[彦島を熱く語る!!一覧に戻る] お名前:服部 明子
コメントの種類:歴史 10月23日(土)の朝日新聞の記事より: 「宮尾本・平家物語」 週刊朝日11月5日号から連載開始 だそうです。 宮尾登美子の平家物語はさぞかし面白いでしょう。 単行本で出たら買いたいです。 |
そういえば、源氏物語は漫画になってましたけど、平家物語は漫画になったことはないのでしょうか?
あったら読んでみたいのですが。
朝日新聞社
週刊朝日百科:世界の文学:第27号
「平家物語・太平記ほか」
1月11日(火)発売
週刊分冊で毎週火曜日発売A4判変型・中綴じ
オール・カラー36ページ全121冊・定価560円(税込み)
ちなみに24号が「源氏物語」で21号が「古事記・日本書紀ほか」だそうです。
新聞の謹賀新年のご挨拶の広告にこんなのがありました:
よろい・かぶとの復元・制作・修補
(社)日本甲冑武具研究保存会指定
たちばな甲冑工房
福島県相馬市中村字北町22
0244-37-2212
福島県相馬郡鹿島町広町65
0244-46-5382
http://www.fusion~isp.ntf.jp/tachibana/
http://www.fusion-isp.ntt.jp/tachibana/
URLは文字が小さ過ぎて読めません。。。(^^;
甲冑でしたら姫路城の裏の「明珍」さんが有名ですが。
1月8日(土)の日本経済新聞(夕刊)の記事<味文化>より
ユズの年間生産は約1万トン。
そのうち5割近くのシェアを占めるのが高知県だ。
源平の合戦に敗れた平家の落人が健康を守る食生活の糧として、
山間部で栽培を始めたという歴史がある。
以来、同県ではユズは食生活に欠かせない調味料となっている。
源氏物語の話題です。(^^;
日本経済新聞の記事より:
光源氏という陰影に富んだ王朝期の男の遍歴を描いた「源氏物語」は世界文学史上の奇跡ともいわれる。
欧州では男たちが野で狩りと戦争に明け暮れていた頃、極東の島国にブルジョワ末期を思わせる優雅な愛の物語が突然生まれたのは、単なる文明の気まぐれだろうか?
「源氏物語」が1人の才媛によって書かれた千年前の日本は、やはり国際化と情報化伝達の変化のさなかにあった。
大陸からの漢学が貴族社会の教養の基盤を高める一方で、女性を中心に表現の場を広げたのが平易なかな文字の発明だった。
今年の毎日新聞の記事だと思いますが、1月19日にアメリカのロスの日本人社会で発行され
ている「羅府新報」に以下の対比の転載がありました。
「にっぽん・この1000年の権力者たち」つれづれ気まま人物点描
昨年の春、京都の六波羅蜜寺に空也上人の像を見に行った。
念仏を唱える口から6体の阿弥陀が現われているあの有名な像である。
「市の聖」の姿を写実的に造形した立像は見事なものだった。
同じ宝物殿の中に平清盛(1118〜1181)の像があった。
この清盛の座像(鎌倉時代・重要文化財)もなかなか心に残る像だった。
経巻を手にした僧形の清盛の表情には気品が漂う。
清盛というと傲岸不遜の権力者というイメージがあるがここには全く別な清盛がいた。
歴史上の人物について私たちには先入観がありすぎる。
清盛について言えば、私など子供のころ読んだ「源平盛衰記」(勿論子供向きに書き直したも
の)のイメージが刷り込まれている。
清く正しい源氏に対して平家は悪の権化であり、その最たる人物として清盛は描かれていた。
もっともこの像が清盛の「実像」を伝えるものというわけでもないだろう。
現代に生きる人間だってなかなか理解出来ないのだから、歴史上の人物の「実像」をとらえる
など、夢のまた夢かもしれない。
さて、清盛に続く日本史上の権力者は源頼朝(1147〜1199)である。
米国タイム誌が12世紀の重要人物の1人に頼朝を選んだという記事を年末に読んだ。
たしかに初めて武家政権をうち立てた彼が歴史に残した足跡は大きなものがあるだろう。
「似せ絵」の名手、藤原隆信の作品とされる肖像も風格と思慮深さをうかがわせる
(ただし、描かれているのは頼朝ではないとの説もある)。
弟・義経に対する厳しい処置など「判官びいき」の中ではこの人物も悪人だが、どうして大変
な人物だったに違いない。
以下
足利尊氏・・・鎌倉幕府打倒までの動きはさっそうとしているのに弟・直義との抗争などでは
優柔不断な印象がある。
織田信長・・・本能寺で非業な死で終わるその果敢な人生があらためて人々を魅了する。
徳川家康・・・40年以上前の山岡荘八の「徳川家康」が「たぬきおやじ」のイメージを一新
した。
豊臣秀吉・・・日本人の中の「人気度」は昔は秀吉がダントツだった。「太閤記」はさまざま
なかたちで日本人に読みつがれてきたし、大衆ドラマからテレビドラマまで、秀吉はいつも日
本人のヒーローだった。
その「人気度」は多分近年(?)相当変わっている筈だ。山岡荘八で「たぬきおやじ」のイメ
ージを一新した徳川家康や、その果敢な人生が人々を魅了する織田信長に比べると、秀吉は晩
年の朝鮮出兵という「汚点」がぬぐいがたい。
昨日、尾張の「服部家ホンヤ」から昨年の行事の記録が届きました。
1999年5月21日に国の重要文化財「服部家住宅」で
琵琶と語りの夕べが催された、
という記事がありましたのでご紹介。
琵琶演奏家の北川鶴昇さん(66)が平家物語の冒頭の1節や源氏物語の胡蝶の巻より
「春の宴」を演奏。
北川さんは薩摩琵琶を手に、平家物語冒頭の「祇園精舎」や、光源氏が庭で夜もすがら
遊びに興じる場面を歌った「春の宴」および、平家一門最後の場面を曲にした「壇の浦」
の3曲を披露。
この演奏会の連絡先として
琵琶学研究会( 052-722-6502 )が載ってましたので、ご参考まで。
北川鶴昇氏は各地で演奏や講演活動を続ける一方、名古屋・栄の中日文化センターの講師
を務め、後進の指導にも当たっている、と書かれていました。
ホンヤからの手紙には:
昨年1月には名古屋市博物館で「尾張の天王信仰」の企画展があり、津島神社の神官でも
ある服部家ホンヤからも徳川家康拝領の小袖を始め、屏風など12点出品した、と
書かれていました。
「津島神社」は伊勢・尾張南朝方の拠点で、「浪合記」には服部家ホンヤは平宗清の子孫
と書かれています。
「流れ」というのなら反論はありませんが。。。
また、「浪合記」は徳川家の系図捏造?に使用されたので、明治維新後の価値はかなり
低くなっています。新田(源氏)の4男の子孫である得川家より徳川氏が出た、という
お話です。で、徳川氏も南朝方だった、と。
江戸時代のホンヤは徳川氏と共に栄え共に滅んだので今でもお声が掛かるようでした。
ホンヤは別に「平家の子孫」は標ぼうしていません。南朝方以降は隠せないので時々
名乗ってますが。
それから、ホンヤからの手紙に、
今年の雛祭りでは、名古屋の徳川美術館で2月15日から旧暦の雛祭りに当たる4月9日
まで、徳川家の雛人形展が開催されるので、ウチのを借りに来る、と書かれていました。
同封の新聞記事によると、これは天保12(1841)年にホンヤに嫁に来た人が持参した物で、
御殿にみたてた高さ2。5メートルの5段飾りに人形などが飾られているそうです。
御殿侍やお庭番の人形もいるんだそうです。←お庭番って?
階段を昇る勅使は背を向け、段を昇る格好のまま飾り付けてある。
内裏さまの狩衣とお雛さまの12単衣には、天皇家が使用した「16弁の菊」や
「桐」の御紋が刺繍されていて、興味深い、と新聞記事に書かれていました。
ホンヤは、保存が悪くてボロボロだから恥ずかしいんだけど、と書いていましたが。
赤間神宮は壇ノ浦で入水した安徳天皇を祀る下関市の神社ですが、海底の竜宮城を模した特徴的な水天門は昨年9月の台風18号で屋根の銅板がはがれるなどの大きな被害を受けました。
その修復の屋根の張り替えが最近始まりました。屋根の破損は水天門の他、社務所にまで及んでいましたので、今回は水天門とそれに続く回廊、社務所のすべての屋根を張り替えることになりまして、使用する銅板は12,500枚にも上るそうです。厚さ0.4ミリの銅板を使って、今後最低でも50年間は持つのだそうです。
ちなみに工費は2,500万円で、工期は4月10日まで。銅板張り替え直後のしばらくは金色に輝く水天門を見ることが出来るので楽しみです。
赤間神宮のオフィシャルサイトはこちら。http://www.tiki.ne.jp/~akama-jingu/
こんなレスを頂きました。
(この項、幕末サバイバルゲームの重複)
幕末ごっこで盛り上がってますね。
平安時代しか知らない私にはいまいち話が見えません(泣)。
だからたとえば「源平合戦 RPG」
あなたの宗盛度は95%(おろおろ)なんてのがあったら、とても分かりやすい。
その他
・あなたの俊寛度
・あなたの行平度
・あなたの敦盛度
・あなたの海尊度
・あなたの小督度
・あなたの後白河度
なんてあったら,世情を計る上でもすごく楽しかったりして。
群馬県の赤城山には平家の落人が逃げて行ったようです。
そんなメールを頂きました。
本人によりコメントは削除されました。 2000年02月15日 12時47分51秒
伊藤姓と伊東姓の違いについてメールを頂きました。
伊藤と伊東は同じ本姓藤原氏出身です。
伊藤さんは伊勢に下った藤原さんで
伊東さんは伊豆の藤原氏ということでございましょう。
伊東さんの方も平家方ですから、伊勢の伊藤と伊豆の伊藤が同じでは不便なので、
それに坂東の<いとう>ということで伊藤から伊東に変えたのでは?
でも混同もありますよね。
「彦島」と「彦部」氏との関係を尋ねられました。
残念ながら関係は無いと思います。
「彦部」氏は足利尊氏の家来の高 師直の1族です。
天武天皇6世の孫、高階峯緒の末で
高階を縮めて「高」とだけ称したそうです。
1説に「高麗帰化族」ではないか?とも。
この高階の支族に
太田原、大多和、岡松、南、大高、小高、大平、窪田、
彦部、刑部、芦屋、田中などがあるそうです。
「彦島」の名前については、よくわからないみたいで、8世紀頃にはすでに漢字表記では「引島」、つまり、「ひくしま」または「ひきしま」または「ひけしま」と呼ばれていたことが文献に残っているようです。
その後しばらく「彦島」と呼ばれていたそうですが、知盛さんが、「彦島」の名称を古来の「引島」に改めたのではないかという説もあるようです。敵を引きつける意味があったのでは? と言われています。
で、再度「彦島」に戻ったことが予想されるのが、彦島の古文書に「建保2年(1214)4月2日、和田義盛五男朝日奈三郎の弟和田伝左義信来たり、父通成に頼みて比里に住す。義信の歌に「比里は彦豊出見の命のり それを名付けて彦島とかや」 これより引島を彦島と改名す」とあるのだそうです。
書いている自分も時代の流れと変化がよくわかりませんので、機会があればまとめてみます。
だいぶ前に、「関連書籍」で紹介した、内海清美さんの和紙人形で作られた平家物語絵巻「観●平家」が、パリの日本文化会館で展示されていて、パリの人々の関心を集めているのだそうです。今朝のNHKテレビニュースでやってました。
野間は源義朝が平治の乱に失敗し、家来の鎌田の妻の実家(長田氏)に身を寄せた所、元が平氏出身の長田ということもあり、源義朝を入浴中襲って殺しました。
知多半島にあります。
私は子供の頃、よく海水浴に行きました。
中部新空港漁業補償
野間漁協、55億円で決着
愛知県関係の交渉完了
中部国際空港(伊勢湾常滑沖)の漁業補償問題で、愛知県は十五日、同県知多
郡美浜町の野間漁協(大崎正明組合長、組合員約二百五十人)に対し、最終の補
償額として前回より三億二千万円上積みした五十五億円を提示した。漁協側はこ
の受け入れを決めた。難航した野間漁協が決着したことで愛知県漁連関係の補償
交渉はすべて終了し、暗礁に乗り上げている三重県漁連と中部国際空港会社(平
野幸久社長)との交渉が焦点となる。
愛知県は今月十日、同漁協に五十一億八千万円の補償額を初めて提示したが、
漁協側は「漁場が受ける被害に見合った額ではない」と拒否していた。最終提示
は、松島淳登同県副知事が「最終的な提示で、精いっぱいの額だ」と説明し、理
解を求めた。漁協側は役員会で協議して受け入れを決め、県側に伝えた。
大崎組合長は「不満はあるが、交渉を決裂させるわけにはいかない。役員の全
員一致で受け入れを決断した」と説明。また、国への空港島などの埋め立て免許
申請については、役員会で議題にならなかったが、「補償を受け入れる以上、埋
め立て手続きなどを進めるのは否定しないという認識を持っている」と話した。
野間漁協を除く愛知県漁連(四十一組合)との漁業補償は、すでに計三百八十
四億六千万円で決着しており、独自に交渉した野間漁協を合わせた補償総額は四
百三十九億六千万円となった。
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