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投稿番号:40195 投稿日:1999年10月05日 22時04分40秒  パスワード
お名前:服部 明子
 

平家物語の史跡を訪ねて その7


コメントの種類:歴史


千葉江州氏の「平家物語の史跡を訪ねて」近江・伊勢・志摩編です。

史跡に加えて観光案内も非常に詳しく親切にお書きです。
平家物語の史跡をお訪ねの方は是非参考になさって下さい。


千葉江州さんからのコメント(1999年10月07日 18時11分53秒)
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平家物語を始めとして、京都は外せないところですので、皆様も幾度となく訪れられていると思いましてちょっと京都を通り過ぎたところから源平由来のものを眺めていきたいと思います。(ちょっと天の邪鬼ですが、お許しください。)

近江の街道遊歩(その一)
JRで京都から山科のトンネルを抜けると滋賀県になります。車では名神高速道路で京都東ICを下りて京滋バイパスに入って少し行けば滋賀県です。かつて近江国と呼ばれたこの地はそっくりそのまま滋賀県に名称が変わってしまったのですが、京都と同じように盆地に集落が栄えたところでもありました。ただ、やや西寄りに琵琶湖という大海が横たわっており、西岸と東岸、北岸と南岸で随分風景も違ってきます。

西岸の堅田(かただ)には山本義経、柏木義広の兄弟が勢力をもって平家に盾を突いていたことで知られています。吉川英治の「新平家物語」にも山本義経は源義経と象徴的な出会いをする場面を用意されていました。二人義経の掛け合いは何処までが史実であったのか分かりませんが、面白い話ですね。義経同人説もあるようですが、山本義経も鎌倉政権が成立して間もなくの頃より史上から姿を消しているようで、何らかの脈絡があるのではと疑問を生じさせたのでしょう。

琵琶湖の岸は葦の生い茂った状態に当時はあったのでしょうが、今ではそのようなところを見付けるのも難しくなっています。山本義経らは琵琶湖の水上交通を握っていたのでゲリラ的な活動ができたのは理解できますね。義仲に味方したり、鎌倉に寝返ったりしつつ要領よく立ち回っていたようですが、鎌倉の政権が守護として佐々木氏を置いて以後は振るわなくなったようですね。

千葉江州さんからのコメント(1999年10月07日 18時12分46秒)
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近江の街道遊歩(その二)
西岸には比叡山が聳えています。平家物語には欠かせない大立ち回り役者を輩出した延暦寺がありますね。私から十代前にこの寺に入って蓮華院の主にまで栄達した人物がおりました関係上、延暦寺は訪れます。(もっとも社員の厚生施設が叡山ドライブウェーの料金所前にあるものですから、そこをよく利用しているのですが…。)平家物語に限らず京都の鬼門筋に鎮座するこの寺には都の権門達も梃子摺った様が描写されています。今年も5月のGW終わり頃に訪れたのですが、桜はまだ残っていましたよ。少し標高が高いので少し遅れての花見ができました。

御存知のように豊織時代にその山全体が烈火に覆われた経緯がありますので、平家物語時代を臨んできた建物は数少なくなっています。延暦寺へ辿り着くまでの道でところどころ京都の町並みが見える箇所があるのですが、源平時代の僧兵達はここから強訴のために下りて行ったのですから、逆に帰りの上りはさぞかし辛いものがあるなあと思ってしまいました。今では車で易々と延暦寺まで乗り付けることができますから有り難いことです。

叡山から西へ下りて行くと八瀬の方角へ辿り着きますが、更に北へ進路をとれば鞍馬になります。牛若丸が鞍馬寺に稚児としていながら、野生児的に育ったのでしょうか?そう思いたくなるほど鞍馬ってところは野趣溢れた風景が現在まで残されているところですね。高校生の頃には遠足と称して京都に現地集合して一日で20kmくらいを走破するような強行軍の徒歩を強いられた思い出があるのですが、高尾の神護寺も鞍馬もそうやって歩いた苦痛の思い出のあるところでもあります。でもそうやって地に足の着いた歴史の勉強をさせられたのかなあと今になって思い返すことが多いですね。

平家絶頂の頃は即ち対抗勢力がぐうの音も出ないほど叩きのめされていた時期でもあり、かえって世の中は静謐になっていたのではないでしょうか?その都を文覚や弁慶らが往時の都を闊歩していた姿を見ただけでも痛快だったことでしょうね。(本当に見て見たい気がします。)でも彼らのネグラは高い山にある神護寺や延暦寺だったのですから、往時の人達の中でも抜きん出た健脚を誇る猛者(アスリート)だったことは間違いないでしょう。

千葉江州さんからのコメント(1999年10月07日 18時13分33秒)
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近江の街道遊歩(その三)
京都の八瀬の方から叡山へ上がってくる途中に四明ヶ岳があります。ここから平安京を眺めながら藤原純友と平将門が密約を交わした場所として知られたところです。純友は西日本を、将門は東日本をそれぞれ分け取りにしようという豪快な内容だったのですが、それぞれ共目的を達することなく鎮圧されてしまったですね。豪傑同しが都の鬼門で物騒なことを相談していたなんて当時の人達も随分と驚いたことでしょう。勿論よく出来た作り話だったと思いますが…。

叡山から東の方を臨みますと今度は眼下に大津の風景が開けています。瀬田のところから堅田の琵琶湖大橋まで目に入ってきますから、義仲が北陸から大挙攻め上ってきたのも見えたのでしょう。叡山の僧兵も平家の都落ちで追い落としに一役買ったことでしょう。中央付近には少し形の奇麗な山が見えますが、それが三上山です。野洲郡にあるこの山は古くから伝説のあることでも知られています。

私の先祖達が移住してきたのは三上山の少し東側に行った在所なのですが、まったく同年に遠い一族に当たる大名の遠藤家が三上山に転封されてきました。その三上山は近江富士とも呼ばれるあまり高くはないのですが、非常に形の美しい山です。三上山というと古典をよく御存知の方は俵の藤太の百足退治を思い出される筈です。三上山に住んでいた龍神が大百足にその聖地を奪われ、瀬田の橋の上で困窮していたところに東国への帰途にあった藤太が通りかかり、龍神は藤太に百足を退治てくれるよう懇願したのでした。藤太は得意の弓矢で難敵大百足を倒して龍神の願いを叶えてやりました。龍神はお礼にと、宝物であった食べても尽きぬ俵を藤太に授けたのですが、その時以来藤太は「俵の藤太」と呼ばれるようになり、宝物のお蔭で家の子郎党を大勢養う優勢の豪族になったとされる伝説を子供の頃によく聞かされたものです。

俵の藤太は実は藤原秀郷の別名でもありました。彼は平将門の乱を鎮圧した人物としても知られています。将門の勢力がだんだん大きくなってきたので、その味方に参じようと将門の陣を訪ねたところ、将門は一緒に昼餉を摂ろうと誘い、秀郷もお相伴したのでした。でも将門の御飯の食べる様は幼児のようで、ぼろぼろとお椀から御飯粒を零すのを見て、将門は将たる器にあるまじき人物と悟って陣を辞し、将門を討伐する軍の先頭に立ったとされます。結局将門は俵の藤太が放つ名人級の弓矢によってこめかみを射抜かれて絶命しています。その将門の血が将門の娘を通じて千葉一門に継承され、その末裔である遠藤家が三上山に戻ってきたということで何やら因縁めいたものを感じます。

服部 明子さんからのコメント(1999年10月07日 22時06分35秒)
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<近江街道 その1>

山本義経は<義経>という名前の偶然の一致で源義経と混乱されたのでしょうか?
それとも?

この人物は近江源氏山本義定の子供とも言い、源範頼・義経が鎌倉から来ると歴史
から姿を消して?いますが近江出身の佐々木源氏兄弟の勢力下にでも入ったのでし
ょうか?それとも佐々木との反目で消えていったのでしょうか?面白そうですね。

吉川英治の「新平家」では新宮の息子として書かれていましたよね。チビで出っ歯
で品が無い、などとかなり悪意が入っていましたが源義経の特徴そのまま?のよう
でもあり、これも歴史の謎ですねぇ。常盤御前の息子なら源義経はハンサムだった
でしょうが父親に似ればブ男だったかもしれませんし、先祖返りでご先祖の誰かに
似て醜かったかもしれませんし、山本義経は源義経の身代わりに損な外見にされた
のかも知れません。

歴史上の3流以下の人物はこういう扱いをされるのか、と気の毒になります。

服部 明子さんからのコメント(1999年10月07日 22時19分07秒)
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<近江街道 その2>

私は雄琴方面から比叡山に上ぼり、京都に下りました。

この道を比叡山の僧達は都に雪崩込んだのか、と感慨深いものがありました。
かなり距離がありましたから、駅伝のように各坊所で待ち受けてて、リレー形式
で京都に入ったのかしら?と空想しました。比叡山に登ぼるにも大きな山ですから
どこかで泊まったのかしら?とも思いました。

20キロの<遠足>ですか?
昔の人は健脚でしょうから、やはりその日の内に登ぼり、逆に、京の都に雪崩込んだ
のでしょうか?

比叡山の強訴に脅える京の姿が納得出来ました。

服部 明子さんからのコメント(1999年10月07日 22時50分05秒)
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<近江街道 その3>

藤原秀郷が登場しましたね。
私は今年4月の里帰りでは栃木県田沼の秀郷の墳墓に参りました。
唐沢神社の方ではありません。

面白かったですよ。墳墓を捜している時に、町の人に場所を尋ねましたら
途端に雷鳴が轟き渡りましたから。
聞かれたのかしら?と思いました。

千葉江州さんからのコメント(1999年10月14日 18時16分08秒)
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8月の計画年休以来久し振りに連休というものを味わっておりました。(最近週休1日が続いていたものですから)
明子様もお書きのようによほど大きな足跡を残さない限り歴史に名をとどめることなど難しいことですから、山本義経などはどんなに歪曲をした書き方をされても致し方ありませんね。勿論、私どもの先祖にもそれは言えることで、歴史の途中で舞台から下りてしまいますと悪くすればそれまでの功績も塗り潰されて消されてしまいます。(もし文才と語学力さえあれば、外圧で歴史のひずみを元通りにすることさえできるかも知れないのに…。残念ながらどちらも持ち合わせていないので…ううっ、無念。)さて、道に戻りましょう。

近江の街道遊歩(その四)
叡山からの眺めでもう少し近くに視線を移しますと義仲寺が麓にありますね。義仲は鎌倉軍に敗北して北陸落ちをした際に、この叡山の麓で三浦党の石田某の放つ矢玉の餌食になり命を落としてしまったのですが、今も義仲寺で祭られているのは御存知の通りです。義仲はこの道を通るのは生涯で二度しかなかったのですが、上りは平家を追い立てる勇壮な上洛でありながら、下りはとうとう故郷には辿り着けず、近江の泥田に馬足を取られて的になった。何か空しい一生のようにも思えますね。

義仲の描かれ方も少し将門と似通ったところがあるように思えてなりません。新平家物語でも薄汚れた椀で猫間中納言(であってましたかね?どうも不確かです)相手に昼餉を共にしようとさあ一緒に食えと催促する場面が出てきましたよね。どうしても鎌倉殿を是とするには義仲を非としなければならない勧善懲悪のシナリオが見て取れそうです。いくら木曾の山奥で育ったからといって、そう下品に人間育つとは思えないのですが、田舎者のレッテルを貼られてしまうところに義仲にも同情の余地があります。

義仲のいい時期も平家を都落ちさせて少しのほんの一瞬だったですねえ。後は無理矢理後白河法皇に急かされて西国討伐に仕向けられ、挙げ句の果てには水島で大敗してしまう。負けが込むと今まで手を捏ねて追従していた者達もどんどん逃げ去って、気が着けば元の親衛隊のみになっていた。その上、後白河法皇は鎌倉の頼朝を上洛させようと手引するなど義仲にとってはヤラレ放題。遂には落日の身の上ながら、皮肉にも後白河法皇から旭将軍の名を賜るなど位打ちにも近い処遇だったですよね。征夷大将軍の宣下を受けてわずかの期間でその生涯まで幕引きを迫られようとは彼自身夢にだに思っていなかったことでしょう。

少し源平時代から下って織田信長の時代には安土に異様な城郭を築いていたのですが、叡山辺りから見ると周辺には高い建物はなかったでしょうから、非常に目立ったことでしょうね。現在の風景では大津から少し左手側に大津プリンスホテルが琵琶湖に面して屹立しているのですが、非常に湖に映えていますから、ちょうどそのように琵琶湖に姿を映す巨城が大津プリンスホテルの位置からもう少し左手に見えたことでしょう。天下に号令を下さんとしていた信長の腐心は想像を絶した形で実現されたんでしょうね。

ちょっと叡山から見回した限りでも源平ものに関わる事物がたくさんあります。まあ日本の歴史の大部分がこの京都を中心にして回ってきた経緯がありますから、この辺りに集中してあるのは当たり前なのですが、それにしてもちょっと移動するだけで「何それの由緒のある事物」に行き当たってしまうのに街の歴史の重みを感じたりしますね。でも近江の入り口辺りでのろのろしていると先へは進めませんので、少し東に転じてみましょう。

千葉江州さんからのコメント(1999年10月14日 18時17分36秒)
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近江の街道遊歩(その五)
大津から東へ国道1号線を進んで行きますと膳所があり、石山寺を右手に過ぎていきます(ここで源氏物語に絡む話をとお望みのところかも知れませんが、筆者は古典が大の苦手ときておりまして、申し訳ありませんが素通りさせてください<@>)。結構この間はよく渋滞してまして抜けるのに時間が掛かります。栗東まで混みますが、それからは結構すいすいと動いていきます。実は栗東付近からは名神高速道路と国道は違う方向に分かれていきますので、車の量も減ってくるようです。栗東から半時間も走らせればかつて甲賀と呼ばれた町々が目に入ってきます。

甲賀は忍者の里として伊賀と共に有名です。甲賀(こうが)と呼び習わしされていますが、土地では(こうか)と濁らないと聞いてます。実際に日本語のWORDで入れてみたところ、どちらでも甲賀が選択できます。甲賀は信長に盾突いたために攻められて本拠を灰燼に帰されてしまっていますから、今ある忍者屋敷と称するものは随分後世になってから建造されたものでしょうね。源平合戦の時代にはまだ忍者という職業は見当たりませんから、この当時の甲賀も農民の里だったのかも知れません。

忍者といえば伊賀と甲賀が関西では双璧となります。その伊賀と甲賀は鈴鹿山系を隔てたに過ぎない近距離に位置しています。幾分山がつの伊賀は伊勢平氏系の末裔が盤拠して勢力を数百年に渡って溜めていって一挙に戦国時代に開花していったのでしょうね。それにまだ織田家に従属していた徳川家康にいち早く味方していたことから、結果として江戸時代に勢力を盛り返すことができたのはご承知の通りです。それに引き換え甲賀は大きな街道沿いにあったので早くから情報収集に長けた侍達が忍者として発展していったのかも知れません。ただし、甲賀は戦国末期から劣勢に立たされ、結果として逼塞せざるを得なかったんでしょうね。それよりか、商売換えをして商人として立身していく術を見出したというのが正しいんでしょうか。

甲賀から少し北に入って行くと近江商人達を輩出した日野、五個荘、八日町、近江八幡といった町が連なって点在しています。兼松江商、伊藤万、伊藤忠とかいった錚々たる商社の創始者達もこれらの町から世界へ進出していったのです。近江商人の形態自体小さな商社みたいなものでしたから、天秤棒を担いで行きは薬を行商して、帰りは日本各地の物産を担いで持って返ってくる。日本の一大流通拠点の機能を荷っていたといっても過言ではないですね。

私の先祖が代々住んでいた場所のすぐ近所からも銀座中村屋の創始者が出たと聞いたことがあり、さすがに凄い土地だなと思いましたね。情報通ということでは甲賀忍者の血脈を彼らも受け継いできたのかも知れません。傭兵や忍びで日本各地の大名に雇われた経緯がありますから、日本の至るところの情報が近江で交換されていたのかもしれません。世の中が泰平になると忍者の子孫達も生活に立ち行かなくなり、やむなく先祖伝来の薬草の技術を生かして日野の薬売りとして活路を見出したのかも知れません。今でも日野の辺りには配置薬(これって日本独特の形態で欧米ではないものですね)の製造業や販売業を営んでいるところが多数残っています。(もう一つ富山の薬売りも有名で、近江の日野と同じような形態で産業が成り立っています。)

そうでないと関西屈指の穀倉地帯の近江の集落にあって、どうして世界的な流通業を興隆させていくことができたのか説明が着かないくらいです。それくらい甲賀忍者の血脈が地に染み込んでいたのではないかなあと思うのです。

服部 明子さんからのコメント(1999年10月14日 22時40分47秒)
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<その4)

義仲寺が出て来ましたね。
私も行って来ました。

「木曾殿と 背中合わせの 寒さかな」と句が詠まれていましたね。

小さなお寺ですが供養されていて嬉しかったです。
石山寺の近くの場所には今井兼平のお墓があるそうですね。青嵐町?とかに。
こちらは行けませんでした。
機会があったら行ってみようと思います。


義仲の「猫ご飯」の話、将門の「食事マナー」の話。
底にあるのはどういう意味なのかしら?と思います。

東南アジアの人のお弁当を見ますと「ご飯の上」に汁系のおかずが乗っていて私には
げぇっとなりますが、日本の「丼物」と思えば理解も出来ますから、当時の人々には
「あんな食べ方を」と軽蔑はしても理解はして上げなかったということでしょうか?

ご飯は白いまま食べるものだ、落とした飯粒なんか大将たる者拾って食べるな、とい
う意味だったのでしょうか?今1つ分かりません。

服部 明子さんからのコメント(1999年10月14日 23時02分38秒)
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<その5>

甲賀が出ましたね。
私は名古屋から伊賀上野に出て、柘植に戻り、大津に出る途中で甲賀を通りました。

伊賀と甲賀は山を隔てた背中合わせの町でした。ほんの数キロの距離のようでした。
伊賀と甲賀は昔は同じ国の中にあったのに後に別の国に入れられたというのを読んだ
ことがあります。でも隣同士というのはえてして仲が悪いですから別の国に入れられて
対抗し合っていた、と思う方が理解し易いです。

甲賀忍者の末が後世の日本経済に活躍貢献した、とのご指摘はいいですね。伊賀忍者が
ストを起こして結束を乱し頭領が政治問題で失脚して力を失い日本の歴史から衰退して
存在を消したのとは対照的で。

伊吹山は古来より薬草の取れる山として知られていますがさすが御本業でございますね。

千葉江州さんからのコメント(1999年10月16日 15時48分41秒)
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明子様、お褒めをいただくとは恐縮する次第です。
伊賀が出てきたついでに、関連してちょっとコメントを書き足しておきました。

近江の街道遊歩(その六)
伊賀と甲賀は確かに隣接したところにあります。実は鎌倉時代の宝治年間頃(1250年)から室町初期(1350年)のおよそ一世紀の間下総に本拠を持っていた千葉氏が本国下総の守護と共に伊賀の守護も兼任していました。(北条氏が絶頂の頃に何故か守護国が増えたところが不思議ですが…。)千葉氏も京都趣味が多分にあるようで、関係する出先の土地土地に後世小京都と呼ばれるような区画整備をして城下町を形成してきた経緯があります。肥前小城、美濃郡上八幡、伊賀上野が代表的なものでしょうか。当然本拠地の下総も猪鼻台と呼ばれる居館を中心として現在の千葉市の基となる城下町を造っています。特に、肥前の小城には祇園祭まで勧請してきたと謂われていますから相当の京都趣味だったと思います。

伊賀にも一世紀の間足跡を残してきた筈なのですが、今では見る影もありません。伊賀と甲賀とも私の家にとっては密接な関係を持つ場所だった訳ですが、何も残っていないというのも味気無いものですねえ。そういうことで三重県に所属している伊賀地方ですが、いつも通過だけしていまい、最近では散策もいておりませんので残念ながら何も書く術がありません。(悪しからず)

寄り道ついでに書き足ささせていただきます。
国道1号線の北側に旧の東海道が併行して続いています。結構蛇行して道が続いているのですが、歩いてみますと何と無く昔の街道を行く雰囲気は味わえます。ただし、明治以前は土の道で幅もあまりないとくれば歩き勝手のよい道とは言えなかったんでしょうね。最近の研究ではかえって大和朝廷時期の方が大規模な道路作りを展開していたことが分かってきているそうですから、江戸時代に徳川幕府の政策で道の劣悪化を促したのかもしれないですね。

敢えて関ヶ原のある北側の回廊を避けて進んでいますが、鎌倉末期から近江の中央から北部に掛けて古戦場が点在するようになりますよね。これって東南部が東海道の本道で賑わってくるためにわざと避けたのでしょうか。御存知のように、関ヶ原の付近は冬場に雪が降り積もり易いところですから、あまり集落も大きいものができなかったんでしょうかねえ。父も日野の辺りまで雪が積もるのは大雪の年くらいしか知らないようなことを言っていましたから、よほど住み易いところだったんでしょうか。

千葉江州さんからのコメント(1999年10月16日 15時50分50秒)
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近江の街道遊歩(その七)
近江もかつて都があった関係上(百済の援護で兵を出して白村江の戦いで新羅に負けたので、新羅が日本に攻めてきても防衛できるように内陸の近江まで首都を移したというのが実状だったようですね)随分早くから開けていたはずですが、大津の付近を外れると途端に田園風景が広がっていたと想像されます。源平合戦時代には大軍が往来する通路としての機能しか果たさなかったのですが、それでも東海道と北陸道に平家も幾度となく大軍を繰り出しています。大軍が通過するということは近江の穀倉が兵糧として徴発されたことでしょうから、治承から寿永に掛けては随分疲弊したことだろうと想像します。それでなくともその後義仲や鎌倉の軍勢も征西のため往来していますから。

この地は琵琶湖の東南に当たる甲賀から近江八幡にかけてもなだらかな丘がある盆地になっており、日本有数の米産地帯でもあります。江州米(ごうしゅうまい)として美味しいお米の代名詞にまでなっていますね。米の銘柄としてはコシヒカリなどではなくて日本晴だったかと記憶しています。そういう関係もあって、当時から兵糧の補給地としての存在価値があったのではないかと思うのです。

穀倉地帯でありながら、近年では工業団地が各所に出来て京阪神に拠点を持つ企業の工場が多数車を走らせていても目に入ってくるところとなっています。たぶんほんの20年ばかり前の風景を見覚えている人が見ればとんでもないほど景色が変わっているところでもあると思います。

この辺りに来ると源平合戦に関わるものが随分希薄になってきます。もう少し行けば伊勢なので、文字通り伊勢平氏発祥の地になる訳ですが、かといって佐々木流源氏が跳梁し始めるのは鎌倉期に入ってからですので、源氏の痕跡が認められるのはやはり尾張まで行かないとありませんね。尾張には熱田神宮もあり、義朝を謀殺した長田氏の本拠もあり、随分源氏の色が鮮明になるのですが、近江の東南地域は世の中が引っ繰り返る時にひょこっと姿を現すんですよね。

水口(みなくち)を過ぎるとますます景色は寂しくなって、更に東へ行きますと鈴鹿山系が近づいてきます。鈴鹿山系の峠を越えると更に雰囲気が変わってきます。いよいよ伊勢に入っていくことになります。

服部 明子さんからのコメント(1999年10月16日 19時02分13秒)
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<その6>

伊賀は信長の伊賀攻めで蹂躙されていますから、高尚な町の作りが当時にも残っていた
としても、信長の時代に失われた、と思います。

篠田監督の「ふくろうの城」はその時代が背景か、と思います。
アメリカでも公開されるようなので見に行こうかと思います。
でも千葉氏の町作りは多分時代考証されていないでしょうね。
忘れ去られているのでは?と思います。


>最近の研究ではかえって大和朝廷時期の方が大規模な道路作りを展開していたことが
>分かってきているそうですから、江戸時代に徳川幕府の政策で道の劣悪化を促したの
>かもしれないですね。

大和朝廷の時代の伊賀は政権の場に近く、重要性があったかも知れませんね。
大陸からの人々を伊賀に住まわせていますし。
天智天皇の息子で天武天皇に敗れた弘文天皇(←おくり名ということでしょうね)の生
母は名前からしますと、伊賀出身のようですね。


>鎌倉末期から近江の中央から北部に掛けて古戦場が点在するようになりますよね。

はい。近江は戦いの十字路だった、という表現がぴったりですね。やはり壬申の乱が最
初の大きな戦いで、その後は源平、そして鎌倉末期には新田の敦賀落ちがございました
し、戦国時代は「「「戦場」」」でした。

のどかな田園地帯になっているのを20年くらい前に見たことがございますが(ここで
日本の雌雄を決した場所だったのか)と感慨深いものがございました。

服部 明子さんからのコメント(1999年10月16日 19時35分45秒)
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<その7>

天智天皇は白村江で敗れて「彦島」で大陸からの進攻を防ぐつもりだった、と司馬遼太郎
の作品に書かれていました。


>穀倉地帯でありながら、近年では工業団地が各所に出来て京阪神に拠点を持つ企業の工
>場が多数車を走らせていても目に入ってくるところとなっています。たぶんほんの20年
>ばかり前の風景を見覚えている人が見ればとんでもないほど景色が変わっているところ
>でもあると思います。

でしょうね。私のイメージ・カラーは「緑」でしたから。
因みに愛知県の「日本晴れ」はマズイです。炊き方が悪かったかも知れませんが。 (^^;


>水口

水口は甲賀地方の中心で、石田三成の懐刀の長束正家が城主でしたね。
滋賀は大坂の守りということで、地名を見ていると重要人物の城がたくさんあった事が分
かりますね。

千葉江州さんからのコメント(1999年10月19日 18時00分55秒)
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近江の街道遊歩(その八)
東海道筋に私の先祖達は棲んでいて、しかも蒲生氏の居城跡に屋敷があったと伝え聞きます(私の家も遠藤家と同じく因縁めいたように秀郷流と関係がありましたね)。有名な浅井氏小谷(おだに)城ではなくて、蒲生賢秀の一族に当たる人物の居城であった小谷(こたに)城です。まあ、城といっても周りに簡単な濠を巡らせた館のようなものだったんでしょう。

蒲生氏も秀郷の流れを汲む家柄ですが、氏郷が出るまではマイナーな氏族でしたね。ところが、結局わずかな期間しか大大名として存在できなかった。氏郷という人物は才気走っていたところが表面に顕れ過ぎていたために秀吉は遠ざけたんでしょうか。氏郷は信長の娘婿にされたぐらいでしたから、信長亡き後にうまく光秀を討てれば自身が後継者になれたのに、衆寡敵せず安土城を明け渡して父賢秀と共に蒲生城へ退いてしまったのは彼自身悔やんだことでしょう。随分北方に追いやられて鬱積した気分を残したまま若くして亡くなってしまいますが、滋賀県でも近江出身の武人としては人気の高い人ですね。

近江は結局佐々木氏が守護となり、京極氏・六角氏に至るまで延々と近江との関係を保ち続けた訳ですが、ご多聞に漏れず安土桃山から江戸時代に掛けて支配者の入れ替わりが進み、近江最大の大名は井伊家となりましたね。つい最近まで彦根市長は井伊家の当主だったか、その弟だったかが就任されていたと記憶しています。そこまで続けば大したものです。近江は江戸期に各家に細かく所領が振り分けられたため非常に錯綜としており、町や村単位で所領を色分けすると迷彩な図柄が出て来るほど複雑でしょう。

そろそろ話の種も尽きてきましたので鈴鹿を越えて行きましょうか。

服部 明子さんからのコメント(1999年10月19日 23時04分52秒)
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<その8>

小谷は<おだに>と<こたに>の2箇所あったのですか。蒲生氏の<こたに>は知りません
でした。

蒲生氏郷は伊達政宗とも虚々実々の駆け引きをしていますね。

彦根の井伊家は幕末に損なクジを引いてしまい気の毒でしたから地元では支持を受けている
のでしょうね。

近江が細分された、というのは戦略的に重要な場所は天領だの各家に配分した、という説を
読んだことがあります。

戦国時代の近江は佐々木家・京極家・六角家・武田家などの名門名家が絡んで滅びていくと
ころが日本の歴史そのもので興味の尽きない場所ですね。

千葉江州さんからのコメント(1999年10月23日 10時33分41秒)
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少し仕事が忙しくて書き込みができませんでした。
紅葉前線が随分本州の半ばまで下りてきたようです。でも関西の紅葉は11月いっぱいは楽しめますので適当な時期に休んででも気晴らしに行きたいものです。
さて近江を後にして伊勢・志摩に入っていきましょう。

伊勢・志摩の街道遊歩(その一)
三重県は京阪神の人にとっては近畿地方にありながら何と無く馴染みの薄い県なのは、三重県自体が中京圏の経済流通機構に組み込まれているせいかもしれません。ただ、小学校の修学旅行はお伊勢さんというのが定番であった時代も長く続きました。ですから、関西圏で京阪神に住む人にとっては小学校の修学旅行で行く以外はよほど伊勢志摩という地方へ遊びに行くのが好きな人を除いてあまり訪れないというのが実状ではないでしょうか。(私は大学生の頃に悪友達と毎年志摩へ遊びに行っていたこともあって、その後も幾度となく足を運んでいます。)

年配の人達にとってはお伊勢参りが人生の上でも重要な行事だったように聞きますが、それでも近年は伊勢や志摩のテーマパークが盛んにTVCMを流していますので、京阪神の人もようやく大勢詰め掛けるようにはなっているようです。(でも京阪神の特急列車は特急料金が要らないのですが、JRと同様近鉄は特急料金を払うというか座席指定券のようにして購入する必要があるため少し費用は掛かりますね。)

以前、徳島県の観光振興課に勤務される高校の先輩のAさんとお話しした時に自然や食べ物の豊富さ、四国八十八箇所などが徳島にはあるので明石海峡大橋が開通すれば随分人もやってきて地元もある程度潤うんじゃないですかと尋ねました。その際に伊勢と条件的にはあまり変わらないのでは、と水を向けたのですが、Aさんはきっぱりと「お伊勢さんがあるのとないのとでは集客力が全然違うよ」と半ば諦め顔で呟いていたのを印象的に覚えています。

国鉄がJRと私鉄化される以前に世界最長の営業路線を誇示していた近鉄はお伊勢さんでやはり持っているといっても過言ではなさそうです。(勿論、日本の大手私鉄でも最短の営業路線しか持たないながら阪神タイガースと甲子園で持っている阪神電鉄のような例もありますが…。)伊勢志摩の高速道路がまだ出来ていない時代は圧倒的に近鉄を使う方が便利でしたけれど、既に名古屋や京阪神の自動車道と伊勢志摩の高速道路が直結した今では車を使う利便性が増しましたね。特に、徳島からは6時間もあればじゅうぶん着いてしまう距離になりましたので(明石海峡大橋が開通するまではひどい時には大阪へ出るだけにその位要していたこともありましたから)、騎馬軍団ではないのですが非常に車の機動力が発揮できるようになりましたよ。

千葉江州さんからのコメント(1999年10月23日 10時36分06秒)
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伊勢・志摩の街道遊歩(その二)
国道1号線を走って鈴鹿越えをして最初に辿り着くのが関町です。ここで阪奈国道から西名阪自動車道に合流します。ここからは伊勢自動車道が鳥羽まで延びており1時間ちょっとで着いてしまいます。既に名古屋圏の影響が及んでいるのは大阪との距離から考えても明らかです。伊勢東北部は濃尾平野の裾に掛かるところに位置していまして結構視界が開けています。

日本でも街が拓けたのが屈指の古さを誇る伊勢ですから、どことなく昔の雅やかさが感じられるところですね。実は伊勢平氏がどの辺りに本拠地を持っていたかよく調べていないのですが、伊勢平氏がここを開発する以前から神官や禰宜に代表される伊勢大宮司に連なる勢力が居着いていましたよね。度会(わたらい)とか荒木田(あらきだ)といった名前を見ればだいたいその頃から延々と伊勢に根付いた人々(伊勢大宮司の神官や禰宜をなされていた家々)の子孫に当たることは間違いないでしょう。

平安末期に千葉常胤も相馬御厨の騒動では随分と荒木田家には便宜を図ってもらえるよう懇願した顛末が資料で散見されます。特に、平治の乱前後では常陸の佐竹氏と争うことになった相馬御厨の利権を巡って丁々発止の駆け引きをここで演じています。結局は敗訴して相馬御厨の下司職を失う羽目になってしまいますが、ここに平家討伐を硬く心の中に望んだのは論を待たないでしょう。でも遠く関東の下総からどのようにしてここ伊勢まで足を運んだのでしょう。

そう考えると、意外とも思えるのですが、実は現在の東京湾に面したところに勢力を扶植していた豪族達は皆水軍を所有していました。そして海上のネットワークは西日本の平家のものと遜色のないほどの機動性をもっていたかも知れないのです。鎌倉時代の中期になると資料でも明らかになってくるようですが、千葉氏は平家討伐の恩賞で北は奥州から西は肥前までの広域に渡って所領を獲ています。その間を実は海上ルートで繋いでいたらしいのです。果ては朝鮮半島から南宋までの交易ルートも開拓していたようです。

となると平家が保有していた海上ルートを鎌倉時代の御家人の中にも受け継いでいた形跡が推測されるのです。そしてこの伊勢が関東との中継点になっていて、近江の街道遊歩でも触れていました伊賀の守護領を経由して大物に出て、そこから四国阿波、中国備前、九州豊前に至る海上ルートを経て肥前小城に至るダイナミックな連絡通路を形成していたと考えられています。ただし、南北朝時代で千葉氏も下総と九州肥前の2系統に分かれてしまい、この海上ルートは機能しなくなってしまったと想われますが、享徳合戦(1455年)で内訌を起すまでは下総の当主が高野山の先祖の墓へ参拝に行ったことが記録に出てきますので、伊勢までの海上ルートは使っていたかも知れません。

服部 明子さんからのコメント(1999年10月23日 12時52分10秒)
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<伊勢その1)


>三重県は京阪神の人にとっては近畿地方にありながら何と無く馴染みの薄い県

ところが愛知県出身の私にとっても馴染みの無い県です。
多分、木曽川・長良川・揖斐川によって完全に隔てられているせいと思います。
それに三重県は「関西弁」ですから。


>近年は伊勢や志摩のテーマパークが盛んにTVCMを流していますので、
>京阪神の人もようやく大勢詰め掛けるようにはなっているようです。

でも、あのスペイン村って何なのでしょう?よく分かりません。


>Aさんはきっぱりと「お伊勢さんがあるのとないのとでは集客力が全然違うよ」と
>半ば諦め顔で呟いていたのを印象的に覚えています。

伊勢の枕言葉は「神」ですから。。。
それに皇室が氏子ですから。。。
パワーが違いますね。


>伊勢志摩の高速道路がまだ出来ていない時代は圧倒的に近鉄を使う方が便利でしたけれど、
>既に名古屋や京阪神の自動車道と伊勢志摩の高速道路が直結した今では車を使う利便性が
>増しましたね。

あぁ、そうでしたね。名四国道とかありましたね。忘れていました。


>特に、徳島からは6時間もあればじゅうぶん着いてしまう距離になりました

6時間とは短縮されたものですね。


神戸の福原は歓楽街だそうですね。伊勢の古市も歓楽街だそうです。
伊勢平氏のゆかりの町は別な形で栄えているようです。
「ここに平氏の作った都があったのですよ。ここは伊勢平氏を支えた藤原氏の出身地
ですよ」と言ってもぽかんとされるだけでしょうね。

服部 明子さんからのコメント(1999年10月23日 13時32分41秒)
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<伊勢その2>


>国道1号線を走って鈴鹿越えをして最初に辿り着くのが関町です。

ここは平重盛の次男の資盛が子供の頃に事件を起こした後、やられていた田舎ですね。
ここで子供を作ったそうで、その子孫だと織田信長が名乗っていますね。


>ここからは伊勢自動車道が鳥羽まで延びており1時間ちょっとで着いてしまいます。
>既に名古屋圏の影響が及んでいるのは大阪との距離から考えても明らかです。

この辺りは名古屋のベッドタウンなのかも知れませんね。
伊勢神宮辺りですと名古屋に毎日通うのは無理ですが。


>伊勢東北部は濃尾平野の裾に掛かるところに位置していまして結構視界が開けています。

伊勢東北部の山間部は「関ヶ原」のすぐ近くです。養老の滝にも近いです。
愛知県だけでなく岐阜県(美濃国)にも生活圏として係わっているでしょうね。


>日本でも街が拓けたのが屈指の古さを誇る伊勢ですから、どことなく昔の雅やかさが
>感じられるところですね。

太古から?古事記時代から?万葉時代からの旅行先ですね。
天皇家の娘が斎宮になって馬の背に揺られて伊勢に向かった、と描写されていますね。


>実は伊勢平氏がどの辺りに本拠地を持っていたかよく調べていないのです

津ですね。


>伊勢平氏がここを開発する以前から神官や禰宜に代表される伊勢大宮司に連なる勢力が
>居着いていましたよね。度会(わたらい)とか荒木田(あらきだ)といった名前を見れば
>だいたいその頃から延々と伊勢に根付いた人々(伊勢大宮司の神官や禰宜をなされていた
>家々)の子孫に当たることは間違いないでしょう。

そうでしょうね。
三重県は先ずお伊勢さんで開けて北の方向に開拓が進んだという感じですね。


>平安末期に千葉常胤も相馬御厨の騒動では随分と荒木田家には便宜を図ってもらえるよう
>懇願した顛末が資料で散見されます。特に、平治の乱前後では常陸の佐竹氏と争うことに
>なった相馬御厨の利権を巡って丁々発止の駆け引きをここで演じています。
>結局は敗訴して相馬御厨の下司職を失う羽目になってしまいますが、ここに平家討伐を硬
>く心の中に望んだのは論を待たないでしょう。

これで源平時代の佐竹氏の立場がちょっと分かりました。


>実は海上ルートで繋いでいたらしいのです。果ては朝鮮半島から南宋までの交易ルートも
>開拓していたようです。
>となると平家が保有していた海上ルートを鎌倉時代の御家人の中にも受け継いでいた
>形跡が推測されるのです。

「蒙古襲来」によると鎌倉時代伊予の河野氏も大陸と交易をしていたようです。

平家に出来たのですから他の家にも当然出来たでしょうね。ただ、当時、平家が独占して
利益を独り占めにしていたから反感を買っていたという構図が浮かんできますね。


>享徳合戦(1455年)で内訌を起すまでは下総の当主が高野山の先祖の墓へ参拝に行ったこと
>が記録に出てきますので、伊勢までの海上ルートは使っていたかも知れません。

そうでしょうね。
徳川家康も織田信長が暗殺されてから伊賀を越え伊勢から三河に逃れていますから
十分考えられますね。

服部 明子さんからのコメント(1999年10月23日 22時39分59秒)
 

本人によりコメントは削除されました。 1999年10月23日 22時43分32秒

服部 明子さんからのコメント(1999年10月23日 22時41分59秒)
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<伊勢その3>

信長が途中から伊勢平氏を名乗ったのにはなかなかのロマンを感じます。
福井県の剣神社の神主の子孫で藤原氏だったのに途中から平氏と名乗ったということ。

最近私は軟化しまして、信長の伊勢平氏子孫説を容認する傾向にあります。
というのは人間誰でも父方と母方とがありますから
父方が藤原氏でも母方が平氏なら平氏の子孫と称しても良いのではないか?と。
また祖父母の代に平氏がいるなら平氏でも良いではないか?と。

結局日本人は源平藤橘その他が複雑に婚姻していますから自分の都合でどの姓氏を
称しても虚偽ではないのでは?と。

信長の先祖に「伊勢の関氏」出身の女性がいたのだろう、と最近は思うようになりました。

服部 明子さんからのコメント(1999年10月31日 13時53分46秒)
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三重県:

伊勢・伊賀・志摩は神代の時代から栄えていた、と言っても良い地域なので?
土地の名前が読めません。ヨソモノには謎々のような地名で困ります。


志摩の地名:
国分。。。。。こう
国崎。。。。。くざき
波切。。。。。なきり
安乗岬。。。。あついざき

これらは「古事記」や「日本書紀」に現われる名前だと島田一男の「黒い時刻表」
<竜宮の姫食鮫>に書かれています。

服部 明子さんからのコメント(1999年10月31日 13時59分39秒)
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江州どの:

祖谷の平家祭りはお出掛けになりましたか?
様子を「平家物語の史跡を訪ねて その8」を新たに開設するか「平家物語の雑談」に
お書き頂けますか?

または「その8」はどの地域になるのでしょう?
楽しみにしております。

服部 明子さんからのコメント(1999年10月31日 14時25分02秒)
 

本人によりコメントは削除されました。 1999年10月31日 14時29分43秒

服部 明子さんからのコメント(1999年10月31日 14時28分57秒)
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三重県:その2

伊賀の地名:

印代。。。。。いじろ........依那具。。。。いなぐ........大滝。。。。。おおだい

界外。。。。。かいげ........神戸。。。。。かんべ........友生。。。。。ともの

木興。。。。。きこ..........千歳。。。。。せんさい......外山。。。。。とやま

朝屋。。。。。ちょうや......日南。。。。。ひなた........比自岐。。。。ひじき

桝。。。。。。ひじき........蔵垣内。。。。くらがいと....清水。。。。。しょうず

生琉里。。。。ふるさと......喰代。。。。。ほおじろ......法花。。。。。ほっけ

安部田。。。。あべた........小波田。。。。おばた........比奈知。。。。ひなち

結馬。。。。。けちま........薦生。。。。。こもお........布生。。。。。ふのう

服部。。。。。ふふふ。。。「ふくぶ」とか「ふくべ」とか呼ばれたことがあります。
私の名前も古代しているのですねぇ。

千葉江州さんからのコメント(1999年11月02日 18時27分40秒)
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長らく書き込みをサボっていまして済みません。
少し仕事が立て込んでおりましてなかなか暇さえ取れませんでした。(ちょっと業務量がオーバーフローしていました。)
おまけに週末は体調を崩して風邪でとうとうダウンしてしまいまして、祖谷どころか家の外に出るのもままならない状態でした。(今日はやっとのことで車を転がしながら出勤してきた次第ですが、明日も祝日なので家で休養を取ります。)
本来なら、祖谷の見物記録などを書き込みたいところでしたのに、重ねまして申し訳ありませんでした。<@>
代わりにといっては何ですが、今月下旬に京都から比叡山に掛けてドライブする計画を立てていますので、秋の深まった三千院辺りの風景でも書き込んでみようかと思っています。

伊勢となると、明子様のホームグラウンドに近いところだからよく御存知だった訳ですよね。すっかり忘れていました。どうもお庭先をうろうろして済みません。

信長のことも触れられてましたっけ。
信長が平氏の末裔と称したのも少し動機が不純でしたね。源平交替思想で足利の次は平氏の織田家だと考えを切り替えましたから。ご指摘のように、それまでは藤原氏を称していたとも言われていますね。
下克上時期に勃興した勢力は大概出所が怪しいところなので、創作系図が多数でざるを得なかったでしょう。それには既に滅び去った家の結び付けて由緒を説く以外に手はなかったことだと思います。(都合のいい解釈で立派な系図が創り出されてますものね。)

三重県内の難読な地名のお話も書かれていましたが、近江にもありますよ。
在所の地に近接する地名でさえ
三十坪。。。みそつ
鋳物司。。。いもじ
ってのがあります。「いもじ」は辛うじて読めたのですが、さすがに「みそつ」は「さんじゅっつぼ」って読んじゃいましたから。

もう少し伊勢志摩のお話は続けたいと思いますので、また改めて書き込ませてください。(^^)/~~

服部 明子さんからのコメント(1999年11月02日 23時26分24秒)
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江州どの:

お大事に!
京都にいらっしゃたら書き込みをお願い致します。

でもお風邪の原因は「平家」の呪いだったとか?
(^^;

千葉江州さんからのコメント(1999年11月09日 19時04分56秒)
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伊勢・志摩の街道遊歩(その三)
松坂というところは今では有名な肉牛の産地として世界に雷名が轟く場所になりましたね。
蒲生氏郷も一時この地の領主となりましたが、江戸期を通じて藤堂藩が世襲して幕末に至ったのは言うまでもありません。藤堂藩の祖とも言うべき藤堂高虎は見事に仕える主人を代えていって最終的には高虎の子孫は幕末に朝廷側に立って徳川軍を攻めるに至りますね。これを変節とは謂われずに、潮流のトレンドを読み切った優れた能力と現代では評価される向きに経営者は賛美するでしょう。

藤堂氏だけが当てはまるのではなくて、非常に近いところでは細川藤孝の末裔こと細川護煕氏にさえ適用できる事実ですね。何がそこまでさせるのか分からないのですが、トラップが巧みに用意されている世間の中で危機回避を巧みに実行する遊泳術というか、なかなか真似のできないことですね。

千葉の一族は結構不器用な連中が多いのか、平安末期に中興の祖である常胤が長期間の忍耐の末、一挙に勢力を得ながら後継者達はその基盤を徐々に食潰していって、結局江戸時代にまで残り得たのは相馬と遠藤の二大名だけですからね。また、維新の元勲の一人であった江藤新平胤連にしても彼一代で佐賀の乱の首謀者として斬刑されてしまいましたから。(でもその不器用で執念深いほどの忍耐力の強さと権力者に対する反骨精神の高さだけは受け継ぎたいところではありますね。)

さて松坂に目を戻しましょう。ここには和田金を始めとして有名な牧場を持つ肉料理屋さんが集中して存在しています。とても高価なお品書きが続くメニューを眺めていますと、伊勢の人は随分贅沢なものを食しているのかなあと思ったりします。ひょっとして大昔から伊勢大宮司のあった御蔭で地元の商売も賑わい、平安後期には平家の庇護の下で殷賑を極めたのが血肉として受け継がれて贅沢を忘れることがなかったのではと想像したりもしますね。

数年前に大晦日に松坂辺りをうろついてお昼ご飯にでも肉を食べようと思っていたのですが、何と一軒も店を開けておられず年末年始休業に入られていました。驚いちゃいましたねぇ。世間では書き入れ時という時期に悠々と店を閉めて休みとはよほど普段の時から稼ぎ具合が違うのかなあと感心したりしました。(結局開いていたのは土産用に肉の佃煮を売るお店だけでしたから)

千葉江州さんからのコメント(1999年11月09日 19時09分49秒)
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伊勢・志摩の街道遊歩(その四)
いよいよ伊勢に入るのですが、伊勢神宮に立ち寄ったのは小学生の頃しかなく、何度もその後こちらの方へ来ながら訪れていません。随分記憶も不確かになってしまったのですが、五十鈴川で手を濯いだははっきり覚えていますね。随分冷たかった感覚を手が覚えているのですが、後は神殿造りの建物があったのは微かに覚えているのは言うまでもありません。

伊勢自動車道からは神宮のある方角は何となく分かるのですが、それよりももっと目立つものが見えてくるのです。例のセビリア万博にも出品された例の奇抜な安土城の天守閣が目に入ってきます。その辺りは伊勢戦国時代村になっているのですが、目玉商品である安土城天守閣は小高い山の中にそびえています。やはり水面に映える姿を考えれば琵琶湖のほとりに立っているべきものなのですが、何か違和感のある佇まいを醸していますよ。でも戦国という主題においては欠くべからざる建物ではありますから、忍者や時代装束をまとった従業員達が闊歩しているテーマパークの中ではそれなりに納まりは着いているようです。

伊勢は江戸時代から信仰の対象として全国的に注目され、お伊勢参りと称して大人数の人達が酔狂を凝らして踊り騒ぎながら目指したのはよく映画やドラマなどでも取り上げられますよね。例の「ええじゃないか」の掛け声で乱舞しながら練り歩く様はまるで阿波踊りの変形のようでもあります。一生に一度お伊勢参りをすることが江戸庶民の楽しみであったとされていますから、さながら30年前の日本のように「一生に一度は海外旅行をしたい」に通じるものがあったことでしょうね。

お伊勢参りが絶え間なく続いたということはその参道に至る町々も経済的に恩恵を被ったことでしょうから、ずっといい時代が続いたことの裏返しになるでしょうか。今でも何となく伊勢や志摩というところは穏やかに映るように思えますね。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月09日 22時46分07秒)
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<松坂牛>

1度だけ買ったことがありました。
土産用に高いのか?と思いましたが米沢牛も高いですから、そんなものかと今は思います。

松坂牛に対抗出来るのは米沢牛ですね。
240グラムで3000円だそうで。。。

伊賀牛もなかなか評判が良いそうです。
アメリカでは神戸牛ですが。

アメリカではフィレミニヨンが1ポンド(450グラム)22ドルです。
米沢牛の3分の1とは言いませんが、矢張り日本の肉の高価なことが分かりますね。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月09日 22時53分37秒)
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<伊勢戦国時代村>

名前は聞いていますが行ったことなないです。
それから<スペイン村>と言うのもあるのでございましょう?
後者は何故?ですね。関連性が分かりません。

テーマパークの中では従業員が忍者の格好をしているのですか。う〜ん。。。

伊賀の忍者屋敷に行った時、大変合理的な住まい方をしているのが分かりました。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月09日 23時26分38秒)
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江州どの:

三重県が終わりましたら<平家物語の史跡を訪ねて その8>に移動なさって下さいませね。

さたちゃんさんからのコメント(1999年11月15日 23時10分38秒)
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こんにちわ。伊勢の大湊は、伊勢神宮の船の窓口でした。ここの歴史をもっと調べると、日本の木造船のルーツが、わかります。おおみなとの三角州が、もっと歴史の調査対象になれば、おもしろい。
突然のコメントすいません。これからもよみます。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月16日 01時29分33秒)
 

本人によりコメントは削除されました。 1999年11月16日 01時31分46秒

服部 明子さんからのコメント(1999年11月16日 01時32分56秒)
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さたちゃんさん:

初めまして。
お書きになって下さいよ。

三重は結構「水軍」が力を持ってましたから、伊勢神宮絡み、というのは盲点でした。


伊勢のことなどお時間が許せましたらお書きになって下さい。
楽しみにしております。

千葉江州さんからのコメント(1999年11月16日 18時59分37秒)
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済みません。随分書き込みをサボっていましたらさたちゃんさんから貴重なリアクションをいただいていたなんて光栄です。それに読んでくださっているとのことで、駄文なんで申し訳なくって・・・。ただただ感謝です。 <@>

船については鎌倉期や室町期にどのような大きさのものが使われていたか私も情報を持ち合わせていません。(ご専門の方ならお持ちかもしれませんが)ご指摘の大湊が平安時代から港として機能していたのでありましたら、凄い歴史を持っていることは請け合いなしですね。

伊勢大宮司に御厨として認めてもらうためには非常に大量の貢物を運んだことが千葉氏の相馬御厨の件で記録が残されていますから、何杯もの船で関東からこの地まで運びこんだんでしょうね。ということは出講地の下総にも伊勢に負けない大きな港があったことの立証に他なりませんから、今から800年以上も前の時代に大規模な海上流通が機能していたということにもなりますね。


さて、話を本題に戻しましょうか。もうそろそろ伊勢志摩路は終わりにしようかと思っておりまして、最後の文章を載っけさせてください。

伊勢・志摩の街道遊歩(その五)
鳥羽まで来ますと何となくバケーションに来たなあと感じます。更に鵜方の方から大王崎の岬まで行くとちょっとリラックスできますね。太平洋が広がるところまで来るわけですから、精神衛生的に解放されていいですよ。

この辺りは太陽の陽射しが結構眩しいこと、気候が温暖で暖かい印象を受けること、海に面して魚介類が豊富なこと、複雑な海岸模様がちょっと地中海風の雰囲気を持っていると確信されたのか錯覚されたのか、それでスペイン村ということになったのか分かりませんが、休暇を取るにはなかなか良いところです。(私が遠くから7回もこの地を訪れている気持ちがお分かりいただけますでしょうか。)

これから更に南に下って熊野まで訪ねていたら熊野水軍のことも書けるのですが、残念ながら東志摩まで来るのが関の山でした。ちょっと伊勢・志摩では源平の足跡を書くまで内容を掘り進めることはできませんでしたが、これもご愛嬌としてお許しください。何しろ伊勢平氏とは反対の立場ですので、あまり情報を持ち合わせておりませんでした。今度は避けておりました京都に戻って書き込みを続けさせていただきます。その8をご覧くださいね。

服部 明子さんからのコメント(1999年11月17日 13時07分10秒)
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「彦島」のオオヤさんもおっしゃってましたが、来て下さる方達の何十分の1の方しか書き込みに参加して下さらない、と。

なかなか勇気が出ませんからね。

普通の方達は「レスが無いから」ということで2度と書く気が起きなくなるようです。
本当は皆さん<遠慮なさって>書き込みをなさらない、と思います。


古代日本では「馬」に乗って奈良や大津?から伊勢神宮に行った、と思っていました。
例:大津の皇子と姉のことで「馬」に乗って伊勢に下だった、との歌が万葉集に書かれていますでしょ?

それで伊勢の港の事は全く失念しておりました。
それに伊勢湾での港は「熱田の宮の渡し」しか頭にありませんでした。

考えてみれば日本は海に囲まれていますから伊勢の大湊が栄えていたのは古代からだった、と分かりますよね。


では京都の書き込みを楽しみにしております。



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