[平家物語を熱く語る!!一覧に戻る] 投稿番号:26179 投稿日:1998年10月01日 11時40分13秒 お名前:服部明子
コメントの種類:歴史 平家物語ゆかりの場所についてお書き下さい。 |
( Date: 1998年 9月 26日 土曜日 3:04:01 PM)
いやあ、こういう場を設けて頂くと色々の人の行った記録や、考え方が分かり勉強になっていいですね。
私は行った場所に「馬鹿じゃない」と思われるくらい時間を費やします。
何故なら、そんな簡単にその時代のことが読み取れることはないからです。ましてやそこの場所に関った人々の心など「通りすがりの紀行」や「賑やかな団体さん」「お喋り旅行」では感じ取れないのです。
私が頼朝の跡を追った数多い史跡の中で唯一「涙が出た場所」があります。自分でも不思議な現象でした。それは石橋山の合戦場跡を訪れた時です。
勿論今はその跡形もありません。あるのはここの戦の先陣をきり、郎党の文三家安とともに討ち死にした、岡崎義実の子・佐奈(那)田与一義忠を奉る佐奈田霊社と与一塚があるだけです。 ただ救いはこの辺一帯がまだ開発されておらず、自然がそのまま残っていることでしょうか。広い蜜柑畑になっていますが、地形は恐らく昔の侭なのでは、と思います。
そんな中を歩くと、源氏側は源頼朝、平氏側は大庭景親・伊東祐親を中心に虚々実々の駆け引き、策略を巡らした戦場が見えてきます。 双方のメンバーをみるとこれから活躍をする人々のオンパレードですね。
この古戦場跡をあとにしようと思った時、ふと目のとまった「石橋山古戦場」の石碑。それを見た途端、涙が出てきました。何だったんでしょう? その時強い虚しさが私の胸にあったのは事実です。源氏にも平家にもこれから始まるであろう、辛い旅立ちを思ったからでしょうか。
観光客も、史跡巡りの人も殆どいない、静かな石橋山を一人歩くと、そんな思いが
する素晴らしい古戦場跡です。
( Date: 1998年 9月 26日 土曜日 10:23:00 PM)
私は泣きたかった場所は伊予の河野通信のお墓ですが、タクシーの運転手さんが一緒に
来てしまって、残念ながら泣けませんでした。
「承久の変」で後鳥羽上皇方に付いて敗れて流されたんですが凄い山の中で「陸の孤島」
という場所でしたよ。新幹線で北上駅下車、タクシーで往復5000円でした。
教育委員会が管理してくれているのか手入れが良くて5月の終わりに行くと草も刈って
あって嬉しかったです。壕の付いた鎌倉時代の豪族の墓の形ということでした。
( Date: 1998年 9月 28日 月曜日 0:19:28 PM)
木曾の宮ノ越駅から少し歩いて義仲ゆかりの徳音寺に行ったことがあります。今井兼平や樋口
兼光の肖像画もありました。お寺の裏には義仲の母親の墓が義仲の愛人達の墓?と共に並んで
いました。山吹と葵の墓だったような記憶があります。
同じ時刻に来ていたのは今井の子孫という夫婦で九州から来たと話していました。隣の駅が原野
で、この夫婦は行くと言っていたので義仲を庇護した中原氏の居住地跡が残っているのかしらと
思います。木曾軍子孫の村人達がお寺の前の原っぱでゲートボールに興じていたのが印象に残っ
ています。
木曾は山に挟まれた南北に細長い谷の町という印象を持ちましたが、谷を北上して新潟に出て、
日本海に突き当たって西に進路を変えて京に雪崩込んだのか、と思うと印象がより深くなり、
義仲軍の勢いというのがなんとなく分かる気がしました。
( Date: 1998年 9月 28日 月曜日 0:24:25 PM)
わたくしが方向音痴なのが上記の書き込みでばればれですね、「東西に細長い」と書きた
かったのに間違えてしまいました。あー、恥ずかしい。 (^^;;;
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