ、質問が自動的に取り消された。

※・マルチポスト、連続投稿。とは?

菅原道真と無関係な有本・皆木氏等が美作菅家と称し、自家を装飾する為に不特定多数の人を欺き系図を捏造し拡散している。との事です。

例えば・・・

●美作菅氏-Wikipediaでは加賀藩の前田氏は美作菅家原田氏の家系を自認し、

 家紋は菅家の梅鉢紋を称している。


◎反 証 美作菅家の無知!としか思えない。原田の家紋は「家之紋梅鉢折枝九

曜亀甲」で、原田氏は菅家より300年〜400年も前から梅紋・梅鉢紋を使用してい

るのです。

◆梅紋・梅鉢紋を菅原道真は家紋として使用した確証はない。鎌倉時代(1333年

〜)に北野天満宮が道真の「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて春

を和するな」愛梅の故事に因で梅紋を神紋とし、菅家の一門たる高辻・唐橋・及

び天神信仰をもったものがこの梅鉢紋を用いた。先祖を記念せんがために特に定

めたる家紋。
                             日本紋章学

◆梅を天満宮の神紋とせる理由

抑々(よくよく)梅を天満宮の神門として擇びしは、官公が、平素梅を鑑賞し給

ひし事蹟に因める。ものにして、是等の事は、彼の紅梅殿の命名、東風吹かばの

歌詠等に就きて、容易にこれを知ることを得べし、而して、そのこれを天満宮の

神紋として用ゐ始めしことの鎌倉時代にありしことは、北野天満宮縁起中、官公

の着用し給える衣服、及、神輿等に、特にこの文様を晝けるを以ってこれを知る

べし。                日本紋章学 沼田頼輔著 P488

◆菅原氏即ち菅家の一門たる高辻・唐橋・清岡・桑原の諸家が、いずれも梅鉢紋

を用ゐるが如きは、菅原氏の祖先たる道真が、その生前梅を好み給える記念的意

義に本ものの如し、官公が生前梅を愛し給ひ、又東風吹かばの歌詠ありしが如

き、いずれもこれを證することを得べし。されば(そうであるから)官公の後と

稱するものが、その祖先の鑑賞せる梅花に象(かた)どりて、記念的意義に本づけ

ることを知るべし。             日本紋章学 沼田頼輔著 

◎鎌倉時代北野天満宮が梅紋・梅鉢紋を神紋としたが、これより、300年も前

に、梅鉢紋や梅花紋も、星の九曜・六曜などの変形したもので、平良文流千葉

氏、及び、その一族専用の家紋としている。
                      日本紋章学」 沼田頼輔著


◎原田文章系図の文頭に、「家之紋梅鉢折枝九曜亀甲」原田の家紋は「亀甲に梅

鉢」で、一族専用の家紋。前田氏が梅鉢としたのには整合性があります。


◎七曜・九曜・十曜等の家紋は千葉氏、及、その一族専用の家紋とす。

梅鉢紋や梅花紋も、星の九曜、六曜などの変形したものであろう。

                      「家系」豊田 武 著

「以上の事から、良文流平氏一族は梅鉢紋を300年前から使用していたのです」

◎梅紋(梅鉢紋)は平氏一門の専属だった。

千葉氏の嫡流は月星をかたどって家紋とし、庶流は七曜、九曜などの諸星をもっ

て家紋とした。梅鉢紋や梅花紋も、星の九曜。六曜などの変形したものであろ

う。                   日本紋章学 沼田頼輔著


◎平良文の流れから出た秩父氏の諸流は、先祖の良兼・良文等が国香に攻められ

た時北斗七星・妙現菩薩がその前に現れて危機を救ってくれたとの由緒に基づ

き、みなその移住地に勧請して、延命長寿・怨敵退散を祈った。

世継ぎの元服式も妙味の祠の前で行い、紋様にも星を用いた。『羽継原合戦記』

に、「月に九曜は千葉介、八曜は上総介、九曜星は標葉氏」と見える。この場

合、千葉介の嫡流は月星をかたどって家紋とし、庶流は七曜、九曜などの諸星も

って家紋とした。-略-梅鉢紋や梅花紋も、星の九曜、六曜などの変形したもので

あろう。

                      「家系」豊田武著 P247

◎九曜紋を用ゐるものは、主として平氏良文流の出なる千葉氏なるを以って、こ

の分布は前の月星数と、-略-同一の経路を辿れり、六星紋は六個の星形より成れ

る。*形状は九曜七曜の如し。⁂星辰崇拝の妙味信仰よりこれを用ゐたる。梅鉢

紋と伝うは、六曜性を混同せりものなり、九曜紋は、鎌倉時代既に用いられたる

ことは無論なるも・・・月ニ九曜ハ千葉介當時はこれを月星と呼びたるが如し、

                     日本紋章学 沼田頼輔著


[1]中村 さんからのコメント(2020年10月09日 17時23分11秒 ) パスワード

「美作菅家」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

原田氏[編集]について反証致します。

❶美作菅氏を称する原田氏は諸流が存在する。

◇反 証◇原田氏は昔も今も平氏です。

菅家党の本拠勝田郡を離れた美作国久米郡稲岡庄原田を領有した原田氏がいる。平忠常の子忠高が肥前原田に住んで原田氏となり、保安四年(1123年)、

❷孫の興方が藤原仲時が高階師春を殺したこと

◇反 証◇興方は忠高の曾孫で原田四代です。

に関係して美作に流されて葛虫庄(岡山県久米郡美咲町原田)を与えられ、狐山に稲荷山城を築いて住して翌保安5年(1124年)葛虫庄を原田庄と改めた。[9]この平氏系原田氏

❸四代忠廉(忠門)の代に姓を菅原に改めたと言う。

◇反 証◇❹では忠門は三穂満佐の子となっているので、菅家に改姓する必要はないのでは?

❹美作菅家系図では忠門は三穂太郎満佐の子となっている。

◇反 証◇三穂満佐の子が、菅原に改姓の必要がありますか?


この原田氏は天文元年に尼子氏に属して周囲に勢力を拡張するも天文12年に本拠稲荷山城を落とされ没落。その後、

❺15代三河守貞佐の元で復活して、

◇反 証◇三河守貞佐は15代ではなく十八代です。

主に宇喜多方として活動した。しかし、朝鮮の役の際、陣中騒乱の責任を取らされ蟄居。武家としての活動は終わった。

❻一族が誕生寺の住職となり、世襲している。

◇反 証◇誕生寺の住職となったのは原田二十代の忠佐で、其の後世襲はしていません。

❼この久米郡原田氏は美作菅家党とは別勢力の武士団で、活動は異なる。

◇反 証◇美作菅家党の原田は存在しません。

❽これとは別に、もっと古い代に美作菅氏兼知より原田氏が出ており、

◇反 証◇原田兼知は美作菅家の創作で、平忠常の流の原田より古い原田氏は存在しません。

兼知の子右馬允知貞は播磨長田荘に居住したが、承久の乱により討死し、その子右馬太郎知明は勝田郡真加部に移って菅家党として活動した[10]。正慶2年(1333年)4月、官軍として京都四条猪熊まで攻め入り武田氏らと闘った際、原田彦三郎佐秀が有元佐弘・佐光・佐吉、福光佐長、植月重佐、鷹取種佐らと共に討死したことが見えている[11]。天正7年に宇喜多氏が後藤氏を三星城に攻めた際、菅家党と共に籠城。落城後は、鷹取氏とともに宇喜多方として有元氏攻撃を先導した[12]。

❾後者の家系から加賀前田氏が派生している。

◇反 証◇前田氏-Wikipediaでは系図上その出自が美作菅家の支流原田氏だからである。としていますが、無論、原田氏は三穂満佐の子孫である美作菅家の支流ではない。

[2]中村 さんからのコメント(2020年10月23日 17時10分40秒 ) パスワード


美作官氏―有元氏―Weblio によると、

-前文略-平氏系原田氏が四代忠廉(忠門)の代に姓を菅原に改めたと言う。美作

菅家系図では忠門は三穂太郎満佐の子となっている。-以下略-

※美作菅家系図では忠門は三穂太郎満佐の子となっているのに、原田氏四代忠廉

(忠門)が菅原に姓を改める必要があるのか?・・・郷土史家としてご活躍の方

とは思えない。正しくは、忠門(忠廉)は原田氏七代です。

※藩の要請に応じ、美作菅家の筆頭有元(有本)氏が藩に提出した系図。

三穂満佐の子

忠勝 筑後守 號有本 奈岐山城主弘安十丁亥年二月卒六十歳

住友 廣戸豊前守 廣戸村矢櫃城主

周長 福光伊賀守 

公興 植月豊後守 植月庄宮山城主

★忠門 原田日向守 原田郷稲荷山城主

佐利 鷹取長門守 領鷹取庄

資豊 江見丹後守 領江見庄
 
「国会図書館アーカイブス」作陽誌より転載

※この菅家の系図について

「管原氏系図」道真の末裔美穂満佐の子忠門が、美作国久米郡原田郷(岡山県美

咲町原田)を領して原田氏呼称はいささか信憑性に乏しい。

          「日本家系・系図大辞典」奥野敬之著鞄結桴o版-P824
さらに、

※「管原氏から出た菅家党の諸系図を照合してみると、異説が多く混沌して収拾

できない」「姓氏家系大辞典」に載せる「有元系図」が三穂満佐の子に。「有

元・広戸・福光・植月・原田・鷹取・江見」これが菅家七流の祖としている説を

根本的に覆している。各人の実名が、広戸豊前守住友・鷹取長門守佐利以外は全

く逸脱しており。そのまま信じられないのである」

       「系図研究の基礎知識」近藤安太郎著 近藤出版社 P1067


同じく氏原田氏が藩の要請で提出したのは、次の「家系略伝」です。

□家系略伝□

平忠高 桓武帝七代胤上総介平忠常五男住二肥前原田一因號二原田次郎天

     喜五年春叙従五位下一任甞助源義家阿部貞任一康平二年出羽杉谷

     戦中流矢隕命

平忠次 忠高長子康和元年卒

平忠仲 忠次二男嘉永二年興平正盛討對馬守源義親有功同年四月卒

平興方 忠次三男忠次三男嘉永二年任左衛門尉保安四年二月藤原仲時殺高科師春

仲時被收繫坐連及

興方遂配作州保安五年遇赦沒舊領賜作州葛虫庄同年十一月興方相攸狐山下開此葛

虫今原田村狐山今稲荷山是也

平忠光 興方子治承二年二月卒

平光興 忠光子建久九年七月卒

平忠廉 光興子承久三年承久三年五月為佐々木陸奥守所殺

     *(注)忠廉は忠門とも

平忠頼 忠廉三男嘗修繕豐樂寺建長五年七月卒

平頼興 忠頼子文永年中靖赤松家亂有功永仁四年七月卒葬顯密寺

平頼勝 頼興一男元弘元年属官軍入笠置城九月帝出城頼勝還于作州正慶元

     年城菅原山建武三年従尊氏有茜戰功同四年卒

平忠勝 頼勝二男號左京助母足利次郎左衛門氏夏女建武四年承將軍命討備

     中國三村山城主秀仲斬ㇾ之因二其功一領二高松庄一貞治

     月興二山名右京太夫一戰二于備中不而死號宗見院六年十二

平忠平 忠勝二男號河内守母有元菅四郎女慶安元年興關本左馬次郎豊田右馬頭

新免備中守相戦得利同年冬俢澤村隨泉寺慶永八年四月卒葬?実山慈恩寺

※菅原に改姓はない事が判明します。原田の本姓は平で、原田は號です。




[3]中村 光成さんからのコメント(2021年12月13日 19時23分09秒 ) パスワード


美作菅家の系図について、専門家は、

「管原氏系図」道真の末裔美穂満佐の子忠門が、美作国久米郡原田郷(岡山県美咲町原田)を領して原田氏呼称はいささか信憑性に乏しい。

           「日本家系・系図大辞典」奥野敬之著鞄結桴o版-P824

※「管原氏から出た菅家党の諸系図を照合してみると、異説が多く混沌して収拾できない」「姓氏家系大辞典」に載せる「有元系図」が三穂満佐の子に。「有元・広戸・福光・植月・原田・鷹取・江見」これが菅家七流の祖としている説を根本的に覆している。各人の実名が、広戸豊前守住友・鷹取長門守佐利以外は全く逸脱しており。そのまま信じられないのである」

         「系図研究の基礎知識」近藤安太郎著 近藤出版社 P1067


この“平熱”に「美作菅家殿教えて下さい!!」と、投稿したら、

・質問者によって質問が取り消された。
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・不特定多数に対する呼びかけのような投稿。
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※・マルチポスト、連続投稿。とは?

菅原道真と無関係な有本・皆木氏等が美作菅家と称し、自家を装飾する為に不特定多数の人を欺き系図を捏造し拡散している。との事です。

例えば・・・

●美作菅氏-Wikipediaでは加賀藩の前田氏は美作菅家原田氏の家系を自認し、

 家紋は菅家の梅鉢紋を称している。


◎反 証 美作菅家の無知!としか思えない。原田の家紋は「家之紋梅鉢折枝九

曜亀甲」で、原田氏は菅家より300年〜400年も前から梅紋・梅鉢紋を使用してい

るのです。

◆梅紋・梅鉢紋を菅原道真は家紋として使用した確証はない。鎌倉時代(1333年

〜)に北野天満宮が道真の「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて春

を和するな」愛梅の故事に因で梅紋を神紋とし、菅家の一門たる高辻・唐橋・及

び天神信仰をもったものがこの梅鉢紋を用いた。先祖を記念せんがために特に定

めたる家紋。
                             日本紋章学

◆梅を天満宮の神紋とせる理由

抑々(よくよく)梅を天満宮の神門として擇びしは、官公が、平素梅を鑑賞し給

ひし事蹟に因める。ものにして、是等の事は、彼の紅梅殿の命名、東風吹かばの

歌詠等に就きて、容易にこれを知ることを得べし、而して、そのこれを天満宮の

神紋として用ゐ始めしことの鎌倉時代にありしことは、北野天満宮縁起中、官公

の着用し給える衣服、及、神輿等に、特にこの文様を晝けるを以ってこれを知る

べし。                日本紋章学 沼田頼輔著 P488

◆菅原氏即ち菅家の一門たる高辻・唐橋・清岡・桑原の諸家が、いずれも梅鉢紋

を用ゐるが如きは、菅原氏の祖先たる道真が、その生前梅を好み給える記念的意

義に本ものの如し、官公が生前梅を愛し給ひ、又東風吹かばの歌詠ありしが如

き、いずれもこれを證することを得べし。されば(そうであるから)官公の後と

稱するものが、その祖先の鑑賞せる梅花に象(かた)どりて、記念的意義に本づけ

ることを知るべし。             日本紋章学 沼田頼輔著 

◎鎌倉時代北野天満宮が梅紋・梅鉢紋を神紋としたが、これより、300年も前

に、梅鉢紋や梅花紋も、星の九曜・六曜などの変形したもので、平良文流千葉

氏、及び、その一族専用の家紋としている。
                      日本紋章学」 沼田頼輔著


◎原田文章系図の文頭に、「家之紋梅鉢折枝九曜亀甲」原田の家紋は「亀甲に梅

鉢」で、一族専用の家紋。前田氏が梅鉢としたのには整合性があります。


◎七曜・九曜・十曜等の家紋は千葉氏、及、その一族専用の家紋とす。

梅鉢紋や梅花紋も、星の九曜、六曜などの変形したものであろう。

                      「家系」豊田 武 著

「以上の事から、良文流平氏一族は梅鉢紋を300年前から使用していたのです」

◎梅紋(梅鉢紋)は平氏一門の専属だった。

千葉氏の嫡流は月星をかたどって家紋とし、庶流は七曜、九曜などの諸星をもっ

て家紋とした。梅鉢紋や梅花紋も、星の九曜。六曜などの変形したものであろ

う。                   日本紋章学 沼田頼輔著


◎平良文の流れから出た秩父氏の諸流は、先祖の良兼・良文等が国香に攻められ

た時北斗七星・妙現菩薩がその前に現れて危機を救ってくれたとの由緒に基づ

き、みなその移住地に勧請して、延命長寿・怨敵退散を祈った。

世継ぎの元服式も妙味の祠の前で行い、紋様にも星を用いた。『羽継原合戦記』

に、「月に九曜は千葉介、八曜は上総介、九曜星は標葉氏」と見える。この場

合、千葉介の嫡流は月星をかたどって家紋とし、庶流は七曜、九曜などの諸星も

って家紋とした。-略-梅鉢紋や梅花紋も、星の九曜、六曜などの変形したもので

あろう。

                      「家系」豊田武著 P247

◎九曜紋を用ゐるものは、主として平氏良文流の出なる千葉氏なるを以って、こ

の分布は前の月星数と、-略-同一の経路を辿れり、六星紋は六個の星形より成れ

る。*形状は九曜七曜の如し。⁂星辰崇拝の妙味信仰よりこれを用ゐたる。梅鉢

紋と伝うは、六曜性を混同せりものなり、九曜紋は、鎌倉時代既に用いられたる

ことは無論なるも・・・月ニ九曜ハ千葉介當時はこれを月星と呼びたるが如し、

                     日本紋章学 沼田頼輔著





[1] 中村 さんからのコメント(2020年10月09日 17時23分11秒 ) パスワード


「美作菅家」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

原田氏[編集]について反証致します。

❶美作菅氏を称する原田氏は諸流が存在する。

◇反 証◇原田氏は昔も今も平氏です。

菅家党の本拠勝田郡を離れた美作国久米郡稲岡庄原田を領有した原田氏がいる。平忠常の子忠高が肥前原田に住んで原田氏となり、保安四年(1123年)、

❷孫の興方が藤原仲時が高階師春を殺したこと

◇反 証◇興方は忠高の曾孫で原田四代です。

に関係して美作に流されて葛虫庄(岡山県久米郡美咲町原田)を与えられ、狐山に稲荷山城を築いて住して翌保安5年(1124年)葛虫庄を原田庄と改めた。[9]この平氏系原田氏

❸四代忠廉(忠門)の代に姓を菅原に改めたと言う。

◇反 証◇❹では忠門は三穂満佐の子となっているので、菅家に改姓する必要はないのでは?

❹美作菅家系図では忠門は三穂太郎満佐の子となっている。

◇反 証◇三穂満佐の子が、菅原に改姓の必要がありますか?


この原田氏は天文元年に尼子氏に属して周囲に勢力を拡張するも天文12年に本拠稲荷山城を落とされ没落。その後、

❺15代三河守貞佐の元で復活して、

◇反 証◇三河守貞佐は15代ではなく十八代です。

主に宇喜多方として活動した。しかし、朝鮮の役の際、陣中騒乱の責任を取らされ蟄居。武家としての活動は終わった。

❻一族が誕生寺の住職となり、世襲している。

◇反 証◇誕生寺の住職となったのは原田二十代の忠佐で、其の後世襲はしていません。

❼この久米郡原田氏は美作菅家党とは別勢力の武士団で、活動は異なる。

◇反 証◇美作菅家党の原田は存在しません。

❽これとは別に、もっと古い代に美作菅氏兼知より原田氏が出ており、

◇反 証◇原田兼知は美作菅家の創作で、平忠常の流の原田より古い原田氏は存在しません。

兼知の子右馬允知貞は播磨長田荘に居住したが、承久の乱により討死し、その子右馬太郎知明は勝田郡真加部に移って菅家党として活動した[10]。正慶2年(1333年)4月、官軍として京都四条猪熊まで攻め入り武田氏らと闘った際、原田彦三郎佐秀が有元佐弘・佐光・佐吉、福光佐長、植月重佐、鷹取種佐らと共に討死したことが見えている[11]。天正7年に宇喜多氏が後藤氏を三星城に攻めた際、菅家党と共に籠城。落城後は、鷹取氏とともに宇喜多方として有元氏攻撃を先導した[12]。

❾後者の家系から加賀前田氏が派生している。

◇反 証◇前田氏-Wikipediaでは系図上その出自が美作菅家の支流原田氏だからである。としていますが、無論、原田氏は三穂満佐の子孫である美作菅家の支流ではない。


[2] 中村 さんからのコメント(2020年10月23日 17時10分40秒 ) パスワード



美作官氏―有元氏―Weblio によると、

-前文略-平氏系原田氏が四代忠廉(忠門)の代に姓を菅原に改めたと言う。美作

菅家系図では忠門は三穂太郎満佐の子となっている。-以下略-

※美作菅家系図では忠門は三穂太郎満佐の子となっているのに、原田氏四代忠廉

(忠門)が菅原に姓を改める必要があるのか?・・・郷土史家としてご活躍の方

とは思えない。正しくは、忠門(忠廉)は原田氏七代です。

※藩の要請に応じ、美作菅家の筆頭有元(有本)氏が藩に提出した系図。

三穂満佐の子

忠勝 筑後守 號有本 奈岐山城主弘安十丁亥年二月卒六十歳

住友 廣戸豊前守 廣戸村矢櫃城主

周長 福光伊賀守 

公興 植月豊後守 植月庄宮山城主

★忠門 原田日向守 原田郷稲荷山城主

佐利 鷹取長門守 領鷹取庄

資豊 江見丹後守 領江見庄
 
「国会図書館アーカイブス」作陽誌より転載

※この菅家の系図について

「管原氏系図」道真の末裔美穂満佐の子忠門が、美作国久米郡原田郷(岡山県美

咲町原田)を領して原田氏呼称はいささか信憑性に乏しい。

          「日本家系・系図大辞典」奥野敬之著鞄結桴o版-P824
さらに、

※「管原氏から出た菅家党の諸系図を照合してみると、異説が多く混沌して収拾

できない」「姓氏家系大辞典」に載せる「有元系図」が三穂満佐の子に。「有

元・広戸・福光・植月・原田・鷹取・江見」これが菅家七流の祖としている説を

根本的に覆している。各人の実名が、広戸豊前守住友・鷹取長門守佐利以外は全

く逸脱しており。そのまま信じられないのである」

       「系図研究の基礎知識」近藤安太郎著 近藤出版社 P1067


同じく氏原田氏が藩の要請で提出したのは、次の「家系略伝」です。

□家系略伝□

平忠高 桓武帝七代胤上総介平忠常五男住二肥前原田一因號二原田次郎天

     喜五年春叙従五位下一任甞助源義家阿部貞任一康平二年出羽杉谷

     戦中流矢隕命

平忠次 忠高長子康和元年卒

平忠仲 忠次二男嘉永二年興平正盛討對馬守源義親有功同年四月卒

平興方 忠次三男忠次三男嘉永二年任左衛門尉保安四年二月藤原仲時殺高科師春

仲時被收繫坐連及

興方遂配作州保安五年遇赦沒舊領賜作州葛虫庄同年十一月興方相攸狐山下開此葛

虫今原田村狐山今稲荷山是也

平忠光 興方子治承二年二月卒

平光興 忠光子建久九年七月卒

平忠廉 光興子承久三年承久三年五月為佐々木陸奥守所殺

     *(注)忠廉は忠門とも

平忠頼 忠廉三男嘗修繕豐樂寺建長五年七月卒

平頼興 忠頼子文永年中靖赤松家亂有功永仁四年七月卒葬顯密寺

平頼勝 頼興一男元弘元年属官軍入笠置城九月帝出城頼勝還于作州正慶元

     年城菅原山建武三年従尊氏有茜戰功同四年卒

平忠勝 頼勝二男號左京助母足利次郎左衛門氏夏女建武四年承將軍命討備

     中國三村山城主秀仲斬ㇾ之因二其功一領二高松庄一貞治

     月興二山名右京太夫一戰二于備中不而死號宗見院六年十二

平忠平 忠勝二男號河内守母有元菅四郎女慶安元年興關本左馬次郎豊田右馬頭

新免備中守相戦得利同年冬俢澤村隨泉寺慶永八年四月卒葬?実山慈恩寺

※菅原に改姓はない事が判明します。原田の本姓は平
[4]中村 光成さんからのコメント(2022年05月24日 10時53分07秒 ) パスワード

「平家物語を熱く語る!!」の石川県に前田家が公式的?に菅原氏ですとの投稿がありました。が、正しくは平家で、美作の原田氏の支流です。


日本の苗字七千傑さん からのコメント(2006年06月11日 23時20分59秒
前田家は公式的には菅原氏です。厳密には藤原氏利仁流斎藤氏裔で藤原氏とも言えます。菅原氏裔の原田仲光の男仲利が、斎藤氏裔の前田利倫の娘婿となり前田を称したことに拠ります。通字に利の字が多用されていることが物語っています。
詳細は姓氏類別大観(http://www.myj7000.jp-.net
/clan/fclan_index.htm )の菅原氏をご参照下さい。
[5]中村 光成さんからのコメント(2022年05月24日 11時36分45秒 ) パスワード

※事の発端は、「元禄年間(1684年頃)に津山藩森忠政(信長のそば小姓森蘭丸の弟)によって美作の古事を書き上げ、提出の要請に応じるために、京都で公家として続く(高辻、五条、唐橋)を訪ねて系図の照合と美作菅家一族の系図が間違いない事を確認している。この時、一族14人にカンパを働き、銀二百目と言う多額の土産を持参している。        Web有元氏参照

※菅家一族が先祖の歴史が不明なので、京都の公家を尋ねて作成した最終的な系図です。
が、ここで京都の公家を尋ねたのはウソが判明します。それは美作で最も著名な桓武平氏原田氏に結び付けて捏造しているからです。
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