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投稿番号:26169 投稿日:1998年10月01日 03時20分31秒
お名前:越智裕
 

平家物語の雑談 その7(のコピー)

キーワード:平家物語

コメントの種類:歴史


 みなさんこんにちは。
今雑談のページをはじめから読み直していて気づいたんですが、
私、雑談の1では発言者名を「よしとも」としていると思うんです。
ところがいつの間にか越智裕にすり替わってしまっていました。
すいません。越智裕と、よしともは同一人物です。
本人もついさっき気が付いた大間抜けです。
どうもすみませんでした。




いんこさんからのコメント(1998年10月01日 03時20分59秒)
 

( Date: 1998年 7月 5日 日曜日 4:51:18 PM)

「愚管抄」にも記述されているようですが、重衡を南都側に渡して処刑させた
ことは非道であると、当時の民衆たちは思っていたようですね。
当時の悪僧たちの傍若無人な振る舞いは、民衆や寺社の荘園の農民たちを苦しめ
ていたと思われます。自分達の理が通らなければ神輿や神木をかつぎだして強訴
する。横車を通しまくる大衆たちにはほとほと朝廷も手を焼いていたはず。
自分達の手は汚さず、清盛たちがとった手段に不備が出れば後は知らん顔。
平家が滅びるまでは鎌倉と結託して重衡を交渉のだしとして生かしておき、戦が
終わると重衡を南都のスケープゴートとして差し出す・・。
西国で滅んだ一族とはまた違った修羅の世界を重衡は経験したのではないでしょうか。
東大寺大仏殿などが焼けたのは故意ではなく過失だったということは当時の人々
にも解っていたと思います。重衡を哀れむ声が無視できないほど「愚管抄」の作者
慈円の元にも届いていたのではないかと・・。

鎌倉で千手に出会ったことは重衡にとって本当に心のオアシス(笑)になったでしょ
うね。私は重衡をめぐる3人の女性の中では北の方である大納言典侍が一番好きなの
ですが・・・。


服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 03時21分46秒)
 

( Date: 1998年 7月 5日 日曜日 11:28:54 PM)

いんこさん

メール有難うございました。^-^

「重衡と大納言の典侍」についてお書き下さい。この人のこと知らないのです。
もう1人の方は「小督の姉妹になる?」と註に出てましたから「小督」の線で想像
して「重衡」との在り方を妄想しています。 (^^;
「いづらやいづら?」と走り出て来るところがいいです。

後白河法皇を裁くページを作ったら面白いですね。戦争犯罪が「出るわ!出るわ!」で。
ああいうタイプの人間が政治界のトップにいたからゴチャゴチャになってしまった
んでしょうね。頼朝は鎌倉から「動かなかった」から振り回されずに済んでラッキー
だったと思います。後白河を一言で表現すると「更年期のオバサン」ってどうでし
ょう?

水墨家の泉照さんのエッセイ面白いですよ。大笑いして「感心」しています。
1度行って見て下さい。「その6」あたりにURLを書いてあります。

杉崎泉照 さんからのコメント(1998年10月01日 03時22分13秒)
 

( Date: 1998年 7月 6日 月曜日 4:23:36 AM)

越智さん さくのさん同士です。(笑)
うちにも気軽に顔だしてやってください。そういうお仲間ワンサかいます。(笑)公暁〜。
http://www.bekkoame.ne.jp/ro/gk13424


さくのさんからのコメント(1998年10月01日 03時23分05秒)
 

( Date: 1998年 7月 6日 月曜日 2:36:35 PM)

おおおっ!待望の重衡論ではありませぬか!
服部様;乳母子に裏切られた衝撃で仏罰を顧みるようになったとは
「ううむ、なるほど〜!」です。
私の妄想バージョンでは重衡様は自分は逃げ切れぬと悟って
盛長を逃がすんですが、あえて平家物語に逆らうのはやめます(^^; 
いんこさん;私も千手より輔子が好きです。
再会の果てに立ち去る重衡を輔子の泣き声が門の外まで追ってくるところ、
変わり果てた重衡の遺体を迎え出るところ、んもう涙なしでは読めません! 
でも私的には重衡様の相手役としてはまるのは、彼女や千手より内裏女房の方かなって思います。
才色兼備できっと周囲も認めるベストカップルだっことでしょう。
彼に対等に渡り合えるような回転が早くて気の強い、そして包容力のある女性だったかもしれません。
しかし絵に描いたような雅びな恋も平家都落ちでまっぷたつ。
別れの挨拶もなくて、やっと再会してみると(この人も「いづらや」とまろび出て
手紙を受け取ってますね。劇的効果ってやつですか)恋人は明日をも知れぬ命・・・。
真偽の程は疑わしいですが子供がひとりいたという説や、
その子も平家の末裔狩りで殺された話も伝えられており、
当時から重衡様にとって特別な相手と認識されていたのだと思います。
その割には彼女自身について詳しい記述があまりないので、妄想の翼がはばたくとゆーか、
ああもう、まんがにした〜い!
重衡様の魅力って周囲の女性という鏡に映ったとき、
さらに輝きを放つようで、なんか光源氏みたいと思いません? 
いや、光君は好きじゃありませんが。
杉崎様;お声をかけていただいて滅茶うれしーです。
ところでどの辺が同士でしょうか?能楽好き?それとも・・・?(^^;

服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 03時23分33秒)
 

( Date: 1998年 7月 6日 月曜日 3:37:49 PM)

さくのさま

大納言の典侍が遺体を引き取るシーン、凄いですよね。もう腐敗が始まっていたって
いうから。普通だったら「髪の毛」を形見にしてムクロは人に頼むと思うんですが。

上記の、重衡さまの魅力って周囲の女性との係わり方でさらに魅力が増した、って部分
いい表現ですね。重衡さまって女が素直になれる人ってことかしら?そしてさくのさま
のことも分かりましたよ。優しい女性なんだ。重衡が盛長を逃がしてやった、なんて
私は100%考えもしなかったです。私の性格もモロに出たってことですね。 (^^;

私は美しい男の中ではやっぱり重衡さまが好きです。維盛や資盛の美しさは興味無い
です。俳優に例えると誰でしょう?


杉崎泉照 さんからのコメント(1998年10月01日 03時24分04秒)
 

( Date: 1998年 7月 6日 月曜日 6:49:09 PM)

さくのさん。それとも・・・?です。(笑)


いんこさんからのコメント(1998年10月01日 03時24分30秒)
 

( Date: 1998年 7月 6日 月曜日 8:42:55 PM)

杉崎泉照さんのHP覗かせていただきました。素敵な絵を描かれるんですねえ。
「五位」という絵がとても気に入りました。「五位鷺」に関係があるのでしょうか。
実物も見てみたいですねえ・・
つれづれがきのコーナーも面白いです。(^-^) 牛若丸の項では、私も以前に
鬼一法眼とどうのこうの(笑)という話(これはフィクションですが)を読んだ
おぼえがあるので笑っちゃいました。平家ではやっぱり経正が怪しい????
聖徳太子のお話も面白かったです。私は去年まで大阪にずっと住んでいて、
法隆寺は好きでよく行った所です。なんだかメランコリックに(笑)なっちゃい
ました。身の上話をしてどうする!!(失礼しました(笑))

服部さん、お返事ありがとうございました。またまたゆっくりと長編をお送り
します(笑)。重衡以外でも、平家物語ドラマ化のキャスティング考えたら面白
いかもしれませんね。でもなかなか思いつきにくいですねぇ(笑) 
みなさんそれぞれ好みがあるし・・・うーん。関係ないんですが、以前のNHK大河
ドラマ「炎立つ」で、源義家を佐藤浩市が演じてたので義家を好きになったと
いうミーハーな経験も・・・

さくのさん、わたしも重衡が一番心にかけていたのは内裏女房だったのではと
思います。北の方気の毒に・・(笑) もてる男は罪作りなものです(爆)
大納言典侍のセリフでは、別れの時の「いかにやいかに、しばし」というのが
涙をさそいます。今生の別れを別れきれない悲しい女心ですねえ。
「源氏物語」というお話は好きですが、わたしも光君は好きじゃないです。
どちらかというと頭の中将の方がいいでーす。(笑)


なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 03時25分03秒)
 

( Date: 1998年 7月 6日 月曜日 11:47:10 PM)

 服部さんの重衡論、興味深く熟読しました。

 正直いって、私にとって重衡は服部さんがおっしゃるところの第3ステージ以降しかあまり印象にないんですよねぇ。南都焼き討ちにしても不幸にしてそのときの総大将だったという感じで、重衡自身が「皆殺しだぁ」って襲いかかったわけではないですから、あまり印象に残らなかったです。私は男だからかなぁ・・・物語の中では千手あっての重衡、という気がします。逆を言えば、千手という女性を引き立てるために重衡があるというか(重衡ファンのみなさんごめんなさい ^^;)。なんか、このへん、他の方と考え方がまるで逆ですね (^^;).

 千手の鎌倉自害説・・・。菩提を弔うっていう京都の女性の概念を千手にあてはめてはいけないんでしょうね。じゃぁ、重衡の死後、千手がどうしたかというと・・・。どうしたでしょうね?(これこれ ^^;) なんだか、重衡に言われるとおり、その後も普通に暮らして普通の結婚をして普通の人生を送ったのではないかという気がしないでもないです。それが千手には一番似合うような・・・。

 しかし、後白河をたとえて更年期のオバサンとは・・・・後白河も真っ青ですな

杉崎泉照 さんからのコメント(1998年10月01日 03時25分31秒)
 

( Date: 1998年 7月 7日 火曜日 11:31:45 AM)

唐突ですが、こちらのHPリンクはらせていただいてよろしいです
か?
いんこさん。ありがとうございます。お察しのとおり「五位」は「能」
の鷺の曲からきています。この曲も出典は「平家物語」です。

エッセイの「鷺に命令した男」にその辺のことが書いてあります。
聖徳太子は・・・いいですよ。いろんな意味で(笑)おっとここは
平家ですよね。聖徳太子のみを語るHPつくっちゃおうかなー(笑)

服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 03時26分15秒)
 

( Date: 1998年 7月 7日 火曜日 0:05:51 PM)

泉照さま: 聖徳太子って凄い人ですよね。あそこのおウチの系図を作って相姦関係やら
誰が誰に殺されたのかを表にすると(よくこんな家庭の事情の中でグレもせずマットウに
育ったのねぇ)って感心してしまいますよね。

私はウチの菩提寺が破産して逃亡する寸前を訪問して1つだけ良い話を聞き
ました。聖徳太子は仏教の守護者なんですって。耳からウロコが落ちましたよ。そういえ
ば大阪に四天王寺というのがあったのを思い出して、「あの事件は仏教保護の為の聖戦だ
ったね?!」と学校では教えない歴史を習いました。


いんこさんからのコメント(1998年10月01日 03時26分49秒)
 

( Date: 1998年 7月 7日 火曜日 8:17:01 PM)

聖徳太子というと仏法擁護者の面よりも「日出処の天子」と「隠された十字架」
のイメージが強いですね(邪道??)・・・(笑)
杉崎さん、聖徳太子のHP作られたらぜひ教えてください(笑)

杉崎泉照 さんからのコメント(1998年10月01日 03時27分25秒)
 

( Date: 1998年 7月 8日 水曜日 10:01:18 AM)

いんこさん服部さんどうもです。
聖徳太子は仏教の守護者どころのさわぎじゃないんですよ。(笑)
なにしろ中国の僧恵慈の生まれ変わりで、そのあと空海にもうま れかわって・・とまあとんでもないひとです。(笑)
その辺はエッセイの「邪論推論法隆寺ゆめどの説」に書いてありますのでよんでねー。っていっつもここで宣伝させてもらっちやっ てなかにしさま御免なさい。
いんこさん私は邪道から入ってますです(笑)いま掲示板でその 話ししてるとこなのでよかったらきてくださいねー。

服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 03時27分53秒)
 

( Date: 1998年 7月 8日 水曜日 10:26:28 AM)

中西さんへ

「重衡に言われるとおり、その後も普通に暮らして普通の結婚をして普通の人生を送ったので
はないか?」との千手の前のお話、私は男と女の別離は未だやったことが無いので分からない
のですが私が千手の前だったら、つまり妻では無い女にとって、どう答えるかと言ったら「泣
いて」しまいます。普通の男と、普通の暮らしの中で、普通の結婚をして、普通に人生を送る
なんて。。。絶対そんなの嫌!!!って泣き叫びそうです。運命は見えているのだから、決し
て命を許されないのだから、死んでいく人から「普通の」日々を送りなさいと言われるなんて
辛過ぎます。このあたり八代アキの歌の世界になりそうです。「あなたが死ぬなら私も一所に
死にたい」って。

重衡にとって、つまり男にとってはそういう言葉しか女にかけてやれないのでしょう。千手は
妻じゃないから束縛は出来ないから、他の男に嫁いで子供を生んで人並の人生を送りなさい、
としか言って上げられないんでしょうね。

でも私には1番残酷な言葉ですよ。私が千手だったら何て言われたいかしら?
「君と一緒に約1年過ごして、まさかこんなに心穏やかに死を迎えることになるとは思わなか
ったよ。」。。。今度生まれ変わったら一緒になろうね、では松田聖子と郷ひろみになってし
まいますね。ああそうだ、私だったら「1度は自害しようとした自分なのに、生きてて良かっ
たってしみじみとこの1年の日々を思うよ。こういう形で君と出会ったことは残念だけどこれ
はこれで良かったって思う。君には何もしてあげられないけど、わたしが感謝して死んでいっ
たというのは忘れないで欲しい。君には幸せになって欲しいけど何の力にもなってあげられな
いからせめて月の光となって君を見守るよ。」

なんだか別れのセリフを男と交わしたくなりました。

他の女性達は「重衡と千手の前」の別離のシーンをどんな風に空想なさるのかしら?
さくのさまはどんなマンガになさったのかしら。


なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 03時28分23秒)
 

( Date: 1998年 7月 10日 金曜日 0:20:17 AM)


 8月16日まで下関市立美術館において、「瀬川康男展」が開催されています。瀬川康男さんというのは絵本「いないいないばあ」をかかれた方だそうです。

 で、私は知らなかったのですが、この方、1990年から平家物語を題材にした絵本を多数出版しておられます。今回の展覧会ではそれら平家物語関連の絵本の原画の一部も展示してあります。興味のある方はぜひお越し下さい。

 私は今日行ってきましたが・・・。「清盛」とか「知盛」、「俊寛」といった感じで一人の登場人物について1冊の絵本になっていて、それらから抜き出された原画もなぜか(ここでいうなぜかは瀬川康男氏がなぜ知盛を中心に選んだのかが興味深いという意味)「知盛」が一番枚数多く展示されていました。正直言って、絵本としてはきれいですがちょっと違うなぁというのが感想です。クリクリおめめでポテッと太った知盛というのはピンときません。

 「義仲」や「義経」も描かれていますが、彼等は精悍な表情をしています。でも、平家方はみんなぽっちゃり型なんですよね。私はやはり以前紹介したような勇猛な平家がイメージにぴったり合います。

服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 03時28分56秒)
 

( Date: 1998年 7月 10日 金曜日 0:34:26 AM)

「クリクリお目めで太め」というのは私にも違和感がありますね。
特に一の谷で負けてからの1年は太ってる環境状態にはなかったのですから。
清盛が生きてる間の朝廷でフワフワヒラヒラ過ごしていた時ならボテッとしてても
似合いそうですが清盛死後は兄宗盛を補佐して太ってなんかいられなかったと思うので。


いんこさんからのコメント(1998年10月01日 03時29分32秒)
 

( Date: 1998年 7月 10日 金曜日 2:36:36 PM)

こんにちはー。
一応、平家の人々も武士なので、平和な時は武技の鍛練してたのでしょうか??


服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 03時30分03秒)
 

( Date: 1998年 7月 10日 金曜日 9:49:18 PM)

していたのは絶対に「能登どの」だけはと思うのですが、他の人達は女にウツツを抜かして
いた又は政治に奔走していた又は歌の道を極めていた、のではないでしょうか?
地方に赴任していた一門の者達はすることに不足していたと思うので体を持て余して
スポーツにも励んでいたと思うのですが。
「犬追う者」とか「やぶさめ」は鎌倉あたりで盛んだったような気が。。。京都でスポーツ
と言うと「蹴鞠」しか思い浮かばなくて、事が起こると打ちもの取って出かけたみたいに
非常に「泥縄的な」態勢だったのでは?と思います。京都は長い間平和だったから都の人々
にとってはスポーツは「文化として馬を競ったり、弓を競っていた」ような気がします。


服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 03時30分45秒)
 

( Date: 1998年 7月 12日 日曜日 2:15:10 AM)

平安時代の女性像というとなよなよ型で自己主張をしない、男の蔭に隠れて姿を表わさない
簾の向こうの存在のようですが、あの当時の女性だって「私の恋しい男を返して」と叫んで
いるのが同性としてとても嬉しいです。

義経の愛人静御前の強さは並み居る源氏方の人々の前で「義経が恋しい」と訴えて源氏方の
男達をうろたえさせ、同座の男達はみな息を呑んで頼朝のリアクションを見守ったことでし
ょう。北条時政や梶原景時あたりは義経に含むところが有りそうだから(そのうちに義経の
首をやるさ)とでも思っていたことでしょうけど、他の武将達は(御大将の弟御だから)と
思えば同情もし、女が恥を忍んで逢いたいと歌ったのだから、これを機会に許してあげても
いいではないかと頼朝に期待したのではないでしょうか?

平家方で静御前に匹敵する強い女性は誰か、捜してみたのです。平家方で恋しい男の為に強さ
を表わした女性って。。。いんこさん描くところの男装「菊王丸」?又は木下順二の「影身」
でしたっけ?。。。城氏の板額さんでは色気に欠けるなぁ。。。ウーンとうなって、やっと
建礼門院右京大夫に至りました。「至った」のは彼女自身が後々声に出して訴えたからですが
時代を考慮すれば勇気ある女性として静御前に負けない「愛に生きた女」だったと思うのです。

相手もちょっと役者が落ちるのですよね、平 資盛では。イメージが平家一の放蕩息子ですも
のね。その上、落ち目の平家の為に後白河法皇にノコノコお願いに出向いて失敗しているから
「甘い甘い」お坊っちゃま君だったと政治感覚の無さを笑われてしまいます。でも、この男も
壇の浦では立派に入水を遂げて「武士の家の子」としての面目や潔さは全うしたので「顔」
だけの男という汚名だけはまぬがれたと思うのです。それに一緒に手を繋いで波の下に身を
投げたのが弟の有盛や従兄弟の行盛だったというところが平家の家庭の事情を知っている者達
には「時子の前の夫人の孫達同士で入水を?」と同情を誘ったと思います。

建礼門院右京大夫は平 資盛の「年上の愛人だった女」とは私は表現したくないのです。
「対等な愛人関係にあった」と思うから。そう思ったのは「新勅撰集」に歌を載せて貰える
ことになって「名前を何になさいますか?」との問いに
「言の葉の もし世に散らば 忍ばしき 昔の名こそ とめま欲しけれ」
と答えたところ。

こうして「建礼門院右京大夫」の名が後世に記憶されたわけです。「忍ばしき昔の名こそ」
か、凄いですよね。とうの昔に平家の世が終わって鎌倉政権の世の中になっているというのに
平家の御曹子資盛との恋の日々を世間の人々に改めて想い出させた、なんて。当時の人々には
考えられないほど大胆なこと、スキャンダルだったことでしょう。
「えぇーっ」と日本国中の人々が(今さらなんで、そんな名前で登録したんだ)と呆れ果て、
鎌倉に盾つくつもりか、どんなおとがめがあるやも知れぬのに、と血相を変えたのじゃ
ないかと思います。

あの時「建礼門院右京大夫?いいですね!」と賛成したのは「喰えないヤツ」の定家あたり
の人々でしょう。政治が鎌倉に移ってしまって「まろら貴族の時代も終わりよのう」と自覚
していたのは数少ない人々だったと思います。平家が頑張ってくれていたら未だ自分達の生活
もこんなに悪くはならなかったのに、という思惑があって、「忍ばしき」という言葉に鎌倉に
1矢を報いた気分だったのでは?と思います。

私は資盛という男は出来の悪いガキだと思っていたのですが、壇の浦で1人の武士として潔く
死んでいった姿を考え、従兄弟同士で入水した事実を思いだし、また簾の内側だけで生きてい
たと思っていた愛人が思わぬ骨のあるところを示した右京で、この2人が愛し合っていたのか
と思うと、右京ほどの女性が夢中になって愛した資盛という男性が別の輝きを放ち出しました。
資盛と右京は1人1人別に語るのではなく、2人一緒に語ってこそ相乗効果で2人は対等に
歴史に名が残ったと思うのです。

右京が世間の非難も恐れず、彼女の1番大切な日々の名で呼ばれたいと願った心の内を考える
と平家方にも「愛する男を私に返して」と叫んだ勇気のある女性がいたと嬉しいのです。

服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 03時31分22秒)
 

( Date: 1998年 7月 13日 月曜日 1:37:01 PM)

いんこさんへ

平 盛国の家は九条河原口にあって、ここで清盛が亡くなったから、側近中の側近だった、
と私の辞書にはあるのだけど、この辞書に書かれた季衡の子というのはどうしても信じら
れません。いんこさんの教えて下さった系図の方が正しいと思います。
平 盛国は1113年生まれで清盛が1118年生まれだから季衡の子供というのは有り
えないと思います。でも季衡がもの凄く長生きして高齢で盛国が生まれたのなら可能性は
あります。私は女だからやっぱり男の人の性については理解が及ばなかったってことでし
ょうか?私の系図では季衡の3男に盛国が書かれているのですがこの人の子孫は無しです。

私の持ってる系図の盛継は季衡ー盛光ー盛行ー顕宗ー頼俊ー俊経ー伊勢俊継ー盛継でこの
後が後北条につながっていきます。いんこさんのとは顕宗と頼宗が違ってるだけですね。
どちらかの本が印刷ミスしただけでしょう。私達の系図では盛国や盛俊の名前が出て来な
いところがまた謎ですね。でもどうやら越中の盛継は伊勢俊継の子供らしいので俗姓は、
「伊勢」さんだったみたいですね。ということは私の捜している人は盛継ではないらしい。

ところが私の系図にはなんと能登殿の名前がなくて旧名の国盛でも載ってなくて次男には
「教正」が書かれているのです。何者なの?この人!3男には業盛がちゃんと載っていま
す。「能登どのは何処に?」です!女に振られる度に名前を変えて出直したっていうのは
いかがでしょう。最期は女断ちをして教経を名乗ったのに登録を忘れて系図は「教正」の
時の名前のままっていうのなんて。「邪道平家物語」になってしまいました。 m(_ _)m

平田家継と伊賀の家長が親戚だと分かったのであとは平田家継と藤原忠清が親戚だと証明
出来れば私はすっごく元気になれるんですが。

いんこさんも早くお暇になって遊んで下さい。


いんこさんからのコメント(1998年10月01日 03時32分10秒)
 

( Date: 1998年 7月 13日 月曜日 10:07:44 PM)

こんばんわ。

服部さまへ
あー、ゆっくり書き込みしている時間がないんですが、ちょっとお話タイム(笑)

へー、教経って3つも名前出てるんですかあ。国盛は知ってましたけど、「教正」
っていうのは知りませんでした(^o^)

>女に振られる度に名前を変えて出直した

あはは(^o^) そんな、あほな・・・(そうだったりして???) 何故なんでしょうね

歴史上の系図の史料も複数存在しますし、学者の方によって自分の考察にあった
系譜のものを引用されますから、服部さんの持ってらっしゃる史料の系図と私の
史料の系図の内容が違うのも充分ありえることだと思います。
戦国時代から近世にかけての系図ブーム(?)などで、随分とニセの家系図が作られ
たようですし、近世以前の系譜は名家でもなかなか信用できないですよね・・・?
あの知盛殿の遺児といわれる知宗を祖に持つという宗氏もいま1つ怪しい(?)
そうですしねえ・・・。 
なお、私が以前にお知らせした室町幕府の伊勢氏につながる盛継の系譜は
「尊卑分脈」、「伊勢系図」、「寛政重修諸家譜」などの史料によるものです。
この系譜も以前書いたように、確証のとれない人物が複数存在するようなので
正確な系譜をつかむのは800年ほども前の人物ですから難しいでしょうね。
まあ私達は学者じゃないので(笑)自分の気に入った系譜を信じる(?)ことにいた
しましょう(笑)

もう少し忙しい毎日がつづきそうですー(TOT)。 中西さん、服部さんまた遊びに
くるまでお元気で・・・(笑)


服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 03時35分58秒)
 

( Date: 1998年 7月 14日 火曜日 9:59:54 AM)

さとこさんへ:
昨日、朝日新聞社発刊の「日本歴史人物辞典」を読んでいたら「宗盛」について「重盛や
知盛の対照から無能な人物として悪く描かれたのだろう。実像は不明な部分が多い」と
出ていました。私も中西さんがお書きのように思います。「平家物語」の中で損な役割を
させられた人物と気の毒に思います。

なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 03時36分28秒)
 

 以上は旧電子会議室からのコピーです。各発言は旧電子会議室の発言をそのまま移動しています。もともとの発言のタイムスタンプはコメントの先頭行に書いてあります。また、メールアドレスは個人のメールアドレスを第三者が公開することは支障があるので、便宜上WS彦島のメールアドレスを使用しています。

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