[1] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月03日 14時29分04秒 ) | パスワード |
鈴木さん
初めまして。
普通は名字と家紋からでは「わからないですねえ」とレスしますが
原田さんで揚羽蝶紋でしたら「平家」バリバリですね。にっこり
とはいえ50−50の確率ですが。
原田種直さんとおっしゃる武将が御先祖さまかしら?
奥さんは平頼盛の娘で
筑前の所領が3700町とか。
平家方として鎮西を治めていらっしゃった方ですね。
原田家はもともと九州の大豪族の家でしょ。
いろいろお調べになったら、原田一族の有名人がたくさん見つかりますよ。
原田甲斐という伊達藩の家老(伊達騒動)だった人もいますしね。
秋田県ということで
新潟の平家方だった城氏一族がらみか
それとも南北朝の頃に秋田に住み着いたのか
ここは県の教育委員会から歴史資料をいただくとか県図書館に行くとか
いろいろ読みまくってください。
また本家になる御家にお尋ねになるとかね。
どういう話が伝わっているのか。
だいたい「ムカシの豪族で、平家方で、南朝方だった」という線じゃないかしら。
実際のところがお分りになりましたらお知らせください。
[2] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月04日 01時31分41秒 ) | パスワード |
今は「鈴木さん」とおっしゃるのですか?
鈴木さんは日本で1番多い名字だそうで
よく分かりませんが
原田さんと鈴木さんのカップルならムカシ昔からの御縁かしら?
平家方がらみ and/or 南朝方がらみ
ということかしら?
もし「一目会って宿命を感じた」という思いがおありでしたら
御先祖さまがらみだったのでしょうね。
[3] | 鈴木 良子さんからのコメント(2008年10月04日 06時53分13秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラーさん
初めまして。
早速、お答え頂きましてありがとうございます。
私は幼い頃から跡継ぎと言われて
育ちましたが他家へ・・・
父がとても残念に思っていました。
実家は男子がいませんでしたので!
父は既に他界してますが
10月は父の誕生月で、父のことを思い出し
ここへ辿りついてよかったデス。
秋田県の教育委員会に問い合わせてみようと
思います。
現在は千葉県在住なので地元の図書館とかには
なかなかいけそうもないです。
主人とはお見合い結婚ですが、
主人の父が新潟県出身ですが
縁があったかも知れませんね。
ご先祖様がらみだったのかもしれません。
[4] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月04日 14時51分03秒 ) | パスワード |
鈴木 良子さま、とおっしゃいましたか。
「新潟」というのが、何か、ありそうですね。
秋田と新潟でしたら、同じく美男美女のカップルでいらっしゃるのでしょうね。
その上に平家の血筋でいらっしゃいましたら
スゴイ!
上に「秋田」「新潟」「城」など書きましたが
城さんは元は平維茂の子「繁茂」が秋田城介となり
子孫が城介の城をとって名字としたんですって。
この「城」さんは越後・秋田を本貫地として平家方でした。
城長茂が木曾義仲に敗れ会津に逃げました。
ですから、御主人さまとは元々御結婚なさる下地があったように(笑)
また日本人は、名字も家紋も、 ずっと同じ、とは限りませんから
ここは御両家さまの明治時代の初めにまで遡る除籍謄本を全部取得なさいますように。
不思議なことが分るかもですよ〜
どこでどう繋がっていたかも分ったりするかも。
県や市の教育委員会の歴史編纂課にお手紙なさって史料を集めまくってみてください。
そこから更に地元の史談会発行の書物を手に入れてください。
日本人って、 何重にも縁を重ね合っている、というのが分ってきますよ。
男女2人が結婚に至るのは宿命の糸で結ばれているからです。
日本では「赤い糸」と表現しますが
全くの他人と思っていたら「実は実は」2人は結ばれる運命だった!
というのが分ってきます。
[5] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月04日 14時59分16秒 ) | パスワード |
もしかしますと
お父さまが御先祖さまにお会いになって
そのお友達に御主人さまの御先祖さまがいらっしゃって
お父さまが良子さまに呼びかけたのかもですね。「調べてごらん」って。
平家の子孫の方はオカルトパワー・・・いえいえ御先祖さまからの・・・呼び出しを受け止める方が大勢いらっしゃいますから。
御自分の御先祖さまをお調べになりましたら、感謝の気持ちが生じて来ますから、
御先祖さまが有形無形で助けてくださいますよ。
御先祖さまは子孫の幸せを望んでいらっしゃいますから。
[7] | 鈴木さんからのコメント(2008年10月10日 00時00分33秒 ) | パスワード |
浅内の原田五右衛門は紛れもなく
私の先祖だということが
わかりました。
住所を知らせて調べてもらいました。
[8] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月10日 00時48分42秒 ) | パスワード |
岩手ですか。
ムカシはいろいろな所に所領を頂いて
それぞれに子孫が繁栄し
時代が進むに従って他人みたいに関係が切れてしまいますから
分らなくなりますが
こうやって何百年も経ってから御先祖さまの活躍が分って
ロマンですねえ〜
[9] | 鈴木さんからのコメント(2008年10月10日 07時48分03秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラーさん、
岩手ではなくて秋田県の浅内村に
浅内の原田氏で、植林に尽力した原田五右衛門という人物がおって、
この人物の祖先に関する記載で
文禄元年(1592)桧山城安藤実季の鉄砲衆に原田孫十郎が記されており、
慶長7年(1602)実季が常陸宍戸城主に転封された際浅内村に土着し、
代々五右衛門を称したらしいとの記載があります。
原田孫十郎のこれより前の経歴については不明です。
嬉しいことに原田五右衛門はHPでも見かけることが
できました。
[10] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月10日 08時04分18秒 ) | パスワード |
鈴木さん
あらら
ごめんなさい。
秋田の八郎潟とか男鹿半島とか能代とか
あのあたりの浅内ですか。山本郡の?
常陸についていかなかった、ということは
やはり土地の豪族だったんでしょうかねえ。
浅内村や、植林に尽くした原田五右衛門や、その先祖の原田孫十郎について調べたいということで
県の教育委員会の歴史編纂課より中世や近世の史料を頂いてはいかがでしょう?
かなり具体的ですから県の教育委員会も返信し易いと思います。
[11] | 鈴木さんからのコメント(2008年10月10日 21時02分03秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラーさん、こんばんは。
浅内は以前は山本郡だったたらしいですが現在は能代市に
なってます。(私が物心付く頃には)
原田五右衛門は床屋でした。
五右衛門の先祖の孫十郎は、原田将監とともに実季の家臣で鉄砲衆ですが
両者の関係は不明です。
又、調べてみます。
[12] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月11日 01時47分01秒 ) | パスワード |
>浅内は以前は山本郡だったたらしいですが
これなんですがね
「山本郡」というのは九州にも2箇所あって
それこそ「原田家」関係ということなんじゃないかと想像しています。
そして「山本」ということで
日本人の死生観を決定した(武士の死生観ですけど)「葉隠れ」の作者が山本某ということで
非常に繋がりを感じるのです。
朝内という名前も珍しいでしょ?
地域限定というか。
わたくしは岩手の朝内かと思いましたから。
古代〜中世〜近世と探る必要がありそうですよ。
明治の初めの御先祖さまの除籍謄本を是非御自分からお1人お1人遡って取得なさって
明治の初め(つまり江戸時代)にどこに住んでたか
そして一族の皆さんがどの辺りに住んでたか
どういう家と婚姻を結んでたか
調べてみてください。
[14] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月11日 08時17分08秒 ) | パスワード |
「葉隠れ」は肥前の山本常朝という武士の思想を纏めたものだそうなんですが
山本郡のある九州の土地の1つは肥前だったと記憶してるんです。
その上、名前に「朝」がついてますしね
あれ?
と思ったのです。
我が家にも「山本」という旧士族の親戚があって
そこの子供が「あさちゃん」って言うんですよ。
この親戚が古田織部に非常に絡んでまして
この古田関係が宮城にいらっしゃるのだったかな?
それで「見えない糸」の端っこが見つかったのを感じるんです。
[15] | 鈴木さんからのコメント(2008年10月12日 21時13分47秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラさん、又、こんばんはです〜〜
山本郡というのはかなり広範囲だったと記憶してます。
現在もまだ存在してますが、私の母の実家も山本郡ですし!
調べたいのですが、除籍謄本というのはやはり地元に出向いて
取らなくてはいけないものなのですか?
すみません、普段あまりそういったものは手続きしたことが
ないので無知です〜〜
それと私の実家は原田五右衛門から分家として分かれた
家なので・・・・・
歴史資料は頂くことが出来ると思いますが。
[16] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月12日 23時59分56秒 ) | パスワード |
除籍謄本の取り方は御自分で取得するとなりますと時間はかかるしお金はかかるし
役所でお訊きになる方が良いと思います。
歴史資料は郵送でもお願いできますしね。
取り敢えず電話ででも問い合わせてくださいね。
[17] | 鈴木さんからのコメント(2008年10月21日 09時35分13秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラーさん、おはようございます。
アドバイスありがとうどざいました。
歴史資料を取り寄せて読んでみました。
その結果下記のようなことが解りましたので記します。
「あきた苗字と家紋」・丸山浩一・秋田魁新報社(p313)より
原田(はらた・はらだ)
全国第六十八位(佐久間ランキング)で原さんよりはやや少ないが百位以内の多姓に入る。本県でも八八七世帯・県ランク第四十八位と多い苗字。
分布は本荘氏市五二、五城目町六〇、男鹿市一四二、能代市一六六、二ツ井町三二、羽後町八四。大別すると由利地方、男鹿、能代のコース、県南の羽後町に固まっている。
本県の戦国期には安東実季家臣に原田将監があり県北に居住したようだ。また西馬音内小野寺氏家臣に原田佐渡守、新右衛門、仁助など数流の原田姓がみえる。近世に入ると秋田藩士や本荘藩士に。佐竹氏家臣原田氏は湯沢の南家に仕えた系と、芦名氏旧臣から角館の北家に仕えた系がある。
緒家とも古い時代は不祥だが、全国の原田氏族を眺めると既に四世紀頃の古代氏族に中国の後漢霊帝子孫という大蔵氏があり、その一族のうち福岡県の原田郷に住んで原田氏を称した系統がある。後世、北九州の豪族で、山口県のほか愛知県にも移っている。山形県尾花沢市に中世土豪原田氏があるが、奈良期の将軍の将軍大野東人が道路を建設したとき都から原田真人(まひと)が随従し、そのまま土着した子孫と伝えている。伝承だが奥羽にも前述の古代原田氏が入国したことを示唆している。そのほか静岡県に藤原南家工藤氏族もあるが、それぞれ各地の原田の地名に由来している。例えば山形県川西町に戦国期の原田館があり、後に仙台藩家老で伊達騒動で有名な原田甲斐が出た。本県緒家も各地からの移動によろう。
紋 梅鉢、丸に銀杏、丸に銀杏、丸に三つ柏、五本骨扇、抱き杏葉、揚羽蝶、九曜、角九曜、五三桐、笹竜胆、丸に木瓜、二つ雁、剣花菱
と記されています。「伝承だが奥羽にも前述の古代原田氏が入国したことを示唆している。」とありましたがここがきになりました。
[18] | 鈴木さんからのコメント(2008年10月21日 09時49分22秒 ) | パスワード |
又、「能代市史稿 第五輯」能代市史編纂委員会〜
原田五右衛門
日本海に浮動した怪雲は強風を孕み、強風は砂塵を捲いて天地晦冥吹き来り飛び来つて森を埋め、田を埋め、果ては家屋さえ埋めるの惨状!村民はどうして此の脅威を傍観されよう。三度の食事を一度に減じてもこれが防止に盡さねばならなかった。これは正徳年中(元年1711)の前後2百数十年間に亘る本郡海岸一帯の実状であった。殊に南北に走る一直線の長い海岸を有する我が郷土浅内はその甚だしいものの一つであったことは言を要しない事である。
宝暦五年(1755)の頃我が郷土の肝煎役は、浅内は原田五右衛門氏で河戸川は大塚甚十郎氏であったが、共に一村の長としてその保安上防砂工事に畢生の力を傾けたのであるが、大塚甚十郎氏のことについては後にし、此処では主として原田氏のことについて話すことにしよう。
原田氏は浅内村浅内の人で同部落の開祖である。宝暦五年頃の五右衛門氏一村の肝煎役を勤めたが、勤險力行茲善の情に富み細民の救助に意を盡したので人々心服してよくその命に従って出精したとのことである。しかも一村保安のために全力をあげて海岸砂留工事に盡し八郎右衛門(野呂田)等と協力、自費を以て松苗木を仕立て之を植栽したのであるが其の功頗る多かったので屡屡藩より行賞され、又沼田村飛砂防魚指図役や砂留取締役を命ぜられたが皆能くその職責を果たしたとのことである。
その子五郎兵衛門は、曾孫五右衛門又肝煎役として克く父祖の志を継いで砂留のため松苗の・植に盡した功績は左の旧記を読んでも知られることである。
とありました。
[19] | 鈴木さんからのコメント(2008年10月21日 09時56分41秒 ) | パスワード |
浅内村は以前は山本郡朝内村ですので、
「原田氏は浅内村浅内の人で同部落の開祖である」と記されているのが
とても気になってます。
それから
郷土史の窓〜能代湊・檜山周辺史話〜長岡幸作(P142)
(七)植林御三家
浅内・河戸川地区の海岸砂防林初期の植林功労者御三家として、浅内本村の原田五右衛門家、福田村の野呂田八郎衛門家と河戸川村の大塚甚十郎家があげられるが、それぞれの業績、由緒について検討してみたい。
@ 原田五右衛門家
文禄元年(1592)檜山城主安藤実季の鉄砲衆に二十石原田孫十郎が記されている。慶長七年(1602)実季が常陸宍戸城主に転封され、実季に随従する者は百一人と少なく、家臣の大部分は土着帰農する者が多かった。原田氏も浅内村に土着し、代々五右衛門を称したといわれている。
しかし、原田家では宝暦四年(1754)すでに肝煎(きもいり)「庄屋」をつとめ、松苗の植栽に初めて着手した五右衛門を初代としている。
原田家は野呂田八郎衛門や長五郎とともに四代五右衛門喜助は、約三十町歩の松、杉雑木の苗圃を作っている。明和七年(1770)七月には1人扶持、苗字帯刀を許され、天明三年(1783)七月、文政一二年(一八二九)六月にも、それぞれ藩主から行賞を受け、文久三年(一八六三)十月には、米十石と一二〇両を秋田藩軍事事方へ献納している。
海岸一帯の植林について、当初、黒松、グミの木、ネムの木、ハマナス、柳、カヤなどを植え付けたが、ほとんど失敗し、苗木に張り芝を施して、ようやく成功したと記録されている。寛政年間(一七八九)−1801)にかけて原田五右衛門は目名潟村から沼田村(現峰浜村)にわたって郡方砂留取胆役を藩主から命ぜられ、水沢村肝煎の銭谷庄蔵とともに海岸一帯に松苗を植栽し、自前の圃場松苗を多数援助している。その後、文政一二年(1829)には松苗十万本、雑木二千六百本余を南山本郡役所(森岳)に献上し、釜谷村(八竜町)には文政十三年(一八三〇)製塩用として「三百貫文と薪三百釜差上げ候」と記録されている。
文久三年(一八六三)には米十石と一二〇両を藩主に献上し、明治以降は七代粲(ゆたか)は村長(明治三十―四十五年)をつとめ、県会議員としても活躍している。八代恒八は明治四五年から大正五年まで村長をつとめ、その嫡男五十男(いよお)は最後の村長として昭和三十年四月、檜山町、鶴形、常盤とともに能代市との編入合併に尽力している。
[20] | 鈴木さんからのコメント(2008年10月21日 10時24分43秒 ) | パスワード |
調べてみて、歴史にも実家の家紋にも今まであまり関心がなかったのですが
九州の「原田家」の関係ではないかと想像してしまいました。
また、これ以上の情報収集は無理との事なので除籍謄本を取らなくては
ならないようです〜〜
以上の結果ですが、又、アドバイスいただけましたら嬉しいです〜〜
[21] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月21日 10時25分33秒 ) | パスワード |
鈴木さん
コピーをありがとうございました。
史料を読んでいてゾクッとした所は御先祖さまに関係がおおいにありそうですね。
古代原田氏のことが分ると良いですね。
その場合は福岡県に古代の原田氏の史料をお願いしたら良いですね。
そして岩手にも浅(朝)内エリアのことで史料を取り寄せてはいかがでしょう。
原田家は地元のために大変な貢献をなさったのですねえ。
驚きました。
>海岸一帯の植林について、当初、黒松、グミの木、ネムの木、ハマナス、柳、カヤなどを植え付けたが、
>ほとんど失敗し、苗木に張り芝を施して、ようやく成功したと記録されている。
読んでて涙が出てしまいました。
御先祖さまの苦労を偲んでお祀りなさいましたらきっと見守ってくださいますよ。
どういう形かは分りませんが
先祖の名誉や苦労を子々孫々に語り継いでいけば
きっと力をくださいますよ。
五十男さんのお孫さんは御存命でしょうね。
お会いできる機会があったら良いですね。
[22] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年10月21日 10時31分54秒 ) | パスワード |
除籍謄本は
わたくしの場合は1代1代遡って取っていきました。
これは時間もお金もかかります。
該当の役所に
遠くに住んでいるからとおっしゃって
どうやったら除籍謄本が取得できるのか電話ででもなさって方法を訊いたら良いですね。
取得理由としては「先祖供養」とかね。
ムカシの戸籍って大家族制でしたからいろいろな知らない人の名前も載ってて
いろいろ読めますよ。
悲しいことまで。
でも、供養になりますからね。
[23] | 鈴木さんからのコメント(2008年10月21日 10時51分27秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラーさん、
お返事ありがとうございます。
アドバイスいただきましてとても嬉しいです。
又資料収集してみます。
[24] | 鈴木さんからのコメント(2008年11月04日 21時46分58秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラーさん、こんばんは。
福岡に歴史資料を依頼して手元に届きましたが難しくて・・・・
私がネットで検索して得た情報と同じようなものでした。
で、原田家の本家に電話で尋ねてみたところ、原田孫十郎は
茨城県から秋田に移動したとのことです。
これってなにか手がかりに繋がりそうですか?
それと原田五十男のお孫さんは私の幼いときの同級生かその親御さんに当たますね。
[25] | 鈴木さんからのコメント(2008年11月04日 21時50分10秒 ) | パスワード |
↑親御さんにあたりますね。の入力ミスです。
それから除籍謄本を近日中に取ろうとおもいます。
[26] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年11月05日 01時15分16秒 ) | パスワード |
>茨城県から秋田に移動したとのことです。
知人も茨城から秋田に主君の転勤で(笑)移動したと言ってました。
友人宅は佐竹の殿さまに従って移動したと言ってました。
茨城県も調べなきゃいけませんね。
笑
人間は移動しますか厄介ですね。
笑
除籍謄本はホント最初に取得しなくてはね。
これで明治時代の御先祖さまが住んでた所がハッキリ分かりますから
これから江戸時代に住んでた所がだいたい分かりますね。
武士の場合は(浪人や旧豪族も)
明治維新で戦国時代やその前の時代の祖国(笑)に戻るということもありましたし
ホント人間ってややこしいですね。
とにかく資料を読み込めばピンと来たりします。
ムカシは自由恋愛じゃないですから
結婚はいとこ間とか遠い親戚とか昔の仲間の間でやってましたから
どういう名字の人とお付き合いがあったか分かりますし
そうしますと現在ワタシ達を取り巻く人間関係も新しく見えてきますしね。
これからお正月や来年のお彼岸お盆にかけて御一族と旧交を温められると良いですね。
[27] | 鈴木さんからのコメント(2008年11月05日 08時02分37秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラーさん、
おはようございます。
やはり佐竹氏について秋田にいったのでしょうか。
孫十郎は水戸から移動したとの事なので・・・・
福岡の資料で原田氏を見て驚いたのは
私の育ったところでは「ハラダ」を「ハラタ」と読んでいました。
資料にも「ハラタ」となっていましたので、んって思いました。
貸し出し禁止の資料の複写を送ってもらいましたが
これから又じっくりと読んでみます。
ご助言ありがとうございます。
[28] | 鈴木さんからのコメント(2008年11月15日 00時33分21秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラーさん、こんばんは。
私の先祖について今まで調べて事を書いてみることにしました。
初めて此処へお邪魔させていただいてから、暇潰しのギャンブラーさんのご指導のもと、
手探りでしたが、少しづつ辿ってみました。
私が自分の先祖に興味を持ったのは12年前父が他界したときに始まりました。
私は現在千葉県の佐倉市に住んでいます。
田舎(秋田県能代市浅内)には原田家のお墓が現在も残っています。しかし、実家は三人姉妹でそれぞれ結婚をし他家に入り、
田舎のお墓は叔父に委ね、父の入るお墓を私の住む佐倉に作りました。(長女なので)
その時のことです。現在の佐倉市の市長『蕨 和夫』さんが
「平家ですね!」とおっしゃいました。その時までそんなことを言われたこともなく
又、実家の家紋すら興味がなかったので知ろうともしなかったのです。
そして、「秋田にどういった経緯でご先祖様が住み着いたのですか?」と聞かれ私は
「分家なので、全くわかりません。」と答えることしか出来ませんでした。
それから、蕨さんが、「すぐ側に平家の御子孫のお墓が有ります。是非ご覧になって下さい。」
と蕨さんに言われて見に行ってみました。
歩いて2分とかからないところに『平さん』のお墓が有ったのに本当に驚いてしまいました。
お墓の家紋が実家と同じ家紋の揚羽蝶でした。
丸で囲まれていたかどうかは覚えていませんが・・・
それからずっと今まで
どうして実家が平家と同じ家紋なのって気になっていましたのでこのHPを知ったときには
もしかしたら少しでも先祖に近づけると思い投稿した次第です。
(蕨さんも平家の御子孫だそうです。)
[29] | 鈴木さんからのコメント(2008年11月15日 00時34分23秒 ) | パスワード |
先ず、名字のパターンを調べてみました。
大別すると
★@地名型 A姓氏型 B瑞祥佳字型 C先祖の事績 D古代姓氏 E商業型(屋号も)
F合成型(姓氏や地名の一字を取って組み合わせる) G信仰型(仏教・神道・民間信仰に関連) H当て字型 Iその他
と有りましたが私の実家はどれになるんだろうって考えてみました。
@かAまたはDもありでしょうか?
そして、
★家紋から同族団の関係や姓氏の由来ほかが考えられ、家紋の役割も無視できない。姓氏研究は名字・地名・家紋を三位一体とする。
先ず、自分の名字から発祥地や由来を考え、家紋を補完とし、地方史研究を進めるのが定番である。
とありました。
原田孫十郎は、本家に聞いたのですが茨城県の水戸から秋田に移動したようです。
原田将監とともに「安藤(東)実季家臣団ー素材編ー」に記載されていました。
郷土史の窓
能代湊・檜山周辺史話
長岡幸作(P142)
@原田五右衛門家
文禄元年(1592)檜山城主安藤実季の鉄砲衆に二十石原田孫十郎が記されている。
慶長七年(1602)実季が常陸宍戸城主に転封され、実季に随従する者は百一人と少なく、家臣の大部分は土着帰農する者が多かった。
原田氏も浅内村に土着し、代々五右衛門を称したといわれている。
と記載されていますが文禄元年には安藤実季の家臣になっていたのですから
それ以前に秋田に入国したのでしょうか?ここで疑問が生まれてしまいました。
又、
秋田県の戦国期は小野寺氏や浅利氏の滅亡、安東・戸沢・六郷ほか諸氏の国替、佐竹氏の新入国などで一変し、
家臣たちの去就にも影響を与えた。旧戦国大名家臣で佐竹氏に仕官した人たちは系図に「先祖知らず」と書く。
新領主の前では過去を隠さざるを得ないこともあろう。資料の隘路とともに系譜的な空白ができた背景だが、
そのほか隣県の戦国状況に照らしてルーツを考えねばならない。
とありましたが原田孫十郎もそういう環境にあったのかと疑問に思いました。
次に佐竹氏を少し調べてみたところ、
★戦国時代になると、佐竹氏第15代当主で「中興の祖」と呼ばれた佐竹義舜が現れ、山入氏を討ち、常陸北部の制圧に成功した。
しかし、相変わらず江戸氏は不穏な動きを続け、また関東の制覇を目指す北条氏の侵攻などもあって、常陸統一は非常に困難な状況にあった。
佐竹義舜の曾孫で、佐竹氏第18代当主の佐竹義重は「鬼義重」の異名をとる名将であった。
義重の時代に、佐竹氏は江戸氏や小田氏などを次々と破り、常陸の大半を支配下に置くことに成功し、佐竹氏を戦国大名として飛躍させた。
北条氏とは天正12年(1584年)に沼尻(現在の栃木県下都賀郡藤岡町)で対決した(沼尻の合戦)。また、奥州南部にも進出し、
白河結城氏を下し、石川氏、岩城氏などを影響下に置き、三春城の田村氏と対抗する中で奥州国人の盟主たる地位を確立しつつあった。
このため、義重の正室の甥にあたる伊達政宗と対立し、義重は蘆名氏や二階堂氏、岩城氏らと同盟を結んで、
奥州覇権を狙う政宗と天正13年(1585年)人取橋(現在の福島県本宮市)で対決した(人取橋の戦い)。佐竹方は3万の大軍を率い、
伊達方の10倍近い兵力を以ってこれを攻め、伊達方に多大な被害を与えたが、一夜にして撤退を余儀なくされ、
結果として伊達方の奥州覇権を強める契機となる。
しかし、佐竹義重は戦国時代を通じて領国を拡大し、子の佐竹義宣の時代には豊臣秀吉の小田原の役に参陣して、秀吉の太閤検地の結果、
常陸54万5800石の大名として認められた(ただし、常陸国内でも土浦城、下館城一帯は結城氏の所領とされた)。
水戸城の江戸重通は小田原の役に参陣しなかったために所領を没収され、佐竹氏は居城を太田城から水戸城に移した。
慶長5年(1600年)、佐竹義宣は関ヶ原の戦いにおいて家中での意見がまとまらずに中立的な態度を取った。
戦後処理は翌年にはほぼ終了し、慶長7年(1602年)の3月には義宣は上洛し伏見城で徳川家康に拝謁している。
ところが、5月になると義宣は出羽国久保田(現在の秋田県秋田市)20万5800石(実高40万石)に減封の上で国替えを命じられる。
関ヶ原の戦いにおいて、家康を追撃する密約を上杉景勝と結んでいたことが発覚したためと言われている。
こうして佐竹氏は平安時代後期以来の先祖伝来の地である常陸を去った。
とあり、孫十郎は慶長七年(1602)に佐竹氏が入国した時期に浅内村に土着しています。
そして原田孫十郎は一村民となり農業をすることになったということかなって思いました。
[30] | 鈴木さんからのコメント(2008年11月15日 00時35分02秒 ) | パスワード |
能代市史稿 第五輯
能代市史編纂委員会
原田氏は浅内村浅内の人で同部落の開祖である。宝暦五年頃の五右衛門氏一村の肝煎役を勤めたが、
勤險力行茲善の情に富み細民の救助に意を盡したので人々心服してよくその命に従って出精したとのことである。
とあり、浅内村で代々肝煎役を勤めていたのもわかりました。代々同じ家が就任する世襲制だと知り、
その村のいわゆる豪農だったのではないかと想像していますが・・・
此処で疑問点が生まれました。
どうして五右衛門家(孫十郎の子孫)は肝煎役を命ぜられるまでになれたのかということです。
「原田氏は浅内村浅内の人で同部落の開祖である。」ということが関係しているのでしょうか?
次に原田姓と家紋について考えてみました。
なぜか大蔵氏原田姓と平家との関わりを切り離すことができませんでした。
ここでいろんな資料とかを拝見させていただいた中に
平民にもいろいろ身分差があり、戦国時代や江戸時代に同じ一族でも平民もいれば士族もいたこと。
江戸時代に大名は自分の家や家紋を幕府に申告したこと。
その他の身分の人でも土地のお役所に届けていたこと。
申請した名字や家紋を替えるというのはなかなか許されなかったこと。
主君の家の名前の文字は、下の身分の者は拝領以外勝手に使えなかったこと。
家紋は特に当時は意味が大きかったこと。
江戸時代に普通の人は「苗字帯刀」を許されなかった。
孫十郎は主君の名前と家紋を拝領したのかとも考えましたが・・・
先祖の除籍謄本を取って見ましたが、最古のもので秋田県山本郡浅内村浅内五番地とあり、前戸主養祖父原田五右衛門と
記載されていて明治五年本郡浅内村 平川三太郎 次男 入籍ス までは読めるのですが・・・
文字が消えかかっていて読みにくいです〜〜
明治初期、原田家は浅内に居住していました。
ながくなってしまいましたが、私の疑問点についてお答えいただけたら嬉しいです。
宜しくお願いします。
[31] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年11月15日 08時39分50秒 ) | パスワード |
佐倉でしたか。
やはり御先祖さまの御導きがあるんですよ。
千葉県の佐倉市といったら堀田家でしょ。
堀田といえば元は美濃というか
その後
お1人は尾張藩徳川家の今の後継者でいらっしゃるし。(養子に入ったのです。)
堀田家は元は当然徳川家と親しいし
それは南朝時代からの御縁だと思うし。
人間は移動するから、それに利害関係も起きるし、
でも初対面で何か相手に感じるというのは御先祖さまが反応してらっしゃるんですよ。
蕨氏のお話
ビックリでした。
背筋がゾクゾクしましたよ。
蕨さんの元は「和良比」らしいですね。地名から出ているんでしょうね。
蕨さんが平家というのは知らなかったです。
ま、坂東平氏、というのは分りますが。
ということは、平家に昔っから仕えてたということになるのかしら。
それか平家が上総から伊勢に行く前から和良比に領地をお持ちだったのかも。
蕨氏は鈴木さんにお会いになった時に ピン と来たのでしょうね。
[32] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年11月15日 08時55分34秒 ) | パスワード |
佐竹隆義という武将が平安末期の常陸国にいます。別名、太田四郎。
お父さんの佐竹昌義は平氏方だった。
お母さんは陸奥国の藤原清衡の娘。
腹違いのお兄さんは坂東平氏の1つである大ジョウ家を継いでて頼朝に殺された。
清盛にかわいがられた人で
頼朝の挙兵の味方をしなかった。
ここら辺にも原田家の秘密を解く鍵があるかも。
[33] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年11月15日 08時58分45秒 ) | パスワード |
平川三太郎さん
平家か平氏か
元々遠い親戚なんでしょうね。
それで養子にお入りになった?
[34] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年11月15日 09時02分44秒 ) | パスワード |
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100018.html
の3番目に平川姓が出てますね。
岡山(もろ平家!南朝方!)関連で。
ということは養子さんにお入りになった平川さんはやっぱり平家がらみなんでしょうね。
[35] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年11月15日 09時04分35秒 ) | パスワード |
今の日本人はみんな他人の関係になってて
知らない人
のつもりでも
800年前とか1000年前とか400年前は命も涙も血も共有してたんでしょうね。
[36] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年11月15日 09時11分43秒 ) | パスワード |
佐竹家も元は源氏なのに
いろいろあって
平家に味方し
ですから、そういう御縁で、九州の原田家からも佐竹に仕える人物が出た、
こんな流れなのかしら?
その人物から陸奥国にも動いた子孫がいた。
それも 源平時代〜戦国時代〜江戸時代〜明治へ と時代が流れたのでしょうかねえ。
[37] | 武さんからのコメント(2008年11月18日 02時32分07秒 ) | パスワード |
秋田県のページで原田氏を検索
http://www.pref.akita.lg.jp/
A288.2-453 原田氏系図
A288.2-2548 平姓原田氏系図
http://www.pref.akita.lg.jp/www/contents/1144384719545/files/mokuroku25.xls
[38] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年11月18日 13時10分06秒 ) | パスワード |
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100738_29.html
の29番目の書き込みに
「平川氏」の名字が出ています。
やっぱり、突然そういう名字の人が出てきて結婚するのではなく
昔々からの御縁と申しますか
先祖がらみで結婚するんでしょうね。
つい最近読んだ新聞記事で
平川さんとおっしゃる国立民俗史料博物館???の人が平安時代に関心がおありのようで
確かに御先祖さまは平安時代に関係していらっしゃるんだ〜
と納得してしまいました。
[39] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年11月18日 13時11分53秒 ) | パスワード |
7月10日の朝日新聞の「洪水が変えた平安時代」という記事です。
国立歴史民俗博物館の平川南館長さんでした。
[40] | 鈴木さんからのコメント(2008年11月18日 18時47分39秒 ) | パスワード |
武さん、初めまして。
お知らせありがとうございます。
早速行って見させていただきます。
[41] | 鈴木さんからのコメント(2008年11月18日 18時53分36秒 ) | パスワード |
暇潰しの』ギャンブラーさん、
お知らせありがとうございます。
さっきまで本家の・・私とはどういう関係になるのかはわかりませんが、
原田家の歴史資料が欲しいとおっしゃるので作ってました。
私の知らないことが短期で知ることが出来たのも此方に来させて頂いてる
おかげだととても感謝いたしております。
早速見に行ってきます。
[42] | 鈴木さんからのコメント(2008年11月20日 09時06分05秒 ) | パスワード |
おはようございます。
武さん、情報ありがとうございました。
原田系図と平姓原田氏の系図の複写を依頼しました。
[43] | 鈴木さんからのコメント(2008年11月20日 09時11分02秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラーさん、おはようございます。先ほど
本家と連絡を取りましたが、新事実がわかりました。
原田家は佐竹氏と親しい間柄だったそうです。
佐竹氏が原田家に訪れたこともしばしばあったとのことです。
そして佐竹氏の屋号を以前男の家屋の屋根につけてあったとのことです。
お墓には今も佐竹氏の屋号がはいってるとのことです。
これから仕事です〜〜
又、お邪魔させていただきます。
[44] | 鈴木さんからのコメント(2008年11月20日 09時12分20秒 ) | パスワード |
「以前男」は「以前」の入力ミスです。
[45] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年11月20日 11時12分43秒 ) | パスワード |
鈴木さん
佐竹氏の史料を読んだら原田氏のことが出て来ますでしょうね。
史料を集めまくることですね。
時期は平安時代から江戸時代まで読まなきゃいけないから大変ですが。
笑
[46] | 武さんからのコメント(2008年11月21日 03時15分16秒 ) | パスワード |
鈴木さん
手続きをされたようで、待ち遠しいですね。
系図は佐竹氏家臣の原田家系図のようなので(?)楽しみですね。
[47] | 鈴木 良子さんからのコメント(2008年12月04日 11時44分03秒 ) | パスワード |
おはようございます。
又、疑問点が発生してしまいました。
秋田の情報公開センターからの回答で
「『能代市史 資料編 中世二』P261 能代市史編さん委員会:編のP251 上段に「腹田孫二郎」という記載が
あり、経緯から判断して、これが「原田孫十郎」と思われます。P249 に記載さ
れている出典元であろう「秋田家文書」ですが、「秋田家文書」は、東北大学に原本があるということです。」
とのことです。
秋田県立図書館に調べていただいた結果、資料には孫十郎は1602年に浅内村に土着帰農した時には孫次郎(孫二郎)となっているそうです。
昔はこういったことがあったのですか???
それから「大蔵姓原田氏編年資料」を借りて見てみましたが
(なにせ漢文なので難しくて)
天文二十二年(1553)四月、王丸隆、原田隆種里城落去の時の手負人數を
毛利河内守に注申す。〜〜略〜〜
王丸兵庫允隆謹(シテ)而言上(ス)
欲(スル)早(ク)腸(リ)御橙證判(ヲ)備(エント)後代亀鏡(ニ) 軍忠(ノ)事
右、去十六日筑前怡土郡至(テ)原田弾正少弼隆種里城(ニ)相 動 (ハタラキ)落去之時節、従僕手負人數事備(フ)左(ニ)
とあり
天野源兵衛尉 矢疵一ヶ所
末松神五郎 矢疵一ヶ所
中原新兵衛 當石一ヶ所
藤 六 矢疵一ヶ所
新四郎 矢疵一ヶ所
与三左衛門 矢疵一ヶ所
中四郎 矢疵一ヶ所
孫次郎 鑓疵一ヶ所
新九郎 矢疵一ヶ所
与 市 矢疵一ヶ所
孫三郎 當石一ヶ所
天文廿貮年
毛利河内守殿
とありました。
この中の「孫次郎」は村民ですか?
それと佐竹氏はよく能代方面へ鷹狩りに出かけていたそうですが
その際に肝煎りのところに宿泊していたという新聞資料が残っているそうです。残念ながら名前までは載っていないとのことです。
[48] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年12月04日 12時18分47秒 ) | パスワード |
>資料には孫十郎は1602年に浅内村に土着帰農した時には孫次郎(孫二郎)となっているそうです。
>昔はこういったことがあったのですか???
はい。
昔は適当に字を使いますし
名前も簡単な文字を使ったりしますから「次」と「二」なんて非常に普通で
その上
「孫次郎」が「孫十郎」になるのはいくらでもあります。
誰かが「孫十郎」でその名前を継いだり
身分の上の人が「孫次郎」だったら遠慮して変えますしね。
今は戸籍法で名前を変えるのは大変ですが
うちの幕末〜明治の初めの人なんて何度も名前が変わってて
時々こんがらがってしまいます。
[49] | 鈴木 良子さんからのコメント(2008年12月04日 20時50分28秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラーさん、
お答えありがとうございます。
今、私の頭は混乱しています〜〜
なんと本家の家紋は「丸に揚羽の蝶」を亀甲で囲まれている紋でした。
そして分家である実家は「丸に揚羽の蝶」を亀甲で囲まれているのですが
更に亀甲の内側に細い線の亀甲で囲まれてるそうです。
父のお墓は『鈴木家・原田家の墓』にしましたので、お墓の家紋は鈴木家の
「丸に横木瓜」にし、お墓の周りを囲っている・・・なんていうのか忘れまし
たが・・・門の両脇に叔父に確認して『丸に揚羽の蝶』を入れてもらいまし
た。大きなミスをしてしまったようです〜〜
今まで調べてきたことが全部違ってしまうのではないでしょうか。
どうか亀甲で囲まれているわけを教えていただけませんか?
思いっきりへこんでしまいました。
宜しくお願いします。
[50] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年12月05日 08時56分09秒 ) | パスワード |
>従僕手負人數事備(フ)左(ニ)
>孫次郎 鑓疵一ヶ所
よく分かりませんが
毛利の殿様に
原田弾正少弼の従僕で負傷した人の報告をした記録
ということで
藤六以下は中原新兵衛と同じ「中原姓」なんでしょうか?
それとも中原新兵衛配下の部下になるのかしら?
こういうのって分り難いですね。
孫次郎もいるし孫三郎もいるし、どういう関係なんでしょうね。
分らないですね。
原田家から出た中原さんなのか、中原家の家来なのか。
感触としては中原家の一族みたいですしね。
足軽とか百姓でしたら、そのように何か書かれると思いますし。
原田家から出た中原家かも知れないですし。
ホント、分らないです。
[51] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年12月05日 09時00分04秒 ) | パスワード |
http://www.otomiya.com/kamon/animal/tyo.htm
に維盛は牛車に揚羽蝶紋を使用してたと書かれていますね。
そしてココには亀甲に揚羽蝶紋が出てますね。
[52] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年12月05日 09時17分19秒 ) | パスワード |
家紋のことは難しいですよ。
1家に1つじゃないですし
嫡流の家(本家とか宗家)は派手な装飾をつけたりしますし
庶家とか分家ですと遠慮してシンプルにしますし。
わたくしの母方もいろいろな紋があります。
ですから紋からは難しいですよ。
紋についても家に伝わるお話を尊重しませんとね。
亀甲は瑞祥を意味しますから、おめでたいから使いたい家は多いですし
特に出雲大社に関係があるんでしょ。
浅井長政は亀甲を3つ重ねて使ってましたし。
ただの「○」より亀甲の方が「瑞祥」ということで使ったのではないですか?
それか出雲関係に何かあったとか?
こういうのは御家のアイデンティティということですから
御当主しかご存知ないのではないでしょうか?
[53] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年12月05日 12時10分26秒 ) | パスワード |
家紋の件は石屋さんに相談なさってはいかがでしょう?
例えば ○ の部分を削って平らにして亀甲紋を接着剤でくっつけるとか?
プロのかたにお訊きしたら良い考えがあるかもですね。
[54] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年12月05日 12時23分17秒 ) | パスワード |
上にも書きましたが
漢字は今とは違って自由に文字を使いましたから
「二」と「次」が混乱してるってよくありますし
>資料には孫十郎は1602年に浅内村に土着帰農した時には孫次郎(孫二郎)となっているそう
「孫十郎」という名をどなたかに譲ったかも知れませんね。
「原田孫十郎」というのは御先祖さまから伝わる大切な名で
帰農した時に本来の「次男」だった時の「孫じろう」に戻したかもです。
母方の家系書にもそういうような使い方がありました。
ある時期何度も「きえもん」とか「よそべえ」とか代々名乗ったり元の名に戻したり。
それから写し間違いというのも多いですしね。
孫十郎というのをウッカリ思い違いして孫次郎にしたかも知れませんしね。
祖父ですが戸籍謄本を取得してビックリしました。
今はタイプされてますでしょ。
タイプミスで
祖父の名は「喜」び多い人だったのに「善」い人になってました。
それで戸籍係の人に「字が間違ってる」と言ったのですが
そのままにされてますから100年もしましたら間違った名前が正しいとされるのではと思います。
こんなものですよ。
墨の時代も活字の時代も間違いは多いです。
ただし
>今、私の頭は混乱しています〜〜
これは避けられませんね。
だって昔々のことですから。
[55] | 鈴木 良子さんからのコメント(2008年12月05日 12時30分20秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラーさん、お返事ありがとうございます。
↑HP見てきました。私の先祖とはちょっと違っていました。
原田家は亀甲の中に丸で囲まれた揚羽蝶ですので
今の家紋を亀甲(実家は子持ち亀甲というのですが)で囲まなくては
いけないので、今の家紋をそのままにして子持ち亀甲で囲んでもらうしか
ないです。
蕨さんが石屋さんなので相談しようと思います。
実家の家紋の紋様を知らなかったこと、そして軽い気持ちで電話で聴いて
作ってしまったことをとても後悔しています。
きっと先祖は自分たちのことを忘れないでくれと私に訴えて居たのでしょう
ね。私は今回いろんな事を調べてみて熱いものが胸にこみ上げてきて
しまいました。
[57] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年12月05日 13時00分29秒 ) | パスワード |
亀甲の中に○で囲まれた揚羽蝶ということは謎々みたいですね。
どういう事情で御先祖さまはそういう凝った家紋になさったのでしょうね。
でも、○の外に亀甲を彫れば良いみたいなんですか?
ラッキーですね。
蕨さんが石屋さんだったとは。
背筋がゾクゾクしました。
なんというタイミング?!
「子持ち亀甲」というのも初めてでした。
よくよく御目出度い紋になさってるんですねえ。
何か秘密がありそうですね。
御先祖さまが夢に出て来て複雑な紋の経緯を教えてくれると良いですね。
>実家の家紋の紋様を知らなかったこと、そして軽い気持ちで電話で聴いて作ってしまったことをとても後悔しています
しょうがないですよ。
細かいことなどちゃんと家書に記して残してくれないと子孫は迷子になります。
良かったですよ。
>きっと先祖は自分たちのことを忘れないでくれと私に訴えて居たのでしょうね。
ですね。
「ちゃんと将来の子孫に伝えていくように」とお願いしていらっしゃったのでしょうね。
>私は今回いろんな事を調べてみて熱いものが胸にこみ上げてきてしまいました。
これが御先祖さまとの交信ということでございますよ。
御先祖さまも満足なさっていらっしゃいますよ。
[58] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年12月05日 14時56分45秒 ) | パスワード |
http://blog.goo.ne.jp/okinori-kamon/e/aee353f34f14c62ad72d8287e21bcae7
「子持ち亀甲紋」というのを見てきました。
こんな感じで「親亀の上に子亀を乗せて、子亀の上に孫亀乗せて」?
原田家も子持ち亀甲ってこんな感じなんですか?
[59] | 鈴木 良子さんからのコメント(2008年12月05日 21時20分06秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラーさん、こんばんは。
早速見に行ってきました。
本家は一重亀甲で囲まれてる紋です。
分家である実家は相馬亀甲とありましたが他HPでは子持ち亀甲と
ありました。
ネットで見てみましたが亀甲に丸に揚羽蝶はなかったです〜〜〜
亀甲に揚羽蝶はありましたが桓武平氏の秩父氏流とか千葉氏流がありました。
[60] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年12月06日 01時02分18秒 ) | パスワード |
亀甲が2つ以上なら「子持ち亀甲」と呼ぶと書いてありますね。
では「親亀の上に子亀を乗せて」の方ですね。
ここらへんに意味がありそうですね。
「親よりも繁栄するように」との願いがあったのかしら?
そして「揚羽蝶」というのは今の紋白蝶とか紫揚羽蝶とかそういう意味ではなく
「羽を上げて止まっている蝶々」という意味だそうですね。
上に書きましたが維盛さまの紋は「車に揚羽蝶」だそうで
こういう流れで作ったのかもですね。
維盛さまの「車」というのは家老の平家貞の息子の家長の紋(車に矢)から作ったのだろう
と想像が行きます。
ということは原田家の亀甲に揚羽蝶というのはそういう流れのアイデアから?
と想像が行きますが
なんで亀甲?とココのところが出雲大社との関連から?と回帰していきます。
で、亀甲と桓武平氏の関係で捜しましたら
良文流遠藤氏というのが「三つ盛亀甲に花菱」と出ていました。
それこそ「相馬亀甲」が下に2つ、上に1つ、重なったものです。
原田家の子持ち亀甲の中に花菱が入ってるのが3つ、という形です。
「相馬」といえばアッチ方向ですものね。佐竹さんの御近所(笑)。
ですから何らかの意味があってそういう家紋にしたという御先祖さまのお考えがあったのでしょうね。
原田氏と平家との関係
さらに
原田氏と佐竹家との関係
なんか意味が込められているというのが浮かんできませんか?
当時は誰もがスグに分ったのでしょうね。今では謎ですが。
ロマンが広がりますね。
御先祖さまが「早く謎を解いてご覧」と笑っていらっしゃるような。
[61] | 鈴木 良子さんからのコメント(2008年12月06日 17時03分49秒 ) | パスワード |
こんばんは。
本家の方から電話で確認を取りました。
本家の方もかなりの年配なので記憶が混じってしまてたようです。
亀甲に丸に揚羽の蝶の紋ではありませんでした。
原田家の家紋です〜〜
http://beauty.geocities.jp/ryouko10162001/newpage1.htm
私の母も自分の家の家紋がどれをお墓に入れているのか
定かではなかったのでほんとに困ってしまいますね!
で、親類に尋ねてみました。
原田家では本家が「一重亀甲に揚羽の蝶」と「丸に揚羽の蝶」を使用でした。
分家は「子持ち亀甲に揚羽の蝶」と「丸に揚羽の蝶」を使用しています。
[62] | 鈴木 良子さんからのコメント(2008年12月06日 17時08分55秒 ) | パスワード |
以前は「丸に揚羽の蝶」を使っていた時期もあったとのことでした。
親類から聞いて長いこと箪笥から出してなかった着物を出してみました。
若い頃から着物は着たことがなかったので家紋もろくに見ていませんでした。
留袖に「丸に揚羽の蝶」の紋がありました。
紋付なんて結婚してから一度も着てなかったです〜〜
[63] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年12月06日 23時02分25秒 ) | パスワード |
家紋は本当にややこしいです。
父方のホンヤさんが教えてくださったことからでは
「○がついてるのは武家出身ということ」
でした。
○がついてるから全て武家系かと言えばイロイロでしょうし
○がついてないから武士じゃないというのもイロイロでしょうし
また「女紋」というのもありますから
留袖の家紋は「女紋」かも知れませんしね。
わたくしは母方の女紋を着物につけています。
菊です。
父方の女紋は知らないです。
こういう感じでハッと気付けば父方の女紋は何だったのか?
父の母親(=わたくしの祖母)の紋は里の方の紋で、それも女紋でしょうしね。
こうやって家紋はゴチャゴチャ度が高いですから
「当たらず遠からず」
だったようですね。笑
本当に家紋は1家に1紋じゃないですから
いっそのこと、使用紋全てお墓に彫って頂く、というアイデアも良いかもですね。
[64] | 原田さんからのコメント(2008年12月07日 18時34分18秒 ) | パスワード |
鈴木さんはじめまして、原田(ハラダ)と申します。
私の家も「丸に揚羽蝶」です。場所は山梨県です。
丸に揚羽蝶紋の原田家が多くあります。
秋田県「亀甲に揚羽蝶」の原田氏は『都道府県別 姓氏家紋大事典』
では「大蔵氏」と記されています。参考にした文献などはわかりません。
鈴木様の書込みについて私なりに考えたこと
>慶長七年(1602)実季が常陸宍戸城主に転封され、実季に随従する
者は百一人と少なく、家臣の大部分は土着帰農する者が多かった。
原田氏も浅内村に土着し(以下省略)
秋田原田家はまず安藤実季に仕えて、その後に佐竹氏と関係を強めたの
が文献から明らかですので(他から移ってきたのは正しい伝承としても)
茨城から移ってきたというのは佐竹氏との関係でそのように伝えられた
のではないでしょうか。
私が山梨ということもあって、鈴木さんの情報で特に興味をもった箇所は
>檜山城主安藤実季の鉄砲衆に二十石原田孫十郎が記されている。
この安藤実季には武田重左衛門という家臣(本館城主)がおり、甲斐
武田勝頼が滅んだ後、甲斐から逃れて安藤実季に仕官した話があるよう
です。
参考:武田重左衛門の城 山本郡八峰町八森本館
http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/hatimori/mototate.html
甲斐から逃げて安藤実季に仕官したという勝頼家臣・武田重左衛門、
その城があって後に土着したという山本郡に丸に揚羽蝶の原田家が
あるということで大変興味深く読ませていただきました。
ここからは大胆な仮説をひとつ
安藤実季の頃より前が不明というのは、その頃に他国から来たためで、
武田勝頼が没したのが1582年、安藤実季の鉄砲衆二十石原田孫十郎は
92年に名前が見える、96年に実季が武田重左衛門を城(本館)に配置
したということから、勝頼が敗れた後に、武田重左衛門らと一緒
に逃れて共に仕官したという想像も膨らみます。
家紋については、分家すると丸をつけるなど複雑になる傾向がみら
れるそうなので、鈴木さんのご実家が分家して、本家の紋に亀甲を
重ねたのもその例です。また一般的には丸を付けるので、丸が付い
ている家紋の分家として亀甲を用いたとか。
そのように考えると、丸に揚羽蝶→丸に揚羽蝶から亀甲に揚羽蝶に
変更(秋田原田家)→分家して亀甲を重ねる(鈴木さんのご実家)
というように、複雑になっていったなどと想像が膨らみます。
あくまでも想像上です。
(アドレスはスパム対応で記述しておりませんご了承ください)
[66] | 鈴木 良子さんからのコメント(2008年12月08日 16時23分34秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラーさん、こんにちは。
そうですね。全部彫っていただくのもいい考えでしょうね。
本家に聞きましたら丸に揚羽蝶でも間違いではないので
そのままでもかまわないと言ってくれましたので
もうちょっと考えてみます〜〜
山梨の原田さん、初めまして。
貴重な情報ありがとうございました。
「八森」・・・懐かしい地名です〜〜
私の先祖は漢字は忘れてしまいましたが土着したのは『フナザワ』〜(ソウゼ
ンモリ)これも漢字を忘れてしまいました〜方面です。
その後、浅内村に住み着いたとの事です。
浅内は、浅内本村、中浅内、浜浅内、そして黒岡、福田、石町など・・・があ
ります。浅内には私の先祖の原田一族が多く住んでいますが、「原田」だから
といって全部が私の身内ではありません。これもふしぎですね。
山梨の原田さんとは同じ血が流れているのかもしれないと思うだけで
体が熱くなってくるような気持ちになりました。
ほんとうにありがとうございました。
[67] | 原田忠昭さんからのコメント(2011年09月10日 16時36分30秒 ) | パスワード |
鈴木さん
私は、貴女の祖父様の小太郎の兄である忠五郎の孫です。先週 平成23年9月7日に能代の西福寺のご本尊様にお参りをし、祖父母の御墓を掃除して、お墓参りをしてきました。帰り道の「景林町」で、「景林」の名字が出てこなくなり、気になってインターネットで調べていたら、思いがけなく、先祖の五右衛門に当り、更に、鈴木様に当りました。徳三さん 懐かしいお名前ですね。当時、能代の我が家によくお立ち寄りになっていらっしゃいました。もう20年も前でしょうか、御墓を東京の方へ移そうと思って、西福寺へ行ったのですが、先代の住職が、積まれた過去帳の中の一冊の1600年の最初のコラムを指さして、「これが貴方の先祖です」この寺と原田の繋がりは…と言われて、何も言えないで帰って来ました。西暦1600年に何代目(すみません忘れました)かの原田五右衛門が亡くなって、多分、今の能代に埋葬された事は確かではないかと思われます。貴女の、何かの足しになればと存じます。また、お互い「のしろの百人」にも選ばれている、立派な人を先祖に持つ者として、少しでも良いことをしたいものですね。
[69] | 鈴木 良子さんからのコメント(2011年10月23日 05時38分51秒 ) | パスワード |
原田忠昭様、お知らせありがとうございます。
お返事大変遅くなってしまい申し訳ありません。
父は忠昭様のお宅に立ち寄っていたのですね。
祖父や父のことをご存知の方を知ることが出来てとても嬉しく思います。
西福寺へは法事で行ったことがありますが、若かったのでお寺の名前すら
覚えていませんでした。(恥・・・)
私も「のしろの百人」に選ばれている先祖のことを知ることができて本当に良かったと思っています。
身内の方からのコメント本当に懐かしさ(お会いしたことはないかもしれませんが)がこみ上げてきています。
本当にありがとうございました。
[70] | 原田さんからのコメント(2015年01月23日 10時42分30秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2015年02月15日 15時31分51秒
[71] | 浅内の原田さんからのコメント(2024年08月14日 19時04分24秒 ) | パスワード |
こんにちは。
最後の投稿が13年前ですので、こちらにコメントして今でも見ていただけるか、半分博打のつもりで投稿致します。
web上ですので詳しく身の上を明かすことは控えますが、私は鈴木さんのご尊父・徳三さんの甥の一人、つまり貴女のいとこに当たります。
訳あって祖父・小太郎について調べていたところ偶然にもこの掲示板と鈴木さんの投稿を発見し、取り急ぎコメントを書いている次第です。
ここまでの調査をされ、親族の大半が忘れかけていたであろう歴史を紐解いていった鈴木さんのご尽力に感激しております。
私もこの一族に連なる者として、自らの出自を改めて振り返るきっかけとなりました。
親族の高齢化も進み、地元に残る親族ももうだいぶ少なくなりました。
私から鈴木さんに色々とお伝えしたいこともありますし、また私が教えていただきたい事もあります。
何か連絡を取る手段があればいいのですが...
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