[平家物語を熱く語る!!一覧に戻る] 投稿番号:26145 投稿日:1998年09月30日 15時08分26秒 お名前:服部 明子
コメントの種類:発見 あなたが感動した場所へこのページを参考に訪れることが出来るよう、 行き方、料金なども具体的にお書き下さい。 |
初めての投稿、光栄です。が、源氏贔屓の私がトップでよろしいのでしょうか。ほんの一寸ですが気にしています。
と、書き始めたのはいいのですが、何を書いていいのやら。何せ源氏を追う旅しか行っていない悲しさです。
私が解決出来ない、疑問訪問を一つ書いてみます。詳しい方、教えて下さい。
鎌倉に臨済宗粟船山常楽寺があります。静かな佇まい、上品さ清潔さは天下一品。
第一の疑問は、北条泰時が義母の追福のため建立した粟船御堂が前身という説、一方木曾義高に嫁した頼朝の娘・大姫
の死後、北条政子が二人のために粟船御堂を建立したのが前身という説があります。
常楽寺の裏山には「木曾義高の塚」がポツンと寂しくあります。山を少し下ると今度は「姫宮塚」なるものがあります。そこで第二の疑問が生じます。
そこには「泰時の娘の墓」とあるからです。何故なら『相模風土記』には泰時の娘の墓だったが、弁天社にまつった、とあり『常楽寺略記』には「木曾清水冠者義高ノ室、頼朝ノ娘大姫ノ墓所ナリ」とあります。
この二つどちらが本当なのでしょうか。しかし私は信じたいのです。常楽寺は北条政子の建立した粟船御堂が前身で、姫宮塚は大姫の墓であると。源氏贔屓なら当たり前でしょう?
そうでなければ、義高が可哀想です。せっかく近くにあるものが、大姫の墓でなかったら本物はどこにあるんでしょうか。父親の政略と知りつつ人質になった義高、死ぬまで義高を愛し続けた大姫。隣り合わせのように墓があればこそ、二人は今、手を取り合って幸せを享受していると思うのです。
常楽寺を訪れ、裏山の義高と大姫の塚を拝すると違う世界でのそれを祈らずにはいられません。
本当の『愛する姿』を教えてくれる二人に「頑張ったね」とねぎらう一言をかけたくなる旅です。
JR東海道線大船から常楽寺経由ならどのバスでも行けますよ。
「青墓の宿」が第一話、「石橋山古戦場」が第二話、「義高と大姫の常楽寺」が第三話だとすると、今回は第四話と言うことでしょうか。
その四話は私の目の前にある(と言っても隣の市ですが)鎌倉を一寸書いてみます。
鎌倉は誰もが知る、鎌倉幕府の本拠地です。ところが真面目な話、最近ではそれさえ知らない若者が増えました。
今の教育が悪いのか、はたまた若者自身が悪いのか。私には分かりません。
ただ鎌倉は確かに、ファッションの街、グルメの街として老若男女を引きつけます。お寺さんはその次でいいらしいのです。
鎌倉市のはずれ、逗子市にまたがる山の中に「曼陀羅堂跡」という所があります。
昔この地に「曼陀羅堂」が存在していたのでしょう。今はその面影も跡形も残っていません。
現在そこに残るのは、200を超す「やぐら」と数え切れない程の「五輪塔」そして四季折々の「花」、深い緑の「木々」です。それらが静かな凛とした空気のなかで私を迎えてくれます。
やぐらは「窟」とも書き、たまに地方にもありますが、殆どは鎌倉付近に集中していると言っていいでしょう。
やぐらは倉庫などに使われることもあるようですが、鎌倉のそれは「墓」そのものです。一説には平地の少ない鎌倉で山や崖に窟を掘り、それを墓とした合理的な方法だと言われています。
しかしどこでも近代化の波が押し寄せ、過去の貴重なやぐらが壊され宅地に変貌していくのは、理解は出来ても辛いものがあります。ですが、いまだに新しいやぐらが発見されることもあり、「何が発掘されるのか」と胸を躍らせることもあるんです。 そんな鎌倉は不思議な、魅力ある街です。
やぐらを見るなら鎌倉の山寄りを歩けば簡単に発見出来るでしょう。(たまに、防空壕があり間違える。私は防空壕を知る、古―い人間なのです。)でも、一箇所にこれだけ多くのやぐらがあるのは曼陀羅堂跡以外知りません。誰が何のためにここに集中して造ったのでしょうか。
やぐらに附随して五輪塔があります。ここにいくつあるのか知っている人はいるのかしらと、首を傾げたくなる程多くの五輪塔がやぐらの内や外に、山をぬうように進む道端に、或はふと見下ろす草むらの中にあり挙げればきりがありません。
五輪は五つの輪、すなわち上から空・風・火・水・地を形作っていると言います。
一つ一つの輪云々より、私はこれは「宇宙」そのものと思います。 人の輪廻が地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天なら、宇宙の輪廻はこの五輪のそれでしょう。これはよく言われてきたことなので、改めて言うこともないのですが、要は「宇宙の流れ、つまり運命に逆らわず、素直に生きなさい」と言われている、そう諭されているように思います。
土に還えろうとしている五輪塔に向かうと彼らと何かを話したくなります。
もう忘れてしまいましたが、この五輪塔にも墓標と供養塔の意味があり、それは石の種類で区分されているとか。見分け方は苔の着き方だそうですが、知っている人がいたら教えて下さい。
曼陀羅堂跡のもう一つの特徴は「花と木」です。5,000株の紫陽花、10,000株の菖蒲、そして菜の花、山百合、彼岸花、萩の群生、名も知らぬ木々の繁り、枝垂桜と息が詰まりそうです。
中世にふと戻り、宇宙の輪廻を感じ、咲き乱れる花々に魅せられて、ある女流作家はここを「桃源郷」とよぶに相応しいと書きました。
ここは平安末期から鎌倉時代に掘られた墓です。少なくともここを訪れたら、それに相応しい言動、神聖な心が必要だと思います。そんな雰囲気させる「曼陀羅堂跡」です。
しかし残念ながら、そういう感覚を受け取れない、感じようとしない人々も多くなりました。
あのスーツがいい、あそこのケーキは安い、中華は五目がおいしい、中年の人は子供の出来が悪い(親が悪いから子供も悪いのを知らないのか)、あの八百屋のお野菜は安い、そんな話でまあ賑やかです。「ここまで来てそんな話するなよ」と心の中でブツブツ呟く私です。
私はそれ以降「雨の日」か「朝一番」を選び訪れています。
源氏も平氏もない、戦い終えこの「桃源郷」で眠る彼らに平安な時と場所を与えたい。そこへ少しだけ足を踏み入れさせてもらいたい。そんな所がある鎌倉が好きです。そこへ行って彼らと同じ時間を享有出来る私は幸せです。
*「何が発掘されるのか」と胸を躍らせることもあるんです。そんな鎌倉は不思議な、魅力
ある街です。
**五輪塔にも墓標と供養塔の意味があり、それは石の種類で区分されているとか。見分け方
は苔の着き方だそうですが、知っている人がいたら教えて下さい。
*鎌倉の東勝寺でしたか?北条高時が自害したところ。私は「怖い」んですよ、鎌倉って。
1993年に日本に里帰りする時、今回はどこへ行こうかと計画して、鎌倉の北条1族の墓
参りをしたかったのですが突然言い知れぬ恐怖に襲われて止めました。
1997年9月にこちらの日本人向けテレビ放送の旅行番組が鎌倉を取り上げていて、鎌倉
の町の空中撮影の映像を見ることが出来、(本当に鎌倉って3方を囲まれた要害の町なんだ
わ)と感心していたのですが、突然私の心の中で鎌倉が炎上する気分になって、それから怖
い体験をしました。足を引っ張られてテレビの猛火の鎌倉の町に引っ張られそうになったん
です。細かい事を省くとそんなところです。
今年になってからインターネットで私の先祖が当時も鎌倉に在住してたことが分かりました。
なんとなく、そんな気はしていたのですが、証拠が無かったんです。
そして、その後、アメリカの当地の番組で人間が内部から燃えて焼け死ぬ話を放送してるのを
たまたま見て、怖くなりました。この事が去年の9月に私に起きた可能性があったのか?と。
**苔のつきかたで違いが分かる、ということは使用石の素材が違うということでしょうか?
地学は苦手だったので岩石の種類とか性質とか用途とか記憶に残っていません。1993年に
赤間神宮で神職さんから石の種類によって何百年も持つ物と崩れの早い物があるというような
ことをお聞きしたような気がします。地学が苦手だったので聞き流してしまいました。(^^;
私の史跡巡りに初めての書き込みがありました。 投稿しっぱなしで、何もないととても不安になるものです。 服部様、感謝・御礼。 他の人も是非参加して頂けないでしょうか。
鎌倉幕府が崩壊した1333年、東勝寺で切腹した北条高時の「腹切やぐら」。 私もあのやぐらの中には入ることが出来ませんでした。 あのやぐらの前に立った時、身体が震える程の強い「霊」を感じたのです。 高時と共に切腹をした側近やその部下たちの「怨念」のような霊が、高時の霊と一緒にあのやぐらに充満しているように思えました。
それからは数えきれない程、鎌倉を訪れてもあのやぐらの前に立つことはありません。
ちなみに平家の支流、北条一族(鎌倉時代に限る)の墓が現存する場所を列記しておきますね。 何かの時の参考にして下さい。 (あいうえお順)
北条顕時(称名寺)・貞時(円覚寺・仏日庵)・実時(称名寺)・重時(極楽寺)・高時(宝戒寺・供養)・経時(光明寺)・時氏(大慈寺山麓・墳墓堂)・時政(伊豆・願成就院)・時頼(明月院)・長時(淨光明寺)・泰時(常楽寺)・義時(頼朝墓・東側山中)・北条一族菩提寺(伊豆・成福寺)。
私の知識の範囲はこの位までです。
服部様の心に感じた鎌倉の炎。 それ、当たっているかも知れませんね。 鎌倉は、火災・災害・戦と幾度も幾度も炎にみまわれました。 「鎌倉・炎の歴史」が出来るくらい多い回数ですよ。
しかし、鎌倉はその度に力強く復興してきました。 そして、貴重な文化財を守ってきました。
服部様の心の炎が恐怖ではなく、美しく夢のある、情熱の炎に変わっていくことを願っています。
五輪塔の苔の件ですが、墓標と供養塔では使っている石材を区別していることからだと思います。
墓標は質のいい石を使うから苔は着かない。 供養塔は一寸悪い石で作るからすぐ苔が着く。 それとも逆かな? どっちにしても、時間はいくらでもあります。 ゆっくり解決していきましょう。
「何とか巡り」というのは、それ相応の知識、下調べ、時間が必要です。 皆さん、何かを目標にしての歴史巡りは、決してつまらないものではなく、何かしら心に残るものを得られる旅になります。
遠い所へ行くのが旅ではありません。
私がそうであったように、史跡というのは意外と近所にあったりするものなのです。
*史跡というのは意外と近所にあったりするものなのです。
この部分、中西さんと同じですね。
鎌倉は行ったこと無いんですねぇ。どうしても興味の対象が屋島以西で留まってしまいます。そういう私ですので犀川さんのやぐらや五輪塔のお話は非常に興味深いです。五輪塔は赤間神宮などにもありますが、やぐらっていうのは見たことがないです。防空壕と見間違えるような、大きな穴の形をしたお墓なわけですね。なるほど・・・。
身近な史蹟っていうのは、メジャーな物よりも情報や通説というのが少ないですから、そういうのをコツコツと検証するのは楽しいですよね。
犀川さま:
私のイメージでは「ただの土の横穴」ですが、石造りなんでしょうか?古代の石室みたいな?
昔は罪人を閉じ込めていたりもしたのではないですか?
木曾軍の手塚の娘でしたか?鎌倉に連行された母親を尋ねて幼い姫が苦労してやっと母に会う
話。あの母親が入れられていたのが「やぐら」のような気がします。
「やぐら」って盆踊りの時のやぐらじゃなくて、「倉」の1種で物や時には罪人を入れておく
入れ物なのではないでしょうか?どうも私や中西さんのように見たこと無い者には見当も付き
ませんね。鎌倉の人には日常の物なのでしょうけど。
色々のコメントを頂き、面白く楽しく拝見しております。
「やぐら」について、私の無い知恵を絞り出してみました。
「やぐら」は御墓です。 ですから、服部様の言っている『唐糸やぐら』は正確には「やぐら」ではないと思います。 単なる「横穴」か「牢穴」と言うべきでしょう。
近代になって鎌倉で掘られた中世の横穴は何でも「やぐら」と呼称してしまった為、御墓なのか倉庫なのかで混乱してしまったと考えられます。
「やぐら」は土を掘ったものもありますが、殆どは岩を掘削したもので、中には源実朝・北条政子・大江広元の「やぐら」のように、四方をきちんとした石で囲み、真中に納骨穴、その上に石塔といった立派なものもあります。 当然ですが、それらの内部は美しい色を施してあったといいます。
それと忘れていけないことは、「やぐら」は上層者だけの特権であることです。 ですから、簡単に穴を掘っただけ、というものは殆ど無いということになります。
本当の「やぐら」かどうか見極めるのも鎌倉歩きの醍醐味でしょう。
鎌倉での「やぐら」は約1,200基ありますが、埋もれているものをふくめると約2,000基あると推定されています。 あと800基も埋もれているんですよ。
『あなたにも捜せる、未発見のやぐら』キャンペーンでもやりますか!
五輪塔は10cmから1m80cmまでのを見てきました。 これは謎の多い物体です。
研究とまではいかないまでも、勉強くらいはしてもその価値はありそうですね。 「やぐら」とともに訪ね歩きたいと思っています。
「近くの史跡」は心から実感しています。 始めの内は鎌倉ばかりに足を運びましたが、何と私の家から一里四方(これは古めかしい御言葉)に数多くの鎌倉時代の史跡があり、驚きと嬉しさでいまだに散歩がてら出かけております。 その内、そんなことも書いてみたいと思っています。
楽しみにしております。
なるほど・・・山の斜面に掘った穴ボコかと思ったら、結構立派な構造物なんですね。考えてみれば、土の斜面にただ穴を掘っても何百年も残りませんね。
恥ずかしながら鎌倉がどういう地形をしているのか知らないのですが、そういうやぐらが山のあちこちにポコポコあいているわけですか? それとも、やぐらの多い山みたいなところに集合墓地のように集まってるんでしょうか・・・。未発見のやぐら探しというのもおもしろそうですねぇ。今度東京出張があったら寄ってみようかなぁ・・・鎌倉。
中西さん:
鎌倉は3方を山に囲まれた要害の地で、空いているのは南の海側だけ。
ここは怨霊が閉じ込められている所ですよ。
でも1333年の北条氏1族だから中西さんには関係ない人達だから大丈夫ですね。
私は今でも鎌倉は怖くて行けないです。
私の大好きな鎌倉に、大変厳しい意見がありました。 確かに怨霊を感じ取れる「腹切やぐら」のような所もあります。 そして恐怖を感じる過去の歴史もありました。
そういう先入観念を全く無くして鎌倉の街を歩いてみては如何でしょうか。 中世幕開けの舞台となった鎌倉です。
その「時間」という永い永い経過があって、今の私たちが存在するとしたら・・・。
それでも鎌倉は、怨霊に満ちた怖い街に見えますか? 今日はとても悲しい日。
*今日はとても悲しい日。
犀川さま、どうぞ悲しまないで下さい。
*鎌倉は、怨霊に満ちた怖い街に見えますか? 今日はとても悲しい日。
今から出勤なのですが気合を入れて歯を磨いていてハッと気づきました。
源平合戦に参加した源氏方の各氏達の戦後を考えていたら、頼朝亡きあと次々と
粛清されましたよね。鎌倉って「いよいよ怨霊に満ちた街」に思えてきました。
犀川さま、ごめんなさーい。m(_ _)m お詫びの続きはメールで個人的に。。。
第五話。
今回は鎌倉の「源氏」を追ってみたいと思います。
鎌倉で源氏を追うには、頼朝・頼家・実朝の三人を追えばそれですみます。
鎌倉時代は続いても、源氏はこの三人で、後は平家の流れを汲む「北条」に移ったからです。
残念ですが鎌倉に「平氏」の面影は殆どありませんが、しかし、鎌倉には平氏・北条の歴史が渦巻いています。
何故なら私は、本当に勝手で個人的な考えではありますが、北条は「平氏」から抜け切れていないと考えているからです。
つまり、北条の中には厳然たる「平家」の血が流れており、「源氏」に対抗する宿命を帯びていたのです。
一つの例を挙げれば、頼朝に想いを寄せていた北条政子が、何故平家の守護神である厳島神社を三嶋大社の境内に勧請したのでしょう。
北条は、「平家」そのものだからではないでしょうか。
頼朝・頼家・実朝源氏三代の将軍の死も恐らく北条或は北条シンパの謀略でしょう。
源氏滅亡後の北条執権時代に入ったらたちまち起こった梶原・畠山・和田らその側近たちの滅亡。
全てが北条の謀略と考えていいでしょう。
頼朝の時代に起こった美談「曾我の仇討」もその名を借りたクーデター。
それも結局、北条の策略でした。
やはり底辺には、源氏対平氏の図形が出来ていたと思います。
頼朝は平氏と結婚し、平氏に囲まれて生きていたのです。
「怨霊」のある鎌倉という人もいます。
あるとすれば、それは源氏ではなく、平家の流れを汲む北条に対してでは……と思います。
「戦(炎)の街」の鎌倉という人もいます。
あるとすれば、それは源氏の時代ではなく、北条・執権の時代になってからでは……と思います。
頼朝は常に直面する死への不安と予感、追い詰められたどうしようもない心境だったのではないかと推測出来ます。
言うに言えず、動くに動けず、悶々とする三人の将軍たち。
頼朝は、何とかそれに耐えられたにしても、二代・頼家、三代・実朝はとても耐えられるものではありません。
それは頼家、実朝の将軍になってからの行動を見れば解ります。
「傀儡」に何が出来るでしょうか。 したくとも出来ない時、出来ることは「開き直り」しかありません。
しかし、厳然と今がある以上過去は過去として清算しなければなりませんが、三人の将軍の心中・気持を考えると「やりきれなさ」が胸を打ちます。
だから、だから、だからこそ源氏三代が愛しく、好きで好きでたまらないのです。
源氏を追う旅がとんでもない方向に行ってしまいました。
待ちます。 反論!
時政にとって京都での平家の権勢は羨ましかったでしょうね。
自分には望むべくもないと諦めていたと思います。
政子が頼朝と恋仲になってがっかりしたことでしょう。
でも女って怖いんですよ。
政子はさんざん頼朝には裏切られていますからね、最後に仕返ししたのかしら?
上手く言えば「自分の子さえ見切った」賢い女。
でも実家というのは重いと思います。
平家を倒したのは「ウチ」との誇りがあるから「今こそ平家に替わって!」と
実権を踏襲する権利を1人占めしたのでしょうね。
出来の悪い子供達。頼朝に近い目の上のコブの同僚達。処分するのにやましさなんて
政子の「苦労してここまでにした」思いには些細な問題だったのでしょう。
政子って女性は「子ゆえの闇」にははまらなかった特異な強さを持った女性と思います。
第六話、ということにしましょうか。
ひねくれ者の私は、大好きな頼朝に限らず、「歴史」や「伝説」や「…と言われている」の文章に『本当だろか』と疑問を投げかけます。
勿論、都合が悪くなると『フムフム』と納得してしまう図々しさも持ち合わせます。
そして、私だけでしょうか。 人から見ると「阿呆か」と思うほど、小さいことにこだわります。
今回こだわったのは、「頼朝が石橋山で初戦惨敗の後、安房の国に逃げどこへ上陸したか」でした。 通説では、安房・猟島(鋸南龍島)ですが、本当でしょうか。
地図を見て下さい。 頼朝がこんな動きをするとお思いでしょうか。
それに従えば、鋸南上陸―(那古観音を通り越して)―洲崎・洲崎神社(上陸して一番始めに参拝したと言われている)―(館山に戻って)―館山・那古観音―安房・国分寺―上総・国分寺―下総・国分寺―。 早く再起を願う時にこんな無駄な行程を踏むと思いますか。
通説を覆すなら、洲崎上陸―洲崎・洲崎神社―館山・那古観音―安房・国分寺―上総・国分寺―下総・国分寺―。 この方が自然で、素直だと思います。
今回の旅はこの疑問からスタートしました。
洲崎神社には「源氏再興の折には、領地の寄進を約す」旨の頼朝の約束がなされました。
それは一番に参拝し、一番に上陸した地だからこそ出来る約束です。
「歴史は事件と同じ、現場〔現地〕を歩くことで解る」をモットーにしている私は歩きました。
あったんです。 洲崎神社からすこし北側、館山に向かおうとして歩いていました。
その時、「これを見てくれ」と言わんばかりに一つの石碑がありました。 「源頼朝公上陸地」と書いてあるんです。 まるで、鋸南に対抗・抵抗しているかのようにです。
そして隣の石には 『源は 同じ流れぞ石清水 せき上げてたべ 雲の上まで ・・頼朝』
このうた、「さあ、上陸したぞ」と言う時に詠んだと思いませんか。
どうみても二・三日たってから詠んだうたではないと思うのです。
意を強くした私はこの後、『フムフム』と一人納得し、頼朝の歩いた行程をともに歩きました。
鎌倉までは、何日かに亘って歩くことになりました。 これで、奇跡の再起のことがわかるでしょうか。
何も解りません。
たった7人で安房に上陸した頼朝は、江戸湾をぐるっと周る39日間でそれが5万騎に膨れ上がる。
この奇跡は俗に言う「貴種」の祭り上げだけでしょうか。 それは単純過ぎる結論です。
奇跡の謎は、源氏や鎌倉幕府の謎を解くより難しいと言われます。
あと何回か、頼朝と歩く必要がありそうです。
頼朝は国府周りをしたらしいのですが、国府跡は明確でない所が多々あります。
たいていは近くに「国府台」の地名をもちます。 それでも、国府跡と明確に示されているのは、近県でもほんの数カ所に過ぎません。
ですから頼朝の行程を追う場合は、国府と殆ど同じ位置に立てられた国分寺を目安にしました。
国分寺も鎌倉時代と今の位置が違うもの(安房、武蔵、相模)と、殆ど位置が同じのもの(上総、下総)とがあります。
面白いのは、(本当は深刻な問題なのですが)管轄している市の文化財に対する意識が表れていることです。 整備状態・道案内・説明状況でその市の取り組み姿勢が読み取れます。
共通して言えることは、何故か国分寺は他のお寺さんと比べて「静けさ」を持っています。
不思議と言えば不思議な現象です。 しかし、中世に還るには最適と言えるでしょう。
この紀行、どう行けばいいと聞かれても困る代物です。
石橋山をスタートし、静岡―神奈川―海を渡って千葉―東京―再び神奈川―鎌倉。
車で行っても一寸大変。 でも、時間の有る人、この紀行を自分で歩いたら絶対「頼朝ファン」になりますよ。
犀川さま:
私は上総国の中心地を捜していたのですが、答えを見つけました有難うございます。
**国府と殆ど同じ位置に立てられた国分寺
**国分寺も鎌倉時代と今の位置が違うもの(安房、武蔵、相模)と、
殆ど位置が同じのもの(上総、下総)とがあります
上総の国分寺を捜せば上総国の中心地が分かりますね。詳しく書いて下さいますと本当に
助かります。ありがとうございました。
千葉県市原市惣社、JR総武線五井駅バス国分寺台行き「市役所」下車徒歩5分の所に上総・国分寺があります。
旧国分寺は向かって右隣に「上総国分寺跡」として残っています。
そこから西方徒歩15分の、小湊鉄道・上総村上駅付近までが、国府跡ではないかと推定されます。
旧上総国分寺は13万平方米と膨大な広さを誇り、武蔵・国分寺に次ぐ全国第2の規模であったといいます。
それに比べれば現在の国分寺は小さいものですが、仁王門の所に将門の墓と伝えられる「将門塔」がある、とても静かな真言宗のお寺です。 境内を歩くと、心が落ち着く自然に囲まれた、贅沢な気分になれる雰囲気を持ちます。
寺の周りもまだ自然が残る、田園風景が広がりますが、この景色いつまでもつでしょうか。
この地で頼朝と平広常が「お前、わしの配下に入れ」「お前ごとき若僧の言うことを聞くか」などとやりあったんでしょうね。 結局、広常は頼朝が下総・国分寺を出立、武蔵の国に入る前に傘下に入りました。
「頼朝なら、上総の国は安堵出来る」と思ったからでしょう。 問題は何故そう思ったかです。
源氏の嫡流からでしょうか。 頼朝の人間性でしょうか。
今となっては誰にも解りません。
ありがとうございます。
「将門のお墓」ですか。後味悪かったですから、お墓を建てたんでしょうね。
周りが次々と頼朝の傘下に入ったから「入った方が楽」と思ったとしたら、私の
ような「楽な道を取る」人だったかも。 (^^; ごめんなさい。
でも、そこのところの心理状態を考えるのは面白うございます。
「千葉一族」の下記のURLで千葉広常のことを千葉江州氏が書き込んでいらっしゃいますので
御紹介を。
↓
http://www.kkkk.ne.jp/~corp/log.cgi?room=023
上記のURLでいろいろやってみましたが繋がりませんでした。
千葉江州どのに連絡してみます。ごめんなさい。
本人によりコメントは削除されました。 1998年11月04日 10時00分45秒
以下は千葉江州どのより転載させて頂きました。
上総介広常について少し語らせていただきたいと思います。
平上総介八郎広常は平治の乱にも義朝に荷担して平家と闘っています。戦に破れた広常はほうほうの体で上総まで逃
げ帰ったと思われます。それでも上総一国を統べる広常に対して、その背後にある軍事力を前にしては清盛をして鉄
槌を降ろすことを躊躇させたのでしょう。その代わり、関東へ忠義者の伊藤上総介忠清を侍所所司として下し、圧力
を掛けさせて上総介広常を封じる策に出たのでしょう。一方では平家とパイプを持つ佐竹氏が相馬常清(広常の弟)
に娘を嫁がせて懐柔し、下総経営に口を挟む余地を無くし、上総介にとっては一族に当たる千葉氏を圧迫したことも
黙認させたと思われます。その後、関東へ下って来た忠清は相模の大庭氏に迎えられ、その地から上総介に対して苛
斂誅求を行い、所領の一部を寄進させようとさえしたようです。当然忠清の要求に対して、広常は執拗に抵抗したの
は言うまでもありません。上総における忠清と上総介のごたごたは京にまで伝わり、その争論を始末するために六波
羅は事情聴取を行うべく広常へ上洛を命じたのですが、息子の能常が代わりに申し開きを行うべく六波羅へ行った途
端、幽閉されてしまったのです。人質を捕られた状況で広常は苦悩したことでしょう。しかしながら、実弟の金田小
太夫頼常を派遣して盛んに三浦氏と頼朝の連絡を取り合い、真剣に対処を考えたのでしょう。やがて伊豆北条氏、相
模三浦氏、下総千葉氏、上総上総介氏の連携が成り立った時に対平家戦の臍を固めたのだと思います。(もっとも能
常は源頼政の叛乱が起こった際の混乱に乗じて幽閉場所から手引を受けて主尾よく脱出し、頼朝の挙兵時には上総へ
帰国していました。また、金田頼常が衣笠城まで三浦氏と行動を共にしていたのは、上総介広常の意志が佐殿への助
太刀を申し出ていた代弁の顕われではないでしょうか。当時、広常の権勢の前には一族郎党も絶対服従に近かったと
思われますから、その意志を代行して頼常が三浦氏に従軍していたと考えます。)ただし、広常という男は万事派手
好き(岡崎義実との頼朝下賜の陣羽織争いの場)だったと伝わっていますので、頼朝の挙兵に応じた際も全上総勢を
率いて大デモンストレーションをしようと考えていたのでしょう。二万を越す兵の集合に時間を要してしまった広常
は、そのために参陣が遅れてしまったと考えます。ですから、いろいろな書物に書かれる広常の頼朝と交わした言動
は果たしてそうであったのかと懐疑的に見る必要はありそうですが、頼朝から疑いの目で以ってその行動を凝視され
ていたのは間違いないでしょう。残念なことに、上総介の一門の結束は一枚岩でなかったことも明らかで、伊北庄司
常仲(広常の兄伊北新介常景の子)のような反源氏思考の持ち主もおり、広常も対応に苦慮したこと
と推察されます。結局、婿の長狭常伴をして頼朝を襲撃せしめた常仲のような危険分子の存在、不自然な参陣の
遅れ、他の御家人との軋轢、広常自身の権勢が余りに大きく彼自身尊大であったこと等が災いして排除される憂き目
にあったのだと考えます。お尋ねにあった件ですが、上総介広常の心理としてはそれまでの平家の圧制に対して不快
感を持っていたことから、かつて自身が奉公していた義朝の後継者である頼朝が挙兵することを素直に喜び、関東の
主として推戴したいと真剣に考えていたのだと思います。だからこそ参陣に遅れてでも精一杯の軍勢を集めて頼朝に
喜んでもらおうと無邪気に願っていたのだと思います。その証拠の一つに一宮神社へ奉納した際に、広常自身が潔斎
して書いたと言われる鎧に結び付けた奉納書の文面で頼朝の事業が首尾よく進むよう祈願していたのでした。(もっ
ともそれが明らかになったのは広常が暗殺された直後のことでしたが…。)彼の持つ傲慢さが頼朝をして敬遠せしめ
たのでしょうか。こんなところが広常の心理だったのではないかと私は状況証拠からそう思っています。
ついでながら、私は千葉広常との表記をされることについて、やはり抵抗がありますね。彼は房総平氏の宗家で上総
介を苗字にする人物ですから、後世千葉氏が房総の主人顔をして房総平氏の系譜まで入れ替えてしまう暴挙をしてし
まったことに対して遺憾に思っています。
(11/2(月)18:24 210.135.238.37)
http://member.nifty.ne.jp/bame/kazusa.htm
をズリズリして青字で「上総氏が頼朝に加担して理由と考えられるもの」が
「千葉氏一族」に書かれていましたので御報告を。
服部さん、こんにちは。
上総国の中心地かどうかはわかりませんが、上総氏が居館を置いていたのは「一ノ宮」というところだったと思います。現在も上総一ノ宮があったと思います。
始めに……、お願いですから、どなたかこの「史跡巡り」に投稿して下さい。
誰も何処へも行っていないということはありえません。
私専用ではない筈ですから、私が休むと全然進まないというのは一寸辛いことです。
第七話……かな。
源頼朝が伊豆に流されていた期間は丁度20年です。
その「蛭ケ小島」のある韮山近辺は、流石に頼朝関連の史跡でいっぱいです。
ですから、私が伊豆に行く回数が多いのは当然と言えば当然です。
いずれ一つ一つ紹介をしていこうとは思いますが、今日は文覚上人の関連を伊豆で拾ってみようと史跡を歩いてみます。
文覚についてはあまりにも有名人ですから、説明は省きます。
文覚が京から伊豆へ流された奈古谷は、頼朝のいた蛭ケ小島から数キロ程の場所です。
何故こんな近い所に流されて来たのでしょうか?
運命の悪戯と言ってしまえば、確かにそうかも知れません。
平家方がもう少し地理に詳しければ、そうはしなかったかもしれません。
文覚は頼朝に源氏再興の旗揚げをうながしたということで有名です。
その直前に頼朝の父・義朝のくびを京より持ちかえり「父上の無念を晴らし、天下をとるためにも源氏再興を」と迫ったという話があります。
又、伊豆の小鍋神社には義朝のくびが埋められているとの伝説が昔からあります。
そして、鎌倉に建立された三大寺院の一つ、勝長壽院が落成した時「源氏の菩提寺」ということで義朝のくびが埋葬されました。
これもやはり文覚が京から持ちかえったと言われています。
野間大坊、大御堂寺には義朝の墓もありますし……。
源義朝はいくつのくびを持っていたのでしょうか。
そういう詮索は抜きにしましょう。
その時、その地の伝説に従うのが史跡巡りのコツでもあり、常識でもあります。
いつだったか、長野の史跡を巡っていた時、あり得ない伝説を信じている土地の人を見、聞いた時には驚きより、呆れましたたがそれはそれで真正面から否定出来ない雰囲気を持っていたことがあるからです。
文覚に戻ります。
――どうも、私はすぐ横道に外れる癖があるようです。――
出来れば奈古谷のバス停からは山道(といっても舗装はしてある)を歩きたいものです。
原生林に囲まれた木々の間をぬうように進んで行くこの山道は、私たちに自然と素晴らしい空気とを恵んでくれます。
もっとも、ここはバスが通っていませんから、自動車で行く以外は歩かざるを得ません。
歩くことで沢山の道祖神に逢うかとが出来ますし、頼朝と政子の腰掛岩などを見ることが出来ます。
又、途中には文覚上人流寓跡もあります。
思わず「こんな所に流されてきたの」思いたくなるほど、寂しい場所に跡碑があります。
車なら、知らぬ間に通り越しているでしょう。
1時間弱の山道を登ると、毘沙門天堂に着きます。
山道を行っても堂にいけますが、出来ればその手前から急な階段を登る参道をいきましょう。
私が訪れたのは秋でした。
春に来た時とはまた違った風情がありました。
落ち葉が階段を埋め尽くし、まるで茶色の絨毯を歩いているようです。
一歩一歩階段を登るたびに、落ち葉がざわめき、カサカサと音がします。
その内、そのざわめきとカサカサの音の異常に気がつきました。
何と、落ち葉の下に何十匹いや何百匹の沢蟹が隠れていたのです。
私が階段を登るごとにざわめいたのは、踏まれまいと逃げる沢蟹の音だったんです。
階段の途中から、今度は蟹たちを踏むまいと大変な行程になりました。
ほどなく金剛力士門に着きます。
毘沙門天堂の仁王門ですが、二体の金剛力士像はあの運慶作ではないかと言われていますが、確定すれば国宝級のものとなるでしょう。
尚、この像は運慶が修理をしている証拠は残っているとのことです。
山を下った韮山の付近にある願成就院に、北条時政が造像した運慶の仏像があることを考えればあながち嘘ではないような気がしてきます。
この参道には蛇石・夫婦石・谷響石・弘法石・大日石・護摩石・冠石の「七つ石」と言われる石が残っています。
毘沙門天堂は新しく建て替えられ、古い面影はありません。
頼朝が文覚上人に建立を依頼した説と、もともとあった毘沙門天に頼朝と政子が源氏再興を祈願した説と二通りあります。
毘沙門天像は慈覚大師作といわれますが、めったにお目にかかることは出来ません。
それとも頼めば拝むことが出来るのでしょうか。
伊豆で頼朝に近い存在であった文覚は、鎌倉に出ても屋敷を構え頼朝とともに歩みますが、頼朝が亡くなり頼家、実朝が世を去ると北条の手で佐渡へ流されます。
文覚上人というば松崎の円通寺を建立したことでも知られています。
頼朝のいた蛭ケ小島からも、文覚が流された奈古谷からも遠い遠い松崎ですが、ここに建てた円通寺は―大変失礼ですが―お寺よりも周りの史跡の方が印象に残ります。
円通寺の奥の院であったと伝えられる遭遇堂、別名相生堂は頼朝と文覚の「旗揚げを話し合った場所」として石碑が立っています。
この相生堂は杉の林を上った山の中腹にありますが、流石、文覚上人「密会」の場としては最高に見えない絶好の場所といえます。
しかしながら、相生堂そのものの言い伝えや役割を知らないため、そこへ通じる道すら草に覆われ、案内も見えにくく価値が下がってしまうことを懸念します。
でも円通寺の周りは仏の小道など多くの道路が整備され、昔の面影はそのまま残す工夫もされています。
四季折々の楽しみ方が出来る場所として、お薦めの一つです。
奈古谷の文覚上人流寓跡や毘沙門天堂、松崎の円通寺付近、ここは一人より二人、鎌倉時代を語れる人と散策したら、こんないい場所はないでしょう。
と言いつつ、私はいつも一人旅。
大変遅いコメントで申し訳ありませんが、柴田様にお伝えしたくて書き込みをしました。
上総氏の本拠は、上総一ノ宮の南約20Km、大原町布施ではないでしょうか。
この布施の地にある鎌倉時代の三層の石塔は、上総氏の供養塔と言われておりましたが、千葉県の文化財調査で「舎利塔」と推定されました。
お骨を埋葬するとしたら、やはりそこが本拠と見た方が妥当かも知れませんね。
「布施」と言う地名は、頼朝が追善供養の折に幕府から布施を出したことから地名となったと伝えられております。
又、ここから西の台地を殿台と呼び、上総氏の館跡と言われる城跡も残っています。
その内にこの辺を、のんびり歩いてみたいと思いますが、「やはり、上総氏の本拠だ」と感じたら(感じなくても)この欄で紹介してみたいと考えています。
こちらのページには初めて投稿させていただきます。学生時代からは実家を離れ東京で一人暮らしをしてるのですが,生まれてから18年,私はずっと韮山町奈古谷に住んでいました。自分では愛郷心が強い方だと思っているので何気なく検索センター「奈古谷」を牽いたところまさかこんなページがあろうとは...,ましてや七ツ石!毘沙門天!門覚上人!とマイナーな言葉が出ようとは...。思わずうれしくなりコメントを書いてしまいました。私自身源氏の話は大変好きな話題なのでまたチェックさせていただきます。信じていただけるかどうかわかりませんが,源氏方の武将佐々木高綱がうちの祖先と祖父には教えられました。また,私のふるさとを良く思っていただきありがとうございました。
HIROYAKさん、いらっしゃいませ〜。ここのお世話をさせていただていますWebSite彦島管理人のなかにしと申します。
投稿どうもありがとうございました。是非是非、奈古谷や佐々木高綱さんのことをお気軽に書き込みしてください。
そのほか日記代わりに利用できる部屋も準備していますので、こちらもよろしくお願いします。
HIROYAKさん:
初めまして。日本でもAOLですか。ちょっと意外でした。
佐々木兄弟の1人ですか。
誰だったか混乱しているのでいろいろ書き込みよろしく。
宇治川の先陣争いした人だったっけ?などやっぱり忘れていますから。
その3を開きます。そちらによろしく。
なかにしさん,服部さんお返事ありがとうございました。服部さんのおっしゃる通り平家物語にある「宇治川の合戦」で梶原影すえ(すいません漢字が思い出せません)と先陣争いをした武将です。佐々木高綱は。
いやあでも奈古谷はいかがでしたか?服部さんのおっしゃる通りバス停からの道のりは歩くのがベストです。ゆっくり,ゆっくりと道草をしながら...。なんせコンビニひとつないですからね。でもそこがいいところです。毘沙門堂の仏様は50年に一度しか見れませんよ。確か私が中学生くらいに見れたと思うので(今25歳です)あと40年後ですね見れるのは。あそこの床下からは白い狐のミイラが見つかったりいろいろまつわる話があるんですよ。またこちらに書かせていただきます。それでは。
梶原景季ですね、お相手は。
あのシーンって、頼朝から拝領の馬争いの話があって、先陣争いで盛り上がって、
更に背景に義経 VS 梶原景時の争いがあって、佐々木高綱の人気がバブル状態に
盛り上がって、「得」な人物だったという印象があります。
佐々木導誉というか京極高氏というか、この人が高綱の子孫なのでしょう?
そして HIROYAK どのに至るわけですね。
面白いお話を是非書き込んで下さい。
コメントを書く人はこちら |