[1] | 永田さんからのコメント(2005年09月25日 21時50分27秒 ) | パスワード |
補足ですが、当家は幕末まで永田姓の他に山下姓を併用していました。
[2] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年09月25日 23時59分06秒 ) | パスワード |
永田さん
初めまして。
まったく分かりませんが
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100598.html
に 永田さん=長田さん のお話があります。
御一族かもですね。
[3] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年09月26日 00時07分56秒 ) | パスワード |
永田さんというのはいろいろ流れがあるそうですね。
代表的なのは
近江国蒲生郡長田村から佐々木氏族で長田が永田に変わったとありますね。
状況証拠からではココかしら?
でも平氏でなく源氏にってしまう?
尾張国愛知郡出身の永田氏は津島神社系で平氏?
ということは南朝方ですね。
とすると当然反織田信長か?
浄土真宗なら宗教的にも反織田信長みたいですね。
笑
三河国額田郡箱柳の永田氏は藤原氏?
他の方よりの書き込みに期待しましょうね。
[4] | 箱柳永田さんからのコメント(2005年09月26日 01時59分53秒 ) | パスワード |
お邪魔します 長田支流 箱柳永田です
丸に横木瓜(津嶋神社 社家の紋)
同属に丸に釘抜 この久琢(ひさあきら)家は近江源氏を詐称
信長の死後 秀忠に仕える
>三河国額田郡箱柳の永田氏は藤原氏?
我家はバリバリの平です(鎌倉期は源とか藤原を本家が詐称していました)
その結果、研究者も 永田は藤原だ と思っている
分家時に家紋も一緒に変えた効果が出ている
ご先祖様が、草葉の陰で高笑いしていそうで、、、忍び笑いかな?。
大橋、長田は有名な割りに未調査の家系です
(誰か調べてくれないかと切に願っております)
丸に抱き茗荷の永田様へ
初めて 丸に抱き茗荷の永田家を知りました 勉強不足ですみません。
(津嶋大橋系と良兼子孫の平氏は好い間柄ですので)
紋と苗字からは、長田の伊賀伊勢時代の分岐が考えられます
私の 直感では非常に近い家系と思います
近江源氏ですと一般的には4つ目結いのアレンジが多いです
参考の為に近州侍http://www6.plala.or.jp/gousyuu/index.html を
お勧めします。 佐々木哲氏が、力になって呉れると思います。
[5] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年09月26日 08時53分36秒 ) | パスワード |
箱柳の永田さん
さすが!(笑)
群馬の永田さん
もしかすると本姓と本紋の他に江戸時代あたりに登録した姓氏と家紋があり
江戸時代のいつぞかに復姓したり復紋してるかも。
わたくしの母方は家書によれば俗姓がいくつも書かれています。
江戸時代末期にやっと本来の姓に戻ることが許されましたが紋の方は許可になりませんでした。
永田姓と山下姓の2つあったということは我が家のような事情があったかもです。
多分江戸時代にその前の合戦で負けたために商人となり姓や紋を替えた可能性があります。
丸に抱き茗荷紋の他に使用なさってた紋が分かると良いですね。
わたくしの母方は大坂の役で敗れて落人になりその時に姓を変え紋を替えています。
お宅さまには南朝方だったという言い伝えはございませんか?
平家だったら南朝方だった可能性が大きいんじゃないかと思いますが
滋賀あたりだと佐々木源氏系を称した可能性もありますね。
(元に戻っちゃった、ごめん)
わたくしの母方の一族も「源氏方」だったことを「うちは源氏だった」と断定で語りますし
楠木正成と同じ南朝方で戦ったことから「菊水紋を使ってたこともある」と語りますし
ま、部分的には確かにそういう時もあったけれど
大筋では違う
というのをなかなか納得してくれません。
群馬の永田さんの一族の皆様が一同に会して御当家に伝わる話を披露し合うことが出来ると良いですね。
来年のお正月にもそういう機会が持てるように今から御準備なさってはいかがでしょう?
御一族の明治の初めの御先祖さまの戸籍まで遡って取得なさって
明治の初めにお住まいだった地域の皆さんにお手紙を出しまくってはいかがでしょう。
早くなさいませんと御存知の長老のかたが鬼籍に入ってしまわれます。
今回がその最後のきっかけになるかも。
[6] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年09月26日 21時08分00秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
永田は天下の大姓で異流も多く、系図も過去帳も無いとなると困難である。
また抱き茗荷紋は縁起が良いことから出自に関係なく広く使用されている。
参考情報として、
近江国蒲生郡長田邑発祥の宇多源氏佐々木氏流の政相系幕臣永田氏が、
抱き茗荷を定紋としている。
[7] | 永田さんからのコメント(2005年09月26日 21時34分35秒 ) | パスワード |
皆さん、貴重な御意見をありがとうございます。
言い伝えによりますと、当家は南朝方ですし、近江国蒲生郡長田村のナガタでないことは判明しています。(故人ですが、既に焼失した系図を見たことのある住職の話によれば、起源が桓武天皇で平姓の名前も載っていたとのことなので。まぁ、系図の信憑性がどのくらいのものかは分かりませんが、どうせ嘘の系図を作るなら源氏にするでしょうし。)
また、今は使っておりませんが、揚羽蝶の紋の変体で、桜の花で揚羽蝶を表現したものも使用していたそうです。(これも平家につながる?)
当家は一族の本家(小さな意味で)だったので、戦前までは近江に残った分家からお中元やお歳暮が届けられ、連絡も取り合っていたそうですが、戦争で音信不通となったので今では向こうがどのような状況なのか全く分かりません。
一応むこうに残した屋敷の登記証も残っているのですが、今や効力は無さそうです。
群馬に一緒に来た分家も、既に途絶えてしまっており、今群馬に住んでいる分家は昭和以降に当家から分かれたものだけの状態です。(群馬では永田姓は珍しいので孤立無援の一族です。涙)
戸籍調査は試みたのですが、群馬へ来た本人のものは無く、二代目からのものしかありませんでした。
・・・どうやら謎のままですね。
[8] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年09月27日 01時28分37秒 ) | パスワード |
群馬の永田さん
ということは本紋は桜に蝶かも知れませんね。事情があって抱き茗荷紋に替えた?
本姓は平氏で俗姓が永田→山下→永田と変遷?明治時代に永田姓で登録したということですね。
近江国蒲生郡日野町の町史というのが手に入ると良いですね。
滋賀県教育委員会あたりで編纂していると思いますよ。
近江商人の歴史は日本史上でも大切ですものね。
江戸時代に平氏だの平家だのを通したということはかなり骨のある御家だったと思いますね。
または源氏や藤氏に詐称が許されなかったという事情があったかも。
>>>>どうせ嘘の系図を作るなら源氏にするでしょうし。
と思います。
愛知県の津島神社関係の永田氏ですと平家+南朝方+反織田信長あたりでスッキリ収まりますね。
機会があって戦国時代あたりで滋賀に移ったというのも考えられますしね。
やっぱり頑張って除籍謄本をお取りになるのが良いですね。
御自分から遡って父上のを取って祖父上のを取って更に曽祖父上のを取って
1人1人直系の御先祖さまのを丹念に取っていくのです。
時間もかかりますけど。
江戸時代の終わりに生まれた御先祖さまのを取るのです。
それから登記証もお持ちでしたら家の所在地が分かりますね。
近江国蒲生郡日野町に永田姓の御家が見つかると良いですね。
系図ってけっこう写しをどなたかがお持ちという可能性もありますよ。
我が家は結婚の時に伯母が系図交換というのをやってるのでその時の写しが残ってます。
今でいう戸籍謄本の交換(見せ合いっこ)みたいなものだと思います。
でも系図は「見せてくれ」「あいよ」という簡単なことじゃないので(出して来るのも大変ですし)
それなりに相手に納得のいく手続きやらをしないと持ってても「ない」と断られるでしょう。
とにかく近江国蒲生郡日野町の永田家を捜して親しくなることが第1歩ですね。
昔のよしみを作り直さないと。
わたくしでも母方の系図の写しを手に入れるのに時間がかかりました。
大叔母が系図を持っているという話を子供時代にちょっと聞いてから30年はかかったと思います。
あちこちで断られ、持ってる筈の人から無いと言われ、空襲で焼けたという話も聞きましたし
そしたら母の姉が結婚の為に写してたという話が聞こえて来て手に入りました。
思わぬ人が持ってたのです。
一族を纏めるというのはお金もかかって大変ですけど
返信封筒を入れて皆さんに知ってる事を書き送って頂いたり
そういうのを纏めて、再び送って、返信に期待したり
1年に1度か2度御先祖便りというのを定期的になさったらその内に重要な話が聞こえて来ますよ。
[9] | 箱柳永田さんからのコメント(2005年12月25日 18時04分15秒 ) | パスワード |
抱き茗荷の永田さん
近江膳所で三代目永井本家が7万石を跡継ぎ無しで断絶しています。
原因 寛永寺で内藤某(浅野匠の叔父)に刺され死亡
家老に永田がいます(末期養子として永井を名乗る)断絶後永田に戻る
再興した永井は美濃加納に(永田は家老として再就職している)
この間5万石以上の差がありますので、あふれた人は(特に分家)帰農した可能性が高い。 もし似たような言い伝えがあればと書きました。
[10] | 熊本泉村の永田さんからのコメント(2006年08月03日 18時00分40秒 ) | パスワード |
初めまして
私も同じ永田姓です。
私の先祖は熊本県泉村の栗木という所に
住んでいたらしいのですがこの熊本県の永田姓のルーツは何処の誰なのでしょうか?
知ってる方は、ぜひ教えてください。m(__)m
[11] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月04日 01時42分31秒 ) | パスワード |
熊本泉村の永田さん
全然分かりません、どなたかが書き込んでくださるのを待ちましょう。
でも御自分で出来ることもありますよ。
明治の初めの御先祖さまの戸籍謄本(除籍謄本)をお取りになり
そこの住所の近辺にお住まいの永田姓の方が御親戚かも知れませんから
お訪ねになってはいかがでしょう。
永田家の総本家が見つかると良いですね。
また家系図・家書・家紋・菩提寺など話題に出して情報を頂きます。
明治の初めにお住まいのところは江戸時代に住んでた所でしょうし
また明治維新で戻った所=先祖の地=の可能性が高いです。
それから地元の教育委員会の歴史編纂課の作成した資料を取り寄せます。
古代から現代に至るまで調べてますよ。
大きな図書館にはある筈です。
もうすぐお盆ですから
御親戚の長老の方からお話を聞けると良いですね。
どこの家でも良く知ってる人や系図を持ってる人(それを知ってる人)がいます。
そういう人が見つかると良いですね。
[12] | 箱柳永田さんからのコメント(2006年08月12日 14時07分54秒 ) | パスワード |
>熊本県の永田姓のルーツは何処の誰なのでしょうか?
あまり役に立ちませんが、私の理解しているところで
1 文書では区別できない 血流に
A平氏長田(おさだ) B長田連(ながたむらじ)長田臣(おみ) の2つある 臣連は多数あり(血族関係は確認してません)
2 両長田は異属であったが、都へのパイプと現地での実力を統合する為
姻戚関係になることが、多かった。(源平藤橘に収斂する時代)
3 源氏の迫害により 長田から 永田や他田(おさだと読みます
臣連の時代よりある名です)他の姓を選択する
4 地形 開発者名(長田)の地名を 名乗る 新興領主が現れる
5 明治以後 永田の復姓 新姓が固定する
千年上がろうと思えば 20から30の長田のどこかに収斂する
しかし 2の状態を経てますので、平氏以外の文献は極めて少ない
3の状態を経て5に至る間の詐称、付け替えを精査するのは困難を極める
家紋を中心に遡ることをお勧めします
以上私の考え方です
幸い我家は四百年の物証と本家長田が碧南大浜に存在していたので
確認できました。
[13] | 鹿児島の永田さんからのコメント(2006年12月20日 23時55分45秒 ) | パスワード |
永田です。
家には鎌倉時代からの系譜があるんですけど
祖先は「長田」さんでした。
都落ちした平家だそうです。
ご先祖様は伊勢神宮の宮司さんだったようで
ヤタガラスのボロボロなオフダみたいのが家宝です。
ここにいる永田さんと何か繋がりがあれば面白いと思って
書き込んでみました。
[14] | 熊本泉村の永田さんからのコメント(2007年01月03日 00時10分11秒 ) | パスワード |
お久しぶりです。
さっそく親戚の方にいろいろ聞いてきたのですが
我が家の家紋は祖父の代でまったく別の家紋に変わってしまったそうです。
曾祖父のふるい写真がありますがその写真に写っている家紋も
怪しいです。(ちなみに木瓜紋でした。)
それから本家が見つかったので訪ねようとしたのですが
我が家と本家は敵対関係にあるようで(5年前にどちらが本家なのか争ったらしいのです)
結局、本家訪問は無理でした。。。。。
[15] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年01月03日 02時22分15秒 ) | パスワード |
熊本泉村の永田さん
>我が家の家紋は祖父の代でまったく別の家紋に変わってしまったそうです。
>曾祖父のふるい写真がありますがその写真に写っている家紋も
>怪しいです。(ちなみに木瓜紋でした。)
家紋は、今は、姓とは違って国の規制を受けないので
好きなのをつけたら良いのです。
とはいえ16弁の菊や葵の御紋をつけたりしたら世間が笑うでしょう。
でも、それ以外だったら、自由ですよ。
お祖父さまは御自分の思いから紋を替えたのでしょう。
そのお祖父さまの思いを尊重なさってあげてください。
曽祖父さまは木瓜ですか。
でも明治の初めあたりですよね。
ということは江戸時代にその紋を使っていらっしゃったのかもですね。
木瓜って名古屋には多いそうですよ。
織田信長絡みなのかな?と想像します。
もし御先祖さまが尾張出身なら合うけど。
>我が家と本家は敵対関係にあるようで(5年前にどちらが本家なのか争ったらしいのです)
これはよくあることですよ。
わたくしの母方でもいろいろあって私が引っ掻き回して母や伯母達の心象を悪くしました。
外野には関係無いから「どっちもどっち」なんですけど
当人達には重要な事です。
本家だ、総家だ、元祖だ
こういうのは「金銭が絡む」と余計こじれて裁判沙汰にもなります。
当人達には死活問題ですから。
熊本泉村の永田さんが気にかかるというのは
御先祖さまから「仲良くしろよ」とメッセージが来てるからなのかも知れませんね。
でも、こういう争いって仲良くしろと言われて簡単に出来ることじゃないです。
当事者が生きている間は、腫れ物には触れない方が良いでしょうね。
余計こじれますから。
暫く文献探しに精をお出しになるのが良いでしょうね。
熊本に永田さんとおっしゃるとても知的な御一家がいらっしゃいました。
熊本だったら平家関係か南朝関係か織田信長関係か。
1度尾張の知多半島なんか散策なさってはいかがでしょう?
内海とか野間とか
あのあたりは平安時代の長田家が支配してたエリアなので。
(当然源義朝が暗殺された所でもありますが)
このあたりに何か感じるものがあれば御先祖さまの地かも。
[16] | 箱柳永田さんからのコメント(2007年07月09日 18時52分55秒 ) | パスワード |
鹿児島 永田様
確認に時間がかかり 遅くなりました
大隈半島に 長田忠致の次男 致将が城を築いていた記録が有りました
山田城(やまだじょう)肝属郡南大隅町根占山本
治承-寿永年間1177-85
この人は平忠常の子息で 忠致の養子となり次男になっています
実父のお陰で粛清を免れたと思います
私見ですが
恐らく 壱岐の守 代理として壱岐の赴任し 統治をしたと思われます
その後 薩摩大隈へ 移動(長田の場合 航路で思考する必要あり)
幕府成立時に 守護地頭の与力? 家来?として土着したと考えていますが いかがでしょうか
忠致には愛知豊田 司町と 静岡浜松 和田町に居住の記録がありますので
壱岐にはいってないと思われます
長男は富士の北で共に戦死していますので 司か和田のどちらかで
恐らく忠致の近くにいたと考えます
お札について
長田の家では牛頭天王社や 熊野神社を祭っておりますが、神社の名前は
何でも良いのです(明治政府が統廃合したお陰で、小さな神社は名も無くなり大きな所でも 改名してますから)肝心なのは祭神が(スサノオ)の尊である と言う事です
熊野神社の遣いは カラスで 祭神の一人は スサノオですから
かなり (心情的に)近い所にいる方であろうと想像しているのですが
[17] | 箱柳永田さんからのコメント(2007年08月20日 12時59分08秒 ) | パスワード |
抱き茗荷 永田 を見つけました
お盆に長田忠致の4男後裔を名乗る永田家が
袋井市浅羽町諸井にあるという噂を確認するために出掛けました
この家が、神社に納めた十一面観音は明治に廃棄され
菩提寺の松秀寺が拾い上げ安置した事を浅羽の郷土館発行の
郷土史で確認しました
(箱は神社に 裏面に寄進者長田庄司名 郷土史写真より)
観音像は寺に有り 観る事が出来ました
後 子孫の方を尋ねあて再確認をしました(代々庄屋さんを勤めた家)
神社は王子神社でやはりスサノオ系でした
[18] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年08月21日 00時56分22秒 ) | パスワード |
良かったですね。
観音さまも無事に保護されてて良かったですね。
そして此処に書き込まれて
ホントに良い2007年のお盆になりましたね。
[19] | まいどさんからのコメント(2009年05月07日 23時03分55秒 ) | パスワード |
まだ誰か見てますか〜〜〜〜〜〜〜
うちは肥前国、佐賀の丸に抱き茗荷の永田です。
ちなみに日蓮宗です。
どなたか肥前で同系列の方いらっしゃいませんか〜〜〜〜〜〜〜〜
[20] | 後平さんからのコメント(2009年05月08日 01時43分09秒 ) | パスワード |
祖母が永田姓です。
祖母の先祖は明治時代に山形から北海道へ渡った様です。
[21] | 愛媛の永田さんからのコメント(2009年11月15日 09時03分06秒 ) | パスワード |
私の家も 抱き茗荷の永田です。
霊標を作成したいと調べていてこのページにたどり着きました。
伊達家の家臣で、宇和島藩に伊達家が来るときに一緒に来たとかなんとかと聞いたことがありますが、
真実かどうかはわかりませんが。
私もどのような先祖がいたのか気になっています。
[22] | 箱柳永田さんからのコメント(2009年11月18日 17時18分47秒 ) | パスワード |
(16)の致将は宮崎の内木場に城を築き、反源氏の勢力を集め戦い
残念ながら落城した模様です。地元の伝承では戦死ですが、長田の伝承では
高砂まで逃げています。 妻子は落ち延びたと思うのですが、
記録が見つからないようです。 致将は50過ぎですので、成人?した子供が
いても不思議ではありませんし、大隅山田城へ壱岐からの移住も娘婿の縁
ですので、十分考えられます。
役に立ちますかどうか、古い書き込みの中に、この様なのがありました。
<先祖を調べています:反田:石見:返田:大槻>の中より
(反田)そりちゃんの書き込みの一部コピーです。
宮城県の長田姓では、
○初代を弥兵衛とし塩釜神社左宮若子大夫で朱傘役を務めた家がある。
(中略)なお、南北朝期に足利一門の斯波氏の被官として越中国
などで活躍している長田氏がいる。同氏も、あるいは奥州官領の
斯波氏の被官として陸奥に来て、一宮の塩釜神社に送り込まれた
ものなのであろうか。
○岩沼市に八雲神社(通称天王様)の神職を継承する家がある。
承平元年(931)に尾張国から来住した長田出雲守隆忠を祖と
する。同家は尾張国長田荘司(桓武平氏)として同国津島の里に
あったが、隆忠の父隆光が兵禍を避け、一族郎党7人を引き連れ
長岡に土着。津島から祇園牛頭天王を勧請して同地の鎮守となし、
隆忠を祀職にしたと伝える。地域の開拓に励み、江戸時代には
長岡村の肝入役も務めた。
別のHPからですが
酒田 三十六人衆 永田家
粕谷家と同じく、永田家は三十六人衆のなかでも古参の方であった。永田家の
出自については明らかでないが、向う酒田時代、すなわち永田茂右衛門の代に、上林七郎左衛門や村井理兵衛とともに、年寄役をつとめていたといわれている。
永田家は、粕谷家と同様最上家の命により、年貢取立て役を請負っていた。「最上家古筆巻物」には、永田家あての亀ケ崎城主志村伊豆守光安からの書状や、酒井家入部元和八年(1622)の際に立ち会った、亀ケ崎城兵具類引継ぎ書類が含まれている。
他の(最上家関係)情報で三河出身らしいと書かれていたので少し調べた。
しかしながら、家紋までは到達できなかった。
これらの家と村上市の永幸酒店(永田 丸に木瓜)
(http://www.mu-cci.or.jp/jo/visit/vi312.html )
の繋がりを探そうと郷土史を読んだことがあります。
(本多の家臣団で移動した分家が岡崎で廃藩した時の藩士録に無いので)
<岡崎の郷土史収蔵は非常に充実しています>
幸運(私にとって)にも、本多家臣団の大リストラで土着した事が判り
(15万石→5万石、400人以上が解雇されたようです)
大方、私どもの一族であろうと思われます(系図の照合はまだです)
何かの参考になれば幸いです 箱永
[23] | 永田さんからのコメント(2010年09月21日 22時11分03秒 ) | パスワード |
祖母 永田 姓の先祖
http://www3.ic-net.or.jp/~shida-n/b_tokita/b_tokita_1_1.html#4
[25] | 木邑さんからのコメント(2011年01月14日 01時27分19秒 ) | パスワード |
「源義朝の最期」より転記 詳しくはそちらで調べてみて下さい。
平治の乱に敗れた源義朝は、東国を目指して落ち延びる途中、尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)で、相伝の家人長田忠致・景致父子の奸計によって湯殿で命を落とします。長田忠致は、義朝の乳母子・鎌田正清(政家、政清とも)の舅でもありました。
『平治物語』によって大筋を追ってみます。長田父子は、義朝に入浴をすすめて油断させたところを、だまし討ちします。平家の恩賞を受けるために義朝の首を都に持参し、忠致は壱岐守に、景致は左衛門尉に任じられます。しかし、それを不服として尾張国も賜りたいと繰り返し願ったため、平家からは相伝の主人と自分の婿を討った大罪人として、罪科に処すると脅されました。長田父子は恐れをなし、尾張国に逃げ帰ります。古活字本『平治物語』には、その時に長田が残した狂歌として、「落ち行けば命ばかりは壱岐守身のを終りこそきかまほしけれ」で結び、その狂歌の落ちとして次の話につなげます。長田父子は鎌倉に参上し、自らの罪過を訴えると、頼朝は勲功をあげれば罪を許し恩賞として美濃・尾張を宛がうと約束します。長田父子はこの約束に歓喜し、平氏追討に軍功をあげました。しかし平氏滅亡後、頼朝は約束通りに「美濃・尾張(身の終わり)」を賜うとして、長田父子を義朝の墓前において磔にします。長田の辞世の歌が、「ながらへて命ばかりはいきのかみ身のをはりをば今ぞ賜る」で、「身の終わり」は「美濃・尾張」にかけられ、「壱岐」は「呼吸(いき)」あるいは「生き」がかけられています。
さて史実はどうであったのでしょうか。
長田(平)忠致は、尾張国内海荘、駿河国長田荘を所領とし、その地方に勢力をはった在地武士です。東国を目指して落ち延びる途中に頼ってきた源義朝を討ちました。その後、反平氏の行動をおこした甲斐源氏の武田信義らの駿河侵入の記事に「長田入道」の名前が出てきます。「長田入道」は、目代橘遠茂とともに防戦しますが破れ、長田の子息2人は梟首されました(『吾妻鏡』治承4年10月13日14日条)。しかし、「長田入道」が忠致なのかどうかは研究者によって意見がわかれるところです。わたしは婿の鎌田正清が父の代から駿河国に住し鎌田を名のっていることことから推測して、「長田入道」が忠致であってもおかしくないのではと思います。また同日条からは、「長田入道」がどうなったかはうかがえません。『保暦間記』によると、忠致は鎌倉に捕えられており、建久元年(1190)10月頼朝の上洛に際し、青墓宿で斬首されたことがみえます。
[30] | 最初の方とは別の、群馬の永田です。さんからのコメント(2012年11月08日 22時09分21秒 ) | パスワード |
はじめまして
私も永田姓です。
群馬県にすんでいますが、この辺りでは私の親戚しか
永田がいないので、このページがとても気になりました。
私の家は、知る限りでは本家のようで、私が14代目、らしいです。
昔は将軍様(どこの誰かは不明)に遣えていた
武士だったと亡くなった祖父から聞きました
近くの元栄寺に長刀が、家に普通の刀がひと振りづ
つあり、それが家宝です。
家紋は、祖父によれば丸に梅鉢らしいです。
菅原道真にゆかりがあるとか…
何処の血筋なんでしょうか。
[31] | 空の青海のあをさんからのコメント(2012年11月09日 04時20分50秒 ) | パスワード |
最初の方とは別の、群馬の永田です。さん
初めまして。
まったく分かりません。
永田姓で梅鉢紋の有名人は 永田雅一 だそうです。
1906年1月21日 - 1985年10月24日、実業家。
京都市の染料と友禅の問屋で生れる。
『羅生門』でヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞。
五社協定締結を主導。
大毎オリオンズオーナー。パ・リーグの父と呼ばれた。
大言壮語な語り口から「永田ラッパ」と呼ばれた。
考えられるところでは
あなたで14代目ということは江戸時代の初めからそこにお住まいということになりますか。
さらに 近くの元栄寺に長刀がある ということで
この元栄寺さんに聞くというのが良いですよ。
でもお寺さんも和尚さんが全くヨソから来た人だと知らないかもですね。
我が家も入府以来16代続いたお寺さんが全くヨソの人にとって変わって
我が家が寄進した物がただのその寺の宝に化けています。
こういうのはしょうがないです。
もし14代に亘って付き合いのあるお寺でしたら長刀の由緒とかちゃんと代々言い伝えられているはずです。
でも檀家面したら金銭的に大変なことになるかもね。
我が家ももう少しでお寺の改装代のうち柱代の3億円ほどの負担話が向けられるところでした。
昭和の初めの頃まではお寺に関わるお金はそれぐらいの寄進は出来てた先祖とは違って
30万円でも出したくないレベルの生活になってますから ムリ・無理・ムリ。
でも、ま、元栄寺さんに行って、世間話ということでいろいろ情報を仕入れて来ては?
もし永く疎遠にして来たのでしたらお線香代に1万円は包む方が良いですよ。
もし今に至る冠婚葬祭で毎度顔を出しているなら菓子折りの1つで良いでしょうけど。
もし永田家初代の名前などが分かったら
群馬県の大きな図書館にいらっしゃって(東京近辺なら国会図書館を利用するのが1番ですが)
片っ端から読むことですね。
1冊の本を手に入れたら、その本の奥付きなどに載っている本を片っ端から手に入れて読む。
そうすれば 何故永田姓なのか? 何故そこに住んでいるか? など分かって来ます。
膨大な史料を読まないことにはね。
でも一生懸命読んでいると答えが向こうからやって来ますよ。
御先祖さまも協力してくれます。
そして先祖を敬愛していれば守ってくれますよ。
永田氏もいろいろあって代表なのは
・近江国長田村の佐々木系
・尾張国の牛頭天王社系の平氏系
・三河国箱柳村は藤原氏系
その他
将軍に仕えたという言い伝えもどの将軍なのか?
南朝方の後醍醐天皇のお子さまの「将軍」なのか?
それかもっと前の時代の田村とか
または足利将軍なのか?
源氏の将軍なのか?
徳川幕府の将軍なのか?
逸話として甲斐国の薬売りの永田徳本は江戸の初期に将軍の風邪を治したそうですが
元は武蔵国で
祖は三河国の人だそうです。
人間は移動するから、とにかく史料を集めまくらないとね。
[32] | 空の青海のあをさんからのコメント(2012年11月09日 17時23分19秒 ) | パスワード |
永田徳本とトクホンは関係ないので、そこの所をコピペしておきます。
■トクホンのルーツ
鈴木由太郎の始めた「トクホン」のルーツは静岡で発売されていた「天来」という膏薬でしたが、「天来」はシール状ですぐに貼れ、またハッカのさわやかな臭いもすることから、由太郎はこれを改良し「トクホン」を完成させたのです。また名前は由太郎が甲斐の医聖といわれた永田徳本の事跡に感動したこと、また、弾むような語感に加え”徳”と言う字が人々に恩恵を与える”徳”に通じ、痛みを解くの”解く”に結びつく事を考えての命名でした。
■創業100年
株式会社トクホンの前身である鈴木日本堂は明治34年に鈴木由太郎によって本所、深川で産声を上げた。
創業当時の『乙女桜』
由太郎13歳の時に奉公に出され、10年の辛抱の後に独立したのでした。独立した由太郎は@消耗、A保存、B大量に生産、C手軽に持ち運べるという条件を満たす製品を作れば必ず売れると言う信念で事業をはじめ、頭痛膏「乙女桜」、貼薬「シカマン」などを作り出したが、これらは全部、膏薬でした。
大正9年には事業を年商5万円の売り上げを示すほどに成長させたのでしたが、「好事魔多し」大正12年の関東大地震により大きな被害を受け、この傷が癒えず昭和6年には逆に借金5万円という苦境に立たされたのでした。この苦境を乗り切るために由太郎が考えたことは「5ケ年計画」です。この計画は功を奏し、五年後には借金を返済し、売上高を160万円にすることが出来ました。
[33] | 日本の苗字七千傑さんからのコメント(2012年11月09日 22時15分55秒 ) | パスワード |
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
>最初の方とは別の、群馬の永田です。さん へ
群馬県の永田姓は800人前後存在して、使用家紋も様々ですので梅鉢の家紋はアテにはなりません。
群馬県の永田姓の多数派は、宇多源氏佐々木氏族と思われます。
下記書籍をアマゾンから入手されるか、大きな公立図書館で閲覧されると手がかりが掴めると思われます。
上州の苗字と家紋 (1979年) 萩原 進 著
[47] | 永田さんからのコメント(2013年11月12日 03時40分22秒 ) | パスワード |
私も、今は東京に住んでますが故郷は鹿児島県の甑島の永田です。
ルーツを知りたいですね
[48] | 箱柳永田さんからのコメント(2013年11月13日 17時33分26秒 ) | パスワード |
三河の永田(長田分家)です
鹿児島には非常に古いと言われている永田一族があります。
>http://kamodoku.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-1b76.html
>http://kamodoku.cocolog-nifty.com/blog/cat13324378/index.html
肝属川流域散歩2の下の方 地図に永田橋があったりして、、。
>http://kamodoku.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/
長田致将は平家が壇ノ浦で壊滅したあと、源氏の九州攻めに拮抗しようと根占から宮崎県の西諸県郡野尻町の内木場城に移り、そこで死を遂げたらしい・・・小林市の鮫島田佳雄氏のご教示による。
長田改め 永田という可能性を探った事が有ります
根占の永田歯科がマグレ?で当たり(埼玉土屋 永田歯科 で検索)
根占の長田致将の子孫(かも知れない)と思い、本を探してみました
(岡崎では非常に困難)。
<鴨着く島>で致将より古い永田さんの存在を知り一時休止にしています。
鹿児島には 致将の他、鎌倉幕府地頭としての長田をさだ氏があり、
長田ながた氏も、、、(長田致将の記事と)、選別だけで疲れました。
あまり力に成れず申し訳ない。 箱柳永田
[49] | 宮崎県の永田さんからのコメント(2014年03月02日 23時26分39秒 ) | パスワード |
宮崎県の永田です。
家系や家紋に興味があり、このページにたどり着きました。
私は宮崎市内に住んでますが、
祖父は生前、上記の宮崎県西諸県郡野尻町に住んでました。
偶然かもしれませんが、野尻の名称を見つけて、書き込みしたくなりました。
家紋は、丸に木瓜です。
[50] | 永田ニワトリさんからのコメント(2014年04月01日 19時16分21秒 ) | パスワード |
今日は。ここはとても面白いですね。
私は、静岡県榛原郡相良町(牧之原市)に住まわせて頂いております、永田です。抱き茗荷紋です。
ホンヤの人達に話を聞く機会があれば、家系について聞いてみたいと思います。
何か面白そうな話しがあれば、此方で報告致します。
因みに、武家だったらしいと聞きましたが、あまり信じておりません。
余談ですが、政治の中心地永田町、神戸の長田区、長田神社等、私の家系は関係無くとも、非常に誇らしいです。御先祖様に感謝です。
[51] | 箱柳永田さんからのコメント(2014年09月25日 01時46分33秒 ) | パスワード |
宮崎県の永田様
お返事が遅くなりすみません、宮崎の小林市、鮫島氏と連絡を取って
長田致将(をさだまさなが と長田家では読みます)について御指導頂いた時
野尻付近の地図を見てここにも永田さんが!と気づいていました。
長田支流三河永田の多くは丸に横木瓜です。小林市は宮崎県ですが、江戸期は
薩摩藩の領地です、そして街道の主要な中継地、宿場として発展した町ですので、>48 の記述を参考にしてください。
記憶では、<南九州をさるく>
>http://www.47news.jp/CI/201001/CI-20100120-00898.html の中で
宿場?地図(町内案内板の写真)に 長田さんが数軒あって、、
びっくりした覚えがあります。
永田ニワトリ様
伊豆から伊賀までの東海道(伊勢湾を中心とする航路)には、長田氏が沢山住んでまして、幕府の圧迫により多くの永田諸氏が生まれてます。
永田町は 長田弥左衛門久琢が永田に改名し,住んでいた事より、永田馬場と呼ばれました。http://www.tokugawa.or.jp/institute/ieyasu-monjo-mokuroku/120229ieyasu-monjo-mokuroku.pdf#search= '%E8%A5%BF%E5%B0%BE+%E5%B9%B3%E5%8F%A3+%E9%88%B4%E6%9C%A8' ここの740番に家康より緒川に3千貫
所領が記載されております。松阪市魚町には子孫の方が住んでます。
案外 浜松の永田村(消滅)富士市の永田村あたりの地名からもありますが
村名の由来が、長田に繋がるかも知れません。
[52] | 豊田市の永田さんからのコメント(2016年01月12日 13時16分48秒 ) | パスワード |
初めまして、豊田市に住んでおります永田です。
自分のルーツについて、ネットで検索したところこのHPにたどり着きました。
昔、父からルーツについてを纏めた本を見せてもらったのですが、
持っていらっしゃる方はいらっしゃるのでしょうか?
どこかの教授の方が調査していたと記憶しております。
ちなみに私の家紋は横木瓜です。
あまり詳しいことは存じ上げませんが、南極観測隊の永田武さんとつながりがあるそうです。
南極に永田山があると知りちょっと誇らしいです。笑
[53] | 箱柳永田さんからのコメント(2016年01月13日 01時25分19秒 ) | パスワード |
豊田市の永田様
長田支流 箱柳永田です、丸に横木瓜、4百年後の再会になると思います。
私に家は<墓守>です。22-3926正明 nagata3@na.commufa.jp
>どこかの教授の方が調査していたと記憶しております。
故永田一夫氏(田原若見) 戦前は琉球大助教授 獣医学。
岡崎市では、百々の中村氏(娘婿)と私の所にあります。
(豊田市は長興寺9丁目の茂他、数冊あると聞いてます)
武さんは親の転居により、岡崎百々町から、さらに東京に移動してます。
(弟さんの家は百々にあります)
>http://blog.goo.ne.jp/deko40168id/e/f4927cdfec4723ebeab687d0f8dfaaba
多分、この付近、30軒位の永田さん達が住んでおります。
@時間が赦しましたら、三河平氏、その2、その3も覗いてください。
もし興味がありましたら、連絡してください、ゆかりの地を案内します。
[54] | 豊田市の永田さんからのコメント(2016年01月13日 15時00分01秒 ) | パスワード |
箱柳永田様
永田家のルーツはとても興味深いですね。
早速実家へ行って、『長田支流 永田家一門』を借用して参りました。
添付して頂いた地図の近く(宮上町)に住んでおります。
家系図では清兵衛の下に続く又左衛門から数えて6代目になるようです。
[55] | 神奈川の長田さんからのコメント(2016年02月16日 22時24分54秒 ) | パスワード |
初めまして。
神奈川の長田です。
自分のルーツを探っていて、こちらにたどり着きました。私の祖父が壱岐の出身で、家紋は丸に梅鉢です。
現在は直接家系を辿れる様な親族間の交流が無く残念ですが、何となく、壱岐と長田姓の繋がりを知る事が出来ました。
[56] | 箱柳永田さんからのコメント(2016年02月17日 01時40分40秒 ) | パスワード |
永田ニワトリ様
お返事が遅くなりすみません。
>永田です。抱き茗荷紋です。
三河平氏に書きましたが、再掲します。
袋井市浅羽諸井に長田忠致4男の子孫と称する家が有ります。
此処が抱き茗荷を家紋にしています。
雑談 故長田隆之氏の法螺話→三河湾伊勢湾はおろか遠く伊豆まで長田の船は交易をしていた。長田とその仲間でほぼ独占状態だった、わははー!。
私の調べでは 約500年前の東海地震で静岡を初め伊勢湾まで、津波による壊滅的な被害がありまして、三河湾の船以外は再建までかなりの時間を要した。
5年とか10年の限定的な話ですが、長田船団は東海航路の覇者であったと
自信を持って言えます。
[57] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月17日 12時49分13秒 ) | パスワード |
箱柳永田様
横からおじゃましまして申し訳ございません。
スレッド「平川家について」のミヤハラです。
わたくしにも「永田家」の血はしっかりと流れていますので(高祖母永田家の娘)、今朝、こちらのスレッドがとても気になり拝見致しました。
永田ニワトリ様 コメント50を拝見すると
>私は、静岡県榛原郡相良町(牧之原市)に住まわせて頂いております、永田です。抱き茗荷紋です。
永田ニワトリ様は静岡県榛原郡相良町(牧之原市)にお住まいとの事。
さらに
箱柳永田様のコメント51より
>伊豆から伊賀までの東海道(伊勢湾を中心とする航路)には、長田氏が沢山住んでまして、幕府の圧迫により多くの永田諸氏が生まれてます。
永田町は 長田弥左衛門久琢が永田に改名し,住んでいた事より、永田馬場と呼ばれました。
永田町周辺には相良藩邸がありました。
さらに周辺には平河天神が鎮座。
本日の箱柳永田様のコメント
>袋井市浅羽諸井に長田忠致4男の子孫と称する家が有ります。
此処が抱き茗荷を家紋にしています。
先日よりの私の方の調査で遠江国城飼郡笠原荘を調べた際に登場した「袋井市」。
鉢田の戦いにおいて長田忠致は伊予橘氏「橘遠茂」と共に「安田義定」「武田信義」と戦っていますね。
鉢田の戦い ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%A2%E7%94%B0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
鉢田の戦い(はちたのたたかい)とは平安時代末期の内乱である治承・寿永の乱における戦闘の一つ。武田信義・北条時政と駿河国目代橘遠茂・長田入道との間に起こった戦い。
経過[編集]
治承4年(1180年)8月、石橋山の戦いの直後、甲斐の国境の波志田山において、甲斐源氏の安田義定らと駿河目代橘遠茂らが交戦し甲斐勢が駿河勢を打ち破った(波志田山合戦)。その頃までには甲斐源氏は甲斐一国を占領下においていた(『山槐記』)。
9月10日、武田信義・一条忠頼父子は信濃へ侵攻を期し、諏訪上宮に入った後その近辺の平家方の豪族を打ち平らげた。信濃を制圧した武田父子は9月14日、甲斐へ帰還する(『吾妻鏡』)。一方、石橋山の戦いの後、北条時政・義時父子は甲斐国へ赴き武田信義ら甲斐源氏と合流する。その後土屋宗遠も甲斐へ赴く(『吾妻鏡』『延慶本平家物語』)。
9月24日、甲斐源氏は軍議を開き駿河への侵攻を決定する(『吾妻鏡』)。一方石橋山の戦いで破れた源頼朝が生存していて坂東で勢力を拡大していると知った平家は9月29日、平維盛を総大将とする追討使を進発させた(『玉葉』)。また、甲斐源氏が軍備を整えているという噂を聞いた駿河国目代橘遠茂は10月1日、駿河・遠江から兵を集めた。
10月13日、武田信義、一条忠頼、安田義定らの甲斐源氏は加藤光員、加藤景廉など石橋山の戦いで敗れた頼朝配下の武将たちをその軍に加え富士北麓若彦路へ向かった。同日、橘遠茂と長田入道は甲斐勢力を撃滅すべく富士野を回って甲斐国に攻め込もうとする。翌14日、駿河勢が鉢田に進軍したところ甲斐勢と遭遇し戦闘が開始される。山岳地帯の戦闘は甲斐勢が優勢となり、橘遠茂の子息二名、長田入道が討ち取られ、橘遠茂は捕虜となった(『吾妻鏡』)。
都から平家本軍が到着する前に行なわれたこの戦いにおいて、平家方の橘遠茂・長田入道が敗北した結果、駿河は甲斐源氏の手中に落ちた。これは10月20日の富士川の戦いにおいて平家が敗北することになる要因の一つにもなった。
※橘遠茂の子息二名、長田入道が討ち取られ、橘遠茂は捕虜となった
武田信義、一条忠頼、安田義定と戦った「長田忠致」「橘遠茂(伊予橘氏)」
武田信義は一条忠頼の父ですね。
相良頼景は「武田信義もしくは一条忠頼の前で下馬せず」という理由で遠く離れた肥後国球磨郡多良木に流配となりました。
相良藩の藩士であった高祖母の実家「永田家」。
永田ニワトリ様は静岡県榛原郡相良町(牧之原市)にお住まい・・
非常に御縁を感じました。
箱柳永田様
偶然にも、私の高祖母の生家「永田家」と縁を感じるお話を伺う事が出来まして、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございました。
寒暖の差が激しい今日この頃ですが、風邪をおひきにならないように
お身体ご自愛下さい。
横らか失礼致しました。
ミヤハラ
[58] | 永田ニワトリさんからのコメント(2016年07月06日 01時09分03秒 ) | パスワード |
初書き込みからもう二年…早いですね(*_*)
永田町周辺に相良藩邸があった事も、長田氏が東海航路で交易を行っていた事も初めて知りました、有り難う御座います!
イトコが熊本の方をお嫁さんにもらったのですが、「人吉市に行ってみたいんですよ!相良と縁があるんですよ!あと夏目友人帳が好きなのもあるんですけど!」と、盛り上がりました(笑)
夏目友人帳は秋にまたアニメが放送なんですよ〜(どうでもいいか)
「熊本、鹿児島に永田さんて結構いますね」と言ってたのが印象的でした…血縁は無くとも、姓を名乗っている「縁」というものを個人的には非常に意識しているので、ジーンとくるものがありました。
この辺りは、相良・萩間に永田姓が固まってます。焼津でも数件、まとまって「永田」姓が存在しているのと、菊川(今は掛川市か)にも同姓の女の子が居ます。
余談ですが、屋久島に永田岳という山がありますが、やっぱり流されたとか、落人とかそういった経緯があるのでしょうか?
あぁ、親戚にも苗字や家系・御先祖さんに興味がない者ばかりですので、ここは癒されます…。爺ちゃん生きてたら、小さい時みたく本家に気楽に行けたのになぁ…
[59] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年07月06日 09時38分54秒 ) | パスワード |
永田ニワトリ様 こんにちは。
スレッド「平川家について」のミヤハラです。
横からすみませんがお邪魔いたします。
〉この辺りは、相良・萩間に永田姓が固まってます。
〉菊川(今は掛川市か)にも同姓の女の子が居ます。
こちらのコメント57で書かせて頂いたように
私の高祖母は相良藩士の「永田氏」で、医家でありました。
永田ニワトリ様の今朝のお話を拝見しながら
「遠い、しかし、しっかりと繋がりのある親戚の方」に出会えたような気分でとても嬉しくなりました。
私の親戚の椎葉のおじ(スレッドで頻繁に登場します)が私にいつも言うのが
「家の一族は”平川家”と”深水家”の絆もあるが、みんな”永田家”の血がはいっとる(入っている)!おまえもそうタイ!しっかりと”永田家”の血がはいっとるとゾ!(入っているんだぞ!)」
です。
「夏目友人帳」・・(^'^) 私の調査ではあまり、登場した事はないのですが・・私は「夏目友人帳」で人吉・球磨の事を、全国の方が知って下さって、本当に嬉しいのです(^'^)
聖地巡礼と呼ぶみたいですが、「夏目友人帳」ファンの方が、全国から今でも来られていて、私達の日常に自然と溶け込んで、お参りする神社やお地蔵様の前で、記念写真を撮られていたりする所に偶然通りかかるとビックリする事があります(^'^)
おかどめ幸福駅前のお地蔵様は御存じですか?
「夏目友人帳」ファンの観光客の方に解るように、ちゃんと旗が立っています。
おかどめ幸福駅の名前の由来となった神社は私の親戚が代々の宮司家です(^'^)
すみません(..)
本当に何百年も前にしっかりと繋がりがあった「遠い親戚の方」のような気がして嬉しくて、余談を沢山書いてしまいました。
でも・・私の不思議な感(変な事を書いてすみません)DNA?は永田ニワトリ様とネットだとはいえ、私がお知り合いになれた事をすごく喜んでいるようなのです(本当に変な人だと思わないでください(..))
出来ることであれば・・
今後ともよろしくお願い致します。
横から失礼しました。
球磨の地より ミヤハラ
[60] | 箱柳永田さんからのコメント(2016年07月07日 01時25分08秒 ) | パスワード |
永田ニワトリさん
箱柳永田です、少しばかり眉唾な話ですが
>余談ですが、屋久島に永田岳という山がありますが、やっぱり流されたとか、落人とかそういった経緯があるのでしょうか?
長田致将には、種子島、屋久島を手始めに、台湾まで攻め入り、高砂族になったという、法螺話が伝わってます。 終末の地は宮崎の野尻になるのです(鮫島氏の調べ)、矛盾はありますが屋久島のもう少し南までなら数隻の船でも攻め入る事が可能では?と考えています(沖縄は占領できない)。
永田岳、永田川、永田いなか浜とセットで揃っていて、興味なある所です。
思いっきりの脱線 随分前のことですが、南極観測船の名前公募に永田岳=
(永田武)、、<ナガタ>で一票投じた事があります。
武さんは岡崎百々の生まれ、1-3次の観測隊長、父親は豊田宮上の出身。
結果は、皆様のご承知の通りですorz。次回は(生きてる?)三河の身内に声をかけよう、と思っております。 皆様の協力が得られると、、、。
墓守・箱永の厚かましいお願いです。
[61] | 箱柳永田さんからのコメント(2016年07月07日 19時18分16秒 ) | パスワード |
神奈川の長田さん
壱岐の守・長田忠致(代行 致将)の前に大宰府・博多には
以下の2名が知られております。
>http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_42_13.html より
平致頼 [父、平公雅]太宰大監 (尊卑分脈)
平致光 [父、致頼] 太宰権大監 (尊卑分脈)
『朝野群載』巻20 1019年(寛仁3)4月16日太宰府解状に見える刀伊の侵入に対して勇戦して撃退した小弐平朝臣致行と同一人物か。
(・橋昌明『伊勢平氏の興隆−清盛以前』p19)
彼らの子孫は当然の如く<長田>を名乗り土着したようです。
(致将の子孫は壱岐には居ません!もし居ても元寇で全滅しています。)
現在壱岐にいる長田さんたちは、元寇の後、博多などの九州北部からの
移住組、致頼・致行の子孫縁者です。
遡れば 必ず、平公雅=長田武蔵守に行き着きます。
[62] | 永田ニワトリさんからのコメント(2016年08月25日 21時44分09秒 ) | パスワード |
ミヤハラ様、箱柳永田様、御返事有り難う御座います!
ミヤハラ様、大丈夫です、全く同じ感覚・感情を抱いているので、逆に嬉しいです、本当に有り難う御座います!鳥肌がヤバいですw
…岡留熊野座神社でしょうか?由来の神社を存じ上げないものですから、興味があります!(御祭神が特に)実は私は、親の反対がなければ、推薦状を戴いて養成機関に入り、神職として奉職していた筈でした(笑)神道・神社が琴線に触れるものがあってタマラナイのです…。熊野は勿論ですが、九州は全体的に神武天皇関連=九州が一つの聖域、と理解しているものですから、ついつい食い付いてしまいます(笑)
箱柳永田様、平氏のある方が、確か外宮(お伊勢さんの)の木を「邪魔だ!」という事で神木を伐採させたという様な話を聞いたことがありまして、非常に恐怖したのですが、御先祖(平氏長田氏系?)さんちょっとガツガツし過ぎですね?(大笑)
[63] | 永田ニワトリさんからのコメント(2016年08月25日 21時51分43秒 ) | パスワード |
独り言:久能山東照宮ではなく、日光のほうが茗荷紋なのが密かな不満(笑)
[64] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月26日 09時04分49秒 ) | パスワード |
皆様、おはようございます。
永田ニワトリ様
〉全く同じ感覚・感情を抱いているので、逆に嬉しいです
私も、お言葉を伺い、本当に嬉しいです(^'^)
〉岡留熊野座神社でしょうか?
そうです(^'^)
親戚は旧免田町(現あさぎり町)の岡留熊野座神社そして築地権現の代々の宮司家で、他に現在は中球磨地区の多数の神社(錦町の平野神社など)を担当?(言葉がよく解りません(..))されている尾方家です。
こちらの尾方家から椎葉のおじの父は婿養子に入り、さらに椎葉のおじの妻は同じく上記の尾方家から嫁いでこられて(二人はいとこ同士です)、兄は青井阿蘇神社の第67代大宮司でした。
もちろん!こちらの椎葉家にも「永田氏」の血が流れています(^'^)
岡留熊野座神社の御祭神は
伊邪那岐神(いざなきのみこと)、伊邪那美神(いざなみのみこと)、速玉男之大神。 です。
平河一族が居城した数々の城跡の一つです。
その地に相良氏第3代当主相良頼俊が建立された『岡留熊野座神社』です。
もちろん!私の祖母(平川家の娘)にも永田氏の血が流れています(^'^)
岡留熊野座神社(平河氏居城跡)の由緒そしてムービーがネットに公開されていました。
よろしければ、ご覧ください(^'^)
サイト 神社と古事記
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1056110113.html
永田ニワトリ様
〉神道・神社が琴線に触れるものがあってタマラナイのです
崇高な気持ちをお持ちなのですね。
球磨の高原(たかんばる・・と読みます)地区からは霧島の韓国岳や、天孫降臨の地「高千穂峰」も拝めます。
(高原・・ここは普通に今では田園と民家が建つ場所です(^'^))
永田ニワトリ様
ぜひ、人吉・球磨におこし下さい!
猛暑が続いています。
お身体十分にご自愛下さいませ。
ミヤハラより(^'^)
[65] | 永田ニワトリさんからのコメント(2016年08月26日 21時02分13秒 ) | パスワード |
複数の神社を管理、神官として兼務なさっておられるのですね…一人の日本人として、心から感謝を申し上げますm(__:)m
それにしても…うわぁ……情報量凄いですね圧倒されてしまうというか興奮してしまうというか…
系統は異なるのかもしれませんが、まず「平川氏」で検索をかけたら、「近江源氏佐々木氏の一族」と出て来て、あれ!?近江の高島市・永田一族が繋がる!と。
そして、「椎葉」で検索してみましたところ、近隣の椎葉村が気になり、Wikipediaには
「椎葉村内の26地区で国の重要無形民俗文化財である椎葉神楽が伝承されており、また、平家の落人伝説の地でもある。その地理的特徴・民俗的特徴から日本三大秘境の一つに数えられ、毎年11月には椎葉平家まつりが開かれるなど、今なお伝承文化が息づく村である。」、と…。
永田の一番初めの出自や元の家系、これは謎・わからないでしょうね(苦笑)
忌部氏・物部氏・賀茂氏安倍氏・三輪氏に敬意を抱いているので、どこかで接触があった歴史があったりしないかな、なーんて妄想しております(笑)
相良氏も含め、人吉藩やその周囲の住民、何より土着神に受け入れて頂けて今日まで途絶えず、溶け込み受け継がれている血筋に、その事実に、昔の日本人の高い民度・精神性を感じます。
なんと稀有な民族・国土でしょうか…!私までいのちを繋いで下さった御先祖様に頭があがらないです!
[66] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月27日 10時58分51秒 ) | パスワード |
皆様、今日は。 ミヤハラです。
永田ニワトリ様
〉「平川氏」で検索をかけたら、「近江源氏佐々木氏の一族」と出て来て、あれ!?近江の高島市・永田一族が繋がる!
勉強不足で申し訳ありません(..)
六角氏の系となる近江源氏佐々木氏の一族となる「平川氏」と高島市・永田一族の関係、よろしければ、ぜひご教示を頂ければと。
よろしくお願い致します(..)
〉昔の日本人の高い民度・精神性を感じます。
〉いのちを繋いで下さった御先祖様に頭があがらないです!
私も、永田ニワトリ様と同じく、先祖には心から感謝しています(^'^)
親戚に宮司家はありますが、私は恥ずかしながら何も解っていません。
私の住む集落は旧宮原村で、岡原村時代は大字宮原。
しかし、田畑に関する登記では、旧宮原村は大字宮野 です。宮野・・??
ちなみに、家の集落は字は『外園』です。
集落に大きな神社が三社鎮座以外に、沢山の神社が明治初頭まであったからなのか?
もしくは、ここが、平安時代末期まで天皇御領だったからか・・理由は解りません。
あと・・
家の前に流れている川は井口川でお年寄りはいまでも通称で「ツルの川」と呼んでいます。(古地図では久米川と書かれています)
家から300〜400メートル下流の地域の字は「天子」と「鶴」で、その地域を地元の人は「てんしつる」と呼んでいます。
しかし、江戸時代までは「鶴」は「水流(つる)」とあり、県外から来られた『天子』地名の研究をされている方はこの地域は「天子水流」であると論文に記されていました。(論文は持っているのですが、今、急に思い出して書いたので手元にありません(..))
所で・・
球磨の永田氏。私も高祖母の系が何処に繋がるのか今の所全く解らないのですが・・
ただ”永”繋がり?の球磨の1軒の『永井氏』については、系は解っているようです。
あさぎり町 公式ページより 永井家所蔵の黒革威腹巻練革叩塗兜
http://www.asagiri-town.net/q/aview/52/421.html
兜1点と大袖付きの具足。鑑定では、南北朝時代という。
永井家は平安時代末期の武将斎藤実盛の末孫と伝え、長井別当と呼ばれた。
源義朝の忠実な武将だったが、後に平家に仕え重用された。
平惟盛の後見役。
加賀国篠原の戦いで敗死。
江戸時代、永井実正は、鎧櫃に「実盛公之御具足」と箱書きした。
=================================================
(p_-)あさぎり町の上記の『永井家』は『斎藤実盛』の末孫でいらっしゃるようです。
斎藤実盛は平安時代末期の武将。
兜1点と大袖付きの具足。鑑定では、南北朝時代。
きっと江戸時代の永井実正と言う方は、こちらの永井家が『斎藤実盛』の末孫である事を子孫に伝えたい!というお気持ちだったのかな・・と思います。
斎藤実盛の末孫であるあさぎり町の永井家が何故『永井姓』なのか・・・??
永井氏・永田氏 繋がりは?!
非常に興味が湧いています。
猛暑が続いています。
こちら球磨では、昼間はもちろん猛暑ですが、夜はすでに秋の気配を感じる涼しい風が吹いています。(夜中は少し寒いくらいです)
永田ニワトリ様もお身体には十分お気を付け下さい。
[67] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月29日 01時46分03秒 ) | パスワード |
ミヤハラ様
こちらのスレッドを見ていただけることを期待して――
「斎藤実盛の末孫であるあさぎり町の永井家が何故『永井姓』なのか?」
という疑問に対する答ですが、豊田武氏の『日本史小百科 家系』による
と――
「(斎藤氏は)鎮守府将軍藤原利仁の嫡男叙用(のぶもち)に始まる。
(叙用から7代目の)斎藤実盛は平治の乱に源義朝に従軍し、のち平家
に仕え、1183年の頃、重盛の所領武蔵国幡羅郡長井庄に居住し、長井
氏を称した。」ということであります。
この斎藤氏は永井斎藤氏ということで、斎藤氏でもあり、永井氏でもあり
ます。即ち、斎藤を名乗ったり、永井を名乗ったりしているということにな
ります。永井と書くか長井と書くかの表記の違いは、時代で変わっているよ
うであります。(この部分は永井源六郎氏の『戦国の武将 永井隼人とその
系譜』を参考にしています。)
実盛の祖父の弟の宗景の9代孫が、本能寺の変の明智光秀の家老の斎藤
利三であると推定されます。
永井直勝とこの永井斎藤氏がつながっているかどうかの問題ですが、それ
は大江つながりであります。
長井直勝は大江広元から数えて12代孫になります。
大江広元の孫の時広が越前国の長井里に居住し永井を名乗り、また、大江
系の永井利長は永井斎藤家の実盛の叔父親頼の4代目を継いでおります。
従って、永井直勝と永井斎藤氏は大江氏つながりということになります。
長田氏・永田氏が永井直勝とつながっていますので、永田氏と実盛系永井
氏とは、ルーツ的にはつながっているということになります。
斎藤氏と大江氏と永井氏・永田氏の関係、とても複雑ですね……。
でも、完璧な系図ってないようですので、間違っていたらごめんなさい。
[68] | 三つ柏服部さんからのコメント(2016年08月29日 02時10分24秒 ) | パスワード |
永田様
レス[67]は横レスになってしまいました。自分の方のスレッド(長上郡の
服部氏族)に書いているものとばかり思っておりました。
従って、「こちらのスレッドを見ていただけることを期待して――」は
余分でありました。
永田様、箱柳永田様、永田ニワトリ様、永田家に対して勝手な推論をして
しまいました。間違いがありましたらごめんなさい。お許しを……。
[69] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月29日 07時36分17秒 ) | パスワード |
永田姓・長田姓の皆様、三つ柏服部様、 おはようございます(^'^)
三つ柏服部様
私の疑問、「斎藤実盛の末孫であるあさぎり町の永井家が何故『永井姓』なのか?」
に御教示を頂きありがとうございました。
〉長井直勝は大江広元から数えて12代孫になります。
〉大江広元の孫の時広が越前国の長井里に居住し永井を名乗り、また、大江
系の永井利長は永井斎藤家の実盛の叔父親頼の4代目を継いでおります。
〉従って、永井直勝と永井斎藤氏は大江氏つながりということになります。
大江広元・・大江氏繋がり・・ここでも大江氏・・(こちらのスレッドで申し訳ありませんが、球磨の永吉庄。預所は大江広元 地頭が平河氏でした)
〉長田氏・永田氏が永井直勝とつながっていますので、永田氏と実盛系永井
氏とは、ルーツ的にはつながっているということになります。
永井直勝と言う方について勉強不足でして、ウィキで調べたのですが
生涯[編集]
永禄6年(1563年)、三河国の武将・長田重元の次男として三河国碧海郡大浜郷(現在の碧南市音羽町)に生まれる[1](東浦町緒川の説もある[2])。
氏族 長田氏→永井氏
父母 父:長田重元、母:鈴木氏
母は鈴木氏・・物部氏との姻戚関係が見えます。
長田氏は平致頼の代に長田を称して、尾張国に勢力を張り、尾張平氏とも呼ばれた。後裔に長田忠致。
鉢田の戦いにおいて長田忠致は伊予橘氏「橘遠茂」と共に「安田義定」「武田信義」と戦っていますね。
伊予橘氏は越智姓であり、先を辿れば物部氏である。
わたくし事で申し訳ありませんが、宮原の一族は「伊予橘氏」。
私の高祖母は永田家の娘・・偶然なのか・・???
三つ柏服部様、御教示心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
永田様、長田様
こちらのスレッドに度々お邪魔いたしまして申し訳ありません。
実は私のスレッドでは書いていたのですが長田家も遠縁にあります。
皆様の御調査を拝読させて頂いて今後も勉強させて頂きます。
よろしくお願い致します。
球磨の地より ミヤハラ
[70] | 永田ニワトリさんからのコメント(2016年08月30日 02時46分11秒 ) | パスワード |
橘氏・物部氏が…出てきた…!去年に高知や和歌山、奈良京都の神社挨拶巡りをした褒美でしょうか…!(笑)
楠木正成さんとか南朝方とか関係してくるんですかね!?すみません変な時間にワクワクしてしまって…!
熊野・ヤタガラス・楠木氏・南朝方、吉野・御所市、賀茂氏…ううううう…意味もわからず「勝鬨をあげよ!!」と叫びたくなってしまう…うう、落ち着こう。
鶴、鳥などは、天津神というか、御皇室・皇族の事を指しますね、たしか。暗喩というか。
宮(ミヤ)の地名が多過ぎるのは、やはり祭祀の場が多かった土地柄なのでは?というか、天領だったのですか!?Wow…クマ=カミ、神域はだてではないのですね…縄文の遺跡等、ザクザク出てくるんじゃないですかね?下手に行ったら不敬でバチが当たりそうな地域ですね…ゴクリ…
[71] | ミヤハラよりさんからのコメント(2016年08月31日 06時57分08秒 ) | パスワード |
永田様、長田様、永田ニワトリ様
おはようございます。
永田ニワトリ様
現在の鹿児島県・宮崎県そして球磨・人吉地方は古代の日向(ひむか)と呼ばれた地域ですので、古(いにしえ)に関係する”言葉”が私の住む地域にも残っている・・という事だと思います。
私は逆に永田ニワトリ様がお住まいの静岡県榛原郡相良町(牧之原市)に非常に興味があります(^'^)
よろしければ、スレッド「平川家について」の方で静岡県榛原郡相良町(牧之原市)に御鎮座の神社のお話などぜひお聞かせ下さい(^'^)
〉縄文の遺跡等、ザクザク出てくるんじゃないですかね?
私の住む集落には”切畑”という場所に縄文遺跡があります。切畑には平景清公の姫君のお墓もあります。
時代は下りますが、宮原城跡(山城)の頂上からは弥生時代の須恵器で造られた骨蔵器が見つかりました。(拝見したのですが、中が青く輝きとても綺麗でした)
すぐ近くには風の神様が鎮座。もしかしたら、風葬の風習が”いずこ”から伝わっていたのかな?な〜んて空想したりしています(^'^)
他に私の住む現あさぎり町の免田地区(旧免田町)では才園古墳や本目遺跡があります。
本目遺跡で見つかったのが有名な”免田式土器”です。
本目遺跡では三世紀頃に中国で造られた鏡で造られたペンダント(破鏡、方格規矩四神鏡)等が出土しています。古墳時代前期(1世紀〜4世紀)にかけての遺跡です。
才園古墳では三国志時代(3世紀)に中国の江南地方(呉の領域)でつくられた鎏金獣帯鏡が出土しています。
鎏金獣帯鏡の他、黄金の馬具等も出土しています。
http://wajinden.com/item/%E6%89%8D%E5%9C%92%E5%8F%A4%E5%A2%B3/
こちらのサイトより
中国の鏡の研究者である王士倫氏によると、三国志時代(3世紀)に中国の江南地方(呉の領域)でつくられたものという。鍍金鏡は中国でもたいへん貴重なもので、日本では3枚しか出土していない。(一貴山銚子塚古墳:福岡県糸島市、城塚古墳:岐阜県三野)相当の実力者の墓とみられる。
上記の王士倫氏が書かれた鑑定書?は以前、私のブログにアップしていました。
中国本土で発見されたならば、国宝級の鏡であると書かれています。
上記の鎏金獣帯鏡の内区には12、外区に32の銘文があり、「この鏡を持てば諸侯に抜擢される」と、極めて珍しい内容の呪文が刻まれています。
サイト 才園古墳出土鎏金神獣鏡と百済・南朝 より
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51568075.html
その呪文とはこちらです。
http://www.netpia.jp/history/ryukinjutaikyo.htm
百済や南朝・・
この鏡は中国南朝の諸国豪族へ下賜した鏡で、日田市ダンワラ古墳の朱龍紋鉄鏡に匹敵する豪族が九州南部にいたことを証明。
南朝は、百済とのえにしが非常に深く、人吉から宮崎南部あたりまでの氏族が、百済を通じて、あるいは直接、長江河口の南朝と交流したあかしと考えてさしつかえない。
(サイト 才園古墳出土鎏金神獣鏡と百済・南朝 より)
永田ニワトリ様
先日「佐々木姓」の平川氏についてお書き頂きましたが
球磨の「平河氏」は良峰姓です。良峰氏とは
父 桓武天皇と母 百済永継 である良峰安世を祖とします。
百済永継とは31代百済国王「義慈王」の後裔もしくは24代百済国王「東城王」の後裔、となる方です。
しかし実際は、良峰安世の子である良峰宗貞の後を神武天皇の後裔である「丹羽臣躬依」の子が継いだと推測されています。
ちなみに31代百済国王「義慈王」の母は新羅王家の方です。
私の住む地域には百済や新羅の名跡が沢山残っています・・
球磨の古代・・神武天皇 景行天皇 中国南朝(呉) 百済国 新羅国
球磨の古代と後世の良峰氏。
こう考えると色々見えてくるのかな・・と推測しています。
詳しくは「平川家について」で書かせて頂きます(..)
永田様、長田様、永田ニワトリ様
横からおじゃまして、こちらの御調査とは関係ない事ばかりを書いてしまいました。
申し訳ありませんでした。
ミヤハラより
[72] | 永田淳さんからのコメント(2016年12月31日 08時27分19秒 ) | パスワード |
こちらは広島県竹原市の永田です!私の聞いた話では、私達永田氏は、六角氏家臣団永田胤信とのこと、門は、丸に、キキョウです!本家は、岡山県津山市の、永田医院という情報を、持っております‼
[73] | 永田淳さんからのコメント(2016年12月31日 08時36分59秒 ) | パスワード |
先ほどの、広島県の、永田です!
皆さん、はじめまして‼私たちの、ご先祖様は、小早川隆影公の、家臣となり、広島県竹原市に居住したとの事です!
[74] | 箱柳永田さんからのコメント(2017年01月01日 02時02分17秒 ) | パスワード |
永田淳様
長田支流永田です、朽木氏の系図が載ってます。
>http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kutuki.html
高信の 三男胤信 は永田城を築いて永田氏を称した。このように高信の子孫は湖西の高島郡に割拠し、世に「高島七頭」と呼ばれた。
近江源氏のウィキです
> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E6%BA%90%E6%B0%8F
佐々木哲さんの江源武鑑 の紹介
>http://archive.fo/Tco7
近江源氏では一番詳しいと思われる
本の紹介もあり、大きな図書館で一度手に取ってみることを、お勧めします。
江州侍 みくちたろう さん (最近 お休み中みたい)
>http://www6.plala.or.jp/gousyuu/
こちらも面白いですよ。 たぶん気に入ると思います、箱永。
[75] | 箱柳永田さんからのコメント(2017年01月07日 02時13分18秒 ) | パスワード |
永田淳様
長田支流永田、追伸です。
>http://gos.but.jp/nagata.htm (西北条郡津山田町)
津山藩 永田家の詳細があります。
>永田家の系譜に興味を持ったのは、戸川家親類記の妹尾家の項目の中に、妹尾家と永田家の重縁が記されているのを見付けてからです。永田敬造(=敬蔵、桐隠)は江戸時代の漢学者ですが、蘭学者箕作阮甫の最初の師でもあります。
凄い!ここに妹尾さん(多分 南朝繫がり)
蘭学者箕作阮甫さんが、、、。
>http://gos.but.jp/index.html ごさんべい 様より転載です。
私もここで、勉強しています。 箱永
[77] | 松橋の永田さんからのコメント(2017年04月09日 02時54分57秒 ) | パスワード |
熊本県の永田です。
今は無き本家(旧本籍地)は、熊本県宇城市松橋町浦川内にありました。
九州自動車道松橋インターの近くです。この浦川内地区は「永田姓」が非常に多い地域です。
家紋は、「○に(変わり?)抱き杏葉」です。父の話によると、
高祖父辺りの方が、当時自分の畑を持たず、単身アメリカに渡りお金を得て
ようやく自分の畑を持つ事が出来、それから農家だったようです。
他所の土地から移り住んできたのかもしれません。
自分のルーツに興味があり、戸籍を調べたのですが役所にあるものだけ。
それ以降は寺にあったようですが、そのお寺は今は門徒で無いので
随分前に我が家の分は処分されたとの事でした。
何かご存じの方いらっしゃったら教えて下さい。
[78] | 一文字三星永田さんからのコメント(2021年02月20日 08時38分45秒 ) | パスワード |
はじめまして。
永田のルーツが知りたくてネットを漁っていたらこちらに辿り着きました。
父は愛知県豊田市の生まれで、かなり枝分かれした分家なので本家がどこにあるのかわかりません。
祖父に聞くと愛知県内にあるようですが、、、
また子供の頃祖父からは長田忠致がルーツと聞いていましたが、本当かどうかわかりません。
ちなみに家紋は一文字三星です。ここに書き込みされている方の中には今のところ見かけてないですが、関係ありますか?
もし、わかる方いましたら教えて欲しいです。
[79] | 名古屋の永田さんからのコメント(2022年03月09日 20時39分34秒 ) | パスワード |
名古屋に住んでいる永田です。
ウチの田舎は岐阜の八百津町にお墓があるのですが、墓地一帯のあちこちに永田家の墓石があるのですが、平家と同じく丸に揚羽の家紋ばかりです。
ウチの祖父の代に名古屋に来た為、お墓参りでしか、八百津に帰る事はありませんが、こちらで他の永田さん達のお話を聞いて勉強させて頂きます。
[80] | 箱柳 永田さんからのコメント(2022年06月12日 10時55分40秒 ) | パスワード |
このまま、消える予定が計画の失敗により、何処にも発表せずにはないので
懐かしくて舞い戻ってきました。 平良兼、公雅は法名です 平忠望子孫
永田正明17代です。
顛末 このところ碧南市の図書館等はじめに通いまくり、安城西尾の歴博で
続々と発掘調査(本を読むだけです)して考証(歩きまくり)して、
お仲間まとの、報告も順調に進んでいるのだが、一報も市から出てこない。
で、調べると反対勢力は市長とその仲間だという事で、いいのかね。
次のNHKのどうする家康用の調べものが、間に合わんがね。
現在病気療養中。他の都市からは目新しいものは無いので、
碧南の一人勝ちだったのだが、、。
>https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no54/05.html
陶器が繋ぐ奥州と東海 藤原 3代に届けられた杯が 10トン以上
これだけで、長田が何をしていたかわかるでしょう。
随分前に、清盛さんの先祖と手打ちをして、お礼に東大寺に紺瑠璃の壺を寄進しています。結果として、東海道の海は長田が活躍しています。
朝、出航して、夕方帰るの繰り返しですがね。
勿論、小さな川も遡り(人力の方が多い)輸送してますので、
流域のほとんどが交通路になります。
徳本さんについて 追加報告
長田重元の末弟永田徳本について、重元の父と我が家の清衛門が
今川家に土地の返還を願い出ている時に、坂本神社の永田家と交流があり、
永田太郎兵衛が生まれているのだが、父親はどちらか不明らしい。
その太郎兵衛は兜ごと武田兵を切り 胴太貫 に名前を家康から貰っています
鍋割 です、娘3人でしたので長女に大草氏を迎えたが、そのままで、家光の抱き役です。妹が井上家に嫁いでいて乳母をして、3,4男を生んでるのね、小姓からの正就兄弟。
矢作川の上下方向の修理や保全
我が家の清蔵は3代目弓術指南予定なので、無職ですが
他4人は与力という形で 渡し舟の 後の大名の所に居ました。長男酒井、日名橋 3男榊原 天神橋 4男石川 緒川橋 5男蘇武之介
鳥居 渡橋 次男は トヨタの今町と碧南鷲塚に居をを構えていました。
全ての人が実際にそこに所属してました。 明治まで藩と共に有りました。
三河大浜から足助に抜ける 塩の道には適度な所に永田集落があり
にんそくから変え馬まで準備していたようです。
一文字三つ星の件
永井直勝が長田から変える時 長井を一時使い 大江流永井にしたようです
毛利元就も、信長家臣 森坊丸蘭丸なども
大江ですので 使ってます。
長田では、 重元まで、遡って使ってます。ですから内部事情にも詳しい家です。
私の家は長田分家初代です。 3代目か4代目が多いです
[81] | 一文字三星永田さんからのコメント(2024年12月19日 11時47分52秒 ) | パスワード |
私の永田家について興味深い資料を発見しました。
http://imacho.main.jp/sub/kusi/kusi002.pdf
豊田市の今町近辺の歴史に永田は深く関わっているようです。
父は豊田市の長興寺が永田家の歴史に関係があると言っていました。
この地域を調べることでルーツを知ることができそうです。
もし豊田市の永田さんがいましたら何かコメントください!
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