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投稿番号:26161 投稿日:1998年10月01日 01時14分28秒
お名前:なかにし
 

平家物語の雑談 その1(のコピー)

キーワード:平家物語 安徳天皇 七盛塚 耳無し芳一

コメントの種類:歴史


(Date: 1998年 4月 26日 日曜日 0:12:33 AM)

 壇ノ浦に入水した安徳天皇を祀り、平家一門の七盛塚や耳無し芳一で知られる赤間神宮がWebサイトを開設しました。

http://www.tiki.ne.jp/~akama-jingu/




通行人さんからのコメント(1998年10月01日 01時16分21秒)
 

( Date: 1998年 4月 27日 月曜日 11:09:01 PM)


 ヤフーで平家物語を検索してここにたどり着きました。

 まだ内容は十分には拝見していないのですが、ボリュームがありそうで楽しみです。

なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 01時17分01秒)
 

( Date: 1998年 4月 27日 月曜日 11:46:29 PM)


 文部省唱歌「那須与一」 (編曲・演奏 橋本潤子) って知ってます??

 上のURLで聴くことができるんですが・・・こんな歌が明治時代にはあったんですねぇ・・・。

 でも、メロディがちょっと牛若丸風・・・


なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 01時17分41秒)
 

( Date: 1998年 4月 27日 月曜日 11:47:31 PM)
 通行人さん、いらっしゃいませ。
 内容を御覧になられたら、ここに感想など書いて下さると嬉しいです。

nakaiさんからのコメント(1998年10月01日 01時18分23秒)
 

( Date: 1998年 4月 30日 木曜日 10:35:37 AM)
先日、京都大原の寂光院に行き、そばの山に登ってきました。
建礼門院が諸霊の冥福を祈りお花を摘んだところと思うと、感無量。
福岡県高田町山川町に平家の隠れ里があります。
簡単な資料を小生のホームページに貼っています。
隠れ里に暮らした平家一族が安徳天皇を偲んで崇拝した「現人神」の写真、
ついに力つきて瀧に身を沈ませた女官たちを祀る神社と瀧。
など。

なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 01時19分04秒)
 

( Date: 1998年 5月 5日 火曜日 11:25:37 PM)
 nakaiさん、こんにちは
 寂光院・・・私ももう何年か前になりますが、京都駅朝イチの大原行きのバスに乗って訪ねたことがあります。観光客が訪れる前で非常に静かな山々の様子が感動的でした。
 ホームページも見せていただきましたが、椎葉以上の秘境といった感じをうけましたが、下関からそう遠くありませんので、機会があれば訪ねてみたいと思います。

なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 01時19分40秒)
 

( Date: 1998年 5月 7日 木曜日 0:11:49 AM)

 秋田書店発行の雑誌の「歴史と旅」の6月号は「源平盛衰三十年戦争」が特集です。

・評伝 後白河法皇
・評伝 源頼朝
・保元・平治の乱〜源平武家勢力の台頭と対決
・平清盛と平家一門の栄耀栄華
・宇治の合戦〜源三位頼政の早すぎた挙兵
・石橋山の合戦〜流人頼朝伊豆の旗揚げ
・富士川の合戦〜水取りの羽音に平家の大軍周章狼狽
・横田河原・倶利伽羅峠の合戦〜義仲の北陸電撃戦
・平家一門都落ちと木曾義仲
・宇治川の合戦〜先陣争いと義経、義仲の同士討ち
・一ノ谷の合戦〜鵯越え奇襲と平家の海上脱走
・屋島の合戦〜天才義経、電光石火の渡海奇襲
・壇ノ浦の合戦〜水面に漂う平家の赤旗
・源平の実力徹底比較
・源平争乱の時代と日本人大移動

 といった見出しがあります。私も今日買ったばかりで中身はまだ読んでません。

 ・・・しかし、罪もない人々の家や街をあちこちで焼き払い、一般人を恐怖のどん底に突き落とした義経に「天才義経」ってのは気に入らんな・・・

 830円です。ここを読んでおられる方は売り切れる前にとりあえず買っておきましょう。


服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 01時20分47秒)
 

( Date: 1998年 5月 7日 木曜日 9:10:18 AM)

有難うございます。
早速本屋に電話して注文を入れてみます。

よしともさんからのコメント(1998年10月01日 01時21分29秒)
 

( Date: 1998年 5月 8日 金曜日 10:38:05 AM)

はじめまして。インターネット検索のインフォシークで平家物語を検索したところ、ここにたどり着きましたl。
私も彦島出身の平家物語ファンです。中学生のころから興味を持ちはじめ、高校の図書館で吉川英治氏の「新平家物語」と 出会ってから本格的にはまり、勢いあまって大学の卒論のテーマを「平家物語研究。壇の浦合戦における先帝入水について」にしてしまいました。
今は山口市にいますが、たまに下関に帰ると「ああ、壇の浦・・・」とうっとりしてしまいます。大学時代は暇なのをいいことに、北は奥州平泉から、関東は鎌倉、北陸では安宅の関、近畿では京都、中国地方では兵庫県の須磨/一の谷、広島の厳島神社、四国の大三島などへ史跡巡りに行っていました。
大学時代のゼミの先生いわく、壇の浦合戦については、平家物語研究者の間でもあまり研究が進められていないそうです。ですから、なぜか研究者が避けている(?)平家物語において、もっとも重要な場面である壇の浦合戦に注目した議論を、この地元彦島のホームページでできたら素敵だなあと思っています。

なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 01時22分06秒)
 

( Date: 1998年 5月 9日 土曜日 0:21:03 AM)

 よしともさん、はじめまして。ここの管理人をさせてもらっているなかにしです。

 中学校から興味を持って大学でご研究とは本格的ですね。卒論で平家物語を研究されたその成果はどこかの学会などで発表されたのですか? 

 壇ノ浦についてはおっしゃるとおり研究家の方々の研究成果というのは目にしませんね(小説のような物は数冊出版されているようですが)。雑誌などで目にする物も単なる平家物語の焼き直しのようで、特に新しい知見もないようですし。是非よしともさんの御持論などもご紹介下さい。

服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 01時22分54秒)
 

( Date: 1998年 5月 10日 日曜日 11:19:41 PM)

昨日斎藤亮太君へのわたくしのコメントへの反応拝見しました。1)宗盛は紫色の袴の人に
言わせると「ダメ盛」ですが、わたくしはそうは思いません。泳ぎ回ったのは息子の清宗の
ことが心配だったから、と言っているように宗盛は父親としては良いお父さまだったと思い
ます。宗盛は清盛と時子の間の長男として大切に、しっかり愛されて育てられた人だったと
と思います。それに清盛が後白河上皇を拉致しようというのを必死に反対したし、裏切り者
の田口を切ろうという知盛に反対したし、人としてはなかなか立派だと思います。ただ、
平家一門の牽引を託された人物としては恥を後世に残してしまいましたがこのことも一ノ谷
の合戦で知盛が息子を見殺しにして苦しみ号泣し宗盛が貰い泣きした話を思い出せば父親と
して、そして夫として、宗盛はわたくしには決して恥かしくない人物です。でも海から引き
上げられた時語った言葉がマズかったと思います。「ただ清宗のことが心配だったから」で
は。平家一門または安徳天皇のことが心配だったと語っていれば、または鎌倉には政治を任
せられないとでも言っていれば、あそこまで男を下げなかったろうに、と残念です。2)平
家が潔く滅んだと逆にしつこく頼朝暗殺を企んだ忠光、盛継、景清が平家の本流の人々でな
かったことが惜しまれます。私は1199年の頼朝の突然の死が実は暗殺だったら嬉しいの
ですが。暗殺だったとしたら北条氏の仕業だろうと思いますが、忠光、盛継、景清の遺志を
継ぐ人がいたという設定でどなたか小説を書いて下さるととても嬉しいのですが。

なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 01時23分29秒)
 

( Date: 1998年 5月 10日 日曜日 11:57:42 PM)

 「宗盛は別」というのは、ダメ盛なんていう気はないですよ。宗盛を取り巻く時代の流れが彼にとってふさわしくない状況だっただけのことだと思っています。だから宗盛が恥ずかしい人間だとは思っていません。誤解しないで下さいね。

 私たちがこうして生きている時代も平家の滅亡の上にあるのですから、やみくもに「平家が戦で勝っていれば・・・」などという気はないですが、なにかにつけてすぐに退却したり自害したりするのは・・・どうなんでしょうね?

服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 01時24分09秒)
 

( Date: 1998年 5月 11日 月曜日 2:48:56 PM)

今日は到着が1時間半も早かったので「なにかにつけてすぐに退却したり自害したりするのは」
というところを仕事の空き時間に考えてみました。考えてもなんにも分からないのですが、
富士川の戦いについてチョット思うところを書いてみます。

まず日本の古典って中国の話が利用されていますでしょ?例えば太平記は中国の話の焼き直し
が多くて、逆に書いた人の鼻持ちならない学をてらった態度がミエミエで嫌味ったらしいし、
エピソードに限れば例えば倶利伽羅峠の火牛戦法。中国にこの話があるそうです。でも実際に
義仲がこの戦法をやったのかどうかは疑問らしいですけど。牛を連れて行った事実はあったの
でしょうね。

だから「平家物語」もかなり脚色されてて事実はどうだったのか疑う話が多いと思うのです。
富士川の戦いの水鳥に驚いて平家が逃げ帰った話はどこまで本当なのか私には疑問だらけで
す。勝てば菅軍ですから鎌倉に遠慮してかなり歪曲されているのでは?と思います。

1)鳥に驚くという話は11世紀終わりの後三年の役で源 義家が飛ぶ雁の列が乱れるのを見て
敵の伏兵のあることを知り危ない所を免れた、という話があります。
平家の場合は水鳥の羽音に驚いて逃げ出した腰抜け集団だ、と逆利用したのではないのかしら?。

2)この源 義家の話は彼が中国の話を知ってたから教養のお蔭で助かったのだ、というオマケ
がつきます。源 義家は真の学のある人だった、と。平家は知ってたから逃げ帰った。。。と。

3)お寺のハトでも犬や人が近づいただけで一斉にバタバタ逃げるけど、鳥が連鎖反応すること
当時の人も知ってたと思うのです。当時のことだから水鳥は一杯いたと思うのですが、ひょっと
するとエルニーニョ現象で鳥の異常発生があったのでしょうか?それとも日本には珍しい変な
鳴き声の鳥とか、羽音がうるさい大型の鳥でも集団飛来していたのかしら?

4)闘わずに逃げた、というけれど平家方で殿軍を勤めて戦死ししている人だっているのだから
やっぱり戦闘はあったと思うのです。総大将の維盛がPTSかパニックディスオーダーでも起こ
して戦場を放棄したのかしら?総大将が陣地を逃げ出したらそれで戦いは終わりですから。

5)藤原忠清ほどの武将が鎧用の長持ちを置き忘れる程の慌てぶりとは一体何だったのかしら?
私にはとても水鳥に驚いたからとは信じられません。当時の人にもやっぱり疑問だったらしく
「藤原忠清はそんなコシヌケじゃない」と書かれています。
忠清には自分の口から事実を言えない事情があったのじゃないかしら?


結論:私は水鳥より維盛に問題があったのではないかと思います。


鎌倉の目を恐れて話が歪曲されたのではないかと書きましたが鎌倉の目を恐れず
壇の浦で入水した資盛を愛していると告白した勇気の女性右京の話が書きたく
なりました。私が平家関連の女性の中で好きな人というと右京です。
この人の強さ、勇気は義経が愛した静御前に負けないと思います。
右京についてはこのページでいつか書きます。

服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 01時24分50秒)
 

( Date: 1998年 5月 11日 月曜日 11:08:59 PM)

一晩眠ってまたまた考えてみたところ、水鳥に驚いた維盛が敵前逃亡を図ってそれを藤原忠清
以下捜すうちに軍全体にパニックが広がって平家は富士川から逃げ出ことになってしまった!
のかしら?。。。と。

平家物語の中の「不思議」を集めてみるのも楽しいかもしれませんね。
筆頭は「清盛出生の謎」でしょうね。



なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 01時25分27秒)
 

( Date: 1998年 5月 12日 火曜日 0:10:43 AM)


 富士川については、吉川英治も説を立ててましたね。内容はちょっと忘れましたけど(すんません)。

 しかし、富士川の戦いにエルニーニョ現象まで持ち出して話を展開する服部さんってすごい・・・。

 富士川については、物見が対岸の様子を見に行ったところ、源氏側の軍が思いのほか多かったので、湿地ではなくより足場が良くて戦いやすい平地へいったん下がろうとして密かに動き始めたところ、平家の動きに驚いた水鳥がバサバサと飛び立っち、それを見た源氏側が「平家は水鳥の音に驚いて逃げ出したぞ」と鼓張して言った・・・というのはどう?


服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 01時25分55秒)
 

( Date: 1998年 5月 12日 火曜日 0:51:00 AM)

なるほど!!!

平家だって偵察隊を出して 水鳥が多い所だ くらい分かっていましたものね。


服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 01時26分28秒)
 

( Date: 1998年 5月 12日 火曜日 2:05:34 PM)

今日とても良い話がありましたのでお知らせ致します。
日本の歴史 6 武士の登場 竹内理三 中公文庫 ・
P461 「内乱から源平合戦へ」より

1) 宗盛は屋島に陣を置いた
2) 知盛は彦島に陣を置いた

この意味は
・平家が淡路から長門にかけての瀬戸内海の海上制覇権を握った ということ。
・水軍を持つ平家が源氏を圧倒した ということ。
・九州は清盛の祖父正盛以来、平家との縁があったが荘園制の崩壊に伴なう反乱が起きていたので、
「彦島を押さえることにより九州と本州の連絡を断った」 ということ。
(つまり九州の荘園制に不満を持つ土豪達に源氏の味方をさせないということ)
・京都奪回が目前になった ということ。


結局、屋島で負け宗盛以下は彦島の知盛の軍と合流して3月24日源氏との決戦に臨んだ。
安徳天皇、平家に係わる女達を同伴しての 決戦 だった。
「覚悟のほどがうかがわれる」と竹内氏は書いています。

午後4時、平氏の総大将平知盛は一門に最期の覚悟を促す。まず安徳天皇を二位の尼が抱いて
入水、ついで安徳天皇生母建礼門院が入水したのを初めとして経盛、教盛、資盛、知盛らの
一門あいついで海に沈んだ。最後まで平家と共に行を共にした人々も、あるいは降り、あるい
は捕らえられ、戦いの終わった海上には切り捨てられた平氏の赤旗、赤じるしが紅葉のごとく
ただよい、主なき船が夕色せまる海上に風のまにまに流されていった。

この文章も美しいと思います。平家の滅亡って絵になりますよね。改めて感心してしまいました。


平家の滅亡の意味は 荘園制=古代国家 の崩壊。
平家は貴族達の番犬としての武士であり、源氏は荘園制を打倒しようとする反乱の武士
つまり 古い時代vs新しい時代 の争いを平家と源氏が象徴して決戦したということ
源氏が勝利をおさめたということは古代が終わって中世が始まったということ。
こうして頼朝は日本全国の支配者となった。


フゥーンと思わずうなってしまいました。荘園制が崩れて。。。ということは日本史の
授業でちゃんと習ったのですが。。。荘園制に不満を持つ土豪達を味方につけなかった
という点がやっぱり平家は古い価値観の擁護者でしかなかったということでしょうね。
滅びゆく時代のアダ花というんでしょうか、貴族制が最期の輝きを放った、それが
平家だった。
またまた「平家物語」を読み直したいと思いました。

服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 01時27分00秒)
 

( Date: 1998年 5月 12日 火曜日 11:43:02 PM)

またまた一晩眠って書き込みします。

平家って結構良い作戦感覚を持っていたと思います。
屋島と彦島を押さえて源氏方に身動きさせなかったのですから。
水軍に強い平家の姿が想像出来ます。

知盛の彦島の砦はどこにあったのか想像も出来ないのですが
一の谷で山の麓に置いて失敗したので、私は山の上だった、と思います。
戦国時代のように本気で?戦った時って山城でしたでしょ?
山の上って見晴らしが良くて遠くまで見渡せるから。
絶対一の谷の失敗は繰り返さなかった、と思います。
我が家の裏山の小高い丘からでも晴れた日には100?キロ位先まで見渡せます。


やっぱり私は平 知盛が好きです。惚れ直しました。



なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 01時27分29秒)
 

( Date: 1998年 5月 12日 火曜日 11:55:45 PM)

>戦いの終わった海上には切り捨てられた平氏の赤旗、赤じるしが紅葉のごとく
>ただよい、主なき船が夕色せまる海上に風のまにまに流されていった。

 私の通勤経路は車で出社するときは壇ノ浦の古戦場を右手に見ながら壇ノ浦に沿って進みます。帰りは、夏場の日の長い頃だと壇ノ浦に沈む夕日を見ながら帰宅することになります。

 やっぱりねぇ、必ず考えますね。あぁ、あの日の夕日もこうだったかなぁ・・・って。服部さんも以前言っておられましたが、家系というのは数代さかのぼるとみな親戚に成っちゃうっていうのはやはり事実で、血縁とも言えないはるかに遠い祖先が自分が暮らす彦島の砦でひとときを過ごし、そして船出し、自分のDNAのどこかにあの日のこの光景が記憶されてて、あれから800年以上たった今、車を運転しながらそれを思い出しているのかなぁ・・・なんて恐ろしいことを考えたりもします。



なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 01時28分07秒)
 

( Date: 1998年 5月 13日 水曜日 0:01:42 AM)

 関連する下関の風景を紹介しますね。

 下記のリンク先は私のサイトの中ですが、ちょうどこの写真のあたりが田の浦の沖で、壇ノ浦の合戦の前半、平家方が有利だったときにはこのあたりまで源氏を追いつめました。

 そのあとは、みなさんご存じの通り、潮の流れは源氏へ味方し、かこ梶取を先に射殺すという義経の作戦で平家は逆に写真右の方へと追いつめられていったわけですね。

 で勝負が付いたのが、現在の関門橋の下あたり
http://www2.tip.or.jp/~nakani00/umi_024.htm

 になるのだと思います。


服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 01時28分37秒)
 

( Date: 1998年 5月 13日 水曜日 10:01:35 AM)

写真拝見しました。
ひょっとすると、あの橋は赤間神宮から見えた橋なのかしら、と思い出しました。土地鑑が無いので
トンチンカンでごめんなさい。
上記の写真も綺麗な朝日ですね。彦島から東を臨むとなるほど小野田市が見えるのかって意外でした。
私は今迄は右に小野田市があって北西に彦島が存在する平面の地図の感覚でしたから。
有難うございました。


さて仏岩について書かなくてはいけませんね。

学研の歴史群像シリーズ 13 源平の興亡
ページ 27より

海辺にうちあげられた平家の落武者たちが、一門の霊を慰める為に海岸に岩を位牌の
形に刻み、表面に経を彫ってねんごろに供養したという言い伝えがあり、この岩を
「仏岩」と呼んでいる。

服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 01時29分16秒)
 

服部 明子 さんからのコメント
( Date: 1998年 5月 13日 水曜日 10:54:18 AM)

今日仕事に向かうバスの中で平家の滅亡以外に歴史のアダ花とされるのは何かな?と考えて
みました。

新撰組ってどうでしょう?
あの集団も新しい時代の生みの苦しみの中で古い時代が終りを迎えようとしているのに
古い価値観を守る為、武士達よりも本物の武士の姿を私達に示した人達だった、
と考えるのは。
幕府存続の為に命をかけたのに、慶喜にサッサと置いてけぼりをくわされた人達。

幕府を貴族制に、「慶喜に裏切られた」を「後白河上皇にだまされた」と置き換えたら、
日本人が平家物語や新撰組の番組を好きな理由が浮かび上がってくると思いませんか?


今日はバスの中で平家と新撰組の共通点について考えてしまいました。

服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 01時29分43秒)
 

( Date: 1998年 5月 13日 水曜日 0:18:55 PM)

藤原忠清は清盛の死後出家し、平家都落ちには同行せず、京にとどまり、1184年平田家継が
反乱を起こした時参加して敗れ、翌年斬られて亡くなっているのですが
この平田家継という人の事が少し竹内氏の本に書かれていました。

南都焼き打ちの前12月1日、伊賀国の平氏の家人 平田家継 が近江に攻め入って、
さきに福原の邸宅に火を放って源氏方に走った手島冠者を討ち取り
柏木義兼のこもる城を攻め落とした。

この平田は未確認ですが清盛の妻の方の平氏のようです。つまり桓武平氏高棟流。
清盛一族の先祖は高望流なので高望王の伯父の高棟王の流れのようです。


よしともさんからのコメント(1998年10月01日 01時30分29秒)
 

( Date: 1998年 5月 15日 金曜日 10:24:30 AM)

 5月12日の服部明子さんのコメントを読んで、以前に書いた大学のレポートを思い出しました。
そのなかで私は、平家物語が一般に言われているような「諸行無常、盛者必衰の仏教的無常観、因果応報思想、浄土思想を本流とし、人の世のはかなさ、滅び行くものの美しさを叙述した物語」であるだけではなく、悟りきれない人間の愚かしさや矛盾、悲しみ、喜びを書くことで、生き生きとした「人間の物語」を描こうとしたのではないかというテーマのことを書いたことがありました。
確かに、平家物語一連の流れをみるとその通りで、平家の栄華を描いた部分は滅びを描いた部分に比べれば少なく、、そのことからも、平家物語は平家の「滅び」に焦点を当てて書かれた敗者の文学であるといえると思います。ただ、「滅び」ということに注目して平家物語をみるなら、それは平家のみに訪れたものではありません。それは平安の永木を支配してきた藤原氏の摂関政治にも、さらにはそれまで決して犯されることのなかった聖域たる皇室にも、壇ノ浦の安徳帝入水・三種の神器(特に宝剣)の喪失という出来事によって訪れているのです。(もっともそれは、天皇の血脈がとぎれ断絶したというわけではなく、それまで有していた圧倒的権力というものが失われ、衰退していったという意味)
それは、平家物語の冒頭の部分に描かれた「諸行無常」であり、「盛者必衰」そのものなのです。また、それは古いものの上にだけ訪れたわけではなく、新興勢力の一つとして登場した源氏の上にも、「木曾の最期」や、「判官都落ち」として訪れているとみることができるのです。
しかしながら、平家物語という文学の性質上、そこに書かれたことのどこまでが事実で、どこまでが虚構であるのかという問題が浮き上がってきます。なぜなら、平家物語は合戦や歴史的事実のみを記録した歴史書ではなく、かといって、虚構ばかりを積み上げた、ただの「作り物語」でもないからです。史実と虚構をおりまぜながら、諸行無常という運命の流転の中で、それに逆らい、戦い、足掻き続ける、滅びゆく者たちの生き様に焦点を当てた人間のドラマが描かれていると私は思います。このことは、岩波新書からでている石母田正著「平家物語」の中の『つまり平家物語の作者は、後からかんがえれば、滅亡するほかなかったような運命に逆らって、たたかい、逃げ、もがいたところの多くの人間に深い興味を持ったのである。それを物語にしたことによって、彼は人間の営みを無意味なものと考える思想とたたかっているといってもよい。』という説によっています。
この石母田正という人は、同じ本の中で運命というものから平家物語を考察しているのですが、そのところで平知盛を取り上げているので、知盛に興味ある人にははおすすめです。
なんだかだらだらと長くなってしまい申し訳ありません。
このコメントに対する皆さまのご意見をお待ちしています、では。

服部明子さんからのコメント(1998年10月01日 01時31分04秒)
 

( Date: 1998年 5月 31日 日曜日 0:20:23 AM)

先ほど、休暇から戻って来たところで、早速「彦島」にアクセスして「わぁーい、
新しいお部屋が増えている」と思って「専立寺」にノックしてみたのですが。。。
not found でした。現在、修理中かしら?
「壇の浦の合戦は無かった」というのをどこかで読んだ記憶がありますが、あれだけの
話がつくり話とは思えません。

私は新しい会議室に入ってみるまでは彦島の城は 「柵」 程度だろうと思っていたのですが、
**竹を編んだ物としたら**
現在の彦島に竹が沢山生えているなら可能性があるなと思うし、
**土肥実平の「堅固な城」表記があるとするなら**
落ち目といえど平家は未だ力があったのかなと思うし、
**範頼がなかなか落とせずにいたから**
鎌倉への言い訳の共犯として「堅固だったから」と書いたのかなと思うし、
**時差ボケで24時間起き放しの頭では**
屋島程度の規模だったんじゃないの?と、屋島に行ったことも無いのに、思います。
屋島の城の様子が分かれば彦島の防衛設備がどの程度だったのか非常に
参考になるんじゃないかと。。。島帰りの私は思うのです。刑務所帰りじゃないですよ。

よしともさんへ
てっとり早く「運命からみた知盛」についてこのページにお書き下さいませんか?
私は知盛大好き人間なので。休暇中でもこの人の事ばかり考えていたのです。

なかにしさんからのコメント(1998年10月01日 01時33分32秒)
 

 以上は旧電子会議室からのコピーです。各発言は旧電子会議室の発言をそのまま移動しています。もともとの発言のタイムスタンプはコメントの先頭行に書いてあります。また、メールアドレスは個人のメールアドレスを第三者が公開することは支障があるので、便宜上WS彦島のメールアドレスを使用しています。

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