[1] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月04日 07時26分03秒 ) | パスワード |
全然関係の無い服部家の話ですが
時計の服部セイコー社の服部金太郎の先祖は名古屋出身という話を聞いたことがあります。
ただし服部金太郎さんは東京生まれで
この服部氏は坂東の服部一族らしいですが。
でもお父さんがやってたお店の屋号は「尾張屋」だそうです。
アヤシイ
それに家紋も木瓜系だし
木瓜ってフツーに尾張に多い家紋だし。
でも伊賀系じゃない、ってことなんでしょう。
金太郎は2回結婚してて男子が3人いたそうです。
長男・玄三は父の跡を継ぎ服部時計店の2代目社長。
玄三の妻は元宮内省大膳頭・上野季三郎の次女・英子。
この上野氏というのが子沢山で三女の富美さんが伯爵加藤厚太郎に嫁いでいる。
この加藤氏というのが加藤高明の次男!
加藤高明は尾張の出身で元の名字は服部だから。
そして金太郎の次男の正次の息子が一郎で
その娘が ○子さんで うちの近所の宝石鑑定の学校に留学してて
皇太子と結婚するという噂のあった女性。
一郎氏は若くして亡くなられたけど。ゴルフ中でしたっけ?
この服部セイコーの一族のジョージさんはバイオリニストで清子内親王の御主人候補に名が出てた人で
ロンドンでご活躍。
http://en.wikipedia.org/wiki/Joji_Hattori
金太郎さんのお墓 丸に横木瓜紋
[2] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月04日 07時29分05秒 ) | パスワード |
丸に横木瓜紋
http://www.ippongi.com/2011/12/23/mokkou-2/
服部金太郎さんのも出てます。
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月04日 07時42分04秒 ) | パスワード |
柏紋 −海の人々に奉られた神の紋− 島左近、森鴎外、青島幸男...
へえ〜
そうなの?
柏手を打つという言葉がある通り、柏は神道と関係が深い植物である。
宗像神社に奉仕する宗像氏、伊勢神宮に奉仕する久志本氏、熱田神宮に奉仕する千秋氏、
吉田神社に奉仕する卜部氏など、神官関連に柏紋を使用する家が多い。
また、神社自体の紋としては、恵比寿神社の神紋が有名であるが、どちらかと言えば、海人系の人々に好まれたのではないか。
全国分布では、比較的に東日本で多い。
北から、秋田県、宮城県、山形県、千葉県、三重県、大阪府などでベスト3に入っている。
三重>千葉>宮城という海の道がそれとなく見えてくる。
全国的には4位にランクされている。
逆に少ないところは、広島県と佐賀県で13位、山口県、高知県で12位。
柏紋を持つ有名人は以下。
http://www.ippongi.com/2011/12/23/kashiwa/# とうらろっこう
[4] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月05日 03時47分00秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
一日会議で時間がとれませんでした。帰宅後、服部中について水野家を調べ
ておりました。紀州藩の家老と関係しているようです。もちろん徳川家康の母
の水野家とも同根です。水野忠邦も同根となります。忠邦は浜松城主でありま
した。
水野家と浜松とのかかわり合いを深堀りしたいと思っています。
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月05日 05時00分11秒 ) | パスワード |
服部中の家はいろいろ華やかな家と縁がありますが
長男系は水野太郎作清X系が多いようですね。
清次
清定
吉宗の時代の、若死にした保富の妻は水野河内守忠富の娘
ずっと後の世は本当に立派な名字の家と縁が出来てて驚きます。
次男系は内藤家と縁が多いですね。
[6] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月05日 07時19分05秒 ) | パスワード |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E6%B0%8F
水野家について引っ張って来ましたが
ワケ分からないです。
長勝の子水野忠貞が近畿8国の奉行職を務め5,000石、
その子水野忠顯は大番頭で6,000石を与えられて、従五位下に叙任された。
なお忠顯は水野忠清の4男で、
次代・水野忠富、次々代・水野忠英はいずれも松本水野家3代水野忠直の子である。
それゆえ水野忠重の直系となっている。
ということで
水野 忠重 家康の母上のお大さまは、姉、ですね。
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
水野忠政の九男。
母は華陽院。
子に水野勝成、
水野忠清、
清浄院(加藤清正継室)。
徳川家康の叔父にあたり、徳川二十将の一人に数えられている。
法名は賢忠。道号は勇心。
生涯[編集]
天文10年(1541年)、尾張国知多郡方面を治めた水野忠政の九男として誕生。
母は華陽院。
兄弟に水野信元、於大の方などがいる。
はじめ、兄の信元とともに尾張国の織田信長に属し、永禄元年(1558年)の尾張緒川・石瀬での戦い、
同3年の刈屋十八丁畷の戦いに功を挙げたという。
その後、信元と不和になり、
そのもとを去って三河国の徳川家康の麾下に仕える。
家康からは鷲塚の地をあてがわれ、自ら築城した。
三河一向一揆の鎮圧に戦功をあげた。
『三河物語』によれば、「金ノ団扇ノ指物ヲ指ケル間、新九郎ト見懸て我モ/\ト追(懸タリ。水野藤十郎(忠重)殿懸付て、突落シテ打取給ふ。頓て佐馳(橋)甚五郎(吉実)・大見藤六郎、是兄弟モ一つ場にて打取。」とある。
一揆方となった蜂屋貞次と戦ったという。
以後、駿河掛川城攻め、天王山の戦い、姉川の戦いに従軍。
三方ヶ原の戦いの時も軍功を顕し、家康より兜と鎧を賜った。
これは家康の影武者を務めていたのではないか、と考えられている。
一方で、天正3年(1575年)に吉田城にて武田軍の攻撃を防ぐも負傷し、
長篠の戦いでは家臣の水野清久(のちの正重)を代理で参加させたという。
これは知らなかった!
↓
同年、信元が武田氏との内通の嫌疑をかけられ織田信長に殺害された。
天正8年8月(1580年)、織田家臣の佐久間信盛が追放されて三河刈屋城が空くと、忠重は信長よりそこを与えられ、
9月23日に入城した。
鷲塚城は廃城となった。
これにより再び信長の臣の立場に戻り、織田信忠の軍団に組み込まれたらしい。
天正9年(1581年)1月4日、信忠の命により、同族水野守隆とともに横須賀城の番手として派遣された。
この後、家康の高天神城攻めに加わり、度々信長に報告。
1月25日付で、信長より細々とした指示を受けている。
この時の忠重は、攻城軍の目付か軍監として徳川に付けられたものと思われている。
天正10年(1582年)2月、信忠の甲州征伐に従軍。
武田滅亡ののち、信長を三河池鯉鮒にて饗宴している。
同年6月、本能寺の変が起こると、信忠と共に二条城にあったが脱出して三河国刈谷に逃げ戻り、以後は織田信雄に属した。
天正12年(1584年)に羽柴秀吉との小牧・長久手の戦いが起こると本治城・常滑城を攻略。
長久手の戦いでは先導役を務め、蟹江城合戦で活躍した。
戦後、主君・信雄は秀吉と講和。
この時期、嫡男の勝成が素行不良の果てに家臣を斬り殺して出奔したので、
勝成を奉公構えとした。
勝成は秀吉より、摂津豊島郡の内、神田728石を与えられた。
「織田信雄分限帳」(天正13-14年成立)によると、
忠重は刈屋、緒川のほか北伊勢にも所領を持ち都合1万3千貫文を領するとなっている。
信雄の命で雑賀攻めに出陣。
九州陣、小田原陣と秀吉の統一戦に参加している。
天正15年(1587年)7月30日、豊臣姓を賜り、従五位下和泉守に叙任する。
小田原陣直後の同18年9月4日、信雄の失脚に伴うことか、
伊勢神戸4万石に移封され、秀吉に従った。
文禄元年(1592年)名護屋在陣。
文禄3年(1595年)に再び本領刈屋城主に戻り、石高は2万石とされた。
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、家康に従った。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に与したが、
本戦直前の7月、三河池鯉鮒(現・愛知県知立市)において堀尾吉晴を歓待して酒宴を催した際、
西軍方の加賀井重望に暗殺された。
暗殺されたって・・・
なお、墓所は息子の勝成と同じ広島県福山市の賢忠寺にある。
蟹江で服部家のどなたかが戦死してたような????
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月05日 07時33分19秒 ) | パスワード |
>蟹江で服部家のどなたかが戦死してたような????
A.
服部保長の次男保正の長男です。
名前は 服部(甚太郎・甚太夫・源兵衛)保成です。
家康に仕え
天正12年7月1日尾張蟹江城の時、討ち死にす。
35歳
高野山に葬る
といことで服部家と水野忠重との接点が分かりました。
天正12年(1584年)に羽柴秀吉との小牧・長久手の戦いが起こると本治城・常滑城を攻略。
長久手の戦いでは先導役を務め、蟹江城合戦で活躍した。
[8] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月05日 08時12分59秒 ) | パスワード |
復習
服部半蔵の実家服部保長の家について再度記します。
ほのはやひの命の末裔
允恭天皇の御世に織部司に任じ諸国の織部を拾領。服部連を称す。
平氏にして葛原親王の後裔伊賀平内左衛門が末孫なり
保長:
万松院義晴に仕え、安綱の刀を賜る
鈎の陣以降忍者を欲していた松平清康に仕え、広忠・家康にも仕える
岡崎の伊賀で300石で?
岡崎にて死す。
★長男:保俊 三河国高橋合戦で討ち死に 24歳
家紋は八筈車・平蝶・矢車・16葉菊
16葉菊を使用しているのは保田家の家紋なのか?
★次男:保正 三方ケ原の役にて討ち死に
子 保成 尾張蟹江城攻めで討ち死に 35歳
孫・・・・長男(保次)次男(保盛)
家紋は矢筈車・轡十文字・16葉菊
ここも16葉菊を使っているのは何故?
★三男:半蔵正成 遠江国に8000石を知行す
○長男の正就 慶長9年に御勘気かうぶり、岳父松平定勝に預けらる
伊賀同心たちがストライキを起こして処理に失敗しクビになった
その後、大坂の陣で、行方不明に(謎)
○次男の正重(妻が大久保長安の娘) 長安事件後、松平(定勝の子)定綱に引き取られる
半蔵の家の家紋は八桁車の内竪矢筈二
八桁車の内横矢筈紋も見ます
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月05日 08時26分53秒 ) | パスワード |
轡紋について
甲斐源氏の小笠原氏から出た大草氏の代表家紋。
由来について家伝では
「先祖正吉しばしば東照宮の御馬の轡にすがり
戦場において働き有りしかば、
轡をもって家紋とすべしとおほせにより
用ふるところなり」
と記している。
使用者の姓氏
源氏系 大草
[10] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月05日 08時54分50秒 ) | パスワード |
ぱらぱら見てたら
「葉菊紋」に青山氏系
と出てました。
青山だったら服部正尚系じゃないですか?!
復習 (若い頃、こんなに熱心に復習をしてたら・・・・笑)
伊賀平内左衛門尉服部連家長
略
松平清康に服部半三保長仕う この子供が半蔵
弟・正清 A孫が青山成重・服部正尚
B孫が明智光秀後妻
ということは 青山氏の葉菊紋を保長の子供達
つまり千賀地の保田=藤堂采女の家や長男(保俊)や次男(保正)の家が使っててもおかしくないわけですね。
そして本日気付きましたが
南朝方だった服部伊賀守宗純の先祖は下服部千賀地保行となってました。
宗純の子孫が服部家のホンヤさんであり服部政信であり服部中保次です。
結局は半蔵の家とも一族だし藤堂采女の家とも一族だし。
家紋でもやっぱり繋がりがあったのですね。
あ〜
それでワタクシの前世の女の子が千賀地の花垣神社の桜にこだわるのか。
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月05日 09時11分42秒 ) | パスワード |
青山氏
家紋は無字銭、葉菊。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aoyama.html
青山氏は、寛政重修諸家譜に「花山院堀川師賢(後醍醐天皇の忠臣)の子 信賢、その子 師資、其の嗣 師重、初めて青山と称す」とある。その後裔忠門のとき、近江国から三河国へ移り三河国額田郡百々村の城主となった。その忠門が松平広忠・徳川家に仕え、その子忠成は秀忠の守役を務めて徳川氏の創業に貢献した。
青山家は「葉菊」を定紋とした。
南北朝時代、祖先が南朝に与して功があり、日月、菊紋の錦の御旗を賜ったという。
そのとき、楠木家の旗紋もまた菊花であったことから、これと区別するために両葉を加えた。
以後代々、家紋としたとされている。
とはいえ、南北朝を扱った『太平記』や『梅松論』などに、日月の錦旗は活躍しても、菊文の錦旗というのはみえない。
青山氏の葉菊紋のいわれも、そのままには受け取れないところが少なからずあるようだ。
わたくしからの加筆:
一説に16菊は南朝方で32菊(すこしずつ見えてるアレも入れて)は北朝方
だとか。
http://tokumei10.blogspot.com/2012/07/blog-post_407.html
以下コピペ。(w のコピペ:
2006.6.20
なんと伊賀・服部宗家が青山氏の正体だった?!
青山氏の系図を見ていたら、とんでもないことに気付いてしまったのでござる。
とんでもないこととは、伊賀服部宗家が、いつに間にか青山家となっていたのでござる。
さて、時は戦国、本能寺の変直後。
わずかな家臣とともに大阪に出ていた家康は急ぎ領国に逃げ帰ることになるのでござるが、武者狩り横行するために街道の利用はままならぬ。そこで使ったルートは有名な伊賀越えルート。
先導したのはすでに家康の旗本になっていた服部半蔵。伊賀上忍であった服部家の血縁を活かし、宗家・服部正尚と連携し家康の脱出劇に加勢したのでござる。
この時に功あった伊賀者が、後に家康によって取り立てられ、伊賀組となり申した。
つまり伊賀組は服部半蔵を組頭に頂いてはいたが、徳川家の家臣。
伊賀の頃のように、上忍服部家の使用人という立場ではござらなんだ、ということでござる。
話は飛ぶが、二代目服部半蔵が伊賀組を自分の家臣のようにしてこきつかったために、
件の笹寺での反乱が起こったのでござる。
さて、伊賀国・服部宗家の服部正尚も、家康に江戸詰めを命じられたのだが、
宗家を継ぐ立場として、それはできない。
正尚は弟の服部七右衛門を自分の代わりに家康の元へと出向かせたのでござる。
これなどは、家康に江戸に呼ばれた柳生石舟斉が宗家を守るために柳生宗矩を江戸に向かわせたのと似ておりますな。
江戸に出た服部七右衛門は、やがて兄亡き後に服部宗家を継ぐこととなり、
さらに、なんと!子の無かった青山(忠重)家に養子入りしているではござらぬか!!
そして改名し青山成重となったのでござる。
青山と改名した服部七右衛門は、秀忠のもり役となり、以後、秀忠の側近として権勢を振るったのでござる。
恐るべし青山家・・・。
【もうひとつの真実】
もり役とは、そんなにカンタンになれるのか、という疑問を誰もが抱くと思うのでござるが、ここにもうひとつの秘密がござった。
なんと!秀忠には服部家とは XXXXX でござる。
秀忠の母は西郷局と呼ばれた愛さまでござる。
この系譜をたどってみると、愛は西郷正勝の娘と戸塚忠春との間に生まれたのでござるが、
戸塚忠春が戦死して後に、西郷正勝の娘と愛は服部正尚のもとに嫁いでいるではないか!
つまり、秀忠の母・愛は服部七衛門の義理の姪、ということでござる。
勘ぐれば、秀忠の母・愛(西郷局)は戸塚忠春の子ではなく、
服部正尚と西郷正勝の娘との間に生まれた子だったとも考えられよう。
そして、服部家で育てられ、家康に寵愛されて秀忠を生んだ。
ために、もり役として服部宗家の七衛門つまり青山成重が抜擢された、と相成るのでござる。
柳生とて、元々は伊賀・甲賀と隣接する立地で、忍の家系でござる。
家康と忍、そうとうに深いところでつながっていると、拙者は見た。
青山氏は、寛政重修諸家譜に「花山院堀川師賢(後醍醐天皇の忠臣)の子 信賢、その子 師資、其の嗣 師重、初めて青山と称す」とある。
その後裔忠門のとき、近江国から三河国へ移り三河国額田郡百々村の城主となった。
そうだったの?
その忠門が松平広忠・徳川家に仕え、その子忠成は秀忠の守役を務めて徳川氏の創業に貢献した。
忠成は早くから家康に近仕し、二十一歳の時に父忠門の後を継いだ。
天正十三年、秀忠の傳となり、
秀忠十一歳の時に上洛した際、随従して秀吉から従五位下常陸介に叙任された。
関東入府後は武蔵国に五千石を受けている。
慶長五年、関ヶ原の戦いには秀忠に従軍して遅参したものの、
同年十一月には播磨守となり、翌年には上総国と下総国に併せて一万五千石を賜った。
さらに江戸奉行・関東総奉行を兼任し、本多正信・内藤清成と並んで幕政に重きをなした。
秀忠治政のとき、仁の酒井雅楽頭、智の土井大炊頭とならんで勇の青山伯耆守として将軍秀忠を輔け、
武蔵岩槻四万五千石を領した。
しかし、元和九年(1623)忠俊は、三代将軍家光の勘気にふれ、領地は収公された。
忠俊がなぜ勘気にふれたのか、その理由についての明確なものは記録として残っていない。
もっとも考えられるのは、当時の秀忠・家光の二元政治にその因を求められないか。
すなわち、忠俊は秀忠から信頼の厚い側近であり、
家光の若手側近グループからすれば、最初に排除されなければならない存在であった。
また忠俊は、家光の補導役として強諌直言のこともあった。
これらの結果、古い政治家となった忠俊は舞台から去らざるを得なかったのではないか。
寛永九年、秀忠が死ぬと、忠俊も自ら剃髪してかねて大徳寺の宗珀和尚から与えられていた法号道称を用いて、
春室宗信と名乗った。
しかし、秀忠の死は二元政治の終焉を意味し、同年江戸より「赦免」の手紙が届いた。
これは、勘気が家光の個人的なものではなく、当時の政治状況によって起きたものであることを背面から語っているものだ。
つまり、家光は忠俊の忠誠をわかっていながら、自己の権力の教化のためには秀忠派の忠俊を切り捨てざるを得なかったということだろう。
こうして、嫡子の宗俊は大名に返り咲き、その後青山家の家運は営々と栄え、その嫡流の多くが幕閣の重職についた。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aoyama.html
[12] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月05日 09時14分12秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
さすがあを様、電光石火、ありがとうございます。
最後に服部保正の家紋の一つに、轡(くつわ)十文字が出ました。そして
大草家の家紋に言及されました。
実は、先日連城寺に行って大草家の墓を見た時、丸に十字紋だったので、
嶋津家に関係するのかと不審に思っていたのですが、報告を忘れていまし
た。
ということは、大草家と服部保正家は何かつながりがあるかも知れませ
んね。
調べれはいろいろつながる要素が出て来て、だからおもしろい。やめら
れない!
これから佐久間に行って来ます。手打ちそばの郷へ。ついでに平家落人
の情報も調べてきたいとは思っています。
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月05日 09時57分51秒 ) | パスワード |
https://books.google.com/books?id=9_D6dNY4AlMC&pg=PA49-IA42&lpg=PA49-IA42&dq=%E5%A4%A7%E8%8D%89%E6%B0%8F%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=6knAyWp1eM&sig=XfQIXX2GH_8b7oSLYhBxfmFveDA&hl=en&sa=X&ei=rYQgVZfWGI60oQSKvIDYBA&ved=0CCYQ6AEwAQ#v=onepage&q=%E5%A4%A7%E8%8D%89%E6%B0%8F%E3%80%80%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false
轡紋のお話。
P49。
浅井氏
大草氏 替え紋 五七の桐紋
略
後藤氏 駿河国の秦氏族島津流の後藤氏。 藤原氏利仁流にも収む。 へえ〜 旗本
略
服部氏 伊賀国阿拝郡服部郷より起こる。服部氏族(寛政譜 18)また平氏ともいう。
保正・保森の系の替え紋。
定紋は矢筈車。
[14] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月05日 10時02分04秒 ) | パスワード |
大草家との関係が?
駒込吉祥寺
ここにかなりの大草家のお墓があるようです
との書き込みがあります。
http://6703.teacup.com/ookusa/bbs/265
新着順:139/211
KAZUさんへ 投稿者:meg 投稿日:2010年 1月31日(日)18時31分53秒
江戸住まいの三吉さんが1000キロ以上離れた長崎にお墓があるとのことですが、当時としては大旅行だったと思います。北海道に行かれてから長崎に移られたのか否か分かりませんが、明治新政府に江戸の家屋敷を没収された後、落ち着き場所として祖父の能登守が奉行を勤めた長崎を第二の故郷に定め移住されたのではないかと思われます。
先日添付しました服部坂の写真の説明でも、『「服部坂」と呼ばれた。 服部氏屋敷跡には、明治2年(1869)に小日向神社が移された。』と書かれているように、明治二年には服部氏の屋敷は取りつぶされ神社が移されたと説明されていますから、同じ地区の服部坂にあった大草家の屋敷も明治二年には取りつぶされたと推察できます。それと三吉さん父や祖父(能登守)の墓は東京都内の数カ所のお寺にあるようですが、中でも最も有名なお寺は駒込吉祥寺でここにかなりの大草家のお墓があるようです、一度尋ねてみられたら如何でしょうか。
http://homepage2.nifty.com/tokyo-walk/a050120.htm
ところで小生の大草家は鹿児島薩摩藩の島津家に仕え、1600年の関ヶ原の戦に出陣して戦死している記録がありますが、当初愛知県三河出の大草氏がはるばる鹿児島の島津家にどうして仕えているのか分かりませんでした。最初は大草氏は愛知県三河で足利家の軍門に下り、足利尊氏の奉公衆(徳川の旗本のようなもの)として仕えていましたから、一時南北朝の戦いで破れた尊氏が九州に落ち延びた時、九州各地の武将の協力で勢力を盛り返しますが、その時に薩摩島津氏も尊氏に協力していますから。そこでの出会いが縁で後日島津氏を頼って薩摩まで流れたのだろうと推測していました。
ところが、その後この大草ホームページが縁でいろいろ調べていたところ、薩摩の島津家は1221年の承久の乱(北条政子と後鳥羽上皇の覇権争い)で北条氏に味方し、北条方が勝利して、その論功行賞で越前(福井県)の守護職も与えられ、越前島津氏として赴任しています。その時既に天皇方として越前にある程度の勢力を持っていた大草氏が福井県史に記録されていますが、島津氏の越前進出で大草氏も島津氏の軍門に下り、後々本家薩摩の島津氏に仕えて、はるばる鹿児島まで流れたと見る方が今では自然ではないかと思っている次第です。
とにかく昔の人は交通機関もない時代に想像を絶する距離を移動をしていることに感心させられます。よって三吉さんも江戸から北海道に行ったり、長崎に行ったり、要は生活のため、生きるために必死の思いだったのではないかとご先祖苦労が偲ばれます。
[15] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月05日 10時09分48秒 ) | パスワード |
新着順:135/211
http://6703.teacup.com/ookusa/bbs/269
足利方だった大草と徳川の接点は 西郷家ということ?
少しずつ遡って読んでください。
2010/2/21
Q:愛知県に大草という地名があるのを知っております。徳川家康の出身地三河松平郷の近くに大草郷があったやに聞いています。その関係からか。なぞは深まるばかり。
上記の疑問に関連しながら、大草一族と松平一族との遭遇を推察する事にします。
その前に三河地方において大草一族と松平一族が出現するおおよその年代を見ておきたいと思います。大草氏が足利尊氏に仕えていたことは、大草三郎左衛門公経という人が1348年四条縄手の戦いで楠正行軍と戦い討ち死にしたと史料(太平記)に書かれていることから分かります。そして討ち死に後、尊氏はその遺族大草持継に三河の大草郷を還付したと別な史料(寛政重修諸家譜)に書かれています。
よって1348年頃には大草一族は既に三河地方に在住していたと思われます。更に尊氏が大草郷を「還付」したと書かれていますから、それ以前から三河に住んでいて、足利氏に大草郷を没収されていたと思われますが、その年代は次の投稿で後述します。
一方松平一族は3代目の松平信光時代(1404〜1488)に三河地方で頭角を表し始めたと言われ、9代目の家康が岡崎城で生まれたのは1542年ですから家康誕生から100年以上前のことになります。そして足利幕府が織田信長に滅ぼされるのが1573年ですが、最後の将軍足利義昭が倒される迄は基本的に大草一族も足利氏に仕えていたと思われます。
しかし1358年に足利尊氏が没して間もなくして、尊氏からせっかく還付された大草郷を足利一族の三河守護職仁木氏の家来の守護代西郷稠頼(つぎより)に没収されていますので(岡崎市史)、その頃から足利一族に不満を抱いていた大草一族が居ても不思議ではありません。
大草郷を没収した西郷稠頼(つぎより)はその後勢力を伸ばし、家康が生まれた岡崎城を築城しますが、その子の代になって、松平家の7代目の清康(1511〜1535)に岡崎城を政治的に明け渡しています(岡崎城で検索)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E5%9F%8E
更に西郷稠頼(つぎより)の死後、松平氏は大草郷も没収し松平光重が大草松平を名乗り、松平14家の一つとなります。これを機会に大草一族の一部は足利氏から離反し松平軍団に仕えたのではないかと思われます。
一方で足利幕府が織田信長に倒されるまで足利家に仕えた大草一族はその後織田氏や武田氏に仕えた大草一族もいるようですから、このように幕府がたおされ戦国時代に突入するや、各々の判断で各武将の配下に散らばったのではないでしょうか。そして最終的に戦国時代を勝ち抜いた松平(徳川家康)に仕えていた大草氏が徳川幕府の旗本に取り立てられたと思われます。
[16] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月05日 10時30分03秒 ) | パスワード |
静岡県立中央図書館 〒422-8002 静岡市駿河区谷田53-1
電話 054-262-1242(代表)
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静岡県立中央図書館
請求記号
AJ003
タイトル
改選諸家系譜
タイトル(ヨミ)
カイセンショカケイフ
内容注記
徳川家をはじめ、諸家の系図である。徳川家は、宝暦年間、家治の将軍宣下の頃までを記し、諸家には、明和年間の事項を記したものがある。
タイトル関連情報
叢書名:
和訳:
言語種別
日本語
形態
写or刊:写
ページ数又は冊数:416冊(43帙)
大きさ:27cm
装丁:和
巻数
目録2巻、前編38巻、後編200巻、続編250巻、(欠・巻230)
備考
印記:静岡縣師範學校之印
カテゴリ
/葵文庫/和書(AJ)/AJ1〜AJ54
259. 続編28・29巻 服部氏・蜂屋氏・波木井氏(AJ003-258) [43コマ]
261. 続編31・32巻 初鹿野氏・春田氏・早川氏・原田氏・花井氏・松下氏(AJ003-260) [32コマ]
273. 続編48巻 藤堂氏・戸塚氏・服部氏・蓑氏(AJ003-272) [27コマ]
290. 続編70巻 大草氏・小川氏・小田切氏(AJ003-289) [21コマ]
291. 続編71巻 長田氏・大嶋氏・大平氏・奥田氏(AJ003-290) [29コマ]
303. 続編86・87巻 陰山氏・河野氏・神屋氏・神谷氏(AJ003-302) [40コマ]
304. 続編88巻 加藤氏(AJ003-303) [24コマ]
362. 続編172巻 松下氏(AJ003-361) [23コマ]
松島氏は無かったような?
[17] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月05日 20時09分02秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は、佐久間町の更に上(北)にある北條(ほうじ)峠へ行き、帰りは水窪
町を通って帰って来ました。
北條峠と聞いて、たぶん北条氏が関係してくるのではないかと推測してい
ましたら、やはり北條氏に関係しておりました。
「ホウジ峠・榜示峠・北條峠のいわれ
平安時代末期から鎌倉時代(荘園時代)に旧勢力(天皇方荘園領主)と新勢力
(武家方・守護・地頭)が下地(とち)争いをしたとき、その下地を折半(下地
中分)するという形で紛争を解決した際、この峠に「杙」(くい)を立てたこ
とから「榜示峠」という。
地名では、天皇方を「領家」とか「奥領家」といい、武家方を「地頭方」
という。因みに、この地の字名は「奥領家」である。
北條・鎌倉時代に北條家ゆかりの者がこの地を通って信濃に逃れたという
伝承があったことから、その末裔がこの地を訪れたとき、「榜示」を「北條」
で当て字して「北條峠」と呼んだといわれる。」
と案内看板に説明書きがありました。
「ホウジョウ」と読まず「ホウジ」と読ませるのは当て字ということで
ありますが、何となく無理無理な感じもいたします。
ま、それはそれでいいとして、ここの立地の特性は、正に中央構造線の上
であるということです。いわゆるパワースポットでもあります。黒片岩と言
われる岩層がありました。その石を1つ拾ってまいりました。果たしてパワ
ーは感じられるでしょうかということですが、どちらかというとパワーをた
め込む石、例えば電気で言えば帯電するということ、いわばコンデンサーの
ようなものではないかと推測いたします。
中央構造線とフォッサマグナの交差する場所、佐久間・水窪地区・・・
水窪には有名な「水窪石」があります。書かれているペトログラフは古代語
でフェニキア文字に似ているともいうことですが、いくつか解読された訳が
あります。あえてそこには触れませんが、その謎を追及することは、古代の
日本を知るということで、非常に興味深いものであると思います。
今回、平家の落人伝説があるかどうか探しに行ったわけですが、先ほどの
北條氏の話はありましたが、源平の匂いは拾えませんでした。たぶんあると
思いますが、準備不足でありました。そのかわり、武田との戦いの血生臭さ
は残っておりました。また北條氏は北条時頼ゆかりの「足神神社」という神
社があると後で知りました。
こんな昔話がありました。
「機織り淵
昔、長篠の戦いで敗れた武田軍の中に、肥田孫兵衛という侍がおった。
傷だらけの身で下平の里にやっとたどりついてな、お銀父娘のおせわに
なった。すっかり元どおりの体になった孫兵衛は武士を止め、この里で
百姓をやることに決めていた。ところが、ある日落武者狩りが来て、再び
武士に戻ってしまった。愛していた孫兵衛に里を後ろにされたお銀は、
自分で織った結婚の晴れ着を抱いて滝へその身を投げた。
その後、滝つぼに向って尺八を吹く男がいたそうな。いつまでも悲しげ
に吹いていたそうな。」
ということです。ハワイにも同じような伝説がありましたね。
さて、この北條峠に「民俗文化伝承館・そば処」があり、昔からの民具
やお雛様、その他数々の古物が展示されています。お雛様は陶器製でありま
して、愛知県産、知盛様のお雛様もありました。古道具の中には秤も分銅が
あり、不思議に思ったのはあの「丸に十字=轡十字紋」が表面に表されてい
たことです。まだ調べておりませんので、どういうことかわかりませんが、
妙にこの紋につながるなと思いました。
とりあえずの本日の報告でした。
[18] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月05日 22時49分13秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
何とも哀しいお話をありがとうございました。
上記の悲恋のお話には
北条高塒の息子の時行の話を思い出しました。
この史実の派生のお話かも知れないです。
ということでコピペ:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E8%A1%8C
北条 時行(ほうじょう ときゆき)
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将である。鎌倉幕府第14代執権北条高時の次男。
兄の邦時が正中2年(1325年)の生まれであるため、それ以後の誕生と考えられている。
時代
鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕
不詳
死没
正平8年/文和2年5月20日(1353年6月21日)
改名
亀寿丸・長寿丸・勝長寿丸→時行
別名
相模二郎
氏族
北条氏、得宗
父母
父:北条高時、母:二位局
兄弟
邦時
子
豊島輝時?、行氏?、時満?、惟時?
後醍醐天皇が討幕運動を起こすと、幕府御家人であった足利高氏や新田義貞らが宮方に属し、鎌倉は新田義貞に攻められて高時ら北条氏は滅亡する。
この際に時行は得宗被官諏訪盛高(もりたか)に連れられ[4]、叔父の泰家と共に鎌倉を脱出、泰家は奥州に遁れている。
幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始されると、時行は北条氏が代々世襲する守護国の一つであった信濃に移り、諏訪氏などに迎えられた。
北条一族の残党は各地に潜伏して蜂起し、泰家は京都で西園寺公宗らとともに各地の北条残党と連絡を取り新政の転覆と鎌倉幕府再興を図るが失敗する。
このあたりから
建武2年(1335年)7月、10歳前後(7歳とも)であったと考えられている時行は信濃の諏訪頼重、諏訪時継や滋野氏に擁立されて挙兵し、
足利方の信濃守護小笠原貞宗と戦って撃破し、
道中建武政権に不満を持つ武士を糾合しながら武蔵国へ入り鎌倉に向けて進軍した。
7月22日には女影原(埼玉県日高市)で待ち構えていた渋川義季と岩松経家らの軍を破り、
さらに小手指原(埼玉県所沢市)で今川範満を、武蔵府中で下野国守護小山秀朝を破って、
ついに尊氏の弟である鎌倉将軍府執権足利直義を町田村(現在の町田市)の井出の沢の合戦で破り鎌倉を奪回した。
時行軍は逃げる直義を駿河国手越河原で撃破するが、
京から直義救援に駆けつけた足利尊氏に、
ココ
↓
遠江国橋本、小夜の中山、箱根、相模国相模川、片瀬川などの戦いで連破され、
時行の軍は壊滅し時行は逃亡した。
時行が鎌倉を占領していたのはわずか20日間であるが、
先代(北条氏)と後代(足利氏)の間に立った鎌倉の一時的支配者となったことから、
この乱は中先代の乱と呼ばれる。
尊氏は中先代の乱を契機に新政から離反し、宮方を破り京都に武家政権を設立する。
後醍醐天皇は吉野で南朝を開いて南北朝時代となり、
延元2年(1337年)時行は吉野の後醍醐天皇と接触し、朝敵恩赦の綸旨を受けて南朝方に属する。
時行は北畠顕家の軍に属し、顕家の2度目の西上の時に青野原の戦いなどで足利方と戦う。
観応の擾乱の直後の正平7年/文和元年(1352年)に、新田義貞の遺児義宗・義興と共に上野国で挙兵するが、
武蔵国で尊氏とその子基氏に敗れて捕らえられ、翌年5月20日に鎌倉龍ノ口で処刑された。
時行の死により北条得宗家は滅亡する。
子孫
岡野氏、横井氏(子孫には横井小楠)や平野氏(尾張平野氏、子孫に平野長泰)など時行の子孫を称する家系もある。
平野さんは南朝方の忠臣の1つです。
なお、近年黒田基樹は
後北条氏第2代に数えられる北条氏綱の正室であった養珠院殿が
後北条氏家臣で執権北条氏の末裔を名乗っていた横井氏出身の可能性を指摘している。
ゆえに、あくまで可能性だが
養珠院殿の子孫(子の北条氏康など)は時行の子孫であると考えることもできる。
北条時行の先祖は北条時政で
わたくしの上司であったヒトは
北条義時=時政の次男=の孫35代の子孫で「時行」という名前です。
尾張藩の重臣の家です。
名字と名前を聞けばスグに分かる。
そしてお家もスグに分かる。
先祖もスグに分かる。
日本は本当にスゴイ国です。
[19] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月06日 05時54分47秒 ) | パスワード |
https://sites.google.com/site/powmaphama/hamamatsu-power-spot/ashigami
浜松近郊のパワースポット
コピペ:
足神神社
静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家 5005−1
御祭神 足神霊神
中央構造線の露出する青崩峠に近い神社です。
足神の名前より長髄彦またはアラハバキ神との関連を指摘する人もいるようですが真相は不明。
百メートル以上手前から強い神気に覆われています。
ちなみに当方が神気と呼んでいるのは
清浄で少し冷感の有る気配の事で
神社で感じる人は多いと思います。
想像ですが、これは神域を邪気から守るバリヤーのようなもので
当方のように邪気が多い凡人だと消毒液のような
きつい感じを受ける事も有り勝ちです。
当方は神仏の気配を感じる事が出来ないのですが、
判る人だと神域の狭い範囲で温感の有る波動を感じるそうです。
足神神社の神は大変に力が強いと思われます。
水:
大変に体に良く各種の病気が治る事も有ると評判の水。
飲んでみると、かすかに甘みを感じる最上の部類。
それ以上に、平気でガブ飲み出来てしまうのですね。
気温低めな中、オートバイで走って来たので少々体が冷えていたのに
500ミリリットルのペットボトルで一気飲みしてしまいました。
(15分後に下ってしまいました)
喉が渇いている訳でもないのに一気飲みしたくなる水というのは
相当に良い予感がしました。
・・・・で、その夜には何だか肌がスベスベしてるんですね。
全身の細胞に行き渡ってると言いますか。
歩くと左足の股関節が痛みます。
当方は股関節に若干のねじれが有るのですが
これが治って行くのです。
生命力がアップしていくようで、滅多に無い凄い水だと思います。
これなら病気が治る人も居るでしょう。
もっとも好転反応が出る事も多いと思います。
ただ、2日後には元に戻ってしまいました。
継続して飲まないと駄目なようです。
以上
[20] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月06日 06時10分26秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
ここのところ、内容的にはいずれも深いことを教えてもらっております。スーッと読み流してはいけないものだと思いますので、もう一度最近のあを
様からのレスを読み直します―服部宗家から北條氏まで。
[21] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月06日 06時30分19秒 ) | パスワード |
>知盛様のお雛様もありました。
>古道具の中には秤も分銅があり、
>不思議に思ったのはあの「丸に十字=轡十字紋」が表面に表されていたことです。
轡十字紋って?
どうしてなんでしょう?
知盛さまに関係するんでしょうか?
知盛さまの乳母の家は服部家長の家です。
家長は壇ノ浦で手に手をとって知盛さまと入水したと平家物語には書かれていますが
この人物は家長の息子か孫だと思います。
知盛さまは当時30代
家長は当時かなりの老人じゃないかなと思います。若くはなかったと思います。
根拠
1120年ごろに?
清盛の父の忠盛が昇殿を許されて
この警護に父の家貞とともに従っていて
当時家長は16歳あたりだったような記憶。
家貞 1082年生まれ 1167年没
6男の家長が16歳だった、というのは納得できますよね。
家貞が38歳の時ですから。
家長16歳だったらバッチリ合いますよね。
そうすると1104年か1105年あたりの生まれ?
平家が滅亡した1185年には80歳ぐらい?
家長の弟の家員という人物が那須与一に射殺されています。
58歳か60歳ぐらいだったと思います。
家貞の10男あたりだったような記憶です。
平知盛さまの長男は父上をかばって討死しました。
16歳あたり。
次男は最近スレッドに名前が出ましたが 知忠さま。
乳母の家が橘です。伊賀にいました。
この橘は後の世の楠正成の家に関係するんでしょうか?
それとも貴族の橘?
もし楠正成に関係する橘氏だったら面白いですね。
昔むかしから服部と楠の家は親しかったということに。
そして千賀地の服部連家長ということで
家長の領地は千賀地だったのかなと。
そうすると、モロ、半蔵の家になります。
半蔵は家長の子孫ということに。
千賀地は皇室に仕えた人々のエリアです。
そして 轡に十字紋。
古道具に轡十字紋。
何か関係するのかしら?
レスをしながらすっごく苦しいです。
泣けそう。
昔の記憶に
久居の家から出て、
大山田の平田の父=家継=の家から西の予野の千賀地の花垣神社の桜を見に行きました。
一緒に行ったのは藤原忠清の子供です。
予野の千賀地の領地は家長の家のものだったのかしら?
[22] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月07日 00時00分06秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日「1年記念」(4月16日で丸1年)を送りました。
今こちらは地方選挙の真っただ中であります。今度の日曜日が投票日で、
やっと選挙から解放されます。
本日は間隙を縫って図書館にて資料をコピーいたしました。1つは服部中
に関するもの(本日同封した資料とは別の第2弾)、及び服部半蔵に関する資料
であります。
その内、半蔵に関する資料の内容を記します。
「市野村誌
小池村社 市場神社
古来八王子社と称し、小池村の中央地にあり、須貝織部、代々神を守る。
今尚、其の職にあり。
由緒、宝物等なし。天正以後、服部半蔵領地たりと。棟札によれば、天正
三年九月建立たりとあり。」
次回より、服部中に関する第2弾の資料を数回に分けて記します。
[23] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 01時58分05秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ありがとうございます。
そして書き込み予定も期待しております。
市野・小池・八王子社
すっかり忘れておりました。
最近もどこかで数回見掛けましたが ??? と思ったあたりでした。
記憶力が全く続かなくなっています。
[24] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 02時00分00秒 ) | パスワード |
須貝氏
http://blogs.yahoo.co.jp/sugai0055/4473608.html
須貝氏の発祥
02012/3/31(土) 午前 1:51
須貝家歴史
播磨の須貝氏の先祖は、赤松氏の一族であり家臣であった須貝氏であると考えられます。
しかし、どのようにして「須貝」姓を名乗ることになったのかはよくわかりません。
そもそも赤松氏の発祥にしても不明な点が多いです。
多くの系図が村上天皇から始まる村上源氏としていますが、
最近、渡邊大門さんは、歴史研究596の中で、
『千葉県の藻原寺文書に、赤松氏が鎌倉幕府に属して戦ったことが記されている。
また、赤松氏の所領が関東方面に所在したことをうかがわせる史料もあり』
と述べ、
赤松氏の関東御家人説の存在を示されています。
もしこれが正しければ、赤松氏に従って播磨にやってきた関東の武士団が存在したことは容易に想像できます。
だとすると、須貝氏も関東北部から西と北に分かれたということになり、
山形や新潟に多く分布する須貝氏との関係が気になってきます。
それにしても藻原寺文書にどんなことが書いてあるんでしょうね。
私は、これから、もう少しくわしく赤松諸家大系図の中の記述を読んでみようと思います。
[25] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 02時07分15秒 ) | パスワード |
http://www1.koalanet.ne.jp/sg_hp/kousatu1.html
1 須貝党について
(1)史料
@『せきかわ歴史散歩』『関川村史』 新潟県関川村
荒川保では、河村義秀が初代地頭となる。義秀は、相模国波多野荘河村郷の出身で、一族郎党がこれに従い移住しました。
中でも『須貝氏』は大きな力を持つようになりました。
中束には、須貝刑部・彦右衛門・吉左衛門、
南中には、甚左衛門、高田には、平右衛門・庄右衛門・治右衛門・宗左衛門の諸氏がそれぞれ定着したと伝えられます。
彦右衛門家は通称「かじどん」、甚左衛門家は「だいくどん」と呼ばれ、また、
須貝刑部の子孫又右衛門家には、先祖の使った馬具が家宝として伝えられえていることなどから、
採鉄製鉄ほか技術集団としての可能性が高い。
(荒川流域には、採鉄製鉄の史跡が多いと記述されている)
南北朝の争乱では、
北朝(足利方)に小泉荘(本庄、色部)、奥山荘(中条、黒川)など、
南朝(新田方)に荒川保(河村)などに分かれて争った。
北朝の総指揮に赤松範資(入道西範)があたると、河村氏は敗退した。
入道西範は戦運に乗じて弘長寺の本尊阿弥陀如来像を遷移しょうと計ったが、
とくに須貝甚左衛門・同彦右衛門らに守護されことなきを得た。
須貝氏が河村氏とともに南朝に属し活躍したという伝承があります(須貝党)
地頭ともに移住した一人に、『須貝刑部』という人物がおり、熊に導かれ、湯沢温泉(関川村)を発見した伝説がある。
刑部は、津野源太夫という人物に温泉の経営について相談し、田屋(源太夫)、本鎌倉屋(刑部)の2つの宿をつくった。
A『色部史料集』 ※原文ではなく、内容を記載 文書には「本庄房長の花押あり」
本庄房長(本庄繁長の父)の家臣、有明平右兵衛が本庄房長に謀反しようとしたが、事前に察知されたため出奔。
女川(おんなかわ)の小和田(おわだ)にいた須貝党に保護された。
B『色部年中行事』
色部家の年始の行事の様子の記述の中に、須貝姓の人々が数名でてくる。
(2)考察
@定着場所
『せきかわ歴史散歩』の記述にあるように、河村義秀の地頭派遣にて、相模国波多野荘河村郷より越後国荒川保荘に移ってきた須貝氏は、『小和田(おわだ)』『中束(なかまるけ)』『南中(みなみなか)』『高田(たかだ)』に定着した。現在の地図で確認すると、これらの地はいずれも、米坂線越後大島線の近くで荒川に合流する支流の女川の流域に点在する地名であり、この地域に定着したと思われる。
『色部史料集』の記述にある有明平右兵衛の出奔の話では、こちらも現在の地図で確認すると、女川を上流へのぼり、山を越え、門前川という川を下っていくと、現村上市内に出る。ここ村上城は本庄氏居城であり、山越えの逃走ルートの途中に須貝党の拠点がある。
A存在時期
また、有明平右兵衛の出奔の記述からは、本庄房長(?〜1539年(天文8年)の時代(戦国時代の初めころ)にも、須貝党が存在していたことがわかる。ということは、次項で出てくる須貝伊賀守と同時期に存在していたことになる。
須貝党と須貝伊賀守一族とはどんな関係はだったのであろう。
なぜに須貝「伊賀守」一族????
私は、須貝伊賀守の一族は、須貝党からは独立していたのではないかと思っています。須貝党は、北朝に属していた色部氏とは一線を画していたのではないかと思っております。
Bどんな集団であったか
『せきかわ歴史散歩』の「かじどん」、「だいくどん」と呼ばれたり、馬具が家宝とされていて、技術屋集団の可能性が高いという記述から、河村氏家中では、職人的な立場にあったと考えました。さらに戦国時代は、一般庶民の中にも、生活のため、いくさに向かうものもいたようなので、有事には武士団となったとも考え、須貝家物語でもそのように断定した記述をさせて頂いています。
[26] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 02時13分08秒 ) | パスワード |
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E9%A0%88%E8%B2%9D
【名字】須貝
【読み】すがい,すかい
【全国順位】 1,249位 須貝さん都道府県別ランキング!!
【全国人数】 およそ14,700人
掛川藩にみられる。
天正頃、現新潟県である越後に須貝伊賀守あり、近年も新潟県に多数みられる。
掛川藩???
ということは????
掛川と越後の関係
そして伊賀守との関係
面白くなりました。
結構全国的みたいですよ。
都道府県別ランキング
都道府県 順位 人数
北海道 529位 およそ1,700人 屯田兵で北海道に????
青森県 2,750位 およそ30人
岩手県 2,140位 およそ50人
宮城県 797位 およそ300人
秋田県 1,686位 およそ40人
山形県 94位 およそ2,200人
福島県 1,199位 およそ200人
茨城県 1,014位 およそ400人
栃木県 2,918位 およそ50人
群馬県 1,389位 およそ200人
埼玉県 1,098位 およそ900人
千葉県 1,296位 およそ600人
東京都 1,241位 およそ1,400人
神奈川 1,152位 およそ1,100人
新潟県 154位 およそ2,700人
山梨県 1,883位 およそ20人
長野県 3,426位 およそ30人
岐阜県 3,044位 およそ40人
静岡県 1,744位 およそ200人
愛知県 3,020位 およそ200人
滋賀県 3,059位 およそ40人
大阪府 3,132位 およそ300人
兵庫県 1,701位 およそ400人
島根県 3,279位 およそ10人
沖縄県 2,673位 およそ10人
[27] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月07日 12時54分36秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
須貝氏については、「伊賀の守」もおられて、意外なところで伊賀とつな
がっているのだなと感じています。特に金属を生みだす産鉄族等については、特殊技術を身につけ、貴重な金属を生み出す訳で、それが権力のパワーとも
なって行く訳ですから、各地で引っ張りだこであったと思われます。一度深
堀りしてみたいと思います。古代の氏族は金属と何らかの関係をもっていま
す。
服部半蔵については、割とおとなしい情報が多いですが、おとなしいとい
うのは陰でおとなしくないということだと思っています。服部半蔵、服部正尚、服部中保次・・・陰の軍団という戦力のみでなく、陰から表の世界を動
かしていた、シナリオを書いてその通りに動かしたと思うのですが、どうで
しょうか。家康は影武者であったという説があります・・・その辺にも踏み
込んでみたいとも思っています。
本日はjob-dayにて、とりあえずこれにて―
[28] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 13時00分07秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>おとなしいというのは陰でおとなしくないということだと思っています
はい
怪しいですよね。
[29] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 13時10分05秒 ) | パスワード |
※「遠州報国隊」は、遠州で神官を中心に結成された勤王集団
ここに 神官だった須貝氏がどうかかわるのか?
ということでアップ
http://www1.koalanet.ne.jp/sg_hp/kousatu3.html
須貝氏について続き
以下コピペ
3 太田家家老職の須貝家について
(1)史料
@『掛川市史』下巻 「掛川藩の選択」 ※本文そのものでなく要約した内容を載せる
幕末、鳥羽伏見の戦いが展開した前後の掛川藩主は太田資美であったが京都にいて掛川に不在であった。
そのため、掛川藩の藩論は譜代大名として徳川幕府に忠誠を尽くし恩義を感ずる佐幕派であった主席家老須貝十郎左衛門と、勤王派であった次席家老太田資逢の二派に別れて結論が出なかった。
勤王派である太田資逢の所に、後に陸軍大将に昇進した大久保春野や地元の報国隊幹部が現れ、「(勤王の申し入れが聞き入れられなければ佐幕派の家老を斬る」と須貝十郎左衛門を呼びだすように迫ったが、義親子である太田資逢はそれに応じなかった。
※「遠州報国隊」は、遠州で神官を中心に結成された勤王集団
A『掛川市史』下巻 「掛川藩の芝山移封」 ※本文そのもの
明治元年、11月、当時の掛川藩主太田資美は遠州佐野群、城東郡等にあった領地を上知し、上総国武射郡、山辺郡等で5万3000石が与えられ、藩主ならびに藩重役河野加右衛門、須貝三郎兵衛、河野十左衛門、太田織部、若林左忠、波多野平内、四宮与右衛門、甲賀杢助、古屋善左衛門、橋本孫兵衛らに加え、重代の家臣団ともども芝山に移るのであった。
B『三百藩家老人名事典 4巻』掛川藩
須貝要人(すがい かなめ:生年不詳〜文久2年(1862年)の項
掛川藩家老。9代藩主太田資始(すけもと、1799−1867)、10代藩主資功(すえかつ、1827−1862)の2代に仕える。
須貝氏が藩主太田氏に召し抱えられたのは、江戸時代のはじめ太田資宗(すけむね、1600−1680)の代で・・・・(略)・・・・祖の須貝宗右衛門信成も家老職を勤め、承応2年(1652年)の没している。以後、須貝氏は代々重役にあった。
要人ははじめ祥作という。父は佐兵衛信任(要人・三郎兵衛)で家老職を勤め、長兄宗内(要人)は寛政3年正月(1791年)取次で召し出され、新知150石にて文化2年(1805年)年寄となったが、同5年(1808年)病没し、次兄の佐助(佐介)も文化13年(1816年)取次にて召し出された。文政2年(1819年)に掛川で没し、3男の鑑三郎も同4年(1821年)取次にて召しだされたが、同年(1821年)掛川でそれぞれ病没したので、4男の要人信弁が文政5年(1822年)正月、取次にて召しだされた。
(略)
嘉永7年11月(安政東海地震)に大きな被害を受けた(掛川)城の再建に尽力したことが賞され、白鞘の刀1腰を拝領した。安政5年(1858年)12月家老を仰せ付けられ月番加判、勝手掛預りとなる。文久2年(1862年)4月4日、掛川にて病死。正願寺に葬る。
A『埼玉苗字辞典』茂木和平著
『蕨宿の須貝氏 字要害屋敷(蕨城跡)に居住す。蕨城主渋川氏の本名か。須貝氏は渋川氏所領の出羽国沼木村(山形市)近村の津金沢村に二十三戸、長谷堂村に十二戸存し、出羽地方に多く存す。此地の出稼衆にて蕨城主渋川氏の名跡を継承して渋川氏を名乗り、落城後は本名に復姓して城跡に土着するか。蕨城は岩附城が大永五年北条氏綱のものとなるとその配下に組み入れられた。由緒ある家柄により太田藩重臣となる。蕨宿貫井家系図に「我等先祖の儀は、古元禄八亥年酒井河内守様御検地前、須貝惣内と申武士の家に御座候。
屋敷構の儀は三方に構居堀有之、右構居堀合三反五畝歩、屋敷内家宅の儀は坪数百坪、栂松造り南家向に長屋門有之、依而字要害屋敷と申也。右同年正月遠州浜松太田摂津守様より被召出、無拠屋敷外に戸田領新曽村より伝四郎と申家守差置、源右衛門分所持の田畑・町屋敷とも合二町九反九畝二十八歩、田畑不残同宿市郎右衛門方へ相預け、金七十五両借用仕旅用金に致し罷越、直様御高千石難有頂戴御家老相勤、同人妻の儀は当宿御本陣岡田加兵衛正綱の妹也。跡式相続の儀は、右惣内娘くにと申者に御座候」と見ゆ。跡屋敷は娘くにが同宿貫井惣左衛門を婿に取り相続す。須貝惣内の子孫は遠州掛川太田藩御家老を勤める。』
(2)考察
@太田家家臣の須貝家の出自について
太田家家臣の須貝家は、代々太田家の家老を務めた家である。掛川市に、電話帳による須貝姓宅はなし。
電話帳未登録の人がいたとしても、以前から掛川近辺にいた一族であることは考えづらい。
一方、太田家は初代掛川藩主となる太田資俊(1720−1764)以前から掛川太田家として掛川にあり、資俊は5代目にあたる。以下、掛川太田家の系譜を記述する。(出典はウキペディア)
初代 資宗(すけむね)(1600−1680)備中守
2代 資次(すけつぐ)(1630−1684)摂津守
3代 資直(すけなお)(1658−1705)摂津守 田中藩初代
4代 資晴(すけはる)(1696−1740)備中守 田中藩2代 棚倉藩初代 館林藩初代
5代 資俊(すけとし)(1720−1764)摂津守 館林藩2代 掛川藩初代
では、太田家家臣の須貝家はどこからきたのか?
史料A『埼玉苗字辞典』の須貝姓の項、渋川姓の項、貫井姓の項をみると太田家家老職須貝家の初代のことと思われる記述がある。
貫井家家系図に、蕨宿(埼玉県蕨市)の貫井家の祖先は須貝惣内という武士で、「右同年正月(資料本文)」に遠州太田摂津守に召し出され、子孫は遠州太田藩家老を勤めるとある。「右同年正月」は何年なのかというと、2行上の「古元禄八亥年酒井河内守様御検地前」(元禄八亥年=1695年)にかかりそうなので、はじめ、1695年が召し出された年と考えたが、よく見ると元禄八亥年(1695年)に行われた酒井河内守の検地より昔(『古』(いにしえ))、つまり1695年より以前にというようにとれる。
一方、資料Bの『三百藩家老人名事典 4巻』の太田家家臣須貝氏初代の須貝宗右衛門信成が江戸時代のはじめ太田資宗に召し抱えられたということが正しければ、1695年には、太田資宗亡くなってしまっているので、上記の見方だとつじつまがあう。
また、これらのことは、貫井家家系図に書かれている須貝惣内と三百藩家老人名事典に書かれている須貝宗右衛門信成が同一人物であることが前提であるが、惣内(宗内は惣内の別表記と思います))と宗の字が一致していることから、太田家に仕官してから宗内⇒宗右衛門に変わったのではないかと考えている。
また、貫井家家系図には、太田摂津守に召し抱えられたとあり、太田資宗(備中守)と矛盾する点であるが、貫井家家系図の記述は2代太田資次(摂津守)について書かれたものと考える。資次は資宗の30歳の時の子であるが、初代資宗が80歳まで長寿し、2代資次に大きな影響があったと思われ、どちらかに仕官したというよりは、この2名に仕官したという意味合いが強く、貫井家家系図と三百藩家老人名事典の記述の矛盾となったのではないかと考えている。
埼玉名字辞典には、太田家家臣須貝家が蕨城主渋川氏の本名であり、出羽地方の出稼衆にて蕨城主渋川氏の名跡を継承して渋川氏を名乗り、落城後は本名に復姓して城跡に土着するとある。
この出羽地方の中に渋川氏所領の出羽国沼木村(山形市)があるが、この地は須貝伊賀守が参陣した長谷堂の戦いで直江兼継軍が進軍した狐越街道の出口に位置しており、敗走混乱の中、色部光長に従った(私は、光長は、義兄弟の関係から兼継に従って、狐越街道を進軍したと考えています)須貝姓の家臣の中に、なんらかの縁で渋川に仕官したものがいて、以後渋川氏に仕え、蕨城主の渋川氏を名乗り、太田家の家臣へとつながるのではないかと考えています。
[30] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 13時20分41秒 ) | パスワード |
結論
須貝伊賀守とは色部家内の官職であったと考える
だそうです。
http://www1.koalanet.ne.jp/sg_hp/kousatu2.html
コピペ
2 須貝伊賀守について
(1)史料
@『色部史料集』
・天正年中(1573〜1592)、小笠原右近太夫貞慶(信濃国守護小笠原貞時の子)が武田氏に敗れた後、越後に身を寄せて際に、色部長真公の領内の貝附に旅宅を構え、(色部の)家臣の須貝伊賀、和田善勝という両人を付き添わせ、3、4年介抱した。その間、小笠原家之軍書・しつけ・書礼等を長真公に伝授した。
それから、貞慶は、会津へお越し、その後、本領信州を拝領し、小笠原家再興をはたす(口語訳)・天正10年7月7日、天正11年7月7日
『(上杉)景勝公より(色部の)家頼『須貝伊賀(守)』へ成下さるる感状の写』
※修理太夫(色部長実の)代官として参陣したことに対する感状があったことが記載されている。
A『牧目館跡発掘調査報告書』神林村教育委員会
・牧目館は、小色部に近接し、文政5年(1830年)の牧目村指出明細帳には「古城跡 只今ハ畑二罷成候 是ハ先年須賀伊賀守居城之由申伝候」と記されている。〜須賀は須貝の誤りであると考えられている。
須貝氏が牧目に居を構えたのは、16世紀末で〜須貝氏は既存の館を譲り受けたと考えられる。
B最上合戦記
長谷堂の戦いを描いた上杉方の軍記『越境記の中の「最上合戦記」』の中に色部衆の記述として以下のものがある。
『小滝の大将倉賀野長左衛門尉綱元へ、直江兼続出陣すべきの由申遺しけれは、手明百人・足軽三百五十人、金山の城主色部与三郎綱長(光長)加勢、色部右衛門・上泉主水・『須貝伊賀(守)』・小嶋備後・牛屋土佐守を武首として、其外、大津善右衛門、町馬上には鈴木十左衛門・小熊庄左衛門・氏家症左衛門・地下馬上には安部右馬之助・宮内村の板垣作右衛門・荒志駄左近〜』
※余談
別冊歴史読本 「直江兼続の生涯」の上杉軍団の勇将たちという近衛龍春さんが書いた記述の色部光長の項で、小滝口に参じた色部衆の記述があり、「須貝伊賀守」が「須田伊賀守」と誤っています。
@での伊予と伊賀、A須貝と須賀 B須貝と須田 戦国、江戸、現代とやたらと間違えられています。
(^_^;)
(2)考察
@生存時期
須貝伊賀守が生存した時期については、記述した史料が見つかっていないため推測するしかない。
同時代の関係人物の生存時期を見てみよう。(出典はウキペディア)
・「上杉謙信」享禄3年(1530年)→ 天正6年(1578年)享年 48歳
・「上杉景勝」 弘治元年(1556年)→ 元和9年(1623年)享年 67歳
・「直江兼続」 永禄3年(1560年)→ 元和5年(1619年)享年 59歳
・「色部長実」 天文22年(1553年)→ 文禄元年(1592年)享年 39歳
・「色部光長」 天正15年(1587年)→ 寛永17年(1640年)享年 53歳
・「小笠原貞慶」 天文15年(1546年)→ 文禄4年(1595年)享年 49歳
伊賀守が他の歴史上の人物を関わるポイントが3つあります。
ポイント1 天正年中(1573〜1592)に小笠原貞慶を3,4年介抱した
ポイント2 天正10、11年(1582、1583年)上杉景勝から感状を受ける
ポイント3 慶長出羽合戦(1600年)色部長実軍として参加
まず、ポイント1であるが、小笠原貞慶の上杉家へ身を寄せていた時期を考えてみましょう。
信長に仕えるまでは若年であり父である小笠原長時といっしょに行動していたと思われる。天文17年(1548年)塩尻峠の戦いで武田信玄に敗れたのち、天文21年(1552年)に上杉謙信を頼る→川中島の戦いにきかっけになる。天文23年(1554年)に弟小笠原信定のいる下伊那鈴岡城へ向うが、小笠原貞慶をそのまま越後長尾景虎に託したようである。弘治元年(1555年)、小笠原長時は京都にのぼり同族三好長慶を頼る。しかし永禄7年(1564年)には三好長慶が死去し、さらに永禄11年(1568年)9月末には織田信長によって芥川城が落城し、小笠原長時は逃れ、再び上杉謙信を頼って越後に赴いた。
天正6年(1578年)、上杉謙信が死去すると、会津若松に赴き、黒川城主蘆名盛氏のもとに身を寄せた。
天正7年(1579年)に小笠原貞慶も会津若松に迎えている。
つまり、小笠原貞慶は天文21年(1552年)6歳から天正7年(1579年)33歳まで上杉家に預けられていたということになる。そのうち、須貝伊賀守が介抱した時期は天正年中とあるので、天正元年(1572年)26歳〜天正7年(1579年)33歳の内の3,4年とゆうことになると思います。
ポイント2ですが、伊賀守は、貞慶が去ってから3年後の天正10年(1582年)色部長実(29歳)の代官として上杉景勝(26歳)に参陣する。この際、直実が自分の代官として年下を使わすとは考えづらいので、5歳、10歳は上であったと思うので35歳から40歳ではなかったと考えます。仮に40歳としてポイント1の小笠原貞慶より4歳上、色部長実より11歳上、景勝より14歳上となります。
ポイント3では、天正10年の時点で40歳とした場合、58歳の老齢で慶長出羽合戦に戦ったことになります。いくら、色部一門と武将と同等クラスの記述であるとはいえ、人生60年の時代であるので58歳は老齢すぎるので、4、5歳下として小笠原貞慶と同年台と考えるのがちょうどいいと思います。
結論(仮説) 須貝伊賀守は、小笠原貞慶と同年くらい。
ポイント1 須貝伊賀守は20代後半から30代前半にかけて同年代の小笠原貞慶に傍に仕えた。
身分は違えども、意気投合し、小笠原家伝来の作法など、多大な影響を受けた。
ポイント2 天正10年(1582年)、須貝伊賀守が35歳前後の頃、天正10年(1582年)色部長実(29歳)の代官として上杉景勝(26歳)に参陣する
ポイント3 慶長出羽合戦(1600年)須貝伊賀守が52、3歳の時、色部長実軍として参加
≪余談≫
もし、須貝伊賀守を中心とした歴史小説を書くのであれば、伊賀守、貞慶の仕従関係はあったが、同年代であり、ちいさな時から知っているのであれば友情的ものがあったとすれば、おもしろい話が書けるような気がします。片や旧領地を取り戻す武将、片や身分が低い上杉の陪臣(家来の家来)であり色部・上杉に忠誠を誓うといったような・・・・売れませんけどね(^_^;)
まえから思っているのですが「小笠原貞慶」の人生は歴史小説の題材としては、おもしろいと思っています。
信濃の国司の家柄でありながら、武田に信濃を追われ上杉・秀吉・家康に仕え、最後には深志城(松本城)の城主となり、信濃を取り返すというドラマチックな人生に戦国時代のメインのストーリを加えれば・・・
私は文才がないので、どなたかどうでしょう。
A伊賀守について
伊賀守の守はもともとは国司(地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏)に与えられる官職であるが、須貝伊賀守が伊賀国(現三重県西部)に関係があるとは思えない。
戦国時代には、形骸化していて、国司でなくても単なる官職で用いる場合があるようなので、色部家内の官職であったと考える。
[31] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 13時23分39秒 ) | パスワード |
前後しましたが
結論は「越後の上杉家ゆかりの須貝家」でしたね。
でもいろいろ参考にはなりました。
ブログ主さんに感謝
http://www1.koalanet.ne.jp/sg_hp/
河村郷
地頭派遣
荒川保
南北朝の戦い
伊賀守
太田掛川藩家老
会津藩士の開拓団
須貝家物語 まずは姓氏家系大辞典
どの地域に多いんだろう
色部氏の家来だったらしい
伊賀守にだどり着いた
掛川太田藩について
いよいよ関川村へ
色部の里、神林村へ
2009年、世はブッキー天地人
太田家家老・新たな発見
会津藩士の須貝姓の人々
自分から系譜をたどる調査
自分から系譜をたどる調査2
須貝党について
須貝伊賀守について
太田家家老職の須貝家について
会津藩士(須貝次郎八)について
[32] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 13時26分38秒 ) | パスワード |
http://blogs.yahoo.co.jp/sugai0055/folder/362297.html?m=lc&p=3
須貝?須賀?須賀井?・・・
以下コピペ
「須貝」姓を調べるのに悩ましいのが、古文書や資料中の文字が誤字なのかそうでないのかの判断がつきにくいことです。
以前書きましたように、赤松諸家大系図にも須貝とあったり須賀であったりします。状況からみて須貝だと思っていますので、書き写した人が誤って書いたと考えますが、それでもひょっとしたら須賀なんだろうかと不安になってきます。
実際、兵庫県の西播といわれる地域には「須賀神社」がたくさんありますし、全く別系統の「菅」さんもたくさんいらっしゃいます。
スガイにしても、洲貝、菅井、須賀井、須飼などがあり、同系統なのか別系統なのか、なにせマイナーな名字ですから、それを判断する材料も乏しいです。
赤松系図や掛川藩の須貝を洲貝と書くのはあったようです。
私の本家筋の人(故人)も「むかしは洲貝と書いていたことがあった。」と言われていました。
我々当事者にしてみれば、「須貝」かどうかは大問題ですが、全く関心のない他人様からみれば、須貝だろうと須賀井だろうとあまり関係はないのかもしれません。
いずれにしても、須貝姓の起源を調べるのは容易でないということですね。
道は果てしなく続きますが、どうか全国の「須貝」さん、どんなことでも結構ですので、何か情報がありましたらお教えください。よろしくお願いします。
[33] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 13時30分26秒 ) | パスワード |
※「遠州報国隊」は、遠州で神官を中心に結成された勤王集団
ということで検索
遠州報国隊 えんしゅうほうこくたい .
世界大百科事典内の遠州報国隊の言及
【遠江国】より
…この騒動の翌年に討幕運動が急速に進み,明治維新の成立をみた。この東征軍には遠州報国隊も従軍しており,
その中心となって活動したのは浜松諏訪神社の杉浦大学など当地方の神官層であった。
諏訪神社?
松島氏は関係しますでしょうか?
南朝がらみもアヤシイかも
それには平田派の国学の影響も大きかったが,遠州の国学者としては浜松伊場村に生まれた賀茂真淵や,
その門下で《遠江国風土記伝》を著した内山真竜(またつ)などが名高い。…
あらら
[34] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 13時33分16秒 ) | パスワード |
http://roy.hamazo.tv/e3625793.html
遠州報国隊 討幕へ動く
第四項 江戸幕府瓦解と浜松
佐幕か勤皇かをめぐって、幕末は社会そのものが激しく揺れ動く。長州あるいは薩摩は倒幕に走った。幕府が瓦解しようとするその時、浜松の地でも神主などを中心とする勤皇思想の高まりにより倒幕に加担することになる。
ビックリ
最後の将軍となった徳川慶喜は、鳥羽・伏見の戦いで破れ江戸へ逃げ帰る。ほどなくして錦の御旗を新政府軍が掲げ、東征の途につく。勝てば官軍、負ければ賊軍、これは歴史の法則である。この大総督は有栖川宮熾仁(たるひと)親王殿下であり、江戸城にはかつての許嫁(いいなずけ)の和宮(家茂の正室)がいた。
杉浦国頭(くにあきら)などこの地の神主たちは、勇躍、東征軍に参画する。資金援助をする者あり、銃剣を手に従軍する者あり。遠州報国隊に参加した人数は、最終的に300人を超えた。そのうち江戸まで従軍した者は90人であったと記録されている。なお、遠州報国隊の呼び掛けに応じ、駿州赤心隊も結成され行動を共にした。
この動きの中心メンバーであった大久保春野(初太郎)、桑原真清らは東征軍の先遣隊に請願書を提出した。金品などの献納もしくは供奉(行列への供)をしたいというものだ。総督参謀の海江田からの返答は、別に一隊をつくればどうかというものであった。
慶応四年(1868)の二月下旬には、先鋒隊、そして大総督宮隊を警護するために新居、舞坂、さらに天竜川を守備した。駿府に入られた宮様から晴れて従軍許可が出た。
江戸に着くと、遠州報国隊に金品が下賜された。261両と記録されている。さらに、遠州報国隊と駿州赤心隊から精鋭が選抜され、大砲隊を編成した。上野山に籠る彰義隊と銃火を交え、追討した。七月末には、江戸の町は官軍が完全制圧した。大総督からメンバー一人ひとりに5両が配られ、酒肴を供された。
江戸の平定を受け、有栖川宮が帰京されることになった。10月19日、遠州報国隊は再び供奉を仰せ付けられる。
11月15日、有栖川宮隊は浜松宿に到着する。遠州報国隊は、宮様そして藩主からその労苦を金品や酒肴で労われた。翌日、有栖川宮隊を舞坂宿に送り、遠州報国隊の任務は終わった。大きな仕事をやり遂げ、隊員一同感涙にむせびながら郷里に帰ったという。
戊辰の役の戦死者を弔うために、新政府は招魂社で慰霊祭を行った。この時、祭主という大役を務めたのが大久保春野である。
その後、遠州報国隊に限らず倒幕運動に加担した連中、特に神主たちは旧幕臣から命を狙われることが少なくなかった。そのため新政府は、東京の靖国神社の前身である招魂社の神主として彼らを奉職させた。その数は三〇数人にも及んだ。
遠州報国隊は神主が中心となり結成された。彼らの多くは国学の教養を持ち合わせていたばかりでなく、弓術などの鍛錬も行っていた。幕末に米国船が日本沿岸に出現すると、海防のため時の藩主は神主隊を組織させているから、その萌芽があったともいえる。
[35] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 13時43分23秒 ) | パスワード |
山本 金木
(やまもと かねぎ・かなき、文政9年1月10日(1826年2月16日)- 明治39年(1906年)11月27日)
戊辰戦争における遠州報国隊の隊長。神職。浜松にある井伊谷宮権宮司。山本大隅とも称する。賀茂県主家で賀茂真淵の末裔。
ビックリ
遠江国浜名郡雄踏にて宇布見村金山神社神主 賀茂鞆音(賀茂日向)の長男として生まれる。弟に新所村八幡神社神主の内藤山城、のちの靖国神社二代目宮司となる賀茂水穂がいる。
ビックリ
4歳半から書に親しみ、6歳で中村源左エ門亀年に就き、12歳で自法庵千寿から漢籍を学ぶ。
天保11年(1840年)12月8日、15歳で賀茂家より八幡宮神官の山本家を継ぐ。
この頃には岩間寺住職三宅均との親交があり互いに往復し和歌を作った。 遠州西遠地方では「歌の山本、書の三宅」と言いはやされた。
22歳になると小栗公伴の門人となる。次いで国学者石川依平に教えを受けるが、師が病気となってからは神官で国学者でもある鬼島広蔭(富樫広蔭)から教えを受ける。
慶応4年(1868年)1月3日、京都での鳥羽・伏見の戦いを始めとする戊辰戦争が勃発すると遠州報国隊を結成し、
山本金木と池田庄三郎が隊長となる。
尊王攘夷論の急先鋒として、錦の御旗を掲げ倒幕に向かう東征大総督有栖川宮熾仁親王や
東征大総督参謀西郷隆盛らと共に江戸へ進軍し先鋒をつとめる。
隊員数は 306名(神主 280余名、僧侶 3名、農商 14名、浪人 5名、他若干名)で
神主中心の草莽隊であった。日本最古の軍歌「宮さん宮さん(トコトンヤレ節)」はこのときの様子を軍歌にしたもの。
遠州報国隊が神官中心の組織で結成されたことで、それまで沈黙していた各地神官
(駿河赤心隊、伊豆伊吹隊など)がそれに呼応し神官中心の義勇隊が一気に組織されていった。
そのとき山本金木が詠んだ句に、
「天皇の御先にたちてしめしてむ、やまと心の花の色香を」
「数ならぬ身にはあれども世のためと、おもふひとつの心ばかりは」
がある。
慶応4年(1868年)5月15日、上野戦争での彰義隊との戦いや東北戦争にも参加し、
江戸城内の警護を終えると同年11月(明治元年11月)、山本金木は故郷浜松に帰り、弟の賀茂水穂は東京にとどまる。
明治5年(1872年)宗良親王を祭った井伊谷宮が明治天皇により創立されると天皇から官幣中社の社格を賜り、
山本金木は井伊谷宮権宮司となる。
やはり南朝がらみ・・・
明治39年(1906年)11月27日、井伊谷にて没。81歳。
明治天皇は実は南朝系天皇の子孫の大室寅之助というハナシがあって
伊藤博文の家に養われてたというハナシもありますね。
それで明治天皇は「皇室の正統は南朝」とおっしゃってたとか。
さらに伊藤博文が明治天皇と衝突すると「元の身分にお戻ししますぞ」と脅したとか。
橋本龍太郎は大室寅之助の 弟?の娘? の血?でしたっけ?
そんなハナシがあるとか。
実は実は、案外そんなところかも。
[36] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 13時46分44秒 ) | パスワード |
http://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/50/1/ssr4-43.pdf
靖国神社が作られたハナシ。
重すぎて開かない・・・
コレです:
[PDF]靖国神社はなぜつくられたのか 〜報国隊・赤心隊と東京招魂社
所の警備を命じられた報国隊や赤心隊の幹部は、従軍を求め嘆願を重ねた。4月9日、 .... 隊名. 編成. 中心的人物. 江戸へ従軍. 御守衛大砲隊. 遠江. 遠州報国隊. ・川西隊( ...
[37] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 13時51分49秒 ) | パスワード |
http://www.asa1.net/siseki-meguri/hamamatu/h7-houkokutai.html
(注))報国隊について
@「静岡大百科事典」 静岡新聞社 P103
1868年(慶応4)2月倒幕軍の東下に当って、遠州浜松・見付を中心に結成された神官層主体の民兵隊。
地方神道運動の中心で駿州赤心隊。伊豆伊吹隊結成等に影響を与えた。浜松の「国学研究会」に属する神主たちが先達。その一人の桑原真(み)清(すが)(後まきよ)らは、倒幕軍の桑名入城をきき、赴き軍資金の献納と従軍を志願。帰国して遠州各地の神主に勤皇隊の結成を呼びかけ、2月21日浜松利町諏訪神社に一団を組織し「報国隊」と称した。隊員306人。浜名湖今切と天竜川の従軍許可を得て、4月倒幕軍に従い江戸に入り、江戸の警備、彰義隊攻撃にも参加した。大砲隊を編成し、戊辰戦役戦没者の招魂際(招魂社の祭典)には、赤心隊とともに参列した。
大久保初太郎(春野=1846-1915)は祭主をつとめた。東北鎮定を機に東征大総督有栖川宮熾(ありすがわのみやたる)仁(ひと)親王(しんのう)(1835-95)の京都凱旋がきまると、官途についた者を除く74人がこれに従い、11月留守隊に迎えられ浜松に戻った。神葬祭(神道の儀式による葬祭)の実行を願い出て気勢をあげたが、徳川藩に従い移住してきた幕臣との間に摩擦を生じた。また隊員の中にも東京移住論と郷里残留論が起こり報国隊は分裂した。東京移住の32人は招魂社(しょうこんしゃ)(靖国神社)に奉仕、賀茂備後(びんご)(水(みず)穂(ほ)=1840-1909)は宮司(ぐうじ)(神職)となった。大久保初太郎、長谷川権太夫(貞雄=1845-1905)のように陸軍大将、海軍主計総監になるものもあったが、多くは郷里で忠実に神職をつとめた。
明治41年(1908)浜松五社神社に記念碑が建てられたが、現在は五社公園にうつされている。
A「浜名郡誌」(全) 名著出版 昭和48年復刻版 P622
大正3年(1914)刊・大正15年(1926)増補改定再版
遠州報国隊は王政維新の際、遠江国に於ける神官を主として、その地勤皇有志の者之に加はれる一義団にして、慶応4年(1868)3月東征(とうせい)大総督有栖川宮熾仁親王 (1835-95)殿下護衛の列に加えられ、大旆(たいはい)(旗印とする大きい旗)に随って江戸に入り主として大総督本営に属して、諸種の軍務に従事し、東北平定するに及んでその11月4日感状及び兵器を賜り、帰国を命ぜられしが、折(おり)節(せつ)有栖川熾仁親王殿下帰京に付き、殿下守護の命を奉じ浜松駅に於いてお暇を賜り、茲(ここ)に解隊するに至れり。
報国隊ゆかりの人物(遠江を中心に)
@桑原真(ま)清(きよ)(1821-1903)
国学者、遠江国長上郡参(さんじ)野(の)(現浜松市参野町)に生まれる。初め式部、のち美(み)須賀(すが)又は虎次郎のち真(み)清(すが)という。「真清」は49歳以後は「姓名改姓願」によると「まきよ」とよむ。本姓菅原。有賀豊秋(1790-1882)について、国学を学び47歳の時、平田篤胤(1776-1843)没後の門人となる。「津(つ)毛利(もり)神社(じんじゃ)(浜松市参野町113)神主として活躍。同志を集めて「遠州報国隊」を結成し、その中心人物となり指導的役割を果たした。1868年招魂社祭主介添(大総督府辞令)のち幡(はた)鎌(かま)幸雄(さちお)(1808-90)らと「社司」となった。53歳で退官後帰郷。芳川村(現芳川町)村会議長となり郷里に貢献した。
※社司(しゃし)‥‥旧制で不県社・郷社の社(しゃ)掌(しょう)の上に位した神職。祭祀・庶務を管理。判任官待遇。祠官(しかん)とも。
※社掌‥‥旧制で不県社・郷社で「社司」の下に属した神職。村社以下では一切の事務を司った。
A有賀豊秋(1821-1903)
国学者・俳人・遠江国長上郡有玉郷幡谷村(現浜松市有玉南町)に生まれ、通称彦太郎、のち八十右衛門。本姓菅原。屋号伎倍廼舎(きべのや)と云った。幼少から同郷の高林方朗(たかばやしみちあきら)(1769-1846)に国学を学び、13歳のとき本居大平(1756-1833)にも入門した。元治元年(1864)頃から浜松を中心に「国学研究会」ができ、池田庄三郎(?-1806)の別荘比礼廼舎(ひれのや)などに杉浦大学(国頭(くにあきら)=1678-1740)・桑原真清(1821-1903)らが集まり、講師に豊秋が招かれた。この歌会がやがて幕末勤皇義団遠州報国隊に発展した。豊秋は俳号を烏玉・幽篁斎。浜北市金刀比羅宮に多くの句碑を残した。豊秋の墓は浜松市有玉南町の畑地にあり、その横に「佐保姫の霞のころも立かへりけさより春とあらたまりけり」(十湖書)の歌碑がある。豊秋の国学上の門人には大久保春野(はるの)(初太郎=1846-1915)。長谷川貞雄(1845-1905)・賀茂水穂)(1840-1909)らがいる。
B幡(はた)鎌(かま)幸雄(さちお)(1808-90)
国学者。遠江国磐田郡匂坂上村(現磐田市匂坂上)に匂坂(さぎさか)政(まさ)広(ひろ)の三男。幼名五郎。のち左仲・勝(かつ)寿(とし)・苞(かね)隆(たか)。幸雄は遠州報国隊員として難を避けるための改名。新家の匂坂千足に養われ国学・詠歌(エイガとも。詩歌をよみあげること)を学ぶ。25歳のとき村(袋井市村(袋井市)周知郡山梨の山名神社神官幡鎌家に養子。この年179石川依(より)平(ひら)(1-1859)に入門、幡鎌家で古典の講会を開いた八木(やぎ)美(よし)穂(ほ)(1800-54)にも師事し、勤皇思想をはぐくむ。神官仲間の大久保忠(ただ)尚(なお)(1825-80)山崎八(やつ)峰(お)(1820-94)らと遠州報国隊結成の主唱者となり、国元留守居役に押され軍資金調達などに尽力する。報国隊の出征に際し、「武蔵野の嵐と散らむ紅葉葉も同じ錦の数とこそ見れ」と詠んだ。62歳のとき旧幕臣との争いを避けるため上京、招魂社の祭事関係を務め、さらに社司となる。67歳で退職。帰郷して山名神社の神官となる。遺書に「見聞記」がる。墓は郷里の西楽寺墓地に、報国隊員幡鎌幸雄ら三人の碑が山名神社境内にある。
C大久保春野(1846-1915)
明治時代の軍人。陸軍大将。幼名初太郎。遠江国見付宿(磐田市)大久保忠尚(1825-80)の長男。明治維新時に尊皇攘夷思想に感化、遠州報国隊に加わる。慶応4年(1868)3月東征軍に隊員として参加、戊辰戦争で戦功をあげる。明治3年(1870)陸軍幼年学校に入り、のちフランス留学・帰国後少佐。日清戦争(1894-5)に従軍し、1894年少将。日露戦争(1904-5)ん第六師団長として奉天会戦(1905)で活躍、1907年薩長出身者以外では初の陸軍大将。日露戦争の功績により勲一等旭日大綬章、華族、男爵。招魂社(靖国神社)創立に尽力し初代宮司。死去に伴い従二位旭日菊花大授章。
D賀茂水(みず)穂(ほ)(1840-1909)
国学者。代々神官。雄踏町宇布見の人。金山彦神社神官を継ぐ。幼少より国学を好み、遠州報国隊を組織し、有栖川宮熾仁親王の麾下(きか)に入り東征しその先鋒を勤めた。報国隊結成当時は賀茂備後、のち水穂。明治7年(1874)海軍少秘書。「佐賀の役」(1874)に従軍し戦功を立てた。その後海軍大秘書・大主計・少書記官を歴任。明治24年(1891)初代靖国神社宮司。明治42年(1909)正六位旭日章・翌年従五位勲五等。
※「佐賀の役」(1874)
明治7年(1874)征韓論争に破れ下野した前参議江藤新平(1834-74)が中心になり、島 義勇(よしたけ)(1822-74)の率いる憂国党と結んで蜂起した反政府の士族反乱。征韓・旧制度復活・攘夷をスローガンとしたが、予期した西郷隆盛(1827-77)らの応援もなく。全権をうけた大久保利通(1830-78)の指揮下の追討政府軍に鎮圧された。島は鹿児島で、江藤は高知県甲(かん)ノ浦(うら)で逮捕、ともに梟首(きょうしゅ)(さらし首)となった。
E長谷川貞雄(1845-1905)
国学者・軍人、遠江國豊田郡川袋村(磐田郡竜洋町=現磐田市)に生まれ、はじめ巌、のち貞雄。通称権太夫(頌徳碑)15歳で家業(酒造業)を継ぐ。幼時から学問を好み、有賀豊秋(1790-1882)に和歌を学ぶ。22歳の時平田篤胤(1776-1843)没後の門人となる。慶応4年(1868)遠州報国隊を結成し東征軍に従う。明治5年(1872)海軍省に出仕。明治22年(1889)海軍主計総監。中将。明治24年(1891)現役退官。勅選貴族院議員(頌徳碑)。晩年は浜松に住み西遠教育会総裁。竜洋町八雲神社前に頌徳碑、浜松県居神社本殿裏に長谷川貞雄胸像がある。長女多喜は寺内正毅(のちの内閣総理大臣)に次女芳は柴田家門(のちの文部大臣)に嫁した。三男鉄雄は誠心学園(現開成高校)を創立した。
F高林方(たかばやしみち)朗(あきら)(1769-1846)
国学者。遠江国長上郡有玉下村(浜松市有玉南町)に庄屋・旗本家代官高林伊兵衛方救(みちひろ)の長男。通称勝三郎・伊兵衛・神官名舎人、家号臣下庵。代々古独(こどく)礼(れい)の待遇を受け、方朗も31歳で古独礼惣代(そうだい)となった。庄屋として村政に尽くす一方、13歳で内山真(ま)龍(たつ)(1740-1821)21歳で本居宣長(1730-1801)に入門、学友石塚龍(たつ)麿(まろ)(1764-1823)・夏目甕麿(みかまろ)(1773-1822)らと国学・詠歌に励んだ。59歳の時浜松藩主水野忠邦(1794-1851=在城期間1817-45)が京都所司代に就くと、勤仕(きんし)(勤め仕えること)して殊遇(しゅぐう)(特別待遇)を受けた。前後20年かけ真淵を祭る県居翁霊社(のちの県居神社)を完成させた。忠邦筆の「県居翁霊社」碑は県居神社は遺伝前(向かって左側)にある。78歳で没するまで国学運動の実践家として遠江国学の全盛期を作った。墓は生家近くの高林家の墓地にある。
G八木美穂(1800-54)
国学者、歌人。遠江国城東郡浜野村(小笠郡大東町)生まれ。幼名金松・林助、家名金兵衛・太郎左衛門、号誦習庵・中林。父から漢籍などを学び、20歳の時夏目甕麿(1773-1822)に入門。中山吉埴)(1756-1835)・石川依平(1791-1859)・栗田宣秋(土満の子息)らと交わり、詠歌・国学に励んだ。46歳の時庄屋となり。51歳で遠州横須賀学問所教授。門人に大久保忠尚(1825-80)・春野(1846-1915)父子がいる。美穂の屋敷跡は「美穂園」となり【志(し)長鳥(ながとり)】の歌碑がある。
H大久保忠尚(1825-80)
国学者。遠江国磐田郡見付(磐田市)、淡海国玉神社神官大久保忠照の子。幼名初太郎のち忠尚(忠直とも)・長門・縫殿助。号は菫園。13歳で八木美穂(180054)に入門。44歳の時神官仲間と集まり、遠州報国隊結成に参加、国元留守居役として東征軍に協力。報国隊解散後は招魂社祭典取調所に勤務、のち兵部省(ひょうぶしょう)に出仕、海軍少書記官。長男春野(1846-1915)報国隊員として活躍。のち男爵・陸軍大将に昇進。妻道子は報国隊の主唱者桑原真(ま)清(きよ)(1821-1903)の次女。
I山崎八(やつ)峰(お)(1820-94)
遠江国掛川(掛川市遊家)生まれ。代々天桜神社の神職で22代目。幼名鉾丸。石川依平(1791-1859)について歌学を学ぶ。慶応4年(1868)と鳥羽伏見の戦いに幕府軍敗退の報を聞き。遠州報国隊を結成し、2人の子供とともに参加。
報国隊解散後明治3年(1870)兵部省に出仕したが、病気のため帰郷。山名・城東・佐野三郡の式内社取調べ、明治6年(1873)浜松県学事取締を歴任。
J池田庄三郎
豪商・江戸時代後期、三代にわたり浜松藩の御用商人。初代勝彦は長上郡笠井村(浜松市笠井町)で稲荷明神の神官も勤める。二代勝定のとき浜松市愛宕下(浜松市元魚町)に移る。三代目勝光も商人。のち400石取りの士分。遠州報国隊に参画。別荘比礼廼舎(ひれのや)を同志たちの会合に使用させた。
[38] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 13時55分34秒 ) | パスワード |
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文字化けしているので読めませんが 「赤心隊 駿州 鈴木楯雄」と 鈴木氏の名前があるようなので アップ。
松菊庵・諸隊リスト
www21.big.or.jp/~kirin/baku/syotai/tokai/tokai1.html
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隊名
所属
代表
人数(名)
報国隊
遠州
池田庄三郎・山本金木
306
赤心隊
駿州
鈴木楯雄・森真魚尾・富士亦八郎
110
[39] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 14時00分12秒 ) | パスワード |
そうでしたか。
遠江国や駿河国でも幕末には2つに分かれて大変だったんですね。
尾張は藩主の慶勝が本心を出さなかったので
藩内は2つに分かれて大騒動でした。
その後
維新後、佐幕方は北海道の八雲(駅弁の烏賊飯で有名な森の近く)に入植しました。
[40] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 21時55分09秒 ) | パスワード |
http://jirocho.com/kaihou-5.html
『次郎長翁を知る会』
矢田部盛治日記と次郎長
―――明治元年の赤心隊事件をめぐって―――
明治維新の年の春、三保神社神官太田健太郎が何者かに暗殺された。犯人は徳川浪士らしい数人の男たちとされる。スタートしたばかりの明治新政府の下、徳川駿府藩は事件の穏便な解決に動くが、次郎長がこれと関わった。 三島大社神官矢田部盛治の残した日記が、この時期の次郎長の行動を鮮明に浮彫りにする。以下は矢田部日記による新発見のレポートである。
浜松藩家老伏谷如水
次郎長が渡世人の生活から足を洗い、大変身を遂げるのは明治元年だが、そのきっかけを作ったのはよく言われる山岡鉄舟ではなく、浜松藩家老伏谷如水という人物である。如水は官軍軍政下の駿府における民政長官だったが、次郎長を抜擢して地元の治安責任者とした。
いうまでもなく次郎長の後半生は、山岡鉄舟ら旧幕臣との交流に大きな影響を受けている。咸臨丸事件をはじめ、富士裾野開墾、石油発掘、英語塾、清水港近代化など次郎長が明治維新後に手がけた社会事業は山岡鉄舟抜きには語れない。しかし、切った張ったの生活に終止符を打たせ、次郎長の生き方に根本的な方向を与えたのは、伏谷如水なのである。
一昨年、竹内宏会長が文芸春秋誌の随筆欄に、「次郎長と私」という一文を発表した時、市原市(千葉県)の高石鶴子さんから竹内会長宛に「伏谷如水の子孫だが」という連絡があった。竹内会長の一文は、ともすれば見落とされがちの如水と次郎長の関係を的確に伝えるものだったので、それを読んで感心された高石さんが、長銀總研宛に電話されたということだった。理事長秘書役として「次郎長翁を知る会」にも終始大きなサポートをして下さる秋岡栄子さんから、早速編集子に右のことが伝えられた。編集子は高石さんと連絡をとり、以後数回、電話と手紙を交わしあった。
高石さんは旧姓が伏谷(ふせや)で、如水の曽孫に当る。浜松藩は明治2年に鶴舞(市原市)にお国替えとなり、如水はこの地に移住したそうである。鶴舞には城趾や如水の墓所もあるとのことだが、今日まで訪ねる機会を編集子は逸している。
伏谷如水のことについては、高石さんからいろいろのことを御教示していただいた。その中で編集子が最も驚いたのは、伏谷家と三島大社(静岡県三島市)神官の矢田部家が親戚(しんせき)であるという事実であった。
次郎長が明治元年に起こった「三保神社神官暗殺事件」にどのようなかかわりをしていたかは、これまでよくわからない点が多かった。編集子は数年前「駿州赤心隊」のことを調べたことがあったが、その際、三保神社神官太田健太郎が暗殺された直後に、妻と幼い子供が三島大社の矢田部家へ避難したという事実を知った。「矢田部盛治日記」にそのことが書留められていたからである。しかし、次郎長がそのことにどう関わっていたかは不明だった。「矢田部日記」は大変難読のため細部まで読むのは手に負えないことだったのだ。
「次郎長と三保神社神官暗殺事件」、「次郎長と伏谷如水」と並べても、両者の間には何の関係もなさそうである。しかし伏谷如水と矢田部家という関係を両者の間に置くと、がぜん今まで知られなかった糸が、両者を結びつけているのではないかという考えが浮かび上る。
「東海遊侠伝」には、次郎長が明治維新後、お上の御用で三島へ行くという件(くだり)がある。途中黒駒一派に出会うことが書かれているが、どんな用向きで三島に行ったのかは触れられていない。
この三島行きこそ「神官暗殺事件」の関わりではないのか、さらにこの事件の後、二代目お蝶が徳川浪士と思われる男のテロに遭う。新番組隊士による意恨がこれまで定説となっているが、なぜ怨を買わなければならなかったかを充分解明できる史料はなかった。
このような謎を解くためには、史実を丹念に辿って行かなければならない。編集子は「矢田部盛治日記」にもう一度当ることにした。
ここでアップ
[41] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 21時56分07秒 ) | パスワード |
つづき
明治元年の静岡
明治元年(1868)前半の駿府を中心とする出来事を時系列に従って整理しておこう。
慶応3年12月、大政奉還に続く王政復古の大号令で250年続いた徳川幕府は廃絶となる。
慶応4年(この年9月に明治と改元)1月、鳥羽伏見の戦いで幕軍は敗退し、将軍慶喜は大阪を脱出し、開陽丸に乗って江戸帰着。次いで慶喜追討令が発せられ、有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍が、錦日月の旗をなびかせて東に向かった。
大総督熾仁親王、参謀西郷隆盛ら東征軍本隊が駿府に到着したのは、3月5日である。それに至るまで、沿道の諸藩は次つぎと勤王請書に署名し、東征軍すなわち官軍に加わった。御三家の一、尾張藩では藩主徳川慶勝が幕府支持の重臣3人を斬首し、いち早く旗幟を明らかにした。
浜松藩は、藩主井上正直が老中として江戸にいるため、国元家老伏谷如水と、城代井上織部の二人で決断し、尾張藩から回された勤王請書に署名した。浜松藩は官軍傘下に入ったのである。
藩兵を率いて東征軍に加わった伏谷如水は、3月5日に駿府入りする。
すでに駿府町奉行所は解体し、奉行以下、与力同心らは江戸に引揚げてしまっている。駿府城大手門には、東征軍の据えた三門の砲門が周辺を威圧した。
東征軍が駿府に到着するよりも前、この地方では神官たちによる勤王義勇隊が結成されていた。大井川以西では遠州報国隊、大井川以東、富士川以西では遠州赤心隊、富士川以東は伊豆伊吹隊である。
もともとこの地方では、賀茂真渕、本居宜長、平田篤胤らを源流とする国学が盛んであった。歌会などに名を託して会合が開かれ、神官たちは皇室の衰微を嘆いたり、王政復古を論じて気勢を上げていた。
神官たちにとって徳川幕府は、いわば怨敵である。江戸時代を通じてその手厚い仏教保護政策のもとに神葬祭は禁じられ、神官に仕える社人といえどもいずれかの寺の檀徒として、宗門改帳に記載を強要された。古くからの領地を削減された神社も少なくない。神官たちは長い間僧侶の下風につかされていたのである。
左写真は鉄舟寺所有(現在「末廣」に展示中)の次郎長木造人形
そのような時代は、天皇御親政の実現によって一変することになる。王政復古宣言に続いて朝廷では、いち早く仏事を廃止した。神官たちは、今こそ自分たちの時代が到来したことを感じとっていた。
神官たちによる勤王義勇隊の結成は、まず遠州報国隊が口火を切った。続いて、遠州日坂の八幡神社神主誉田束稲が駿河の三保神社神官太田健太郎、草薙神社森斉宮らを説き、駿州赤心隊が結成された。隊長は富士宮浅間神社宮司富士亦八郎。隊員およそ80名で、2月23日に、駿府浅間神社で結隊式が開かれた。
有栖川宮大総督以下の東征軍が駿府に到着する3月5日、赤心隊員全員が、駿府の西を流れる安倍川の河原に集まり、大総督宮を出迎えた。赤心隊員連名で東征軍参謀林玖十郎に宛てた従軍願書には
「――――粉骨砕身仕(つかまつ)り、赤心報国ノ微忠仕リタク」とある。
安倍川にかけられた急造の仮橋を渡り駿府城入りした東征軍本隊は、3月5日からおよそ一ヶ月にわたって駿府に滞在した。滞在が長引いたのは江戸から勝海舟の密書を携行した山岡鉄舟が、駿府に西郷隆盛を訪ね、その提示した条件を京都に裁下を仰ぐのに手間どったからである。
慶喜討伐の東征軍を迎える江戸城内は紛糾(ふんきゅう)していた。天皇を載く東征軍といえども薩長が名をかりているに過ぎない、断乎討つべしとする主戦論が大勢を占めようとしていたのに対し、慶喜はいち早く恭順の意を表し、上野寛永寺内大慈院に引きこもった。幕閣での非戦論の筆頭は、早くから大政奉還を唱え、かつ硬骨漢として知られる大久保一翁と、同じ開明派で薩長とも深い人脈関係を持つ勝海舟である。
江戸は正に戦火にかかろうとしていた。東征軍の本隊に先んじて、先鋒は早くも箱根を越え、神奈川から六郷の渡しに達しようとしていた。勝海舟は江戸城総攻撃中止交渉を開こうと、密書を西郷隆盛宛に認めた(したためた)。精鋭隊(慶喜護衛隊、後の新番組)隊長山岡鉄太郎(山岡鉄舟)が使者を買って出る。
東海道の宿場宿場は、すでに東征軍先鋒隊に押さえられている。鉄舟は通行査証として、前年の薩摩屋敷焼打事件で幕府側が捕らえていた薩摩藩士益満休之助を同行者として従えていた。官軍陣営を強行突破しながら進んだ鉄舟は、3月9日に駿府に着く。
言い伝えでは、駿府到着の直前、由比宿と興津宿の中間にある薩た峠で鉄舟らは討手に包囲され、近くの旅宿望嶽亭に難を逃れたという。望嶽亭には、鉄舟がかくまわれた御礼にと置いていったフランス製小銃が残されている。望嶽亭は駿河湾に臨む海辺にあるが、ここから小舟を出して鉄舟を無事駿府へ送ったのは、次郎長だとの言い伝えも残されている。
ともあれ、3月9日に駿府入りした鉄舟は、伝馬町の旅宿松崎屋源兵衛に宿泊している東征軍参謀西郷隆盛と会見、とりあえず3月15日に予定されていた江戸城総攻撃計画を中止させることに成功した。後に江戸薩摩屋敷で西郷と海舟が会見し、4月11日に江戸城が明け渡される。無血開城によって江戸を戦火から救う道は山岡鉄舟の決死行によって開かれたのである
- 写真は新番組隊長格の松岡 萬 -
次郎長を抜擢
駿府に駐留を続けた東征軍は、地元の治安責任者として、総督橋本実梁名で伏谷如水を「駿府町差配役判事」に任命した。幕府時代の駿府町奉行に代わるもので警察権を預かる民政長官である。
伏谷如水は地元の親分次郎長の起用を決断した。すでに与力同心もいない空白状態の治安を維持するには、土地に詳しく、かつ子分という手足を持っている博徒の親分を使うのが最も有効なことを如水は知っていた。
如水は部下を足袋の行商人に変装させて清水港に派遣し、次郎長の人物および周辺を予め調査している。単なる博徒でないことを見きわめた上で、如水は次郎長を駿府に呼び出した。清水港から駿府までは三里(12キロ)。朝出発し昼前に着くという距離である。出発する時女房のお蝶(二代目お蝶)に次郎長は言った。
「おれは罪多い身だ。出頭すれば二度と再びお前らの顔を見れないかもしれない。」
次郎長は49歳、ちょん髷の鬢(びん)には白いものが混じっている。官軍からの出頭命令は罪状調べかと思ったのだ。
腹をくくって出頭した次郎長に如水は、お上の御用をつとめるように命じた。固辞しようとする次郎長に如水は有無を言えわせなかった。「これからは天子様の世の中だ。お前も心改めて御奉公せよ。もしどうこう言うのであれば、お前の過去の罪科は、ここに残らず調べあげてある」
次郎長は市中警固役を引受けた。同時に過去の罪科はすべて帳消しとなり、帯刀を許された。23歳の時渡世人の世界に入ってから26年間、十手に追われて一日たりとも心休まる日もなかった次郎長は、生まれ変わった人生に足を踏み入れることになったのである。明治と改元になる前、慶応4年の3月中旬だ。
鉄舟が西郷隆盛と会見したのが3月9日。江戸城総攻撃は中止されたが、東征軍の一部は江戸に向かい、残りは駿府に駐留して、徳川方にとって重要な久能山東照宮とその海岸や、清水港の甲州回米置場など要所の警備に当った。
粉骨砕身して微忠を尽したいと願い出た駿州赤心隊の従軍は許可された。隊員の半数が、4月8日に駿府を出発した有栖川宮大総督率いる本隊に従軍して江戸に向かう。半数は地元に残留し、久能海岸や甲州回米置場などの警備隊に加わった。三保神社神官太田健太郎や八幡神社神官八幡主殿らは地元残留組である。
赤心隊の隊旗は「可」の字によく似た印を染め抜いた幟(のぼり)旗である。神社に仕える社人を従え、隊旗を先頭に市中を歩く赤心隊を、地元民らは「あれは社家隊だ」と呼んで、なかば嘲笑の響きをこめた。駿府も清水港も地元民は徳川びいきである。官軍と同じ「錦の肩章」をつけているのを見て「錦布れ(きんぎれ)」だとも揶揄(やゆ)した。次郎長の市中警固役は、このような軍隊組織に直結した警備隊とは一線を画し、役回りが異なっていた。物盗り、強請(ゆすり)、喧嘩、といった犯罪の取締りから宿場の交通整理に至るまでがその役回りだ。多年のライバルである黒駒の勝蔵が、池田数馬と変名して官軍にまぎれこみ江尻の宿場を通り抜けようとするのを、次郎長は摘発しようとしたが、伏谷如水にたしなめられた。黒駒勝蔵といえども天皇の軍隊に入っている以上、余計な荒立てはしないがいいとの如水の判断である。
伏谷如水を民政長官、次郎長を警察署長とするコンビは、慶応4年3月から7月にかけて続いた。春たけなわから夏の終りまでという僅かな期間に過ぎないが、第二の人生をスタートした次郎長にとっては、大変大きな意味を持つ期間であった。後に次郎長を鉄舟ら幕臣に結びつける伏線となったのだ。
この年には4月が二度あって、閏(うるう)4月には冷たい梅雨が続いた。上野の山にたてこもった彰義隊の隊士らは泥濘(ぬかるみ)に悩まされた。大村益次郎の指揮する新政府軍によって彰義隊が征圧されるのが5月15日。新政府は続いて、徳川亀之助(家達)を駿府藩主とすると発表した。700万石の徳川幕府は、70万石の一大名に格下げとなったのである。 江戸城を明け渡した後、清水谷屋敷で残務整理をしていた旧幕府は、駿府へ移動するに当って、その周辺の情況をつかむために、目付梶清三郎を派遣した。
慶応4年5月と記された梶清三郎による「駿府表形勢書」は、4千字に及ぶ長文のものである。それには、家康を祀った(まつった)久能山東照宮が祭礼を差止められ、官軍の支配下にあること、4月上旬、甲州回米置場から7千俵程が江戸へ向けて積出されたこと、町奉行が廃され駿府周辺は、浜松藩家老伏谷如水なるものが取締りに当っていることなどが事細かに報告されている。
その報告書のなかには、次のような注目すべき箇所がある。(「静岡県史」)
「駿州三保明神神主太田出羽、草薙明神神主森斉宮、コノ両人朝命ニ従イ種々ノ次第コレアリ、厳罪ニ御所置コレアルベキ者ニ御座候」
厳罪にすべきだと名を挙げられている太田健太郎、森斉宮の2名は、いうまでもなく駿州赤心隊員である。
「朝命ニ従イ種々ノ次第コレアリ」が厳罪に処すべき理由だが、その具体的事実は記されていない。
後に(この年12月)、この2人はテロに遭うが、この報告書とテロ事件との間に因果関係がないとはいい切れないのである。
新番組と松岡萬
70万石に封じられた駿府藩の移動は徐々に始まっていた。6歳の藩主徳川家達が、江戸から旧幕臣を従えて駿府入りするのは、8月15日。先着して駿府藩を取りしきっていた大久保一翁が、江尻宿まで出迎えた。
すでに江戸は東京と改められている。(7月17日布告)
駿府藩の発足と入れ違うように、伏谷如水は7月2日、浜松へ帰任した。官軍管制下の駿府城の引渡しが滞りなくすんだからである。次郎長は、大政、小政、増川仙右衛門ら主だった子分を引連れ、帰任する如水を浜松まで送った。
短い期間であったが、如水と次郎長は意気が通じていた。大藩の家老と博徒の親分では身分違いだが、如水は事ある毎に次郎長を傍らに呼び、引立てた。英雄は英雄を知るである。
如水は豪放な性格で、酒豪であった。次郎長は若い時酔って袋叩きに遭って以来、酒を断っている。浜松へ帰任のさい、駕篭の中で酒を呑む如水を、次郎長がたしなめたという一幕が東海遊侠伝に紹介されている。
官軍が駿府を離れ、如水が浜松へ帰任してからも、次郎長の市中警固役は変わらない。治安責任ばかりでなく、地元の実力者としてのフィクサー役が次郎長を待ち受けているのである。
駿府藩70万石を支えたのは、中老役大久保一翁、幹事役勝海舟、幹事役山岡鉄舟らである。このうち大久保一翁は財政、海舟は治安民政をそれぞれ担当した。
ある日、鉄舟一門の松岡萬(つもる)が次郎長と会った。松岡の求めによって料亭の二階に現われた次郎長は、数人の子分を下の間に待機させた。松岡の身分は、徳川慶喜護衛の「新番組」隊長格である。新政府によって謹慎処分となった慶喜は、7月19日に水戸を発ち、旧幕府軍艦蟠竜丸に乗って7月23日に清水港に着、その日に駿府(静岡)宝台院に入った。水戸からは新番組隊士50人ほどが随伴している。慶喜は謹慎のために宝台院に入ったが、護衛の隊士らまで宿所を共にするわけにはいかない。また新番組隊士を駿府藩が召し抱えるわけにはいかない。70万石に成り下がった駿府藩には、それだけの力はなかったのである。彼らは宿舎も定まらない、宙に浮いたままの身分だった。
ちょうど清水港を眼下に望む山のふもとに、廃寺同然となっていた久能寺があった。鉄舟没後鉄舟寺として再建された寺である。この久能寺を新番組隊士の宿所とすることが、次郎長と松岡萬の会談で話し合われた。50人に及ぶ旧幕臣たちの宿所をきめるには、実力者次郎長の斡旋(あっせん)な了解を取り付ける必要があったのである。
慶喜が宝台院に入るのが7月23日だから、次郎長と松岡萬の会談は、7月下旬とみていいだろう。徳川家達の駿府入りする8月15日前後には大量の徳川家臣とその家族たちが、清水港や駿府に移住のためにやってきている。
難民同然の無祿移住者たちを、清水港や駿府の地元民たちは、「お泊まりさん」と呼び、宿泊先の斡旋や炊き出しなどを行なって、温かく迎えた。
- 写真は鉄舟寺 -
咸臨丸事件
咸臨丸事件の起こったのは、秋も深まった9月18日である。新政府軍艦富士山、武蔵、飛竜の3艦が、すでに半月前から入港している咸臨丸に向かって発射したパロット砲の炸(さく)裂音は、清水港の人びとを驚かせた。箱館を目指す途中、房総沖で台風に遭い難破した咸臨丸は、メインマストも欠き、砲門もない。あの万延元年、日章旗をひるがえして太平洋を渡った栄光の片鱗もない老朽艦となっている。わずか300トンばかりの艦に、箱館を目指す幕臣たち200人余りが乗り組んでいた。その大半は清水港で上陸し、艦長以下は駿府藩に出頭、あるいは民家に潜伏していたが、新政府軍艦の攻撃を受けた時は、まだ相当の人数が乗組んでいた。抵抗の手段を持たない彼らは砲撃が始まるといち早く、海に飛びこみ対岸の三保半島に泳ぎつこうとした。目撃者の言い伝えによると、衣類や刀を頭にくくりつけ、錨綱を伝わって海に入った。海岸までの距離は1キロそこそこである。
旧暦の9月18日といえば、すでに初冬である。海は冷たい。ようやく泳ぎついた者の人数は不明だが、彼らを海岸で待ち受けていたのは、駿州赤心隊員太田健太郎の銃である。赤心隊は天皇の軍隊であり、新政府軍務官の指揮命令系統に直属する。咸臨丸は脱走艦であり、乗組の者は叛乱兵であり、賊兵である。健太郎の銃は容赦(ようしゃ)なく泳ぎ着く賊兵たちを狙った。しかし、「三保村誌」には、この銃撃で死者が出たという記録はない。
けっきょく、咸臨丸に踏みとどまっていた副艦長春山弁蔵以下7名が、新政府軍の攻撃の犠牲となった。斬殺された7名の死体は湾内に浮遊していたが、「賊軍に加担した者は打ち首」のおふれを恐れて誰も始末する者がいない。
「死ねば仏だ」と次郎長は言い、子分を使って湾内を浮遊する死体を収容し、巴川の畔に手厚く葬った。
新政府は駿府藩に対し、脱艦咸臨丸の詮議を厳しく求めていた。ちょうど天皇が京都を発ち東京に向かう時期と重なり、沿道の治安に新政府は神経をとがらせていたのである。駿府藩としても、次郎長のお上を恐れぬ処置を放って置くわけにはいかない。
幹事役山岡鉄舟は、次郎長の出頭を求めて質した。次郎長からは「仏に官軍も賊軍もあるものか」という言葉が返ってきた。
薩長も徳川もない。次郎長には、日本は1つだという国家観ができていたのである。鉄舟はいたく感銘し、翌年建てられた殉難者の墓石に「壮士墓」と揮毫したばかりでなく、「死シテ万世ニ名アリ」の賛をした色紙を次郎長に書与えた。次郎長と鉄舟の終生の交わりは、咸臨丸事件から始まったのである。
ここで一応アップ
続く
[42] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 21時56分56秒 ) | パスワード |
続き
連続テロ
明治元年も残り少なくなった12月18日の夜、数人の男が三保神社神官の邸に押入り、神官太田健太郎を殺害した。寝間にいっしょにいた妻のさえと2歳の希豫太郎および同居の健太郎の実父鈴木省之助は無事であった。羽衣伝説で名高い三保神社は格式も高く、社領百石に及ぶ。神官は土地の人たちから「太田の殿さま」と呼ばれていた。
4日後の12月23日、こんどは草薙神社の森斉宮が襲われ、重傷を負った。
連続テロに遭った太田健太郎、森斉宮はともに駿州赤心隊員である。襲撃の犯人が赤心隊に意恨を持つ徳川家臣であることは、誰の目にも明らかだ。とくに健太郎は、先にもふれたように咸臨丸事件の際、銃を持って逃走者たちを追い回したという実績がある。
赤心隊は錦の御旗をいただく天皇の軍隊である。天皇の軍隊を徳川家臣が徒党を組んで襲ったという事実が明るみに出れば、駿府藩は取り潰しものである。駿府藩は事件の穏便な処理に全力をあげた。一方、被害者とくに太田健太郎の遺族は、神官職を無事継承させるため、穏便に処理する工作を始める。
健太郎の妻さえと子供たちは、事件の直後、三島大社神官矢田部盛治を頼って三島に避難する。年が明けた明治2年正月のことである。
矢田部盛治の残した日記に、事件をめぐる動きが詳細に記録されている。
「明治二己年 日記 正月ヨリ十二月●
三島大社神官 矢田部式部」
と表紙に記された冊子がそれである。この矢田部日記に、次郎長が再三にわたって登場するのである。
太田健太郎暗殺事件に関する矢田部日記の記事を追跡してみよう。
明治二年一月の矢田部日記
「明治二己年正月元旦
一、御宮へ早朝出勤、御末社へ拝礼帰宅、社家夫々罷出候間、礼請□□例年之通候事(以下略)」
に続き、一月三日の記事に次がある。
「一、三保太田健太郎妻おさえとの子供三人乳母三人其外被連候間、尤喪中之儀ニ付、細小路庄七方へ届、 逗留為致候積リ。 夫々世話イタシ遣候事」
三保太田健太郎の妻おさえ殿が子供三人および乳母三人そのほかを連れて来た。もっとも喪中のことであるに付、細小路庄七方へ届を出し、逗留させるつもりである。との意である。そのほかを連れて来たという「そのほか」は護衛役ではないかと思われる。清水から三島までおよそ50キロの道中を、女子供だけでは不安である。
次いで1月14日および15日には、太田健太郎暗殺事件に関して周辺が動き出したことをうかがわせる記事が登場する。 「 同 十四日 一、三保一条ニ付、昼時頃ヨリ幾四郎仙助差遣候事。 (中畧) 一、七ツ時頃三保一条ニ付、吉原宿平八夫々ヨリ手紙持参。右ハ省之助殿迎トシテ参リ候間、尚又昨日 駿府●御飛脚差遣候ニ付、駿府ヨリ元与力ニテ違山孝助殿ニモ参リ候間、夫々御相談コレアリ、是非庄之 助殿ニモ清水●モ御出御座ナク候テハ相済マズ候事ニ付、夫々相談致、明朝庄之助殿孝助殿、平八出立之 積リニ相成候事」 「 同 十五日 一、庄之助殿出立、彼是六ツケ敷、漸ク昼時頃御出立相成候事。 一、昨日差遣候幾四郎仙助、吉原宿ヨリ帰候事。 一、三保一条ニ付、オムツトノヨリ安全之御神楽奉納、則将監ヘ申付修行致、御祓差遣候事。 (中畧) 一、軍務官会□竹山主馬殿出面会致候処、鈴木孝次郎殿ヨリ庄之助殿へ手紙持参、夫々咄コレアリ、然ル 処庄之助殿ニハ出立致候ニ付、手紙預リ置、茶漬差出候事」
吉原宿平八は小松屋平八である。平八が事件の処置の中心になって動いたようだが、具体的にどのような役 割を演じたかは、これからの研究に待たなければならない。省之助は太田健太郎の実父鈴木省之助であり、おさえやその子供らの介添役として三島に来ていたのではないかと考えられる。
この時点で当事者の最大の関心事は、非業の死を遂げた健太郎の遺児希豫太郎が、三保神社の神官職を継承できるかどうかである。徳川浪士の意恨など複雑な問題がからめばからむほど、それはむずかしくなる。穏便に済ますために要路への働きかけが始まる。
次郎長が日記に登場するのは、こういったさなかである。
「 同 二十四日 (畧) 一、三保鈴木省之助殿今日被帰。徳川様ヘモ相願、長五郎平八心配致呉、追々取極リニ相成候旨、夫々御咄御座候事」
ここに記されている長五郎(傍線筆者)が次郎長であることはいうまでもない。これが初出だが、吉原宿の平八と併記されているところから見て、矢田部盛治にとっては、すでに面識があるようだ。ここでは、健太郎の父省之助が清水へ帰り、駿府藩主徳川家達への働きかけをしようとする動きが始まったことをうかがわせる。次郎長がいろいろ心配して、徳川家臣たちへ仲立ちしようとしているようである。
「 同 二十五日 一、三保ニテ隼人儀是非々々貰度旨達テ披申候ニ付、今日差遣候旨挨拶イタシ、右ニ付、省之助殿おむつ トノおさえトノ小袖代金弐拾両、鰹節壱連、下女下男拾五人ヘ金壱分ツツ三両三分御祝ヒ披下候間受納、 酒差出盃イタシ縁談取究候事」
「 同 二十七日 一、三保一条ニ付、酒井候ニモ当方ヘ御立寄披下候積リニ相成、右ニ付テハ此節之模様如何相成候哉、承 知致置度、殊ニ八幡方ヨリモ我等ニ夫々相談モ御座候ニ付、駿府ヘ参リ候様致度、若出張出来兼候ハハ、 八幡ヨリ当方ヘ参リ候趣間合申越候ニ付、我等儀モ酒井候御立寄被下候ハハ内願致置□□□節句後我等駿 府ヘ罷越候積リ、右ニ付三保并八幡●手紙為持、今朝庄七差遣候事」
酒井候とは、駿府藩主徳川家達の側用人酒井忠績である。八幡は、八幡神社神官の八幡主殿。太田健太郎や森斉宮らとともに駿州赤心隊の中核となった人物である。矢田部盛治自身が、この二人を介して駿府藩庁へ働きかけようとしている。
「 同 二十九日 一、夜五ツ時頃、一昨日駿府●差遣候庄七、三保ヨリ相帰リ、太田方ニテモ十九日家内一統三保ヘ帰宅致 候旨、尤三保ヨリモ使壱人庄七同道致候事」
三月に入る。
「 同 四日 (畧) 一、多久又八郎殿属赤心隊中村志津馬罷出候間、又三郎取次致候処、右申候処ハ又八郎ヨリ披申付、遠州 辺●参リ東京ヘ帰宅致候処、路用遣切差支、三保省之助殿ヘ相願候積リニテ罷出候得トモ最早出立ニ付、 当惑致候間、金五両東京着●取替呉候様、達テ披申候□□□□□。壱両二分貸遣候旨留守宅ヨリ申越候 事」
赤心隊員中村志津馬と称する男が、東京までの旅費を貸してくれといって現われる件である。赤心隊が有栖 川宮大総督の率いる東証軍本隊に加わって駿府を発つのは4月8日のことであるから、この中村志津馬という人物は、別行動をとっていたように思われ、疑わしい節がある。一両二分というのは、今の金額に換算すれば、十万円にもなろうという大金であるが、矢田部家では赤心隊と称するこの人物に融通した。
続いて3月7日には酒井候の来訪があり、矢田部盛治はこれを受けて駿府に向かって出発し動きがあわただしくなる。
「 同 七日 一、昼時頃酒井候仁田大八郎川口秋平御案内ニテ御立寄被下候。尤丸屋常蔵モ参リ居御待請致居御酒差 出、我等面会夫々御咄モ有之、尤御馳走数種々御願申上置、委細御承知ニテ八ツ半時頃御帰リ被成候。酒 井候御土産トシテ松絵角皿拾人前被下候事。
一、我等儀明八日出立、駿府●罷越候ニ付、右之段刑部ヘ申聞候処、社家組代□□トシテ罷出候事。」
来訪した酒井候に対し、矢田部盛治は最大限の敬意を払って歓待した。酒井候は手土産を用意している。事件の始末についていろいろお願いしたことはいうまでもない。酒井候は「委細承知」して午后3時頃帰路についた。盛治は翌8日駿府に行くことを決意する。
「 同 八日 一、三保一条并徳川様ヘモ正迂宮相済候ニ付、御被差上度、旁ニ付七ツ半時頃自宅出立、尤吉原宿●駕籠 人足弥七、文左衛門金壱分、七ツ時頃奥津寺下●参リ、寺下ヨリ金壱分ニテ三保●舟雇、夕方三保太田方 ヘ着、省之助殿始御家内一統ヘ面会、夫々御咄有之、此節ハ清水御奉行ヨリ重役壱人ツツ見廻リ、浅草小 揚ヶ之者八九人ツツ昼夜交代詰切ニ相成居、今晩ハ太田方へ止宿致候事。」
午前5時に三島を出発、吉原まで駕籠、午后4時頃興津着、舟を雇って三保へ渡り、三保神社太田健太郎方に到着し、鈴木省之助らに会い、同家へ泊る。
「 同 九日 一、主殿其外夫々御相談モ有之旁ニ付、昼時頃ヨリ三保太田方出立清水宿ヘ参リ長五郎方ヘ立寄面会致、 夫々挨拶申述、暫く御咄、引取、駿府八幡主殿方ヘ暮ニ着イタシ夫々相談、今晩ハ主殿方ヘ止宿イタシ種 々御咄イタシ罷在候事。」
3月9日昼頃三保を出発した矢田部盛治は、清水に着くと早速、長五郎即ち次郎長を訪ねた。次郎長は明治2年のこの時点で、上町に居宅を構えていた。盛治が真っ先に次郎長を訪問したのは、三保一件を解決するについて次郎長が大きな影響力を持っていたことを裏付ける証左であろう。次郎長のところで暫く話し込んだ盛治は、次いで駿府に行き、八幡主殿方に泊る。
「 同 十日 一、早朝八幡主殿同道ニテ駿府町奉行調役鈴木草太郎殿林屋町飯内宅ヘ罷出面会致、三保一条夫々相伺候 処、種々御内意有之、草太郎殿ニモ厚ク心配致呉候事ニ付、何レニモ省之助ヘ篤ト申聞候。□□□引取八 幡出立、夕方三保太田方ヘ参リ夫々相談、今晩ハ三保ヘ止宿致候事。」
駿府藩が静岡藩と改められるのは明治2年6月である。矢田部日記では旧幕府時代の官称をそのまま使っている。藩庁の責任者に会い、三保一件についていい感触を得たことが、ここでは書留められている。
「 同 十一日 一、今日モ三保ヘ逗留、種々御相談致、罷在候事。
「 同 十二日 一、夫々御相談モ行届、御暮方儀ハ清水湊戸田屋六右ヱ門江川政八両人方ヘ仕送相願候積リ相成、旦又鈴 木草太郎殿ニモ役取方御目論見旁三保ヘ御出モ御座候趣ニ付、見合居候得共、御出無御座候ニ付、九ツ時 頃ヨリ主殿同道おさえトノ召連三保出立、清水長五郎方ヘモ立寄、夕方八幡主殿方ヘ着イタシ候事。
一、夜ニ入、鈴木草太郎殿方ヘ主殿ニテ罷出候処、草太郎殿今日清水ヨリ三保ヘ参リ留主ノ趣被申開、扨 々行違ニ相成、不都合至極、八幡ヘ帰リ今晩ハ止宿候事。」
駿府から三保へもどった盛治は3日間逗留。その間に、健太郎の妻おさえを連れ、八幡主殿同道で次郎長に会う。12日の日記にはそのことと併せて、太田家の暮し向きについて、清水港の旧家戸田六右衛門と江川政八に仕送りを依頼することが記されている。駿府藩庁の鈴木草太郎にその目論見を相談するつもりで来訪を待受けていたが、見えないので盛治の方から駿府へ出向くことにしたのである。ところが、これが行違いで盛治が駿府に向かっている間に鈴木草太郎は清水から三保へ来ていたのである。
次郎長と矢田部盛治
長五郎の次郎長が矢田部盛治日記に登場するのは、「清水長五郎方へも立寄」というこの日の記述を含めて都合3回になる。第1回めは、明治2年2月24日の「徳川様へも相願い、長五郎、平八心配致してくれ」という一条。第2回めは3月9日、駿府へ出向くため三島から三保へ来ていた矢田部盛治は、清水で真っ先に次郎長宅を訪問する。「清水宿へ参り長五郎方へ立寄り面会致し、それぞれ挨拶申し述べ暫く相咄し」という一条である。第3回めが、おさえと、八幡主殿同道で長五郎方へ立寄った3月12日ということになる。 いずれも、太田健太郎暗殺事件を穏便にすませ、三保神社神官職を太田家が継承できるようにとの駿府藩への陳情を円滑に進める上で、次郎長が不可欠のサポーターであることを裏付ける記述である。藩主徳川家達の側用人酒井候への働きかけ、地元の旧家戸田六右ヱ門、江川政八による経済的支援の依頼など、次郎長抜きには考えられなかったのである。
では、次郎長と矢田部盛治を結び付けたきっかけは何であったか。まず第一に、次郎長は東征軍が駿府を占拠していた時期に、民政長官即ち駿府町差配役判事伏谷如水の配下として地元の治安責任者の地位にあり、太田健太郎暗殺事件の起こった明治元年12月の時点においても、治安を掌握する実力者として駿府藩から一目も二目も置かれていた。事件のあと太田健太郎の妻おさえら家族が三島に避難するに際して、介添え役をつとめたのは次郎長だったのである。東海遊侠伝の次郎長三島行きの記述は、それに符合するのである。
さらに、矢田部家と伏谷家が親戚関係にあるという事実。このことは矢田部日記には触れられていないが、御子孫の高石さんが指摘するところである。伏谷如水と矢田部盛治との関係が、次郎長のこの事件で動く背景に働いていないとは言い切れないのである。
伏谷如水は次郎長を買っている。単なる博徒ではない。矢田部盛治が問題解決のキーポイントを次郎長に求めたのは、不自然なことではないのである。
ところで事件の結末はどのようになったのであろうか。矢田部日記を追うと判然とはしないながらも、およその輪郭が記されている。3月13日の日記には、駿府藩庁に出頭して書面(家督相続願)を差し出したこと、書面の文言が不備のため書直しを命ぜられたこと、藩役人と思われる人物や酒井候のもとへ献上物を進呈したことなどが記されている。矢田部盛治は打つだけの手を打って3月15日に三島へ引揚げる。
3月18日には、兵庫という人物を太田家の養子として神官職後継者にする旨が記されており、21日の日記に、その兵庫が19日の夜三保につき、社家や百姓どもが多勢でにぎやかに出迎え都合よく運んだと記されている。
駿府藩に差出した家督相続願がどうなったかを示唆する記述は、4月4日にあらわれる。
「 同 四日 一、三保ヨリ家督相続願ニ付、徳川様ヨリ韮山ヘ御取計方御問合ニ相成居候旨申越候ニ付、如何相成居候 哉、社領御解願之義モ如何相成候哉、人別之事ハ如何相成哉、卯年御預ケ金御下ケ之儀如何相成候哉、右 伺トシテ韮山ヘ大村刑部差遣候処、同人夕方相帰、右申候ハ岡田三郎ヘ面会夫々伺候処、三保一条ニ付徳 川様ヨリハ未タ何共御問合無御座候旨、社領御解願之儀両三日前御下知御座候処、右願之通ニハ難出来神 務ニ拘リ候儀ハ神主方ヘ相達、其外政務、拘リ候儀、却テ村方ヘ申達候様被仰渡候旨被申聞候、人別之儀 是●差出候振合ヲ以、社中之儀当方ヨリ書面ヲ以相伺候様、村方之儀ハ名主方ヨリ同様伺候様被申聞候。 卯年預ケ金之儀ハ三科鉉太郎之儀モ東草ヘ引越候ニ付分リ兼候間、何レ取調遣、追テ御挨拶致候旨申越候 事。」
願書の裁可がどうなっているかについて新政府の出先機関のある韮山に人を遣って問合わせたところ、結論としては、どうもはかばかしくないようである。肝心の封鎖されている社領の解除は、両3日前に駿府藩へ指示があったはずだが、願書の通りには運んでいないということである。
続いて4月7日の日記には、三保からの飛脚が重大な報をもたらしたことが記されている。鈴木省之助の書いた手紙には
「肥後入牢被仰付、追々村方モ穏ニ相成候ニ付、此節肥後出牢致候テハ後難出来可申モ難計、酒井候ヘ内願 致度、常蔵参リ呉候様申越(後畧)。」
とある。太田健太郎暗殺事件の犯人調べについては、三保神社社人の宮城島肥後と、徳川元家臣の中山鳳之助が検挙されたことまでは、「駿州神官太田健太郎等変死始末書類(東大史料編纂所蔵)」などの記録に残されている。三保からの飛脚が矢田部盛治に報らせたのは、宮城島肥後が逮捕され(3月27日)たことである。肥後は日頃から賭場などに出入りして身持ちが悪い男である。事件を物盗りの仕業として作り上げるためのいけにえとして肥後が挙げられたことは間違いないだろう。暗殺された健太郎の実である鈴木省之助の嘆願書の末尾の部分には、次のように記されている。
「――勤王仕リ候悴之鬱憤モ晴レ両親ハ勿論、妻子●モ難有儀ニ御座候間、御慈悲之御沙汰有之、行々安穏ニ神役無滯事来候様仕度ニ付、極内密ニ御取繕方御周旋奉願上候以上」
(「駿州神官太田健太郎変死始末書類」)
繰返していうが、遺族たちにとっては真犯人を挙げることよりも、無事に神官職を継承することが最大の関心事である。そのためには「極(ごく)内密に御取繕(とりつくろい)」することをあらゆる手段を使って進めなければならない。藩主の側用人酒井候や、清水次郎長は実力者として工作のキーポイントだったのである。
このあと矢田部日記のこの事件に関する記述は、4月25日で終る。それには、吉原宿の小松屋平八の来訪に触れ、入牢中の肥後が病気にかかったことが記されている。 事件がどのような形で結着したかについての記録は皆無である。矢田部盛治日記のその後を、さらに綿密に追跡すれば、それが明らかになるかもしれない。しかし、次郎長がこの事件に関わったという事実は、明治2年1月から3月までの期間の矢田部日記に3回にわたって記述されている事がらだけからも、十分にその一端を知ることができると思う。
- 写真は『矢田部日記』表紙と明治2年1月1日の日記 -
白昼の刺客
「肥後入牢」の記事からいくらもたたない明治2年5月22日の白昼、次郎長の妻おてふ(二代目)が清水港上町の自宅で、浪士風の男に斬られた。次郎長の留守中である。子分の田中啓次郎らが逃げる犯人を追いかけ、久能寺附近で男を討果たした。おてふを斬った男は、久能寺にたむろする新番組隊士とされるが、なぜおてふを斬ったか、動機は謎である。
新番組は将軍護衛役として編成された隊である。かつて名称がそうであったように、選りすぐった「精鋭隊」である。幹部の中条金之助、松岡万、さらに山岡鉄太郎らは、いずれも剣を持たせれば一流中の一流の腕前である。と同時にこの3人は、文久3年、新徴組の前身浪士組の統括者として、清川八郎暗殺事件に関わる。浪士組の巨魁石坂周三、村上俊五郎らも、この暗殺事件に関わっている。鉄舟ファミリーを形成するこのメンバーの周辺には、何となく血腥いにおいが漂っているのである。
箱館五稜郭に立てこもった榎本軍が敗れ、戉辰戦争が終結したのは、明治2年5月18日のことである。太田健太郎暗殺事件の終幕は、ちょうどこの内乱が終るのと時期を同じくしている。
二代目おてふが白昼非業の死を遂げたのは、次郎長の身代わりとなったのではないか。犯人の真の標的は、次郎長だったのでないだろうか。もしそうであるとするならば、おてふの暗殺事件は、赤心隊員に対するテロの延長線上にある。矢田部盛治の日記に登場する次郎長は、伊豆伊吹隊の矢田部や赤心隊の八幡藩主殿の訪問を受け、反徳川と誤解されかねない行動をとっていたのである。〈田口英爾〉
(「矢田部盛治日記」の解読は、国立歴史民俗博物館高橋敏教授、清水郷土史研究会池谷市郎、古文書研究家野口義信の各氏の御教示による)
駅弁に一役買った次郎長
「汽笛一声新橋をはや我が汽車は離れたり」と唱歌にもなった岡蒸汽は、文明開化の先端的大事業であった。
明治20年4月に江尻から静岡間が敷設され、2年後には国府津―静岡間が、翌23年には静岡以西が完成して東海道線全線が開通した。海の蒸汽船に代わって機関車が煙を吐く岡蒸汽の登場である。この鉄道工事で次郎長が知られざる役割を演じたと「東海軒繁盛記」は記している。
鉄道開通前には、東京・静岡間は徒歩で5日。その頃は、米など貨物は海路を清水港に陸揚げされて各地に捌かれており、この荷役を仕切っていたのが清水の次郎長であった。ある日、静岡の両替町で米屋を営む山西屋を訪れた次郎長は、「今度静岡に鉄道を敷く工事が始まるので鉄道省のお役人が江尻と静岡にやって来る。江尻の工事は私が段取りするが静岡の工事までは手が届かない。山西屋さん、あんたに一切を頼むから工事万端、抜かりのないように現場の面倒をみてくれないか」と頼んだ。山西屋滝蔵は次郎長のこの頼みを聞いて、来静した鉄道関係者の世話役を引受け、食事の世話から人夫の斡旋、用地、用材の買上げに至るまで日夜親身になって工事を助けたので、さしもの難工事も無事完了した。
明治22年二月1日、話題の岡蒸汽は静岡停車場を午前7時15分、市民3万余人の歓声をあとにその黒い勇姿をどっしり動かしながら一路新橋を目指して出発し、同日の午後2時頃新橋駅に到着した。静岡―東京間を僅か7時間という早さに人々は驚き、大きな喜びに湧いた。この山西屋の加藤滝蔵に対し、東京鉄道局は工事中の多大な奉仕への感謝の意をこめて、静岡駅構内での弁当販売の許可を与えた。つまり次郎長が弁当の「東海軒」誕生に一役かったのである。〈服部令一〉
- 写真は昭和30年ころの東海軒本社ビル -
【編集室から】
●あけましておめでとうございます。旧年の11月、竹内宏会長は清水市制70周年記念式典で宝井馬琴師匠らとともに特別功労者として表彰を受けました。
●平成7年は乙亥(きのと い)の年。暦は還(かえ)るといいますが、60年前の乙亥は軍靴の音が高まった昭和10年で不幸な戦争へ猪のように突入して行く序の口の年となりました。もう一つ前の乙亥は明治8年。わが次郎長は57歳と健在で、清水港の回漕問屋の店主たちに、蒸汽船の導入を説いて回っていました。
●明治8年は、ロシアとの間で樺太千島(からふとちしま)交換条約を交わした年でもあります。全権としてペテルブルクへ行って調印したのは、あの榎本武揚です。清見寺境内の咸臨丸殉難者の碑に「食人之食者死人之事」と揮毫したのも榎本武揚で、徳川に殉じた旧友春山弁蔵らに献じた挽歌です。
●旧年秋に計画した「次郎長ツアー・いわき市訪問」は準備不足で参加申込みをいただいた方がたには、誌上を借りてお詫びを申し上げます。受入れ側のいわき市の方は大変熱心で、愚庵会の柳内守一さんなどは、わざわざ手間と費用をかけて、井上剣花坊評釈の「東海遊狭伝」の複刻本を作成して、清水の人たちにさし上げようと用意までされました。今年こそツアーを実現したいと思います。計画は次号の会報でお知らせする予定です。
[43] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 21時59分07秒 ) | パスワード |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E9%87%8D%E6%9C%AC
富士 重本(ふじ しげもと、文政9年(1826年)- 明治30年(1897年)4月9日)は、富士山本宮浅間大社の神職で、富士氏当主。通称は亦八郎。駿州赤心隊隊長。
生涯[編集]
駿州赤心隊之碑(浅間大社境内)
富士氏当主としては四十四代目にあたる。有栖川宮熾仁親王に随従し、官軍として「駿州赤心隊」を組織し同隊長となった。その後戊辰戦争・上野戦争・箱館戦争に参加し、兵部省や陸軍省に勤務するなどしている。
明治維新後に静岡藩が設置され徳川慶喜が入ると、徳川方の旧幕臣の多くも同行し静岡藩入りすることとなる。しかし旧幕臣から見れば新政府方についた重本は敵方に該当するため、重本の故郷である大宮では旧幕臣による反発で不穏な動きが相次いだ。これら一連の動向から重本は故郷に帰ることは叶わなかった。そのため富士家の大宮司としての継続は困難となり、神職から富士家は退くこととなった[1]。その後は東京に残り東京府麹町区(現在の東京都千代田区)の区長を務め[2]、生涯を終えた。
[44] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 22時02分27秒 ) | パスワード |
富士氏(ふじし、ふじうじ)は、日本の氏族。駿河国富士郡富士上方[1]の領主。富士山本宮浅間大社の大宮司を継承する社家であり、また戦国期には富士城城主を務める武家であった。
本姓
和邇部氏
家祖
和邇部豊磨
種別
社家
武家
出身地
駿河国富士郡大宮
主な根拠地
駿河国
著名な人物
富士信忠
富士信通
支流、分家
米津氏(武家)
家伝[編集]
富士氏の居館跡に建てられる「芙蓉館碑」(市民文化会館)
始祖は孝昭天皇の後裔であり豪族の和邇部氏と伝わる[2]。代々浅間大社の富士大宮司を務めていた家系であるため、富士大宮司家とも称される[3]。富士家の初代と伝わる豊麿は、駿河国富士郡の郡司であった和邇部宿禰の子孫[4]である和邇部宿禰宗人の子とされ、富士郡大領となったことを機に浅間神社の神主となったと伝わる[5]。それにより富士姓を名乗ったことが富士氏の発祥とされ、富士郡を支配する地位にあった。
富士直時の書状では、少なくとも14世紀には既に、富士郡富士上方(現在の富士宮市一帯)を支配する氏族として存在していたことが分かる[6]。他富士上方の社寺に対して諸役免除を行うなど[7]、富士郡領主として存在し続けた。
富士大宮司[編集]
時代により差異は考えられるが、浅間大社の神職の中で「富士氏」を称していたのは、富士大宮司を筆頭に以下公文[8]・案主[9]の3つの神職の家柄であった[10][11]。
慣例として富士大宮司が政治的な部分を執り行ない、案主・公文は庶子衆とも呼ばれていた [12]。また室町時代においては、大宮司職の補任権は足利将軍家にあった[13]。江戸期には富士大宮司と公文・案主間で争論が生じたが[14]、幕府裁許状に「公文・案主事、大宮司同格とは不可心得」とあるように、富士大宮司は富士家の中で別格な存在であった。
家紋は「棕櫚(しゅろ)」であり、『羽継原合戦記』に「シュロノ丸ハ富士ノ大宮司」とある。また江戸幕府の裁許状[15]の中には「棕櫚葉之紋」とある。この棕櫚紋は富士大宮司のみが用いるものであり、「公文富士能成等返答書控」「富士信安父子連署請書写」には棕櫚紋は古来より富士大宮司のみが使用してきたとある[16]。このように、同じ富士家一族でも公文富士氏・案主富士氏は棕櫚紋を容易に使用できるものではなかった。
棕櫚の家紋とは
まさに
中東のイメージです。
ここでアップ
続く
[45] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 22時03分25秒 ) | パスワード |
南北朝時代以降[編集]
南北朝時代には既に武家としての面が確立されていた。観応の擾乱の際には、観応2年(1351年)に上杉憲将により甲斐国への通路の警護を命ぜられている[17][18]。
駿河国国主である今川家の当主今川範政亡き後、千代秋丸と今川範忠両氏での家督争いが発生した。その際富士氏は千代秋丸を支持しており、範忠の入国に反対する立場を取っている(『満済准后日記』永享4年7月19日条・永享4年7月20日条)[19]。しかし室町幕府将軍である足利義教の裁定の影響は大きく、範忠が家督相続することで落ち着いた。情勢的には富士氏ら千代秋丸派は範忠から反逆者として追討されてもおかしくない運命であったが、折しも室町幕府と鎌倉府との対立が深刻化しており(永享の乱)、富士大宮司および富士家一族の富士右馬助は室町幕府から忠節を求められるという状態であった[20][21]。また享徳の乱の際は今川範忠とは別個に室町幕府から協力を求められ[22]、関東上杉家勢(扇谷上杉家)として古河公方勢と対峙した[23]。
この時代の当主は富士忠時または富士親時であるが[24]、このような動向から15世紀の富士氏は今川氏に属していないと考えられている。一方寛正期の富士家は家督相続を巡る混乱期でもあり、瑞渓周鳳の日記である『臥雲日件録』には「駿州国人富士父子闘争之事」とあり、『親元日記』には「富士兵部大輔入道親子確執之儀」とある。
戦国時代[編集]
戦国時代の富士信忠の代に入ると、今川氏と関係を密にしていく。大永元年(1521年)に今川方の軍が甲斐の河内に侵入した際、武田信虎が総攻撃を行った。その際富士氏は今川方の軍として戦い、信虎軍に破れている(『勝山記』永正18年辛巳条)。また今川氏輝により当主の嫡子である富士宮若へ馬廻としての奉行を求める文書が発給されるなど[25]、氏輝期には既に関係が深い[26]。富士氏の本拠である富士大宮は河東の乱でいうところの河東に該当する地であり、その不安定な政治情勢下から一部富士家内部で分裂が生じるなどしているが[27]、基本的に今川氏に属している。
当主が変わり今川義元の代においてもこの関係は同様であったが、桶狭間の戦いにて義元が戦死すると駿河国は動揺する。今川氏に対する離反が重なる中、富士氏は今川陣営として留まった。次代の今川氏真により永禄4年(1561年)7月20日に信忠は大宮城城代に任命され[28]、大宮城城主として武田氏との戦いを繰り広げる(大宮城の戦いについては大宮城を参照)。また富士氏一族の富士又八郎は、謀反を起こした飯尾連竜討伐に参加するなどしている(飯田口合戦)[29][30]。
永禄9年(1566年)には今川氏真により富士氏の本拠である大宮の六斉市を楽市とする朱印状が信忠に送られており[31]、氏真の政策を担う部分もあった。またこの楽市令については、富士氏側の要請によって今川氏が諸役停止を確定づけた楽市令であるという見方が多い[32][33]。しかし武田氏の駿河侵攻における大宮城の戦いにおいて、戦は本格化していくこととなる。この時期は緊張状態にあり、永禄12年(1569年)の北条氏康からの書状では「昼夜御辛労令職察候」とある。
しかし武田信玄本隊の攻撃によりついに富士城は開城、穴山信君を通し降伏することとなる。その後も後北条氏からの援護を受けるものの、武田氏に付くことを決断し武田氏に帰順する。また帰順後、信忠は武田家家臣の鷹野氏の能通に富士姓を与え、富士家の公文職に迎えるなどしている(富士能通)。当主が変わり武田勝頼の代では、富士信通が改めて富士大宮司に任命されている。しかし武田氏に属してからは社中の法度が定められるなど武人としての活動は制限され[34]、富士大宮司としての活動が主となった。
江戸時代以降[編集]
中世後期より次第に富士氏は神職としての姿にのみ統一されていき、近世に入ると富士氏は富士山を管理・支配する立場としても確立されていた。例えば徳川忠長が駿府藩主であった頃、「みくりや・すはしりの者共嶽へ上り、大宮司しはいの所へ入籠み、むさと勧進仕るに付て、大宮司迷惑の由申され候」といった文面の通達が忠長の家臣である朝倉宣正・鳥居成次から地方奉行に出されている[35]。このように、この頃より富士山本宮浅間大社が富士山頂の支配・管理を行なっており、その代表格である富士大宮司の支配の地として富士山麓周辺の地から認識されていた。
他に須走村の書付[36]に、3カ条の1つとして「富士山登道行合より八葉内、大宮町大宮司殿、宮内殿、民部殿、宝当院と申而四人之衆御支配二御座候」とある。これは八合目以上は浅間大社の神職(富士大宮司・公文富士氏・別当)および須走浅間神社の神職(民部殿)が支配する地という認識を示していることを意味するといい[37]、このように富士氏が山頂においての権限を保持していた。
歴代富士氏当主[編集]
1.富士豊麿
2.富士池守
3.富士國雄
4.富士淵魚
5.富士良・
6.富士・名
7.富士・嗣
8.富士・身
9.富士公・
10.富士利生
11.富士道時
12.富士信・
13.富士信時
14.富士時棟
15.富士直世
16.富士直信
17.富士信親
18.富士信直
19.富士直則
20.富士則時
21.富士直時
22.富士資時
23.富士成時
24.富士氏時
25.富士直氏
26.富士政時
27.富士忠時
28.富士親時
29.富士信盛
30.富士信忠
31.富士信通
32.富士信家
33.富士信公
34.富士信元
35.富士信時
36.富士信安
37.富士信章
38.富士信治
39.富士信榮
40.富士茂濟
41.富士民濟
42.富士茂矩
43.富士茂珍
44.富士重本
古文書[編集]
富士氏は国人領主であり、また今川氏・武田氏・後北条氏と関係が深い。それら中世を中心とする文書群の一部は現在「大宮司富士家文書」として保存されている。元は富士重本以後の富士家当主である富士高茂氏がこれら文書を保持しており、東京大学史料編纂所が明治期と昭和期にこれを採録するなどしている[38]。また『静岡県史料』にも60通が収録された。後にこれら原本の文書は流出し、あるときはうち36通もの文書の売却が検討される状況に至った。これを危惧した村田正志が売却の保留を促し、静岡県の美術館が購入することとなった[39]。現在は静岡県立中央図書館がその36通を保管しており、「富士山関係資料デジタルライブラリー」にて公開されている。
[46] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月07日 22時07分14秒 ) | パスワード |
脚注[編集]
1.^ 現在の静岡県富士宮市一帯
2.^ 例えば寛正3年(1462年)「後花園天皇口宣案」(戦国遺文今川氏編2665号)に受給者として
「右馬助和邇部忠時」とあるように、本姓として用いられていた
和邇部
3.^ 『臥雲日件録』の寛正6年(1465年)6月18日条に「日本所謂三大宮司」とあり、
厳島神主家・熱田大宮司家(千秋氏)と共に日本三大宮司に数えられていた
千秋氏
4.^ 森公章、『古代郡司制度の研究』、吉川弘文館、 2000年
5.^ 講演「浅間大社と富士宮の歴史」 (PDF)
6.^ 角川日本地名大辞典(旧地名編)上方(中世)(JLogos)
7.^ 遠藤英弥、「今川氏家臣朝比奈親徳の政治的立場」『駒澤史学77』、駒沢史学会、 2012年
8.^ 神職の1つで、文書を掌る
9.^ 神職の1つで、文書を立案する
10.^ 宮地・広野(1929)P534
11.^ 岡田米夫,『日本史小百科 神社』,近藤出版社
12.^ 宮地・広野(1929)P528
13.^ 例えば「足利義政御内書写」(『戦国遺文』今川氏編28号)は、足利義政の意志で大宮司職の補任を決定する内容である
14.^ 幕府裁許状「大宮司富士家文書」、享保10年(1725年)11月6日
15.^ 幕府裁許状「大宮司富士家文書」、享保10年(1725年)11月6日
16.^ 大高康正,「富士参詣曼荼羅再考ー富士山本宮浅間大社所蔵・静岡県指定本を対象にー」,『絵解き研究 (18)』,2004
17.^ 「上杉憲将奉書」(『南北朝遺文』関東編第3巻1954号)
18.^ 大久保俊昭『戦国期今川氏の領域と支配』(177項)によると、文書で「相催庶子等」と明示され庶子が軍事力を保持していたとし、国人領主の性格が既に認められるとしている
⒚ 小和田哲男、『駿河今川一族』P111-115、新人物往来社、 1983年
20.^ 大石(2010)
21.^ 嶋田哲「室町期における駿河国守護職と東駿河─「守護今川金吾」をめぐって─、『日本歴史』2010年3月号、吉川弘文館
22.^ 木下聡『中世武家官位の研究』2011年、吉川弘文館、P324-325
23.^ 黒田基樹、「室町後期の江戸氏」『扇谷上杉氏と太田道潅』P121、吉川弘文館、2011年
24.^ 大石(2010)
25.^ 「今川氏輝判物」(『戦国遺文』今川氏編493号)
26.^ 小和田哲男、『今川義元 自分の力量を以て国の法度を申付く』P83-84、ミネルヴァ書房、2004年
27.^ 佐藤博信、『中世東国日蓮宗寺院の研究』P117-118、東京大学出版会、2003年
28.^ 「今川氏真判物」戦国遺文今川氏編1724号
29.^ 「今川氏真感状」(『戦国遺文』今川氏編1947号)
30.^ 小和田哲男『日本を変えたしずおかの合戦~駿河・遠江・伊豆~』P90、2011年
31.^ 「今川氏真朱印状」戦国遺文今川氏真2081号
32.^ 池上裕子,「戦国期都市・流通の最検討」『戦国時代社会構造の研究』,校倉書房,1999
33.^ 安野眞幸,「富士大宮楽市令 今川権力の排除」『楽市論 初期信長の流通政策』,法政大学出版局,2009
34.^ 宮地・広野(1929)P591
35.^ 青柳周一、『富嶽旅百景ー観光地域史の試み』P174-191、角川書店、2002
36.^ 「富士山諸役所小屋迄之書付」(享保3年(1668年)、『小山町史 7巻 近世通史編』478-479項
37.^ 高埜利彦、『近世の朝廷と宗教』P276、 吉川弘文館、2014
38.^ 「第一章 古文書概説」『村田正志著作集第6巻』、思文閣出版、1985
39.^ 静岡市歴史文化施設建設検討委員会第2回会議録
[47] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月08日 07時34分07秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日は一杯飲んだら寝てしまいました。今日は早朝三時半より調べものを
して、今六時半、書き出し始めました。
遠州報国隊の話、ありがとうございました。先日雄踏へ行って賀茂氏の墓が
何でこんなにたくさんあるんだと写真を撮ってまいりました。今朝、それを
解析しておりましたところ、賀茂水穂の墓と碑を見付けました。その碑に書か
れていたことを記します。
「賀茂日向守橘朝臣直博後称鞆音 文化元年正月生子遠江引佐郡井伊谷渭伊
神社神主山本筑前守直満第七子也 母福田氏 文政七年敷智郡宇布見郷金山彦
神社神主賀茂摂津守直晴養為嗣以長女挙七男四女 明治十七年十一月二十七日
没 享年八十一 性質才能敏能修先緒管遠参二國神祇之事 尤精皇学兼善弓術
究日置流之奥 而教育子孫奉及郷里子弟門人多常好酒 詠國雅身健未嘗一日病
及歿隣里郷 當莫不追悼為子孫振振七十余人 長男金水継山本氏次東海継中邨
氏次荒次郎継菅沼氏各補神官次正作仕海軍省早歿健三要人皆夭長女嫁忠内氏次
嫁日置氏次早歿季女別成一家不肖水穂其第七子也承家今茲 明治二十一年十一
月建碑以表徳云
海軍大主計正七位勲六等賀茂水穂謹記」
一旦切ります。
[48] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月08日 09時13分56秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ご披露くださって感謝です。
やはり静岡にも賀茂氏は大勢、神職で栄えていたようですね。
>賀茂日向守橘朝臣直博後称鞆音
>遠江引佐郡井伊谷渭伊神社神主山本筑前守直満第七子也
3つ名字があるんですね。
賀茂氏 橘氏 山本氏
鞆音さんが父親で
兄が 山本金木
弟に新所村八幡神社神主の内藤山城、のちの靖国神社二代目宮司となる賀茂水穂。
そうすると 内藤姓 も加えなくては。
_______________________________
http://www.genbu.net/data/toutoumi/ii_title.htm
渭伊神社 いいじんじゃ
創祀年代は不詳。
近世までは、正八幡宮と呼ばれていた神社で、祭神も八幡の神々。
当社の近くに、小掘遠州の庭で有名な名勝・龍潭寺がある。
当社は、元、その龍潭寺境内にあったらしく、南北朝時代(一説に享保年間)に現在地へ遷座したというが、真偽は不明。
三代実録に「貞観八年十二月二十六日授遠江国正六位上蟾渭神」とあり、
式内社・渭伊神社に比定されている古社で、上代より井伊郷三十余村の総社であったという。
当社境内には幾つかの境内社がある。
まず、参道に天白社。
社殿の左手には、英霊社・稲荷社・祖霊社。
さらに、本殿周囲には、若宮八幡社、水神社、御鍬社、菅原社。
金山社、榊本稲荷社、モロード様伊豆社。
渭伊神社
引佐町井伊谷字天白にあり境内二千五百三十 五坪老杉古桧鬱蒼として繁茂し北西南の三 方河水回りて(神宮寺川にして又宮川ともいう) 其風致最も秀拔なり
由緒創立の年代由緒詳ならざれども 三代実録に貞観八年十二月二十六日授遠江 国正六位上蟾渭神
風土記に延喜式神名帳遠江国引佐郡渭 伊神社とあり又江州彦根城主井伊家祖先 備中守共保寛弘七年其神井より出生以 来産土神として信仰厚し
渭伊神社は往昔今の龍潭寺境内にあり しも南北兵乱の時今の地に移せりという 往昔より渭伊二十七郷の大産土神なり
旧地頭近藤氏の崇敬厚し
−境内案内より−
天白磐座遺跡 パワースポットですね
県指定史跡[平成四年三月十七日]
『延喜式』にその名を載せる渭伊 神社本殿の背後にある薬師山の頂上 に位置し、約四〇メートル四方にわたって 群在する巨石群を神の依代[磐座] として我国屈指の規模をもつ古代祭 祀遺跡です。
平成元年[一九九七]夏に実施さ れた発掘調査により四世紀後葉[古墳時代前期]から平安時代に至る長 期間、連綿と続いた祭祀場であった ことが明らかとなりました。
とくに高さ七メートルにおよぶ最大の磐 座の西壁直下は、古墳時代の祭祀場 として限定され、多量の手こね土器 や鉄鉾や滑石製勾玉などの祭祀に用 いられた遺物が出土しました。
また、十二世紀末には末法思想に よる埋経のための経塚が巨岩群の中 央に営まれ、渥美製の経筒外容器が 和鏡と共に出土しています。
この遺跡は渭伊神社の創祀が古墳 時代前期までさかのぼることを語るとともに、古代人の精神や宗教観を 解明するうえに重要な文化財です。
−案内板より
[49] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月08日 09時20分00秒 ) | パスワード |
良くは分かっていませんが
渭伊神社がらみでしたら 井伊氏との関係 がありますから
井伊直弼が暗殺されて 開国・攘夷・尊王・佐幕 複雑なものがあったんでしょうね。
幕末って三転四転、グチャグチャですものね。
[50] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月08日 10時50分21秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
「神主」による遠州報国隊の話から、いろいろ考えてみました。
その中心になったのが雄踏の賀茂氏。この賀茂氏は楠木氏とつながっている。
楠木氏の祖は橘氏。楠木氏の生れは駿河。
またこの賀茂氏は井伊氏ともつながっている。
井伊氏もまた橘氏とつながっている。
世阿弥系の服部氏も楠木氏とつながっている。
半蔵系服部氏も楠木氏とつながっている。
服部中系は半蔵系と遠くつながる。
そして楠木氏は橘氏。
この賀茂氏は雄踏町宇布見に居住。
服部中一族はというと雄踏町の隣の大久保・山崎・伊佐地・古人見・大人
見・神ヶ谷、・・・とんで上石田・下石田。服部保次は細江町刑部の元領主。
刑部のその前の領主は松下常慶。井伊家と強い関係。
服部半蔵の領地は市野。服部中の上石田・下石田の隣。
その隣に羽鳥庄。秋鹿氏・大草氏の管轄(天領)。
以上をもって、細江〜雄踏〜市野〜羽鳥は、松下(井伊)〜賀茂(楠木)〜
服部中・服部半蔵〜松下〜大草(秋鹿)の「闇のネットワーク」でつながって
いたと推察いたします。
その闇のネットワークとは、「忍者系」であり、そして「神主系」。
神主と諜報・陰謀のネットワークが存在した?・・・そしてその司令塔は
・・・神社本庁?、八咫烏?
徳川家を操った闇のネットワークがあった?
徳川家に入り込んだのは服部氏・・・正尚の子秀忠、服部氏は徳川家のパ
ラサイト・・・もちろんこれは極論で言えばの仮説です。
以後、実は秀忠を中心に徳川家は動いて行く。
では、何のために服部氏は徳川家にパラサイトしてしまったのか?
それは裏の存在が、徳川一系の整合性を取るためには、最期には血族的に
表に出ざるをえなくなってしまったからか?
今後、この仮説を検証して行きたいと考えます。
[51] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月08日 14時37分09秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>「闇のネットワーク」
繋がりましたね。
面白くなりました。
神職や僧侶は諸国を歩き回るのに実に都合が良かったです。
制約を受けなかったから。
それで情報の収集をし易かった。
忍者は僧侶や神職に化けてたでしょうね。
僧侶や神職の中に入り込んでたでしょうね。
賀茂氏に繋がっていたもう1つの服部氏には貞信系もあったでしょうね。
初めは上方。
後には江戸。
この家もなかなか食えない一党。
服部氏は闇のルートで背後でしっかり繋がってたでしょうね。
家康の祖父が鈎の陣での忍者の活躍を知って「うちにも来てもらわなくては」
ということで千賀地の服部半蔵の家が雇われた。
だから戦国時代の頃
西の京都あたりでは貞信の一党が
名古屋近辺では政信や保次の家が
東では半蔵の家が
この3つで繋いでたのですよ。
そして各地の豪族とも結んでいたんでしょうね。
やっぱり古代からの関係
遡って神代の時代からの関係
そして平家の時代
南朝方の関係
その他の時代
みんなしっかり繋がっていたのですね。人とも時代とも各地とも。表面上は気付かなかったけれど裏ではシッカリ。
面白い発見でしたね。
[52] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月08日 18時07分41秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は、服部中保次が領主であった細江町刑部の刑部城址に行って来ました。
場所は、中保次の墓を北東に少し下り、姫街道を渡るとそこにこんもりとし
た小山があり、その上が城址であります。誰も城址だとは思はない。現に私も
今の今まで、城址があるなどとは思いもよらなかった。すぐ隣の道を車で何十
回も通っていました。今回は「姫街道沿いの歴史スポット」という案内パンフ
て初めてわかったことでありました。道もすぐには近づけない。つまり大回り
しないと近づけない。ぐるっと大回りして、なんとか姫街道の裏手、小山の北
東側に行くことができました。すると坂道があって神社があるようだ。神社の
階段のふもとに白い板に「二ノ郭」と書かれた看板があった。とりあえず神社
の階段を登る。二十段位であろうか。登り切った所に神社とその隣に祠があった。
神社の名前はとりたててないようだ。正面左右に灯篭が立っている。そして
その隣の祠の中には何やら像が据えられている。中に入って暗い中よく見ると、
何と「役の小角」であった。
階段を下りて西の奥へ向かう。すると白看板で「堀切」が目に入る。そこか
ら左手に坂の小道が続く。周りはほとんど竹藪でところどころに灌木が生えて
いる。5メートル位登ると「虎口」の看板に出くわした。さらに5メートル位
すべりそうな小道を登ると「本郭」という看板が目に入った。そこが平地にな
っていて、東から南にかけて大土塁で囲まれていた。そして土塁のふもとに井
戸が掘られていた。穴はくずれないように石組みがなされており、結構深そう
であった。
ほとんど竹藪と化した城址も、かつては刑部城として、松下常慶が一時領主、
服部中保次も一時領主であったということを想うと、感慨ひとしおであった。
[53] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月08日 22時46分09秒 ) | パスワード |
また消えた!泣
後ほど
数時間後ぐらいに
気を取り戻したら書きます。
[54] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月09日 08時44分22秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
書いたことを復元できるソフトが、早く流布することを望みます!
本日は「古典かな・崩し字」の勉強、その後賀茂真淵記念館へ行き、顕彰
会員に入会手続きをいたします。
最後はタケノコ堀りです。
昨日は刑部城址見学後、細江の「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」へ行き、
銅鐸の数々を目にし、真鍮色のレプリカの音をならし、絵模様を観察したり
して、「一体何のために造られ、何で土中に埋められたのか」ということを
ずっと考え続けておりました。たまたまその展示室に江戸時代の遠江の大き
な地図が張り出してありましたので見ましたら、新たな発見がありました。
それは、服部中保俊の采地、山崎・小人見・大人見・伊佐地というのは、
浜名湖に面しており、陸沿いの道からの、そして舟で湖側からの敵の侵入が
可能な所、逆に言うと、防備・警備の最前線基地であったことが実感として
わかりました。雄踏宇布見もそうです。浜名湖の東岸です。雄踏には賀茂氏
やら中村氏、島氏、その他著名な氏族も住んでいたようで、一体どういう所
なのかと不思議に思っています。たぶん、東海道上での海を前にした逗留地
点で、いわば「吹きだまり」のような地点であったと解釈できるかも知れま
せん。海運・水運の状況をもう少し把握する必要があります。
では―
[55] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月09日 11時41分16秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
本当に復元できると良いのですが。
未だに何故突然書いてたものが消えるのか分かりません。
やっと本日「新居の関」が豊橋のすぐ近くというのが分かりました。
遅過ぎ
なるほど吉田藩が担当になった訳です。
そして伊佐地と山崎は地図上で分かりました。
小人見は 古人見のことなんでしょうか?
地図を見ていて(え?舘山寺ってココだっけ?)と迷子状態です。
もともと方向音痴なので。
雄踏は分かりました。
[56] | ときおさんからのコメント(2015年04月09日 22時22分49秒 ) | パスワード |
あを様
]]\の続きに成りますでしょうか。次のこと。
今、ユーチューブ見つけました。
こちらにアップしました。
秦の河勝は、600万人の人口の時19万431人(7千戸)人を率いて・・・
も言っていますね。
改めて見ると!。
大避神社の宮司さんの生浪島氏も雅楽の東儀氏の顔つきは天皇家の目鼻立ち
で、特に鼻は似て居ますね。日本人離れしていますね”!。
「へブル語と日本語の類似 秦氏」
https://www.youtube.com/watch?v=PvtI1akmzTE
[57] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月09日 22時52分44秒 ) | パスワード |
ときおさん
ホントに「鼻」がそっくりですね。
[58] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月09日 23時36分13秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
小人見は古人見です。
本日は神ケ谷の松下の姉を連れて賀茂真淵記念館へ行ってまいりました。
真淵はここ東伊場宮坂(昔は岡部郷)で生まれた。この岡部郷は山城国賀茂
神社の神領でありました。1274年、賀茂新宮をここに斎き奉り、真淵の
父の岡部与三郎(賀茂姓ではない)はこの社の神官であった。
雄踏の賀茂氏とは直接の関係はないようですが、その辺は今後調査して行
きたいと思っております。
姉に聞いたことでびっくりしたのは、姉の義理の弟(神ヶ谷 松下)の奥さ
んが、雄踏の賀茂神主家の出身であるということで、意外や意外。何か不思
議な因縁を感じております。
賀茂真淵に関する話は今後展開するとしまして、本日「かな」のセミナー
の中で学んだ杜甫の五言絶句を記します。その中に河の碧と山の青が謳われ、
また鳥の白、そして花が謳いこまれ、何とも言えない素晴らしい漢詩だと感
じ入り、イメージの瞬間、時間が止まりました。
「江碧鳥逾白 江(河)は碧(濃緑)にして、鳥は逾(いよい)よ白く
山青花欲燃 山は青くして、花は燃えんと欲す
今春看又過 今春、看(みすみ)す又過ぐ
何日是帰年 何れの日か、是れ(故郷に)帰る年ぞ」
本日のおまけは、夜の日本テレビの2時間スペシャル「歴史捜査 本能寺
の変の真相を追え」でありました。あの明智憲三郎さんも出演して解説を行
いました。いろいろな新しい事実が取材されていて、久々にいい番組に出合
ったと思いました。
本能寺の変を引き起こした原因は、煎じ詰めると、信長の明智への家康暗
殺命令が、逆に自分への刃となってはねかえって来たということであります。
家康側に立てば、家康の諜報力、情報のネットワークが信長を上回ったこ
とになるというふうに私は考えます。伊賀の乱の怨念をはらすピンポイント
作戦だったとも言えると思います。もちろん伊賀だけでなく、比叡山をはじ
めとする多くの僧たちの怨念も含めて、服部一族に託された最大のミッショ
ンが信長暗殺であったといってもいいかも知れません。
[59] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月10日 02時24分02秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ビックリです。
信長が家康の暗殺を画策してましたか。
それで明智が家康に伝えて逃がした?
だとすると春日局の採用が非常に納得行きます。
恩人一派の娘ということになりますものね。
その上に
次男の国松より長男の竹千代の世継ぎ話を春日局に頼まれて確定にさせたり。
明智の本能寺襲撃が早々と服部一族に伝わった秘密にも納得出来ます。
なぜ貞信も知っていたのか?不思議でした。
背筋がゾクゾクしましたよ。
なるほどねえ。
明智憲三郎さんの本はまだ途中です。
10代とまだ若過ぎる息子のために老い先短い自分がしてあげられこと
ということで弑逆したのかと思っていました。
まだこのあたりです。
本当に貴重なお話をありがとうございます。
[60] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月10日 05時58分15秒 ) | パスワード |
>杜甫の五言絶句
漢文の授業でやりましたね。
「春望」は暗記させられましたね。
國破山河在
城春草木深
感時花濺涙
こんな感じ、
後は記憶になし。笑
習字でもやりましたね。
「江碧鳥逾白」は「絶句」でやりましたね。
特に最後の「何日是帰年」
一体いつになれば故郷に帰れる年がくるというのか ← 「望郷」の思い
「望郷の思い」とは日本人には良く分かる心境です。
というのは、故郷での方が外国での生活より「良かったから」。
だから日本に帰りたい、という思いがある。
しかしイスラム国に追われて故郷を捨てたシリアの人とかアフガニスタンの人とかには
今の亡命生活の方がずっと安全だから(帰れなんて言わないで!)でしょう。
日本人の望郷の念と中東の人の気持ちは違う、なんてね。
中国の人もそうかもね。
同じ漢人でも大陸の中国人は香港の中国人をバカにしているんだそうで
でも経済は香港の方がずっと豊か。
だから大陸から香港に逃げたい人は多い。
香港の人は日本やアメリカなんかに逃げて日本やアメリカのパスポートで
つまり日本人やアメリカ人となって大陸に遊びに行く。
身分は日本国やアメリカ政府が保証してくれますから
毎朝会う知り合いの中国人の爺さんに杜甫の詩をどう思うか訊いてみたいけど
聞いたら返事が怖い気もします。 聞かない方が良かった!なんて。
日本人が漢文を勉強するとか儒教を勉強するのも
やっぱり昔あっちにいたことがあるからでしょうか?
そしてあっちの生活や文化の方が高かったから?
半島については、きっと良かったという記憶は無いのでしょうね。 命からがら逃げて来たのだから。
「鳥逾白」
川の色の青に対して白い鳥が一層白く美しく見える
これって「鳥は白に決まっている」ということからなんでしょうか?
だから「白鳥」伝説になるのか?
古典的には 鳥=白 なのかもですね。
[61] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月10日 06時25分42秒 ) | パスワード |
賀茂真淵
浜松の神社の家が今でも続いている、というのは意外ですね。
さすが神職の家ですね。
遡ったら、それこそ神代の時代からなんでしょうね。
実際の史的な活躍は神武天皇以来ということなんでしょうか?
秦氏と関係を持ち
壬申の乱で活躍し
桓武天皇の遷都で陰陽師として平安時代に活躍し。
幕末にも活躍し現在に至る、というのが神社の力はすごいなと驚嘆します。
エンエンと続いてて
その上に日本の国の記録にあるんですから。
名家ですね。
[62] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月10日 15時57分41秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日、賀茂真淵記念館にて顕彰会の会員になり、書籍が2割引きになるの
で、書籍を購入しました。
『浜松の史跡 続編』という本です。その本の中で、服部中に関係するも
のと思われる、次のような項目があったのでびっくりしています。
「五葉院の薬師堂(大久保町)
大久保町、臨済宗方広寺派に属する万松山五葉院は、かって五葉庵を名
乗り、開山の玉院和尚は、室町時代の応永18年(1411)10月7日寂
とあるから、古くよりあった小寺のようである。
同院の本尊は釈迦牟尼如来であるが、よく知られているのが薬師堂であ
る。これは慈雲院殿智功澄水居士を称する。「服部万五郎」が寄進した薬
師如来、日光、月光の両菩薩をまつったもので、仏殿は元禄11年(1698)
12月16日死去の浮海禅尼の菩提を弔うために建立されたという。
「服部万五郎」は「伊賀守」に任じられ、大久保町付近の領主だったと
いわれ、宝永6年(1709)1月13日死去している。」
ということでありますが、この人物に関するデータは皆目わからない。服部
中系と思いますが、系図からは脱落している。五葉院というのをグーグルで
探すと大久保町にあるようなので、早速に調査に行くことにいたします。服
部中の子孫の可能性大いにあり・・・探せば色々出てきますね、朗報です。
服部中系と永井系の奥深いつながりもわかりました。それは双方とも桓武
天皇の子「葛原親王」をルーツとし、その子供の「高棟王」の子孫が服部中
保次系で、その弟「高見王」の子孫が永井直勝系であり、同祖同族となりま
す。善地の服部と永井が家族のように寄り添って生きて来ました理由は、そ
こにもあったのだと推察いたします。
いずれにしても、家紋を永井系にしたという理由がわかれば一番の解決に
なりますが、とりあえずヒントとなりそうな人物が浮上しましたので、実地
検証を早急にしてみます。
[63] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月10日 22時44分44秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
背筋がゾクゾクして左手がかじかんだようになっています。
右手はどうやら打てますが。
もう驚きました。
是非服部中の子孫に会えますように。
そして服部中系の方々の墓が見つかりますように。
領地が特定できましたから
そのあたりの寺を虱潰しで探す
ですね。
服部氏と永田・長田。永井氏の関係が分かって驚いています。
義朝を殺して「褒賞には尾張が欲しい」と言ったのを
家貞が「図々しい。元はお前の主人だろうが」と言ったという話の裏の意味が分かった気がします。
一族だからこそ
窘めたのかな?と。
裏が分かると、見方が180度、変わりますね。
左手の指が痺れています。
余りの大きな情報に興奮しています。
ありがとうございました。
[64] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月10日 22時54分08秒 ) | パスワード |
大久保陣屋近辺の寺の
矢紋や蝶紋の服部家の墓の周りの違う名字や違う紋の家も
同じ一族かも知れないですね。
実は実はという話が聞けるかも知れないので
お取りこぼしの無きように。
[65] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月11日 00時41分20秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
万五郎について色々調べました。もう一度系図を調べたところ、七代目の
保貞の兄の「保根(やすとも)」のことでありました。保貞が家督を継いでい
るので、注目されない立場でありましたが、保根は30才前後で亡くなって
おり、保貞が長谷川家から養子に入っています。30才で大久保他の領主で
伊賀守でしたから、当然正室等もらっていたはずであります。子供もいた可
能性もあります。母は永井伝八郎茂虎(直勝の子孫)の娘ですので、小さい時
は永井家の実家で育ったかも知れません。
いずれにしても詳しいことはわかりませんので、実地検証に行ってみます。
[66] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月11日 02時26分49秒 ) | パスワード |
わあ〜
すごい!
見つかりましたか。
なんだかかなり包囲した感じですね。
[67] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月11日 02時29分51秒 ) | パスワード |
高望王流
葛原親王三男の高見王の子・高望王子孫。高望王が賜姓を受けて平高望となったのに始まる。但し、高見王の名は同時代の史料に名前が見えないので系譜には疑問も残る。(「望」と「見」は両方とも名読みで「み」と読める。)寛平元年(889年)に皇族5名が平朝臣を賜姓されたとの記録(個々の名前は伝わらない)があるので、高望王はそのうちの一人と推定されている。坂東平氏
高望は、昌泰元年(898年)に上総介に任じられ遥任国司が多いなか、子の国香・良兼・良将を伴い任地に下向した。そして任期が過ぎても帰京せず、国香は常陸大掾(大掾氏)、良将は鎮守府将軍を勤めるなどし、上総国ばかりでなく常陸国や下総国にも勢力を拡大、坂東に武士団を形成し武家平氏の基盤を固めた。また、高望の側室の子良文もその後坂東に下り、良文の子孫も坂東に散らばって三浦氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏などの武家となった。特に良文流の坂東平氏を坂東八平氏という。伊勢平氏と平家
国香の孫維衡よりはじまる一族が伊勢平氏である。平氏の中でも伊勢平氏、特に正盛の系統(六波羅流・六波羅家)は「平家」と呼ばれている。正盛の子忠盛が初めて昇殿を許され、忠盛の子清盛は平氏政権を樹立し栄華を誇ったが、壇ノ浦の戦いで滅亡した。維衡の子孫には他に室町時代に有力な幕臣となる伊勢氏がおり、第13代将軍足利義輝の時代の政所執事・伊勢貞孝は幕政を壟断するまでになったが、三好氏と対立して戦死した。貞孝の死後、伊勢氏は力を失ったが江戸時代には旗本として続いた。また伊勢氏の傍流出身といわれる伊勢盛時は一代で伊豆・相模を平定し、戦国大名・後北条氏(小田原北条氏)の祖となった。平家の落人
各地に散らばって隠れ住んだ「平家の落人」の子孫を自称する武家は大変多く、代表的なものとして薩摩の種子島氏、対馬の宗氏、尾張の織田氏などが挙げられる。しかし、これらは子孫だとしても伊勢平氏の子孫ではなく、「平家に仕えた郎党の子孫」というべきだろう(織田氏については藤原氏説もあり)。ただし、前述のように伊勢平氏に仕えていた郎党を他氏出身者も含めて一括して「平家」と呼んだ用例もあるため、その意味においては「平家の落人」という言葉も全くの誤りではない。熊本県の五家荘や富山県の五箇山などは平家の落人の隠れ里と伝えられる。これら平家の落武者およびその家族、使用人等の隠れ里と伝わる地を「平家谷」と通称する。室町時代に入ると『平家物語』が完成し、今日まで広く愛される軍記物語となった。
[71] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月11日 04時43分53秒 ) | パスワード |
高棟王流
葛原親王長男の高棟王子孫。高棟王は天長2年(825年)に賜姓を受けて平高棟となった。この流れは公家として京に残り、平安時代末期に平清盛の正室平時子(二位尼)と、その弟で清盛の威勢によって正二位権大納言にのぼった平時忠、異母妹の建春門院平滋子が出た。時忠は壇ノ浦の戦いの後、能登に流され没落したが、時忠の弟親宗の子孫(唐橋家)や叔父信範の子孫(西洞院家・安居院家・烏丸家)は鎌倉時代以降も公家として続いた。歴史物語の今鏡に、「日記の家」と紹介されているように平記・兵範記をはじめ多くの古記録を残す。江戸時代には西洞院家・平松家・長谷家・交野家・石井家という5家の堂上家を出した。なお、時忠の子時国の子孫を称する家が能登半島で豪農(上時国家、下時国家)となり、現在も続いている。
長田氏(おさだし)は、平安時代にかけてあった武家。 本姓は平氏。 桓武天皇を祖とする桓武平氏の一流である良兼流を汲み、平致頼より長田を名乗り尾張平氏とも言われる。尾張国に勢力を張り、平治の乱において源義朝を暗殺した長田忠致がある。
庶家は平姓水野氏と長田親致(忠致の兄)の後裔を称する徳川氏譜代家臣の永井氏などがある。
本姓
桓武平氏良兼流
家祖
平致頼
種別
武家
主な根拠地
尾張国
伊勢国 ほか
著名な人物
平致頼
平致経
長田忠致
長田景致
平 致頼(たいら の むねより、生年不詳 - 寛弘8年10月2日(1011年10月30日))
平安時代中期の武将。坂東平氏の流れを汲む平公雅の三男(平良正の子とも)。致経、公親、公致らの父。平五大夫と号した。従五位下、備中掾。長田氏などの祖。
長徳4年(998年)、同族の平維衡と伊勢国神郡において合戦を繰り広げたため、のちに両者とも朝廷に出頭を命じられ尋問を受けたが、この際維衡は直ちに非を認めて過状(詫び状)を提出し、位階は剥奪されずに淡路国へ移郷とされたのに対し、致頼はなかなか非を認めず過状も提出しなかったため、位階を剥奪の上隠岐国へ配流となった。3年後の長保3年(1001年)、致頼は赦免され五位に復されたという。
しかし寛弘4年8月に藤原伊周、隆家兄弟が藤原道長暗殺を計画し致頼に命じていたという噂が流れていたとある。[1]長徳の変の際に致頼の弟の右兵衛尉平致光とその兄弟が伊周の郎党として検非違使に家宅に踏み込まれ逃亡していた[2][3]経緯があった。また致頼の姉妹が既に薨去していた伊周・隆家の父藤原道隆の家司の有道維広の室であり、その息子で致頼の甥に当たる有道惟能が伊周の家司だった事から伊周らはその繋がりで致頼と通じ接触した可能性もある(この時道長は金峰山に向けて8月2日に出立しており、13日には連絡をとる為の勅使として源頼定が派遣されたが、その翌日の14日に道長は無事戻ってきており結局暗殺計画は実行されていない)。
その4年後の寛弘8年(1011年)に卒去(『尊卑分脈』)。
なお、致頼は平安時代後期の伝記本『続本朝往生伝』に源満仲・満政・頼光・平維衡らと並び「天下之一物」として挙げられるなど、当時の勇猛な武将として高く評価されている。
[72] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月11日 05時00分11秒 ) | パスワード |
>平致頼より長田を名乗り尾張平氏とも言われる。
>尾張国に勢力を張り、平治の乱において源義朝を暗殺した長田忠致がある。
>庶家は平姓水野氏と長田親致(忠致の兄)の後裔を称する徳川氏譜代家臣の永井氏などがある。
ここですね。
>長田氏は「尾張平氏」とも言われる
だから源義朝を暗殺した長田忠致は尾張国が褒賞に欲しかったわけですね。
ごくごく当然の希望だったわけです、長田忠致にすれば。
(みんな尾張国は欲しいから
清盛だって父親からの遺産に尾張の土地=御器所=を貰ってるから
尾張国は自分の子供達以外には渡したくなかったでしょう。
家貞だって長田にやるんだったらウチが欲しいと思ってたでしょうし)
そうか。。。
永井氏は水野氏と長田氏の両方の子孫になるのか。
だったら家康が「名字を変えろ」と言った背景も
単に長田忠致がらみという訳じゃなかったわけだ。
自分の母の実家の親戚筋になるんだから
水野氏を引き立てるのに一緒にくっついて来るわけだから
長田の方が名前としては水野より名家だものね
それで単に「長田」という名字よりは
新たに別の顔にしろよ、
ということだったのかな、と。
それで 永田 という姓も新たに出来ることになったのかな?
[73] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月11日 09時26分12秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日、五葉院へ行く予定でしたが、都合で明日に行くことになりました。
[74] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月11日 22時30分41秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
当分、お忙しいですものね。
了解です。
忙中閑あり、脳内でコッソリいろいろ行程を組んだりして作戦を練ってください。
笑
[75] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月12日 04時38分31秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日は、統一地方選の選挙前の最終日ということで、遊説カーの帰りを
見届け、締めをおこなってから帰りましたので、午後9時くらいになり、
また体調も低調になっておりましたのでパソコンを打つパワーが出ません
でした。
本日は早朝からパソコンに向かっております。午前7時になりましたら
投票に行ってこようと思っています。
一旦切ります。
[76] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月12日 08時48分39秒 ) | パスワード |
そろそろ XXXII を立ててくださいね。
[77] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月12日 09時04分52秒 ) | パスワード |
服部中家の10代目 保ひさ、記憶にあります。
草冠で、
という旧字を捜すのに、無かったので特に記憶しています。
徳山五兵衛頼意の次男
母は某氏。
妻は前田安房守矩貫の娘。
子の保右も記録に書いてありました。
家紋
16桁車の内横矢筈
向ひ蝶
揚羽向ひ蝶の内に16葉菊
と書かれています。
幕末まで続いていたのですねえ。
[78] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月12日 09時10分51秒 ) | パスワード |
服部中家の用人の馬淵家
もとはココかも。
http://www.oumi-castle.net/second_page/mabuti/mabuti.html
近江 馬淵城
馬淵城跡とされる一帯は城屋敷と呼ばれ、現在は畑地、および住宅地となっている。小字城屋敷に隣接した一町歩の田圃は「一ツ堀」とよばれている。この一画は、昭和40年頃の圃場整備前までは沼地状態だったという。
同様に馬淵地区には蔵の町,藪雨田(流鏑馬田か)などの地名が残されている。
馬淵城の詳細は不明であるが、近くを流れる白鳥川を何らかの形で利用していたであろうことは容易に想像される。
白鳥川に関しては、現在馬淵地区の東を流れているが、これは昭和40年頃の圃場整備に伴って川筋が変えられたもので、当初は馬淵地区の西を流れていた。
この川筋の名残が現在も馬淵地区を流れる細い水路と考えられ、馬淵城は白鳥川が大きく蛇行し、三方を白鳥川で囲まれた地形に築城されていたと推定される。
馬淵地区にある真光寺は馬淵氏の菩提寺で、墓地には馬淵一族の墓とされる五輪石塔群がある。
また、馬淵は岩倉山から良石を産出することもあって、馬淵衆や岩倉衆などの石工集団の発祥の地としても知られている。
白鳥川まで・・・
アヤシイ
もとは近江ー伊賀ー甲賀がらみかも。
[79] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月12日 09時12分21秒 ) | パスワード |
https://kotobank.jp/word/%E9%A6%AC%E6%B7%B5%E6%B0%8F-1208166
【馬淵氏】
中世の武家。近江国蒲生郡馬淵(滋賀県近江八幡市)より起こる。
佐々木氏一族。
佐々木氏系図によれば定綱の後裔である広定が初めて馬淵氏を称した。
代々近江の守護・戦国大名六角氏の有力家臣で,
南北朝時代の初めから室町時代前半にかけては,守護六角氏の守護代として活躍した。
とくに広定の曾孫にあたる義綱は,延文・貞治年間(1356‐68)に活躍の跡が顕著であり,
六角氏の領国政治を支えた重臣であったことがうかがえる。
鈎の陣にも関係してたのかもですね。
[80] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月12日 09時14分30秒 ) | パスワード |
http://ejje.weblio.jp/content/%E9%A6%AC%E6%B7%B5
馬淵 うまづめ
(姓) Umadzume
馬淵 うまふち
(姓) Umafuchi
馬淵 うまぶち
(姓) Umabuchi
馬淵 ばふち
(姓) Bafuchi
馬淵 ばぶち
(姓) Babuchi
馬淵 まぶち
(地名、姓) Mabuchi
•そもそも堀部氏は近江源氏佐々木氏族で、佐々木定綱の子馬淵広定より始まる馬淵氏の支族である。
•名人笛彦兵衛(檜垣本彦兵衛)の門人であった馬淵頼元の甥、下川丹斎の弟子藤田清兵衛なる者が一流を立てた。
•山岡氏は六角氏の有力家臣で、青地氏・馬淵氏らとともに守護六角氏の軍事力の中心を担っていた。
[81] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月12日 09時16分57秒 ) | パスワード |
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青地氏
隅立て四つ目結
(佐々木氏流馬淵氏族)
青地氏は佐々木氏の支流馬淵広定を祖とする。馬淵広定は佐々木定綱の五男で、蒲生郡馬淵庄を領して馬淵を称したのに始まる。この広定の四男基綱が青地右馬助の養子となり、青地氏を継いだという。その時期は鎌倉時代の中ごろと考えられている。青地庄は経済的にも交通的にも重要な位置を占めており、江南地方に勢力の拡張を目指す馬淵氏や、その背後にある佐々木氏にとって青地庄に一族の者を配置することは有効であったために、基綱を青地氏の養子として青地氏を佐々木氏の一族化したものだろう。
青地という地名が示しているように、青地は生産力の豊かな土地であり、東海道・東山通、さらに琵琶湖岸を結ぶ重要な位置であった。はじめは志津庄と呼ばれていたが、青地氏がこの地を領して、永禄年間以降(1558〜70)、在地領主として勢力を振るうようになってから青地庄と呼ばれるようになったと伝える。
ところで、基綱が継いだ青地氏とはどのような氏族であったのだろうか。志津庄と呼ばれていた頃の荘園領主は、古代豪族である小槻氏であったようで、青地氏は小槻氏の荘園を預かる荘官をその祖としているようだが、その実態は不明である。
青地氏の台頭
佐々木氏流青地としては、基綱の子忠綱がはじめて青地城を築き、近江源氏七頭の一人として湖南を支配するようになったと伝えられる。
基綱が青地氏を相続してのちの弘安四年(1281)、その子基氏は一族とともに小槻大社に神櫃を寄進している。この櫃の銘文から青地一族が惣領基氏を中心とする武士団を結合していたことが知られる。その後、惣領は基氏から弟忠綱の子である冬綱に継承されたようだ。冬綱は近江守護代を務め、その権勢は同地の豪族田上・沢氏らを押えて、ひときわぬきんでていた。
建武三年(1336)八月の能登野の合戦に、青地源五入道の名が見えている。このころ惣領は氏重であったが、氏重は建武二年に死亡しており、子の重頼は成人していなかった。さきの源五入道は、おそらく氏重の弟で、重頼の叔父にあたる人物であったものと考えられている。幼い重頼の後見役を勤めていたものだろう。
重頼は一族の長老や累代の重臣の補佐を得て、建武以来の動乱期を過ごしていたが、正平二年(1347)、佐々木六角氏より動員令が下った。この年、楠木正行が南河内に兵を挙げ、足利尊氏は細川顕氏を将として諸国に兵を募った。近江では六角氏頼が、弟山内五郎右衛門を将として、伊庭・目賀田・青地・平井氏らに出陣を命じた。しかし、藤井寺の戦いと称されるこの合戦は、足利方の惨敗となり初陣の青地重頼にとっては惨めな戦いであったようだ。
その後、重頼は甲賀郡へ出陣し高山氏らと戦った。観応三年(1352)、足利義詮は京都の男山八幡山城にこもる南朝方と対陣していたが、高山氏らによって瀬田橋が焼かれたために、重頼をして瀬田の地を確保するべく命じた。この戦いにおいて重頼は高山氏らに勝利をおさめ、重頼の武名は高まり、のちに「郡奉行」の要職を務めるようになった。
正平十五年(1360)、仁木義長が南朝に降伏し、伊勢・伊賀から甲賀に入り、大原・上野氏を加えてあなどりがたい勢力となった。このため六角氏に将軍義詮から討伐命令が下り、氏頼は弟山内定詮を将として国内の武士を指揮して仁木軍に対した。青地氏は馬淵・伊庭・三井・三上らの諸氏とともに陣を張り、定詮の隊を中軍として敵を迎え撃った。戦いは定詮の絶妙の指揮と将士の奮戦により、仁木軍は名ある武士多数を失って敗走した。しかし、この合戦で青地重頼は、三十八歳を一期として戦死した。
青地城は、鎌倉時代初期に青地忠綱が築いたと伝えられるが、『近江栗太郡志』んは応仁の乱以後に築かれたとある。いずれにしろ、近江守護佐々木氏の「佐々木七騎」の一人に数えられ青地氏代々の居城であった。市街地にある平城としては比較的遺構が良く残されており、小学校前の城池、小学校と主郭の間にある空堀、裏門付近にある土塁など見応えがあるものばかりだ。
城址の一角には、青地氏のご子孫が建立されたという「青地城主の碑」があり、青地氏の「隅立四つ目結」紋が見られる。また、城址の一角を占める小槻神社は、青地氏の崇拝が篤く、貞治三年(1364)、青地頼定が神輿を奉献したことが記録に残されている。
青地氏と戦国時代
戦国時代、細川澄元が京都の兵乱を避けて青地城に逃れ、佐々木氏の命を受けてた青地伊予守が洛北勝軍山合戦に参加して功を立てたことが知られる。また、伊予守は永禄七年(1564)、平井定武とともに織田信長の岐阜城攻略の援軍として美濃に出陣したことが当時の記録にあり、戦国後期における青地氏の南近江における勢力のほどをうかがわせる。
戦国時代末期、蒲生氏から入って青地氏を継いだ茂綱は、織田信長に従い伊勢・北畠氏攻略等に参戦した。元亀元年(1570)九月、信長と対立する浅井・朝倉勢が近江を南下し、坂本口へ押し寄せてきた。青地茂綱は森可成・織田信治らとともに宇佐山城において、これを迎え撃った。しかし浅井・朝倉勢は大軍で、ついに織田勢は崩れ立ち、森可 成・織田信治らとともに茂綱は戦死した。
この茂綱の功により、嫡男元珍(もとよし)は青年武士の一人として親戚にあたる蒲生氏郷らとともに信長に仕え、信長の催した馬競べの勇士にも抜擢されている。そして青地城主に封じられ、佐久間信盛の与力となり石山本願寺攻めなどに従軍、信盛の追放後は信長直属武将として活躍した。
ところが、天正十年(1572)六月、信長が本能寺において明智光秀に討たれると、元珍は織田信孝に仕えた。これが、結果として青地元珍の不運となったのである。すなわち、明智光秀を討った羽柴秀吉がにわかに織田氏家中で台頭し、織田氏の重臣筆頭である柴田勝家と対立するようになり、織田信孝は柴田勝家に加担したのである。
このため、信孝の重臣の位置にある元珍も羽柴秀吉にうとんぜられ、信孝が滅亡したあとは浪々の身となり、蒲生氏郷のもとに寄食するにいたった。しかし、蒲生家もその後断絶となり、結局加賀前田氏に身を寄せて二千石を給され、子孫は代々加賀藩士として続き明治維新に至った。
もし、元珍が羽柴秀吉に属していたら、小さいながらも大名にはなれていたのではないだろうか。しかし、当時の状況からみて織田信孝に従うんは自然ななりゆきであり、青地氏にとってはまことに不運なことであったというしかない。
[82] | 丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月12日 09時17分04秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
静岡県歴史研究会の会報第9号(1985年2月1日発行)に沢村藤生氏の
『遠江国敷智郡大久保の領主 服部中家及大久保周辺のこと』という論文が
掲載されていますので、これを6回に分けて記載いたします。
「永禄3庚申年(1560)5月、織田信長雷雨をついて桶狭間の陣を奇襲
する。このとき今川義元の本陣に最初に斬り込んだのは桑原甚内であった。
甚内はかつて義元が二度三度と立ち寄った時の小僧をしていた者で、義元
の顔を見知っていた。それだけに本陣に入っていち早く義元を発見したが、
今川方の近習に接近をさえぎられた。この時、甚内について義元を追って
いた服部小平太は近習のすきを見て義元に近寄り、槍をもって脇腹を突き
刺したのである。深手に屈せず義元は刀を横に払ったが、すると横から毛
利新助が飛び出して義元に組みつき、首級をあげた。服部小平太保次この
時35歳、毛利新助秀高もその当時共に信長に仕えていた家臣である。
保次は永禄8乙丑年(1565)召されて家康公に仕える。9年、足軽同
心50人を預けられる。
服部氏は『寛政重修諸家譜』第1172服部氏によれば、平氏高棟流に
して弥平兵ヱ宗清より出、宗清頼朝将軍より伊賀国阿拝郡・山田郡の2郡
のうちに於いて32村の地を賜い、阿拝郡服部村に住せしにより子孫服部
を以って家号とす。保次は其の後裔伊賀守宗純が末孫なりという。初め宗
次、要介、通称小平太中と云う。家康公に仕え奉りてより、合戦のあるご
とにおうせをうけ賜りて、敵地の境を警衛し、天正4丙子年(1576)ま
た同心22人を加えあずけられる。
5年4月22日遠江国引佐郡及三河国岡村のうちにて120貫文の采地
を賜る。
天正10壬牛(1582)6月、本能寺の変の時には、和泉国堺より伊賀
路を渡御のとき従い奉り、12年長久手の役に供奉し、息子の保正、御馬
前で首級を獲て賞せられて保次に兼元の御刀を賜る。
天正15年(1587)6月18日、新領地視察のため、単騎引佐郡中川
方面に出掛けた際、今川の残党と思われる者に刑部に於いて襲われ、62
歳にて死す。法名祥栄院殿湖雲淨鑑大居士と云い、当地に葬られ先般東京
四ッ谷の湖雲寺に改葬されるまで同地に墓碑があった(その後、松下氏に
より暗殺現場の近くに墓が建てられている。松下氏は松下常慶の子孫と思
われる。服部中保次と松下常慶は通じていた)。
今はなくなっている浜松市大久保町香集庵の過去帳に法名が記されてい
る。」
今回はこれまで―
[83] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月12日 09時19分17秒 ) | パスワード |
http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.mabuchi.htm
馬淵城(まぶち)
別称 : なし
分類 : 平城
築城者: 佐々木広定
遺構 : なし
交通 : 近江鉄道八日市線武佐駅徒歩30分
<沿革>
馬淵城は、馬淵氏の祖佐々木広定が馬淵庄に置いた居城とされる。馬淵氏は、六角佐々木氏の居城観音寺城の最高所に近いところに館をあてがわれていたようで、近江国中にも重きをなしていたものと思われる。
<手記>
現在馬淵集落には城屋敷という字名が残っていて、城は集落の北東部にあったと推察されているようです。ただ、城を示すような遺構は何も残っていないようで、真光寺を訪ねたところ奥さんが出てこられて、馬淵氏の墓はあるが城については何も分からずただ法要のときに子孫が集まるのみだとの事でした。
馬淵にはもう1つ円願寺というのもあるのでそちらも尋ねてみましたが、こちらの方は随分ぞんざいな扱いを受けてしまいました。
[84] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月12日 12時07分00秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
ではXXXIIの方へ書いてください。
こちらで移動させますね
[85] | 空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月12日 12時13分11秒 ) | パスワード |
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101432.html
レス<82>を スレッド XXXII に移動させました。
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