[平家物語を熱く語る!!一覧に戻る] 投稿番号:26162 投稿日:1998年10月01日 01時35分57秒 お名前:なかにし
コメントの種類:歴史 ( Date: 1998年 5月 16日 土曜日 2:03:17 AM) 下熱から引っ越してきました (^^;) >話は豊田町のほうにもどりますが、陵の近くに「烏賊池(沼だったかな?)」というのがあり、これのいわれと >いうのが、安徳帝の着物からイカが2匹でてきてその池だか沼だかに入ったという言い伝えがあるのだそうで >す。 >なぜ、イカなのか? 妙にリアルで気になるんです。 イカが2ひき・・・??? イカが2ひきでイカツー(意味不明 ^^;) タコなら、安徳帝の祖父の清盛公が死の間際は病気の熱でゆでだこのようになっていたそうですが・・・ |
( Date: 1998年 5月 31日 日曜日 1:40:38 AM)
>「壇の浦の合戦は無かった」というのをどこかで読んだ記憶がありますが、
>あれだけの話がつくり話とは思えません。
たぶん長谷川修氏の言われるのは「壇ノ浦の合戦は下関壇ノ浦で行われたのはないかも知れない」という意味でしょうね。あの合戦はあったはずですよね。
私自身確かめてないのですが、屋島の観光バスに乗ると、「平家物語で知られている壇ノ浦の合戦は、下関ではなく、屋島壇ノ浦で行われたのです」とガイドしているそうです。下関壇ノ浦と屋島壇ノ浦は地形的にもそっくりですし、物語はどちらでも適用できそうです。
ただ、下関には安徳天皇入水(とその後)に関する言い伝えや史蹟が多いのに、屋島の方には私が見た限りでは、それらしい史蹟も何もないので、下関壇ノ浦説は妥当ではないかと思いますが、いかがでしょうか。
ところで、下関には逆に、義経や景時に関する史蹟(含む伝説の地)が何もないのはなんででしょう??? 負けた側の史蹟が残って、勝った側が何の痕跡もなく消えてしまうというのは???
( Date: 1998年 5月 31日 日曜日 3:29:06 AM)
今、上記にクリックして専立寺にお参りさせて頂きました。 m(_ _)m
伊藤氏には一応「島」から14通、彦島のことも含めて、絵葉書を出したのですが当人
に問題があるし?馬の骨の私では身分が釣り合わないし!伊勢の伊藤家のホンヤさんに
お目にかかれそうにないのが残念です。
去年の8月の初めに伊藤一族最後の物知りヨボヨボ爺さんの存在を教えてくれたけれど、
8月の終わりにお母さまと話した時、一族の長老が亡くなって葬式に出席した、という
話が出て。。。ヨボヨボ爺さんというのがこの人かもしれなくて。。。私は大切な
チャンスを永遠に失ってしまったのかしらと思います。
今年の8月に電話することになっているのでヤッパリ尋ねてみるつもりです。
( Date: 1998年 5月 31日 日曜日 4:31:52 AM)
今、下熱、を読んで大笑いしました。中西さんが乗っ取っちゃいましたね。
安徳天皇のお墓って鹿児島県(沖縄県?)の島にもあるのでしょう?
姿形の似た子供が安徳天皇の着物を着てたら誰でも安徳天皇の遺体だと思いますよね。
水死だったら膨れて顔がはっきり分かりませんし。
また流れついた子供の遺体が京都の有力者の子供の着るような物でも着てたら地方の人には
安徳天皇の遺体と思ったことでしょうね。
ここまでは推理しましたが、知盛が安徳天皇を落とした、というのは考えませんでした。
心中というのは日本古来のものだと思っていましたが、賢い時子のことだから、それくらいの
芝居は打ったかもしれませんね。
私は子供のころ屋島の合戦の後、四国の檀の浦で平家は滅びたのだと思っていました。
あとで下関の壇の浦と知ってキョトンとしたことを記憶しています。
もし、屋島のあと檀の浦(四国)で滅びたのなら数日後には決着がついたのだろうと思います。
下関の壇の浦だから、距離があったから、1ヵ月ちょっとかかった
のじゃないかと思います。
1184年 2月 5 日 三草山の戦い
2月 7 日 一の谷の戦い
1185年 2月19日 屋島の戦い
3月24日 壇の浦の戦い
距離から場所を割り出すのは大胆ですか?(^^;
明日から早速仕事です。例によって仕事の合間に中西さんの疑問を考えてみます。
( Date: 1998年 6月 1日 月曜日 1:10:46 AM)
昨日、上記の書き込みをしてから本屋さんに電話をして私の注文の確認をしたところ、
まだ日本から来ていない、との返事でした。向こうの受け答えが「清水さんですね」
だったので (?) と思ったのですが当地ではこんな調子なので私は期待しないことにし
ているので、本当に手に入ればバンザイです。今の所、手に入りそうです?!
この本のことはやっぱり買えば良かったという書き込みをいくつか見ました。
上記書き込みで 一の谷の合戦から屋島合戦 に1年かかっているのは義経が船を集める
のに1年近くかかったということでしょう。そうすると知盛は壇の浦(彦島)の準備に
ひょっとすると1年以上の準備期間があったのかしら?と思い、だとすると急ごしらえの
プレハブではなかったのかな、と思いました。
( Date: 1998年 6月 1日 月曜日 4:57:53 PM)
結局、平家は西海で何をしたかったんでしょう?? それによって、知盛が彦島でどんな風に構えてたかが変わってきますよね。
屋島を足場にして福原を再興したかったんでしょうか? それとも、天皇と共に九州に下るために、源氏方の増えている九州を鎮定したかったんでしょうか?
>**竹を編んだ物としたら**
>現在の彦島に竹が沢山生えているなら可能性があるなと思うし、
現在の彦島から800年前の様子を想像するのは不可能だと思いますが、竹はありますよ。私の家は竹藪の中にあって、7歳の頃竹の花が咲いたのを見ました(これ、珍しいんでしょ?)。 ただ、現在彦島城趾と言われている例の清盛塚のあたりは広葉樹林のようですが・・・。
>**土肥実平の「堅固な城」表記があるとするなら**
>落ち目といえど平家は未だ力があったのかなと思うし、
未だ前尖は屋島から一時は福原を越えていたころですから、余力もあったでしょうし、その状態で知盛は彦島に下っていたのですから、財力や労働力は十分あったと思います。ただ、屋島は浅瀬で陸続きになっていましたが、彦島は流れの速い海峡でまわりを囲まれていましたので「堅固な城」という言葉には、潮流に守られた状態も含まれて総合的に堅固だったんだと思います。
>**範頼がなかなか落とせずにいたから**
>鎌倉への言い訳の共犯として「堅固だったから」と書いたのかなと思うし、
これもありそう。でも、範頼が兵糧に困っていたことや、兵の統率がとれないでいたことはすでに鎌倉に伝わっていたようですので、いまさら敵の城が堅固だ、って言い訳も不要かもしれませんけど、どうなんでしょうね。
ところで、彦島城を推
2閧キるにあたって800年前の要塞づくりの基本は、平地だったのか、山城だったのか、って、まわりの歴史に詳しい方に尋ねてみると、見事に「平地派」と「山派」にわかれたんですけど (^^;)。鎌倉、京都あたりを考えると平地かも・・・と思いますが、北陸かどこかにすごい山城を誰かが造ってそれを平家が落とすシチュエーションありましたよね。当時の、城は、山? 平地? どっち??
( Date: 1998年 6月 2日 火曜日 0:26:47 AM)
ウーンとうなってばかりです。
富士川で負けてから清盛は(こりゃ危ない)と思ったでしょうし、自分の死後を考え後白河にあとは
宗盛と御相談あるようにと頼んで死んでいったのだから賢い清盛のことだから策を教えて亡くなった
のかしら?とも思います。
海を支配していた平家だから早い時期からどこを押さえれば有利かは分かっていたのでしょう。
そうすれば随分と長い時間があったのだなと思います。
城の場所も江戸時代に平和になると平地に築いているから戦いの時は山だと思いますがこれは坂上
田村麻呂の時代あたりの文献から読んでみなくてはと思います。
ウーン、ウーンとうなってばかりです。
( Date: 1998年 6月 2日 火曜日 0:53:28 PM)
宗盛は貴族化して有職故実?に沿って正々堂々戦おうとし、奇襲を好む義経に負けたのかしら?と
思うのです。保元の乱や平治の乱など清盛はなかなか知恵があるのに子の宗盛は清盛に似ず後白河に
は易々とだまされるし、田口が裏切るから斬ろうという知盛を押さえて許しているし。宗盛と
いう政治家は現代に生きていたらなかなかの人格者だったんじゃないかと思うのですが、やっぱり
彦島は平城でしょうか?平家の美意識からするとサルじゃあるまいし山のてっぺんなんかに住みた
くないないとの女達の意見を受け入れたのかしらと女としての私は思います。以上はブレイン
ストーム(思いつくまま)で書いてみました。女子供を連れていたってこと、それも女院とか天皇
という身分の人を連れていたことで私の考えの山城説が揺らぎます。
壇の浦で滅亡するからこそ平家の終わりに美が一層輝くとまたまた感激してしまいました。
彦島の頂上からは100KMくらい先が晴れた日には見通せたのでしょうね。中西さんは彦島に
生えてる木や建物全部を取り除いたらどのくらいのビジュビリティ、どの位見通せたか知りたいと
思いませんか?晴れた日にはうちの裏山からは地平線まで見通せるので「指呼の間」という表現を
つくづく納得します。
あーでもない、こーでもない、と考えるのが楽しいです。
( Date: 1998年 6月 3日 水曜日 0:32:13 AM)
>平家の美意識からするとサルじゃあるまいし山のてっぺんなんかに住みた
>くないないとの女達の意見を受け入れたのかしらと女としての私は思います。
これは説得力ありますねぇ (^_^)。
そうかぁ・・・偉い先生方は、古い文献だとか、同時代の他の地域の状況なんかで平家物語を解読しようとしますけど、真髄は「美意識」だったり「女性の意見」だったりするんでしょうね。これは1本とられましたね(笑)。
( Date: 1998年 6月 3日 水曜日 0:41:47 AM)
「西楽寺」拝見しました。私は一遍上人のことは調べまくったのに、彦島は全く知りませんでした。
北は北上市の聖塚(河野通信墓)から南は大分の鉄輪温泉まで調べて行ってきました。あとは鹿児島
の大隅神社に行きたいと思っていたのですけど、彦島も行かなくっちゃ、です。さすが土地鑑ですね。
( Date: 1998年 6月 3日 水曜日 9:49:17 AM)
昨日のNHK堂々日本史を見ていたら、待賢門院たまこ(漢字が出てきませんでした)という後白河法皇と崇徳天皇の
母親である人物が取り上げられていました。確か、後白河法皇が後鳥羽帝の子供で崇徳天皇が白河上皇の子供であると言っていました。
彼女の産んだこの二人の子供が、後の保元の乱を引き起こし、やがては貴族社会の崩壊と武士勢力の台頭の引き金となる源平の争乱へと
つながると思うと、なんだか感慨深いです。
TVの中では彼女を中心とした恋愛の三角関係を中心に語られていましたが、私は貴族社会の重要なファクターである恋愛が、結果的には
貴族社会が滅びへと向かうきっかけとなってしまったこと不思議さを感じました。
なんだか、因縁めいたものを感じませんか?皮肉な巡り合わせというか。しかも権力を争った二人は血の繋がった兄弟なんていうところに、
骨肉合いはむ争いが絶えなかった源氏と同じにおいを感じるのですが。
しかし、そこまで彼らを駆り立てた「権力」というモノの魅力というか力って何なんでしょうか?
( Date: 1998年 6月 4日 木曜日 11:40:30 PM)
よしともさんへ
父親は同じでも母親が違うと仲が悪いのは日本だけじゃないようです。
上記の事件は甥と叔父の関係でしょ?甥にすれば1つこじれると自分の天皇としての地位を叔父に
奪われる可能性があったわけで穏やかじゃいられなかったでしょうね。権力とはオール or
ナッシングですから。あの事件は藤原家の兄弟の間でも争いがあったわけで私は崇徳天皇が藤原頼
長に利用された事件だったと思うのですが。。。頼長という人は性格にかなり問題があったようで
す。お気の毒だったのは崇徳天皇だったと思います。
祖父の愛人と分かっていてもタマコさんとの間に子供をポロポロ作っているのだから私にはよく分
からないです。高倉上皇でも子供がポロポロ生まれているのだからコゴウさんとの悲恋はなんだっ
たの?と裏切られた思いを持ちました。まだ薬子の乱の時の天皇の方が薬子さんが死んでから他の
女性を近付けていないのだから(本気で好きだったのねぇ)と同情しています。
でも実際の男女関係というのは女性は男が結局は分からないし、男性は女なら顔さえ良ければ、体
さえ魅力的なら、という部分があるようで**1夫1妻制度の私達には**あの時代、それも天皇家
の男女関係、兄弟関係、愛憎というのは両親が夫婦を続けていて兄弟姉妹が同じ親から生まれている
私達には理解しにくいと思います。
で、私はあの事件は天皇家のスキャンダルが藤原家内の権力闘争に利用された事件だったと思います。
( Date: 1998年 6月 7日 日曜日 00:05:59)
やっと動きましたね。うちのプロバイダーも雨が降る度に停止してしまうので梅雨入りしたとのこと
からbbsが止まっているんだろうとは思っていました。「清水?さん」が私のデスクトップを公開
してやれというのでイヤよx2と叫んでいました。私の机はピノランドを使用しているので小学生の
机周りそのものに物が並んでいて、皆さんのような殺風景無機質な空間じゃないから恥ずかしい。
さて先日テレビで「関ヶ原」を見ていたら面白い台詞がありました。
小早川や吉川が山の上に陣取っているのを石田三成から本気で戦う意志があるのかと疑われるのです。
フーン、臨戦態勢に入っているということは山の麓に陣を張ることなのですか。ということは一の谷
の平家は麓に陣を張っていたから、あれは正しかったのですか、と。
それから。。。数の上からも、陣の配置上からも三成側の勝ちだった筈なのに(小早川の裏切りで)
負けてしまいました。
彦島は島自体が砦または要塞または城だと思うので物見櫓は山の上にあって瀬戸内海を見張っていた
のでしょう。知盛の城というより館または参謀本部は東を臨むちょっと小高い所にあったのかしらと
「関ヶ原」を見ていて思いました。こうして改めて当時の彦島の地図を見てみたら巌流島って小さい
んですねぇ。天然の牢獄として使えたのでしょうね。それから「関ヶ原」は東西4キロ南北2キロの
小さな盆地だと言っていました。だから壇の浦で決戦が行なわれたのか、と今頃納得しました。
私は戦うのに広々とした所を必要としたのかと思っていたので全く逆でした。
以上が書き込みたくて昨日は一日ウロウロしていました。
( Date: 1998年 6月 7日 日曜日 11:53:45 PM)
梅原 猛の「地獄の思想」に自害出来なかった宗盛と生き続けられなかった維盛などとの比較がある
そうです。これ面白そうです。前者は喜劇的、後者は悲劇的と書いているようです。手に入るよう
でしたらまとめて発表して下さい。知盛さま、今井兼平については何と書いているか知りたいです。
維盛の生きられなさとは違うと思うから。
( Date: 1998年 6月 8日 月曜日 0:55:34 PM)
中公文庫から出てますね。探してみます。
( Date: 1998年 6月 8日 月曜日 1:17:52 PM)
「本を捜す」では「見つかりません」が出てしまったので諦めていたのですが中公文庫ですか。
ありがとうございます!
( Date: 1998年 6月 8日 月曜日 3:22:24 PM)
早速購入しました。ごめんなさい「中公新書」でした。それの134巻。 ISBN4-12-100134-6。もし手に入らないようでしたら言って下さいね。送ります。ところで、新平家物語は今ごろどの辺を旅しているのだろう?? (^^;)
( Date: 1998年 6月 9日 火曜日 10:29:44 AM)
休日返上出勤を断わることにしています。理由は休み疲れ (^^; 本当は書き込みがしたいから。m(__)m
そろそろボケから立ち直っても良いと思うのですが、日本にもピラミッドがあった話はだいぶ前に読んだ
ことがあり、古代文字と同じ本に書いてあったと記憶していますから、(あの写真の形はピラミッドです
よね)古墳系とは違う民族が渡来してたってことかしら、と考えてばかりいます。日本人はユダヤの
「失われた7部族」の1つと聞いたことがあるので、ユダヤ人だけでなくエジプト系の人達も渡来してた
のかしら、と考えています。あの本の著者は 鈴木 旭さんだったと思います。カッパ ブックスのよう
な形の本だったと記憶にあります。そして滝沢馬琴の「空飛ぶ虚ろ舟」の話を思い出しました。だから
どなたか安徳天皇はUFOに乗って壇の浦から脱出(御動座遊ば)した、というお話でも書いて下さらな
いかしら。
馬琴の「空飛ぶ虚ろ舟の中には不思議な文字が書かれていた」との話があります。petroglyph
のことを思い出したりして。。。私は仕事中に何をしているんでしょうね。
さて、新平家物語は今頃、「島」のあたりでしょうか。楽しみです。
今週の金〜土はお休みなので義経の事を書きたいと予定しています。
服部 明子 さんからのコメント
( Date: 1998年 6月 9日 火曜日 0:37:23 PM)
うちの「清水?さん」がMICROSOFT NET MEETINGが出来るのかなと知りたがっています。
服部 明子 さんからのコメント
( Date: 1998年 6月 10日 水曜日 10:37:09 AM)
今、旭屋書店に行って6月号無事手に入れました。 ^-^ 店員さんが18才位の新人でヤッパリ
ちょっとトンチンカンでしたが「地獄の思想」の注文いれました。一生懸命頑張って働いています、
っていうのが伝わってきたので7月号も頼んでしまいました。若い人っていいですね。ケナゲって
いう言葉を思い出しました。
義経の事など書き込みたかったのですが6月号も読みたいし、もう1度平家物語もひっくりかえし
たいし、とても幸せな気分です。
服部 明子 さんからのコメント
( Date: 1998年 6月 10日 水曜日 3:00:54 PM)
今ざっと「6月号」を読み終えました。p36の副題「源平盛衰30年を**見守った**キーパーソ
ン」には思わず(うっそぉー)と叫びそうでした。それに「英傑」ですって?私は日本語がかなり怪し
い人間ですが「見守った」はないでしょ。「英傑」はないでしょ、と、もう呆れ返りました。後白河の
どこが「非常にすぐれている大人物」っていうのよ、でした。こういうタイプの人間に「キーパーソン」
という英語を使わないでよね、と憤慨してしまいました。あの人には the mastermind of the scheme
(陰謀の首謀者)を使ってよね、翻弄された人達が多すぎるのだから、でした。
でも日本語の用法では「キーパーソン」でいいのでしょうね。和製英語の範囲では。
p122の「壇の浦の合戦」by利根川 裕 は結構よく書けていると思いました。
まだじっくり読んでいないので仕事の前に少しずつ読み直します。
服部 明子 さんからのコメント
( Date: 1998年 6月 10日 水曜日 11:39:36 PM)
彦島の歴史2を拝見しました。「彦島」に仲哀天皇が出て来て意識が変わりました。古くから知られて
いたわけですね。でも人が多く住まなかった理由というのが何だったのか大変不思議です。斉明天皇で
したか天智天皇や天武天皇の母君の時の朝鮮との戦いも彦島を経由して行ったのだろうと思いました。
人が彦島に「住めなくなった」または「住まなかった」謎がいよいよ深まりました。
服部 明子 さんからのコメント
( Date: 1998年 6月 11日 木曜日 2:12:23 PM)
今ひよこさんと言うか、いんこさんと言うか、のコメントにアクセスしたところ「赤間神宮の*平家蟹*
の絵は蟹顔の方が教盛じゃないか、と言っていました。教経は熊顔に表現されたり人形劇でもひどい顔に
作られていたからということでした。彼女が言うには「+宗盛+と教経がいて何故勝てなかったのか」
ですが(+宗盛+は知盛との勘違いと思います)歴史って意地悪で、義経にも意地悪で、義経という人は
平家を滅ぼす役割だけに歴史に登場したと私は思います。
服部 明子 さんからのコメント
( Date: 1998年 6月 11日 木曜日 10:45:06 PM)
すみません、上記2行目の「教盛」は教経の誤りです。
( Date: 1998年 6月 11日 木曜日 11:17:33 PM)
「歴史と旅」6月号の「キーパーソン」は・・・そうですか、母国語にされている方には違和感あるんですね (^_^)。書いた人は「源平を理解するにあたって(唯一平家物語に全編を通じて登場する人物だそうですから)キーになる人」っていう意味で、後白河の人間性だとか、行った政治については言及しない「キーパーソン」という意味だったのだと思います。
「英傑」については私も同意できませんが、後白河が好きな人が後白河を表現するとこうなるのでしょう。私がしばしば義経のことを無差別殺人のオウム真理教にたとえてひんしゅくを買うのと同じだと思ってます(笑)。
>p122の「壇の浦の合戦」by利根川 裕 は結構よく書けていると思いました。
経時的でわかりやすくはありますが、あれ、吉川英治の「新平家物語」のあらすじを紹介しているだけで、筆者の意見・持論が見えてこないのが残念でした。
少ない持論の中ですが、賛同できないのは知盛が言った「見るべきほどのことは見つ」で、何を見たのか、という点で、利根川氏は「味方の戦いぶりだとか、味方の相手方への寝返りだとか、入水だとかを見尽くした」と書いておられますが、知盛が見たのは「原田種直に安徳帝をかくまわせた、偽装入水を行った秘密作戦の成功」を見届けたのだと私は思います。
ところで、服部さん、「安徳天皇はすり替えられていた(宇佐公康著)」はご存じですか? もしご存じでなければ、入手されて一読されると興味を持っていただけると思いますが。内容は・・・秘密にしときましょうね(これこれ ^^;)
( Date: 1998年 6月 11日 木曜日 11:25:30 PM)
>「彦島」に仲哀天皇が出て来て意識が変わりました
彦島って、けっこういろんな人が登場するでしょ? (^_^)
人が多く住まなかった理由は・・・よくわかりませんが、大昔は、瀬戸内海の西の端っこに、瀬戸内海に栓をするかの如く存在する彦島は黄泉の国への入り口とされていたという話を聞いたことがあります。なんか関係ありますかね??
あと、地形的には、現在は埋め立てて本土に近づいていますが、それは大正時代に入ってからのことで、それ以前は非常に潮の流れの速い小瀬戸で隔てられていて、海峡を横切るのが難しい上に、本土に向いた側の彦島は山の斜面がいきなり海に落ち込む地形で平地がほとんどなかったようです。
平地がある福良の側は九州に向いていますが、九州からこれまた潮流の早い早鞆瀬戸を横切って来るか、本土側から潮流のタイミングを見て島の海岸線づたいにぐる〜っとまわるかしか方法がなかったと思いますので、いずれにしても、島と行き来することが難儀だったのが人が住むことを敬遠した理由ではないでしょうか?
以上は旧電子会議室からのコピーです。各発言は旧電子会議室の発言をそのまま移動しています。もともとの発言のタイムスタンプはコメントの先頭行に書いてあります。また、メールアドレスは個人のメールアドレスを第三者が公開することは支障があるので、便宜上WS彦島のメールアドレスを使用しています。
このコメント以下にさらにコメントを続けることもできます。
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